五話
彼の顔を、彼女・扇堂 杷勿が初めて目にしたのは齢十五の年、先代にあたる母に代わり、扇堂家七代目当主の座を継いだその翌日の祭りの席での事であった。
自分よりも五つほど下だと紹介された彼は、まだ幼い子どもであるにも関わらず、その見た目からは想像もつかぬほど不気味なほど、落ち着きが見れた。
親に与えられたものを黙って身に纏う、父親の前に決して出ようとしない姿勢が、その歳の割に気味が悪く、彼女の瞳には映ったのだ。
隙一つ見せぬ姿は、いっそ窮屈そうに。
祝いの席にまで堅苦しい真似は止してほしいものだ、と。彼女が彼の父親に|促 >うなが》せば、神仏の恩恵に肖りたくしようのないその男は容易にそれまでの態度を一変させ、いつまでも頭を垂れる息子の名を、やや性急に口にした。
『一之丞』
姿勢はそのままに、スッと起こされる上半身の、瞑っていた目がゆっくりと開かれる。
彼女はその目を人殺しの目、と読んだ。
鬼ノ目 五十五話
手元に散らばった紙面を乱雑に拾い上げる。紙面の字を拾い上げようとするも五、六文字目を通しただけで気が削がれ、どうにも気が沸かない。字が読めぬわけではないが霞む事もこのところ増えてきた。里に立ち寄った職人に誂えさせた目器を掲げるも、やはり調子は出ない。
彼女は脇息に身を預けて、ただただ深い息を吐きこぼした。
(身が、入らないねぇ…)
先の年の瀬に意識を失い、四月ほど目覚めることのなかった身体の節々はまだどうにも思い通りに動いちゃくれない。鉛でも背負ったのかと振り払うように肩に手を伸ばすも何があるわけもない。
ただただ億劫なこの身。どうしたものかと灰皿にひっくり返したばかりの愛用の煙管へと手が伸びそうになるが、不服さを隠しもしない大の大人の視線に気付き叱言に普段通り返せる自信がない彼女は、膝の皿を何度か撫でて、再度深くため息を溢した。
(やってられるかってんだよ、全く…、)
融通が効かないカッチコチの頭を正面から相手どる事ほど面倒な事はない。その根っこがこちらの身を按じてからくる言葉となれば、端から無碍に扱う気も沸かないというもの。
どうしたものかと天井をぐるりと見上げた彼女の視線は、しかし床にたどり着く前、いつも以上に険しい表情を浮かべる、この場に同席をしている分家の娘へと向けられた。
気の、弱い娘だ。
生まれつき体も決して強くはない。二十年程前までは日の大半を床の上で過ごしていたような娘で、今だってそれは本当は変わらない筈だ。無理をさせている、という自覚はあっても今は多少の無理をしてもらわねばならない必要があるのだ。上手くいくかいかないかは問題ではない。
大主・扇堂杷勿は静かにその娘の名を呼んだ。
「…申し訳ございません大主様。名を呼ばれるまで気が付けず…、」
「別にそんな些細なことで臍を曲げやあたしゃしやせんよ。それよりも険しい顔をして何を見ていたんだい?お前さんが頭を悩ます程のその種を、あたしも知恵を絞って取り除いてやろうじゃないかい?こっちへおいで。」
他意などない。あくまで息抜き程度。自分の抱える内容はもう既に全て一度目を通した後なのだ。それでやる気が沸かないものに無理に向き合っても一向に進まぬまま、時間と気力だけを浪費するだけ。それなら少し別の事に意識を逸らしたほうが気が楽だ。
医師の肩書きは名ばかりの男もこれには叱言も漏らせそうにない。口を開く好機を失った彼に掛けてやる言葉などあるわけがない。
眼前には言われた通り従順に、手元の書簡を見せる為に近づいてきた扇堂美琴がおり、杷勿の意識は美琴へと緩やかに向けられた。
「頭を悩ます程ではないのですが…その、割り振りをどうしようかと思いまして………あ、」
「割り振り?」
僅かにその目が揺れる。
「そんな仕事をあたしは任せたかい?」
「………いえ」
「なら誰に割り振るっていうんだい?お前さんが悩むほどの事なんだろう?」
「…そ、それほどの事では…」
「気まずそうに目を逸らすのにかい?」
「ぅう……、」
書簡で顔を覆うその娘はやはり元来主張の弱い娘だ。
自身がやや強く詰め寄ったから言葉を詰まらせている事を棚に上げて、杷勿はどこか愉快そうな笑い声を漏らす。
屋敷に訪れる他所からやって来る商人との商談や交渉の場に呼んでは勉強をさせてきたものも、いまだに相手に強く出られてしまうと返しに詰まってしまう、どちらかといえば不得手なほうだ。
しかしこう見えてこの娘は肝は中々に据わっている。
いざという時、有事の際には誰よりも冷静に状況を整理し、最善の選択を下すことが出来る事が、先の秋口、この榊扇の里を襲った落雷の夜に証明された。
これまでずっと自分の後ろに控えるばかりであった娘が指揮を取ったというのは杷勿にとってなんとも都合がいい。これを喜ばずにいられるだろうか。相手に悟られぬように表面上を取り繕う事をこの半生以上ですっかり板に着いてしまった自分だが、どうにも隠せず態度に出てしまう。
「…せ、」
「せ?」
「雪那…様に、です。」
「何だいあの娘。あたしよりも美琴に懐いてるのかい?白状すぎやしないかい?
聞こえたかい佐脇。雪那はどうやらあたしよりも美琴の方が良いそうだよ?」
「そこで私に話を振るのですかっ⁈……おっ、御孫様は人を見る目がないですね。」
「美琴、あいつを叩いてやってもいいんだよ。あたしが許す。」
「は、叩くだなんて…そのような事…、」
「冗談だよ。」
冗談に聞こえなかったのだろう。視界の隅で少なからず身構えていた男が胸を撫で下ろすものだから杷勿は何とも気分がいい。
抱えている問題は何一つ、解決していやしないが。
「かぎや、たまや言うん。雪那ちゃん知っとる?」
「かぎ?……柿の、たま…実、ですか?」
水無月の半ば。降ったと思えば翌日には雲一つない快晴が広がったりと忙しない空模様が続く梅雨の頃。庭の池の周りに植えられた紫陽花が淡くもどこか涼しげな色を見せる。
青というよりはどことなく緑っぽく映るその色は、確か屋敷が贔屓にしている呉服屋の主人曰く、浅葱色というそうだ。口の悪い友人の髪を色に起こすならそれが適切らしい。
この時期しかお目に掛かることのない、浅葱色の珍しい株の前で腰を折った彼女の意識はそちらに注がれている。と、前振り一つとなく彼女の横に自然な足取りで並んだ青年が、間髪入れずに彼女に小さな質問を投げ掛けてみせた。
見つめていた株よりも深みのある、しかし澄んだ青空のような人を強く惹き寄せそうな瞳が、不思議そうな色を見せて丸くなるも、返ってきた返答は青年の予想を遥かに上回るものだった。
器官に入ってしまったのか。一瞬で咽せ返る青年・藤原和馬は胸元を抑えながら、別に意図したわけでもないのに彼女とまるで目せんが合うように、少々泥濘んだ地面に膝をついた。
「あかん…、そ、そないな返し来る思っとらんかったから、ご、ごめ…ごめんなぁ…」
「私、そんなに面白いこと言いましたか?………え?ちょっと戸鞠?貴女まで何故肩を震わせているのですか?どうしてこっちを見てくれないんですか?………えっ⁉︎」
自分に変わり傘を差してくれていた筈の、直ぐ近くにいた下女が目を逸らす。しかしその肩は誤魔化しようがないぐらいに震えていた。
下女の戸鞠との付き合いもかれこれ一年となる。前任者がいつの間にかいなくなってしまってからの身の回りの細々とした世話は全て彼女が面倒を見てくれている。あまり器用ではない雪那は十二分に助かっているがいつの頃からだったか、年も近い(戸鞠の方がいくつか下であった)事もあってその距離感というものが縮まっていた。友人、と呼ぶ程気さくな仲ではないが、ただ主人とその世話係という感じでもない。なんと呼ぼうものかと考える機会がこの頃増えたなとは思っていたが、一応目は逸らしながらも肩を震わせる、その様を見てしまうと、少しだけ雪那は頬をむくれされた。
「アッ…あはは、む、むくれんで。むくれてるのも可愛いけど、笑っとる方がもっと可愛いから。」
「とても良いものを見せていただきました。私、雪那様の元でお仕事が出来て最近は特に充実しています。」
「意地の悪いのか悪くないのか難しいことを言わないでください!そういうのは弥代ちゃんだけで十分ですので!」
何とも微笑ましい光景だ。
ずっとこんな時間が続けばいいのにと願うのはその場に居合わせた三者共々に違いないだろう。口にはせずともそうに違いない。
ただ最近、彼・藤原和馬が知らぬ話を雪那に振るというのは、それも一旦終わりの合図になる。
名残惜しさは勿論、それでも雪那は折っていた体を起こした。
事前に手配していたであろう牛車に乗り込み、揺られること半刻程。前簾が捲られれば先に降りた和馬がそっと手を差し出してきた。以前に手を貸されずに一人で降りようとしたところ、裾を踏みつけてしまって前のめりに落ちそうになってしまった事があるからだ。
あれから過保護にも和馬は雪那が牛車を乗り降りする際、絶対に手を貸すようになった。
今まででの従者の氷室であれば頑なに目を逸らさず、何かあったその時だけすかさず雪那に手を伸ばしていたものだから、毎度毎度そんなことをされるのはどこかこそばゆい。何も出来ない子どもではないのだから。
事前に説明を受けた、此度ここへ訪れるに至った経緯を聞かされた雪那だが、そこそこ立派な門の前に立つと腹の奥がきゅっと縮こまる。これまでとは少々訳の違う相手を前にどう立ち回ることが、解決に運んでいけるものかと考える。そしてその不安は口をついて出てきた。
「大丈夫でしょうか和馬さん。私…上手くやれる自信がありません。」
「安心してな雪那ちゃん。いざとなったら、最悪ワイが何とかしたる。」
「何とかって……それ拳を握りながら言うことですか⁉︎何をなさるおつもりで⁈」
和馬が答えなかった。答えなかった代わりに目の前の、その門を押す。
鍵はかかっていなかったのだろう門は容易く開かれると、二人を中へと招き入れた。
『和火、ですか?』
『こっちまでは流石に見えんかな。綺麗なもんでな、パッと夜空になデッカいの花開くみたいで夏の風物詩や。立派なもんなんよ。』
『夏の…風物詩、』
武蔵国では毎年夏に両国川の川開きの日に花火が打ち上げられるのだそうだ。古く疫病による死者の供養や災厄除去を祈願して行われてきたものらしく、夏の夜空に天高く打ち上げられたそれが大きな音を立てて花開く様が美しいのだという。
何も榊扇の里では花火の文化がないというわけではない。幼い頃、それこそ今正に眼前で楽しげに花火の説明をする和馬や、あともう一人のあまり覚えてはいない幼馴染と一緒に肩を並べて、確か本堂ので打ち上がるのを見た覚えがある。自信は全くないのだが。
『出店に屋台に提灯なんかも飾られて、夜言うの忘れてしまいそうな程明るくてきらきらしとってなあ、一回だけ叔父様に我儘言うて連れていってもらったことがあるんやけど忘れられへんのや。』
説明から逸れ、自身の思い出話に浸るような和馬に雪那は少しだけ安心した。
先月から無理を言って、叔母にあたる扇堂美琴の手伝いと称し、その報酬としてこれまではただ与えられるだけだった小遣いを受け取ることになった雪那は、此処のところ彼に掛けているだろう負担を気にしていた。
つい先日までは人手不足で回りきらなくなってしまった討伐屋の手伝いに日夜駆り出され、無理に時間を作って雪那の傍にいようとする日々を過ごしていた彼。抜けていた二人が帰ってきた事で手伝いもお役御免となったが、最近は美琴と雪那の元をいったりきたりと忙しない日々を送っていたのだ。
というのも雪那に回す、扇堂美琴の元から降りてくる手伝いの内容に関してだ。何も考えなしに割り当てられたものではない。扇堂美琴と、和馬の二人の考えを元にそれを雪那に任せても問題はないものかと合間の時間を縫って話し合いを行っている。その為最近は特に忙しく、不規則な動きを見せる扇堂美琴に合わせて、都度和馬は広い屋敷の中を東から西へと移動をする必要があった。
今現段階で雪那に問題なく任されるものといえば、予めしたためられた書簡を扇堂家の遣いとして手渡すか、内容を読み上げ納得をしてもらうまで粘る事ぐらいだ。
表立って、扇堂家の意向に逆らおうとする、従わない素振りを見せるものはいないものの、一万にも及ぶ民が暮らすとなれば少なからず異を唱えるものも存在する。
その決定を前に中々首を縦に振らぬ者の方がここ最近は正直多かった印象だ。数年前まではまだどうにか扇堂美琴が自ら重たい腰を持ち上げ、屋敷から出ることのない榊扇の里の象徴である扇堂杷勿に代わり赴き、説き伏せることもあったというのだから彼女の力量が伺えた。
まだどれだけの事が出来るか分からなかった最初の頃は、話合いの立ち合いを任されることがあったが、段々と苛烈になっていく場の空気に、その熱気に呑まれかけてしまい、飛躍した矛先が自分に向けられた時、雪那は何も返すことが出来なかった。ただ胸の前で殻を作るように指を組んで、意味のない言葉を漏らすだけで。
ただ、その横には和馬がいた。
雪那は、和馬が差し出した助け舟に乗る形でどうにかその場を乗り切ることが出来たし、結局のところ話は何もまとまらず時間だけを無駄にし、まとまりきったその暁に必要であればまた屋敷に依頼をするようにしてほしいという旨の言葉でその場は御開きとなった。
その齢を考えれば和馬は既に年相応な態度を示し、場数もあるのだろうとても落ち着いて見える。自分とは大違いだと頼り甲斐のあるその横顔を見て思っていたのだが、目を輝かせるようにして子どもの頃の思い出話をする彼は、やっぱり自分の知る幼馴染の藤原和馬で。だから雪那は少しだけ安心したのだが、でも同時にこのままでは駄目だな、とそっと目を伏せたのだ。
(それじゃ、多分これまでと何も変わらないわ。)
案内された客間で腰を落ち着かせていた雪那は静かに息を整える。
先ほど和馬が扇堂美琴より任された内容というのはどうにも一癖二癖あるものらしい。これまでの経験からしてそのようなものを自分が対処しきれるとは到底思えないのだが、このままでいいわけがないと自分を叱責した。
そうだ、このままではいけないと思ったのだ。
あれ以降、広い屋敷ではあっても嘘のように彼女のその姿を目にする機会が減ってしまった。大主である扇堂杷勿が意識がない間は、扇堂の血筋の者がいる前で、証人という名目でも立ち合いを望まれていたそれも、大主が意識を取り戻したことでなくなってしまった。
彼女が棲まうという屋敷の一画に、足を運べるだけの勇気を雪那はまだ持ち合わせてなかった。今は、まだ。
「大丈夫雪那ちゃん?やっぱり緊張しとる?」
コトッ、と卓上に置かれた湯呑みは自分のとは違って随分と減っている。緊張をしている時は喉が渇くなんて言ってたのは誰だったか。言いながら急須の茶を一人で飲み干していた友人の姿が脳裏を過ぎって、ちょっとだけ面白おかしくなって雪那は笑ってしまった。
「ふふっ、大丈夫です。何故だか今日はやっぱり上手くいけそうな気がしてきました。」
「門潜るまでが嘘のような返しやね。」
「自分でも不思議な程です。」
と、襖が静かに開かれる。
二人をこの部屋へと案内し、茶を用意した年若い女中と思しき者が再びその顔を見せた。
「お待たせしてしまい誠に申し訳ございません。……主人はもう間もなく、お見えになる…事、かと……。」
深々と頭を垂れるその背中が僅かに震えているように見えて、それまであった雪那の自信に分かりやすく亀裂が走った。
目に見えて予感が的中するというのはどのような気持ちなのだろうか。ドカドカという音が廊下の奥から聞こえてくる。半分も襖は開いていないというのに響く音はあまりの大きさにそれだけで身を震わせてしまいそうだ。
現に頭を垂れたままの女中の、その震えは収まる事を知らない。
そして何やら口論のような声が微かに届く。
それも足音が大きくなるのと合わせてはっきりと聞こえるものになってくる。
「客人だぁ⁈んなもん儂ぁ聞いていねぇぞっ‼︎」
「で、ですからっ!扇堂家より人が来られますのはお伝えしていた筈でございますっ!」
「扇堂から人だ?儂ぁ杷勿ちゃん以外と話す気はないとあれほど言ったろうが!」
「しかし、血筋の方を追い返したなどあっては…っ!」
「……血筋ぃ?」
それは丁度客間の前を過ぎ去ろうとしていた時の会話だった。見向きもせずに開いた襖のわずかな隙間から見えた人影が、その声がピタリと止まる。そして開き掛けの襖が勢いよく開かれる。
「嬢ちゃん…分家の者かい?」
「わ…私は…っ!」
強面を絵に描いたようにその威圧感を隠しもしない。
着崩したその着物を纏う男を前に一瞬たじろぎはしたものの、雪那は自らの名を名乗り上げた。
男の名は、杵田 大門
歳若い頃、婿養子として杵田家に迎え入れられた、榊扇の里における名の知れた花火師だ。
嫁ぎ先であった杵田家の所有物である長屋で現在は大家を務めている。
職人気質で、融通も利かない頑固頭に、口煩い大家という面倒臭いの三拍子が見事に揃った、誰も喜びやしないご近所でも名の知れる嫌われ者だ。
扇堂美琴が私室に戻ってくる頃合いを前もって聞かされていた和馬が向かうと、言い渡された雪那の新しいおつかいは、その人物と話をしてくるものだった。ただ話をするだけなら何も問題はない(いや、幾らかはあるだろうが)かもしれないが、詳しく話を聞けば此度はどうやらその男を説得してくるようにとの事だった。
当然のようにそれは雪那には難しすぎるのではないかと和馬は返したのだが、眉を顰めて美琴は歯切れ悪そうに謝罪を述べた。
『杷勿様の御意志なのです。』
榊扇の里において大主・扇堂杷勿の意志は絶対といっていい程だ。
この里で商売をするにしても、こ神仏・水虎の御加護を得るにしても、民同士のいざこざにおいてもその善し悪しにしても大主の言葉が必要となる。
ここ最近はそういった里の事情を、なによりも大主の意志を汲み取り筆を取る、相違がない事でそれを求める者へ届ける役割をいくらか雪那の真横で見てきた和馬もわかってきたものだ。
それはきっと榊扇の里に限った話ではないのかもしれないが。扇堂家と懇意な関係のある里の外でも同じことだろう。
自分が何を言ったところで雪那に振られたその話は一度どうにか話をして来ない限りは取り消されることはないだろう。上手くいかなかったのであればそのように扇堂美琴が報告をし、また別のものを振ることにするという。少なからずの配慮らしい。
上手くいくなどと大主は思っていないのだ。なのに雪那にその話を態々振るというのは和馬を苛立たせた。
扇堂美琴と大主の厚意あって今現在この屋敷、扇堂家にその身を置かせてもらっている和馬だが、これは少々話が違った。
もし雪那が怪我をしそうにでもなったらその時は力づくで庇うなり守る覚悟を和馬は今日してきていた。だからこそあの時、池の近くで咲いている紫陽花を囲むかのようなひと時を惜しむような気持ちになったというのに、…いうのに、だ
(なんや、これ……)
男の名は、杵田大門という。歳若い頃、婿養子として杵田家に迎え入れられた、榊扇の里における名の知れた花火師であり、現在は嫁ぎ先であった杵田家の所有物である長屋の大家を務めており、気難しい職人気質で、融通が利かない頑固頭で、更に口煩いと大家という厄介な三拍子が揃ったご近所の嫌われ者で…。
先ほど思い浮かんだばかりの事を並べながら、左から入ってくる話声がそのまま右耳からすーっと抜けていく感覚をかれこれはたしてどれぐらいだろう。庇から覗く庭の、奥の堀までの僅かなに切り取られた青空にお天道様が見える。少なくとも初めに茶をいただいていた頃はまだ見えていなかった筈だ。崩すことなく折ったままの膝下は既に感覚が失われつつる。血の巡りが悪くなっていることだろう。
チラリと左手の彼女を見遣るも、意外も意外なことに疲れが滲み出しているだろう自分とは大違いにやや興奮気味の幼馴染の姿があった。そしてこちらが向けた視線に気付いたのだろう、彼女の左目が和馬の方へと向けられる。
「凄いですね和馬さんっ!私初めてお聞きしましたっ!」
「んんぅ………、楽しそうで何よりやわ。」
「はいっ!」
弾むその言葉尻とすっかり綻んだその顔にそれ以上何も言えなくなってしまう。
「何だぁ坊主の方は随分疲れきってるようじゃねぇか!鈴枝っ!茶ついでになんか菓子の一つ二つ持ってこいっ!甘いもん食わせりゃ元気になるだろうっ‼︎」
それで喜ぶのは子どもだけであると思うのだが、横で手を叩くか彼女を見て尚更何も言えずになってしまった和馬はぐっと奥歯を噛み締めた。
これはまだ当分終わりそうにない。
「それで、最後に髪を切られたのはいつ頃ですか?」
「五…あっいや六年前になるのかな。そん時世話になってた婆さんがやってくれた。」
視界にチラつく断ち道具は中々慣れることはないだろう。端を過ぎる度に肝が冷えるものでその都度徐々に疲労感が蓄積されていく。いい加減肩の力を抜こうと、見なければいいだけだと目を閉じる。
「昔話は、進んでされないものかと思っていましたわ。」
「話すのは、二度目かな。口にした方が楽になることもあるって教わってよ。」
「賛同できますわ。」
目を閉じていると普段思い出しもしないことを思い浮かべることがあるのか、そんな何となしの会話の合間、ふと思い出した事を特に意味はなく弥代は投げかけた。
「髪を切るって言うとよアレさ…、春原のアレ、髪切ってんのも伽々里さん?」
一年と少し前、扇堂家屋敷内で共に過ごした際に神仏・水虎の襲撃によって自分を庇う形で水流を食らった彼を思い出す。交戦時の水撃によって一部分春原の特徴ともいえよう重たい前髪の一部が切り下ろされてたのだ。その時は気付く事はなかったのだが、翌日療養室で治療を施された平常時の彼を見て、その前髪の異変に気付いた。夜空を思わせるような暗いその瞳を陽の下で見たのはそれが初めてだ。
(あれ?)
と、何か突っ掛かりを覚える。
(あいつ、そんな目の色してたっけ…?)
夜空といってもどの季節の夜空だっけ?なんて的外れな事を考えつつも、直近の彼を思いだそうとするのだがやはりあの重たい前髪が常に目元を覆っているようで、中々彼の目の色に至れない。
弥代が瞼を閉じてゴロゴロと、その眼球を動かしている最中投げかけられた話題の返しの頃合いを見計らっていたのであろう伽々里が口を開いた。
「いいえ。私ではなく春原さんの髪は、相良さんが切ってますわ。」
「へー相良さん?なんか意外…でもないなあの人じゃ。」
「自ら春原さんの世話役を買って出るような物好きな人ですからね、あの人は。」
(あ…、)
それは何となくだ。本当に普段なら絶対に気になることもないことだろうに目を閉じているからか、聞こえるその音に意識を傾けていたからかは分からないが、伽々里、彼女のその声色がとても優しいものに聞こえた。
伽々里さんってさ、と。聞けば多分今なら答えてくれそうな気もしなくもないが、自分がただ勘ぐっているだけかもしれないと、それに触れるのは止めた。代わりに話を続けた。
「いやよ、前にその派手に切られた事あったけど、それも相良さんが整えたのかね?器用だねあの人。割とバッサリ眉ぐらいまで切られてたぜ。」
「……はぁ、」
それまでとは全く違う反応を彼女は見せた。
「バッサリ…ですか?そのような事ありましたでしょうか?」
「………え?」
覚えには自信があるという彼女。少なくとも弥代が知る話であればここ一年程の話になるが、生憎と伽々里には春原の前髪がそんな風になっていた事はないという。
「いや、でも…俺が言ったらあの二人もそこでやっと気づいたんだろうな…、驚いててよ、」
「大主様よりお誘いをいただいてから武蔵国より相模国へ二月程は有しましたが、そのような眉上まで切られたとして、伸びるのはあまりにも早過ぎますし。何よりその間にも春原さんと顔は合わせていますがそのようなことがあったという話も聞いていません。なにより……、」
「水虎様と対峙したのは春原さんだ けの筈です。」
「へ?」




