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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
五節・梅子黄、破られし縁
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十一話

『相良さんって、いつもあんななの?』

 なんてことはないある日の昼下がり。

 芳賀(よしか)と二人言葉を交わしたあの日から頻繁(ひんぱん)(つる)んで行動を共にする機会が増えた弥代は、彼の後ろについて回る形で、ほんの少し寂しい(ふところ)をちょっとでも(ふく)らませられないものかと、路地裏のご近所さんの家々を数件渡り歩いた、その帰り道。

 大通りに繋がる道を進んでいると、随分と耳に馴染んでしまった大声に自然と目を行く。すればそこには見知った二人組の後ろ姿があった。

 殆んど似たような背格好をした二人だが、相変わらず纏う雰囲気はまるで正反対のような組み合わせに、しかし違和感を弥代が抱くことはもうなかった。討伐屋への出入りも多くなってきたこの頃、その二人が普段から共に過ごす機会が多いことを芳賀から聞かされていたからだ。

 そうして弥代の瞳は、距離があろうとも宙をひらひらと舞う、数枚の紙へと向けられた。

 

 どうやら小路(こうじ)から勢いよく飛び出してきた子どもにぶつかられ、抱えていた書面を幾枚か散らしてしまったようだ。

 前の晩、遅くまで提出予定の分が足りないと探し回っており足音が煩くて遅くまで眠れなかったのだ、と。

 遠目ながらもぶつかって来た子どもに(いぶか)しげな目線を送りながら、芳賀が呆れたような声色で言葉を添えるのに、弥代は無言で耳を立てた。

 初めてその男を知ったのは先の卯月のこと。まだ三月(みつき)足らずだが当初彼に抱いた印象は日を追うことに少しずつ変わっていった。

 後ろ手を組み、壁際で淡々と若輩者に代わり謝罪の言葉を並べた、あの時感じた、堅物という言葉が似合いそうな男はどこへやら。今の弥代の目に映る相良志朗という男はとても柔和(にゅうわ)な…いや、ただ単に損な役回りを自ら請け負うような男だった。

 面倒臭い事この上ない春原という、意思疎通も難しく自らの意見をまともに述べもせずに一方的に距離を詰めようとしてくる(弥代からすれば、の話だが)、そんな男の世話役を自分から引き受けているという。

 名目上、形ばかりの頭である主人が自主的に動こうとしないものだから彼の代わりに屋敷の橋渡しに日夜見廻りの他、いくらそこまで距離がないとはいっても討伐屋と屋敷の行き来を繰り返して、一人で過ごしている姿はいつ見ても(せわ)しない。

 更には同じく討伐屋に籍を置く、薬師の伽々里(かがり)からのお使いに走らされている事もあれば、近所に住まう女房連中から()ぎの腕の良さを買われ、安い駄賃で何本も引き受けて、とあまり落ち着いて過ごしている姿を見ない、夜以外はひっきりなしに周辺を駆けずり回るのに嫌な顔一つ浮かべやしない、そんな男だった。

 相良が育てたといっても過言ではないと当人が豪語する芳賀のその人当たりの良さは、間違いなく相良を見て身に付いたものなのだろうがやはり元々の性格、性質が素直なのもあるんだろう取り繕った態度を変に取ろうとしない、それが弥代は居心地が良かったから芳賀と連むようになっていたが、しかし育ての親にあたるような彼には弥代がそれを感じることはなかった。

 弥代には、相良が本心が分からなかった。

 到底彼が、それら全てを善意で引き受けているようにはどうしても考えられなかった。無理があった。そしてそれはその時も同じ。

 ぶつかってきた子どもを叱りもせず、寧ろ怪我はないか?と訊ねる、しっかりと子どもを立たせた後にようやっと散らばった書面を掻き集める姿に嫌悪感を覚える。

 芳賀のそれとはまた違う意味合いで、そうして訊ねた。

『いつも?……あぁ、まぁそうですね?いつも、年がら年中。初めて会った時からずっとあんなですよ。』

 自分から振っておきながら返ってきた返答に弥代は目を逸らした。ただ、無性に腹が立ったのだ。

「…そうでしたか、そうでしたか。いえいえ、そんな気になさらないで下さいな。怪我も、そこまで酷くないようで安心しました。ですがそうですね…もうなにか恩を返したいと、どうしても貴女が仰るようでしたら少々、道を訊ねたいのですがよろしいですか?何も難しい場所ではないと思います。この近隣に集落は海沿いのそこだけでしょう。……えぇ、そうです。貴女がお世話になっているという、その場所まで案内をしていただけませんか?」

 そう言われて首を横に振る者などいようものか。周りくどくも自分の要求を、決してしつこくはせずにやんわりと押し通そうとする発言に顔を顰める。見なくても嫌という程分かる。相良という男はそういう男だ。

 一方相手の思惑など(つゆ)()らず。無意識に肩口に乗せられた指が弱々しく、ぎゅっと握られる感覚を弥代は味わう。首筋を掠める、時折視界にチラつく赤い毛先の主は、しかしどうやら自分が身を寄せている相手である弥代には未だ気付いている様子は見られない。

 進んで話に割って入りたいわけではない為にそのまま無言を貫いているからこそ、どこか拙い返答が直に鼓膜を揺らす。

 いたく、腹立たしい。

「全然……、そっ、それぐらい出来ます?でも、そっ、それだけで良いんですか?こんな…こんな風に助けてもらちゃったのに私……、」

「お気になさらないで下さい。目の前で怪我をしている子どもを、そのまま捨て置く事が出来なかったと、ただそれだけの、当たり前の事をしたまでです。貴女でなくとも私はしたことでしょう。」

「当たり……前?」

 適当にも程がある。手当たり次第薄っぺらい言葉を紡ぐその口を、出来るなら縫い塞いでやりたくなる。それまでまでに思ってもない言葉を並べる男は、あまりにも流暢にそれら“嘘”を連ねるもので、途端にこれまで彼と交わしてきた言葉の数々もまた、“嘘”に塗れていたのではないかと思えてしまう、何も仕方のないこと。

 弥代に提案を持ち出した時点でこれらを自分相手に隠す気はなかっただろうがそれにしたって嘘八百にも程がある。そう感じざるを得ないという話だ。

 これまではこの育ての親がわりにして芳賀(教え子)ありと考えていたが、それもここに来て揺らぐ。芳賀()はどうすればああまで真っ直ぐ育つことが出来たのか疑問が生まれた。

「えぇ、当たり前の事です。困っている人がいてどうして手を差し伸べずにいられますか?見ない振りなど、自分自身を許せません。」

 つい先刻、向けられたあの眼差しを思い返すのは簡単だ。嘘塗れの今の言葉の中に、先程の言葉が混ざる度に心のどこか奥底で、嘘だなんて思いたくない自分がいるようなそんな気がして。

(……んなわけあるかよ。)

 背負われたままやはりこちらには気付きもせず、ただ向けられる大人の言葉に耳を傾けるのに必死な少女の体を、最小限の動きで支え直す。二人がやりとりの中で示すその方角へと、弥代はただ足を向けた。






『いいですか春原さん。私共(わたくしども)はこれから少々この場を離れますが、くれぐれも(わたし)が戻ってくるまでこの場から動かないで下さいね?

 誰に声を掛けられようとも返事も極力避ける…何でしたら人の気配を感じたら関わる事なく一時で良いですから茂の中にでも隠れて下さい。数刻…、遅くとも日が暮れる迄には一旦は私だけでも戻ってきますので。』

『え?相良さんだけ?おっ、俺は?』

『はい、ですから弥代さんには先程お伝えした通り、彼女の傍にいてあげて下さい。』

『まだ引き受けるなんて言っちゃいねぇんだけどよ、俺は。』

『断る理由を持ち合わせてなんていないのにですか?』

『……。』

 渋々といった様子で、まだ意識の戻らない少女をその背に抱えて立ち上がった弥代と、言いながら緩やかに踵をめぐらした相良の背中を見つめていた春原は小さく頷いた。訊ねるまでもなく自分が何をするべきか、これからの動きは長年共に過ごしただけに彼を誰よりも理解しているだろう相良が全て言い残してくれたからだ。これで春原が特別頭を悩ますようなことはなかった。

「おいおい、何を暢気に胡座(あぐら)を掻いているんだお前は?言付けを守るのも必要だろうが、そろそろその足りていない頭で考える癖を付けたらどうだい?いつまでもそんな有様じゃ、また肝心な所で後悔するだけに終わるぞ春原千方?」

 一人置いてかれて暫く経った頃、どこからともなく聞き覚えのある声が春原に話かけてきた。姿の見えない相手を前に、茂みの中へ隠れたところで当然意味などない。肩口に立て掛けた刀を、その柄に掛ける指にだけ、微かに力を込めた。

「賢くないな。見ようとしないお前にこの僕が見えるわけがないだろう?向かい合う覚悟もない奴が、恰好だけ示したって何の意味もありはしないというのが分からないかな?……あぁ、分かる理由(わけ)がないね。お前がそういう奴だってことを、僕は嫌という程知っているというのに。失敬。また、無駄な言葉を投げかけてしまったよ。」

 姿は変わらず見えずとも、声のする位置が移動するのを伏せた瞼の奥で追う。常であろうともこんな事で腹を立てるようなことはない春原だが、その存在だけはどうにも彼の心を(ざわ)つかせた。あの青髪の、赤い髪結紐を揺らす彼女以外で揺らぐことがないはずのそれが(さざなみ)を立てるのは、ひどく不快だった。

 他の介入を一切許さないというかのように、僅か腰を浮かせればあまりに慣れた動作で引き抜く。目にも止まらぬ速さで納刀までを済ませた春原に、しかし期待していた手応えと呼べるものはなかった。実態がなくては音の出所が移動する理由が分からないが、随分と長い間付き纏ってくるかのように話し掛けてくる声の主の正体に、一つ彼は確信した。

(人間ではない。)

 そんなの随分前から分かっていただろうに自ら手を出すまで、春原はそれをどこか疑いに満ちた目で見ていた。人間の中にも生まれつきその才があれば術と呼ばれる気を用いたそれで姿を眩ますことなどやりようによっては出来た筈だ。しかしそれはあくまでも姿を眩ますことが出来るというだけ。実態なく声のみを発するなどというのは、春原の知る限り術、気の扱いに長けている相良から教えられたことは一度たりともない。

「……無粋な奴だ。善意で教えてやっているというのにお前という人間ときたら、躾がなっていないね。親の顔が見てみたいよ。

 …………あぁ、すまない。もういないんだったな。」

 大人しくしているように言われた手前、派手に動き回る気など毛頭なかった。

『誰に声を掛けられようとも返事も極力避ける…何でしたら人の気配を感じたら関わる事なく一時で良いですから茂の中にでも隠れて下さい。数刻…、遅くとも日が暮れる迄には一旦は私だけでも戻ってきますので。』

「それは、違う。」

 何もない場所を静かに見つめ、春原は刀を構えた。






「こんにちは。少々、お伺いしたい事があるのですがよろしいですか?」

 昨晩の急な嵐によって、波と共に打ち上げられた回収しきれなかった、使い物にならなくなった無様な網を引き揚げていると、随分と身なりの良さそうな男が近付き、こちらの様子などお構いなしに声を掛けて来た。

「……あんたには俺が暇に見えるってーのか?悪いが手一杯だ。どっかそこら辺の奴ぁ探して他ぁ当たりな。」

「他に当たりたくとも見渡す限り何方もおられないのですよ。手はそのままでも構いませんので、耳だけでも傾けていただければ幸いです。」

 随分と落ち着いた喋りとあまり馴染みのない丁寧な口調は肌に合わない。一瞥した後引き寄せた綱に、期待はしていないものの何かしら食えるものが引っ掛かっていないものかと目を細かく配らせるが使い物にならなくなった上に役立たずとなればもう捨てる他ない。新品を用意しようにもここまで大きい綱となれば中々に値が張るに違いない。随分と前に買っただけに当時の相場がどれほどだったか分からないが家の貯蓄で足りるだろうか幸先が不安になるも、ないままでは生きていけない。漁師にとっちゃ綱だって必要不可欠なもの。急の嵐に身の危険を感じて回収しきれなかった自分が悪いのであって、天気に罪はない。分かってはいるのだが突然話しかけてきたどこの誰とも知らない男の存在が(しゃく)(さわ)る。全く、たまったもんじゃない。






 鬼ノ目 六十一話






「はい。それでは暫くの間この子をよろしくお願いします。」

 平素とは違い崩した前髪から覗く赤い相貌は、目器(めき)も取っ払われている為によく見えたがその奥で本心、何を考えているのかは相変わらず分からなかった。

 たとえそういう手筈、芝居と分かっていても自分よりも上背のある大人の男に後頭部を捕まれ、されるがまま頭を下げさせられるというのはどうにも腹が立つ。

 今しがた、駿河に一つしかないとされるそこそこ名の知れた宿屋の主人に、期間を設けられて売られたところだ。男の、瞳だけ“色”を持つこんな中途半端に育った子どものどこに価値があるものかと渋られたものだが、前もって条件として並べた時にそれは店の主人同様に弥代も相良に対し、賢い提案ではないと一度突き返した。

 城下町である小田原を抜けて相模国から国境(くにざかい)を越えるにあたり、弥代は伽々里(かがり)が用意した荷の中に使用方法が記された紙に包まれた、数日前に世話になった練り粉があることを見つけた。

 地図同様に春原に読ませたところ、使用直後から大体三日四日を持って洗う度に墨のような黒が薄くなっていく、とのこと。扇堂家の息がまだ掛かるという小田原宿までなら騒ぎを起こさない限り何もないだろうと考えたが、隣の国へ渡りそこで、となれば“色持ち”に対する扱いも異なる可能性が懸念された。予め見越して用意されただろうそれは二つ。使い(どき)は弥代に任されれるとあったが、里の外で“色持ち”に待ち受ける扱いを知っている弥代の判断は早かった。

 小田原宿を離れたその足で街道ではなく山に進み、手頃な水辺を見つけると書かれた通りに、髪を水に浸した後練り粉を自ら髪に塗り込んだ。

 それから二日が経つが、弥代の髪はまだ黒いままだ。誰がどう見ても元が青い、“色”をしているなど分かりっこない程。野宿の度に水浴びが出来そうな場所がなかった為だ。

 いっそ一回でも軽く水で洗い、練り粉を落とした後の方が店側の、“色持ち”という希少性の高い子どもを売り買いする主人の興味は引けるのではないかと、弥代は切り出したが相良は首を縦に振らなかった。

『何も必要以上に貴女を危険に晒したいわけではありません。今のままでも何も問題はありません。頭を下げているのこちら、手を借りたいのもこちらです。そのような姿勢を見せてくださるのは勿論有難いには有難いです。ですから、店の方へは私が話をします。弥代さんは、』

(大人しくしてればいいと言われたけどよ、本当にどうにか出来ちまうもんなんだなこの男は。)

 女として振る舞うこのない弥代の男勝りな一面がまさかこのような使い方があるとは思っていなかった。一見、黒髪の大人と子どもが二人。双方とも瞳に同じ“色”を持つ。

 “色持ち”の間で血の繋がりがあろうとも“色”というものが親から子に継がれるということはないが、そんな事知っている者も限られている。誰もが知っているわけでない、まことしやかな話を知っている方が珍しく。更に言えばその認識すらも本来は誤っている可能性だって考えられなくもない。何らかの条件が揃ったなら、親から子へと似た“色”が継がれる事だってなきにしもあらず。

 “色持ち”の子どもを売り買いしている人買い相手に、自分らが親子であると告げればその男は疑いの眼差しを暫く向けはしたが、話していく内にそれも薄れていった。

 言葉巧みに相良は宿屋の主人にありもしない、いつから考えていたかも分からない芝居をあまりにも自然に見せた。

 疑いようの余地を無くし、しかし中途半端に育った瞳に“色”を持つだけの子どもには価値を中々に見出せない様子を見せた。

『では、“色持ち”の子どもとして、ではなく用心棒として腕を買われる、というのは如何でしょうか?』

 ここに来るまでの道中、この宿屋で住み込みで働く赤髪の少女が野犬の群れに襲われそうになっている場面に出くわした話をした。それを早く嗅ぎつけ、群れを追っ払ったのは隣にいる(せがれ)である。この地に至る前から、駿河近郊の森には狼顔まけに凶暴で人に襲い掛かる野犬が多く存在するという噂は耳にしていた。土地の者もこれに生活を(おびや)かされる事もあるという存在を、これほど幼くとも一人で追い払う事が出来るというのは実力の証明になる。

 主人が何も“色持ち”の子どもに限らず普通の子どもだって売り捌いているのだから用心棒として実力のある子どもであるなら買い手によっては価値はあるのではないか、と相良は続けた。

 と、主人は腰を浮かし一度廊下に出て少女の名前を呼んだ。

 そして襖越しで姿を見ることはなかったが、先程聞いたどこかたどたどしい少女の声が聞こえてきた。

 野犬の群れに襲われた際の出来事を確認するようなやりとりが聞こえた後、部屋に戻ってきた主人は不服そうな態度を隠すことはなかったが、やっと相良の提示した話を飲んだのだ。

「それでは、頼みましたよ弥代さん。」

「危険がどうのこうのって言ってた割に、結局まぁこうなるんだよな。分かってたけどよ。」

「辛抱願います。」

 耳を澄まさねば聞き漏らしてしまいそうな程の小声で言葉を交わす。一時でも弥代はその身をこの宿屋、人買いの主人に買われることとなったが、これはあくまでも自分があの少女を、無理矢理でもここから連れ出そうとする相良の提案に逆らったからで。そうでもしないと弥代の気は収まらなかった。






「はい。それでは暫くの間この子をよろしくお願いします。」

 呼び出されて直ぐ、求められた話をし終えたそのまま廊下に放置されることとなった少女・桜は膝を抱えてその場に座り込んでいた。戻っていいと言われたわけでもない今、勝手に行動に移せば余計なことを、とまた手を上げられる事だって考えられた。そういう痛い思いはなるべくしたくない。出来る限り逃れられるものなら逃れたいという考えがあったからだ。

 しかし会話は暫くして終わったのか、宿屋の主人が一番最初に部屋から出てくる。一瞥。その冷ややかな、“色”を心底毛(ぎら)う視線に俯く。何もなければそれでいいのに、長年この宿で家族同然に過ごしてきたつもりで、たとえ絶対的な壁があっても少なからず、なんなら野犬の群れに襲われたことを気に掛けてくれたのではないか、なんて…、本当に淡い微かな期待があったのだがそれも一瞬で砕けてしまう。替えがない足袋の、爪先の部分は幾ら洗っても汚れは落ちきってくれなくて、女将(おかみ)さんからは床を汚すなと頬を叩かれてしまうかもしれない、と考えを逸らす。

「あ、」

「え…?」

 開けられた襖の前でただ茫然と立っていた桜の体はほんの僅か、部屋から出てきた次の人物にぶつかり、容易く体勢を崩しかけた。

 が、倒れると分かったその時には既に片腕を掴まれ、その体が廊下に転がることはなかった。

「……?」

「だっ、大丈夫?」

「………あっ、」

 黒い髪に、赤い瞳。

 桜には覚えがあった。先ほど森から宿屋まで運ばれた時、ずっと話しかけてきた男の人とばかり話していて全く気付くことが出来なかったが、背中から降ろされたその時やっとその存在に気付いたのだ。

 それは間違いなく、野犬の群れに襲われた際自分を助けてくれた、あの、

(だから、あの時の事を聞かれたのかな?)

 そこで漸く、なぜ宿屋の主人に呼ばれたのかを桜は理解した。

 足らぬ頭で、やっと理解した。

(売られたのかな、この子も…みんなみたいに?)

「なんか言ってくれないと、何も分かんねぇんだけど…、」

「あっ……、え、えっと…」

 と、初めに部屋を出ていった。てっきりもう用はないのかと思っていた主人が何やら紙を手に戻って来た。

「邪魔だ。部屋に戻っていろ。」

 唇を噛んで、支えられていた腕を突っぱねるようにして自分の足で立ち上がる。言われた通り元いた部屋に戻ろうとしたが、踵を返した途端、予期せずまた声を掛けられた。

「……新入りだ。案内してやれ。」

 

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