三話
「あ兄っ!おそいぞ!」
「おそいぞお兄っ!見れなかったらお兄のせいだぞ!」
「ぞっ!!」
「こんな体勢で走れってのが無茶なんだよぉっ!!」
片手ならまだしも両手を掴まれて前屈みのような姿勢で早く走れなどと無茶な話だ。ぐいぐいと強引に袖口を引かれてしまえば当然背筋を正す事も出来やしない。声を荒げる前から周囲から注がれる視線に内心いっぱいいっぱいだというのに、更に追い討ちを掛けるように他人の気など知りはしない瓜二つの双子は早く早くと彼、鶴見八勝を急かしたてた。
「急ぐからっ!急ぐから裾引っ張るの止めておくれよ伊代ちゃん千代ちゃん!これじゃ満足に走れもしないよ…っ!」
「気合いが足りないぞお兄っ!」「そうだぞ足りないぞお兄っ!」
「龍之介兄様は腰曲がっててもりっぱに走ったぞ!」「雪子姉様はウチらを抱えて走ってくれたぞ!」
「俺にそれを求めるのはお門違いなんだよぉお!」
同世代の、鶴見家の中でも既に若くしてその頭角を示している従兄弟の名前を出されては普段から自信のない八勝にはひどい痛手だ。
祖父・鶴見与六より直々に鶴見の後継者として指名を受けてはいるものの、齢十七になって未だに功績の一つあげられていやしない。双子の口から発せられた龍之介や雪子の足元にすら遠く及ばないのが現実だ。
見限られているというわけではないのは分かってはいる。でなければ他の店へ手伝いに向かわされるような事はないだろう。但し、のし掛かる期待というものがあまりにも大きすぎる。
「あーっ、もうっ!!」
そうまで言われてしまえばと、腕を伸ばす。きっちり二等分したかのような小柄な二人を抱えて走る事など本当は造作もない。
何かしら自分だってやればできる事を証明したかったのだろうか。後に無茶をして彼が腰を痛めたというのはまた別の話。
熱を奪う、その冷たさが甚く心地いい。
だらしないと分かっていて投げ出した四肢に、再び力を込めようとする事すらどこか億劫に。
岩肌を伝い落ちてくる水滴の音がぽつり、ぽつりと響き渡る、その静けさにひどく安堵する。
変わり映えのない此処は、この場所が氷室はどこよりも好きだった。この場所で過ごす時間だけが彼に安らぎをもたらしてみせた。
しかしそれもあまり長くは続きはしない。決まって彼女が訪れるからだ。
頬を掠める、その感覚に重たい瞼を持ち上げる。
「いつまでそうしているつもりよ。」
静かに見下ろしてくる。否、見下ろそうにもその瞳が日の目を見る事はない。布越しに見てもいないのに見透かされたようにジッと、意識を向けられるのは好きではないのだ。
彼女が、その意志を汲みとる事はない。これまでもそうだったのだから。
「 、」
息を吐く。ひしゃげたその口角が何を意味するかなど彼は知っていた。
「いい加減にして。」
非力なその腕が、胸ぐらを掴む。長く伸びすぎた黒塗りの爪はいっそ自らが傷を負うためのものに映る。
何も間違えてなどいない。彼女がそこまで憤る理由が分からない。彼女が一体なにをもってそれを間違いであると、糾そうとするのかが彼には、氷室には理解できなかった。
まだどこか感覚が抜けきらないのだ。奪われた熱は戻る事はない。再び熱を灯すその時まではいつまでも、いつまでも夢見心地のまま。
名残惜しそうに、彼は静かに身を起こした。
鬼ノ目 五十三話
「こんにちはっ!
本日はお世話になります!」
両脇でぶらぶらと揺れる手足が一、二、三…七、八本。顔を覗かせて早々空気を攫ってみせた張本人は、しかし何とも示しもつかないまま、段差に躓き盛大に転けて見せた。一瞬の出来事であったが躓いた拍子に力が抜けたのだろうか。すっぽりと腕から抜け落ちて、見事着地を決めてみせた双子には傷一つありゃしない。
兄を気遣う事はなく、解放された事で早速元気に走りまわるものだから八勝からしたらたまったもんじゃない。
こちとら軽いとはいえ子ども二人抱えて遅れないように休む間もなく走り続けてきたあとだ。今になってドッと疲れが押し寄せる。転がった体はそのまま起き上がる事すら難しいといった具合か。後、腰が少し痛い。
「だらしないぞお兄!」「そうだぞだらしないぞあ兄!」
「誰のせいだと思ってるのさ誰の!」
こんな筈じゃなかった。本当ならしっかり菓子の一つ用意して余裕を持って先ずはしっかりと挨拶を決めたかったというのに、全てが上手くいかなかった。
「うわ、大丈夫八勝くん?随分派手に転けたね?痛そう…」
「派手に頬腫らした人に言われたくありませんねぇっ!」
差し伸べられた手を支えにどうにか起き上がる。痛そうなんて言葉他人に投げ掛けられる余裕のなさそうな酷い顔をした知った相手だ。
「へへっ、知ってますか八勝くん?頬の腫れってね、中々退かないんだよ!」
「すっごい笑顔だね!え?笑顔で言う事じゃないよ!?」
間違っても笑顔で言う事ではない。底抜けに明るい表情にゾッと肝を冷やしながらもその後方、目当ての人物を見つけて八勝は声を弾ませた。
どこか色褪せた、秋の芒畑を連想させる髪色に、東の生まれの象徴ともとれよう青い瞳を持つ男は八勝にとって憧れの存在。一本、真っ直ぐ伸びた竹のようなブレる事のない軸を感じる。
入口でもたついている自分たちになど目もくれない。青い眼光の見据える先には同様の色を持つ、重たい前髪を持つ男がいた。
その一太刀は鋭いというよりも重たいという言葉が適切だ。上段から勢いよく振り下ろされる鋒はまだ感覚を掴みきれていないのだろう、先革が床を擦る度に表情を険しくさせる。実際の刀とは重さも振り下ろす際の感覚も異なってくる。
これまであまり関わることのなかった相手ではあるが、直接こうして向かい合ってみれば思うのは、よく顔に出る性格だ、という事だ。
身の回りの環境にもまだ馴染めていない様子が見てとれる。視線は忙しなく動き回る。落ち着きを感じられない。
「その程度ではないでしょう。いつ何時、何処で構える必要になるかなど分からないものです。集中しなさい。」
「……集中。」
難しいのは明白。どちらかといえば悔しそうに、下唇を微かに噛み締める姿は見覚えがあった。それは自分に変わり雪那を任せる事が増えてきた、素直な彼だ。
(曰く、藤原に引き取られ幼少期を一時とはいえ過ごしていたそうですから、その時に似たのでしょうか。)
当人らに覚えがないのであれば口を挟む事もないだろうが、向き合う討伐屋の頭である春原千方は二人とこの扇堂家の屋敷で過ごした時期もあったと、話してくれたのもまた彼だ。
数年前に藤原から突然姿を消してしまい、今や縁もゆかりもないだろうが、それでも仮初であっても家族として過ごした時間があったのだから情はあると口にしていた。
一目では分からないがじっとその様子を見ていれば小さな素振りが似ていない事もきっとないだろう。
が、あまりにも本質が彼とは異なる。
「俺には難しい。」
「難しい?何を世迷言を。そんなもの、猿だって出来ましょう?」
弦の擦り合う音は得意ではない。それならまだ木刀のほうが馴染みがある。相良よりまだ刀を握るのは早すぎると止められている為に芳賀が構えるものは古びた木刀だ。過去に春原につけられた稽古でも一度も握った事のない竹刀を上手く扱えるわけもなく、直ぐ近くで打ち合いを続ける二人を尻目に腫れた頬に罨法を施される。
「馬鹿ですね芳賀さん。」
「手厳しいなぁ戸鞠ちゃんは。もう少し優しく労ってくれてもいいのに。」
「稽古中に余所見をするのが悪いんです。反省して次に活かしてくださいな。」
「ご尤もだぁ…。」
骨を折るような派手な怪我はないが手当に抜かりはない。薬師である伽々里は生憎と屋敷にはあまり近寄りたくないという理由でこの場にはいないが、その変わりに屋敷お抱えの医師である男と、その手伝いとして彼の小間使いの中でも秀でて優秀な彼女、下女の戸鞠がこの場には呼ばれていた。
慣れた相手以外に患部を見られる、措置を受けるというのはどうにも違和感が拭えないと思っていたが、医術に精通する者の手つきというものは似通るものなのか。擽ったいと感じながらも抵抗はなく受け入れる事ができた。なにより打ち稽古をしおえた後の処置に罨法を用いるところなどよく知った彼女の手らしい。
「でもあれだな。戸鞠ちゃんに手当てしてもれるなら全然こういうのもありかなって思っちゃうな俺。」
「寝言でしたら寝ながら仰ってくださいな。」
やはり素っ気ない態度で返されてしまう。これは今に始まった事ではないし、初めて会ったあの寒空の下から何一つ変わらぬものだ。その一切自分に対して気を緩めない姿勢がいっそ心地よくすら感じる。
「すっごい間抜け面…」
「五月蝿いよ八勝くんっ!」
膝の中に妹を二人抱えながら背を丸めていた八勝が思わず口を開いた。お目当ての氷室の稽古が見れたのだからそっちにそのまま意識を傾けていればいいものを、と恨めしく睨みつけていると後頭部を固いなにかで軽く小突かれた。
「現を抜かすのではなく鶴見の坊ちゃんを見習いなせぇ黒介。見るのも稽古の内でせぇ。」
上背も肩幅もある男に座っているところを見下ろされるというのは中々に迫力がある。見慣れている芳賀がそれで取り乱す事はないが、まだあまり面識のない戸鞠からすれば焦ってしまうのだろう。上擦った息を飲む音の後、胸元に手を添えて心臓を落ち着かせようとしている様子が見れた。
「ですから見るのは坊の方でせぇ。」
「ちょっあ!館林さんっ!首っ、首を無理に回すのは止めてっ!」
討伐屋の中でその腕力と握力に勝てる物はいない。軽々と米俵を片腕で持ち上げてしまうような男だ。おられた事はないがこの男の手にかかれば人の骨など造作もなく折れてしまうことだろう。
頭をがしりと掴まれてしまえばされるがまま向きを変える事しか許されない。
「あっ、」
それは正に丁度、氷室によって鋭く差し出された突きが春原の脇腹を掠めた時だった。
武士の刀というのは基本的に右手で扱うものだと教えてくれたのは他でもない相良だ。左腰に差し右手で抜刀をするもの。左利きなどかつては御法度だったそうだ。
腰を据えて対面する時が一番分かりやすいか、刀が抜きにくくなる右手に置く事で双方敵意のない事を相手に示してらしい。左利きであっても右で扱えるように矯正をされる事も少なくなかったと聞かされた。
それらも長く一時代を築き上げた作法の名残なのだとか。
そんな中、討伐屋の頭を務める春原は右利きでも左利きでもなければ稀に見る両利きというやつだ。ある程度のものは大差なくどちらでも扱う事が出来る。器用なのか不器用なのか分からないものだ。
左脇腹を強い一突きが掠めたその瞬間、彼は高く構えていた竹刀を、その両手を素早く入れ替え、不安定な体勢であったにも関わらずそこから整った、重たい一撃を振り下ろした。相手が懐に入り込んできた、直撃を免れた状態から切り返すにはなんとも難しい姿勢だったにも拘らず、振り下ろされたそれは相手の、氷室の肩口に深く沈む。
突拍子もない、反撃の一手。ある程度体勢がぐらつこうとも持ち直す、握り返す事で力を込め直し繰り出せるその一撃は撃ち返す事の本来ないものだ。初めてそれを目にして対処など出来るわけがない。がしかしそれで折れるような相手ではないし、彼・春原千方との打ち合いが初めてというわけではなかった。
慣れぬ相手の出方が馴染んでいないのは彼も同じこと。但し、もう反応は出来る。
氷室という男はこの扇堂家において、この榊扇において並ぶ者はいないともされる武人であった。
勝敗の決まりがあるただの打ち稽古とはわけが違う。素早く切り返し距離を取れば、一点鋭く狙いを定める。稽古であるからと手を抜くことはない。実戦も稽古にもどちらにも精通しているその一線は真っ直ぐ、春原の顎下を強く突き上げた。
仏の顔も三度撫ずれば腹を立つ、という言葉があるそうだ。
どれほど温厚な相手であっても、無法な事をたびたびされると怒らずにはいられないという意味だったと記憶している。親しい者からは温厚とはかけ離れているという評価を度々受ける事の多い弥代に四度目はなかった。三度受けて我慢の限界だった。
すぐそこで体を丸めて未だ苦悶に満ちた声を上げる、無精髭を携えた年老いた男の背中を尻目に家の中を見渡す。
「俺は割と心は広い方だと思ってたんだけどな。」
「阿保ぬかせっ!こんな事する奴のどこが心広い言うねんっ!」
「先に吹っかけてきたのはおたくの方だろうオッサン!ガキ相手にムキになってんじゃねえぞ!」
「だ阿呆っ!たまきんに年齢は関係あらんわっ!遠慮なく蹴り上げやがって…使いもんにならなくなったらどないしてくれる言うねんっ!」
なんとも強い抑揚だ。耳馴染みがないわけではないし、何となくで口にしている意味も理解出来るが同じ勢いで言い返すのは些か難しい。それでも弥代はお構いなしと言わんばかりに啖呵を切り返した。
「そもそもの話、よく知りもしねぇ奴にいきなり二日と続けて水ぶっ掛ける方がどう考えたって悪いだろうがっ!テメェの事棚にあげて怒鳴り散らすのはお門違いだろっ!」
「んなあからさまに怪しく店先から覗くような奴おったら誰だって不審がるに決まっとるやろ!」
「仕方ねぇだろ!店ん中入れる余裕なかったんだからよぉ!」
ここは里の東区画。北東門から里の中心に続く大通り沿いから二本程奥まった通りに面する豆腐屋だ。
店の名前が上総豆腐屋という。名前から察しがつくように以前は相模国ではなく上総国に小さな店を構えていたそうで、十年ほど前にこの榊扇の里に移り住んできたようだ。
豆腐屋といえば弥代の知る限りではわざわざ店先に足を運んで買うものではない。豆腐売りが桶を担いで一軒一軒長屋を渡り売り歩くものだ。そうではなく客が自ら足を運ぶという事は余程の事だろう。
所々白髪まじりの、元は緑であったろう部分部分不揃いの髪を垂らす、見てくれだけならその無精髭と相まってどこか浮浪者のように映る。
思わず勢い任せに蹴り上げてしまった際の痛みは引いたのか。ようやっと横たえていた体を起こし、その男は改めて大きく胡座を掻くと真っ直ぐ正面から弥代に向き合った。
「そんで、本題はなんや。」
一変。まるで人が変わったかのように男は口を開いた。それまで纏っていた空気ではない。殺気と表現するには多少大袈裟な気もするが、肌を突き刺すようなその空気は一瞬にして弥代の意識を呑もうとしたが、後少しという矢先に水が差された。
「もぉ!隅田川さん起きたなら手伝ってくださいよ!俺一人じゃ捌ききれませんって。待たせてちゃお客さんに悪いでしょう!」
またも空気は一瞬で切り替わる。
先ほど長暖簾を潜り土間の方へと降りていった、ここ三日ほど弥代も顔を見ている深い青髪の青年だ。
「アカンで坊主!場の空気いうもんはなるたけ読め教えたるやろがっ!」
「客足に天気に市場に空気って…、どんだけいっぱい俺に読ませる気ですか?何から読めばいいのやらですよそれじゃあ。」
「先読みできそうなもんはひっくるめて全部読んどきっ!したら食いっぱぐれる事ないでぇ!」
「……何の話だよ、おい。」
何とも締まりのない会話だ。
話しながら重たい腰をゆったりと持ち上げた、隅田川と呼ばれた男は青年の横を通り過ぎ土間へと降り立つ。
そしてその場で大きく一つ手を叩いてみせた。
表店の、決して広くはない土間に並ぶ客の視線だけでなく意識がその男へと傾いた。
「いよいよ!気分はどうだい寺子屋の大将っ!またかかあにドヤされてお使いかい?大変だねぇ、ご苦労なこった。お疲さんだろうよこいつは頑張り屋で愛妻家のアンタにおまけだ。浮いたもんで美味いモン食ってもよし、かかあのご機嫌を狙ってもよしときたもんだ!頑張れよ!」
「おー、お次は何だい?科さんとこの女房じゃねぇか?…へぇ?息子が最近悪戯を覚えて家事が進まねぇ?そういう時こそ寺子屋だ。小せぇ内にしっかり学ばせておけばいつかその内花開くもんで、丁度……ほらまだ帰ってねぇな大将!相談するなら今だぞ。あ?んなもん近ぇ近ぇ。そこらで小便して帰ってくんのと大差ないわ。一石で三鳥どころか四鳥だって狙えちまうと思うぜ?おぅ、とこで本日は何丁お求めで?」
「なんだい三浦の嬢ちゃんじゃないか?えらく美人になって……え?一昨日も同じ事言っとった?調子の良い事言うなって?はは阿呆、何や毎回思わず口が滑ってまうぐらい飽きんぐらいには美人いう事や。胸張りって四ツ谷んとこの坊主に声掛けてきたらええで。」
「…へぇ、最近食欲が湧かんけど豆腐は食えるって?これから夏に向けてそれは良くないなぁ?角ん処のあの婆さんの梅干し、あれ良かったら一緒に食ってみぃ?疲れもよぉ効くわ。それとあれや、ちょぉ火で炙っての。焼き目ついたら味噌、味噌乗せてみぃ。前にしたら湧かんもんも湧くさかい。」
「佐々木の婆さん!わざわざ店に来んでも毎日儂持っていくいうたやろ!…は?はよ儂の声が聞きたかった?かーっ!そんなもん爺さんに言ったれや!また猫に浮気されるでぇ!」
ベラベラと何ともまぁ舌の回る男だ。
並ぶ客一人一人に話題だけでなく態度も声色も変えて、巧みな話術で客商売をする。品が良いと言うよりはこれではこの男目当てに店を訪れる者が後を絶たないといったところか。既に勘定を済ませて横に捌けた客が横から声を掛けても嫌な顔一つ浮かべず、器用に会話を途切らせる事なく続ける、傍から見ても異様な光景だ。客の表情はどれを見ても明るい。
あまりの勢いに目ん玉をかっ開いてあんぐりと口を開けてしまう弥代は、入れ違いで茶の準備を終えた青年が声を掛けてくるまで暫くの間そのままだった。
「いやぁ、驚いちゃいますよね!俺も初めの頃はびっくりしちゃって…。」
「驚く驚かないの話かよ。…初めの頃はてーと、何だ?込み入った話、詮索するわけじゃねぇけどよ。親子ってわけじゃねぇんだろうな。」
似ても似つかない。丸い大きな瞳がなんとも愛嬌のある彼と、先の男に血の繋がりがあるとは到底思えない。以前雪那から“色持ち”の子が同じ“色”を必ずしも持っては産まれないという話を聞いたことがある。逆も然り、“色”を持たぬ者同士の間に突然“色”を持って産まれる子どもが授かる事もある。面立ちからしてもいくら似た部分を探しても見つかりっこない。あまり他人の顔をジロジロと見るのは好かない弥代は首を傾げる。そして彼が青年と呼ぶには少々、いやあまりにもまだ年若い印象を受ける事にも気付いた。
「ちょっと前…もう半年ぐらい経ちますかね。それぐらいから一緒に暮らすようになった、…両親の知り合い?ですかね。」
どうやら先の冬に先立たれた妻の後を追うかのように、彼の父親はこの世を去ってしまったようだ。彼の両親と面識があり恩があったという先の男が成り行きで、今は何かと面倒を見てくれているという。
これを聞いて何かしら裏がありそうだと勘繰ってしまうのは相変わらず弥代の悪い癖だ。
聞こえだけなら美談にしたって疑われなさそうな内容だ。。
隅田川禎一郎、その男が店に立ち客に声を掛けたところ、それまで荷車を引き摺って一軒一軒家を回る事の多かった商売がガラっと変わってしまった。
先ほど弥代が感じた通り、まるで彼に会いに、彼を一目見て言葉を交わす為とでも言いたげに、わざわざ店に足を運ぶ客が一気に増えたのだ。
直接言葉を交わした限りなんとも口の達者そうな男だった。こちらが何を言わずとも勝手に会話が先に進むような、主導権を握られたかのようなやり取りに違和感を覚えたのは確かだ。これが客商売となれば、客の望む話に華を咲かせる事も容易いのだろう。分かってやっているのだとしたら何とも性根が悪そうだ。
一緒に肩を並べては話し方のコツを、客の目を見て話を進める術を教わりはしたものの、元来そういった事があまり得意ではないという豆腐屋の、空畑という少々変わった名前の彼は難しい表情を浮かべてそう吐き出した。
店が繁盛するのが嬉しくないわけがない。しかしその反面何となく分かってしまう。隅田川なしではもうこの店を回すことは出来そうにない、と。
両親が自分の為にわざわざ生まれ育った土地を離れ移住してきたこの地において、両親亡き後自分の力及ばずで店を潰してしまうのは心苦しい。決して店を守りたいからという気持ちで隅田川にいてほしいわけではないのだと空畑は溢した。
実の両親とは周りから見れば孫と祖父母かと勘違いをされる事も少なくはなかったという。歳を重ねてから授かった自分だが、本当はもっと周りの親子のように過ごしたかったのだという。それがどうしてか血の繋がりのない、ただの両親の知り合いというだけの男と少しでも叶ってしまっている。歯痒くて仕方がないのだと彼は言い残して、空になった湯呑みを持って店先、土間の方へと降りていった。
何も事情を知らぬ相手だからこそ吐き出せる言葉があるのは身に覚えがあった。以前は自分が吐き零す側で。だから受け手となる側がこんな心境になるとは知らなかった。 だからこそ弥代は、ほんの少しだけ行き場のない感情を持て余して、そうして日が暮れるのを待った。
「まぁ、よ。アンタがその恩返しで倅さんの面倒見てるのは別にいいだろうけどよ、それで買い占めをするってのはちっと流石に俺も良くはねぇなって思っちまうわけだよ。」
豆腐屋の店終いは早い。
朝、日が昇るよりも早く、暗い内から豆腐作りに勤しむからだ。日が暮れると同時に暖簾を下げて早いところ床についてしまう。
慣れた動きで早々に空畑が奥の階段を登って二階に消えるのを見送った後、貴重な灯りを灯した下の一室で弥代は静かに、猪口を傾ける男に対して苦言を呈した。
「俺の話じゃねぇけどよ。知人が嘆いてたんだわ。どっかの豆腐屋が突然、商人から大豆を買い込んじまって自分らの店にまで回って来ねぇってな。」
「阿保ぬかせ。元値より遥かに安く、こっちは言われれば分けてやってるわ。知人言うのも適当やろな。欲しけりゃ来いって話は流しとるんやから、そっちに来れん理由がなきゃ、嘆くことなんかあらへんやろ。」
要らぬ口を滑らせてしまったと、弥代は小さく奥歯を噛み締めた。これは一筋縄では収まりそうもない話になりそうだ。昼時の客商売を目にはしていたがこうもあっさりと全く話したつもりもないのに、情報を出したわけでもないのに汲み取るように正しく並べられてしまうとは至極面倒だ。
酒を口にしてこうもはっきりと頭を働かせられる者がいるとは思ってもみなかった。侮っていたわけではないが脳裏を過ぎるのは身近の、毎度酒に溺れては痛い目を見ても性懲りも無く手を伸ばす人物だ。
日も暮れた為、弥代は一度この話を持ち帰ることにした。
同時刻
東海道は馬入川を直ぐ脇に持つ榊扇の里の南東門。宿場町としても栄える平塚宿の中でも一際目を惹く、品のある佇まいを見せる店先で女は籠から爪先を滑らせた。
ここ最近は十日と日を空けずに同じ店の敷居を跨いでいる。薄れつつある文化が今も栄える宿場町の一角では残っている。女はこれを特段気嫌う事もあまりなかった。
四六時中店で過ごすようはこうして外の空気を吸えるというのは十分にいい気分転換となった。何よりも女自身はひどく刺激というものに飢えていた。
「雛菊殿、お待ちしておりました。」
出迎えるのはよく見慣れた、店にも頻繁に顔を見せる事の多い、欲深そうな顔つきが見て取れる、家名にそのままこの地の名が含まれる、この地とは切っても切り離せない縁のある男だ。
「こんばんは、平塚様。今宵も月が綺麗ですわよ。空は既にご覧になられまして?」
女・雛菊は既に紅の引かれた口元を緩やかに動かした。
先の卯月に偶々顔を合わせたその客人は、甚く雛菊を気に召したそうだ。金が掛かるというのに自らが店に出向くのではなく、既に五回程、この平塚の揚げ屋に彼女を招いていた。それほどの金であれば店なら一度夜を共にすることも出来たろうに惜しい事をしたものだと、店の遣手婆がいらぬ世話をやいて小言を零すのはつい先刻、店を出る際にも耳にしていたために記憶に新しい。
齢三十を迎えても未だに女を知らぬという男だ。遊びの一つ知らずに剣に長年明け暮れてきたのだと上機嫌そうに語る、その掌には中々お目に掛かる事のない隆起が見てとれた。
その歳までそうあったという姿は新鮮で、雛菊もまたその男を気に入っていた。
店に連れ込めば大金を落とすと言われたが、そんなまだ弄り甲斐のありそうな男を丸め込んで食い物にしようと思うほど落ちぶれてはいない。その程度で口にする飯など大して美味くもないのだから。それよりも店の声が届かぬ部屋の中、男の下手な芝居と腹の探り合いのごっこ遊びをする方が彼女は愉しくて仕方がなかった。
雛菊という女はそういう女なのである。
その女と初めて顔を合わせたのは四月も半ばの頃。
この平塚宿店を構える揚げ屋の、丁度今と同じ居室であった。
屋敷より調べるように仰せつかった一連の件。元よりある程度の目測は立てられており、屋敷の握る情報の中にこの揚げ屋と、恐らくは何かしらを知っているであろうとされる名簿の中、その一つに彼女の名があったのだ。
今まさに、目の前で静かに腰を落ち着かせる遊女・雛菊である。
東海道五十三次は日本橋より順に、品川、川崎、神奈川、保土ヶ谷、戸塚、藤沢、平塚。数えて七番目のこの平塚宿は手前に大きな馬入川を挟みはするものの、対岸は船を待つ商人なりが足を留めるのに、他と較べてもよく栄えていた。長旅の慣れていない商人であれば一日で日本橋から進める距離も短く、そういった点においても平塚宿という立地は、この時代夜を過ごすには丁度いい場所だった。
そしてその様な場所では、語るまでもなくそういったものに需要は偏った。
近隣の宿の、中でも特別敷居の高い。里の主導者である扇堂家が贔屓にする、扇堂の屋敷に商談に訪れる商人らがあてがわれる事も少なくはない鶴見亭。
そこにわざわざ一人泊まる、三十そこらでやっと家督を継いだという男が、どこかで遊べぬものかと息巻いて紹介を受けたのがこの揚げ屋という体だ。これらの下地を用意したのは当然扇堂家だ。正直そこまでご丁寧に用意をするのであれば、それこそ扇堂家で全て片付ける事も出来たろうにやはりその真意は読めぬというもの。
そうして顔を合わせた女は、なんともまぁ自分を中々に飽きさせてくれやしない。
幅の広い話をしたところで切り返しの言葉選びを含めてたまげたものだ。ある程度器量もあり学もなければああも上手くは返せない。返しが上手いのもそうだが話すこちらの姿勢に向かい合おうとする態度、その姿勢は実に好ましい。時折子どもが揶揄うときに見せるような無邪気そうな表情などどうにも関心を唆る。
気を乗せるのが大変に御上手で思わず困ってしまうのはたった五度で何度あった事か。こちらにその気がなくともスッと絡められてしまう。まるで誘い込まれるかの如く。
女郎、という言葉がまさしく相応しいと感ずる。
(勿論、目的を忘れたわけではありませんが。)
いい加減早く終わらせて下さいよ、なんて小生意気な態度で叱言を漏らす事を覚えた教え子に、最近は屋敷の近郊の道場で朝から日が暮れるまで打ち稽古に参加している、誰よりも幸せを望む彼と、志を共に掲げる彼。そして何よりも自分が惚れた女を思い出す。
連日ではないがこんな事を繰り返していて、自分が知らぬ話題が目の前に転がり話に入り込めない食卓も、不貞を働いたわけでもないのに彼女から向けられる冷ややかな視線も、もう勘弁願いたいのだ。
既にこの一連の事を終わらせるだけの材料は、相良志朗という男の手元に揃っていた。ただそれを彼女・雛菊に伝えずに勝手に屋敷に報告して終わらせる事を、彼は望まなかった。
彼女に対して腹を割って話し終えるのには普段通りであれば如何せん時間が足りぬやもしれない。口の上手い彼女相手では今宵一晩ではどうにも話し終えられる気が湧かない。
これまでとより少し早く、それこそ西の空がまだほんのりと赤く色づく内に店に訪れたのだが、やや失念。
夏を控えた時節の夕暮れというものは長く、陽が傾くのは常よりも遅いのだ。
やはり相良自身も今宵限りで終えるのは惜しいと、心の奥底ではどこかで感じているのだろうか。
これだから自分は甘いと馬鹿にされるのだと、彼はほんの少し頭を抱えた。




