十四話
『怖いの?』
肌を伝い滑り落ちるそれはあまりにも知った温もりを宿していて、一瞬それが何であるかすら雪那には理解出来なかった。
止めてどうにかなるとは思っていなかった。でも、だからといって見過ごすような真似が出来るわけもなく。自ら招き入れるように受けたその衝撃を前に蘇るのはほんの少し前、彼女が発した言葉だった。
『あの時みたいに、振り払ってくださっても構わないのに。』
覚えのない事だ。彼女が何の事を話しているのか雪那は当然のように分からなかった。以前にもどこかで誰かがそんな風に言っていた記憶が、朧げながらにもある。
覚えていなくてもそう零す彼女を前に、自分が過去相手に何かをしてしまった事だけは間違いないのだろうと確信した。
いくら自分が思い出せなくても、あんな、あんなにも苦しそうに、自嘲するかのよう吐き捨てたその表情がはっきりと焼き付いてしまった。それは思い出せないという理由だけで彼女を振り払う、突き放すような真似を雪那に選ばせなかった。
出来る事が限られていると分かっていながらも、自分に出来るなどあまりに少ないと分かっていながらも、それでも、手を伸ばした。
「あざみ、…ちゃんっ!」
いやにしっくりと、その呼び方が綺麗に嵌る。
先ほど彼女が、昔みたいにそう呼んでくれと言っていた意味を身をもって知ってしまう。これが初めてではない。初めてなわけがない。他人行儀な先の呼び方の方がどこか違和感があったのだ。違和感を感じていた。
だからこそなのだろうか。今になって虫のいい話、そうは思いつつもいつの日か振り払ってしまっただろう彼女の手を、こうして取ろうとする事はきっと遅くなんかない筈だと。強く言い聞かせた。雪那は、自分にそう言い聞かせた。言い聞かせて、それで、
道にすっかり迷ってしまった子どものような、帰り道を忘れて泣き噦る幼子のような、歪んだ表情を前に、そこから先はどうしても思い出せない。
気がつくと、雪那は自分が長年過ごし慣れた屋敷、東の離れの自室にて静かに目を覚ました。
綿の詰まった大布団がすっぽりと上から掛けられていて、普段朝目を覚ます感覚と何ら変わりない気がしたが、直ぐにそんなことは気付いた。
布団に埋もれる、腹の辺りに覚えのない重みを感じたからだ。
まだぼんやりと定まらない視界の中、綿毛のように揺れる白髪に目に留まる。
「…かずま、さん?」
声を掛けたわけではない。その存在を確かめるように雪那は名前を口にしただけだった。しかしその声が届いたであろう白髪の主は埋めていた顔を持ち上げた。
勢いよく体を起こせば赤らんだ目を隠す事もなく、大きく口を開いて何か言いたげな表情を浮かべた後、ぐっと堪えてから布団の中に隠れていた雪那の手を取って、やっとその声色を響かせのだ。
「…おはよ、雪那ちゃん。」
それは卯月も終わりに差し迫った頃、木々を着飾った薄紅が、夏の歩み寄りを前に姿を晦ましてしまう、そんなある日の昼下がりの事。
空になった茶碗を水の張った桶に落とし、弥代は口に咥えていた帯紐を見様見真似で今日こそはと結ぼうと挑むも、やはりそう上手くはいかないもので。世話焼きで何かと触れ合いを求めてくる彼女・詩良がしてくれるのの、足元にも及びはしない、お世辞にもとりあえず結ぶ事だけは出来たものだという出来を前に苦笑いを浮かべた。
「いや、出来てる。上出来だろこれ?」
「そんなぐちゃぐちゃにしてぇ。初めからお姉ちゃんにやってって言えばいいものを弥代は見栄っ張りさんだね。」
「日に日にガキ扱いが板に付いてねぇか?」
「そんなことないよ?」
背後から腕が回される。背中越しに伝わる温もりは柔らかい上に何とも心地がいい。肩口から顔を覗かせるのが彼女は好きなのかもしれないと気付いたのはやはりここ数日の事。指通りのいい髪が首筋を軽く撫でてくるような感覚はまだ慣れそうにない。
手元に目もくれず慣れた手つきで結んだばかりの帯を解かれては、再び結び直される。それはまるで子どもが親に着付けを手伝われているみたいじゃないかなんて考えて、途端に気恥ずかしさが込み上げてきた弥代だったが、今更一々そんな事に反応を示すのも朝から疲れてしまうと、大きく溜息を零すだけに押し留めた。
しかし何を思ったのだろう。結び終えたばかりの帯を正面から見た後、彼女は既に十分短い袴の裾をなんの躊躇もなく摘んで小さな唸り声を漏らした。
「だから…これ以上短いのは心許ないって、」
「いっその事ボクとお揃いにしちゃう?」
「それだけは勘弁っ!」
なんて、軽口を叩き合う。そんな会話も随分慣れたものだ。
津軽へと赴いて帰ってきた、数日の間はまだどう接したらいいのか分かっていなかったのが今じゃ嘘のように、一緒に出掛けて新しく服仕立ててもらったあの日から弥代はすっかり彼女に絆されてしまっていた。
本当にこれまでは一人でもずっと立っていたのが嘘か、夢か幻だったんじゃないかと思うぐらいに、立ち上がりを忘れてしまっていた。足元を、失っていく感覚。
(間違いなく、良くはないんだろうな。)
一言二言、また他愛もない言葉を交わした後、彼女に見送られながら長屋横丁から出ていく。変わり映えはしない景色を尻目に、ほんの僅かな時間で変わってしまった自分の姿を思い返しながら。
このままでは何もかもいけないと気付いたのは数日前の事。色々とあって春原と共に行動をした際、ふとした拍子に溢れ出てきた行き場を失っていた自分の本心とも、目を背けていた感情とも呼べようものを前にして、漸く向き合う事となった。
一度吐き出してしまえば消えることはなく今もはっきりと残り続けている。逆にどうして今まで気付く事が出来なかったのかと不思議でならないほど、ただただ彼女に溺れていた。そう、溺れていたのだ。
彼女という存在は、彼女自身がはっきりと口にしたわけではないが自分ととても近しい存在なのだろう。人であると望む自分。しかしその正体は異なる、それと同等と呼べる存在。そんなソんzないが自分の弱さを、自分がこれまで向き合おう、向き合おうと躍起になっていた罪を、今見なくてもいいんだと優しく囁いてきた。無理強いをされたわけではない。その言葉に、その甘さに溺れたのは自分だ。自分の、弱い意志によるものだ。
勿論それで彼女を責めるような事はお門違いだと分かっている。分かっているからこそ態度は変えずにいた。でも、このままじゃいけないという事は弥代自身が一番分かっていた。だから動かねばならないと思った。
(一番最初に何をすべきかなんて、分かりきってんだよ。)
最後に足を運んだのは、帰ってきた翌朝。
もう長い間顔を見ていないような気がするのは、当然気のせいだ。
大山の麓、斜面帯に建てられた屋敷の敷地内には数本だが桜の木が植えられている。元々屋敷がこの場所に建てられる際、今では本堂が位置する場所で根を張っていた立派な木々を倒してしまうのが勿体無いからと植え直されたものらしい。
日に何度かいくら箒を握りしめたって、翌朝になれば敷物のように地面を覆い隠してしまうのだから堪ったものじゃないと、下女が小さな愚痴を溢していたのを思い出しながら、雪那は縁側から腰を浮かした。
(三ツ江様…そう、確かあの火災が起きる前は、蔵がこの近くにあったと葵が話してた事があったわ。昔はよく花を抱えて三ツ江様は手を合わせに来られていたの。)
太い幹に手を添わせる。自分が産まれるよりも昔、屋敷が建てられた頃からこの場所にあるという長生きな桜の木を前に、一年程前目にした、三ツ江文左衛門の死顔が脳裏を過ぎる。
あの時、三ツ江の手によって野田尻の地へと連れていかれそうになった際に彼が述べていた贖罪の言葉の数々を、雪那はただ受け止める事しか出来なかったが全てに全て覚えがあったわけではない。
八年程前に起きたあの事件の前後の記憶というものはやはり曖昧だ。自分ですら何を忘れていて何だったら覚えているのか分かったものじゃない。でも抱いた、あの日まで抱き続けてきた気持ちに嘘はなくて、
(だから私はあんな行動を取ったんでしょうね。)
随分と長く咲くものなのだなと見上げた木々の先は、よくよく見てみればあまりもう花弁は残っていない。
遠目ではまだ十分咲き誇っているような印象を抱いていたのだが、目を凝らしてみれば違った。
(同じ、なのかしら。)
違わないという事だけは分かる。
見てこようとしなかった。与えられる優しさにただ浸かる、甘えるばかりで自分から知ろうとする努力を何もしなかった。知りたいとは思っていた。でも待ってばかりで。踏み込む事が本当は怖かった。
『あざみ、…ちゃんっ!』
振り絞った。あの時自分に出来る精一杯はそれぽっちだった。それではいけないと感じた。
『そんな聞いて気持ちのいいもんじゃねぇから。話す必要ないかなって。』
間に受けた。どんな思いでいたのかを今になって考える。
『じゃぁ色々とお互いに不便してんだろ。』
(自分だけ違うって、そこには行けないと私は勝手に勘違いをしたままでいた。初めからそうだった。初めから弥代ちゃん、あの子は、“色持ち”だからと、言っていたのに…。)
比べたいわけではない。比べものになんてなりはしないのは誰よりも分かってる。同じなんて、分かるなんて軽々しく言えない。言えるわけがない。
(それ、でも…)
刹那、一際強い風が吹き抜けた。
足元に散らばった花弁が、まるで意志を持ったように荒々しく巻き上がる。しかしそれもほんの僅かな間だけ。
頭上に広がった雲一つない鮮やかな空から、地面に恋焦がれるようにゆっくりと落ちていく。手を伸ばそうものなら一枚ぐらい掴めそうな気さえしてくる。桜は散るその様が一番美しいと言っていたのは誰だったろう。視界を埋め尽くさんばかりに舞い上がったこの景色の方が、無性に目を細めてしまいそうになるぐらいには綺麗だと感じた。
だからだろうか。視線を下ろしたはずなのにそこにある“それ”を雪那は空のようだと心の中で喩えた。己の目を指してまるで晴天のようだと褒め称える声を幾度となく耳にしてきた。そこに何が広がっていようとも雪那には分からない。とはいえ、見上げればそこには彼らの喩える青空がどこまでも続く。どこまでも広がっている。
違う、そうじゃない。そうではない、そうではないのだ。雪那が、彼女が思わずそう抱いた、“それ”は、他でもない彼女自身にとっての
「よぉ、雪那。」
桜が舞い散る中、その“色”はどこまでも鮮やかで。
「…こんにちは。弥代ちゃん。」
手の届く位置に、“それ”はあった。
鬼ノ目 四十九話
「もう、体は大丈夫なのか?」
言われて、雪那は自分の身に降りかかった先日の出来事を思い出した。しっかりと覚えている。ただ周囲の誰もが必要以上に触れてこようとしないもので、あまり口出ししない方がいいのだろうと発言は控えていた。
自分は巻き込まれたと言い表して正しいのだろうか、それさえ正直なところ分かっていない。結果だけみれば何事もなく(多少怪我はしたものの残る程のものでもなかった)屋敷に戻ってくる事が出来たのだから、だからこそ何よりも先に心配をされたのが変な感じがして、親指の腹を擦り合わせながら少しだけ視線を落とした。
色々な事情があって今回の件が弥代の耳に入っているという事だけは、混乱を招かないようにと気遣った和馬によって聞かされていた為に別段それ自体をおかしいとは思いはしなかったが、同時に彼が話してくれた言葉がチラつく。
「心配、してくださったんですね。」
「…そりゃぁ、するだろ。」
意地悪を言いたいわけではないのに俯かれてしまう。
彼が嘘を自分に言うわけがないとは思っていたが、そうかと思わざるをえない。本当の事だったのかと、雪那は自身の唇を軽く噛み締めた。
元を辿れば自分があんな態度を取ったために起こった事なぐらいはもう分かっている。どちらかといえばそんな言葉を相手に吐かせてしまった状況が、やはりその状況を作り出してしまっただろう自分が許せなく感じる。
「特に痛むという事はないですし、気にされないでください。」
伏せた視界にそれでも留めておいた姿は、自分が視線を落としたのに気付いたのだろう。小さく、俯いてしまう。
弥代が優しいという事は、多分誰よりも雪那が知っていることだ。
自分が言った言葉を後悔しているのだろうか。こんな会話でこちらに合わせて目を逸らしていうのは、きっと後めたい事があるからだ。けど、そんな後めたさを抱えながらもこうして、目の前に現れてくれた。その姿をまた見せてくれた。
『雪那ちゃんにこんな事言いたくはないけど、あの子、雪那ちゃんの事、“他人”や言ったんや…っ!』
一晩時間をわざわざ置いて、訊ねるまで言わないでいてくれた彼のその配慮を無碍にしたいわけではない。でもどちらも、どちらとも二人とも自分を心配してくれた事にきっと変わりはないから。本心からそう思えたから。
『弥代ちゃんは少しだけ、意地っ張りなところがあるんです。見栄を張っちゃうところがあるんです。だから、それはきっと精一杯の強がりだったんじゃないかなって、私は聞いて思いました。』
どうしてだろう。あの日彼女と顔を合わせた、たった数回言葉を交わしてから不思議と、前よりも言葉を紡ぐのが楽になった。
『…後悔する、絶対にアンタはここで考えなしに言ったらこうかいする…、家族に、“色”に振り回されちゃ、駄目なんだ…っ、』
あの場で自分に向けられたわけでもない、色を持たない彼の言葉がとても深く刺さった。彼女に向けられた言葉。同じ、色を持たない彼だからこそ彼女に伝えたかった言葉なのだと分かっていたのに、胸の奥に刺さった。
振り回されてずっと周りに、他に目を向ける事が出来なかったのはきっと、私も同じだから。
あの時一言、ごめんなさいと謝っていれば本当に知ることの、目にすることのなかった事ばかりだ。
ぎゅっと、皺が寄る。然程離れていないがためによく窺えるその必死に堪える表情を前に、本当は謝りたかったはずなのに、雪那が発した言葉はただただ真っ直ぐ、感謝を伝えるものだった。
目を合わせるのが、今になって怖い。
二度殴られたあの時、真っ直ぐに見据えてきた、どこまでも正直なあの視線が忘れられない。
決して彼女がそんな目で自分を見る事はないと分かっていても、時間をかけてやっとここまで足を運び、正面から向き合う事ができたのに、最後の最後で怖気づけいてしまう。
こんなのは初めてだ。今まではなんとかなると思って、ある程度の事は適当にあしらうことが多かった。そうはいかない。そうはいかないのだ。直接ではなくても自分が、彼女を指して口にした、その言葉が、ぐるぐると回る。そんなつもりじゃなかったなんて言い訳が今になって、今になって浮かんでくる。
『他人だよ。』
はっきりと、そう述べた。自分が言った、言葉だ。
こんなにも重くのしかかるのだと初めから分かっていたなら言わなかった。そんなつもちはなかったという言葉ばかり繰り返した。
口を突いて、出てしまっただけ。先日春原と一緒にいた際の事を思い出せば、ならばそれも本心だったのかもしれないと、本当はずっと、友達なんて言っておいて心の底では他人だと、思っていたのかもしれないと、嫌な所が繋がってしまう。本人を目の前にして考えがまとまらなくなる。
(違う、そうじゃない。そうじゃないだろ。)
そうだ、そんな事を考えるために足を運んだんじゃない。
伝えたい事があった、謝りたい事があった、もどかしくてもどかしてくて仕方がない。一言切り出してしまえばきっと後は勝手に言葉が出てくる筈なのに、そのたった一言が中々どうしても出てこない。喉の奥でずっと、今か今かと出番を待っているだろうに、声にならない。絞り出しを忘れてしまったように、最後の所で踏みとどまってしまっている。
許してもらいたいわけじゃない。けど、もし受け入れてもらえなかったらと考えてしまう。今の自分は一等臆病なのだ。たった数日、たった数日、甘い甘い言葉に耳を傾けただけですっかりそれが板についてしまった。じゃなきゃ、そうじゃなきゃ直ぐにでも言えるはずなのに、それだけの、たったそれだけの事がどうしても、どうしてって出来ない。息苦しくて仕方がない。
彼女は今、どんな表情をしているのだろうか。恐る恐る瞼を持ち上げる。持ち上げて、そして、
「ありがとうございます。」
思わず拍子抜けしてしまう程真っ直ぐ向けられた言葉に、弥代は目を見張った。
「あっ、ごめんなさい。えっと、本当はもっと、違う言葉を言わなきゃいけないのは何となく分かるんです。分かるんですけど、どうしてでしょう。何故か、どうしても今の弥代ちゃんを見ていたら私、ありがとうって、そう伝えたいと思ったんです。」
「………、」
「あぁっ、そんななんとか言ってくださいっ!私、私ばっかり恥ずかしいじゃないですか⁉︎…え、あの、弥代ちゃんき、聞こえてますか?」
「…、」
「えっ⁈、だ、大丈夫ですか?き、気分が優れませんか…?えっと、ど、どうしましょう…和馬さんはきっとあまり良い顔をされませんでしょうし、と、戸鞠を呼んで来ましょうか…?」
それまでの様子がどこにいってしまったのやら。自分のよく知る彼女の慌てふためくその姿を前にして、弥代は言葉を失ってしまった。なんら変わらない。あまりにも自分の知っている彼女・知らないはずが大切な、大切な友達。友達になろうと、自分の方から提案した、それを泣きながらも受け入れてくれた、もっと知りたいと自分が思った紛れもない、扇堂雪那がそこにいた。
「…いい、」
「えっ?」
「いらない。要らないよ、そんな誰も呼ぶ必要ない。違う、今は呼ばなくていい。あぁ、そうだ、そっか…そうなんだ。」
何がそうなんだ、だと。自分で口走った言葉に訳がわからなくてほんの少し笑い声が混じってしまう。
そんなつもりなかったのに、彼女のそんな知った姿を前にしたら今まであんなにも重たかったものがどこかへと消えてしまった。
笑い過ぎて目尻が滲みかけるのは気のせいじゃない。
でも、それでおしまいでもない。
「違うんだよ、雪那。俺だって話たい事がいっぱいあった。本当はなんだったらお前と最悪ここで喧嘩にでもなっちまうと思ってた。なんかそんな気がしてたんだ。だから怖かった。俺、俺が思ってるよりもずっと臆病だったんだ。あぁ、そうだ、そうだよ。駄目だな。俺、凄く今…」
言い掛けた言葉はあろうことか飲み干してしまった。目の前からやってくる一切予期していなかった衝撃に支えもなく、後ろへと倒れてしまう。
「っだ⁈」
「あっ、ご、ごめんなさい私、私つい感極まって…っ‼︎」
「ざっ、おま…っ‼︎…はぁ⁉︎ざっけんなよ⁉︎声の一つ掛けずに飛び付いてきてんじゃねぇぞっ⁈……はぁ‼︎」
慌てて伸ばした腕で地面に後頭部を直撃する事は免れたものの、上から自重が倍近い相手に全て寄り掛かられるというのは非常に辛いものだ。感極まったのは自分だってきっと同じだったろうに、それも一瞬でどこかへ飛んでいってしまった。いや飛んでいっていいわけがない。さっきのだって易々とどこかに行っていいものではないのだ。なのに、なのに…
「怪我とか大丈夫ですか…?」
「汐らしい態度をするなら始めっから飛びつくんじゃねーよっ‼︎」
これでは全部台無しだ。全部、全部台無しだ。
でも伝えたいと思っていた言葉よりも、覚えのあるやりとりをする方が十分に大切に今の弥代にはどうしてか思えて。
(でも、このままでいいわけがないのは分かってるんだ。)
「雪那、」
だから弥代は、雪那に話すことにした。
「襟巻き、ごめんな。お前があの色選んで俺にって用意してくれたの、分かってたけど。随分とまぁ泣きそうな顔するもんだからよ、何か残せないかなって、俺そいつに渡しちまった。」
古峯の地にて、時間を掛けて自分は人間ではないと本当は認めてしまっていた。でも春原や館林が自分を追ってきたのだという事実を前にして、人間のように振る舞う事ぐらいは許されていいじゃないかと思ってしまった。酷く曖昧な、結局どちらでもない心持ちで過ごしていた。
南部にて彼と言葉を交わす中で、たとえ“色”にその土地が疎いからだったとしても、“色”を持っているに対しても好意的に接してくれる、向かいあって言葉を交わしてくれるその存在が、とても嬉しかった。
勝手に情を寄せていたんだ。
「たった数日。たった数日しか一緒にいなかった。最後の方は無性に腹が立って、喧嘩して。あれを、仲直りしたって言っていいのかよく分かんねぇけど、俺たちの事思ってあいつは、」
そうだ。自分たちを屋敷から、南部から遠ざけようと言い出した時点で嫌な予感はしていたんだ。でも上手く言葉に出来なくて、だから約束を勝手にした。
『んな顔すんなよ。また、会いに来てやるからよ俺。』
多分返事はなかった。覚えている。彼は約束なんて風にはきっと受け止めてなかった。
「だから、」
だから余計に、辛かったんだ。
「俺はさ、雪那。」
言うつもりのなかった話にさえ、触れてしまう。
「俺多分、お前に許してもらえないような事をしたんだと思うんだよ。でもそれがなんのかまだ分からねぇ。」
分からないではない。分からなくてはいけないんだ。
「まだきっと分かるまで時間は掛っちまうと思う。でもさ、けどさ、そん時は、」
「最後まで、話を聞いてほしい。」
身勝手なお願いだと分かっている。先にこんなお願いをして、それが後になって彼女を縛り付けるかもしれないという考えがないわけではない。でも、何か縋るものを求めている。違う、それじゃ何も変わらない。なのに、
彼女は言うのだ。約束をしましょう、と。
差し出された小指を見つめてしまう。
不思議そうな顔を浮かべて、彼女は首を傾げた。
「指切り。ご存じないですか?」
「…いや、知ってるけどよ。一々そんな事しなくても…口約束で十分じゃないか?」
「そんな勿体無い!指切りですよ!とても友達っぽい事をこんな、こんな素直な弥代ちゃん滅多にないんですから!今を逃したら次はいつになってしまうんですか⁉︎」
「…うん、お前失礼な事今俺に言ってる自覚あるか?」
「そんな私が弥代ちゃんに失礼な事を言うなんて、あるわけないじゃありませんかっ!」
半ば無理やり、小指を攫われてしまう。
「約束です。私は、その時が来たら最後まで、弥代ちゃんの話にちゃんと耳を傾けます。聞かせてください。こうまで弥代ちゃんが言うんです。きっとそれを私、聞かなくちゃいけない気がするんです。」
「お前…、」
はっきりとしない言葉を飲み込んで、弥代は考えた。十日前ヘソを曲げて拗ねていたのがこれじゃまるっきり嘘みたいだ。何かが彼女にもあったのだろうと思う。彼女にしか分からない何かが。
ほんの少しだけ、あまりにもハッキリと物を言う彼女が頼もしく感じてしまった。
「いや、ないな。お前がそんな立派なわけあるかよ。まともに走れもしないで転けるような女だぞ?馬鹿言え、情けないったらありゃしねぇよ。」
「あれ?弥代ちゃん…あの、えっと、もしかして私の事馬鹿にしてませんか?」
「さっきの言葉そのまま返してやろうか?俺がお前にんな失礼な、馬鹿にするような事、言うわけないだろ?」
「あ、いえ…多分あの、はい?馬鹿にされてませんか?」
「考え過ぎじゃね?」
「え、えぇ……?」
もうしっちゃかめっちゃかだこんなの。どこまで本気で話してたのかさえ分からない。話の着地点をこうまで見失うものかとため息を溢す。
(でも、怖かったのは本当だ。)
あの日、あの覚えをない言葉が襲いかかって時、声だけじゃない、酷く泣き噦った顔で自分を糾弾してくる友人の顔が過った。考え過ぎた故に見た幻、なんて事はなく。そう、今まさに自分がいるこの場所、庭に植えられた桜の木を背にして泣き叫ぶ彼女の顔が、その声が、過ったのだ。
(思い過ごし、だったかな…、)
今だからこそ言える。良かった、と。あんな風にならなくて本当によかった、と。
「いや、つーかよ。和馬、…あいつなんかさっきお前チラッと言ってなかったか?良い顔をしないとか、なんとか…?」
「あっ、いえ…えっと…その…?まぁ、色々ありますよね?」
「雪那?」
「はい、雪那です!」
「あっ、違う違う違う違う。別に返事求めたわけじゃねぇから。え、和馬…あいつ、いやあいつ俺の事二発殴りやがってよっ⁉︎」
「勿論聞いてます!」
「勿論聞いてます!じゃねぇんだよ⁉︎んな誰が笑顔になれつったよ⁉︎」
季節の移ろいというのは中々に待ってくれないものだ。
いくら足を止めようとも関係なく、その横を知らぬ間に過ぎ去っていってしまう。
抱ききれない、両の腕で抱えきれない程の、そんな想いも一緒に攫ってくれぬものかと思わず望んでしまう。
それでは駄目だと、目を瞑る事も、なかった事にして手放してしまう事も許してはくれない。
そんな事で足を止めるのはきっと本末転倒でしかないのかもしれないが、そんな積み重ねをどうにか抱えて歩むしかないのだと弥代は今になって気付いた。
あんなにも身近に感じていた春は、もう終わりを迎えているのが本当に嘘のようだ。あの冬、あの地に置いてきてしまった気持ちをやっと少しだけ、抱えるだけじゃない、大切に抱きしめる事が出来た気がした。
それはこれからもきっと、手放す事だけは出来なくて。ただ、もう目を逸らす事はなくて。散り散りになっていたはずのものを必死に繋ぎ止めて、なかったことになんてさせない。
(霜羽…)
もういないお前に答えは求めない。
(俺はお前と友だちになりたかったよ。)
嬉しかったんだ。一方的に情を寄せたつもりでいた。そうじゃなかった。彼は自分が感じていたよりもずっと近しい存在で。
(苦しんでたんだよな、お前も。)
誰に相談できたんだろう。誰にも打ち明ける事が出来なかったから、ああなってしまっただろう。
(だとしたら、)
彼が自分に打ち明けてくれたそれは、それは彼自身の言葉に違いなくて。
『憐れむなよ、東の。』
場違いに、向けられたあの眼差しを思い出す。
(誰が憐れんでやるかよ。そんなタマじゃねぇだろ、お前は。)
少ないのだ。彼と交わした言葉は本当に少なくて。
「瓢、」
どっちも彼だった。どちらかじゃない、どっちもお前なんだと、口にした覚えのない言葉がまた浮かび上がる。
今は邪魔をしてくれるなと言わんばかりに弥代は、目を瞑った。
記憶の中の彼は、静かに笑っていた。




