乙
ぐずるその小さな体躯を見下ろす。在り所がまだ定まっていない小さな小さな頼りない指をぎゅっと、握りしめる。呼吸をするだけ膨らんで、萎んでと繰り返すそれはまるで心臓そのもののように目に映った。
一つ力加減を間違えてしまえば、粋のいい臓物のように弾け飛んでしまいで。誰に言われたわけでもないのに大切に、大切にしなくちゃいけない気がして、だから、ボクは、
断簡・乙
大切、大切なキミ。
キミはどこへいくの?
ボクを置いて、どこへ行ってしまうの?
ボク以上にキミを愛してあげられる奴なんているわけがないのに、
キミは、キミはどこかへ行ってしまう。
それが、それが自分の望みだとハッキリとボクの目を見て。
そんなわけがない。
そんなわけがないよ。
そんなの認めない、ボクが認めない。
キミ、キミは、キミがいるべき場所はここなんだ。
手を、取る。
その手を、握る。
離すものかと、躍起になる。なる、なるに決まっている。
振り上げるつもりのない手を、また、またボク、ボクは、ボクは振ってしまう。
そんな、そんなつもりはなかった。
そんなつもりはなかったのに。
ボク、ボクはただ、ただキミと、キミ、キミが、キミがいてくれれば、それで、それだけで良かった。なのに、キミが、キミがボク、ボク、ボクから離れよう、離れたいなんてそんな事を言い出すから、言わなきゃよかったのに、そんな事言わなきゃよかったのに、言わなきゃ、言わなきゃ、言われなきゃ分からなかった、分からなかったらこんな、こんな、こんなこんなこんな事を、ボクは、ボク、ボクは、しなかったのに…っ!
キミ、キミの色。
色に埋もれるキミの、その額からどくどくと溢れてくる、それ、それはボクの色。他でもボクの色。
キミ、キミはボクとは違う。キミの色をボクは持てない。持つことが出来ない。出来なのに、すごい、すごく、凄いなぁ、と思わず思ってしまう。そんな事を考えたわけじゃないのに、あぁキミの、キミの額から溢れ落ちるそれ、それは紛れもなく、紛れもないボク、ボクの色で。
だからキミは、キミはやっぱり、やっ、やっぱり
『ボクは、キミのお姉ちゃんだ。』
執拗なまでにその傷口にペタペタと、初めて触れる存在を確かめるかのように彼女は指を這わした。
水面に映る、昔から不気味がられてきた。屋敷の中においても異質すぎるその“色”が故に、幼くして母親からさえも見捨てられ、与えられるものは限られていたにも拘らずそれでも長く、長く生き永らえてしまったその存在は、やっと己に近しい存在を手にしたとでも言いたげに歓喜に打ち震えた。
彼女の腕は、震える自身を抱きしめることすら出来ない。抱きしめられたなど一度たりともないのだ。
身を揺らしながら発せられる笑い声は、いっそ泣いているようだ。当然のように彼女がそれに気付ける事はない。彼女は、ただ…、
『−結、』
その温もりを、ただ求めていた。
見えぬ位置に差し込んだそれを手に取り、彼女はそれをくるくると回す。それだけを見れば風車か何か、子どもの玩具のように男の目には映っただろうが、生憎とそれはそんな値では足元にも及ばない程高価なものだった。
しかしそれを男は知る由もなく。ぼやけた視界では、ただ彼女が何かを手に取って、悪戯のように弄っているようにしか見えなかった。
「良いんだよ、もう別に頑張らなくても?」
聞くに堪えないか細くなった呼吸が、鼓膜を揺らす。絶え絶えになりつつある息は、それでも生にしがみ付くように最後の最後まで鳴り続ける。
そんなものは要らない、そんなものよりも彼女の傾けてくれる声に意識を向けていたいと、思い通りに動くこともなくなってしまった震える指先を伸ばし、伸ばし、伸ばした先で掴んだ。
「何だい?何か言い残したい事でもあるのかい?」
指通りのいいその毛先が、頬を掠めた。
それだけで、それだけで男は満たされてしまった。
心残りなどありはしない。もしあるとするのならば、それは彼女を置いて先に逝ってしまう事で。
他がどうであるかなど知らない、柔らかいその感触がそっと降ってくる。
「おやすみ、稔さん。どうか、良い夢を。」
日に日に、擦り減っていく何かを求めるように。必死に補うように彼女は愛を求めた。
自分を見て欲しかった。自分を必要としてほしかった。自分だけを愛してくれる何かを、彼女は求めていた。
どのようにすれば愛してもらえるのか、どのように振る舞えば愛を乞う事ができるのか、どのようにすれば優しく接してもらえるのか。
それまで外へ出たことのない彼女にとって、それらは全て未知の世界で。右も左も分かるわけがなく。
ただ一つだけ分かっていたのは、今にも擦り切れてそうな何かは、そう簡単には満たされないという事だけだった。
執拗なまでに、執念深く彼女はそれを追った。
何故意志を持ち、自ら酷い目に合う道を選ぶのかが彼女には理解出来なかった。理解、理解出来るはずがない。
知らぬ存在。それまでの事を何も知らない存在に対して、どう知ればいいのかが分からなかったのだ。ただ出来た事は、植え付ける事。
かつて、もう二度としないと誓った約束を破ってしまった。一度破ってしまえば後は効力もありはしない。破るのは容易で、ただ振り下ろした。
言うことをきいてくれないから。離れようとするから。置いていこうとするから。話を聞いてくれないから。大人しくしていないから。傍に、いてくれないから。
些細な理由でも関係ない。
些細な理由だからこそ必要なのだ。
彼女の行ったその行動は、自分を見捨てた母が後に産まれた子に行っていたものと同じだから。
良い子になるためには必要なのだと、言っていた。
同じことをするのにそれ以上に理由はいらない。
傷は塞がる。時間が経てば何事もなかったかのように塞がる。それならいくら振り下ろしても、何も、何も問題はない。
『駄目だよ、結。どうして、どうして嫌がるの?どうしてボクから離れようとするの?ボクを置いていくの?ボクの気持ち考えた事がある?どれだけ、どれだけ悲しいかキミは分からないのかな?分からないから同じことばかりするんだよね?そうやってボクを悲しませるんだよね。悪い子、キミ、キミはなんて、悪い子なんだろう。』
赤い、赤いその瞳に疑念を抱く事すらない。
以前あの子が、どんな“色”をしていたかすら彼女にとっては関係のない事。ただ、ただ、
『だからね、キミはただボクの傍にいてくれれば、それだけで良いんだよ。』
愛してくれなくたっていい。キミに愛されなくたって構わない。そう言いたげに、あの頃と同じように力なく横たわるその体を抱き締める。
自分は抱きしめられた事などないのに、これが一番キミを感じられていれるからと、強く、強く抱きしめる。
『結、』
母の声を思い出す。
一度として名を読んでくれる事はなかった。いや、あったのかもしれない。彼女にその記憶がないだけで、それなら。それなら自分の持つ名は何なのかと、これは何であるかが分からなくなってしまうから。
『結、』
自分と同じ思いをさせないように、ひたすらにその名を口にする。呼びかける。キミの名前だと言わんばかりに。
『結、』
『結、』
『結、』
『結、』
何を伝えようとしたのか。分からない。
その名を呼び続けた。呼び続けて、それ、それで…
『違う。』
気がついた時にはもう遅かった。
『俺は、結なんかじゃない。俺は、俺の名前は、』
自分のよく知るあの子とはまるで正反対な、その姿を前に彼女は何を間違えたのかを深く考えた。
『違わないよ。』
嘘だ。全く違う。
『違わない。違わないよ?何もおかしくない。なんにも、なんで?どうして意地悪を言うの?キミ、キミは結だ。ボク、ボクはだってキミの、キミのお姉ちゃんだから。ボクがお姉ちゃんなら、キミが結じゃないとおかしいんだ。おかしい?おかしくない…ううん、何が違うんだろ。キミと結、それは、何が違うんだろう?』
見て見ぬふりを続けていた答えが、足元に転がっていた。自分が手を下した、自分が殺めたはずのあの子が、結が、たった一人の家族が。その感覚を思い出す。その感覚を思い出して尚、長い時間を掛けて歪んだ世界はそう簡単に色褪せる事はない。
心が壊れないように、必死に繋ぎ止める。
彼女は、自分を騙した。
『やぁ、弥代?そろそろボクの所に戻ってくる気になった?』『酷いな。ボクはただ、キミと一緒にいたいだけなのに。』『お生憎様。ボクがしつこいことを一番分かっっているのはキミなんじゃないかな?』『ねぇいつまでそうやってるの?』『どう、新しい拠り所は?』『学ばないねキミって奴は。大違いだ。』『大違い?何と?』『なくなっちゃら、ボクの所に帰ってこないかな?』『どうして泣いてるんだい?どこに泣く必要があったっていうのさ。』『悲しいの?ボクとお揃いだね。』『それ以上を望みはしないよ。ただキミはボクの傍にいてくれればそれでいいんだ。』『どうしてそんな事を言うの?ボクが、何をしたっていうのさ?』『そうやって繰り返すんだ。』『よりによって、よりによってあの生き残りか。』『キミが傷つく前に終わらせてあげただよ?』『待って、待ってよっ!』『どうして、どうしてそんな事を言うんだ?』『それがそもそも間違ってるって言ってるんだよ⁉︎ねぇ、どうして?どうして分かってくれないの?』『ボクを見てよっ‼︎』
「ボクは結構、貴方の紡ぐ言葉は好きだったんだけどな。」
自分よりも幾分か大きなその体に腕を回し、何食わぬ顔で彼女は外へ出た。
「少なくとも、少なくともね。ボクにだって選り好みはあるんだよ。だからその、そこそこ貴方の事をボクは気に入ってんだ。」
どこで間違えたのか。悔やむ程の思い入れはなかったが、もう二度と共に過ごせないのかと思えばほんの少し、少しだけ寂しく思った。
「貴方も寂しそうな人だったから。だからあの時声を掛けたりしたんだよボクは。ボクは優しいから。ボクの優しさを、貴方は身をもって知れたというわけだよ。」
返事がないと分かっているからこそ、紡げる言葉もあるのだ。生前の彼を、その文字を褒めるような真似は一度もしなかった。
「ボクはとても魅力的だから。言い寄ってくる人はいくらでもいるわけだよ。そういう意味ではね、ボクの方から声を掛けたのは、この里では貴方だけだったんだよ。」
あった筈の居場所を失ってしまうというのは怖いことだね、と彼女は呟いた。
「分かるよ。分かってしまうな。ぼんやりとしか覚えてないけれど、何となく分かるんだ。」
その声は、ひどく穏やかなものだった。
普段の彼女をよく知る者がそれを耳にしたとなれば、彼女に一体何があったのかと心配をされてしまうそうなほど、穏やかで。そう、それはまるで
「おやすみよ、稔さん。」
四月も暮れとなれば、水路に浮かぶのはどちらかといえば葉の方が多い。掌で掬った一枚の花弁を彼の手に乗せて、自分が濡れるのも構わずに、水路に静かにその体を横たえた。
「ボクは少しだけ、怒っているんだ。」
「ボクに黙って、あんな物に手を伸ばした貴方を、ね。」
誰に聞き届けられることもない、それは、
『同じ鬼だからとかじゃない。そういうの抜きで、俺はお前と一緒にいたいんだ、詩良。』
「……。」
今宵はどうやら宴があるようで、己にも誘いの声が掛かった事を思い出した。そんなつもりはなかったのに、月明かりが照らす、一際綺麗な水路を選んだだけだったのに、余計な言葉が脳裏を過ぎる。
「それらを抜きにして、ボクがキミと一緒にいれる理由は、どこにもありはしないんだよ。」
そう、ありはしない。
分かっている。分かっている筈なんだ。
なのに、どこかで期待してしまう。
「一緒に、いれるものなのかな。」
期待?違う、そんなものじゃない。
これは、なんだ。分からない。分からなくて、ただ詩良は、
「………駄目だよ。」
付き合い方を、向き合い方を変えねばならないと、そう思う。思って、思って尚も、ほんの僅か、ほんの少しだけどこかで望んでしまった。
なんでもない自分が、あの子の隣に並ぶ姿を。




