十三話
山間を染め上げる、その彩りのなんとも強いこと。
しかし、それが霞んで見えてしまう程鮮やかな、好奇心に縁取られた少女の眼差しに捉われてしまえば、ただ只管に心を惑わてしまった。
温もりを、未だどこかで諦められずにいる。求めずにいられない居場所が、得難いと分かっていても心の奥底でまだ微かに残っている淡い期待が、静かに叩き起こされるようなそんな不思議な感覚に襲われた。
色褪せた、とうに失いかけていた筈の視界が、一気に華やいでいくようなそれも恐らくは錯覚。
眠りの季節、枯れることをまるで知らぬその存在は、それにとってあまりにも酷なものであった。
雪解けと共に、山を下る。
暖かくなったら家の穴をしっかり塞ぎ直そうなんて話していたのがもう随分昔のように感じた。まだ十二分に冷たい、熱を奪うその名残りを、剥き出しの足裏で踏み締めて一人山を下った。
絶え間なく、雨粒が葉脈を滑り落ちる。
忙しない音に耳を傾けて、あの夫婦が自分を拾った日も雨が酷い季節であったと話していたのを懐かしんだ。
終わってしまったあの日々を、その現実をただ噛み締めて。遠ざかり始める温もりを忘れぬように一人、微睡んだ。
ゆったりと西の空へと消えていく、夕陽をぽつりと眺める。
暫くして眺めていた空から目を逸らす。脳裏に焼き付いた、あの色を思い出さないように、強く、強く目を瞑る。しかし一度焼き付いたものはそう簡単には消えてくれない。びっしりと、瞼の裏を埋め尽くすあの色に紐付けられた忌々しい記憶。
膝を抱え、生温い夜の訪れを待った。
――ゴトリ、と。躓いたあの硬い感触さえ早々に消えてくれやしない。真冬の雪をたった一つの“色”が塗り替える。どこを見渡しても途切れることを知らないかのようなそれは、悲しい“色”。
(赤は、嫌いだ。)
山を下りてから早いもので、季節は二度目の冬を迎えようとしている。
既に方々から静かな足取りが聞こえてきてもおかしくない時節だというのに、それはただその場に蹲って膝を抱えるばかり。
満足に食事にありつくこともなくなった。水を浴びなくなってどれほど経ったのかも分からない。頭上を太陽が何度通過していったかも数えることさえただ億劫に。何よりも、
「……、」
どれほどあの老夫婦と過ごしていた日々が満たされていたかを知る。それさえも決してゆとりのある、豊かなものではなかったものの細々と。身を寄せ合って暖をとり、腹が膨らむことはなくとも、交わす他愛のない言葉一つ一つで、心は満たされていたのだ。
何も贅沢は言わない。叶うのならただあの頃の続きを、あの日々の続きをせめて、せめて夢でもいいから見させてくれないものかと目を瞑る。けれど夢に見るのはいつだってあの冬の晩。何も、何も変わらない現実と向き合うだけ。
人里を見つけ話かけようとしても、どうしても目立つ“色”に気付かれてしまえば豹変する顔を幾度となく見てきた。夕焼けを背にして、誤魔化せた一時はすぐに終わる。
不吉な存在、踏み入るな、と。遠く、手の及ばない場所から石を投げられれば近寄ることも、歩み寄ることすら許してはくれない。
言葉を交わせばせめて何か変わるのではないかと僅かな期待を込めて、痛い目に遭おうとも伸ばした手は最後に拒まれ振り払われるだけ。返ってくるのは罵倒と、同情の欠片もない暴力のみ。
同じ姿形をしている筈なのにただ違う“色”を有するというだけで拒絶され、怖れられ、嫌悪されては、煙たがられる。
始めの内は、それでもまだ諦めることはなかった。偶々上手くいかなかっただけで運が悪かっただけ。もっと他の場所に行けば、どこかで受け入れてくれる場所が、今度は言葉を交わせるかもしれないから、と。諦めることが出来なかった。
二人がそうだったように、“色”を、持っていたとしても他と変わらずに接してくれる、そんな人が一人でもいるんじゃないかと、望みを捨てきれなかった。
しかし老夫婦が最後に教えてくれた、“色持ち”と呼ばれる存在が、この島国において古くから迫害されてきたのだと。それが受ける扱いがどういうものであったかを、それを身をもって理解した頃、好き好んで自分のような“色持ち”の世話をした、二人があのような最期を迎えることとなったのを、心の奥底で納得してしまった。
認めたくない事実を、受け入れることでしか進むことが出来なかった。
石を投げられない、少なくとも言葉を交わしてくれる。そんな場所をやっと見つけたところで待ち受けているものは、結局のところ何も変わらない。気味悪がられ、物珍しいものを見るような視線はついて回る。長く、留まることは出来なかった。
早く出ていけと言わんばかりの視線と隠しもしない態度を前にして居座れるほど図太くはない。別れを惜しむ言葉など、一つとして持ち合わせていなかった。
とっくの昔に出来たであろう罅は、そう簡単に消えてくれない。一生、死ぬまで消えることがないのだろうと思いながら、抱えて生きる。それもいつまで続くものか分かったものじゃない。
「もぅ、どうでもいいよ。」
責任を感じていた、はずだ。ただ衝動に身を任せて奪ってしまった命を前にして、芽生えた罪の意識を、その正体を求めていた。
過去に自分が何をしたのかを、どうしてあの場所に一人刀を抱えいたのかを。どこから来て、これから先どこへ向かえばいいのかを、その答えを、求めていた、はずだった。
ポキリ、と。微かな音が耳に届く。微かに持ち上げた視界に、映り込むのはやせ細った一本の枝木。拾う気も湧きやしない。
一度折れたものはそう簡単には元には戻せないものだ。いっそこのまま、雪が降り積もるのをここで持ち、洞穴や地面に潜って冬を越す獣のように静かに眠りについて、それでなんてことを考える。
心はとうに折れていた。
(雪解けと一緒に、解けてそれで終われたらきっと、楽なんだろうな……。)
頑張った方だ。誰に関わることも、接することもないまま随分と時間が経った。寸でのところで踏みとどまっていたものが、崩れてしまうのは本当にあっという間のこと。今更、今更何も期待など。そう、思ったはずなのに。
「こんなところで何してんのよアンタ?」
前方から聞こえてくるその音に、その声に塞ぎかけていた重たい瞼がゆっくりと持ち上がる。
「すっごい汚いじゃない!どこから来たの?一人なの?誰かとはぐれちゃった、とか?」
こちらの気なんてお構いなしに矢継ぎ早に投げかけてくる声に、不思議と意識が傾く。
「ねぇ、」
赤を見た。
夏の夕焼けよりも強く、それでいて一際鮮やかな。
山間を染め上げ、冬の訪れを報せるような。消え入りそうな炎が散り際、その姿を焼き付けようと瞬く、最後の最後に見せるような、そんな“色”を見た。
「アンタの名前教えてよ?」
強烈な、“赤”がそこにあった。。
鬼ノ目 六十三話
「いっ、言ってなかったわごめんなさいっ‼女将さんはすぐに怒っちゃうから、その…近くにいるなぁって時はすることがなくても何かしてた方が良いのっ!」
「……そう。」
言ってなかったと謝る少女に対して、出来ることなら前もってやはり知っておきたかったと返すのは底意地が悪そうだ。
今しがたやっと離してもらえた熱を持つ、痛みを紛らわすように右耳を擦りながら弥代は小さくため息を零した。
言ったところで何も意味を持たないことは何となく理解している為に、一々気にするだけ無駄なのだろうが、不自然なまでに距離を詰めてこようとする少女への接し方に弥代は困ってしまう。
少女が野犬の群れに襲われていたのを助けてから丸一日は経つだろう頃。彼女と交わした言葉は片手だってお釣りが来そうだと思ったが先の返事でやっと次は両手が必要になるか、といった程度だ。
自分のあまりに素っ気ない返しに対して、めげることなく、折れることなくやや切り出しに吃りながらも接そうと試みてくる、その頑張りようは素直に褒めてやりたいものだが相手にもよる。彼女・桜にはそれが出来そうにない。
前日のやり取りとも呼べない、一方的に黙りを決め込んだ相手の態度を白紙に戻したかのような、こちらが無視したのを覚えていないかのよう。変わらず、陰ることを知らない鮮やかな瞳視界の端で揺れるのを見た。
相手に気付かれる前に慌てて体を傾けるも、少女の“色”はとても目立つ。見ないようにいくら心掛けても一際鮮やかな“色”は瞼の裏にさえよく残ってしまう。
長ったらしい目に入りそうな前髪の間から見え隠れする“色”は、隠れたところで髪だって同じぐらい目を惹く“色”をしているのから何も変わらない。
「えっと…、」
まだ何か言いたげな、縋るような声色はとても頼りなさげだ。
何も自覚はないのだろう事は分かっているのに、わざとらしく相手の気を自分へと向けるような無意識の素振りはどことなく腹が立つ。自分よりも幾分か幼いだろう少女を相手にこんな返しをすること自体間違っているのは分かっているが、それでも弥代は彼女から目を逸らした。いっそ分かりやすいまでの拒絶を繰り返す。けれども少女はやはり簡単には折れなかった。
「き、昨日はごめんなさい。いっ、いきなりこんなトコロに売られちゃって……わ、分からないことばっかりでイヤ、だよね?な…なのに私ったらいっぱい、いっぱいアナタのこと聞いちゃって……えっと、ごめん…なさい……、」
しどろもどろの、最後の方には消え入りそうなぐらい小さな声で、それでも精いっぱいに謝罪の言葉を並べる。見なくとも必死さが伝わってきた。どことなく初めて雪那に会った時の姿を重ねたが、あの友人はいざ茶屋に上がれば流暢に聞いてもいない身の上話をベラベラと喋りだしていた。すぐに違うと頭を振るう。
どちらかといえば、それは――、
「いいから。庭の掃除、済ませて終わりじゃないんでしょ。浴場も洗って、水汲みだって全部やらないといけないって言ってたじゃん。終わらないと叱られるって、飯食わせてもらえないって言ってたの冗談じゃないんだろ。手伝うから早く終わらせよう。また耳抓られるんだったら手伝って時間潰した方がマシだよ。」
「あっ、……、」
話すなどなかったのにいつまでもこちらの様子を窺う、任されているはずの仕事が一向に何も終わらないだろう先を想像して埒が開かないと思った弥代は、渋々提案を述べた。
拙い、その言葉遣いも反応もその歳の子どもにしては違和感を覚える。
つい先日、里の寺子屋で顔を合わせた問屋の娘も、確か同じぐらいの歳であった筈だ。
昨日の相良からの質問に答えていた際にも微かに感じていた、抱いていたものが弥代にはあった。
自分が気付いるのだ。此処で少女の現状を見て判断してほしいと言ってきたあの相良が気付いていないとはどうにも思えない。もし気付いていなかったのだとしたらその時は、昨日のやり取りを踏まえて感じたそれ等の評価、見方を改めた方がいいかもしれない。買い被り過ぎた、疑いすぎたと謝ってやったっていいぐらいだ。
ともあれ自分に向けらえたからこそ分かるそのたどたどしい、年相応には決して見えない言動に意識を向ける。そしてつい先ほど雪那の姿を無意識に重ねたのはこちらの方だったのかと整理してから気付く。
気付いてしまえば思い返すのに時間は掛からない。年不相応な言動は雪那にも見られたものだった。
向き合う、覚悟はまだない。
「早く終わらせて次に行こうよ。」
「………はい、」
見なくたってわかるその声色は落ち込みように何と言葉を掛けたらいいものか。
あぁ、違う。そんなつもりで言ったわけではないのだ。
(……この子じゃ、ないのかな?)
持ってきた箒を一本。胸の前でギュッと握りしめて少しの間俯くも直ぐに伏せていた瞳を持ち上げて、一向にこちらを見てくれない黒髪の少年の後ろ姿をその視界に収めた。
(黒い髪に、赤いヒラヒラしたの……夢、だったのかな。)
昨日の内に宿屋の主人に案内をしてやれ、と言われてから一通り堀に囲まれた店の中を説明して回ったが、返ってくる返事は少なく。何なら何も返ってこないことも少なくはなかった。どれもそっけないもの。部屋を出てくるのにぶつかった時は倒れないようにと支えてくれて、大丈夫か?と聞いてきたのが嘘だったみたいに、何にも優しくない。
でもそれはきっといきなりこんな場所に、少しの間でもいなくちゃいけないのを不安に思っているからだと考えて、じゃぁ早く元気になってもらおうといっぱい話しかけたのだが、
『何でそんな事聞いてくるんだよ?』
何て呼べばいいのかが分からなかった。から名前を聞いただけなのにそんな返事。それ以上何も言わずに背中を向けられて彼は寝てしまった。
少しだけ蔵の奥に残しておいた食べ物を、一緒に食べたりして、仲良くお話が出来ればいいのにと思っていたのに出来なかったのだ。
残念。
朝になったら昨日よりは元気になって、ちょっとでも、今度こそお話が出来るかなとまた期待して、でもやっぱり駄目で。
(気のせい、だったのかな…、)
でも、見間違えた気は全然しない。一緒にいた、色々と話しかけてくれた男の人だって見た覚えがあった、ついこの間助けてくれた人によくそっくりだったから。偶然とかじゃなくてきっと、いや絶対にそうなんだ。
(……でも、)
少しだけ怖い。少年から向けられる目がどこか、どうしてか“色”を毛嫌うあの人達に似てて。
何もしてないのに、何もいけないことなんかしていないのに、良い子にしてる筈なのに、どうして、どうして…
「どうしてなんだろう?」
「…あ?」
口を突いて出た言葉に、彼は振り返った。
不機嫌そうに眉をぎゅっと、洗ったばかりの服をしぼった時のあれみたいにぐちゃぐちゃにして。
「何?なにがどうしてって?」
「え……あっ、えっ、えっと……」
言葉が出てこない。なんと返せばいいのかわからない。だって話しかけられるなんて思ってもみなかったから。突然のことで言葉がただ詰まる。
彼が口にしたさっきの言葉も、その大体を桜はわからなかった。きっとおかしな事は言っていないのだろうが、だからどうするというのかが理解出来なかっただけで。
「えっと…、えぁ…その…」
昨日の男の人みたいに、優しく待ってくれない。
痛い、何も痛くないはずなのに、ツキツキと棘に間違えて触れてしまった時のような、そんな。
そんな、これは、何だろう?
「いや…なんで泣いてんだよ。」
そんなの大方予想は付いているはずなのに、苛立ちを隠しもしないで少女に訊ねた。
怒気を孕んだ問いに案の定、彼女は身を強張らせてしまう。
(違う、そうじゃないだろ…怖がらせたいわけじゃ、何も…)
伸ばしかけた、触れようとした手を慌てて弥代は引っ込めてしまう。
その手は、
「……ぁ、」
その手はまたしても、何も掴めない。
取り零した、すくえなかったあの後悔が鮮明に蘇る。
『東の、』
グッと、奥歯に力を込める。
やり場のない憤りを、無意味に拳に滾らせる。
(違う……っ!)
『やしろって言うのねっ!お返しに私の名前を教えてあげるわ!あのね、えっと、ふふっ、私の名前はね!』
暗転、
「やしろ…、俺の名前は、そうだ。やしろ…やしろって、言うんだ。」
名を知ることなく別れたあの老夫婦にさえ、思い返せば名乗ることのなかった名だと、この二年間一度も口にしたことがないというのに不思議と、不自然なぐらい自然に、それ《・・》は自らの名を口にした。
傍らに浮かんだ、いつの日かも分からない記憶が優しく語り掛けてくる。
女の、か細い声を思い出す。
『やしろ……、どんな字があるかしら。
名前には意味があった方が良いと、誰かが言っていた気がするの。貴女に合う字を、私が決めてあげるわ。』
目の前には問いかけてきた秋の“色”を持つ少女しかいないというのに、声と一緒に頬に添えられた静かな温もりを追う。
『じゃぁ貴女にこの名前をあげましょう。』
「俺は…、」
『……貴女は、』
「俺の…名前は……、」
『どうか貴女が、多くの人のその人生に寄り添えますように…』
甘い、蜜のような瞳が開かれたのは、それからほんの少しだけ陽が傾いてからだった。
いつの間に横になっていたのだろう。その体をゆったりと起き上がらせれば、回らない頭で、それでもどうにか周りを見渡す。そこはよく知った蔵の中だった。
高い位置にある格子窓から覗く陽の光が強い。直接皮膚を照ることはなかったのだろうが、僅かにその表面に玉の汗がいくつか浮かんでいる。すっかり季節は夏になっていた。
この蔵はもうずっと、この宿屋で暮らすようになってから彼女にとっての寝床となっていた。茣蓙一枚と与えられることはないために、冬はなるべく地面に触れないようにして、寒さで凍えてしまわないように身を擦ってと暖かくなるのを待つのに苦労して過ごしたものだ。その反面、夏は暑さを凌ぐことが出来て、寧ろ心地よさすら感じられた。
そんな事を考えていればふと昔のことを思い出す。冬に売られてきた子は寒さに耐えられず死んでしまうことも少なくはなかった。
折角金を払って親元から買い取った子どもが死んでしまったと、宿屋の女将が喚き散らし、お前は死ななくて運が良かったな、と髪を掴まれながら唾を掛けられたこともあったものだ。翌年も同じように冬に買われてきた子がいたがその子も寒さに凍え、眠りについたまま、二度と目を覚ますことはなかった。
“色持ち”の子どもだから体が丈夫なだけだと、年を跨いで直ぐ売りに出せる歳の子なら新鮮で高く買い取ってくれると思って冬の真っ只中に買い取っていたそうだが、それも二度金を無駄にして三度目はなかった。
(私は、いつ買ってもらえるんだろう。)
もうずっとそうだ。
偶に自分と同じように“色”を持つ子どもが売られてくることもあったが、彼女が気付いた頃にはその子どもはもういない。
一日しかこの蔵で一緒に寝るだけだった子も、名前を呼びあえるぐらい仲良くなった子もみんな、みんな気付けばいつの間にかいなくなってしまったいた。
どんどん買われていく。どんどん、帰る場所が決まっていく。自分にはいつまで経っても出来た験しがない、いつになっても出来ない居場所。やっと買い手がついたと思ってもあっという間に追い出され、この蔵に戻されてしまう。
それ以外に居場所がないから、帰っていい場所がここ以外にないから。分かっていて、自らここへと戻ってくる。膝を抱え、いつか、いつの日かこの日々が終わることを夢見て、眠りにつく。明日もきっと何も変わらない。
変わらない、抜け出せない日々の中、誰にも求められずにいる現状が、こんな場所を本当に自分の居場所と呼んでいいのかも本当は分からない。わかっていないのに、それ以外に帰れる場所が本当にどこにも、どこにも、ないから、
「仕方がないことなんだ。」
「何が仕方ないってんだよ?」
「え?」
誰もいないと思っていた空間に、聞き覚えのない声が小さく木霊した。
奥まった場所から聞こえてきた声の主が段々が近づいてくる、土を足裏で擦る音が聞こえる。
「なんだよ…、思ってたよりも普通に喋れるじゃねぇかよ。」
「だれ…、どちらさま?」
「は?何言ってんだお前?」
「……え?」
短めのその髪は黒。遅れて目元も窺えれば鋭い目つきのその中心に赤い“色”を見た。
(色、持ちの子?)
「いきなり倒れちまうから何かしちまったのかと焦ったんだぞこっちは。いや、現にまぁ、その…俺もあんな態度どうかと思ったけどよ。考えなおしたつーか、あのままじゃやっぱり悪ぃって。だからその…っ、でも何だよ…。一人なら随分しっかり喋ることが出来のなお前。」
「は…?え、何の話?」
「いやいや、こっちが返してやろうって姿勢見せた途端に何だよそれ?」
「だから何の話してるのかって言ってるじゃない。何…誰なの?何で見ず知らずの奴にいきなりそんな風に話しかけられなくちゃいけないわけ?……わけが分からない…、」
「あ?」
そっくりそのまま、とまではいかないが言葉を返してやりたい気持ちに襲われる。
まるで人が変わったような、やけに強気なその態度と物言いにひたすらにどういうことだ?と首を傾げたくなる。
つい先ほど庭掃除をしていた最中、話しかけてきたわけではないのだろうが妙にはっきりとした口調で、何やら独り言を呟いた少女に意識を傾けたその後、フッと彼女は全身の力が抜け落ちたようにその場に倒れた。
頭を地面に打ち付けそうになる寸前、赤に埋もれたそれを引き寄せることが出来たが覗き込んだその表情はまるで寝入ってしまった後のそれで。
腕の中に抱えたままその場から動けずにいると、偶々近くを、先ほど女将が子を連れていた廊下を行く宿屋の店主が通りかかった。庭の真ん中で箒を放り捨てて蹲るような恰好をする弥代と、意識のない桜に気付いたのだろう。しかし寄ってくるようなことはなく、くぐもった印象の声を少々張り上げて、蔵に戻れとだけ言い残して何事もなかったように廊下の先へと消えていった。
人を見かけで判断するのは難しい話だろうが一見、弥代にはどうにも店主が進んで人買いをしているようには思えなかった。どちらかというなら口八丁手八丁、嘯くあの一人で喧しい男の方がそういった生業をしていると言われた方が今は納得が出来てしまう。
何か理由がありそうだが気になったところで今はそちらに気を配る余裕はない。暫く経ってもやはり目を覚ますことのない桜を抱え、言われた通りに昨晩押し込められた蔵に戻ったのだが、
はたしてこれはどういうことだろう。
別人であると言われた方が納得できそうな、そんな変わりように弥代はただただ困惑することしか出来なかった。
態度を、改めようと考え直したのは本当だ。こんな何も成立していない会話を会話と呼んでいいわけがない。手っ取り早く、いっそ少女に現状をどう思っているのかを聞くぐらいして早々にこんな場所に留まるのを止めたっていいのだ。だって相良は弥代にその決定権を委ねたのだから。
何を考えているのか分からないが、少女はこんな酷い(と自覚はしている)態度をずっと示す自分に対して、めげずに好意的な姿勢を示してくる。相良は終わる暫くの間だけでもいいから辛抱してくれ的なことを口走っていたが、いつまでも嘘を押し通せる自信は甚だない。嘘がいつバレるかも考えればやはり早い段階で答えを出した方が賢いに決まってる。だから、
(とっとと終わらせて、それでとんずらするつもりだったっていうのに、何だってこんなわけの分かんない事になってるんだよ。)
「ちょっとぉ‼︎目ぐらいせめて合わせてから考えなさよっ‼︎ってか名乗りなさいっ‼︎誰?って!私が聞いてるのよ答えなさいよっ‼︎」
「……あ?」
人が、まるっきし変わったかのようなその言動に弥代の喉からは今まで出したこともないような低い声が絞り出された。
(…いや、落ち着け俺。大人になれ。相手は子どもだ。よくよく考えたら俺は…なんだ、二十年もこんな形してたんだろ。…大人だな。大人なんだから、そうだ。こんな、こんな子どもの言動一つ二つ……)
「だーかーらっ‼︎返事しなさいって言ってんでしょっ⁈」
「言ってねぇだろ一言もっ‼︎お前が言ったのは名乗れっつーだけで、返事を求められた覚えはこれっぽちもねぇんだよっ‼︎テメェが何口走ったかぐらいよーーーーく覚えておけクソ餓鬼っ‼︎」
「なっ……⁉︎」
以前春原が自分にしてきた言い逃れ(春原自身は真面目に答えただけなのだろうが)と似た言い分になっている事に気付きながらも、弥代は思わず吠えた。
一向に動こうとしないこちらに対し、あろうことか彼女は勢いよく起き上がると弥代の耳を抓り耳もとで喚き立てた。
それが先刻、彼女が意識を失う前に宿の女将にされたのと同じ左耳だったために、弥代は我慢の限界だった。薄っぺらい堪忍袋の尾が派手に切れて弾け飛んでしまったのである。
ここ数日、成り行き上仕方なかったこととはいえ、話の通じない春原と丸二日共に山を突っ切った。昨日は相良を相手に通じない話をし苛立ちと不信感だけが募るだけに終わった。断る、他に案が浮かばなかったから仕方ないとはいえ腹の虫は収まっていなかった。それからこの少女と、望んでもないのに一緒に過ごさねばならなくなって、それで。
「人にそんな訊ねるんだったら先ずは自分から名乗れってんだよお前なぁっ⁈人の耳元で喚く必要あるかっ⁉︎耳馬鹿になったらどうしてくれんだよおいゴラァアっ‼︎」
「呼んでるのに返事もしない耳だったら聞こえなくたって何も問題がないんじゃないかしらっ⁉︎なーによ!全然聞こえてんじゃないのよっ!だったらとっとと何とか返したら良かったじゃないのよ!自分で招いたのを人のせいになんかして…、信じられないっ!」
「信じられないだぁっ⁈それはこっちのセリフだっ‼︎」
陽が、傾く。
それは熟しきった梅の実がボトリ、と音を立ててに地に落ちる。そんな日の出来事であった。




