十二話
物心がつくよりも前から教え込まれたものというものは、どれほど年月が経とうとも染みついてしまって中々抜け落ちないものだな、と芳賀は思う。
周囲の相手には人当たりが良いとよく賞賛される笑顔を、正直な所彼自身はあまり好いていなかったし、好きにはなれなかった。
それで得をする事も多かったろうが、その反対も然り。当然のように着いて回った。
無意識に上がってしまう口角は、時に相手の神経を逆撫でる事もあったし、真面目な話をしたいと思っても中々話の腰が折れて進まない事も。最近ではいい加減このままじゃいけないと意識して口を閉じるようにしていたが、気が抜けると抜けるで半開きと間抜けな顔を晒しがちだ。それでも、四六時中笑みを浮かべているよりはマシで。
人は危機的状況に陥ると思わず笑ってしまうとか、なんとか。
「…お邪魔しておりますぅ、」
逆光で顔は見えないものの、がっしりとしたその体躯から馴染みがない男共を前に、芳賀が絞り出した発声はどうにも情けないものだった。
お世辞にも美味しそうには見えない、残飯と見間違えてしまそうな雑炊を前に要らないと首を振ったが、口に捩じ込まれたそれは案の定味は全くしないし、煮詰めすぎて食感なんてあったものじゃなかった。それでも無理やり捩じ込まれたら飲み下さないといつまでも口内の中に居座られ、吐き出そうにも意志に関係なく押さえつけられ出来るわけがなかった。
食わせ終えればそれで用事は済んだのか。空になった腕を片手に、入ってきた時の逆に部屋を出ていく背中が見えなくなった頃、芳賀は小さく悪態を溢した。
「意識なかったらどうするつもりだったんてんすかあの人等はっ⁉︎」
偶然たまたま目を覚ましていたから差し出されたのを口にする事が出来たからよかったものの。寝ている間に意識もないのに無理やり食べさせられていたのではないかと考えるとゾッと悪寒がした。
障子が締められればまた、先ほどと同じ薄暗さに部屋が充される。光源と呼べるのは薄いのか、障子越しの僅かな灯りのみだ。ただしそれは当然弱いもので、真っ暗闇ではないだけ本当に幾分かマシというだけで。
状況は何も変わっていない。
それでも目を覚ました直後よりは段々と鮮明になりつつ思考で、芳賀は覚えている限りの事を少しずつ思い出し始めた。
(そうだ、確か…お遣いをしてる戸鞠ちゃんを見つけて…。)
少なくとも十日は留守にすると言われたのは何も前日の話ではなかった。春原達の此度の旅の恩人にあたるという不思議な兄妹が討伐屋に泊まった、それよりも前から言われていた事だ。人手不足が否めないが、最悪今は屋敷から手伝いに和馬が足繁く通ってくれている。何か困った事があれば、屋敷からの依頼でもあるので屋敷の方に相談しなさいと助言をしてくれたのは他でもない伽々里だった。
春原と館林が弥代の捜索の為、里にいない間は三人での暮らしにすっかり慣れてしまった。今までであれば春原のちょっと変わった行いに伽々里を始め全員が何かしら声を掛けていたものだが、この間というものは小言の多い二人から集中して受けるのは芳賀のみとなってしまい、あまり良くはないが聞き逃す事も多くなってしまった。
何かあれば、というのは始めから頼ってもいいといった意味もあったのではないかと、一日足らずで荒らしてしまった討伐屋を思い浮かべながら芳賀は戸鞠に並ぶ形で屋敷を目指した。
相良のあの口振りからして、和馬に先ずは相談をしろという意味合いも含まれていたのかもしれないが、言ってはいないだけであの出来事から正直二人きりで顔を合わせるのはあまり気乗りしていない。まだ慣れていないのだろう和馬が、舌がよく回る相良を前に調子を崩され失言をして空気を悪くさせてしまう事も何度かあった。その度に間を保たせるのは芳賀の役目で。
歳上で藤原の一族の者、春原の義理の兄にあたる人物だとしても心の底から和馬に頼りたいとは思っていなかった。
何やかんやいって春原が屋敷で暫くの間療養している期間は、屋敷に身を置く下女らと交流は広げていたのだし、いきなり押し掛けても害を持ち込むわけではないのだし快く受け入れてくれるだろうの気持ちでいたのだが、
『どーして入れてくれないんですかっ⁉︎』
『黒、お前…恥ずかしくないのか?真昼間に…ここをどこと思ってるんだ。大主様の、扇堂家のお屋敷の門前だぞ…』
『長くん随分言うようになったねっ⁈』
『止せよ、仕事中だ。』
『褒めてないよっ‼︎』
門前の階段を登りきった矢先、戸鞠が門を潜るというのに後ろにくっ付いていた芳賀の前に刺股が落とされたのだ。
『伽々里さんから事前に聞いてるぞ。だが何も言わずに入れるのは職務放棄だからな。せめて明日出直せ。』
『直接来てるんだからちょっとヤバいんだって察してよっ‼︎』
『厄介事はごめんだ。』
『長くんっ⁉︎』
『ですから今日の今日で入る事はできないと、私何度か言いましたよね。潔く今日はおかえりになられてはどうですか?』
『戸鞠ちゃんまでぇえ…っ!』
門の前に立っていたのは、討伐屋の近所長屋を営む吉田の長男坊・吉田長兵衛だった。
先の一件から定期的に薬師であり医学にも長けている伽々里が往診に足を運ぶ内に、年も近く気も合う事からこうして意気投合して話す機会が増えたのだが、年を跨いだ頃からは誇り高き父の職務を引き継ぎ、見習いとは思えない貫禄を背負い屋敷の門番を勤め上げていた。
『所で聞いてくれよ黒。親父の奴帳簿と睨めっこするようになってから母さんの器用さに惚れ直したのか…こいつは兄弟が増えかねないと俺は読んでいる。』
『おいくつでしたっけ親父さん⁉︎足折った後だってのにお元気ですね‼︎いやっ違うよっ‼︎だから俺は今屋敷に用事があってっ‼︎』
あーだこーだと何てない話が暫く続いた頃、いつまでも終わりそうにない弛んだ空気を引き締めたのは、ある人物らがその場に現れたからだった。
(雪那さま?…そうだ、俺雪那さまと一緒にいた筈…なのに、)
『こんにちは…?どうか、されたのですか?』
傍らの存在に自然と目が行くが、直ぐに声の主に焦点を芳賀は合わせた。
山の高い位置に自然と育った木々の淡い花弁が優しく舞う中一際目を引く、季節外れの藤色を緩やかに靡かせた女性・扇堂雪那だ。
里での生活が始まって早一年は経つが、里の、特に年配の者達が口を揃えて里一の美女は雪那様だというのが思わず頷けてしまう程の美貌に大袈裟ではなく目が霞んでしまう。
お天道様の下なのに、もう一つそこにだけぽつんと青空が存在しているかのような澄んだ瞳もとても輝かしい。右目は変わらず長い前髪でお目にかかる事はないが、対で見る事が出来るわけではないからこそ、より美しいと感じてしまいそうな、そんな…
『おい黒、何惚けてる…』
『そっちこそ…口元弛んでるぞ…』
戸鞠の呆れた視線を受けて姿勢を正せば、雪那の隣にいた和馬が口を開いた。
『えっと…黒くんはあれやろ。伽々里さんから話は聞いてるよ。それとは別かな?吉田さんとえらい仲良さそうに話し込んどったけど…?』
『仲良さそうに見えましたっ⁉︎俺ほとんどつっこんでただけですけどね‼︎涼しい顔しちゃってるくせして頓珍漢な事しか言わないですからこの門番っ‼︎』
『つっこみにおいては俺の物書きの友人の方が中々切れがあるぞ。やっぱり地頭の出来も関わってくるんだろうな…!』
『絶対関係ないと思うぞっ⁉︎なんなら驚きの失礼さだからなお前っ‼︎』
そんなこんなな賑やかしさもそこで御開きとなった。門番である吉田よりも屋敷においてはあまり意味はないが地位と信頼が徐々に築かれつつある和馬と、本家の雪那が快く招き入れたからだ。
あんな会話を繰り広げておいて仲は良い方なのだと芳賀が口にすれば、どういうわけか雪那が目を輝かせて話がしたいと申し出て来たのも大きな要因だろう。
丸々屋敷で世話になるわけではないが、とりあえず食事だけでもどうにか工面(近所の仲のいい家に転がり込めばいくらでも分けてもらえるだろうが、それは止めるようにと相良に釘を刺されていた為)出来ないものかと考えていたのだが、丁度昼時だった事もあり西側にある厨房で余った昼餉をいただける事となった。
既に雪那と和馬は食事を終えた後だった為、一緒というわけではなかったが、こちらが食事中でもお構いなしに雪那はやや食い気味に芳賀に質問を投げかけてきた。
『雪那ちゃん、それじゃ黒くん全然食べられないよ。』
『すみません…弥代ちゃんは結構喋りながらでも食べていたもので…。』
何と読めない会話だろう。弥代が食事中もずっと喋ってばかりだったから、食事中の相手にも矢継ぎ早に話しかけたとは?
『ほら黒くん討伐屋で弥代ちゃんとも付き合い長いやろ?…長いんかな?弥代ちゃんもちょっと…いやかなり口が悪いから…似てる思ったちゃうんかな雪那ちゃんは?』
『和馬さん凄いですっ!』
思わず手を胸の前で叩いて喜んで見せる姿は子供のそれではないかという言葉は最後まで飲み込んだ。しっかり味わった甘味のある米と一緒に飲み下した。
(美味かったな…屋敷の飯。和馬さんあれ毎日食えてるのか羨ま…じゃなくて、そう、それで…)
雪那付きの下女である戸鞠だが、最近床に臥せていたという医師の佐脇の調子が良くなった事で、暫くの間は身の回りの世話や手伝いをするようにしているらしい。暫く里を留守にしていた春原や館林が討伐屋に戻ってきた事で和馬もここ数日は手伝いには来ていない。雪那のお世話に集中出来ているのだと話した和馬は、空になった配膳を持ち上げると厨房に戻してくると席を立ってしまった。
まさか雪那と二人きりにされるとは思っていなかった芳賀は初めはこのお嬢様とどう話を進めたものかと迷ったものだが、二、三言言葉を交わして、先ほどの和馬との会話を思い出して、扇堂雪那という女性が見た目のわりに幼さの残る言動が多い事に直ぐに気付いた。
『ですからその…弥代ちゃんのお話をお聞きしたいのです。』
『弥代さんですかぁ…そうですねぇ…』
若干語尾が伸びてしまう。子供に接する時によくやる話方だ。間延びした語尾と一緒に相手の顔色を見て理解できているのかを窺う。相手は子供だ。芳賀は自分に言い聞かせて雪那の望む話を始めた。
『弥代さんですよね…弥代さんは、そういえば随分着飾ってましたね?』
あの不思議な兄妹が泊まった翌々日ぐらいだったろうか、突然弥代の装いが見慣れないものに変わっていた。そういえば討伐屋に泊まった日も見覚えのない分厚い格好だったが、館林が背負って持って帰ってきた大きな葛籠の中に見覚えのある彼女の着物が入っていたので、それ以外になかったから新しく仕立てたのかと思った。初め目にした時は驚いて取り乱してしまい、採れたての卵を分けてもらうお礼に、近所に飛び出してしまった鶏を捕まえるのを手伝う最中だったのを忘れて、捕まえた鶏を両脇に抱えたまま討伐屋へ駆け戻ってしまったのをよく覚えている。
そこからは数日、弥代を討伐屋に住まわせられないものかと勧誘を行なっていたがどれも惨敗。
奢るので!としがみつき茶を一緒になって飲んだりしている時に、何となしに服装について訊ねた所、お姉さんが選んでくれたと気恥ずかしそうに返してきたのはなんとも意外だった。
『驚きましたね!弥代さんも照れたりとか恥ずかしがったりとかあるんだな〜って俺目がこう、かっ開いちゃって、脇腹殴られました痛かったぁ…、』
遠慮なく打ち込んでくるものだから本当に容赦のない人だと話していれば、膝の上で組まれていた彼女の両の手がピクリと揺れた。
『弥代さんは、雪那さまの事大事にされてるなって、俺は思いますけどね。』
驚く程に分かりやすい。表情を窺うまでもない。弥代と数日過ごした一時の中、直接その名を口にする事はなかったが付き合うというのは難しいものだとぼやいていた事が何度かあった。誰のことを指しているのかその時はピンと来なかったが、日が空いて弥代と仲が良い、友達である彼女の態度を前にすれば、なるほど雪那の事だったのかもしれないと芳賀は納得がいった。
思い返せばあの日、わざわざ友人の身を按じて彼女は討伐屋に訪れたのだ。
自分では話の腰を折ってしまいかねないと、春原の容態を見ているように側にいるよう席を外していたが、それでも、
『弥代ちゃんを、私の友だちを探してほしいのです。』
廊下越しでくぐもって聞こえたその声が、どれほど彼女が弥代を心配しているかが芳賀にも理解できた。
(そこまで気に掛けられる友達ですよ。こんなの知っておいて、放ってける程薄情には育ってませんよ俺。)
何があったのかを芳賀は知らない。ここ最近は弥代が屋敷に訪れていないという。日中は専ら里をふらふらと出歩いているのは見ていたから分かっている。近所に限らず、狙った場所に現れるという事はなかった。
『ねぇ、雪那さま。ちょっとこれは俺からの提案なんですけど…、』
(いやそれで肝心の雪那さまは…っ⁉︎)
そうだ間違いないと、芳賀は全て思い出した。順を辿るのに多少時間は掛かってしまっただろうが、昼か夜かも分からない薄暗い、襖越しの灯りのみが頼りのこの空間においてはどれだけ時間が流れたかも分かりはしない。
先ほど部屋に踏み入ってきたあの態度からしてこの部屋らしき場所にいるのは、恐らくは自分のみだろうとは想像がついていたがだとしたら、だとしたらあの後、夜が更けてかバレたらただじゃすまないと分かっていながらも、人目を盗み雪那を屋敷の外へと手引きし、弥代が暮らす長屋へと案内して、それから…
薄ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になっていくのに、あまり見覚えのない部屋の造りに目を覚ましたという実感が中々沸かない。寝起きの気怠さは日によって異なるものだが、今日はやけに重たいのだなと考えながら体をゆっくり起こしてみて漸く何かがおかしい事に気付いた。
「あれ…、」
部屋の造りに覚えがないのはそうなのだが、そもそもそこには布団の一つとしてない。寝ていたのに布団が何もないとはどういうことだろうかと首を傾げてみて、床の上に直接寝ていたのだと分かった。固い床の上で横たわっていた為に慣れぬ環境に体が強張ってしまったのか、気怠さは錯覚ではない。
と、周囲を見渡していた彼女の左目が捉えたのは、帯に巻き付けられた縄だった。パチパチとまばたきをしてから触れてみれば、それは自分の腰から伸びて、後方に聳え立つ柱に同じように巻き付けられている。
「………?」
口許に手を当てる。何かがおかしい事は何となく分かってきたがまだ確信に至っていないといった様子だ。のそりと立ち上がる。帯から伸びるそれを軽く引けば、あまり余裕がなかった縄は直ぐにピンと張る。
「…?」
随分とざらざわとしたそれをずっと握っているのは難しい。手に取るのをやめ、今度は引くのではなく少しずつ根本から距離を離すように動けば、ピンとまた縄が張る。
「…。」
何かがおかしいという事は分かっていたが、ここで雪那はやっと何かまずい事が自分の身に振りかかっているのだと理解した。いや、理解できた。
(…えっと、)
だがしかし何かがまずいと分かっても、具体的にどうまずいのかが分からない。自分がどんな状況に置かれているのかさえいまいち彼女は理解出来ていなかった。
(目が覚めたら知らない場所で、着替えもせずそのまま意識を失っていて…寝てたのかしら…それでえっと…)
とりあえず腰を下ろす。どうすればいいのか分からないからだ。
そして何があったのかを思い出そうと試みた矢先、それは向こうからやってきた。
「厄介事に巻き込まれるのがお好きなのかしら?」
聞き覚えのある声。深い色をした翅が一緒に揺れる。全て見透かしたかのような鋭い視線が特徴的な彼女の名前は、
「あざみ、さん?」
「離れに引き篭もったままでいれば良かったものを…、お転婆が過ぎましてよ雪那様?」
『そんなところにいないで、あっちでいっしょに遊びましょ?』
兄の後ろに隠れてばかりで愛想のない私は、口数も少ない内気な子どもだった。
扇堂家には男児が少ない。それはこの榊扇《里》が、扇堂家が祀りあげる貴く存在、神仏・水虎の怒りにかつての扇堂の男が触れたからだという話は、兄から教わったものだった。
扇の血をその身に少なからず流れている分家であるにも関わらず、屋敷における私たち兄妹の扱いはあまり優遇されたものではない。それは手毬一つ取っても言えた話で。扱い方を教えられたわけでもないのに屋敷に仕える下女の見様見真似と、器用に針と糸を滑らせる兄がいつも直してくれていた。
一族の血を絶やさないようにと貰いうけた婿も長く生きる事は出来ないとされてきたらしく、当時の屋敷において親族における男児は兄しかいなかった。
質素で最低限の食事だけで幼い子どもが育つ筈がない。それでもこの歳まで丈夫に生きる事が出来たのは単に、兄が大主様に気に入られていたからだろう。
与えられる食事以外に、兄がくすねてきた食糧を一緒になって頬張っていた。
分家であろうとも、親という壁を失った私たち兄妹への風当たりというものは常に厳しかったと思う。ただ当時から変だと感じていたのは、扱いは酷いのに兄は大主に可愛がられている点。それが何故だったか分かったのはまた別の話。
兄が大主の元へ顔を出している間の私といえば、兄が何度も直してくれた色褪せた手毬をころころと転がすばかり。もしくは屋敷の裏手で暮らしている、名前も知らない猫が気まぐれに顔を覗かせるのに終わりのないにらめっこを続けた。座敷の奥、入り込んできた彼を胸元で抱きしめておでこをくっつけ合う、幼稚な遊び。
屋敷の塀の高さでほとんど影が差し込むばかりの棟は日の暮れ具合もあまり分からない。大主の元から兄が帰ってくればそれがきっと日暮れとしか覚えてなかった頭の出来がよろしくない私は、ただ時間が過ぎるのを待つのみだった。
けどその日はそうじゃなかった。顔も覚えていない母が遺したとされるそれは私にとって大切なものに他ならないのに、偶に遊んでくれる彼が何を考えたのかそれを咥えて外へと出ていってしまったのだ。
当然のように私は追いかけた。外なんて滅多に出るものじゃなかったから怖かったけど、それよりも怖いものがあった。それは母の遺した手毬手放してしまう事。兄が何度も縫い直してくれたそれを失ってしまう事。それ以外を知らずに育った私にとって、それは何事よりも耐え難い事だった。
そうして、私は彼女と出会ったの。
「あざみ、さん?」
「離れに引き篭もったままでいれば良かったものを…、お転婆が過ぎましてよ雪那様?」
なんと緊張感のない姿だろうと、あざみは肩をすかした。
傾けた首に続いて長い房も揺れるのはあまり好きではない。低い位置ならいつもこうはなりはしないだろうと分かっていても、幼い頃の癖で毎朝高い位置で括ってしまう。弟《兄》が褒めてくれた髪。
自分がどんな状況に置かれているのかを全く理解していないだろう、自分にはない“色”を持つ彼女を見下ろすように、あざみはそう吐き捨てた。
目が合う。そして何かを思い出したかのように歪む眉尻に嫌悪感を抱くのは直ぐだった。子どもじみた嫌がらせをしたいわけではないのにその反応が少しばかり心地よい。先日の会合があった後、お節介で役立たずな女に叱言を受けた為に、屋敷の中ではあまりちょっかいを掛けないようと心得ていたからか、自分の言葉一つで彼女がこうも表情を歪めるのを目の当たりにするのは、どうにも愉しい。
彼女の自由を制限する、部屋の中心にどっしりと構える柱の、その間を繋ぐ縄を、何も意地悪がしたいわけではないのに見せつけるように手に取って見せる。他にやる宛のない両手が膝の上で弱々しく組み合わさるのは、それだけで荒んだ気持ちが落ち着きを見せた。
「無理に出てこられる必要はないと、私以前お伝えした筈なのですが。雪那様の為を思ってのお言葉だったのですが、聞き入れてもらえなかったのかしら。とても心苦しい限りですわ。」
言ってその白々しさに吐き気を覚える。欠片もそんな事思っていない。そんな事が言いたいわけではない。ただもし出来るならと、叶いもしない続きを求めてしまうのは、本当は。
「何か話してよ。私ばっかり、寂しいじゃない。」
それだけは、本心だ。
「いきなり引き摺り込んで、なんだよお前は…?」
「…すまない。」
苦手意識があったわけではない。いや、得意なわけでもないが。
呑気、とも違う。なんと言い表せばいいのか分からない、得体の知れない、自分の事を一方的に知ったかのような口振りのその男と長く言葉を交わすことが、弥代は得意ではなかった。
過去に面識があるというのは分かりきった事。話す気がないのはも分かりきった事。それならそれらをなかったように扱ってみても何も問題はないのだろうが、やはり妙に近い距離感は過去故、か。気にしないようにしてるつもりだがそれも中々に難しい。
未だ掴まれたままの腕を睨んでから強く払い除けて距離を取れば、行き場を失った手がそのまま宙を彷徨っている。
「大体わけわかんねぇぞ相変わらず!声の一つ掛けりゃそれで済むだろ⁉︎一々引き摺り込む必要なかっただろうが…!」
「…?」
「何も難しい事言ってないぞ俺はっ‼︎」
何がしたいのか分かったもんじゃない。
掴まれた箇所に寄った皺を伸ばすように摩っていれば、言われた言葉の意味を理解できていない顔をした上背のある男・春原千方が分かりやすく視線を泳がせた。
「似合っている。」
「誰が褒めろつった⁈」
調子が崩れる。ここ最近は味わっていなかったこの感覚は、こうして向き合うと改めてひどく疲れる。言葉が通じていないのかとそれこそ思いそうになるもそんな事はない。
やっと宙ぶらりんの手はなりを潜め、相変わらず重たい前髪に埋もれたような深い色をした瞳が弥代に向けられた。
「弥代に会いに来た。」
「そうだな!わざわざ俺の腕引っ張るんだもんなお前っ⁉︎俺に用事がなくてしたなら俺関係なくないかって殴ってたわっ‼︎」
「今日の弥代は機嫌がよくない。」
「お前の知る限りで機嫌が良いことははたしてあったかっ⁈」
埒があかない。何がしたいか分からない相手と話すというのはこうも上手くいかないものかと憤りを感じる。
次に顔を合わせる事があればもっと普通に話すつもりだったのに、ぶらぶらとほっつき歩いていただけの所を急に路地に引き摺り込まれと、これが怒らずに、怒鳴らずにいれようものか。
いつまでもこんな奴と話せたもんじゃないと路地から通りの方へと戻ろうとすれば、先ほど同様に後ろから腕を掴まれる。
「……なんだよ。」
「まだ話は終わっていない。」
「そもそも始まってすらないだろ…。」
「話を、」
「だったらとっとと話せよ!」
(いやいやいやいやこれどういう状況ですかっ⁈)
屋根の上でもぞもぞと動く影が一つ。真ん中で分けた前髪がだらんと落ちるのも気にしない。落ちたくもなるよなと自分を鼓舞する。
(…したくもなりますって話ですよ本当に。)
眼下で繰り広げられる謎の会話は進む兆しを見せたというのに一向に進まないのは何故なのか。
昨日の日暮れ、東海道沿いの通りに位置する鶴見亭から助走もつけずに、通りの向こうの屋根へと飛び移り結果的に逃亡をした討伐屋の頭・春原千方。
事の経緯を鶴見一門の長である、祖父・鶴見与六に報告したところ、お前が監視をしろと言われてしまったのだ。一人で監視などこれまでした事がなかった自分にとってこれはあまりにも荷が重いと八勝自身与六へと言ったのだが、
『見てなかったお前の不手際だろう?』
そう言われてしまっては何も言い返せない。
まさかよりによって話に集中している最中に窓から外に出て、屋根へ飛び移って逃げ出すなんてそんな、そんな…
(誰がしやがりますかってんですよ本当にそんな芸当っ‼︎)
屋敷からの遣いの者から状況を聞いた限りでは、討伐屋が此度の雪那様の行方不明に直接的に関与しているとは思えなかったが、それを手引きしたのが討伐屋に属する一人となれば話は別だ。どこまで関係があるかなんて最後にならなきゃ分かりはしないのだから。
でも、
(いや、にしても捜すのを提案するのが頭ってのは、疑うのをやめたくもなりますけどねぇ…、)
まさかまさかである。
まさか疑いを掛けられ、挙句逃亡を行った彼が、知人と思しき相手に雪那様の捜索を持ち掛けるなど。
(手出しはしませんよ。えぇ、勿論。だってそれが鶴見ですから…。)
鶴見与六に報告をしたのは先刻の事だ。そこから僅か一刻でこの広い里の中から目当ての人物を探し出すなど出来るわけがない。それが出来るという事は、つまりは彼が、春原千方には常に鶴見の監視が付けられているという事。
(水戸藩生まれ…それが何だっていうんでしょうね。)
そもそも討伐屋自体は大主がその腕前を高く買って、里に招き入れた存在の筈だ。それの頭である春原をそこまで大主が警戒する理由とは、はたして何なのか。八勝の頭では到底理解が及ばない。大主の意のまま、長年その意志を汲み取ってきた与六であれば分かるのというのだろうか。訊ねる事も恐らくはない事だろう。
「…行っちゃった。」
置いてけぼりをくらった家の中、履物を履くでもなく足を揺する。
最近は一日の大半は付かず離れずという風に過ごしていたものだから、それがないというだけで寂しいと感じてしまうのは、何かの間違いだろう。
「寂しい?まさか、そんな幼稚な事今更感じるわけないじゃないか?」
大きく腕を伸ばして後ろに垂れ込む。
低い天井は手を頑張って伸ばせば届いてしまいそうだ。
「だからボクは考えたんだって。なんども同じ過ちはしないわけだよ。ボクなりに考えた、これがボクなりに頑張った結果なんだってば。」
そう、自分に言い聞かせる。
「後ちょっと、ね?後少しで多分キミは、キミはボクなしじゃ生きれなくなるだろうから、だからね…。だからそしたら、そしたらキミの方からボクの方に来てくれる筈だから。」
交差した指はすっかり赤らんだ頬を隠すように静かに重なる。
「楽しみ、楽しみだなぁ!そしたら、そしたらボクは、ボクは…っ!」
しかしそんなもので彼女の興奮は隠せない。吐き出した熱い吐息が跳ね返り、皮膚を湿らせる。
「大好きだよ、 。」
『そんなところにいないで、あっちでいっしょに遊びましょ?』
何も遊びたいわけじゃなかった。そっちに転がっていってしまった、彼が離してしまった手毬をただ、私は返してほしかっただけなの、なのに。
『和馬くんが帰っちゃってから遊んでくれる子がいなくて、つまんなかったの。ね、遊びましょう?』
手毬の刺繍に使われるのと同じ髪色をした幼い貴女は、そう言いながら私の手を取った。私にとって初めて出来たお友達。それは同じ敷地内に暮らす親戚でもあったけど、私、私にとっては、
「お話しましょ、雪那様?じゃないとつまらないわ。」




