七話
どうせなら、と少しだけ期待してしまった自分がいたことに実のところ嫌気が差してしまった。言ってもしょうがない、言ったところでどうともならないことだと分かっている為に誰に言うわけでもないのだが、
『東の、』
こんな些細 (ではないかもしれないが)な事で思い出してしまうあたりが何とも女々しい。否、女であるのだから別に多少女々しくたって良いじゃないかという考えがないわけでもないのだがやはり落とし所の難しい話だ。故に、腑に落ちない。
何の説明もなしに笑いながら去っていった彼女は勿論のこと。現状の自身を含めてのこれは、腑に落ちない、なのだ。
だから、まぁ、こんな時は八つ当たりではないが一つ、余計な事を考える余裕がない状況下に放り出された方が助かることもあったりする。
「構えを知らないわけではないでしょう?」
投げ掛けられた問いになんと返したものか。普段鞘から出すこともなく振るうばかりの刀の、その持ち手とは随分と握り心地の違うそれを緩く、肩に担ぐ。
「そういうの生憎と、俺は知らねぇもんだからさ。お手柔らかに頼むよ氷室さん。」
どの口が言うのか。つい一ヶ月前に教わったばかりのものを知らぬ素振りを見せた。そちらの方がきっと手厳しく指導を受けられるに違いないと思ったからだ。
「……そうですか。」
他に類を見ない、色褪せたその髪が揺れる。
聞かされたことのある歳の割に老いを感じさせる風貌をした男のその目つきが鋭いものへと変わった。
先までの正眼の構えとは異なる、以前の稽古で討伐屋の主人と手合わせをしていた際に見せた構えだ。
「では、覚えられるまでお付き合いいたしましょう。」
「勘弁願いたいもんだぜ、本当にさ。」
雨音が、強くなった気がした。
鬼ノ目 五十七話
一つずつ順を追う。
髪を整え終えてすぐに伽々里は今晩泊めてくれと切り出した。
思い返してみると、ただ髪を切るだけにしては随分と長く感じた。切り揃えるためだけに一々頭を丸々濡らす必要もなかったろう事から、恐らくはこの時既に染められた後だったのだろう。
断る言葉が浮かぶ前に二つ返事で受け入れれば、手早く広げていた道具をまとめ、薬しか入っていないと思っていた霧箱にしまい込んだ。
長屋の屋根が連ねる軒下は多少涼しかったが、暑い場所は好かないからと部屋へと押し込まれてしまった。
戸を開けたってちょっと風が舞い込んでくるだけで、それなら外にいた方が幾分か涼しいのにと不満を漏らしていると昨年よりも早くところてん売りの売り声が聞こえてきた。
家主に代わり顔を外に覗かせ、水場の空いた器に二人分で二本を注文し、金も渡してないのに当たり前のように差し出された。
『御礼です。』
髪を整えた際の気疲れはまだ抜けきっていなかった。その場で一緒にいただくのではなく少し横になって、それから目を覚ましてから少々温くなったそれをかっ食らった。空になった器はすぐさま彼女に下げられ、そうしてあまりにも自然に人様の家の水場に立ち、夕餉の支度を始めていたのだ。
余談だが。居候の、最近は家を留守にしがちの彼女もよく勝手に台所に立つことはあったが、その後姿はよく揺れたものだ。自分と然程変わらない小柄な体であれこれと手を伸ばして食事の準備をする、討伐屋の薬師のそのスッと伸びた背とはまるで違う。
そうして坦々と響く、野菜を切る一定の音に深い眠気を誘われた。さっきまで横になっていたのにそんな直ぐに眠れるものかと思う間もなく、いっそ不自然なぐらいに強い眩みを覚えて、気付けば朝だったのだ。
そこまで考えて、やっと弥代は一つの答えに至った。
(盛られたのかもな、あれは。)
真相は時に分からない方がいいこともある。何事も詳らかにしようというわけではないので弥代は考えるのをそこで一旦やめた。
暫くすれば勝手に落ちるとしか告げずにあの場を後にした、重たい薬箱を片手に持ち軽い足取りの、その姿はあまりにも清々しかったからだ。
何にしても昨日の早朝から感じていた彼女の苛立ちにも似た雰囲気はもう感じられなくなっていて、ただの憂さ晴らしに振り回されるだけで一日を棒に振ったのだろうということだけは分かった。
もしくは端から髪を染める、それだけの口実だった可能性だってありうるだろうが、やはりこれ以上を考えるのは愚策としか思えない。
「集中なさい。」
眼前に突き出された剣先はその勢いからは想像も付かぬ程、まるで凪ぐように横に滑る。そしてほんの一時忘れていた勢いを途端思い出したかのような速度で素早く弥代の頬を掠めた。
器用な真似を、息一つ乱さずに静かに繰り出す相手はやはり手練れに違いなく。その緩急の入れ替わり立ち替わりは相変わらず易々と目が慣れることはない。集中を促されたところでまた寸でのところでその剣先から逃れる為に避けるので精一杯だろう。長年一人で生き抜いてきた、刀は抜かずとも場数を経験してきた弥代だからこそ多少意識を逸らしながらでも気付けただけの話。
そしてそれは壁沿いでそれを静観していた相良にもよく理解できた。
(流石、榊扇の里随一とうたわれる武人だ。歳を重ねて尚衰えることのない鋭い太刀筋。剣術だけでなく武術にも心得があるのだとお聞きしたことはありましたがこれほどまでに腕が立つとは…。)
その立ち居振る舞いは当然一朝一夕で身につくものではない。神仏・水虎の加護の元安寧が約束されているといって過言ではないこの平和な里にいて、どうすればそうまで極める事が出来るのかは甚だ疑問でしかないが。
実のところ、相良は氷室に直接会うよりも以前から彼の事を知らされていた。二十年ほど昔、祖父が彼の刀を打ち直したその話を聞かされたからではない。自身が十五、六の頃の話。かの一族に一時期身をおいていた際に耳にしたのだ。扇の里の脅威の一つ、として。
「いやぁー、それにしても鮮やかなものですねぇ氷室様の太刀筋は!かれこれ結構続いていますけど休む間も無く、息一つ乱しちゃいないんですもん、御人だ!」
傍らで同じように正座をし稽古を見ていた下り眉の特徴的な彼がふと口を開いた。
普段のどことなく情けない声が上ずりやや興奮気味なのが見てとれる、二月程前から件の平塚宿近郊の協力者である鶴見亭で世話役を主人から任されている青年・鶴見八勝である。
そんな彼が今ここにいるのは、先月から始まった打ち稽古に関して、会話の弾みについ相良が口を滑らせてしまった結果だ。どうやら彼はこの稽古の発案者である男・氷室に対し強い尊敬の念を抱いているようだ。
数えで十七になるという彼は、歳だけを見れば立派な大人であるというのにまだ家業は継いでおらず一人前には程遠い修行中の身なのだという。
歳若い若者が腕の立つ者を前に目を輝かせ腰を浮かせと、興奮気味に言葉を並べる姿はどこか、いつぞやの拾いたての小狼の連想させ。そういえば傍らの彼と屋敷の門番を務める青年はそんな若輩者と顔を合わせればここのところ仲良さげに言葉を交わしている様子を何度か目にする機会があった。
十五を過ぎてこうも陽気に過ごす若者が多いのは、結して数は少なくないが他を知り目の当たりにすることの多かった相良の中でも、この榊扇の里を除いて他にはなかったように記憶している。やはりそれだけこの里というものは平和ということだろう。
だからこそ何故にこのような稽古が行われるのかが相良には分からない。納得のいく答えが未だ見つからない。
「八勝さんは本当に氷室殿を慕われているのですね。もう手合わせはされたのですか?」
「て、手合わせー⁉︎とっとんでもない!自分なんかが氷室様に御相手してもらうなんてそ、そんなこと…だっ…第一、刀に関しちゃてんで腕がないもんで。足の速さと身軽さぐらいしか取り柄と呼べるものはありゃしませんよ…。」
「おや…それは残念ですね。」
先の興奮気味の発言は誰に振るでもない感想だったのだろうか。間をもたせるように特に深い意味はなく掛けた言葉に、かえってきた返事は普段よく耳にする吃ったそれだった。
頭を掻く、眉尻とひしゃげたように吊り上がった不恰好な口端がくっついてしまいそうなほど歪む。虚勢ではなく本心から出た言葉だろう。鶴見亭でもよく店主に怒鳴られていたのを知っている。気弱そうなそれは生まれついてのものか、生まれ育った環境によるものか、難儀なものだ。
「ところで、話は変わるのですか相良さん。」
と、渇いた笑いを漏らしていたその口が、暫くせずとも静かになる。
「先日の件ですが。あれっきり、あちらは打ち止めとなりましたのでどうぞお忘れください。」
「先日の件ですが。あれっきり、あちらは打ち止めとなりましたのでどうぞお忘れください。」
今や討伐屋と鶴見屋の、特に東海道の平塚宿に店を構える鶴見亭とは、顔を知る限りの仲ではないと相良は考えていた。
表立って鶴見が活躍を残すことはないものの、長い間この榊扇の里を納めてきた扇堂家と代々繋がりがあり、その腕をこの里の繁栄に費やしてきたことだろう。それは屋敷の者とのやりとりを幾度か目にしていたからこそ思ったことだが、そこに新しく、直々に大主から誘いを受けこの里へと迎え入れられた討伐屋も、道のりは長くとも協力関係を結ぶことが出来る、細くとも繋がりを得ることが出来るのではないか、と。そう、考えていたのだ。
件に関してもこれまで半年近く屋敷とは密に言葉を交わし、この三月程に至ってはなんなら討伐屋で過ごす時間と、鶴見の者と過ごす時間はほとんど等しかったからこそ、まさかそのような言葉を投げかけられるとは思っていなかった。いや、思い至らなかったわけではない。
己らの功績として掲げることはなく、正確には屋敷の手柄にもしない。あくまで水面化で事態をこれまでも扇堂家と鶴見一門は手回しをしてきた筈だ。
できるだけ大事にせず、関わりのない民が何も知らぬ間に根回しをし、あたかも当人たちが解決に導いたかのように見せてきた。一回の失敗が後に齎しかねない影響を加味すればあっさり切り捨てられたとしてもなんらおかしくはない話だろう。一万にも及ぶ民が暮らす里において、少数の情はなんとも意味を持たない。
ただ、あまりにも発せられたその台詞が無感動で驚かされただけで…。
「…よろしいのですか、このような場でそのような話をされて。何も知らぬ方が一人、混じっていますよ。」
「雨足も強くなってますしこんな小さな話声聞こえやしませんよ。何より氷室様相手で息切らしてるんですから頭に入る余裕があるとは到底思えません。」
それまで合わせてた目線を断ち切り、後引くものなく互いに前を向く。今も尚二人の打ち合いは続いていた。
形勢は一目見れば言うまでもなく分かりきったこと。本刀ではなく竹刀だからこそ強く打たれればそこは色濃く目立つ。晒された肌の至る所に似たような模様を拵える彼女は、どうやらいつの間やら最近新調したばかりと自慢気に見せびらかしていた羽織を脱いでいた。対岸の壁際に適当に投げでもしたのだろうか。クシャクシャになって落ちている。
「大方の、目星は元々ついていましたから。相良さん御自身もある程度の予測は立てていた筈です。ですから後は屋敷の方でどうにかする、と。これまでどおり穏便に波風を立ることなく運ぶとの事です。そう、伝えるように祖父より承って参りました。面識がある相手からの言葉の方が受け止めていただけるでしょう?」
普段の、気弱そうな彼はどこへ隠れてしまったのだろう。
そうではない。彼もまた鶴見の将来を担う青年に他ならなかっただけだ。
勝手に知った気になっていた自分に気付けば、相良は少々目線を落とした。やはりどこの地も同じ。多少この里は他に較べ緩やかであるだけか、と。
「報酬に関しては、完遂までは至りませんでしたがこれ迄の働きに応じた、相応の分はいただけるそうですし、お気になさらないで下さい。」
「えぇ…、はい、」
急に、虚しさに襲われる。
「事情はお聞きしています。未来ある若い子を庇おうとした、って。立派じゃありませんか。胸、張ってくださいよ。」
「………ありがとう、ございます。」
思ってもない、心の篭ってなどない礼をもらす。
俯いた、視線を落とした先の袴に、深い皺を刻む。
昨晩結局帰ってくることのなかった彼女の姿を脳裏に思い浮かべて、酷い皺を残そうものなら叱られてしまいそうだと、余計な事を考えて、そうして相良はその場で口を閉ざした。
このところの稽古であれば前もって腹を空かせるだろうと気を利かせた薬師より、討伐屋を出る際に弁当を持たされるものが多かったものだが今日はそれがない。
先日の怪我がまだ治っていないために見学を自ら申し出た、結局動かずじまいの相良は腹は空いていないからとその場に残し、昼時にしては少々遅い、どちらかと言えば茶の出てきそうな頃合い。体格のそこそこ恵まれた男が三人並ぶようにして、屋敷の厨房脇の暖簾を潜り、中から出てきた。
屋敷の昼餉の残飯にあありつけるかもしれないという戸鞠の発言頼りに道場を抜け、正門から堂々と入った三人は無事腹を満たすこと成功できたようだ。
日暮れまで続くであろう残りの稽古に気を引き締めようとした戻り道、肩を並べてこちらへとゆっくり向かってくる二人組の、その顔をよく知っている館林は声を掛けた。
「こいつぁ、和馬の坊ちゃんに雪那お嬢様じゃありやせんけぇ?雨の中どちらまで向かわれるんですけぇ?」
男三人、館林・芳賀・春原と並べばしっかりせねばならないのは年長者のこの男だ。
相良と共にいる時は自分の方が生まれた季節が早いからと(そのくせ背は相良の方が低い)胸を張って年上面をされる。同じ釜の飯で世話になったばかりの頃はそんな彼の振る舞いがなんとも癪に障ったものだが、それも年々次第に薄れ、今では自分が年長者である場においては何かをせねばなるまいという考え方が自然と身についてしまった結果だ。
元より滅多なことがない限り自ら口を開こうとしない春原に、このところの一連の出来事で反抗期真っ盛りの芳賀はそっぽを向いてとなれば、館林にその意志がなくとも自然とその役割は彼にまわってきたことだろうが。
「館林さんに千方君、黒君やないですか?お揃いでどうされたんです?ワイ等はこれから道場のほうに……あっ、そういや氷室さま言うては、弥代ちゃんだけやなくて討伐屋もって。」
随分と仲が良いのだろう。幼馴染であるというのはいつだったか耳にした覚えはあるが、歳の近い若い男女が恥ずかしがることもなく一本、同じ傘に収まり肩を並べる。片やそれはこの里一の美女と囁かれる扇堂家のお嬢様ときたものだ。
たとえ下心がなくとも、張りのある質のいい着物のその上からでも分かる程の立派なものは健康的な男であれば見ようとせずとも目がいくだろうに。彼の年齢を考えればそれで鼻の下を伸ばしていてもなんらおかしくはないだろうに、彼は平然としている。健全な若者であれば抱えていてもおかしくない下心を微塵も滲ませることなくあまりにも堂々と…。
雪那のことを美しいとは思っているものの、自分の範疇ではないためにそんな失礼な事を館林が考えているなどこの場にいる誰もが分かるはずがない。
付き合いの長い相良がいれば何か失礼なことを考えているでしょう貴方っ!などと声を張らしながら背中を叩かれたことだろうが。考えてそれを表に出さないのであれば何を考えてもいいわけでは決してないのだが、館林はそんなことを考えながら二人を見ていた。たとえばここで仮に大元の雇い主である大主様がいたとしたら即座に考えることそのものを止めたことだろう。
彼は一頻り考えを巡らせてから何事もなかったように口を開いた。
「えぇ、そうです。腹空いてしまいやして昼の残りもん分けてもらったところで、これから戻るところです。」
「で、でしたら!ご一緒してもよろしいですか!」
「へぁ…?」
これはまたとない機会だと、雪那は胸の内で手を叩いた。
討伐屋の主人である春原千方と雪那が出会ったのはかれこれ一年前。弥代と一緒に小仏の森で野宿をしていた際だ。迷子の子どもの面倒を見るかの如く、濡れた頭のままで弥代が連れてきたのだ。
いや、連れてきたというよりはくっ付いてきたというのが正しかったろう。
以降、何度かその独特な雰囲気を纏う姿を里の中で目にすることはあった。
以前に較べ屋敷から外へ出向く頻度も多くなったのだからそれは当たり前の話だが。度々屋敷の方にも、引き受けた依頼の報告に訪れている姿を見ることもあった。が、直接言葉を交わしたことはこれまで一度もなかった。
未だに冬口の、行方の分からなくなってしまった弥代を探してほしいという依頼の礼を伝えることすら出来ていない。
二月ほど前の、今正にこの場にいる討伐屋の芳賀という青年を巻き込む形で怪我を負わせてしまったことに対してだって謝罪ができていないままなのだ。
しかし今こうして、向かう先が同じ場所であるのなら、それは近付き声を掛けることが出来そうな言葉のまま、またとない機会だ。
「――と、そう私はかんがえたのです!」
「ええけど話しとる内に先に進んどるよ?慌てて転けへんようにだけ気を付けてない?」
慌てるも何も雪那は和馬が代わりに差してくれている雨傘に入れてもらっているのだから、そこまで自由に動き回ることはできない。そんなこと傘を持つ自分が一番分かっているはずなのにわざわざ口にしたのは子ども染みた意地悪だ。こんな些細なことをはたして嫉妬であるなどと呼ぶものがはたしているだろうか。下女の戸鞠がこの場にいれば鋭く容赦のない言葉を放ってきただろうが今ここに彼女はいない。討伐屋を厨房に案内した後、手当に使う道具が少なくなったので薬品庫へ取りに行くと言って別れたそうだ。
朝一は雨が降っていなかったためか、一緒に向かおうと雪那が提案したものの十歩ほど先を行く討伐屋の男連中が差す傘は見覚えのあるものだ。自分が雪那の代わりに差すのを足して四本。揃いも揃って皆同じものを差しているなど傍から見れば仲が良いことだろう。
「戸鞠ちゃん大丈夫かなぁ…さっき別れ際なんですけど結構足元覚束なそうで。肩貸しましょうか?って聞いたんですけど要りませんって突き返されちゃったんですよ。」
こちらの足取りが遅いことを気にしたのか、二人の更に数歩後ろをついて行っていた芳賀が後ろ足で距離を詰めてくる。足元の水溜まりを踏まないのはなんとも器用だ。
「和馬くん何か聞いてます?」
「戸鞠ちゃん?いやぁ、今朝も佐脇様の御使いついでにお菓子買ってきてくれて別段普通、やったと思うけどなぁ?」
「和馬さんっ!」
「ん?」
「傘、お借りしてもいいですか?」
「え……えぇ…?」
なぜなんて言われなくても分かる。何故なら先ほど彼女が自信満々に一緒に行こうと提案をした理由を説明してくれたからだ。もう一度聞く必要などない。
春原が何も雪那に対し害がないことを知っているために断る理由がない。害があるのならそもそも彼等を見掛けて自ら声を掛けない。だからここで貸せないと答えるわけにはいかず、渋々ながらも和馬は自分が持っていた傘の柄を優しく雪那に握らせた。
「ホンマ、慌てて転けるんだけは止めてな?」
「はいっ!」
満面の笑みを浮かべ、彼女は少し早歩きで前へと進んだ。
当然和馬は、近くに来ていた芳賀の傘に入る形で雨を避けた。但し幅のある男二人が傘の中で肩を並べるというのは些かというよりはかなり狭く、一部始終を見ていた、自分がきたことで雪那が行動に出たのだとなんとなく察した芳賀は自分の左肩が濡れるのを構わずに、若干肩を落とした和馬を傘の内に収めてやった。
直近で二回転ばぬようにと注意を受けた雪那はしっかり足元に注意して、泥濘んだ泥に足を掬われぬようにと少しずつ、少しずつ前へと距離をつめ、腕を伸ばせば触れられるか触れられないかぐらいのところまでいくと、鼠色の羽織を着た男の名を呼んだ。
「春原さんっ!」
彼女はおそらく初めて自らの意思で彼の名を口にした。
しかし、彼が振り向くことはなかった。
呼び声に彼は振り向くことがなければ、その足取りもまた止まるもないまま。
呼び止めようとした彼女はたった一回しかその名を口にしなかったものの、なんとなく察したのだろうか、再びその場において彼の名を口にすることはなかった。
間も無くして一堂が道場にたどり着いた。
早々に履物を脱いで上がる春原を、先ほどの事があり不思議そうな表情を浮かべて雪那は見ていたが次の瞬間、道場内から聞こえてきた派手な音に意識を持っていかれて関心が一気に逸れた。
「目が覚めましたか?」
長い髪が頬を撫でる。高くから見下ろすように覗き込んでくるのは特徴的な前髪をした知った彼女で、弥代は小さく声を漏らした。
先ほどまでよりも心なしか涼し気な空気を肌に感じる。道場の中にいたはずだが、とあたりをゆっくり見回せばどうやらここは道場の中ではなくソと、そこまで広くはない縁側だったようだ。
古い道場の修繕は当たり前のように中だけではなく外観も行われた。まだ記憶に新しいのは修繕後の床ふきに縁側に面する庭にあたる場所の草むしりに半ば強制で駆り出されたことがあるからだ。
「ふふっ…」
「……何笑ってんだよ。」
頭上から降ってくる少女のような無邪気な笑い声を払い除けるように弥代は身を起こした。
「いえ…すみません。でもその、改めて見てもやっぱりあの…本当に似合わないなって…、」
「おめぇだって黒くしたら絶対に似合わねぇぞ。先に言っといてやるからな?絶対に似合わせねぇぞ?」
「に、二度も言わないでくださ…ふ、ふふふ、あぁ、駄目…おかしい…っ、」
顔を覆いながら肩を揺らす。その内腹を捩って横に倒れてしまいそうだ。腹いせの意味も込めて弥代は服の上から彼女の腹回りの肉を摘んだ。
「ひゃあっ⁉︎」
「変な声。」
「もっもぅ!何するんですか弥代ちゃん!取れちゃったらどうするんですか⁈」
「取れて問題ねぇ肉だろこんな腹回り。戸鞠さんの着付けの手間が減るんじゃねぇのなくなれば?」
「き、着付けには手間のかかるものなんです!私のだから掛かってるわけじゃありませんから!」
「どうだか……まぁ、だとしてもお前そろそろ自分で着付けぐらいできるようになった方がいいぞ。この前の湯上がり、自分で帯締められねぇの隠してたみてぇだけどな、バレバレだったからな恥ずかしいやつ。」
「なっ⁉︎」
当人は隠し通せていると思っていたのだろうがそんなわけがない。
自分から誘った手前、湯上がりに結べない事を思い出したのが恥ずかしかったのか頑なに背を向けようとせず、帯辺りを必死に手で抑える姿が実に滑稽だった。迎えに牛車を呼んで中で和馬にでも直してもらったのだろうか。弥代は少しだけ和馬に同情した。
「いっ、意地の悪いことを言わないでください!」
「事実しか言ってねぇだろ、一々喚くなよ。」
「ええ加減にせぇやっ!君はどんだけ失礼なこと雪那ちゃんにしとるか分かっとんのか⁈」
背後の戸が勢いよく放たれる。怒髪天、怒り心頭といった様子の、ついさっき心の中で同情を送った相手のおでましだ。
「別に…ちょっとからかっただけだろ?」
「度を越しすぎや言うてんねん⁉︎どこ摘んどるんやっ⁉︎摘むな!いつまで摘んどるの離れやっ!」
摘んでいた腕を強く握り締められる。
「冗談の通じねぇ奴だなお前。」
「君は本当に言葉を選べんなぁ⁉︎」
「顔、こっわ…」
「お二人とも…そ、それぐらいに…?」
中々収まらない和馬を窘めようと雪那が手を伸ばすも、その手は意外な人物が間に入ったことでピタリと止まった。
「止めろ。」
そう、春原千方である。
『なーにが、止めろ、だ。いきなり首つっこんできたくせしてよぉ!』
『ごっ、ごめんなぁ千方君。気分悪くさせたかなぁ?』
『ふざけてただけだろこんなもん。何も謝るわけねぇだろ。』
『あっ、ワイは本気やったで?』
『隙あらばお前ってやつはっ‼︎』
本気だったのであれば初めに謝罪するべきは俺に対してだろ⁈と弥代は吠えたのだがそんなの和馬は知ったこっちゃいない。向こうから折角、本当に珍しく声を掛けてきてくれたのだから邪険に扱えるわけがない。どのような言葉であれ関わる事が中々出来ずにいた、雪那みたいに一度も話したことがないというわけではないがそれでも…という思いで声を掛けたのだが、やはり…
「まぁ、分かっとったわ…。」
「春原さんは昔からああいう方なのですか?」
日暮れまで降り続けていた雨脚が遠のいた頃、二人は肩を並べて屋敷の正門を目指し歩いていた。道場は屋敷の敷地内にあるわけではなく、正門を出て西へ、十町程離れた場所に位置していた。大体屋敷の西の端、塀が途切れた先にあった。先ほど来た道のりを今度は二人きりで進む。
まだ足元には水溜まりが多くあるが、夕陽が反射する梅雨の夕暮れ時というものは実に綺麗なものだった。向かう方へと伸びた、自分の影を一歩、一歩と踏む。
「でも良かったん?結局昨日の話、弥代ちゃんに話せてなかったけど。」
「はい。みなさん、私の想像以上に大変そうですし。急ぐ内容でもなければよくよく考えてみるとそこまで必死になって聞いてほしいものでもないな、と思い至りました。」
「そっか…」
「それに…、」
伏せられた瞼のその奥、橙に僅かに染まった瞳が揺らいだ。
「それにあの場に私がいても、出来ることは何もありませんから。」
陽が暮れる限界まで続くと思っていた稽古は思いもよらぬ人物の登場によって幕を閉じた。
終いにはある程度痛みを紛らわすのに処置をしてもらえるものだと考えていたのだが、肝心の手当を施してくれる相手にどちらかといえば嫌われている弥代は一切何もしてもらえずに道場を後にすることとなった。
壁沿いに途中投げやった真新しい羽織は長い間そのままにしていたものだからだらしなく皺が残ってしまった。これまでであれば着物の皺なんて全く気にしてなかったのだが、春先に詩良に連れられ呉服屋に足を運んだあの日から、折角上等なものを着ても皺があっては物が勿体無いと思うようになった。その為今は羽織の皺が気になって気になって仕方がないが生憎これまで気にしなかったという事は、それの改善方法を知らないということで。どうしたものかと頭を抱えた。
頭巾のようにすっぽりと頭を覆うことが出来る羽織は、少し髪色を誤魔化すためにと例の呉服屋に特注でお願いをしたものだ。だというのによりによって仕立て終わったばかりのこの時期に、まさか髪を黒く染められることになろうとは思ってもみなかった。道場で顔を合わせた討伐屋の面々に遠慮なしに似合わないと指をさされて笑われたものだが、一人これの正体に心当たりがあったのだろう相良が教えてくれた。三日四日程で毎日髪を洗っておけばしっかりと落ちる筈だ、と。
腰紐に吊るした巾着を揺らせばジャリジャリと銭の擦れる音が聞こえる。銭湯に寄れるぐらいの金はあるだろう。
「あっ、違ぇじゃん。たしか今日だろあれ裾上げ終わんのって?」
行儀悪く巾着を振り回していたところ弥代は思い出した、例の呉服屋に頼んでいたものがあったことを。
「ちわ〜!律さんいますかー?」
格子窓の僅かな隙間を不審者さながらに覗きこみながら弥代は呉服屋の嫁の名前を呼んだ。呼んで直ぐに窓の向こうからドタバタと物音だけが響くのでいるのは違いない。
店の正面ではなく裏手側の勝手口、壁に背を凭れかかるようにして目あての人物が出てくるのを待つのだが、いくらか待っても中々出てきそうな気配はしない。さっき呼んだ時には物音がしたのは何だったのかと頭を捻っていると面の方から声が聞こえてきた。
「なんだい律?そういきなり背中を押されるだけじゃ流石の私でも君が何をしてほしいのか分からないよ?裏になにかいるのかい?……ははっ、分かったぞ?さては猫の立てた音にでも驚いたんだろう?なーに、お前が慌てて立てた音に私だってびっくりしたんだから猫も驚いて逃げ出していることだろう…よ………おや?」
「ど、どーも…」
姿を見せたのはまだ店を閉めている様子はないために正面にいるはずの日下呉服店の若旦那である日下清太だった。
「いやいや猫だなんて言っちゃってすみませんでしたねぇ妹さん?…え?律が仕事を引き受けたって?何だいそりゃぁ?ちゃんと私にも言わなきゃ駄目だろう?今度からしっかり請けおったもんは言うんだよ?厄介な客だったらこの私が追っ払ってあげるからねぇ。嫌なもんを引き受ける必要はどこにもありゃしないんだよ。」
一切口を開くことがないのにまるで会話が生成立してるような二人のやりとりを尻目に弥代は早く受け取るものを受け取って帰りたい気持ちになった。この時間帯であれば長屋の一番近所の銭湯がまだ空いていたはずだから、人の少ない間に知った顔に会わずに早いところ湯を上がって帰って寝たいのだ。いやそれなら普段使わないこのあたりの銭湯にでも転がり込んだ方が知り合いに会わずに済むのではないか?なんて目の前で乳繰り合うまではいかないが仲睦まじい様子を見せつけてくる(そんな気はないのだろうが)夫婦を尻目に思う。
「いや、あの…金も多分足りるからさ…早いところお暇させてもらうよ?店だってこのままじゃ閉められないだろ?…陽、沈んじまうよ?」
「そんなそんな妹さん気にしないでくださいな!詩良さんにはいつもご贔屓にしていただいているんですから!この前なんかどこぞの茶屋の主人をこちらまで連れてきてくれてですね、ここの呉服屋の反物は上品で質がいいからなんて言ってくださいまして。裾上げですかい?ええ、えぇそんぐらいでしたらいただかなくても結構ですよ。詩良さんにどうぞよろしくお伝えいただければ十分ですので!」
「店屋の主人ってのは総じて客の話聞かないもんなのかなぁ⁉︎」
別にそんなことありゃしないのに風呂敷に包まれた羽織を手渡されると同時に弥代は吠えた。今日はほとんど昼前から先ほどまで屋敷の道場で稽古をしていたものだからか少々喉が痛む。
咳き込むように前のめりになれば、当人よりも店の夫婦が慌てだす。春に世話になった際に寝起きに嘔吐してしまった事から、全くそんなことはありはしないのに弥代は体が丈夫ではないと勘違いをしているみたいだ。
何もないのに背中を何度も何度清太に摩られ、奥から持ってきたのかちゃぷちゃぷと音を鳴らす湯呑みを両手に抱えた律が足元を絡れさせながらもやってくる。あとはもう、何となく想像がつくことだろう。
「思い出さなきゃ良かったな…」
時には思い出して損な役回りになることもある事を弥代はよく学んだ。
新調したばかりの羽織を含めて普段着まで、湯呑み一杯とはいえ茶を浴びた。先日水を引っ掛けられた事まで思い出して嫌な気持ちに襲われる。
「厄日ってやつなんじゃねーのこれぇ‼︎」
珍しくそんな大声を漏らす。
自分の暮らす長屋から離れた場所にあるからこそ、知った顔ぶれがいないからこそ出来ることだ。知った顔に見られたものなら明日にでも近所に一人で声あげて騒いでたみたいよーなんて噂が出回っていることだろう。長屋暮らしをしたばかりの頃井戸端に集まる女房連中にコソコソと指をさされていた事があるからよく知っている。
喚いたところで何もすっきりなどしない余計に虚しくなるだけだと、裾上げをしてもらったばかりの羽織も含めて乾かすのに今晩は預けることとなり、着慣れぬ丈の合わない着流しにの上に軽く一枚羽織を羽織っただけの状態の弥代は帰路に着く。
『詩良さんにどうぞよろしくお伝えいただければ十分ですので!』
(俺の方こそよろしく伝えてもらいたいもんだぜ、全く……)
暫く拝めていない彼女の、最後に見ただろう部屋を出ていくその寂しげな背中が浮かぶ。
「詩良、」
「なんだい弥代?」
耳を、疑った。
今まさに口にした彼女の、その聞き覚えのある独特の甘ったるさのある声が鼓膜を揺らしたからだ。
振り向けばそこには、見間違えることのないよく知った彼女が立っていた。
「こんばんは、弥代。今日は月がとっても綺麗だよ?」
「もし良かったらこれからボクと一緒に散歩でもどうだい?」




