六話
弥代は肩口から雪那を降ろすや否や一言ここにいろと言い残し、また直ぐに生い茂る深い森の中に姿を消した。
一人置いてかれた雪那は着物を捲りあげ固く裾を結び合わせる。
(これでいつでも何かあった時に動ける、逃げられる、走れるわ。)
何から逃げるというのだろう。何故走るのか。
正直な話、縁談相手の元へ向かう最中賊に襲われて以降は、こうして弥代と暫くの間一緒に過ごしていたが、まだ明確に雪那はこれから何をしたいのか、夢や目標といったものを持てないでいた。
漠然と、ただ家には帰りたくないと、そう思ったのだ。
だから弥代が言った、人も多い江戸へでも向かおうかという提案にそのまま頷いた。それも持ち合わせがなくなってしまってから、慎重にゆっくりと日々を過ごしていた。
屋敷には。従者と下女という、あの屋敷の中で心を許しかけていたそんな二人を亡くしてしまった今、あそこには誰も自分の味方はいないと、そう思う。
怖いのだ。“色”を持たない、自分を一方的に知る相手に囲まれる暮らしが。それはまるで、あの時と同じような…。
「雪那。」
耳を疑う。
自分の足先を見つめるばかりでいた雪那の鼓膜を、とても聞き慣れた声色が揺らす。
視線を持ち上げれば、数十歩ほどの場所に彼はいた。
薄手の帳色の着物を羽織った、秋に群生するすすき畑のような髪色をした、自分と同じ瞳の色をした従者、氷室がそこに佇んでいた。
「氷室、貴方…生きて…?」
絶望的な状況に違いはなかった。
人気のない山道。崖沿いの森から
突如として襲い掛かってきた賊。彼が手綱を握っていた牛車の牡牛は早々に賊により仕留められた。金品を目当てに、自らの私腹を肥やすためだけに他人を容易に傷つける。
絶命を知らせる牛の悲鳴に、背を押され屋形から雪那を追い出した、途端横転した牛車により下半身を潰されてしまった、幼い、幼かったあの下女は、
「うた?」
恐らく、初めて口にした。
一々下女の名前など覚えなくて良いと、その昔乳母に教わったものだ。
しかし雪那は覚えていた。
まだ屋敷に来て一年にも満たない、あの乳母の孫娘にあたる、下女うたの名前を。
「氷室、うた、うたは?うたは無事なの?」
雪那は繰り返す。たとえ覚えていようとも、それで間違いがないかを確かめるように。覚えたての言葉を繰り返す子供のように、何度も何度も下女の名前を口にする。
「教えて、うたは?ねぇ、うたはどこにいるの?答えて、お願い氷室、うたは生きてると、無事だと、そう言って?」
何を、してやれただろうか。
うたに雪那は何もしてやれなかった。
いつも言葉を飲み込むばかりで、まともに口を利いたことさえ数える程度しかない。
うたはいつも持ち前の笑顔でただにこにこと、愚痴一つ表情一つ歪めずに雪那の世話を焼いた。亡き祖母に負けないようにとお付きの下女としてずっと背伸びをしていた。
それなのに、
『“色”を持たない貴女に、私の何が分かるんですか?』
小さな唇を一度だけ、噛み締めていた。
しかし、直ぐに言葉にすることさえ難しいような表情を浮かべて、こう返してきたのだ。
『雪那様、雪那様。うたはですね、うたはお祖母様から、産まれた頃からずっと雪那様のお話を聞かされて育ちました。ですから雪那様が知らなくても、うたはきっと、きっとこのお屋敷の中で一番、いっちばんに雪那様の事を知っているのですよ。本当です。嘘じゃありません。ですからどうか、どうかうたを怖がらないでくださいな。うたは、…』
『うたはいつまでも、雪那様の味方ですから。』
「うたはどこにいるのよっ!」
従者は口つむいだままだ。
雪那は徐々に力が抜けていく、そんな体の違和感にさえ気づく余裕もなく無理やり立ち上がる。しかし歪む視界が、おぼつかなくなる足元が、体の内側から何かが這いずり回るような不快感が、襲う。
それでも手を伸ばす。手を伸ばし、従者の胸倉を非力ながらも強く、強く掴んだ。
「答えてよっ!!!!」
一緒にいる内に気性の荒さでも移ってしまったのだろうか。大声を張り上げつつも、どこか冷静に雪那は感じてしまう。
こんなにも、こんなにも大きな声を出したのはきっと産まれてこの方初めてだろう。少なくともそんな記憶はない。
声を張り上げるというのは、喉を傷めるのだと知る。普段からよく声を張り上げる事の多い弥代はいつもこんな思いをしているのかと、彼の喉を気遣う。こんな痛み。違う、これは痛み?痛みとはまた違うなんだこれは。これはそうなんともいえない不快感が体中に重く圧し掛かるような、そんな、力が全く入らなくなる。
膝が落ちた。
ぐにゃりと原型をとどめられないほどにまで歪んだ世界、それでも雪那はその手だけは離せなかった。
「おし、ぇよ、…ねぇ、うぁ、うたぁ、いきぇ……」
冷たい。
冷たい土の感触に弥代は目を覚ました。
違う。正確にはぼんやりとしか思い出せない夢の中、誰にか何かを言われた気がしたのだ。
そのたった一言に意識が浮上した。
ずりっ、と床に額をこすり付ける。
投げつけた罠を額に食らった時の痛みがまだ残るわけではないが、どこかひんやりとしていて気持ちがいい。
体を起こそうとして、違和感に気付く。
手が動かない。後ろ手を何か、金具の嵌め込まれた木板らしきもので拘束されているらしい。意識を失っている間に無理やり腕を回されたのだろうか、若干骨が軋み痛みが走る。
「俺がこんな目に合う理由が、どこにあるってんだよ…。」
自分の声が辺りに響く。
視線を持ち上げればその場所はまるで牢屋のような空間だ。岩を長年かけて削りだして作り出されたような空間が広がっている。先には格子のように隙間の存在する同じような岩柱が立ち並ぶ。
まるで罪人がしょっぴかれる前にぶちこまれるような場所だ。間違いないだろう。
片膝を立てて、前傾姿勢のまま体を起こす。
四方を見渡せば、左右後方を石壁に囲まれている。この空間自体を照らすのは、岩柱の向こうから微かに覗く光のみで、他に頼りになるものは見当たらない。
腕の自由が利かないまま、前屈みの姿勢を保ちながら数歩歩み出る。と、数歩歩いた所で弥代は自分の草履がないことに気付いた。
先は額を冷やしてくれた土床は、意識がはっきりと覚醒しきった今では気持ちいいなんてものではなく、つま先から温もりを奪うような冷たさを味あわせてくる。露骨なまでの足裏からの冷えに思わず片足立ちになるも、腕も使えぬままよろめいてしまう。
(ご丁寧なこった。おかげでくそみてぇに冷てぇのがよく分かんぜ。)
柱の間の隙間は狭く、どう見ても自分の体を捻じ込んでもつっかえてしまい惨めな姿を晒す結末しか見えやしない。
捻じ込むことはしなくとも、試しに額を少しだけ勢いをつけてぶつけてみる。
勿論痛くない程度にだ。石頭なんて言葉があるが本当に石に頭をぶつけて一切痛くないなんてことはない。しかし痛くない程度にぶつけたつもりだったが、思いのほか硬い柱は、痛みはなくともやはり冷たさを弥代はお見舞された。そのあまりの冷たさに思わず跳ねてしまう。
「んだよっ!?ちょっと意識失ってるって思ったら季節でも一巡しちまったのかおいっ!?!?」
足裏を含めすっかり冷えだしてしまった体を、これ以上冷やさないように身を小さく縮めていると、微かに布摺れの音が弥代には届く。
格子外から漏れる光源がほのかに揺れるのをその眼は捉えた。
「誰だ…」
腕が使えない状況で背後を取られるのはまずいと、擦り足で後退をする。ひんやりとした岩肌は平坦ではなく意外と凹凸が多い。ぴったり隙間をなくすまではいかずとも背をくっつけた頃、光源を揺らすその存在は、はっきりと姿を見せた。
長く重たい前髪が特徴的な、自分と同じ"色持ち"の男。
名は確か…
「隈野郎じゃねえか…?」
男の姿を捉えた、認識した瞬間。弥代は勢いよく背後の壁を離れ、一切その速度を緩めることなく格子にぶつかる。当然ビクともしない。
しかし突然の弥代の行動に驚きを隠せなかったようで、一歩だけ男は後退する。
「びびってんのかよくそ野郎がっ!!」
足裏で器用にも格子を鷲掴み重力を感じさせないような格好のままそう吼える弥代。しかし重力がなくなるわけはなく、暫くするとそのまま土床に戻されてしまう。
「馬鹿なことをする。痛いに決まってるだろうに。」
「痛ぇのは百も承知だ!畜生がっ!」
いくら吼えたところで男は気に止める様子はない。
しかし吼えでもしておかないと、この圧倒的に不利な状況で他に何が出来るものと、弥代は思うのだ。
また距離を置くように壁際に近づけば、岩柱の隅箇所で男が腰を下ろした。
「何も取って食おうとはしない。言っただろう。傷つける気はないと。自分から傷ついてどうするんだ。」
先の川原とは違い、よく言葉を漏らす男に強まるのは警戒心だけだ。あの態度そのものがこちらの油断を誘うための芝居と思えてしまう。こちらは今武器になる刀がない。その刀を握る手も後ろ手で腕ごと拘束され、更に言うのならば名ばかりの薄っぺらい草履さえ奪われてしまっているのだ。これが最悪な状況以外になんと言い表そうか。
空間の隅には削ってできたであろう岩の間に等間隔で形の整った出入口があった。微かな光源では隅まで上手く見ることが出来ず気付けなかった。しかし分かった今何が出来るだろう。あろうことか男は、鍵らしきものでその格子を開き、弥代のいる空間に足を踏み入れた。
恐る恐る、詰まる距離に弥代が背を逸らす。
しかし男は気に止めることもなく、一歩、また一歩と弥代に歩み寄る。
あとほんの少し足を進めれば体が触れ合ってしまう。
近付くいてくる体は服越しであってもしっかりと温もりがあるのだろう、どこか温かささえ感じる。
男が、手を伸ばす。
思わず反射的に目を瞑る。
「あった。」
急所である顔を狙われぬように、背けるように弥代は体を捩った。
てっきり一発殴られるものかと身構えた弥代だったが一向に痛みは訪れない。
恐る恐る、瞑った目を開くと男が伸ばした手は弥代を殴ることはなく、後頭部で結わう赤い髪紐の淵を摘んでいた。
「意識がある時にこうして確認をしたかったんだ。でも、そうか、そうなんだな。」
雪那は目を覚ます。
今まで、嫌という程見てきた高い天井が広がるのに目を覆った。
浮かばない涙に落胆する。
存外、いざ現実をこうして直視してしまうと、あんなにも帰りたくないと駄々を捏ねていた、歳を重ねただけの自分の子供っぽさが残るだけだった。
(嫌になるわ。)
出来るなら二度と見たくなかった天井から視線を逸らし、気怠さの残る体をゆっくりと起こす。
ぽつんと、十二畳程の私室には、布団から這い上がったばかりの雪那しかいない。
部屋の中を見渡せば、一月前に屋敷を出る直前まで読んでいた書物が広がったままだ。陽の差し込む壁からは真反対の壁際のまま。読みかけの書物を勝手に片付けたのは彼女ぐらいだと、雪那は思い出す。
幼少期から世話係を買って出てくれていた乳母は暗い場所で文字を読まないでくださいとよく叱られたものだ。懐かしい。
そんな乳母ももういない。
乳母が息を引き取ったのは一つ前の夏だった。いつも通り身の回りの世話をしてくれていた最中、突然倒れてしまったのだ。雪那はどうすることも出来ず、訪れる人が限られているこの離れで声を枯らした。
『誰か、ねぇ誰かいないの?!誰か、誰か来て、葵が葵が動かないのっ!誰か、誰でもいいから、誰か来てよ!』
突然の、よく知る仲の相手が意識を失い、体をどれだけ揺さぶっても一切反応を見せない様に腰を抜かしてしまった。
這いずるように。しかし倒れた乳母から目を離せないまま、雪那は暫くの間か細い声を上げ続けた。
半刻程が経った頃、従者である氷室が離れに戻ってきた。叫び続け喉を抑える、泣きじゃくる主人と、長年同じ環境で肩を並べてきた同僚が力なく横たわる様には流石の彼も取り乱した。すぐ様乳母を背負い本堂への長い廊下を駆ける。
本堂には当主である扇堂杷勿自身が高齢ということもあり、専属の医師が住込みでいた。
本堂まで自力で雪那が辿り着いたのは、それから一刻程経ってからだった。
ようやっとどんな状況かを確認できると安堵したのも束の間。屋敷の警護、門番の装いをした男に背負われた乳母が、屋敷から出ていく光景を雪那は目の当たりにした。
『最期は数少ない家族と共に過ごしたいと。彼女の意思です。』
氷室の言葉を雪那が理解したのは、三日後の乳母・葵の訃報であった。
その後たった一人の身内を失った乳母の孫にあたる、うたという年端もいかぬ少女が屋敷にやってきた。祖母に変わり雪那のお付の下女として住込みで働くことになったのはまだ記憶に新しい。
(うた?)
体が大きく揺れる。
(うたは、うたはどこにいるの?うたっ、うたは…?)
唇が震える。
「……探さなくちゃ」
力の入らない体に鞭を打つように、無理やりに雪那は起き上がった。
「名前を、教えてくれないか。」
拍子抜け、手の平返しという言葉がよく合いそうな光景だ。
いや、実際の所男が自分に対して敵意を向けたことは顔を合わせて以降おそらくは一度もないのだろう。どちらかというのなら敵意を剥き出しにしているのは自分の方だ。勘違い、であったのかもしれないと、弥代は今になって気付く。その声色の柔らかい事。それまで通り一切覇気を感じさせない喋り方をするのに、語尾がどこか優しい。そうなれば態度や口振りは傍から見たらどう考えても自分に非があっただろう。が、謝ることはない。
これらは全て自衛のためであり、頼る大人も仲間もいない自分が生きるためにはなにも悪くない筈なのだから。
「なんでお前に名乗らなきゃいけねぇんだよ。」
「名前を、知りたいからだ。」
「知りもしねぇ奴に名乗りたくなんかねぇよ。」
「…?名乗っただろう。」
「あっ?」
男は主張する。
弥代は男の態度にも徐々に慣れ出していた。というよりは慣れつつあった。自分に対して敵意がないのだと知れてしまえば、どんな態度でもそこまで気にすることはない。
寧ろこうして面と向かって一対一で話している、誰の邪魔も入らないようなこの空間の方が落ち着けるものだ。
「名乗ってたか?」
「傷付く。そんな事は言わないでくれ。」
男は改めて名乗る。
「春原千方だ。」
「春原?春原ってーのかお前。」
男、春原の視線が弥代の足元に行く。
「ここは冷たいだろう。良かったらこれを羽織ってくれ。」
「ん!?おっ??おぅ…??」
それは間違いなく厚意だろう。が、敵意はないとも初対面も当然のような相手にいきなり自分が羽織っていた羽織をを貸すなどどういった了見か。腕が使えない弥代の肩にかけてやる。
見るからに大きすぎる羽織にどう上手く反応を返したらいいものか、戸惑ってしまう。
ここ一月の間は雪那と接していたが、その中でも妙な厚意に何度か晒されることがあったが、まともな対応を返せたことは一度もない。
敵意はないことは分かったもののまさかこんなにも丁寧に、優しくに扱われるとは本当にどういうことなのか。
(こいつが俺をここに閉じ込めたわけじゃねぇのか?)
そして感じるこの奇妙なぐらいの馴れ馴れしさ。
さながら久しぶりに再会した顔なじみに対する接し方のような違和感。
「どっかで会ったことでもあるか?」
男、春原は相変わらず重たい前髪が目元を隠してしまっている為表情が分かりづらいということは全くないぐらいに、ひしゃげた口元が寧ろ分かりやすいぐらいまでに答えを弥代に教えていた。
「ない。」
「嘘が下手って言われたことねぇか?」
でかい図体の肩を張らせ、居心地が悪そうに目線を逸らす様を横目に溜息を洩らしながら弥代は肩を動かす。
掛けられた羽織を土床に落とした。それを足の指先で器用にも1度広げ厚みを持たせるように三つ折りにするもそこに腰を下ろした。
勿論羽織りの持ち主である男に一切許可は取らず、だ。
後ろ手で自由の効かない体ではただ立っているだけでも、体勢を維持するのに疲れるのだ。
「まぁ、お前も立ってねぇで座ったら?」
「俺の羽織………」
目元が伺えずとも、声色はよく耳を澄ませばとても物語る男だという事が分かった。
長い廊下だ。
私室の襖を開けた先には人っ子一人いない廊下が広がっている。山から流れ込む冷気が年中屋敷の敷地内に留まる。夜半の屋敷内など好き好んで出歩くものなどいやしない。雪那は壁に手を付きながら、ゆっくりゆっくりと歩を進める。
ギシギシと廊下の床板が時折鳴る。
この離れは雪那が五つの時に建てられたものだ。
以降一度たりとも修繕が行われたことがない為、本堂よりも見た目は新しいものの、造りは所々脆くなり始めている。
小さい頃は幼馴染の二人の少年らとこの廊下でよく鬼ごっこをしたものだ。勢いよく走って転ぶ度に乳母に拾い上げられ、三人揃って横並びになって叱られたものだ。
一人。
こうして一人で部屋から出てみると色々と思い出すことが多い。
先日命を引き取った三ツ江と出会ったのも離れの前に広がる広い庭だ。
かつてもここに山沿いの中庭のように季節の都度彩りの豊かな花々が植えられていたのだ。
離れに必要以上に人が近付くことを、あの事故以来怖くなってしまった。
今では花ひとつ咲かない、砂利しかない灰色塗れの色味のない庭だ。
「うた、うた…ぁ」
履く物などひとつもない。
雪那はその中庭にまるで飛び降りるように足を降ろす。
「お願い、出てきて!隠れてないで出てきてよ…」
幼い頃、それこそこの離れが出来て間もない頃の事。
今の様、いや今とは違う。少しだけ似ている。何かを追うように庭に考え無しに降りたことがあった。
足の裏に刺さった尖った砂利一つに、痛みに我慢できずに泣いてしまった。
今も泣きたい程に痛い。
あの頃よりも大きくなった、でも厚くなった皮膚が自重で食い込む。痛い。痛い。
「うた、お願い出てきて。かくれんぼなんて今しなくてもいいじゃないの。夜も遅いわ。寒いでしょう。私の布団で寝ましょう。貴女は小さいからきっとすっぽりと布団に入れてしまうわ。ねぇ、うた、うた。」
雪那は譫言のように小さく、しかし途切れさせることなく呟く。
私ね、私、貴女の下手くそな、私を元気づけようとするあの笑顔が、もう一度みたいの。
ねぇ、お願いようた。お願い。お願いだから出てきて。私貴女にまだ何もしてやれてないわ。
貴女が必死に頑張って仕事を覚えようとしてること、冷たくて絞りたくもない雑巾がけをいつも我慢してたこと、私の着替えを手伝う時に間違えて何度か抱きついてこようとしてきたこと、氷室に字の読み書きを教わっていたことも。眠たい眼を擦って自分の頬を抓ってまで私を起こしに来てくれたこと。全部、全部、全部っ、全部知っていたの!
でもたった一人の肉親であった貴女のお祖母様、葵の時間を奪い続けてきたこの私が、私が、貴女に、なんと声を掛ければよかったの?何度も、何度も声を掛けようとしたわ。でもね、でもね、でも貴女にすら拒絶されることが、私、私怖かったのよ。
味方だって、誰よりも私を好きでいてくれると言ってくれた貴女が!貴女にすら嫌われたら、私、私怖くてっ!色を持たない、私よりも幼い貴女すら、私は怖くて堪らなかった!
いくら叫ぼうとも、いくらその名前を呼ぼうとも、どこにも彼女の姿はない。
分かっていた。
牛車に下半身を押しつぶされたうたが、自分に微笑んだあの瞬間、もう手遅れだと雪那は嫌というほど理解していた。
「………………嫌よ。」
これは本心だ。
「もう、嫌だ…」
ずっとずっと言葉にする事にさえ怯えていた。
「やだ、やだよぉ…」
それが自分の本心なのかすらも確証がない、そんな言葉を吐き出してしまって本当にいいものかと。
「いやだ、もうやめて…っ、やめてよぉ…」
嗚咽混じりに漏れ出る声がその言葉を口にするまで後もう少し。
少しだけ、ほんの少しだけ。
羨ましいなと、いいな、そう思ってしまったの。
不謹慎ね。なんて心のないことを思ってしまったのかと、思い描いた直後には考えることを止めたわ。
でもね、でも本当に。本当に少しだけね、羨ましかったの。
あんなにも、あんなにも背負ってたものから全て開放されたような、穏やかな表情をした三ツ江様が私は。
私もそうなりたいと思ってしまったの。
私、私は、私はね、疲れたの。
「…………たい」
それは、三ツ江の死に直面した時にやっと形を為した。
「わたし、わたしは………っ!」
「死にたい」
初めて口にした。
言葉にした途端、息が詰まった。
まるで何かに喉を締め付けられるような、そんな感覚に襲われる。首元に手を伸ばせば、視界には何も映らないのに、真っ暗な空しか見えない筈の虚空に、何か腕のようなものが自分の首を絞めている。腕、らしきものに触れた。
本能からだろう、抵抗をするように、息苦しさから爪を立てたが、視界が徐々に狭まっていく感覚を、甘んじて受け入れようとしている自分がいることに雪那は驚くことは無かった。
昔から何故だろうか。
探し物をしたりしていると、勝手に探していたものが目の前に転がってくることがあったの。
お腹が空いたと言えば、どこからともなく毎度毎度同じお饅頭が転がってきたり、投げられたり。
手が届かないからと諦めかけた本は、目を覚ませば枕元に置いてあったり。
そう、きっとあなたなのね。
名前も顔も知らない、姿を見せてくれないあなたでしょう。
私のお願いを、あなたはいつも叶えてくれたものね。
私が死にたいと、そう願ったからそうしてくれるのね。
優しい優しい誰かさん。あぁねぇでもね、でもね。私思い出してしまったの。一つだけ心残りがあるの。
あのね、私まだあの人にちゃんとお礼を言えてないのよね。そうあの人、いえあの子の、名前はね…。
「弥代、さん」
雪那は目を覚ます。
今までの記憶が全て夢だったとでもいうかのように、また自分の私室の敷布団の上で目を覚ました。
見慣れた天井が、ずきずきと痛む頭がこれが現実だと、そう雪那に教えてくる。
何故、何故あんな夢を見てしまったのだろう。おぞましい。何故私は夢の中で死にたいなどと口にしてしまったのか。
夢というのは心の奥底で願っている、望んでいるものを見せることがあるというが、あれは本当に自分が望んでいるものなのだろうか。そんな事を考えながら、首元に触れる。
しかしそこには、何があるでもなく。
雪那はここが過ごし慣れた私室であると分かった途端に、夢の最後のように弥代の事を思い出した。
ここが榊扇の里であるのだとしたら、自分たちが先までいたはずの小仏の森からかなりの距離があると弥代が言っていた。
『里から吉野まで向かう際は甲州街道とは別の道を使ったので、もし家の奴らが探しに来ても進行方向と違ぇから焦ることねぇよ。』そう言っていたのは弥代だ。
何も文句を言いたい訳では無いが、だとしたら、そうなのだとしたらあれからどれだけの時間が過ぎたというのだろうか。
「弥代さん?」
雪那は慌てて布団から立ち上がろうとする。しかし体が何故か痺れてしまい思い通りに動かない。だからなんだというのだ。まだ自分が何もしたいかもはっきりと答えを見つけられていない。またこのままこんな部屋で、これまで通り隠れ続けると、閉じこもるというのか。雪那はそれだけは嫌だった。
だから這い蹲ってでもまずはせめてこの部屋から出てやると、そう畳に指を突き立てたその時だった。
「無理をなさらないでください。」
聞き覚えのある声に顔を持ち上げる。
そこには見慣れた従者、氷室の姿があった。
「肩をお貸しいたします。さぁどうぞ体をこちらへ。本堂にて、杷勿様がお待ちでございます。」




