十話
産道を下る、息吐いた瞬間から息絶えるその時まで、平等なものなど在りはしないのだ。
何処からともなく姿を現したその女は、生まれて間もないややこをその腕に抱いていた。人気を、感じさせない鬱蒼と生い茂る森の中。痩せ細った四肢はどうにも頼りなく。覚束ない足取りを見て、それは胸の内を騒つかせた。
ぐるり、ぐるりとまるで蛇が塒をまくかのように宙を彷徨い、畝るようにその女と腕の中のややこを見下ろす。随分と長い間、人が踏み入ることのなかった場所は草木を掻き分けることすら億劫だろうに、しかし女はそんなものお構いなしにひた進む。
変わらずその様子を静かに見守っていたそれは、暫くして女が取ってみせた行動に思考を曇らせた。それの知る限り人の子とは皆一様に、ややこを可愛がり愛情を注ぐはずだと思い込んでいたからだ。あろうことかその女は、子をその場に捨て置くように、やや拓けた池の辺の手頃な岩場の上に包んでいた布ごと下ろすと笑いながら立ち去って行った。
その表情は非常に満ち足りていた。
女を追ったところで止める手立ては何もない。それと同時に捨て置かれたややこに対しても何も干渉することが出来ないことを、それは理解していた。
まだ喋ることも儘ならない、満足に自らの意志を伝える術も《すべ》持たないか弱い斯様な存在を、何故一人このような場所に置き去りにする理由があったというのだろうか。
これがたとえば頑丈には程遠かろうとも、幼い爪に牙を持つ、既に身を守る最低限の術を持ち合わせた獣であったのなら気に留めることもなかったろうに。
抵抗を、自らの命が早々に死に曝されていることにすら気付く間も無く、他を生かす糧となるのは容易に想像がついた。
見下ろしたその存在は、悲しいまでに無力だ。
次第にそれまで側にあった温もりがなくなった事に気付いたのだろう。本能的に、母の腕の中を求めるように丸められていた小さな手を広げる。顔を皺まみれにして何も生えていない口を大きく、大きく開き、一丁前に泣き始めてしまう。
そんなのは腹を空かせた空腹に喘ぐ彼等に餌が自らここにいると合図を出しているのと何ら変わりないこと。
関心を寄せてしまった罰だと、せめてこの生まれてまだ間もない命が貪られ散らされるのを見届けようと、それが胸の内に決めたその時だった。
目が、合ったのだ。
ぎゅっと、強く瞑られていた瞼が開く。覗くのは、眩いばかりの“黄”。疎らに色付く、生え揃わぬ頭の“赤”と相まり涼風の候を連想させる。秋を、纏ったかのような稚児。
長く、手を伸ばすことを諦めていたそれは、愚かにもその幼児へとその手を差し伸べた。
「やだっ、やだ!誰か…っ、誰か、助けて……!」
脚先に力を込める度に鈍い激痛が走る。
痛い。痛くて痛くて本当は走りたくなんかないのに、それでも少女は走るしか術がない。走って、走って、後ろを振り返る暇さえなく少女は走る。
ガシャガシャと金属が擦れる音が響く。
しっかりと噛み合わさるような作りをした歯はしっかりと、少女の細い足首を噛んでいた。その薄い皮膚に鋭利な牙を立てて、挟んだ獲物を逃さないようにと振動が加わる度に一層深く、深く食い込んでいく仕組みだ。
喰らったのが大の大人であっても悲鳴をあげてその場にのたうちまわるものを喰らって、その食い込みがどれだけ深く肉を抉るように刺さろうとも、少女は走った。少女は逃げていた。
背後から迫ってくる、その荒々しい息遣いから。
力強く土を蹴る、鋭く重たい爪を持った足音から。
逃げ切れるわけがないと分かっていても、それでもがむしゃらになって必死に、泣き喚きながら声を涸らして逃げるのはただ死にたくないからだ。こんな所で死にたくはない。こんな場所で食い殺されたくなんかない。死ぬ時まで、痛いのなんて絶対に嫌だ。
あまりにも幼稚で短絡的な理由。ただそんな風に死にたくないという執着は純粋な、生への執着に、己が生きる為に他者を喰らうことを厭わない彼等には遠く及ばなかった。
何よりも彼等は一匹や二匹ではなく賢く徒党を組んで獲物を狙うのだから及ばなくて当然なのだ。彼等を遊び半分に招いた村の子ども等は早々に素早く木に登り、真下で怯える逃げ惑う少女を指差し無邪気に笑っていた。その場所からどれだけ逃げてきたかも最早分からない。
時折、地面に固定する為の太い杭が噛まれているのとは反対の足を打つのが、幾ら受けても前のめりに倒れ込んでしまいそうになる程たまらなく痛い。
裸足の足裏が真っ赤に染まる頃、漸くと迫ってきていた足音が聞こえなくなった。不気味なぐらいの静けさに、少女の届くのは荒い自分の息遣いのみ。もう追ってこないのだろうかと走るのを止めることはないまま、でもその足取りを若干緩め始めた。胸を撫で下ろすよりも早く、吃逆りあがる息を整えるのに躍起になりながらも漸く振り返る。足音が聞こえなくなったのだからいないのは当たり前なのに、やっと歩みを止める。止めた途端にそのまま尻餅をついてしまう。立ち上がれるだけの余力はもう少女にはなかった。
杭が何度もあたって変色をした肌は酷い色をしている。右足首を噛んだままの生捕りようの金物は自力では外せそうにない。足裏は草履を履く暇もなく逃げ出したものだから皮膚はボロボロで元の色も見当たらない。それでも時間が少し経てばマシになる事を知っている少女は力の入らない足を抱えて小さく体を折り曲げた。
(もう、大丈夫。大丈夫だから。あと少し我慢したら傷もよくなくるから。そしたら、そしたら帰ろう。帰って、それで。それで……、)
唇を噛み締める。帰って、帰ってそれでどうなるというのだろうか。帰ったところでまた満足に遣いも出来なかったのかと怒鳴られ振るわれるのは暴力だ。また、痛い思いをするだけ。からっきしの、無いに等しい食事にもらって、居座らせてもらっている、世話を焼いてもらっていることにただ感謝をして。
(どうしたら、良いのかな。)
こんな目に遭うのは滅多にないことだ。ここまで酷い目に遭ったのもこれが初めて。いくら気味悪がられて石を投げられたって、こんなに痛い思いをしたことはなかった。途端に、こんな日々がいつまで続くのかと、少女は考えてしまった。
ザラザラとした錆の表面は、撫でるだけで指の腹を裂く程で。これでは少しどころか暫くは帰れそうにないと膝の間に少女が顔を埋めた直後、近くの茂みが大きく揺れた。
何かと視線をそちらに送る間もなく、衝撃が少女の体を横へと倒した。
「え…」
視界いっぱいに広がる唾液塗れの口内が光って見える。一匹や二匹じゃない、体の至るところに既にその牙を、その爪を立ててくる、五…六、七。それはどれも小柄だというのに、獲物を仕留める手立てばかりは立派に。
下半身に力はもう入らない。立てる術がないのだ。涙も悲鳴もいきなりの事態に驚いて引っ込んでしまったように何も出てこない。一瞬の出来事。急所になる首が噛まれるのを偶々免れることが出来ただけ。これほど目の前にいられては避けることなど出来ない。逃げていた時よりも目の当たりにする、逃れられない死の存在に目を見開く。それは途方もない痛みと苦しみを意味していた。
生まれ持った“色”はどうしたって変えられない。どれだけ望まなくても、どれだけそれで苦しもうとも一生ついて回るものだ。取り繕いようのない、隠しようのない目に見えて見える他者との違い。
自分にとっては生きてきた分だけ当たり前に側にあった“色”なのn、周りはそうじゃない。気味悪がられて近寄るなと石を投げられるのなんて本当に当たり前。助けを求めても言葉すらきいてもらえない。いくら謝っても意味がない。生まれてきた事が悪いんだ。生まれちゃ、生きてちゃいけないんだ。ただ“色”が違うだけで似た姿形をした存在なのに煙たがられて、突き放されて、怯えられて…。
近づいちゃくれない。助けてくれない。手を貸してくれない。縋ろうものなら殴られる。蹴られるから。痛い。痛い。やめてって言っても止めてなんかくれない。人の言葉を喋るなって、叩かれる。涙が、出てこなくなるまで泣いたってやめてくれた試しがない。
だから、
(こんなのがずっと続くくらいなら…いっそこのまま……)
出来ることならこれが最後でありますように、と。願うように目を閉じる。少女が小さな覚悟を決めたその瞬間、それは訪れた。
「舌ぁ、引っ込めてろっ‼︎」
グイッと後ろから首根っこを強く引かれる。振り返るよりも早く、身体中に噛みついていたその小さな存在が伸びてきた棒やら足で払われるようにして離れていく。眼前まで迫ってきていた群れの大将らしきそれは突き上げるような拳を顎に受けて宙を舞った。
声の主の存在を、少女がしっかりと視界に納めたのはそれが前に一歩躍り出るように降り立った時だった。
両足に布を巻いた、一つ結びに細い尾を引くような後ろ姿。
根本を縛る、赤い、赤い髪紐。
ひらりひらりと揺れてみせるその尾が、
「躾のなってねぇ犬ぁ、かかって来やがれっ!
分かるまで喰らわしてやるっ‼︎」
蜜色の少女の瞳に、色濃く焼き付いた。
鬼ノ目 六十話
『助けてほしい、子がいるのです。』
暮れに差し掛かれば徐々にその姿を細めていく月の満ち欠け。
まだ姿を眩ますまでには時間が掛かりそうな、しかし変わらず夜空のその部分を明るく塗り替える月明かりを背に語ってみせた、女のまことしやかな言葉を信じられる自信が相良にはなかった。
過去にそのような行いをしてきた女が、たった一人の少女をそこまで気にかける理由が見つからなかったのだ。
『あら、残念。』
しかし、女は続けた。
『なら、お願いの仕方を変えてみますわ。』
それまで開いていた距離が、徐々に縮まる。
逃げるという考えが、この時の相良にはなかった。
「いや、分かった。要するになんだ?その屋敷からの、俺の知らねぇ諸々で、その女の子ってのを連れてきたら全部吐いてくれるって言われた、と。」
「まぁ、ざっくりそんな所でしょう。」
「一人、耳傾けないでこんな所来る理由あったか?」
「………痛いところを突きますね?」
「そりゃどーも。」
蓄えに余裕があったわけではないが、どうにか交渉次第では子どもの一人なら貰い受ける事が出来るか出来ないかといった微妙なところで。先ずは昨日初手としてその少女を持っている店に立ち寄り話をしたと相良は語るも、それから一晩が経った今もこの地から離れていないという時点で、話が上手く転がることはなかったということが分かった。
弥代は面識がない、その雛菊という女から相良は少女の店での買値を聞いていて、その上で話せばどうにかなると踏んでいたのだろうだが、自ら買いたいと申し出る客には高値を提示するなどよく聞く話だ。店へは伝手でお試しとして売られていたのではないかと弥代は考える。聞く限りその話を持ってきた女は、どうにも性根が悪そうだ。分かっていて、知っていて敢えてそれを相良に伝えなかったというのは、聞く限りの少ない情報からでも汲む事が出来た。
「兎も角よ。運が良かったよ、まさかその子とこんな場所で会えるなんてさ。」
頭を掻きながら弥代が視線を右へと滑らすと、足元には身を丸めるようにして眠りに付く赤い、髪をした少女がそこにはいた。
「何があったかなんて知らねぇけどよ。酷ぇもんだったよ。ボロボロでさ。飯だって、こんなんじゃ碌に食わせてもらってねぇんじゃねぇのかなこの子。」
「店で……見掛けた時もそうでした。顔を殴られていて、腫れ上がっていた気がしたのですがそうですね。日も経っていましょうから引いたのかと。」
「そうじゃねぇよ。」
相手が“色持ち”であるからこそ弥代は鋭く返した。
先ほどまで少女の足首を噛んで離さなかった、無理やり壊すことでこじ開けたその破片を持ち上げて揺する。
「怪我の治りが早いんだろうよこの子。さっきまであった傷が綺麗さっぱり、とまではいきゃしないが塞がってる。その、店で振るわれたっていう暴力も、直ぐに消えちまったんだろうよ。知らねぇけどさ。」
「知らないという割には、随分と首を突っ込まれるのですね。」
向かい合う相手はわりかし物をずけずけと言ってくる男だった。
相手が誰であろうとあまり大差なく、接し方を下手に変えてくることのないところは彼の教え子である芳賀にそっくりである。弟子は師によく似るというのは嘘ではないのだろう。正面から堂々とそう切り出されるのは、相良自身とはその殆ど横並びで過ごすことの多かった弥代には慣れぬこと。やや垂れたその目尻と眉が緩むのは、何も怒っているわけではないとは分かっているのに、生温い視線を向けられるのは気持ちのいいものではない。特別好意を抱くような、たとえば雪那のような友人の仲でもない相手にそんな目を向けられるのは、どこか見透かされたようなな錯覚に陥って気持ち悪い。
逃げるように体ごと背けれたその先には地べたに座る自分達とは違い、その背を正しどこか遠く、恐らくは人里のある方角に気付いたのか、そちらを見遣る春原千方の姿あった。
「馬鹿みてぇな脚してると思ってはいたが何だ?目もよけりゃ耳もいいのかあいつは。」
「春原さんは大体何でも鋭いですね。知らぬ地では役立つ事も多いです。それを見越して伽々里は一緒に行くようにと仰ったのではないでしょうか?」
「子守りを押し付けられた気分だったぜこの二日程はよぉ…。」
「骨が折れますでしょう?分かります。」
「二度とゴメンだね。」
聞こえてはいるだろうがただ名前を口にされただけで呼ばれたと勝手に勘違いをすることは、この二日間のやりとりで覚えたようだ。しかしそれもまた数日と他の事を挟めば九割は忘れ、また教えこむように何度も言い聞かせねばならないのだろう。それを恐らくは長年やってきたであろう相良の苦労を考えれば似たような思いは心底ゴメンだと弥代は思うのだった。
「……、」
一点、そんな相良の対応を見て有難いのは弥代が背を向ければ話題をすんなりと切り替えるところだ。ただそれもやはり気持ちのいいものではない。否、今考えるべきは、話し合うべきなのはそんなことではない。件の少女についてだ。
女の頼みで少女を榊扇の里へ、その女の元へ連れて行くのだという相良。が、少女は自由の身ではない。
幼いころに金で買われたのだとすれば、大半は金を支払った店側に身売り証文があるはずだ。証文の有無なんてものはそれこそ店側しか把握していないだろうから、この場で少女が目を覚ましてそれを訊ねたところであまり意味はないと思える。
仮に証文があった状態で、勝手に少女を連れ出したとなれば只事では済まないだろう。ここは榊扇の里でもなければ相模国でもない。一つ国が違えば通ずる常識も通じなくなるのは当たり前だ。店の許可なく連れ出すのはやはり難しいことだろう。
そもそもの話、榊扇の里では人買いは扇堂家によって許可されていないものだから、相良がその少女と出会ったという店そのものが里の規則に反している説がここで浮上する。結果少女は売り戻され店を後にし、この駿河の地へと戻ってくることになったのだと彼は語るが、その情報もどこか歯抜けではっきりとはしていない。
それならいっそのこと今ある情報だけでも全て屋敷に明け渡して丸投げしてしまった方が、持ち合わせもたらず次の手に考えあぐねる状況の打開に繋がるのではないかと弥代は切り出した。
少なくとも向かい合う相良の口から語られるそれは、それだけが全てだとは到底思えなかった。あくまでもそれは妥協に過ぎない、現状弥代が口を挟める範囲での見解だった。
(それに……、)
弥代には詩良との口約束だってある。出来るならなるべく早く帰りたいのだ。
多少強引に捲し立てるように弥代はそう述べたが、対する相良はそう易々と首を縦に振ることはなかった。
「恐らくは、その案が一番手っ取り早く、我々も余計な時間を浪費せずことなきを得られるのでしょう。」
「なら」
「それでも、私は彼女をここから連れ出したと思うのです。理屈ではなく、気持ちの話です。」
弥代はやはり、相良志朗のこういった面が得意ではない。
「先程弥代さんが仰いましたように、私には彼女……、この子を今このままこんな場所に置いておく…放置し、見なかったことにして立ち去るようなことはどうにも出来ません。」
一息吐けば相良は続けた。
「何より、元は屋敷よりの依頼には違いありませんでしたが、これはあくまでも私個人があの女性から頼まれたものです。ですから一人でここまで来ました。彼女がこの子を連れてくる代償に諸々についての証言を。事の顛末、その正体を教えてくれるとは仰っておりましたが、それはあくまでもついでの話。確かにそれが目あてでここまで来たところはありましたが、今はただこの子の先を按じる気持ちで胸がいっぱいです。それに……、」
やはり相良はその女とのやりとりの全容を明かしきっていない事を弥代は悟った。女との会話を口にする時、その目線はわかりやすいまでに泳ぐ。そんなもの何の頼りにもなりはしない。だからこそ相良が関わるのではなく全て屋敷に託してしまえばいいと弥代は言うが、相良はやはり中々頷いてくれそうにない。
「そうですね。ですが扇堂家の調べによって彼女への追求があったとしても、到底知っている全てを洗いざらい吐くような人には思えません。」
「だからってアンタが聞き出せるだろう内容だってそれが全部だって確証はどこにもねぇだろう。少なくとも、俺ならそんな女の言葉にゃ耳は傾けねぇな。」
「えぇ…ですから先程もお伝えしましたとおりこれは何が得られるとかの話、理屈ではなく気持ちの話なのです。頼まれごとを抜きにしてもこの子を連れ出したいと、今の私は考えています。」
意図して触れぬように逸らした箇所に再び相良は着地した。それほどまでにその意志は固いということなのだろうか。これが頭を抱えずにいられるわけがないと弥代は眉を顰める。
あまりにも真っ直ぐに物を言う男は、何も怒っているわけではない。平素と違わぬ、寧ろ普段よりも声を最低限抑え、ひどく落ち着いた様子で自身の意見を述べた。
どちらかといえば取り乱しているのは弥代の方だ。
聞き逃してしまいそうな悲鳴にいち早く気付き、春原が指を差した方へと何の考えもなしにいきなり走り出し、そのうえ野犬の群れに襲われ食い殺されそうになりかけていた見ず知らずの少女を助けた。その時点で普段の自分なら取らない行動をしていることに本人は気付いている。それが余計に弥代を焦らせていた。いや、そうでなくともこの相良との会話はどうにも弥代の癪に障った。それだけなのかもしれない。だから、
「いやいやいやいや…冗談…、冗談言うなよ相良さんアンタ。自分が何言ってるのか分かってんのか?お人好しにしたって度が過ぎてんぞ、そいつは。」
饒舌に、相手が切り出す隙をなるべく与えぬように弥代は切り出す。背を曲げて下から睨め付けるように、涼しい表情を一つも崩さずに自分を見てくる似た赤い瞳を持つ男を、弥代の目は捉えた。
「特に最後に方。いただけねぇな、いただけねぇよそんな話。俺の話聞いてたか?止めておけって言ってんだよ。ここでアンタに出来ることなんて対してないだろ。俺はそもそも初めから噛んでたわけじゃねぇから知らねぇけどよ、屋敷から切られた責任でも感じて名誉挽回の意味でもあったのか分かんねぇが来たってんなら、勝手にアンタに動かれるほうが余計に迷惑なんじゃねぇのかな?現に伽々里さんだってアンタのこと心配して迎えに行けって言ったんだろうよ。だから俺と春原がここにいるんだ。こっちの被ってる分も考えてほしいもんだね。こんんなの、何も筋が通っちゃいねぇよ。」
「筋、ですか?……それは、どういった筋ですか?」
「見ず知らずの餓鬼を、アンタの我儘一つで連れ出そうとしていることが、だよ。俺らはここの決まりなんて知らねぇ。仮に証文がある状態で勝手に他所に連れ出したとして、相手が黙ってくれるかも分からねぇ。里の方まで追ってきたらどうする?」
「……では弥代さんは見ず知らずの、不当な扱いを受け続ける子がいたとして。それを見て見ぬフリをしてやり過ごせるのですか?」
「誰も見過せ……、見捨てるとは言ってねぇだろが。」
「いいえ、先の私の発言に言い返す、異論を唱えるということはつまりはそういうことです。何も違いません、同じです。」
相良は更に食い下がる。
「見過ごすお考えがないのでしたら私が彼女を連れて行こうとも何も問題ないでしょう。」
「――だからっ‼︎」
我慢ならず弥代は立ち上がった。
そのまま一歩詰め寄るように相良の方へと近付こうと、その胸倉でも掴んでやろうかと伸びた手は、意外にもいつの間に近くにいたのかその場に居合わせた春原によって阻まれた。
「弥代、声が大きい。」
「お前にゃ関係ないだろっ‼︎」
「起きるまで休ませてやろうと言ったのは弥代だ。あまり大きな声を出せばそれで起きる。」
どこで一気に頭に血が昇ったのかも分からなくなるほど、すっかり冷静さを欠いていた弥代は、そんな春原の声掛けによりハッと我に返る。そして足元で今も眠っているだろう赤髪の少女を見た。
今もその薄っぺらい肉付きの悪そうな背を丸めている。怪我の治りが早いからか、先程まで腫れぼったく見えた目元から赤みは引いて見えた。が、その頬には涙の跡がしっかりと残っている。すっかり足首の抉れていた肉も元通りだ。外した直後、まだ彼女が意識を失う前の傷さえも、体感にして一刻も経たぬ内に消えてしまうのは、その異質さが窺えた。それでも時折寝言だろうが、痛みに呻くような声が漏れるのがあまりにも痛ましい。
一目ではどれだけ酷い怪我をこれまで彼女が負ってきたのかが分からない。分からないがそれでもこんな寝ている…正しくは気を失っている最中も怯えきった子どものように身を丸める様が見てられない。弥代は、その救い方を知らない。
「目の前で傷ついた子どもに手を差し伸べられず、どうして平然と生きられましょうか。私にはそれが出来ません。」
部が悪いというのは薄々感じていたことだ。
掴まれたままの手を払い除け、弥代は春原と相良を見た。
芳賀曰く、春原討伐屋は元はこの二人から始まったらしく。なんなら討伐屋が立ち上がるよりも前から二人は面識があり、他であれば和馬が話していたいつぞやの内容を照らし合わせば、春原が十五やそこいらの頃から(春原は確か今年で二十二、三だと津軽からの道中に館林が口にしていた記憶がある)と考えれば短く見積もっても五年以上の繋がりがあることになる。
屋敷の道場で氷室による打ち稽古が行われていたものの、弥代がそれに参加をした回数はとても少ない。それでもつい先日の氷室と春原による打ち合いは目にし、そもそも筋力負けし鍔迫り合いも長く保たなかった自分と較べ、結果的に押し負けはしたもののかなりいい線までいっていた筈だ。
件の屋敷からの依頼で怪我をしていた為にその場で相良の腕を見てがいない弥代だが、館林曰く元は春原に剣を教えたのが彼で、今は自らあまり刀を握ることはなくなったものの、春原に負けず劣らず、つまりは氷室を相手にてんで歯が立たなかった、まともに相手にされなかった自分よりも場合によっては相良は実力は上ということになる。
いくら伽々里に引き摺り戻してこいと言われたとしても、最悪の場合引き摺られることになるのは自分なのではないかと考えが浮かぶ。何故なら先程より、普段なら自分の何かと後ろにつくことの多い(それを決して味方という風には弥代は捉えていないが)春原が、弥代ではなく相良の肩を持つような発言と姿勢を見せるからだ。
これまでこの三人で過ごす、相良を相手にこんな話をすることがなかった為に知る機会はなかったが、その根っこに長年築かれたであろう繋がりがあった上でのものだとすれば弥代が知らぬのも仕方のないこと。
落ち着けば落ち着くほど、どうして今までそんな少し考えれば気付けることも気付けなかったのかと思うも、気付けぬまま気が立ったまま何かを仕出かしてしまわずに良かったとも多少なりとも安堵する。
が、問題は何も解決していない。
「……悪かった。ついカッとなって言い過ぎた。」
「いえいえ。ここのところ何かと芳賀さんの面倒で落ち着くことが多くなってきていて良かったです。気分を悪くされていませんか?」
「別に……、」
随分と酷いことを言ったはずなのにも関わらず、相良は一切弥代を責めることなく優しい笑みを浮かべた。その優しさは何も嬉しくない。
「それでですね……。こんなことを言うと弥代さんはもしかしたらまた怒ってしまうかもしれないのですが、実は話の最中に色々と考えていたのです。何か良い手はないものか、と。で、ですね。閃いてしまったのですよ妙案を……。」
既に嫌な予感がした。
彼のその目が弥代の普段とは異なる髪へと向けられれば何となくを察さずにはいられない。
「私に申し訳なく感じるのでしたら、是非ご助力願いたいことがあるのですが…如何ですか弥代さん?」
「それ…俺に断る権利ないじゃんよ、ねぇ?」
「目が、覚めましたか?」
誰だろう、と少女は声の主を見上げる。以前にもどこかで聞いたことがある、掛けられたことのある覚えのある声に、思いだそうとするのに覚えの悪い頭は、寝起きということもあって満足に働いてやくれない。そもそも自分に本当に掛けられたかも分からない言葉にどう返事をしたら良いのかが分からず右往左往視線をいったりきたり。そんな風に優しそうな言葉を掛けられたことなんてなかったから、でも、でも自分に向けられた言葉ならきっととても嬉しいんだろうな、と微かな期待を胸に、もう一度見上げる。
(赤い…目、)
少女には、その瞳に覚えがあった。




