十三話
くるくると、転がった上蓋が回るのに目が奪われた刹那、酷く荒々しい掌が幼い彼の頬を叩いた。じんわりと広がる熱、それは彼が求めていたものとはあまりにもかけ離れていて。
反抗的な態度を取ろうものならまた無情にも手をあげられると、必死に笑みを繕って、それで。
『ごめんなさい、』
そうして、彼は耐え抜いてきた。
視線を感じる。
主に首に注がれているであろうそれに痺れを切らせる事、早何度目か。そんなもの一々数える事ではないと思うが、当に片手の指以上は指摘しているというのに、数歩後ろをピッタリとくっついてくる相手は直ぐに忘れてしまうのか、またその一点を見つめてくる。
バッ、と首裏を覆い振り向き弥代はもう幾度目になるのか分からないまま声を張り上げた。
「鬱陶しいってんだろっ‼︎」
「……すまない。」
「とりあえず怒ってたら謝ればいいと思ってんじゃねぇだろうなっ⁉︎腹立たしさったらありゃしねぇ奴だよ本当にお前って奴はよっ‼︎」
「分かった。」
「分かってないから何度もこのやり取り繰り返してる自覚あるかっ⁈」
「…分からない。」
「くそがよっ‼︎」
ここまで大声で荒げるのは久しぶりな気がする。何も相手が春原に限った話ではない。先日は芳賀や、詩良に対してだって弥代は声を張っていたのだが、その中でもこの男に関してだけは特別大きいというか、張り上げ続けていたらその内喉を壊してしましそうだと考える。
何で何度注意してもこうなってしまうのかと、あまり正面から向き合う事もない彼の様子を腕を組んで窺ってみる。
言われた通り弥代の方を見ないようにと視線を行ったり来たりさせた後、居心地が悪そうに皺を寄せてから結局弥代と目が合う。
「どういう経緯だ?」
「他に定まらなかった。弥代が一番落ち着く。」
「…本当に勘弁してくれっ!」
昨日の今日で頬の腫れは当然のように引いた。
怪我の治りが早いというのは何事もなかったように過ごせる点に関しては便利なものだと思うが、大きい怪我を負った後となれば治っても帳尻合わせの為に安静にしているふりをしていなくてはならない為時と場合による。
流石に頬を腫らしたまま外に出るのはどうかと考え、昨日は家から出ないように、変わらず姉を名乗る彼女と一緒に何をするでもなく寄り添ってと過ごすだけで日が終わってしまった。
気分転換を兼ねて今日は一日外出している旨を伝え長屋を出た弥代は、一人和馬の言葉を思い出していた。
『雪那ちゃんが…大変かもしれへんのに』
(だからなんだってんだよ…。)
腫れは引いた。でも痛みは思い出したくもないのにふとした時に浮かび上がってくる。思い返せば雪那に叩かれたのも和馬に殴られたのも、どちらも同じ左頬だ。先の空いた手袋はまだ若干悴んだように赤く色づく。何も付いていやしないのに拭う素振りをする。
暦の上だけなら夏を示すなんて信じられたものじゃない。自分の趣味とはかけ離れた見るからに女物と分かる羽織の前を引き合わせる。視線を落とした足元が何も無いはずなのに不安定に揺らいでみせたのは何故か。
気分転換だ。一人になって考えをまとめたかった。彼女の、詩良の横にいるとただただ何もかも許されたような、始終甘やかされているような錯覚を覚えてしまい何も、考える事を放棄してしまう。
今じゃなくても良いじゃないかと、優しく囁かれる。それはいつぞやに自分が雪那の問題に対して答えを先延ばしした時の事を思い出して。同じ意味じゃない事は分かっているのに、勝手に重ねて自分に都合よく捉えてしまう。それが正しくないのなんて知っているはずなのに。
暫くして弥代は路地裏から伸びてきた腕にいきなり引き摺りこまれる事となる。そうして今に至るのだが、
「弥代、」
「何だよっ⁉︎」
「表に出すのは良くない。」
「お前は表に少しは出せやっ‼︎」
言わんとしている事は分かる。というか春原がそんな事を気にする口振りをした事を意外だと思いながら弥代は肩を並べて歩く春原の脛を蹴りつけた。
後ろから注がれるじっとりとした視線に耐えられない為の妥協案だ。利き手である左手に並ばれるのはあまり好かない弥代。右に立つように春原に申し出たのだが、普段は左腰に下げている彼の刀に、芳賀同様に拳を入れようものなら身長差もあり上手く入らない。わざわざ止まらなければならないのも癪だが脛を狙うのが一番手っ取り早かった。いつぞやの古峯みたいに箸ではなく刀を差す向きを変えようとしたのでそれは止めろ、と既に叫んだのは言うまでもない。
(意外ってのはそもそもこいつの口からあんな言葉が飛び出てくる事なんだろうけどな…。)
『扇堂と芳賀がいなくなったと、聞いた。一緒に探してほしい。』
てっきり彼はそんな事に関心がないと思っていた。
和馬からは雪那だけの行方が分からないという話だったが、まさかそこに先日まで普通に顔を合わせていた芳賀も含まれていようとは。あまり大きな声で外で話せる内容ではなかった為、一度討伐屋に立ち寄って詳しく春原から話を聞く事にしてみたところ、どういうわけか空き巣にでも荒らされたような光景がそこには広がっていた。
状況は弥代が考えていたよりも芳しくないのかもしれないと重く受け止め、春原と共に決して公言しなように心掛けながら、二人の行方に関する手掛かりを求め歩き半刻。半径二里以上に及ぶ里を宛てがあるわけでもなく練り歩き捜すのはあまりにも馬鹿のすることだ。
小さな揉め事だって見過ごす事がないように目配せをする。あんな目立つ髪色はこの里では雪那以外にいやしないと、“色”を捜す。けれどもどこにも見当たらない。右隣の春原も同じように周囲を見渡している事はよく分かった。それでも見つからない。何一つ転がっちゃいやしなかった。
「私二人きりでこうして話してみたかったのですよ。やっと叶ってとても嬉しいですわ。」
目線を合わせるように、あざみは腰を折った。
しかし眼前の彼女と同じように床に腰を下ろすことはなく、あくまでも目線を合わせるだけに留まった。
まだその手元には彼女と柱を繋ぐ荒縄が握られており、逃げる素振り一つ許しはしないと言いたげに、言葉は柔らかい筈なのに鋭いその目尻が笑う事はない。
滑らした指先が、彼女の顎先に触れる。
自分以外の誰かに顔を撫でられるなど、心を許した相手でもなければ不快でしかないだろうが、堪えるように唇を噛む仕草ついでに長ったらしい前髪を払い除けようとすればそれは流石に嫌なのか、明確な拒絶を示されてしまう。それでも、距離を取られるような事はなかった。
「折角綺麗な顔なのに、本当に御可哀想。」
知っている。彼女の身に過去何があったかをあざみちゃんと分かっていた。何故ならそれさえ無ければ、あの日々が終わりを迎える事はなかったのだから。
『雪那様が、おけがを?』
因縁のある筈の藤原の子を二人、扇堂家が迎え入れてから一年が経った頃の事だった。歳が近い子と遊ぶ事は為になるからと促す兄の後ろから結局出る事が出来ないまま月日が経った頃、それは起きてしまった。
白昼堂々と、神無月になれば里を覆う神仏様の加護が弱くなるという事を知っていたのであろう屋敷の者の手引きによって、あろうことか本家の血筋である雪那様が酷い怪我をされたという。
人間に手によって施されたとは信じ難いそれは、見たこともない物の怪によるものだったと私は兄に聞かされた。
藤原の子が一度武蔵国に戻っている間だけだったが、短い間しか一緒に遊ぶ機会はなかったが、それでも私が彼女、扇堂雪那の身を按じるのにそれは理由としては十分すぎた。
『こ、こんにちは…雪那さま、お加減はどうですか…?』
日中は常に廊下に面した襖は開け離れていたというのに、それがまるで嘘のよう。
日当たりのいい東の離れは、私が住まうあそこみたいに薄暗さに包まれていた。
暗がりの中、啜り泣く幼い彼女。
手を差し伸べようものか迷い、でもあの日彼女が私の手を取ってくれたのと同じように、それで彼女の気持ちを救えるならと、意を決して私は膝をついた。
『雪那さま、』
「あの時みたいに、振り払ってくださっても構いませんのに。大人になられましたね、本当に。」
「どう、して…」
どうして、など。それはこちらの台詞だ。
どうして貴女がこんな場所にいるのか。私では甚だ理解できない。理解など、出来る筈もなかった。
『雪那様が継がれるのは大変難しい事かと思われます。』
初めにそう告げてきたのは誰だったかしら。
今思えば不躾ったらありゃしない。いきなり約束もなしに訪れておいて、状況を呑み込めていない子供相手に自分に都合のいい話を並べてきたものよ。
扇堂家において、“色”を持つ事なく、親さえも早くに亡くした私たちに兄妹に立場なんてものは本当になかった。
同じ分家である、過去に何か罪でも犯したのだろうか扇堂美琴は生まれつき体が丈夫ではなかった為に、子さえも授かることなく、他所からやってきた婿は数年と経たぬ内に神仏様の呪いによってこの世を去った。
本家の雪那様の母君は、雪那様を産んだ翌年、この榊扇《里》に降りかかったとされる火災に巻き込まれその命を落としたとされている。
七代目当主・扇堂杷勿は既に歳を多く重ねられている。
新しい世継ぎなど望めるわけもなく。しかし本家の、本来杷勿様の跡を継ぐべきである筈の雪那様は、心を病んでしまわれ、離れから長い間出てこなくなったと聞く。
いつ戻って来られるか分からない彼女を、悠長に待ってはいられやしないのだ。
まだ、兄がいた頃の話。
大主の目が黒いうちに暴挙に出ることはないと、誰かがいった。
数年に渡り、里の領地に含まれる前、その土地を統治していたであろう地主ら、その子息らと交流を重ねた。分家の、表立っては“色”を持たぬ故に見向きもされない私が、屋敷を正面から堂々と出たところで誰も気に留める事はありはしなかった。当然といえば当然の話。
これで何事もなく大主が寿命を迎えられる事があれば、里における有力者達の支持を得た扇堂あざみという、“色”を持たない小娘が大主の座につける事だろうと、貸し切られた料亭の一室、酒に呑まれた誰かがついポロッと口を滑らせた。
そう、私は所詮何も持たない小娘でしかない。
たった一人の大事な兄さえ、扇堂の呪いによって奪われてしまったといっても過言ではない。友人と呼べる存在がいた試しもない。誰にも吐き出すことの出来ないまま、顔もまともに覚えていない、権力に溺れた大人達にいい様に利用されるだけのただの小娘。
笑いが込み上がってきた。
長い事口を閉ざす事に慣れてしまっていたというのが嘘のように、乾ききった口元が切れて血が滲む。目つきも悪ければ日の差しこまない部屋で日がな過ごす私。
既に口付けた盃の、水面に映り込む赤は、異様な程…
「なんて、貴女が知る由もない話でしたね。ごめんなさい、私ばかりが話してしまって。」
「あざみさん…貴女、」
「嫌ね、そんな他人行儀。昔みたいに、あざみちゃんって、呼んでくださいな。」
あまりにも軽やかに言葉を紡ぐ彼女に、雪那はなんと返せばいいのか分からなかった。
話をしたいなどと言っておきながら、こちらが口を開こうものならそれを妨げるように彼女は言葉を続けた。それを会話などと呼ぶのは到底難しい話。
ただ雪那は、目を逸らす事だけは出来なかった。
それでよかった。長く事を荒げる必要などない。
老い先の既に短い相手の首を落とす手間など無駄だと、そう提案したのは他でもないあざみだった。五年以上掛けて地道に、水面下で行われた準備に抜かりはない。その時が来るのをただ待つだけでよかった、筈だった。
『雪那様の行方が分からなくなったそうですよ。』
事態に変化が訪れるまでは顔を見せないと言っていたはずの彼が姿を見せたのは先の春の事。
甲府にある鈴木家に顔合わせに屋敷を発った雪那様の安否不明を告げられた。扇堂に婿いりをするとなれば長生きは出来ないというのは長年一族に男を迎え入れてなかった為に忘れられつつあったろうが、わざわざ相手方へ出向くという話を聞いて、薄ら私は大主に彼女を継がせる気がないのではないかという考えが過った。
でなければあの歳になって今更縁談話を用意し、彼女をそこに向かわせる理由が分からなかったから。
弟《兄》にまだ意識があった頃、大主があそこまで弟《兄》に入れ込んでいたのは何故だろうか、改めて考えた。
「杷勿様はきっと期待していたのかもしれませんね。長い事生まれなかった男児が生まれた事で、呪いは薄れたのかもしれない、と。けれどそんな筈がなかった。」
だから弟《兄》は今も長い眠りから目を覚さない。
「つーかよ、何だったか…。奉行人つったか、この里にはいねぇのかよ。」
それは素朴な疑問だ。些細な喧嘩はあれど目立つ争い事がない、平和を絵に描いたようなこの里では、他の地ではお目に掛かる事があったそれらを見ない。これだけだだっ広い里であれば随所随所に詰所があったとしてもなんらおかしくはないだろうに、それが一切なかった。
津軽と南部の境に位置するあの屋敷を後にしたのだって、それらの追求を免れる為だった。南部の土地を納めていた御法川家の当主の行方が分からなくなり、その数日前にやって来た余所者を怪しまれ、疑いを掛けられたから。
(……。)
自分で振った話だというのに余計な事を思い出してしまったと、弥代は眉を潜めた。余計な事なんて、そんなわけがないのに。
「弥代?」
「何だよ。」
「顔色が優れない。気分が悪いのか。」
「別に悪かねーよ、」
何とも歯切れの悪い返しだ。居心地が悪い。後頭部を掻きながらまた先ほどと同じように足元に視線を落とす。
「ただ、」
「ただ…?」
「何やかんや言って、大主様は過保護でしたからね。雪那様は自らの意志で離れに篭りっきりだったと御思いでしょうけど、ただ甘いからという理由であの厳しい御人がそれを許すわけがないでしょう?私はですね、雪那様。大主様もきっとそれを望んでいらしたと思うのですよ。」
「お祖母様が、望まれていた…?」
ふと、雪那は思い出す。
『自分がしたいと思った時で良いんだ。したくないと思ったならしなくていい。』
あの一件があった後、屋敷の中で祖母が自分に向かって言ってきたあの言葉。思い返すまでもない。数珠つなぎのように過去何度も向けられたであろう祖母の言葉が蘇る。そのどれもはいつだって、
(私の意志を優先していた…、)
野田尻の鈴木家のご子息と顔を合わせた時だってそうだ。見つかったという報せを受け、遥々一晩中馬を走らせ顔を見に来た、縁談話に前向きであった彼を断った時も、祖母は雪那を叱る事はなかった。
長年顔を合わせる事がなかったが、昔とまではいかないがそれでもこの一年は機会があれば少なかったが言葉を交わしてきた。
雪那は、杷勿の身に何があったのかを詳しくは知らない。
状況を伝えに来た美琴を、気分が優れないからと聞くのが怖くて拒んだ。今も意識が戻らぬまま、冷え切ったあの本堂の奥に横たわっているのかと思えば、声が思わず上擦った。
『今急ぐ必要はないと思うけどな。アンタが向き合いたくなったその時、頑張ればいいじゃん。愚痴ぐらいはいくらでも聞いてやるからよ。』
立て掛けられた梯子を降る際、数段飛ばして降り立った弥代が、振り向きながらそう語りかけてきた。差し伸べられた手を頼りに、雪那は、
「私と話すのは、そんなにつまらなかった?」
再び目が合えばその瞬間彼女は、トンっと、雪那の肩を小さく押した。まだ目を覚ましてからそれほど時間は立っていない。普段とは違う分厚い生地の着物のままだったという事もあるが、上手く力の入らない体は素直に、後方へと崩れた。
「とってもお似合いですわよ、雪那様。」
行き場のない、積もりに積もったこの感情は次第に悍ましいものへと変わり果ててしまった、その自覚が彼女にはあった。
誰でも良かったわけじゃない。初めから誰でも良かったのなら、こんなの抱き続けない。全てが全て、貴女のお友達といたいと思っていた私の気持ちを邪魔される、踏み躙られる。
憎いと感じるのすら、きっとお門違い。知っている。でも、知っていても押し殺し続けてきたものは消えるわけじゃない。
消えないで、そこに在り続ける。なかった事に出来ない。口車に乗せられただただ利用されただけだとしても、自分が最終的にあの子に齎したであろう可能性を理解して、何事もなかったかのようになんて過ごせやしない。
それなら、それならいっそ、いっそのこと、私を…
「ちょっと待ったぁああっ‼︎」
「俺、何も出来なかったなって。」
言って直ぐ、なんだそれは?と疑問を抱く。
でまかせにポロリと飛び出た言葉は、しかし止まる事のないままただ続いた。
「何も出来なかった。何も、守れちゃいない。大切だって思ったはずなのに、失いたくないって望んだのに、手を、取る事すら出来なかった。あの時、あいつの手、握ってやれれば、それで何か、何か変わったんじゃないかって今も考えてるんだ。先があるみたいな事口先で言うだけじゃなくて、無理矢理でも引き摺ってでもどうにか、どうにか出来たんじゃないかって、思っちまう。でも、あいつはそんな事、きっと望んでなんかないって分かってたから、なのに、なのに…、それなのに、」
言うつもりなどなかった言葉が、矢継ぎ早に意志に反して溢れてくる。息を呑む。視界がぼやけ、爪を立て、頭は緩やかに垂れた。
今になって湧き上がってきたもの、それに弥代は覚えがあった。
(怖い…)
『友達言うたのはお前やろっ‼︎』
そうだ。自分から彼女にそう切り出したんだ。
たった一月、たった一月だというのに、あまりにも彼女を知りすぎてしまった。名も知らぬ老夫婦を失って以降、ずっと人と深く関わる事を避けていた筈の自分が、自分と同じ“色持ち”である彼女に勝手に情を寄せて、きっと本心から願ったであろう終わりを、自分勝手に捻じ曲げて、あまつさえ友達になろうなどと名乗ったというのに、それがどうだ。同じように情を抱いてしまった相手が、自分を逃す為にその身を犠牲にし亡くなったと話を耳にし、これ以上失う事を恐れてしまった。
自分から友達になってくれと言い出したというのに、だ。
身勝手にも程がある。
(違う、仲直りをするつもりだった、でも、でも…)
言い訳だ。家に置いてきた彼女の姿が、脳裏にチラつく。
「弥代」
背中を摩られる。
「大丈夫か?」
吐き出すつもりなどなかった。誰にも言うつもりがなかった。ぐるぐると、自問自答を繰り返していた。自分が人間でないと分かってしまったあの時、もう二度とそんな風にはならないでいようと言い聞かせたはずなのに、たった数ヶ月でこうも簡単に崩れてしまった。これまで長い間培ってきたものは、見てくれだけ直したって意味はなかった。内側に残った綻びはそう簡単に元通りにはならない。ならないから、だから、だからこそ、
「俺は…、」
思わずその場に蹲ってしまう、その時だった。
『ただ家族を護りたい。それすらも貴様らは許してくれないのか?』
(………あれ、)
聞いた覚えのない言葉が浮上した。
思い出すというのに覚えていないとはどういう事だ。
交わした。交わしたであろう言葉とは違う、記憶はあるのにその中身が所々抜け落ちてしまったかのように、浮かぶものもあれば分からないままの部分がある。明確な違和感。
そんなにものに襲われる覚えなどそれこそあるわけがないのに。
「弥代?」
『弥代、』
重なる、彼の言葉。そしてそれは、
(俺、こいつとこんな仲だったか…?)
『おかしな事を言う。水をいつ俺が掛けたというんだ。覚えはない。』
『扇堂が牛車に押し潰されそうになった時、神仏・水虎がそれを救ったじゃないか。』
『扇堂の事となれば前回同様、アレが何かをするはずだ。弥代が焦る必要はどこにもない。一旦落ち着くべきだ。』
つい先ほどまで普通に言葉を交わしていた事にさえ疑問を抱く。段々と浮かび上がってくる、聞き覚えのない言葉に埋もれてしまうように、耳にしたはずのそれらが掻き消えていく。自分の知るはずの彼という人物像そのものが見えなくなってしまうような、これまで感じた事のない、知らない、分からない、覆い被さるような、まるでそれごと上書きされてしまったかのようなそれは、
無意識に伸ばした手が、何かを掴もうとした。が、それはか細い声に阻まれた。
『まだ、ダメ。』
耳元で誰かが囁き、小さな手が重なった。
『まだ、駄目だよ。』
初めて耳にしたはずなのに、どこか懐かしいその声。釣られて振り返るもそこには誰もいない。重ねられていた手もまたもうそこにはなかった。
「弥代。」
今までの感覚がまるで嘘だったかのように、やけにハッキリとした視界にそれが割り込んできた。
「…、」
「大丈夫か。やはり顔色が優れない。」
「…」
「気分が悪いのか?俯くばかりでは分からない。」
「…ぅ、」
「…?」
「違う。」
いつの間に掴んでいたのだろう。立ち上がる事も、体勢を維持することも出来ず凭れかかるように弥代は春原の胸元に頭を寄せた。
「なんでも、ない。」
苦手な相手であろうと、それ以外に縋れる相手がいないのだから仕方がない、と。
適当な言い訳を並べて弥代は、落ち着くその時まで目を閉じた。
「でーすーかーらーっ‼︎別にそんなつもりは無かったんですってばっ⁉︎」
大きな音と共に背後にあった筈の障子に穴が空いた。
何事かなど、覚えのない声に振り向いた直後に起こりえた事なのだから一連の出来事を目撃していたのに、頭が追いつくことなくその場で立ち往生をしてしまったように思考が止まる。
「危なっ⁉︎投げ方へったくそっ!もっと丁寧に投げられないんですかっ⁈俺で良かったですね!俺以外だったらもっと大怪我してますよ‼︎」
後手を縛られた男がそう喚き散らかす。その顔に覚えがあった。昨晩雪那と一緒にこの店に運び込まれたと素性の知らぬ者だ。
一緒の場所に転がすのが嫌で、奥の部屋に追いやるように言っていたはずだが。
「あざみ様すみませんっ!そいつがあまりにも暴れるもんですから…、」
「…暴れるから何よ?場違いにも程があるでしょ。早く退がらせ、」
「こんな状況前にして簡単に引き退れますかってんですよっ‼︎」
舌を打つ。どこの誰かも知らない奴に掻き乱される、ずっと待ち望んでいた一時を。堪えられないと言わんばかりに、上から抑え込まれるその男の顔面を、あざみは踏みつけた。
「邪魔しないでっ‼︎」
「ぐっ…!」
苦悶に満ちた声があがる。眉間に深い皺が刻まれるというのに、その黒い瞳が、焦点があざみからブレることはない。部屋に乗り込んでくる際に壊れた障子の組子が散らばる床板の上、暴れる中でそれを傷が出来たのだろう、ちいさな擦り傷から薄い筋が伸びようともお構いなしだ。
「筒抜けなんですよっ!静かに話したつもりですかっ⁈全部聞こえてました…、聞こえてたからこそ言わせてもらいますよっ‼︎」
「早く追い出してっ!」
男は、止まらない。
「そんな泣きそうに話すなら!最初から話すなっ‼︎」
『黒介、』
母という生き物は、ひどく立場の弱い生き物だと、そう思ったのを覚えている。
十月十日、大きな腹を必死に抱えて、今か今かと産まれてくるややこに想いを馳せる。だというのに生後から一年と経たずにその命を落としてしまう事もある。丈夫なややこを求めて多産を行う。
けれどもいざ子を産むとなれば人目のつかない土間や納屋に隔離される。産み落とすに身から溢れる血を穢れとして捉えるためらしい。子を一人産むの事さえ命懸けだ。産後は人によっては肥立ちが悪く、それで亡くなってしまう者も少なくはない。
それでも、だからこそなのかは分からないが自分を産んだ母は、その中でもあまりに弱い立場にいた。
『どうして“色”を持たず産まれたんだい?おかげで、おかげさまで私がこんな、こんな惨めな思いをしなくちゃいけなんだよ?どうしてだい?どうしてお前は“色”を持たずに産まれてしまったんだい?教えておくれよ黒介?お前が産まれるまでは、私は愛されていたんだよ?』
揺さぶられる。強く鷲掴みにされた腕には痕が残された。産まれたその日から、“色”を持っていなかったが故に自身の子であるという事を最愛の夫に認められず、除け者のように扱われる日々を数年に渡り送らされたその生き物の心は既に壊れかけていた。
自分の上の兄弟は、同じ母の腹から産まれたというのに、一族が崇め続ける“色”をその身に宿し産声を上げた。
幼く、出の悪くなった母の乳を無我夢中に求めるばかりの頃は、それでも恨み言を零す、そのいみがまだ理解出来なかった。
『産まなきゃ良かったねぇ…お前みたいな子ども…、』
五つを迎えるよりも早く、やはり冬の凍える寒さに及ばず、冷え切った納屋の隅で、母は息を引き取った。
『認めぬなど、それはあれの妄想だ。お前を離したがらないものだからそっとしておいたに過ぎぬ。他所より“色”を持つからと大枚を叩いて貰い受けたというのに、最後の最後に産んだ子は“色”に恵まれかったと。胸が痛む。…どれ、顔をもっと見せよ。あれの死に顔はどのようなものであったか聞かせろ。』
初めて顔を見た、自分の親であろう初老の男を前にして、言い知れぬ殺意を抱いたのを覚えている。
ただ、ただ、殺してやりたかった。
『“色”も持たずによくあんな堂々としていられますこと。』
『旦那様も人が悪いわ。物音がしないのに気付いていらしたのでしょう?暖かくなる頃まで放っておくように言っておいたそうよ。』
『あの納屋で五年も生きていた時点で運だけは良いのね。』
向けられる悪意に、後ろ盾など何もない。
それでもいつか、いつの日かあの男の喉を食いちぎってやると自分を約束をして、少しでも敵意がない事を示すように、下手くそな笑みを浮かべ続けた。
上の兄弟にいくら暴力を振るわれようと、いっそ気味悪がられるぐらいの孤を描いて、取り繕い続けた。
(“色”があれば良かったんだ。でも“色”を持つものはみんな同じだ。なんて業が深い。自分たちの方が優れてると勘違いを続けている。“色”なんてなければいいんだ。)
庭の池に映り込む自分を見て安心した。ああはなりくないと思う血の繋がっている肉親たちとは違う、真っ黒な髪と目。あんな傲慢な存在でなくて本当に良かったと、酷く、安堵した。
いくら手を上げようとも何も反応を示さない事を学んだのか、兄弟たちもはたまた成長し大人になったのか。陰湿な扱いを受ける事も少なくなったのは十五の時。
十年に及び、一族が棲まう屋敷で下働き同然に日々を費やし、得られるものなど僅かばかりの食糧。それでもそこに居続けたのは、あの男を手に掛けてやるという執念。あの頃は短かった手足も随分伸びたものだ。使いっ走りに走らされる日々を経て、昔よりも筋肉もついた。古びた納屋の中、それ以外に過ごす場所などなく。
母の亡骸が横たわっていたであろう場所の染みは、長い時間のせいですっかり消えてしまった。それでも、彼の中の怒りが消える事は、なかった。
「絶対にっ!駄目だっ‼︎」
「五月蝿いのよ…っ!吠えるだけならとっとと消えなさいよっ‼︎」
袴の裾に噛みつかれる、まるで獣みたいに。
そんな態度を示された事がないものだから、慌てて足元が崩れる。さっきのあの子のように倒れ込んでしまう。
視界に映るのは、名前も顔も分からない男達に押さえつけられていた筈の彼なのに、どこにそんな力があったのかを疑いたくなる程の、後手を縛られているとは思えない勢いで、立ち上がり、迫ってくる。
「縁を切ってほしいからってそんな事!何があっても言うんじゃないっ‼︎」
「関係あるかっ!“色”があろうとなかろうと、そんなの関係ないっ!ほんの少しだって一緒にいたのなら尚更だっ‼︎なかった事になんてするなよ…っ!」
瞳の奥に映る、自分の表情を見た。
「…後悔する、絶対にアンタはここで考えなしに言ったら後悔する…、家族に、“色”に振り回されちゃ、駄目なんだ…っ、」
「………なによ、それ」
『随分と“色持ち”に固執される一族がこの近辺にいるとか。あまりこう言った事を本心から言うわけではありませんが、良いですねぇ。一度で良いから肩の荷を降ろして堂々と“色持ち”であると声の一つ張り上げてみたいものですよ…。』
笠を被った男が二人、歩み寄ってきた。
随分と分かりやすく声を張るもので、隠れる気などが端からない事が窺えた。腰に携えた刀がやけに重々しく映った。
『真っ黒な狼が出たなんて…そこそこ拓けたこの集落に、果たしてそんなものがノコノコ降りてくるとは、私どうにも思えないのです春原さん。』
木々の隙間から滴る雨粒が、頬を掠める。
『どうされますか?こんなのただの、手負いの子どもですよ。』
暫くしてそれまで無言を貫いていた男が、静かに口を開いた。
『降り止むまでで良い。そこにいては風邪を引く。』
「理解できないって、分かり合えないって勝手に解決してるんじゃないのかよっ⁉︎」
「知った口、叩かないでっ‼︎的外れにも程があるわ…、余所者に、関係のない奴にそんな事言われる筋合いないのよっ‼︎」
「関係なくなんかないっ!だって俺は、雪那さまを弥代さんの所まで送り届けるって約束したからっ‼︎」
「それがっ!何だっていうのよ‼︎」
馬乗りとまではいかない。膝をたて、不安定な体勢のまま威勢よく吠えてくるその顔に、今度は爪を立てる。
「いつまで寝てるのよっ⁉︎早く、早くこいつを、摘み出してよ…っ!」
ここまで彼が関係ない自分に対して食いついてくる。知った口と言った直後ある可能性が過ぎる。自分とよく似た、あまりにも近しいその“色”を目にして、彼も、彼も同じなんじゃないかと…。
(だから何?だから何だって言うの?それは横槍を挟まれていい理由にはならない、私、私が、私が求めていたものは、きっと……!)
『あざみちゃん!』
頭に昇っていた血が、一瞬にして引いていく。
いつの間にか振り返った直ぐ後ろには、貴女がいて。直接手なんてあげてないのに、腫らした鼻からはポタポタと血を、流して、
瞼では堰き止めきれなかった涙を、ポロポロとどんどん溢れさせて、
震える指先が、そっと、私の裾に触れて、
「 」
私には、彼女がなんと言ったのか分からなかった。




