九話
生まれてこのかた一度も剣を握ったことのない和馬であろうとも、眼前で繰り広げられる攻防はあまりにも凄まじく、息吐く間というよりは息を飲むことそのものを忘れそうになる程の空気を肌で感じていた。
先程まで行われていた稽古事がまるで子どもの飯事に過ぎなかったのではないか、と。そう思えてしまいそうな程に苛烈な、どちらも譲ろうとしない引けを取らぬ一進一退。いくら疎くとも目を見張るものがそこにはあった。
恐らくはこの場に居合わせた者の大半が自身と同じことを思い浮かべたであろう確信を抱く。特に彼と面識のある者はその誰もが目の当たりにしてその目を疑ったことだろう。
争いごとと無縁そうな、ただ口煩いだけで直接何をするわけでもなく。口先だけと揶揄されることも少なくはないそんな男が、榊扇の里でも名の知れる武人である氷室を相手に、対等に渡り合ってみせたのだから――
「何を、笑っているのですか貴方は?」
床を叩いた竹刀を手に取る。
投げて寄越した相手に突き返して、それで断るつもりだったというのに彼は、まるで空気の読めない悪童のように笑みを浮かべて。静かに、構えの姿勢を見せた。
もう、随分とそれに正面から向き合ったことがないというのに。あの頃と比べれば違いに老けたものだと、その貌に刻まれた皺を遠目に、自分のもののように数えるように見つめ。男は不意に、記憶の中の自分と同じ動きを重ねた。
何も懐かしんでいるわけではない。向かい合う、その相手が未だ嘗て浮かべたこともないような表情を見せるものだから、それが本当にほんの少しだけ勘に触れた。
どこに笑う要素があるのかが、男には分からなかった。
自分がこの場にやって来た理由を、その目的を忘れたわけでは決してない。しかしいざ辺りを見渡してみれば当初想定していたよりも酷い怪我を負っているものは少なく。目視ではなく実際に診ねば気付けぬことの方が多いのなんて分かりきっているというのに、それでも今この時、男の関心は傾いてしまった。
踏みしめ、床を掴むのに足袋は邪魔でしかなかった。
大きく踏み込むのに、与えられた服の裾を汚さぬようにと腰に巻いた前掛けは要らぬものとなった。
屋敷が建つ大山の斜面帯は夏であっても多少冷える。何より今日は朝からどんよりと重たい雲が目立った。昼頃には雨が降りかねないと湿気に強くない草花を密封度が高い箱へと仕分けてしまいこんだ程だ。この時期は頻繁に空模様が変わるものだから乾燥には不向きだ。
薄手の生地ではなく選んだものは分厚いもの。振るうのはただ竹刀だけだというのに阻害するものは可能な限り剥ぎ捨て、漸く直線上に立ち、彼と向かい合う。
号令など、必要ない。
歳をいくら重ねようとも不思議なことに体はそれを覚えていた。長年そんな使い方をすることのなかった節々は今すぐに悲鳴をあげだしたって何もおかしくないのに、その程度の些細なこと構ってやいられない。
今まで見たことのない表情を浮かべる眼前のその相手に男は、佐脇三一は訊きたかった。
「何故、貴方はそうして笑えるのですか?」
重ねて、佐脇は訊ねる。
相手が膝をつく一瞬の隙を、その袴の裾が床に波打つ瞬間を、口だけでなく手癖も足癖も悪い彼が見過ごすわけもなく、その裾を強く踏みつけた。
元は到底人間とは思えぬ生活を山々で一人過ごしていた相手なだけあって、地べたに這いつくばるような姿勢はお似合いだ。初めてその男に会ったあの日も今みたいな、立ち位置で返ってくることのない会話をした記憶がある。
「お前が相手をしろと申したのですよ。質問に答えられて、私はいい筈です。」
答えるまで逃すつもりは毛頭ない。
体は、ずっと覚えていた。もうずっと染みついている。何のために、誰のために欲しかったものかは思い出したくもないはずなのに、それでも今もこの身に残っているのだ。
何も知らぬ、誰にも教わってこなかった彼に物を教えてやったのは他でもない自分だった。だからこそ相手が次にどのように動くかなど佐脇には手に取るように分かったし、自分同様に相手も身に染みついていたのだろうそれは過去を忠実に準えるようで。
それ以上の動きを見せようとも交わした数が全てを物語る。向かい合い、見据えてしまえば次の手が分かってしまった。だから、こそ
「何故、手を抜くのです?」
いつからか教えていた自分を彼は容易く追い抜いてみせた。
何も持っていなかったくせして、何も教わらずに生んでくれた親にすら棄てられたくせして、何も、何も望んでなんかいなかった、それなのに…
私が持っていたものを、私が知っていたことを、私が、私がどれだけ望もうとも手に入れることができなかったものを…。あっさり、あまりにも容易く。それが、その向けられる眼差しの底に何があるかも分からぬまま、お前は……。
お前が彼女を裏切らなければ、あんな…あのような悲劇は起こりえなかった筈なんだ…。
鬼ノ目 五十九話
ガタン…、ガタ、ガタン……ガタン
不規則な揺れを受けすっかり沈みきっていた弥代の意識は徐々に徐々に浮上を始めた。
普段外を出回る時は腰からぶら下げている刀は、以前程鮮やかな色をしていないが落ち着きのある鞘に変わっている。津軽の雪山で彼に放り投げられてしまった元々の鞘は見つかることはないまま、きっと今もあの雪山のどこかにあることだろう。
討伐屋の中では随一。刀に携わる知識においては右に出るものはいない相良志朗に鞘だけ新しいものが欲しいと相談したのは皐月の頃のこと。弥代は一切関与していない屋敷からの依頼で少々多忙な為に、鞘だけを拵えるにしても時間が掛かるだろうと言われ、やっと手元に戻ってきたのが一月程経ったつい先日のことだった。
涼しげな夏の色で仕立ててもらった装いには、新しい鞘の色はあまり馴染まなかったがそんな我儘は言ってられない。使っているうちに見慣れてくるだろうと以前同様に腰紐に括り吊るすことにした。
しかしそんな刀も今はわざわざ紐を緩め、組んだ腕の中に納める。
狭いこの場所では腰に吊るしたままじゃ座りこむのに尻に硬いものが食い込んで眠れたものじゃない。
金具で出来た鍔の部分が頬に触れると、その部分だけが夏だというのにひんやりとしていて心地よい。
日中は陽の暑さと一緒で熱を持ち、なんなら鍔に手を掛けるだけで火傷の一つ二つ、してしまってもおかしくはないのだから、この冷たさは夏の、陽が登る前だけにしか味わえない特別なものだ。
若干の茹だるような熱さは今いる場所からすれば普通のこと。一方の戸しか空いてない上に、中には入れるだけ人と、荷が詰められているのだから仕方のない。
眠気眼のまま戸の方へと意識を向け、弥代は隙間から覗く空を見た。
夕焼け程まではいかずとも、それと同じぐらい眩しく空を染めるその朝焼けに、キュッと目を細める。あまりの眩さに目が焼かれてしまいそうだなと、なんの面白みもないことを考える。
頭が働き始めるには時間がかかりそうだと思った矢先、ガコンッと、強い衝撃が体を揺らした。
ぎゅうぎゅう詰めの中、座る形で過ごしていて急に踏ん張れなどと無理な話。浮遊感とまではいかない一瞬腰が浮くような、そんな変な感覚。目の前の荷詰された箱にぶつかってしまうと軽く身構えるも、それは右手から伸びてきた腕によって肩を抑えられることでことなきを得た。
「大丈夫か弥代?」
「……ん、あぁ…お、おぅ。」
聞こえようによってはただの吐息。何も汲めやしない声を漏らしながら腹に力を込めて安定を求めるようにその場で軽く座り直す。
「……なんで、お前ここにいるんだっけ?」
「おかしなことを言う。弥代が行くなら俺も行く。先ほどもそう答えた。」
「……そうだったか?……あっ、あぁ…、いや、うん。そうだったな?あぁ、うん。そう…だった気がしてきたわ。なるほどな。」
思い返すのも寝起きの頭ではただ億劫で半ば投げやりに、自分から尋ねたというのにも拘らず半ば投げやりな受け答えをしながら、弥代は辺りを見た。
先の大きな揺れに他に居合わせていた者も目を覚ましていてもおかしくないと思ったのだが、寝れる内に寝ておきたいのが生き物というものか、目を覚ましている者は自分以外にいない。
薄っぺらい羽織やら何やらを掛け布団代わりにして前に掛ける、弥代ら同様に体を小さく折り曲げて俯く彼らを起こしては悪いと考え、静かに懐から三つ折りの紙を取り出した。
全て広げれば意外に顔より大きい。一面に、記されているのは地図らしき内容だ。
字の読み書きが出来ずとも、何となくの道順やどこに何があるかというのは墨が示している。
昨晩の夕餉後。連日となるが討伐屋で食事を馳走になった弥代は、飯代がわりに食器洗いを名乗り出たが、台所へ持っていたその先で薬師である伽々里から頼み事があると話を持ち掛けられたのだ。
『そういえば相良さんいなかったね?どこか出てんの?』
言われて、普段ならいるはずの口煩い(ここ最近はどうにも言動に覇気が見られなかったが他は特に変わった様子は見られなかった)男の名を繰り返せば、どういうわけか早朝に軽装のままどこかへ行ってしまったのだと話を聞かされた。
どこへ行くのか?と訊ねればしっかりと行く先を答えたそうで、帰ってこない、というわけでもないだろうが少々心配だと、彼女は首を傾けながら呟く。
台所の小窓からはまだ高い位置にあるだろう月明かりが差し込み、細く色白い、彼女の輪郭を縁取っていた。
『佐々木先生の元で解決に役立ちそうな材料は何も得られなかったようですしね。私は少々、貴女の事を買い被りすぎていた面もございましょう。ですからこれは、一つ提案なのです。』
『提案…?』
『互いに出来ることをしましょう。生憎と、私は今はこの里から出る気は一切ありません。ですので弥代さんの抱えている、辰五郎様より任されている豆腐屋の一件を引き受けてさしあげましょう。その代わりに貴女は相良志朗を……彼の後を追ってください。』
夕餉を終えてもまだ落ちていない、口元を彩る紅が綺麗な弓形を描く。先日彼女と立ち寄った茶屋で見た月と似て見えたのは気のせいではないだろう。
『……いえ、後を追うでは手温いでしょう。………連れ戻す。そうです、引き摺り戻してきてくださいな。』
つい先日髪を切り揃えた際の、彼の名前を口にする彼女のその声色がとても優しいものに聞こえたのは気の所為だったのかと思える程、夏の暑さを掻き消すにはうってつけな、それはなんとも肝の冷えきる声だった。
ぞわり、と鳥肌が立ったのを露出した肌を摩り弥代は凌ぎ、読めもしない紙は早々に元の三つ折りに戻し懐へとしまう。
そんな提案を持ち掛けられて追うにしても向かった場所が分からなきゃ追いようがないと言えば、あまりにもあっさりと、駿河を目指したと答えが返ってきた。
行く宛も道も、なんなら行くにしても荷の用意だってそんな直ぐに出来るものじゃないと返してみれば、手っ取り早く迷わずに進める術の検討も、なんならいつでも出られるように荷の準備すら出来ていると指を指された。
『それから、』
「…弥代、」
「うるせぇぞ……目的地に着くまで口、閉じてろ。」
「……分かった。」
目的地も荷も行き方も何もかも準備を予め、弥代に断る選択肢などまるで初めから用意していなかったような周到さの最後。伽々里が指差したのは弥代ではなく、いつの間にやら弥代の背後に立っていた春原だった。
『春原さんを連れていって下さい。』
(…何でこいつ、本当に連れて来なくちゃいけなかったんだろう。)
言えば、すんなりと傍らに寄り添う男は口を閉ざす。慣れたくないのに慣れてしまった流れに少々嫌気が差す。
相変わらず自分の言葉は素直に言うことをきくようで、全てが全てではないにしろ未だ春原と過去に何があったのかを思い出せずにいる弥代にとっては気味が悪いことにやはり変わりはない。
『海を、見てみたいわ。』
過去といえば、夢の中で今も時折出てくるあの女・扇堂春奈は相変わらずだ。零す言葉はやはりどれも子ども染みていて、昔の自分はそれに嫌悪感を抱くこともないまま普通に接していたのが分かる。
意地らしく態とらしく。せがむように頼まれては断る理由もありはしない。自分が扇堂春奈に対して妙に甘かったことは、何度も見てきた夢の中において身をもって弥代は理解していた。
思い出すことが徐々に増えてきたからだろうか。それでも、それは部分的なもので。逆に、過去に今も同じ場所に建つ扇堂家の屋敷がある場所で過ごしたであろう思い出しか戻っていない。思い出す手立てがないのだからどうにもならない。
(その内…いつか全部、全部思い出せるかな…。)
荷と人が入り混じった荷台を引く二頭の馬が、小さく鳴いた気がした。固い蹄が土を蹴る音はとても軽快で。それまで気にならなかった音に一瞬で呑まれたように。しかしその一定の音が紛れた筈の眠気をまた呼び起こす。
刀を納めていた腕をモゾモゾと組み直し、小声でつぶやく。
「寝れる内に寝とけよな。」
「………」
「お前に言ってんだ春原。」
「着く迄口を閉じていろと言われた。」
「一々もう突っ込まねぇぞ、俺は………。」
噛み殺しきれなかったあくびを一つ。弥代は静かに眠りについた。
『全く…、本当に悪い子だ、キミは。』
両頬に手を添えられれば他に逃げ場なんてありはしない。
見つめる、その自分よりも一際鮮やかな瞳に。いつぞやに浮かんだ、まるで血のようだという言葉をなぞるようにして、弥代はただ、詩良を見た。
『何だい?何もとって喰おうって訳じゃないよ?ちょっとおちょくってやろうとしただけで……』
意外にも根気負けをしたのは彼女の方だった。これ迄も何度か似たような距離まで詰め寄られ瞳を直視されたことがある。抵抗に意味がないのなら相手が飽きるのをただ待てばいい、と。その発想に至れたのは、彼女の行動を慌てずに落ち着いて見れたからで。
直前に慌てて大きな声をあげてしまったのだが、それがどういうわけか今は功を奏した。息を、吐く暇があった。が、それも直ぐに彼女のある一点に目を奪われ、生まれたばかりの余裕は掻き消される。
『これ、どうしたんだ?』
癖だろう。そういえば彼女は普段から袖の中に手を隠すことが多かった。触れるにしてもその距離は近く、これまではそんな近さに心を乱されてばかりで、だから弥代はこの時初めてその存在に気付いた。彼女の両の掌にある赤い傷痕に。
自分から離れていく、袖口の中にまた消え入ってしまそうな、細い手首を掴む。距離が近いからこそ一瞬、ピクリとその肩が揺れるのを見たが、弥代は訊ねずにはいられなかった。
見たところ日の浅いものではない。治りかけの古傷のようなそれは、自分の体にもあるものによく似ていた。新しくできた傷に関しては比較的やはり早く塞がり治るというのに、それだけは一向に消えることがないのだ。
『……痛むか?』
『ちょっとぉ、何だよその目?止めろよ同情はゴメンだよ。それからボクの話聞いてた?ここは大きな声を出す場所じゃ…』
無意識に、その傷に指を這わせた。
目に見える形で初めて彼女の、詩良との共通点を見つけられた気がしたのだ。互いに“色持ち”と分かっていても、結局彼女の口にするような血の繋がりなんてものは二人の間にはない。
同じ“鬼”と呼ばれる存在であっても、未だ弥代は彼女が“鬼”であるという証明も、その姿を見たこともないのだから。
そんな信じるにはまだ頼りないものではなく、もっと。もっと、単純で分かりやすいものが、どうしてか無性に嬉しくなってしまった。不謹慎なのは分かっていた。でも、それが、
『痛かった、よな。』
『キミって奴は何というか……。そういうところが結構あるよね。自分の都合でしか物を言わない。不思議と、以前の言葉同様に不愉快だよ、それ。』
整ったその顔は多少歪んでも名残がある。
向けられた、返された言葉はひどく棘があるというのに、触れられたくない場所を掠められて毛を逆立てる猫かなにか、どちらかといえば小動物のように。その程度で傷ついたということもなければ弥代は会ったら本当は伝えようと考えていた言葉を紡ぎ出した。
『なぁ、詩良。俺、お前に渡したいもんがあったんだ。』
『ほら、またぁ……』
だというのに生憎とそれは今は手元にない。本当なら今抱えていてなんらおかしくないのに、色々が重なって残念ながらここにはないのだ。
『だから…今度さ…』
(いつ会おうって、言った覚えがないな。)
先と同じ要領で体を伸ばせばポキポキと軽い音が鳴った。荷台に乗っていた見知らぬ彼等もいつの間にやら目を覚ましているようだ。見渡すまでもなく耳に届く声が多い。自分以外が全員起きているのではないかと思いながら陽の差し込んでくる右手に意識が傾いた。眠る前よりも鼻についていた、独特な潮の匂いが濃い。
恐らくはもう間もなく目的地に到着するのであろう、そこは相模国の南西に位置する小田原藩。東海道における箱根の関所を後ろに、相模国の国境境の要として知られる城の据えられた城下町だ。
漁業が大変盛んで海に面しているこの城下町は、まだお天道様も高く登っていない頃合いだというのに、方々からえっちらほっちらと威勢の良い声が上がってくる。潮臭いというよりは魚特有の生臭さの方が次第に強くなってくるような、そんな気がした。
(ってーと、あれか。寝てる内に酒匂川も越えたことになんだろうな。)
東海道五十三次は日本橋の次、品川より数えて九番目に当たる小田原宿。八つ目に当たる大磯宿から小田原宿までの距離は離れているものの、酒匂川の手前までが榊扇の里の領地となっているが為に、宿も多く存在した。
対岸までも距離があり、人が泳いで渡るには余程腕に自信がなくては厳しいという程で、馬入川同様に川越人足によって渡る必要があった。この川があるが故に小田原宿は扇の加護下ではないと捉える者が多くいたがこの城下町にもしっかりとあの里の息はかかっていた。
荷台を引いたまま馬ごと川を渡るなど聞いたこともないが、実際に里の北部にあたる乗合場所から小田原宿の停留場まで寝ている内に揺られ、移動をしてきた弥代は何も言えるわけもなく。乗り込む際に払った駄賃以上を要求されることもなくその地に降り立った。
自分が持つ物といえば持ち慣れた刀一本。まだ鞘の感じは慣れない。
もしもの事が起こらぬ限り早々抜くような機会も訪れないだろうが、やはりどうしてもあの雪山のように振るえる自信は微塵も沸かなかった。あの時だって何も自分の意志で抜いたわけではない。彼に抜き放り投げられただけなのだから。
「弥代、何を考えている?」
「どわっ⁉︎…いきなり覗き込んでくんなテメェは!」
「……すまない。」
「謝るなら二度と同じことすんじゃねぇぞ!いいな‼︎」
「……おそらく、する。」
「すんなってんのが分からねぇのかお前はっ‼︎」
殴りたくもない拳を震わせて地団駄を踏む。
今に始まった話ではない。一々こんな些細なやりとりで怒っていてはいつ終わるかも分からない、暫くはまだ二人で過ごさねばならない時間を思えば気力だけが奪われていく。一時ここで我慢をすれば少なくとも早く目当ての人物を探す、辿り着きせめても二人きりという状況は免れることが出来るだろうと弥代は考えた。
前の冬の旅路にしたって結局のところは館林という男が間にいたことで弥代は春原とどうにか会話を進めることが出来ただけで、この男と二人きりというのは無理がある。
「大体…!書いてもらったはいいけど読めねぇもんをどう理解しろってんだよ伽々里さんはっ⁉︎」
「………弥代、」
「何だっ⁈」
「読み上げるか?」
弥代はキレた。
「何故、怒る?」
「お前が必要なこと喋らねぇで、必要のねぇことばっかほざいてるからだろうがっ!」
「それは違う。俺は必要だと思ったから喋った。……他は知らない。」
「逆なんだよそれがっ!お前にとっちゃ必要のない事は、俺にとっちゃ不必要なのが多いんだっ‼︎」
「…多いというのは、全部じゃないのか?」
「九割五部ぁ要らねぇだろうなっ‼︎」
「………難しいことを言う。」
「お前と会話成立させることがいっちゃんこの世で難しいわっ‼︎」
あーいえばこういうの繰り返し。融通の利かない子どもが駄々をこねて納得がいかないと自分の道理で物を言っているような、そんな表情を浮かべながら春原は下唇を噛み締めた。
何故伽々里が春原の同行を許可し、自分に連れていくようになどと言って、そしてそれを自分は何の疑問も抱かずに伽々里さんが言うなら…と受け入れてしまったのかを今になって弥代は後悔した。旅路に必要なものは一式、春原に抱えるように渡した、いつぞや館林が背負っていたのに似た大きさの葛籠に収められていた。
相良が出ていってしまったという明け方から、足りぬものも含めて一通り、それも一人分ではなく帰りの分も見越してか三人分(にしては少々多すぎる気もするが)が敷き詰められている。必要に応じて口を開く印象の多い彼女が余計な、意味も考えもないことをするのは俄かには考え難いとのだが、どうして春原を連れて行けと言ったのかが考えてもやはり分からない。
面倒な世話を押し付けられたのではないか?と思いながら道を往くと、背後で地図に書き込まれた字を読み上げていた男が一呼吸挟んだ後、小さく呟いた。
「そして俺は、伽々里から弥代の変わりにこれを読み上げるように言われ一緒に行っていいと言われた。」
「一番最初ーーーーーーっ‼︎それ!いっちばん最初に伝えることっ‼︎そうじゃないのかな、なぁ⁉︎俺何か間違ったこと言ってるか⁈段々自信なくなってきたわ!…もぅっ!本当にさぁ!何なんだよお前ぇっ‼︎」
「…?俺は、俺だ。」
「そういうの聞いてんじゃねぇんだわっ‼︎」
結局怒るものかと決めた決意は容易く崩れていき、弥代は大声を出し続けて咽せかえり喉を痛めてと、そんな道のりは二日程続いた。始終春原が口を開けばその声を涸らすまで叫んで、と。本当にそんな旅路が二日続いた。
幼少の頃より相良志朗という男は、その手を祖父に強く握られ、島国の方々を旅して過ごしてきた。
いつか、いつの日か。自分達を生まれ故郷から追いやった、かの存在を討ち取り、相良氏の再建と復興を目論む。祖父は、とても欲深い人間だった。
他者に祖父の話をする際、相良はなるべく聞こえの良い言葉を選び、嘘を嘘で長年塗り固めてきた。祖父が亡くなって早十年が経つが未だに相良の前に祖父を知る者は殆ど現れず。先の秋口に討伐屋を訪れた屋敷に棲まう武人のみ。相手方に他者に関心がないのだと知り安堵するまでは実に短かった。
ただ祖父が、知識人であったことだけは嘘ではなかった。
嵐が過ぎ去った後の朝というものは余分な分まで含めて何から何まで一緒に攫っていってしまうもので、早朝から澄んだ空気が、空には快晴と。何もなくとも祝われているような気になるのはやはり気のせいだろう。
嵐の最中、雨宿りにどこかの店に転がりこもうとも考えたのだが、足らぬと分かった手持ちを更に削るようなマネは出来ない。雨風を凌ごうにも急の出立に持ってこれたものは限られている。おかげで全身びしょ濡れの濡れ鼠のような状態になってしまいどうしたものかと頭を抱えていたが、どうにか火を発すことぐらいは叶った。
海沿いの気候、特に複雑な形をしたこの近郊は直ぐ真後ろに山がある為に、気候の変化はとても急だ。土地勘がないわけではないので道中雨合羽を買い求め、そうしてきたのだがそれも二度と使うのが難しいほどズタボロになってしまった。
こんな思いをすることになるのだったら彼女の助言に耳を傾けていれば良かったと今になって相良は後悔を募らせた。
しかし、今の自分には彼女に頼っていい資格はないと、相良は考えていたのだ。
これ以上、情けない姿を彼女に見せたくなかった。
何よりも自分がいつの間にやらすっかり、誰かの手を頼りにしようとしていることに気付いてしまったのだ。そうではない、それでは何も変われない。
彼の、あの手をとったあの時の決意を忘れたのかと、自身に問いかける。
誰に頼らずとも、誰の手も借りずとも彼の為になることをしようと、償いのためにもそう誓ったはずなのだ。
(いえ…まぁ、今の私ほど情けない姿もないでしょうにね…)
などと、自らを奮い立たせようとしたにもかかわらず、見下ろした自身の状態を見下ろして空笑いが漏れ出た。
あくまで、これは濡れた服を乾かすために仕方なく、致し方なく脱いでいるだけなのだと、自分自身に弁明する。そうでもしていないとあっという間に心が折れてしまいそうな気がしたのだ。
膝頭を叩く。さぁ、次の一手を限られた手数の中から捻り出そう、と勢いよく立ち上がったその時、近くの茂みからまさかまさかの知った顔が二つ出てきたもので、鼓舞は悲鳴へと変わった。
「ひゃぁぁあ〜……じゃねぇんだわ。野郎のそんな声に喜ぶ奴がいてたまるか?んな姿晒さねぇでとっとと“それ”着てくんないかなぁ?」
春原に抱えさせていた葛籠を奪いとりゴソゴソと。聞きたくもない叫びを上げた男になど目をやる暇もなく、弥代は自分が着るにしては多少大きすぎる着物を引き摺りだして褌一枚で膝を抱える相良へと投げつけた。
どこか思い詰めた顔をしていた、と討伐屋を出る間際に声を掛けてきた、当然ここにはいない館林の姿を思い浮かべながら全くもってそんな様子を感じさせない相良を前に弥代は腕を組んだ。
自分だってその昔は洗った服を乾かすのに他に手がないからと、全裸になって焚き火にあたるなんて当たり前のことだったというのにどこか今は棚にあげたように振る舞う。
「どんな用でここまできたか知んないけどさ、伽々里さんに引き摺ってでも連れ戻せって言われてきてんだわ、俺。大人しく帰らねぇ?」
渋々といった様子で、投げられた着物に漸く袖を通す。普段のきっちりとした髪型も今は崩れ、手入れのされていない頭はどことなく幼く。彼女の名前を出せば隠しもせず揺れる肩とそっぽを向く動作があまりにも子どもっぽく写った。
彼女の名前一つでそうまで反応を示すならいっそ討伐屋の男二人の名も挙げればどうにかなるのではないかと考え、弥代が口を開こうとしたその隣で、普段なら動かない男が変わった動きを見せた。
「相良、どうして帰ろうとしない?」
「……。」
弥代は、恐らくこれが初めてだった。
春原との出会いは昨年の春口。卯月の小仏の森であった。
当初から訳も分からずに距離の詰め方をされ、さもそれが普通であるかのように接してきた。扇堂家の地下牢で過去に何か接点があったのか?と訊ねれば何とも分からない顔をされ、嘘の下手な男と感想を抱いたのを思い出す。
そんな春原の関心がまっすぐに自分だけに向けられていることに気づいたのはそこそこに早い段階だった。彼は弥代以外に近くに誰がいようとも、相手の名を口にすることはなかったからだ。
弥代の名は執拗なまでに呟くのに、彼のその口から他の者の名前が紡がれるところを、弥代は見たことがなかったのだ。
だから、弥代はこれが恐らくは初めてであると、そう思ったのだ。
(こいつ、こんな風に話すのか。)
それは名前だけではない。なんなら弥代が近くにいるとき言葉を交わすのは本当に弥代だけなのだ。それ以外と意思疎通が出来ているような様子も見たことがないだけに、今この場で自分ではなく別の者に視線を、その意識を向ける彼に違和感を感じた。他の者なら当たり前のことだというのに、彼がそうするだけで拭い切れないそれが残り続けるのは、何とも気持ち悪い。
視線を合わせるように膝を折る。自分に背を向けるその姿が…
――――
と、弥代は思わず振り返る。今しがた自分達が出てきた茂みではない。相良が発した焚き火でもない。どこから聞こえたかも分からない、それが何であるかも分からない何かを探すようにその場で大きく体を動かす。
「…どうした弥代?」
「今…なんか声が、」
「声……」
背後の弥代の突然の異変に気付いたのだろう春原が声を掛ける。直様それに返事をすれば、間も無くして彼の指がある方角を示した。
「あちらから聞こえた声か?」
どういうわけか、弥代は駆け出した。何故かはそれは分からなかった。ただ、ただ本能に何かが直接訴えかけてくるような、そんな、そんな不思議な感覚に襲われて、そうして、気付いた時には走り出していたのだ。
その先に何があるかも分からないというのに、それでも足は止まることを知らなかった。
走る、眼前は地面が続いていないがそんなの関係ない。飛べ、と思い浮かぶままに地を蹴る。軽い浮遊感に体が包まれた後、その先に広がる光景を目にして弥代は悟る。
自分は、あの少女を助けねばならないのだ、と。




