十五話
耳に届いた、いやに忙しない音に意識を傾ける。
取り繕う暇もないだろう荒々しい足音は、締め切った屋内に強く反響しているのだろうか。窓枠に預けていた半身を緩やかに持ち上げれば、まるでこうなる事が分かっていたかのように彼女はひどく落ち着いた様子で、その不躾な客人を迎え入れるように背を正した。
「一体全体、何をそこまで焦る必要がおありだというのでしょうか、平塚様。」
開け放たれた戸の先、肩を揺らす、息も絶え絶えといった様子の初老の男がそこに立っていた。
「どうもこうも、これが焦らずにいれると御思いでしょうかあざみ殿?後先を考えていただいた上であの様な選択をなされたと仰るようでしたら、こちらも出方を伺わせていただく必要が御座いましょうぞ。」
嫌に性急なその物言いに、普段の冷静さはとてもではないが微塵も感じられない。人当たりがいいと評判の上っ面はどこへやら。五年以上の付き合いの中で、そうまで堕ちたような表情を目にするのはこれが初めてであった。しかしその汚い欲まみれの本質を薄々勘付いていた彼女はそれを驚く事はなく、微笑を浮かべたまま垂らしていた頭を静かに持ち直し、口を開いた。
「御耳に届いておりませんのね。寧ろ感謝していただきたいですわ。大主様が目覚められた今、雪那様が見つからないなどといった状況が続かず、騒ぎが屋敷に留められたままで終えられる事が出来た事。首の皮が繋がったのでございます。よう…、ございましたね。」
小馬鹿にしたような態度に、すっかり頭に血が上った相手が掴みかかってくる事は想定の範囲内だった。わざとらしい挑発にすら気付ける余裕さえもないのは分かりきったこと。状況を整理すら出来ないままの相手が、どこか饐えたような匂いを纏って一気に迫ってくるのを不快に感じうるも、この場において自身の方が優位な立場に立ち、話の舵をきれるだろう確信を得た彼女にとっては言うほどそれが苦行には思えなかった。但し、早く終えたいものだとは願う。
「なっておりませぬな。口の利き方には気を付けられよと、再三お伝えした筈ですが?」
「ご自身の行動は目に見えておりませんの?胸倉に掴みかかりながら、教えを説くのはよろしいのかしら?」
息が詰まる事には変わりはない。振るわれる寸前と言っても過言ではない暴力に前に屈しぬよう、気を張ることに精一杯になる。袴の下、表には決して見えぬ位置は当に震えている。決して気取られぬよう、相手を掻き乱して相手に取り繕う隙すら与えない。自分の方がどれだけ必死だろうか。
「正面から屋敷に出向いておいて、私の身に何かあればご自身に降りかかるであろうものはお分かりでしょう。どうか賢明なご判断を。」
喉の奥から呻き声を漏らした相手が、これ以上自分にこの場において手を出してこれない状況を作り上げてみせてから、あざみはそう言い捨ててみせた。
大主が意識を失ってから早いもので四月程が経とうとしていた。その間に自らの意志で食事をする事など出来はしない。寝たきりの病人だっていつまでも生きられるわけではない。
大主の意識が戻られない間、その責務を肩代わりする事となった扇堂美琴や、大主に近しい位の者らは再び目覚められる事と諦める事はなかった。あの手この手と意識の戻らぬ相手が延命出来るようにと策を講じていたそうだ。
何もその努力が実った末に大主が目覚めれたとはあざみも考えていないが、四月もの間意識を取り戻さなかった者が目を覚ました、それだけで奇跡と呼べよう。(それならもう五年以上目を覚ましてくれない兄はどうなるのかという考えが拭える事はない。)
それを水神の加護、あるいは人ならざる神仏の御意向ではないのかという言葉も耳にしたのは、相変わらず弱々しい脈を打つ、弟の体を拭う為の湯を汲みにいった際だ。
聞き耳を立てたわけではないが屋敷内においても居ようと居まいと関わられる事のない噂好きな下女達が口紡ぐのを聞いてしまった。
雪那と言葉を交わした前日の晩の事であった。
「あの様な選択を、と仰られましたわね。後先考えずに行動を起こされたのは平塚様ではございませんか?拐うなどと。そのような行動、これまで取られる事はありませんでしたでしょうに。肝が冷えたものです。」
「…杷勿殿の意識が戻られたというのは真か?」
「えぇ、恐らくは既に数日と経っておいでかと。」
下女にまで伝わるという事は昨日今日の事ではない筈だ。屋敷お抱えの医師の手伝いにと、彼女のお付きをしている下女が忙しなく駆け回っているというのを聞いたことがあった。
「存命の内に行動を起こされるのは控える筈ではありませんでしたか?」
これまでの下地を全て無駄にするつもりなのかと、あざみは詰め寄るように投げ掛けた。
などというのには、全て建前に過ぎない。
埒があかないと投げやりに踵をかえした相手の背中を見送った後、すっかり痙攣しきった下肢を投げ出し、あざみは漸く深く息を吸った。耐えるしか出来ない、堪えることしか出来はしない。何も持たない、何も得られなかった弱い、弱い生娘だ。
いい様に利用されるだけの立場。これまでの彼女であればそもそも先の相手にああまで強く噛み付くような言葉を選ぶ事はなかっただろう。それを兆しと呼んでいいのかすら分からない。
(心変わりと、呼ぶ事すらきっと許されない。)
知らなかったというのは理由にならない。何も知らない赤子のままでいていい歳ではない。とうの昔に成人を迎え、行く宛など他にないから屋敷に縋っているだけの自分が、誰かを言い訳にして許されていいわけがない。
周囲の大人達を信頼する事が出来ればもっと違っていたのだろうかなどと考える事すらお門違いだろう。今になって大主に、扇堂杷勿に対して自分が置かれている状況を、里において一部の者達が企てている背景を伝えて、それで事なきを得られるなど思ってもいない。
(私は、ただ…、)
ただ、雪那に、
『あざみ、…ちゃんっ!』
顔を覆う。違うのだと頭を振るう。どうすればいいのか分からない。何をすればいいのか、どうしたらいいのかが分からない。
「助けてよ…兄さん、」
「それで、話は付けられましたの?」
傾けられた徳利はそれで幾度目か。既に断る理由など持ち合わせてはいない。ある程度胃は満たされているし、なにも嫌っているというわけではないのだから良いのではないかと空になったばかりの猪口を注いでほしげに軽く揺すって男はご機嫌に口を滑らせた。
「そうですねぇ、どうにかこうにか上手く収められたようで一段落付けたと言いますか。いえいえ、一時はどうなるものかと思ったのですが杞憂で済みました。やはり慣れぬ土地で商売というのはいやでも肩が張ってしまいます。良くありませんね。」
酒に弱いといってもそれは大抵翌朝のこと。時間になれば鶴見亭の遣いが迎えに来てくれる算段となっている為に、自制の効きそうな範囲内で頂戴すればいいだけの話。呂律が回らなくなってしまう程飲むような事はない。
あくまで請負った依頼の範疇である事を理解しながら、男は眼前で優雅に構える女を見つめた。
髷というのは鳥帽子を被る際に髪を纏めて帽子の中に収めるために結われていたのだと、そう話していたのは知識人であった祖父だ。古く江戸の頃は誇り高き武士も身嗜みを心掛ける習慣があったようで、長く伸ばしきった髪というのは野暮ったらしくあまり好まれなかったそうだ。そういう意味では髷を結う事が出来るのは身分がある、気品があるという印象に繋がるのか。今となっては珍しい、行燈が微かに揺れるそれに合わせて、手入れの行き届いた黒髪が艶やかに照らされるさまは、男の平常心を掻き立てた。
(解かれた髪は、さぞ美しい事でしょう。)
その髪を更に彩らんとばかりに差し込まれた、幾本もの簪。中でも細やかな透かし彫りが施された物と、光り物が好きな鴉であれば目がないような輝きを纏う鼈甲の埋め込まれた物には男であっても思わず目が眩む。
宵の頃、寝静まりかえった部屋の中。理に反したように灯りを点す事で得られる密接となる逢瀬というものは、たとえその気がなくとも気を緩めればつい手を伸ばしてしまいそうになるもので。
深入りはしないようにと、絡め取られぬようにと張り巡らせていた気は、日を追うごとに徐々に徐々に削られていくような、そんな感覚。
目を、離す。注がれたばかりのそれを一気に煽るように飲み干せば、影の伸びる天井を見上げ、強く瞼を瞑った。鼻頭を揉みこみながら下を向けば、邪魔になった眼鏡がすっと、肌を離れていく。
「とても素敵な“色”ですこと。」
“色”を持たぬ女に褒められるなど、これが初めてだ。
頭を擡げていたものが一気に噴き上がるような錯覚を味わう。
違うと自分に言い聞かせて、唾を飲む。
見張った視界の中心で、吊り上がった無邪気そうな彼女の姿が焼きついた。
「えっと…ご心配をお掛けしてしまい、すみませんでした。」
頭の上げ方を忘れてしまったように頭を下げ続けながら、もう何度謝ったか分からない謝罪の言葉を並べて、芳賀は泣きべそを掻きだした。
少なくとも正座をするように言われてから足が痺れきって膝から下がなくなってしまったのかと思い始められるぐらいには時間が立っているのだろうが、それを言えば眼前の、一言と漏らさずに自分を鋭く見下ろしてくる、背筋の伸びきった彼女も同じな筈だ。
だというのにピクリともその姿が揺れる事はなく、静止したように下げた頭の、旋毛のあたりに突き刺さるような視線を落としてくる。
許してほしいわけではないのだが、いつまでもこんな状況でいたいとは思わない。頭を下げ過ぎて若干気持ち悪くなってきた芳賀の限界はもうそこまで来ていた。
「伽々里…黒介はもう、十分反省しているかと…」
助け舟が一隻。四段と積み上がった膳を器用にも運んできたのだろう館林が口を開いた。畳の上に下ろした後手早く四つ並べてみせれば自然な足運びで、柱に凭れかかるようにジッと過ごしている春原の元に近づき、その肩を小さく揺らした。
「いやちょっと館林さんっ!助けるなら最後まで!最後までお願いしますよ⁉︎」
「助け…違いやす、自分は夕餉の手伝いをしとりやしただけでぇ…、」
「十分反省してるかと、っていうのは⁈」
「飯を食うのに、そんな空気は味が良くなくなるかと…。」
「味の心配っ‼︎」
長く正座をしていた足は一気に崩れてしまう。顎を畳に擦り付けるように前のめりに倒れてしまえば、つい先ほどまで自分を見下ろしていた彼女とぱっちりと目が合った気がした。
均等に切り揃えられた前髪が影をつくり、その目元はよく窺う事が出来ないが、薄く開かれた口元から漏れ出た、小さな安堵を宿したような息に、芳賀はギョッとした。
「…伽々里、さん?」
「……、」
「えっと、…その、心配掛けて」
ごめんなさい、と。続くはずだった句は頬に添えられた指先に全て掬われてしまった。
泣いていたわけではない。泣きそうな程、横に伸びきった口元が、やけに柔らかく写った。
「おかえりなさい、芳賀さん。」
その声色は、とても聞き慣れたものだった。
「それで、話ってなんだい?」
夕暮れ時の水路沿いを、肩を並べる。陽が高い内よりも日暮れの方が“色”が目立ちにくいと感じたのはここ最近の事。夜になれば数は少ないが、灯りを点し客を招き入れる店も増えてくる。この一時は灯りもまだ多くはない。人目をそこまで気にする必要もなく普段通りに過ごす事が出来るというのは何とも貴重だ。
呼び出した手前、自分が切り出すべきだと分かっていたが、一本道のその先、水路も大きく分岐をする交差路で彼女は数歩先に歩み出て、その透けるような白髪を緩やかに靡かせて振り返りながら口を開いた。
言わねばならぬと分かっていて、腹を括ったというのにまたいざその時になってみて、言い出し難いと感じてしまう。
勢いというものは大事だ。同じ日の内であれば伝えられる気がすると、友人と話した後長屋へと戻り、その手を取って外に連れ出したというのに。それならいっそ連れ出す事なく家の中向かいあえばよかったと少しだけ後悔をする。でも長屋の壁は薄いから、それなら雑踏の中、誰が足を止めるでもなくすれ違う中で話を済ませた方が良いのではないかと、肩を並べていれば目を合わせて話す必要はないのではないかと考えてしまった。
見透かされたような、ジッと見つめられるその眼差しは得意ではない。思ってもいない事を初めからそうだったのではないかと余計な事に意識がいってしまう。弱い箇所を全て洗い出されるような、丸裸にされてしまうような。安堵感だけではなく、恐怖心を煽ってくるようなその目が、本当は怖い。
でも、でもここまで来て逃げるわけにはいかない。
「ほら、どうしたの?外に出よって、話がしたいって言ったのはキミじゃないか?早く話さないと暮れちゃうよ?」
浮かべられた薄ら笑いはは、人によって感じ方が異なる事だろう。今自分が後めたさを感じているからか、それはやけに威圧的に感じてしまう。いや、小馬鹿にされている、嘲笑われているような、そんな、そんな感覚。
「雪那に、会ってきた。」
意を決する。
今日まで感じていた不安定な足元。今はどうだろう。夕陽が照らす水路沿いの、丁度広い通りが近いから伸びる影はそこまで多くない。右目ばかりがいやに眩しい。遮るものが何もないからこそ、目を細めてしまう。半分背を向ける彼女にとってはそうでもないのだろう。眩い視界の中、焦がれていたものを見てしまう。
『帰る場所が欲しい。』
誰でもいいなんて失礼だ。それでも誰かが迎え入れてくれる、自分の帰る場所が欲しかった。
『本当は向き合いたくなんかない。』
忘れている筈なのに、思い出せない筈なのに、ただただ悲しい。自分が過去に何をしたかなんてそんなの本当はどうでもいい。向き合いたくなんかない。だって、そんなのは今の自分にとっては関係ないことで、
『理由が、必要なんだ。』
意味が必要だった。じゃなきゃ生きちゃいけない気がして、必死に、必死に取り繕って、それで、
「それで、何?」
「俺は、」
『ねぇ、弥代。意味なんてあるのかしら?』
彼女はいつもそうだった。何かにつけて意味を問いたがる。それがどうしてだったのか弥代には分からなかった。分からなかったが、多分それはとても辛い事で。でなければ問う度に彼女はあんなにも悲しそうな顔はしなかった事だろう。
意味を問われる。意味がなくても良いじゃないかと、そう叫んだ記憶がある。そうだ、あの時、
『俺は、我儘なんだよ…っ!』
一緒だろうか。分からない。我儘を押し通そうとする、子供じみた幼稚な真似。でも、それでも、
「俺には、きっと正しい事なんて分からない。」
「何が正しいとか、何が間違ってるかとか俺にはよく分からない。お前が、あの二人とどうして向かい合ったかだって、結局分からず終いだ。分からず終いのまま、全部終わっちまった。お前が何者で、俺が本当は何なのか。分かってる、認められていないだけで分かってるんだ。俺が、人間じゃないって。」
「声が大きいよ弥代?もう少し、話すなら落ち着いたらどうだい?」
「落ち着いて、こんなの話せるわけないだろっ‼︎」
冷静さを欠いている。それでも、あの狭い部屋で話すよりは幾分かマシなんだ。
こんなにも、こんなにも気持ちが昂るなんて知れなかった。ずっと、ずっと押し殺してきた。すぐ傍にずっとあったものを見てこなかった、その代償だ。今になってこんなにも溢れる。どれだけ吐き出しても溢れてくる。仕方がないのだ。
「人間じゃないから何?それがキミの話したかった事?」
「違う、そうじゃない…っ!」
「じゃぁ、何さ。」
陽が、傾く。
この一時が終わってしまう。誰よりも、何よりも“色”を持つ自分を意識しているのは自分だと思い知らされる。
「俺は、」
迫害を受けると、どうせ酷く扱われると思い込んでいた、そんな先入観で過ごしていたのは他でも自分で。
「人間じゃなくても、それでも俺は、」
人と大差なく扱われ接してきた彼の心に触れた。妖であると、人ならざる者としての時間に捉われて、それでもそこからだけは逃げずに向き合ってきた彼を、知った。
「“俺”が、お前と一緒にいたいんだ。」
赤い瞳が、細まった。
「…それは、なんだい?」
彼女が問う。
「それはなんだい?それは、どういう意味?人間じゃないとか、鬼だとか。ちょっとボクにはキミが言ってる事がイマイチ理解出来ないな?分かりづらい…よく、分からないよ?」
それもその筈だ。弥代自身話そうとは思ってはいたが、何を話すかまでしっかりと考えていたわけではないのだ。ただこのままではいけないと思ったから、彼女の手を引いた。外に連れ出した。同じ道を肩を並べて歩いた。話したかったから。ただ、話したかったから。
だが彼女の答えは、彼女の返答というものはとてもぶっきらぼうで。何を言ったところできっと今の自分の言葉では届かない、伝えることが出来ないのだろうと、分かってしまった。そうだ、これは全てツケが回ってきたのだ。言葉にせず、自分の心根すら向かい合おうとしてこなかった代償。伝わるわけがない。耳を傾けてくれない相手にそんなの、伝わるわけがないのだ。
このままではいけないという考えは彼女、扇堂雪那に対しても抱いていたものだ。それでも詩良に対してよりははっきりと、雪那には謝らなければならないという気持ちでいれたから、彼女も似たような事を考えていたこそ不器用ながらも、下手くそな言葉でも伝え合う事ができただけで、それが詩良には通じない。
「俺は、お前とこれからもいたい。」
「…そんな事を伝える為にボクを連れ出したの?わざわざこんな風に?」
「そうじゃない、…いや、そうだけどっ、」
もっと言葉を詰める必要がある。遠回りなんてしてられない、そのままの意味で、
「同じ鬼だからとかじゃない。そういうの抜きで、俺はお前と一緒にいたいんだ、詩良。」
「………」
「驚いた。」
至極当然といった様子で、彼女は首を傾げた。
細い指を折り、顎に添えて考え事をするように目を瞑る。
「鬼だからじゃない。そういうの抜きにして?キミはそれでもボクといたい?それはつまり、他人という事になると思うんだけど、そこはどうなんだろう。ボクは、弥代のお姉ちゃんだからな?」
「姉…?」
「うん、そうだよ。」
彼女は続けて、聞き覚えのあるその言葉を口にした。
「だって、ボクはキミのお姉ちゃんだから。」
話しは通じない。同じ土俵になど彼女がいない事を弥代はその瞬間理解した。自分勝手な言い分だとあしらわれるなら話は別だったかもしれない。そうじゃない。詩良が求めているものはそもそもが自分と違った。互いの拠り所になれればと、縋るのではなく寄り添えればと考えていた。考えて、いたのだ。
自分とよく存在。きっとこの里において、誰よりも自分に近しい存在。姉を騙る、その鬼は、
「今日はもう遅いから、帰ろっか。」
いつぞや。そう、いつぞやの晩を思い出す。彼女が呼んだ、自分の名前とは異なる、誰かの名を、
似ていると、感じたことはない。姉妹などと、認めたことはない。でも通じない、届きそうにこの言葉を、ぐっと堪える。
同じじゃない。同じなわけがない。自分の甘さに、嫌気が差した。
などと、そんな事があったのが二日前の事。
途端にそれまでと同じ接し方が出来なくなってしまった弥代は、不器用にも程があるのは分かっていながらも、以前のような接し方に戻ってしまっていた。それまでを良い方向とは断言できないが、それでも幾分か深まっていた距離は、また開けれてしまった。寂しいとは違う、本当の意味でいつか向き合う事が出来れば良いぐらいに考えていた。縋らずに、対等にいれないものかと、弥代は考えたのだ。
しかしどういうわけか、それはどこか自分だけではなく彼女も似たような。
今までのべったりとした態度はどこへやら、やや鋭い言葉を返してくるようになった。難しい話だ。多分これまで一緒に過ごした時間だけを振り返れば、今のそれが一番気が楽というか、変に気を使う必要がないというか。どれが一番なんて、そんなの決められる筈がないのに。
そしてそんな事を胸の内に抱えながら弥代が訪れたのは、やはりというか扇堂家の屋敷、その東の離れだった。
「よぉ、雪那!手、足りてねぇのあるか?」
「こんばんは弥代ちゃん、二日振りですね。約束、覚えてくださっていてとても嬉しいです。」
「……うん。」
以前よりもはっきりと嬉しいとその気持ちを伝えてくる言葉に口を紡ぐ。手伝う気満々で掲げた手は行き場を失ったが、すぐ緩く締めた帯に指を引っ掛けて誤魔化した。
向き合う友人はそんな弥代の誤魔化しに気付いてはいない様子だったが、彼女の後ろにいる見知った仲の下女からどこか冷ややかな視線が送られる。
「いやっ、…戸鞠さんも、て、手伝うもん、あり…ますか?」
先日の一件は彼女の幼馴染から下女にも知れ渡ったのだろうか。二日前、屋敷に雪那と話に足を運んだ際も似たような目線を送られたものだ。居心地の悪さに首裏を掻いていると、今度は後方から熱い視線を感じる。
「弥代さんじゃないですかぁ⁈いやそうですよね!雪那さまからお声かけがあって弥代さんがいないわけないですよね!わぁ!楽しみだな!こういう…なんていうんですか?歳の頃が近い?連中で集まってって、なんかこう…楽しいですよね!」
「そんな楽しいを全力で楽しいって言う奴初めて見たわ。おめー以外いねーだろうな。」
先日の一件で、雪那と一緒に二日ほど行方が分からなくなっていたという芳賀がそこにはいた。巻き込まれた際の打撲痕が残っているのか、今もまだ覗く肌には薬師である伽々里に施されたであろう罨法が見えた。
頬に何本か引っ掻き傷のようなものが見られた。鼻頭の貼りものに斑模様と賑やかな顔がより一層賑わっているように映る。
「何、それで討伐屋はなんだっけ…まだ留守にしてるわけ?」
「いえ、えっと…?結局伽々里さんが戻ってきて、春原さんは…あちで、館林さんと相良さんもあっち…ですね?」
「うろ覚えじゃねぇか。それぐらい自信持っとけよお前…?」
「えへへ、すんません!」
「だから照れんな‼︎」
悪態を吐いても何故か恥ずかしそうな、照れ臭そうな反応を示される。それにはどこか覚えがあって前を向けば、雪那と目が合う。
「お前ら変なところ似てるな。」
「そうですか?」
「そっすか?」
「いや、つーか早いところ向かった方が良いんじゃねぇの?陽暮れきっちまう前にさ…。あ、いや最後に振ったのは俺だったな。……え、俺じゃなくね?」
長い渡り廊下を肩を並べて進む。庭の砂利道の方が一々履き直す必要もなく屋敷を出られるのだが、砂利道をそんなに歩き慣れてない雪那はいつ転んだっておかしくない。何もない場所でも躓く事が出来るような女なのだから、そんな恐れがあるなら進ませるわけにはいかない。戸鞠に付き合う形で早足で先に行ってしまった芳賀の背中を見つめながら、弥代は小さく囁いた。
「ありがとな。」
「いえ。」
何に対する感謝だろう。こうして横に並んで歩くのはいつぶりだろう。
いつまでも引き摺るわけにはいかない。月のない晩は、あの雪山での彼との会話を思い出す。もうあれから四ヶ月も経っているのだ。
(引き摺らない。もう、多分大丈夫だ。)
それを言い訳に立ち止まる事はやめた。言い訳に彼を思い出すのはやめた。彼は望んでいたのかもしれない。でなければそもそもあんな事はしなかった筈だ。
(いつかなんて、ないの分かってるけどな。)
それでも思うだけは、許してほしいものだ。誇りたいわけではない、自慢をしたいわけでもない。ただ会うことはもう二度とないと分かっていても、
(お前に、話たい事がいっぱい作れるように。)
結局屋敷を出るのが遅れ、目的地に着くのにはかなり遅れてしまった。先に現地で下準備をしていたのだろう和馬と目が合えば、すぐになんともいえない空気感に襲われた弥代だったが、雪那がすかさず二人の間に割って入り、中々見たくても見れないような仲直りの握手をするはめになった。戸鞠の分まで荷物を抱えていた芳賀も何か和馬とあったのか立て続けに変な空気となったが、どういう仲なのかなど弥代が当然知ることはないが耳朶を強く捻られ、渋々といった様子で和馬に頭を下げる彼の姿があった。
そこには和馬の他にも見慣れない若者が何人かいて、一人一人の紹介などは全く覚えていないが一人だけ見覚えのある顔を弥代は見つけた。
それは確か同じ長屋横丁に棲まう物書きの青年・石蕗稔の部屋によく転がり込んでいた中心人物で、名前は確か…
「吉田さんとこの、長…さん?」
「おうおぅ!みの坊のとこの、えっと…みの坊が生意気だって言ってた奴だよな⁈」
「それで自分だって頷くような奴を俺は生憎と知らねぇな⁉︎」
随分な言われようだ。あの晩簪を受け取ってそれ以降、顔は合わせていないが元気そうか?と訊ねれば吉田の彼も最近は顔を見ていないようだ。
「本当はな、折角タダ飯にありつけるもんだから誘おうと思ってよ。わざわざ家まで行ったんだけど留守でよ。惜しいことをしたもんだよアイツは!」
虚ろな表情を思い出す。春は気が病みやすいなんて事を耳にした事があるがどうなのか。少なくともそういったものは薬の類で幾分か解消する事も出来ると聞く。少なくとも弥代の知り合いには里でも最近名の知れつつある腕のある薬師がいるものだから、相談ぐらいだったらしても良いのではないかと、そんな事を考えながらわざわざ戸鞠が用意したという弁当に箸を伸ばした。
「わぁ!弥代さんですよね?美琴様からお聞きしてたんです。えっと、雪那様のご友人で戸鞠とも仲が良いんですよね?」
「戸鞠さん…?いや、別に良くはないと思うけど?」
「…あれ?と、戸鞠?」
「違うから。私、弥代さんとは仲良くないから。」
瞳の赤い彼女がずいっと距離を詰めてくる。美琴様という名前に反応を示した弥代だったが、それはすぐにきっぱりと仲は良くないという戸鞠の発言に掻っ攫われた。
「聞き捨てならねぇぞ戸鞠さん‼︎仲はよかねぇだろうけど知った仲だったのにそんなはっきり言うのは優しくねぇよ‼︎」
「和馬様は雪那様の手前、あのような態度を取られましたが私は忘れませんので。」
「和馬ーっ‼︎お前何で言っちまうんだよっ⁉︎」
「自分が言うた発言やろ⁉︎こっちにキレんのおかしいわっ‼︎反省しぃっ‼︎」
「和馬さんが…怒った…?」
「ざっけんじゃねぇぞ⁉︎反省はしても他にこんな言われる筋合いはねぇぞ俺はっ‼︎」
「ハハッ、和馬さんひっどい訛りっ!何ですかそれ〜!」
「おい誰だ、黒に酒飲ませた奴?こいつ相良さんが言ってたぞ、酒癖は討伐屋一悪いってな!」
「巴月アンタは雪那様の横にいなさい。美琴様にそう言われたんでしょう。」
「だーっ、くっそ!埒があかねぇ‼︎」
桜なんてとうに散ってしまったというのに、花見と称した若者連中のただの酒盛りは日が暮れて尚、近所の長屋の奥さんが痺れを切らして乳呑み子を抱えたまま出刃包丁を構えて飛び出してくるまで続いたとか、続かなかったとか。翌々日、屋敷の大主宛に直接苦情文が届いたとか、届かなかったとか。それらはまた別の話。
すっかり骨張ってしまったその腕を取り、脈に指を添わせる。意識を取り戻され数日、以前と全く同じとは言えないが、それでも目を覚さなかった頃に比べれば僅かにはっきりと感じ取る事が出来る様になった脈動に息を吐く。弱々しいその腕に縋り付く様に涙を零せば、覚えのある悪態が吐き捨てられた。
「止しなさいな、佐脇。それよりも、どれくらいあたしは眠っていたんだい?」
嗄れた声はよくよく耳を傾けていないと聞きこぼして程小さい。
自分に変わり、反対側に控えていた彼女・扇堂美琴が口を開いた。
「四月に及びました。屋敷の者の耳には入っています。里へは、漏れていないかと。」
「広まってないだけで、漏れはするだろうよ。何か変わった事はあったかい。」
「それは…、」
言い淀む。その様子にまだ万全はないだろうが大主が気付かぬはずがない。細められた瞼の奥、彼女は何を思うのだろう。
知るよしもなく、佐脇はただ杷勿の側に居続けた。
屋敷の中に馬を休ませる場所はない。それらは全て里の門の側に返す必要があった。何も屋敷の用事以外でも、商人らが品を運搬する際にも利用されることの多い馬は、宿場町近郊で借りる事も出来た。東門ではなく敢えて大回りをするように西の、酒匂川沿いの門から里を出ていた氷室は、半月振りに榊扇の土を踏み締めていた。
相模国の土地を避けての移動は中々に骨が折れたが、望んでいた成果をそこそこ得る事が出来たものだと思う。別の道から先に戻っているであろう男へは、馬を用意してくれた鶴見亭伝いで金を渡す事にし、久方振りの里の空気を胸いっぱいに取り込んだ。
こんなにも長い間、彼女の忘れ形見である雪那の傍を離れた事がこれまであっただろうかと思い返して直ぐ、昨年の事が浮かび上がった。一月もの間、自分達の意志とは関係なく離れて過ごす事となったあの期間は、自ら留守にした此度とは話が違うだろうが、会いたくても会う事が、その姿を見る事が出来ないという事に変わりはなく、そう思えば自然と進む足が早くなった。
日が昇るよりも早く里に帰り着いたというのに、氷室が屋敷に辿り着けたのは間もなく日が西の空に傾き始めた頃合いだった。背負っていた風呂敷の中には、必要最低限の野宿には欠かせない品だけ。それさえも重荷になるのは御免だと、馬を返す際に置いてきてしまったがそれも些細な事。
『氷室』
そう呼んでくれる、彼女の顔が少しでも早く見たい一心で歩を進めた。暮れる日を背に、門を潜る。何か門番の者が声を上げたが聞こえるわけもなく、本堂から一本続く、長い長い廊下の奥。伸びた自分の影を踏み締めるように、踏み越えられる事のない先を足早に、彼は進んだ。
一歩、一歩と近付く。
例年は離れへと続く花々は少なくなったが、それでもいつぞやの名残か道は残っている。長い間履き続けて千切れた草履は何度も、何度も結び直した。そんなもので足止めを食いたくなかったから、何度も、何度でも。雨が降ろうと、風が強かろうと。寝る間を惜しみながらも、それが、それが彼女の為になると思い、思い、思い続けて、彼は、彼は戻ってきた。
「 」
ふと、彼は足を止める。
自分が呟いた、口にしたその言葉を振り返る。
呼び間違えた、違う。そんなものではない。揺らぐ。春の終わりはもうそこまで来ている。いつまでも、いつまでもこの季節に縋る事は出来ない。そんなつもりはなかったのに、そんな風に見たことなどなかったというのに、たった一言。その自分が発した一言に全てが揺らいだ。信じていたものが、信じ続けていたものが音を立てて崩れ去っていく感覚。
影が、夕闇に飲み込まれる。
日が沈み、東の空が夜を告げる。自分が今向かおうとしている先に広がるのは、灯り一つありはしない真っ暗闇。竦んだ足は途端に重たく、根を張ったかのように持ち上がらない。見ないようにしていた現実が、その可能性がここに来て歩みを鈍らせる。
「違う、」
「私が、私が守ろうとしたものは、」
『氷室、』
聞き覚えのある声に、振り返る。
『こっちよ、早く…早く、』
そこに、愛した女の姿を見た。




