四話
雛菊という女は幼い頃から、自分が与えられる“痛み”というものにひどく敏感な子どもであったそうだ。
たとえばそれは、気に入りの人形を両親に窘められたからといっって、嫌々ながらも妹に差し出さなければならなかった時。
たとえばそれは、祝いの席で着させられた一つ上の姉のお古が本当は嫌だったのを我慢して愛想よく振る舞っていたというのに、突然後ろから泥溜まりに姉によって突き飛ばされた時。
たとえばそれは、一番うえの兄に無理やり少女の殻を破られた時。
“痛み”とは何も目に見えるものに限らず、目に見えない見る術のない心の痛みというものも彼女にとっては等しいものであった。
人の物を欲しがる欲深い我儘な妹が寝ているところを抱き上げて、腹を空かせた野犬が夜は多く出るから危ないので近付かないようにと言われたその場所に、そっと置き去りにして高みの見物をする。太い枝に器用によじ登り、真上から食い荒らされていく様子を見下ろした。
これで本当は差し出したくない相手に差し出さなくちゃいけない人の気持ちが妹は分かった事だろう。
自分の性格が悪い事を棚にあげて、人の頑張りを無駄に踏み躙る。そんな姉は瓶の水を汲みに行くその背中を追いかけて暗い夜、井戸の中を恐る恐る覗き込む、その背中を勢いよく押してやったそうだ。
やられた事をやりかえしただけ、と。深い井戸の底に、まだ八つの短い手足は届かない。バシャバシャと音を立てる姿を見下ろす。誰も手を差し伸べてはくれなかった、自力で這い上がった相手の気持ちを味わってほしくて蓋は閉めることなくその場を静かに立ち去った。
本当はずっと昔からそうだった。
血の繋がりがある一番上の兄は、何かと理由をつけては幼い頃から服を取り上げて、丸裸に剥かれる事が多かった。
働きに出たことでやっとあの存在から解放されるのかと思ったのも束の間。初潮を迎えたばかりの頃、突然仕事から帰ってきた兄に腕を引かれ押し倒された。母の手伝いをしていた為にその場に散らかった太い針を掌に突き立てられて、抵抗しようものならもっと酷い目にあわせるぞと耳にした事もないような大声で脅され、ただただ大人しく身を差し出すことしか出来なかった。
『とても、痛かったのです。』
これまで与えられたどの痛みとも比べものにならぬ程、ひどく、ひどく痛かった。
三日三晩泣き喚いた後、本当は針山にでも放り投げてやりたかった、貫かれる痛みがどれ程のものかを身をもって味あわせてやりたかったがそんなものが都合よくあるわけがなく。なけなしの小遣いを掻き集めて問屋で買った、よく燃えるという油を寝ている兄の体に満遍なく、惜しみなく隅々まで塗りたくってやり、目を覚ますまで待った後、漸く火を灯した。寝ている最中なんて生温い。そんなもので気が済むものかと彼女は語った。
あくまで彼女が語ったその三つの事柄に関しては、彼女が自らの意思を持って口にしたごく一部に過ぎず。
本人は話の最中、邪気を一切感じない笑みを浮かべてそれらを心底楽しげに、他にももっとあるのだと口走った。望むのであればもっと聞かせてやっても良いと言いたげな態度で。でもそれらを語るにはあまりにも時間が足りないと残念そうに、しょぼくれた子どものように頭を垂れて零した。
決して気持ちのいい話ではなかったが、誰にも話したことがないと紡ぐ、彼女の言葉が真実かあるいは嘘偽りであったとしてもそれは今の相良には関係はなかった。彼が気になったのは一点、何故に彼女は自身に対してそのような話をしようと思い至ったか、である。彼は、それが知りたかった。
要らぬ事ばかり知りたがるのは己の悪癖であるという自覚はある。幼い頃から幾度も祖父に注意を受けたことがあったが、けれどもこの歳になってもそれは止められたためしがない。
だから時間の許す限り、彼は彼女の言葉に耳を傾けた。その意識を真っ直ぐに彼女へと向けた。
女・雛菊はそれを受けて、至極嬉しそうに微笑んだ。
鬼ノ目 五十四話
夜目のきかない鳥というものは日の出と共に目を覚まし、己の存在を報せる為に鳴くのだと教えてくれたのは祖母だった。近所には鶏を飼育している家々もあるが精々一羽、二羽程度。ただし澄んだ朝焼け空には一羽、二羽程度であってもその鳴き声がよくよく響く。
夜半、寝ているところを無理に起こされる事があったもので、そこから中途半端に中々寝付ける事ができず、浅い眠りの中ここ最近にしては珍しく鶏の鳴き声で目を覚ます事となった館林は半刻程経ってからやっとその体を起こした。
普段食事だなんだと過ごすことの多い縁側に面した部屋程ではないが、中庭の方角に窓がある私室にはごく僅かだというのに、既に夏の、あの暑さを感じさせる陽が差し込みつつあった。
体の大きさと布団の大きさがあってない為に畳の目に擦れて変な方向に反り返ってしまった髪の毛を撫で付けるように抑えつける。もう少し丈の長い布団が欲しいものだが生憎と懐に余裕はない。
先日までであれば同じ釜を飯を突きあってきた相良が屋敷から引き受けていた長期の依頼で、成功報酬としてある程度まとまった金が入ると期待していたものだが、自分が叩き起こされる要因となった一件を思い返せばそれも難しそうに思えてならない。
呼び出されて迎えにいったはいいものの、結局屋敷の遣いや件で世話になっている鶴見亭の者からも何一つ説明を受けることはなかった。頭の足りていない自分は言われたところでそれを全て理解できるわけもないと自覚がある故、無理に聞こうとも思わなかったものだが、あまり寝付けなかった今となってはそれもまた寝付けなかった要因の一つではないかと考える。
(どうしたもんでしょうか。)
榊扇の里を統治する扇堂家、その当主たる扇堂杷勿からの誘いをきっかけに武蔵国からこちら相模国へと移り住んでからいつの間にやら一年が過ぎてしまっていた。
扇堂家を介して討伐屋に寄越される依頼といっても、その殆どはやはり近隣の巡回ばかりだった。一年が経った今でもそれはあまり変わる事がない。一部大口の話もあったが昨晩の様子からすればそれも長期に渡ったが実を結ぶことなく終わってしまっても不思議ではない。
直接大主と顔を合わせたことのない館林でも自分達、春原討伐屋が扇堂家の信用を未だ得られていない事は理解していた。
「あっ、」
「…おや、」
顔を洗えば多少靄のかかった頭もすっきりするだろうと、目元にへばりついて不快な目脂を取り除こうと。手拭い片手に部屋を出るとそこには偶然にも彼がいた。
あまりこの地方では見る機会の少ない(ここ一年ほどはより鮮やかな“色”で見慣れつつあったが)、幼き頃夏の夕暮れで多く目にした蜻蛉を彷彿させる瞳をした彼・相良志朗である。
「珍しいですね二葉、貴方がこんなに早く目覚められるなんて。」
「畑の、仕事をしてた頃は大体こんなもんでしたよぉ。早起きは苦手やありやせん。」
「それはそれは……、」
窓から滑り込んでくる涼やかな風が全く涼しく感じられない。じっとりとした空気が肌を刺す。相手の言わんとしている言葉はなんとなく分かりはするものの、結局何も知らずじまいの自分がそれに触れるのもおかしな話。派手に腫れていた頬には薬師である伽々里お得意の手当が施されているようだが、細かい擦り傷が多くその顔には見られた。
「……黒介が、」
「芳賀さんですか?芳賀さんがどうかされたんですか?」
「いえ…先日屋敷の氷室様との稽古の最中に頬に一発デケェのを喰らいやして。丁度、今の志朗みてぇだな、と思い出しやして。」
「なんと、まぁ…」
自分の方が余程腫れぼったい頬に手を添えて、この場にはいない本人に同情したような声を漏らす。
「いえ…私も三度手合わせいただいた事はございますが、あの方の剣戟は重たいですよ。えぇ…それを頬にですか?どうしてそうなったんですか?」
「黒介の奴ぁ、撃ち合いの途中で余所見してやして。あれです、例の白いお嬢さんでせぇ。」
「戸鞠さん、でしたね。最近討伐屋にも伽々里に用があって顔を見せるようになりましたが、あぁ…なるほど。そうですね、そうでしたか。」
「一丁前に色惚けとりやす。」
「まだまだ子どもですねぇ、彼。」
大の男二人肩を並べるには少々窮屈な廊下を進む。
廊下の角を左に曲がり、数段の階段を下った後居間へと足を向ける。
「……おや?」
「どうしやした志朗?」
それまでの声色と打って変わった、なんとも情けない声をあげる彼。半歩前を進む彼が歩みを止めればこちらも止めざるを得ない。頭一個分自分の方が大きいために館林が彼の肩口から覗き込むようにその先を見るも特段何か変わった様子は見られない。だとしたら相良が上擦ったような声をあげたのは何故だろうとその顔を窺えば随分とその顔色が青褪めて見えた。
「朝餉の用意がされて…いない…っ!」
「なん…ですと…?」
「なんで伽々里さんここにいんの?」
「私がここにいてはおかしいですか?」
「あぁ…い、いやぁ……別におかしかないけどよ…。え?討伐屋はどうしたの?」
「私と討伐屋を当然の様に紐づけるのですね貴女は。」
「だってそうでしょうよ。」
「……。」
これまで一回も上がったことのないような軍配があがったような気がしたのは錯覚だろう。この人がこんな簡単に自分に対して見るからにだんまりを決め込むことは先ずない。常時調子のいい人なんていやしない。偶々調子が悪かったのだと、普段とは違う空気感に居心地が悪くなった弥代は、とりあえずどうにか話題を切り出そうと無理に思考を駆けずり回ったのだが、
「あーー、あぁ……えっと、あ、そっそうだ、柏餅!柏餅さぁ美味くね?あの、えっと……うん…あ、ごめんなさい。」
それも直ぐに撃沈してしまう。こういうのは相手による。彼女相手では普段雪那にできるような切り出し方も出来やしない。彼女に対して試みたのだってこれが初めてだ。上手くいきっこなかったのだ。今更伽々里を前に取り繕う事もない。討伐屋の連中がいるまえではまだ多少なりとも変わるだろうが。
「大口を叩かれている時よりもそちらの方が好ましいですよ。」
「……そういうのは言うんだ。いや、言わないでくれよ。」
「これは失礼。」
空になった湯呑みをコトリと卓上に下ろせば、すかさず右手から伸びてきた毛むくじゃらの獣足が急須を傾ける。
「まさかまさかでございますぅ。伽々里様程徳の高い方もこうして我々のために尽力していただけるとなれば百人力どころではございませぬなぁ…!」
「俺の時そんな事一切言ってなかったよな?なぁ?」
「一言も手を貸すなどと言っていないと思いますが?」
「こういう爺さんなんだよこの猫。」
「それはそれは…。」
言いながら急須を傾ける手を上から優しく押さえ込み、自分の湯呑みに顔色一つ変えずに注ぐあたりはどうにも弥代のよく知る彼女なのだが、ついでと言わんばかりに自分だけでなく弥代の空になった急須も満たそうとするのは、やはりどこか変だ。常なら空でも一滴も注いでやくれしない。
「あんがと。」
「どういたしまして。」
やはり調子が優れなさそうだ。どうしたものかと視線を泳がせていると、今朝方夜明け前に家に穴を掘って無理やり侵入してきた小憎たらしい狐小僧が弥代達のいる方へと駆け寄ってきた。
「えへへ、伽々里さまはじめまして!あのね、母ちゃんがいつもお薬ありがとって言ってるよ!」
「梢様の、その後はどうでしょう?お熱は退かれましたか?」
「婆ちゃまが言うにはね、もう二日もすればよくなるって!」
「まぁ…良かったですわ。」
「え?いやお前坊主…親いたのかよっ⁈」
「へ?」
てっきり親のいないものだと思っていたのだが、伽々里と狐小僧の話から察するに存命なようだ。他に行き場のない立場の弱い、力を持たない妖怪が身を寄せ合ってここでは暮らしていると聞いていたものだから、そこに当然のようにいる小僧もまた何かしらの理由で身寄りがいないか、ここ以外に居場所がないと考えていたが違うらしい。それだけで態度を変える事はないが途端にこれまでいくらか目を瞑ってきた少年の悪事とも言えない行動が脳裏を過り、沸々と一瞬で怒りが湧き上がってくる。
「おまっ!く、くそっ‼︎餓鬼…っ‼︎」
他の者もいる手前どうにか声は押し殺した(つもり)が、それでも目の前の机は叩かずにはいられなかった。
なんなら今朝長屋の家の前に掘られた、家の中まで繋がっている穴だって塞いできていやしない。帰ったら長屋の爺さんにこれはなんだと詰め寄られる未来しか浮かばない。ふざけるな。
「子ども相手にムキにならないでください弥代さん。みっともないですよ。」
「みっともない!あーみっともないなぁ!?もう見てらんないですよ何ですかその体たらくは?!本当に…!相良さんのばーーーーかっ‼︎」
事情を聞くなり勢いよく立ち上がれば、こちらの静止の声も聞かずに芳賀は捨て台詞と共に廊下から縁側に飛び出し、そのまま履物を履いて外へと飛び出してしまった。
「反抗期…ですかねぇ?」
「歳を考えなさい。あの図体でそんなもの来られても手に負えませんよ。」
「ですから止められなかったんでしょうに。」
ぐうの音も出ない様子。見様見真似に相良に言われた通りに普段伽々里が用意する手順で朝餉の用意をしたものの酷い有様だ。単純な鍋であれば具材をただ切って入れて、味噌なりなんなりと湯で溶いてしまえば誰だって失敗することなく作る事ができるだろうが、それ以外の手の込んだものとなれば話は別だ。
「…薄い。」
「あっ、坊…無理に飲む必要はありやせん。どうせ不味いんで。」
「七味を入れれば…」
「ですから何にでも七味を入れればいいわけじゃないですからね春原さんっ!」
袂から取り出した小筒の蓋を開けようものなら薄味で物足りない汁物に振りかけようとする春原を二人は慌てて制した。反抗期の彼は止められなかったが春原はどうにか止める事は出来た。
水気の多い、米というよりも粥の方が近いのではないかというドロドロになったそれを一瞥。何も上手くいきはしない。このままでは何も解決しないまま埒があかないと、聞く気など本当に心の底からなかったのだが、館林は相良に訊ねた。
男はそれを、まるでそう自身が鐘になって突かれたようだと喩え頭を抱える。
『信玄様、』
その本性を垣間見た。
分かりきっていたこと、初めから分かりきっていたことの筈なのだがどこかに甘い考えがあったのだろう。偽れていると、相手を上手く騙せていると。お門違いにも程があった。差し伸べられた誘いを前に舌は絡れ、何と言葉を返したものかと途端に慌てる。事前に用意していたものはどれも役に立たない。弁が立つ、客商売でこれまで苦もなく食ってきた相手に太刀打ちできる術など男が持ち合わせているわけがなかった。
『何も取って食おうというわけではないのです。店の主人からも良くするようにと言われている、ただ、それだけですのよ。』
目が眩む。それは自分の名ではない仮初の名である筈なのに、あたかも…そう、彼女の職を考えれば言葉を悩む暇さえも惜しむ程。これまでのままごとのような空気は二度と浸る事は難しいだろう。
透き通った艶やかな、キメの細やかな白い肌はあまりにも目に毒だ。纏う色香とは対照的な、悪戯を見せびらかす幼子のような吊り合わない言動に目が眩む。
『信玄様、』
言葉にする必要さえないような、その甘い声色に誘われるように大きく喉仏を揺らしてしまう。目を逸らしてたところで伸ばされた指先が優しく輪郭を撫で上げてくる。与えられる刺激からせめて逃れようと意味もない抵抗を示せば、しかしその先にまるで捕食者のような鋭い眼差しと交差してしまう。
『あら…可愛らしい。』
容易く導かれてしまう。
『愉しいことをしましょう、田舎役者さん?』
『何だその目付きはっ‼︎』
男女の睦まじい逢引に水を差す。
頭の奥底が熱に浮かされて焼き切れてしまったかのような感覚にひどく襲われたその時、まるで冷水を頭から吹っ掛けられたように鮮明に逆上せあがっていた意識がはっきりとする。
この状況から一刻も早く逃せようと、耳にしたそれが怒声であろうとも、いや寧ろ都合がいいとばかりに相良は彼女から距離を置いた。そして藁にでも縋る勢いで立ち上がり、香の立ち込めた部屋を開け放つように襖に手をかけた。
『何事ですか、一体っ!』
本来であれば目立ちすぎてはならないものを、この時の相良はそれすら判断が出来ない程困惑していた。いっぱいいっぱいでどうしようもなかった。余計な事にまで気が回らない、今は少しでも彼女のその魔の手から逃げようと必死で、必死で、必死に…。
頭に上っていた血はまだ下っていなかったのだろう。
眼下、廊下の先、大柄な男に馬乗りにされた、細い、子どもの脚を見た。
『何をしているんですか…貴方はっ!』
引いたはずの熱が再び湧き上がる。
だというのに頭の隅はどこか冷静だ。別人だ、と囁いてくる。分かっている、分かっているはずなのにそれでも、それでも体は勝手に動いた。
掴んだその肩をただただ力任せに強く引き寄せる。普段振るうこともない、振るったことすらないそれは“暴力”と呼ぶのが適切だろうか。相良は馬乗りの男に対して暴力を振るった。
『大丈夫ですかっ⁉︎』
頭を反射的守ろうとしたのだろう、上半身を縮こまらせるその子どもの様子を伺おうと彼は手を伸ばした。
掬い上げたその身体の軽いこと…軽いこと。宵の灯りで一瞬見間違えかと思ったがその“色”には覚えがあった。二日前、通りで不審な漢等に追われていた“色持ち”の幼い少女だ。
『―めん、なさ、い、』
耳を疑う。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、ごめんなさい、見ないから…もう、見ないから、やだ、止め…て、いたい、痛いのは…もぅ、やだよぉ…』
顔を覆う、肘より下のまるで小枝のように細い腕に無数に散らばる変色した痣を前に、相良の脳裏にあの日の少年が浮かぶ。
別人だと、分かっているのに。頭では分かっている筈なのに、相良はそれが我慢できなかった。
「騒ぎを…聞きつけたというのも変な言い方ですね。目を逸らそうにも目の前で起きている事態を無視出来る人がどこにいましょうか。当然のように店の方に取り押さえられました。羽振りのいい客なら何をしてもいいというわけではないというのに、彼女を泣かせた彼は、お咎めはなしだそうです。二度と店の敷居を跨ぐな…と、一頻り殴られた後追い出されましてね。あぁでもきっと、彼女の方が痛かった筈です。違いない。そうに違いありません。あんなにも…あんなにも震えていた…、」
一方的に相良は男を殴ったという。本能からだろう。本能的に彼は、人を傷付けた。
館林二葉という男の知る、相良志朗という男はどうにも不器用だ。不器用すぎて寧ろそこが愛おしい。意味もなく誰かを傷つけることのない、自分の持つ優しさにすら気付けないような男だ。
彼はまるで自分の為に暴力に手を染めたと語るがそうではない。彼は自分の中にあった矜持の為に、目の前で震える少女を助ける為にそれを振るっただけだ。
伝えようものか、伝えていいものかと悩む。それを彼に伝えた所で今まさに自責の念に押し潰されそうな彼の全てが全て救われるとは館林二葉は思えなかった。
どんな言葉を掛けたところで今の彼に取っては、それは気を利かせた慰め程度にしか受け止めてもらえない事だろう。
館林は、
「………とりあえず、飯をどうするか考えやしょうかい。」
やはりまた逸れた言葉を選んだ。
「ところで弥代さん。」
「へいへい…なんですかい伽々里さん?」
人遣いの荒いこと…。
辰味噌屋を出た後、夜明け前に狐小僧に起こされたものだから満足に寝れてないと、長屋に戻って柄でもなく昼寝でも決め込んでやろうと算段を立てていた弥代に伽々里は声を掛けた。
これから日によって直接容態を見た上で薬を用意しなくてはならない家々を回るのに付いてきてほしいと言い出したのだ。
ここまで一人で来ただろうに、その時はどう抱えて持ってきたのかと訊ねたくなる重さの桐箱の、落とさぬようにと断るより前に持ち手を握らされてしまえば退路は断たれた。
後で飯の一つおかずの一つや二つ多めによそってくれればそれでいいや、なんて考えてしまうので弥代も大概だ。以前よりも見るからに絆されているのは明白。討伐屋に顔を覗かせる頻度も明らかに多くなっていた。
残り二軒回ればそれで終いだと述べた彼女は、ふとその軽やかな足取りを止めた後振り返った。それまでと少々異なったどこか揶揄い混じりの、喉奥で笑っているような声で彼女はこう弥代に投げかけた。
「髪を、切りませんか?」
「は?」
「二度同じことを言うのは好きではないのですが、今の私は少々気分が良いので。弥代さん、貴女の髪を切って差し上げます。」
機嫌が悪いの間違いだろうと、喉から出そうになった言葉を呑み込んで、弥代はから笑いを浮かべた。
「え…あぁ、いや…そんないいよ。わざわざ伽々里さんに切ってもらう必要ないし…うん、遠慮しとこうかなぁ。」
「折角の私の誘いを断るというのですか?そうですか……それは、とても残念です。」
「あれ?ちょっと待って…⁉︎なんで俺が悪いみたいに言うの⁉︎あっ!くそ…それ覚えがある…あんぞ…ま、まじかよ…っ!」
言葉の通り、弥代はそれに覚えがあった。相手は勿論伽々里ではないが、こちらに比はないのに汐らしい、あたかもこちらが悪いかのような空気を醸し出す、それを弥代の双子を姉を自称する彼女・詩良が自分に仕掛けてきたのと同じだ。
「違うじゃん!俺何も悪いことしてないじゃん!なんでそんな事言うのさ!?おかしいじゃん!!」
「こういうやり口もあると、後学のために覚えておくと便利ですよ?」
「優しいのか優しくないのかどっちなんだよアンタはっ‼︎」
ちょっと前まですれ違う群衆から向けられていた視線も疎になりだす。今度はさっきよりもハッキリと彼女の喉奥から笑い声が込み上がってきていた。
「……そんなおかしな事俺言ったか?」
「えぇ、おかしいです。腹が捩れてそのまま貴女の周りを囲んであげられそうな程です。」
「冗談でもそういうのは言わないでくださいっ‼︎」
顎を反らしてまで笑うさまは、やはり弥代の知る普段の彼女からは想像もつかない。ここまで分かりやすいと流石に聞かないというのもそろそろ難しい。腹を括ったように弥代は伽々里に、何かあったのか?と疑問を投げかけた。
「…何か。何かとは、何でしょうか?」
「いや…、だって全然いつも通りじゃないじゃん。」
「いつも通りですか。不思議ですね。弥代さんはいつもの私の、一体何を知っているというのでしょうか。」
「なんでそういう話になるわけ?」
「さぁ、どうしてだと思いますか?」
有耶無耶になった矛先を戻すのは骨が折れそうだ。
「伽々里さんが、」
「私が?」
「俺のこと、そんな好きじゃねぇから。」
「そうですね、私は貴女の事があまり好きではありません。」
いっそ清々しい。返ってきた言葉を正面から受け止めるのはどうにも武が悪い。
「ですが、嫌いかと訊ねられてもいいえと答えます。」
「…どういう意味?」
「長く生きてる割に、貴女という人は全く成長せずに自分の殻に籠って過ごしてきたのですね。こうして改めて話してみるととても分かりやすいです。」
薬箱の持ち手を、ギュッと握る。
「感覚として、人でありたいと望む貴女が人を分かり切っていない。意地らしい話。知ってますか弥代さん、人って髪が伸びるのが結構早いんです。一年も切らなければそうですね…早い人でしたら肩から腰まで伸びる事もあるんですよ。」
「ねぇ、弥代さん。」
「貴女はもう少し、人間と関わるべきだと私は思うのですよ。」




