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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
四節・雷乃発声、散りぬる山茶花
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十一話

 雨、だ。

 どんよりとした重たい雲が幾重にも重なり、空の青さそのものを忘れてしまったかのようだ。降り注ぐ雨粒が頭に上りきった血を冷ましてくれるようで、手放しに心地よさを甘受する。

 心持ちはひどく清々(すがすが)しい筈なのに。

 本来の色を忘れてしまったかのような空を見上げて、それを寂しいと感じてしまうのが何故なのか分からない。

 今しも、長く間立ちっぱなしでいた下半身に限界が訪れたのだろう。瓦礫と化した母家の前で膝から落ちる。緊張が解れる。

 今になって震える脚は、暫く思い通りに動かすことが難しいと気付いた時には、頬を滑りおちるそれが厭に生温かいことにやっと気付く事が出来た。

 すんなりと頬を伝って滑り落ちるそれは、

『なんだ…』

 自分ではない。

 寂しいと、そう感じたのは自分ではない、その筈なのに。

『…なんで、』

 雨は、止まない。

 止み方すら忘れてしまったように。

『どう…して…』





 芳賀よしかは目を覚ました。

 嗅ぎ慣れない匂いに反射的に眉間に皺を寄せたのも束の間。慌てて目を開けば突然の薄暗い視界に嫌な予感が過ぎる。口を開いたまま過ごしていたのか、乾いて張り付いた喉奥が一つ鳴っただけで、その音がやけに身体中に響いた。

(なんだ、これ…)

 視界もそうだが、明確な違和感は後ろに回された腕だろう。思い通りに自分の四肢を動かせないというのは何とも不便だ。手首には恐らくキツく荒縄が巻かれている。捻ろうとするだけで鋭い痛みが襲ってきた。

 うつ伏せで後ろ手を縛られてしまえば上半身一つ起こすのも手間だ。膝を曲げて軽く踏む。背筋に力を込めれば微かに上体を持ち上げる事が出来る。身を縮めれて更に体を捻ればどうにか起こす事は出来てもそこで止まってしまう。何よりも体を起こせたところで薄暗い事に変わりはないのだから。

(起きたら知らない場所に縛られてって…冗談でもキツいですよこれ。)

 いつ意識を失ったのかすら記憶は曖昧だ。僅かに後頭部が痛むものだから自然と誰かに後方から襲われでもしたのかと考える。武蔵国にいた頃はやや物騒な連中にいちゃもんを付けられる事もあり、その度に相良に世話になる機会が多かったがここは前にいた場所とは違う。

 争いごとなんて無縁な、水神の加護により外敵から護られる貴族によってその生活を保障されたといっても過言ではない土地だ。

 そんな土地で後ろから襲われ、挙句知らぬ場所に連れ込まれ縛り上げられるなど、どう考えても想像がつかない。否、想像がつかなくとも現状がそうであると、そういった事が起こりえたのだと芳賀は分からざるをえない。

 何かこの場から出る手掛かりはないものかと、意識を失う直前を思い出せないものかと記憶を遡ろうとすればある女性の存在を思い出した。

(俺、の他にも誰か、あれ……何で?)

 直後、前方から慌ただしい音が飛び込んでくる。まとまりかけた意識が一気に散乱する。上半身を前に傾けたままの中途半端な姿勢のまま、直ぐに動けず音のした方を見遣れば、徐々に薄暗さに目が慣れてきたのか、扉のような輪郭が浮かんで見えてきた。凝らすまでもなかった。






 焦るな、と自分に強く言い聞かせる。

 その足取りがいつもからすれば早い点を除けば、きっと普段通りを装えているはずだと、それもまた言い聞かせる。

 逸る気持ちを精一杯抑えて平常を必死に取り繕う。

(駄目だ、落ち着け和馬。今ここで取り乱して何になる。何もなりはしないぞ。落ち着け、落ち着くんだ。)

 変わらず心の内の自分は昔のままだ。表に出てくる言葉は今も自分の意志を関係なく訛ったように紡いでしまうが、最近は少しずつ抑えられているような気がする。気がするだけで気の所為かもしれないが。

 一つ、深く息を吸う。

 先の秋以降、長らく味わっていなかった嫌な予感が、和馬の悪い勘が警報を鳴らしてくる。何事もない事を願うぐらいは許してほしいものだ。

 徐々に近付いてくる目的地に、地面を掴む足裏にも少しずつ力が篭る。

 すれ違う里に暮らす者達が、どこか怯えたような表情を浮かべ、視線を、距離を取ることにすらもう和馬自身は気付ける程の余裕はないのか。気に留めるだけの余裕がないのか。そんなものあるわけがなかった。

 戸の前に立つ。いきなり開けるような事はしないものの、ぐっと握りしめた拳を叩きつける。

「ごめん、ください。」

 そうして目の当たりにした姿に、思わず手が伸びたのは実に衝動的なものだった。



 急激に襲ってきた衝撃に体が傾く。しかしそれは倒れるまで至る前に揺さぶられるように引き留められる。まだ硬い布地に深い皺が食い込んでいる。突然の暴力に驚きを隠せるわけもなく。到底人に害を与えそうのない、根の優しいだろう彼がこのような事をしたのが信じられないと言いたげに、しかし弥代は言葉の呑んですぐさま相手を鋭く睨みつけた。

「朝っぱらから随分じゃねぇか。」

 差し出した覚えがない頬が熱を持つ。戸を開けて目が合うなりそんな殴られようとは思ってもみなかった。手を挙げられるような事をした覚えもない。予期せぬ殴打に口内に僅かに鉄の味が広がる。あまりにも不快だ。

 人なんて殴り慣れていないだろうに。胸倉を掴むその手が小さく震えているのに気付いたからこそ、こちらがやり返すような事はしないが、それでもガンを飛ばす事ぐらいは許されるだろう。

「タダで殴られてやる程、優しくはないぜ。納得のいく訳ぐらい話してくれんだろうな和馬。」

 弥代は部屋に彼を招き入れる事にした。



「大丈夫、弥代?」

「いい、気にすんな。それよりお前また前みたいにアイツに突っかかるの止めろよ。」

「いつの話かな?」

「…秋以外にあんのか?」

「まっさかぁ………ないよ?」

 白々しい事この上ない。

 狭い家の中では声を抑えたって筒抜けになる。上がらせた畳の上で若干の警戒を纏ったように、彼女を見遣る和馬。釘は刺したが口煩い点においては恐らく彼の幼馴染以上だ。先日の古峯の二人が立ち寄った際の話の様子から、相手によるだろうが彼女の、詩良が優しく接する相手は限られていると考えた方がいいだろう。家から一旦追い出して席を外してもらった方がいいのかもしれないが、まだ肌寒い春の早朝に外に出すのは些か憚れる。背中を押せば大人しく言うことをきくように何もありはしない壁に向き合ってくれた。

「悪いな、待たせた。」

 腰を下ろす。寝起きから着替える余裕もなかった為、長ったらしい夜着は胡座を掻くのには向いていないとは知らなかった。一々恥じらうような間柄ではないし、対する相手もそれを気にする様子は見られない事から直す事もなく、弥代は口を開いた。

「で、何だ。どういう了見だってんだ。朝っぱらから訪ねてきた挙句、顔見るなり殴るなんてよ。」

 熱のすっかり引いた頬を一撫で。硝子板越しに震えて見える梔子と交じ合わせた。

「…ごめん。てっきり知ってるもんや思って…。」

「何をどう思って知ってるって思ったのか知らねぇし、話が見えて来ねぇから話せってんだよ。謝ってくれなんて一言も言ってないだろ俺は。」

「……ごめん。」

 根が優しいのは知っている。

 先の秋口、積年押し留め続けてきた想いを吐露する彼の姿を、弥代は遠目で目にしていたから。逃げずに正面から向き合える強さがある。あれ以降は長年一緒に過ごせなかった時間を埋めるかのように、屋敷の扇堂美琴の計らいによって雪那の付人として傍にいるようになったと嬉しそうに話すのを聞かされたのは先日屋敷に赴く際の道での事。

 自分が里から何も言わずに離れていた、半年に及ぶ間も彼女の傍には心を許せるだろう誰かがいたのだと知れた事は、ほんの少しだけ安心できたから。だから、

「雪那ちゃんがいなくなったんや。」

「………は、」

 恐らくは、彼が感情のままに殴ってくるような事だ。彼女が、扇堂雪那が関与しているという考えがなかったわけではない。何かしら関わっているのだろうと思ってはいたのだが、それは想像の斜め上を行き過ぎた。

「何だそれ、冗談にしては笑えねぇぞ…、」

「冗談でも言わんよこないな話。言っていい訳ないわ。」

 膝の上、自分を殴った拳が一際不快皺を刻んだのを見る。

「いなくなったって、なんだよ。訳分かんねぇよ、」

「訳分からんのはこっちの言葉や…!今朝起きたら離れのどこにもおらんで…戸鞠ちゃんが顔真っ青にしてワイの所まで駆け寄ってきて、氷室さんもここ最近留守にされる事多くて…てっきり、てっきり弥代ちゃんの所に来とんのかと、思って…っ!」

 話しながら、彼の頭が少しずつ前のめりに沈んでいく。嘘を言っている人間の態度ではない事だけは明白で、だから弥代はその言葉を受けて、一瞬だけ気が遠のくような気がした。

『ねぇ、弥代。お願いがあるの…』

 脈が早くなる。早くなった、気がする。目の前にいる筈の、彼との距離が遠のくような。一歩も動いていない筈なのに、背後から誰かに語り掛けられるような、そんな、そんな気が。

「大丈夫?」

 肩に、手を置かれる。

 肩口から覗き込むようなその仕草には慣れたものだ。頬を掠める柔らかい髪の毛は擽ったくて仕方がない。何もしていないのに少しだけ乱れた、早い呼吸をその目を見て整える。気の、所為だ。

「…弥代ちゃん?」

 彼は彼女の、雪那と同じように自分を呼ぶ。

 視線を戻せば、こちらの身を按じるように伸ばしかけた手が宙を彷徨っていた。伸ばしきる前に詩良が近付いてきたのだろう。先ほどよりも緊張が色濃く出ている。

「…悪い。何でもない。」

「……。」

「ちょっと気分が優れなかっただけだっ!」

 荒げるつもりなどないのに、語意が強くなってしまう。

 夢見が悪かったのを思い出しただけだと、適当な言い訳を並べて口許を抑える。一人なら間違いなく吐いていた。

「話の腰折った。すまねぇ。」

「いや、こっちの都合で押し掛けたんや。ごめんな。」

「お前に謝られたいわけじゃねぇって。」

 尻切れが途端に悪くなる。

「それで、それだけじゃねぇだろ。詳しく話せよ。」

 弥代は和馬に話の続きを促した。






 いつも通り朝目を覚ました和馬は、日課である美琴に今日こんにちの予定を口頭で伝えに足を運んだ。屋敷の隅の方で飼育される鶏が日の出と共に鳴くのに合わせて、美琴の部屋の襖を開ければ、普段通り調子の優れない彼女が寝起きの体を下女・巴月に支えられている姿があった。

 体が弱い美琴は日に三包、調合の異なる薬を呑み下さねばならなかった。

 屋敷に仕える医師、佐脇が以前まではこれを全て用意していたのだが、年明けに起きた一件から自らの手で作るのが難しい日々が続いている。今では里で暮らすという薬師がわざわざ足を運び用意してくれているというが、佐脇が用意していたものよりも薬師の腕が良いのか、美琴の調子は以前よりも良さそうに映った。

 昨日の雪那の様子を踏まえ話のに、耳を傾けるだけで彼女の頬は綻ぶのだ。雪那自身は美琴に、分家の者にあまり良い目で見られていないと気にしていたがそんな事はない。もう一方の分家の女性に関しては会ったことも無いため分からないが、少なくとも美琴は雪那の事を常に気にかけている事を和馬は知っていた。

 暫くすれば東の離れへ向けて移動を始めた。

 横が長い屋敷は普通に歩いていても四半刻程、端から端まで移動をしようと思えば時間を有してしまう。既に日が昇ってから半刻程は経つが、冬のまだ寒さが残る春先の朝は特に目覚めがゆっくりなのだという幼馴染は、きっとまだ起きていない事だろう。昨日あんな事を話したのだから今日はすんなりと布団から出てきてくれないだろうかと。そんな事を考えながら、本堂と離れへと繋がる渡り廊下に差し掛かった時だった。

 血の気がすっかり失せてしまったような下女が胸の中に飛び込むように駆け寄ってきたのは。

「戸鞠ちゃんが言うには、離れのどこにもおらんかったて。昔は書物庫に篭ってしまう事もあった氷室さんが話てたの覚えておったから、そっちも見たらしいけどおらんくて。一緒になって捜したんや。でもおらんくて。」

「誰かに話したのかよ?」

「美琴様には、話した。戸鞠ちゃん一人にさせられんくて、巴月ちゃんと仲ええの知っとったから任せてくる時に…。」

「なら…、」




「…それなら、大丈夫だろう。」

「……………は?」

 和馬は、耳を疑った。

 握りしめた拳から目を逸らし、向き合うのは弥代だ。

「何、言うとんねん…」

「美琴さんには話したんだろ。じゃぁなんとかしてくれんだろ。」

「何とかって、なんや…」

「婆さんの耳にだって入るだろうよ。」

「杷勿様は…」

 伏せる。壁の薄い長屋だ。聞く気がなくとももしかしたら今の自分では声一つ抑える事が出来なくなって、誰か他の人の耳に入ってしまうかもしれない。

「つーか、それぐらいで来たのかよお前。」

「それぐらいって、」

「雪那の迷惑は考えるのに、俺の迷惑とかは考えないわけかよ。」

「そんな事誰も言うとらんや…」

「そうだよな、お前にとっちゃ雪那の方が大事だもんな。」

 考えてなかった。大主の存在に触れて漸く周りに聞かれかねない可能性を和馬は考えた。既に雪那の姿が見当たらない事を口にしてしまった。長屋の誰かの耳に聞こえたのではないかと、筒抜けではなかったかと不安が過ってしまえば、言葉が詰まる。上手く舌が回らない。縺れてしょうがない。それだけじゃない。和馬には分からない。どうして弥代がそんな態度を示すのか。

「雪那ちゃんが…大変かもしれへんのに」

「知らねぇよあんなヘソ曲げっぱなしの女。一々俺が首を突っ込む義理がどこにあるってんだよ。」

「そんな、そんな言い方」

「他人だよ。」

 殴られたような衝撃に襲われた。




「なんだよ。」

 予感はこれだったのかと、理解した。

 あの日、討伐屋から一緒に出て屋敷へ向かった日から十日ほど経っているというのに、弥代は以降一度も雪那の前に姿を見せなかった。

 何か思うところがあるのだろうかぐらいにしか考えていなかったのだが、納得してしまった、今この瞬間。

「離せよ。」

 その顔を見てすぐに手を挙げてしまったのもどうしてか分からなかったが、今ならなんとなく分かる。

「雪那ちゃんは、」

 雪那は、気にしていた。

 弥代が何も言わずに里から姿を消してしまっていた間も、ずっと弥代の事を気にかけていた。自分は本当に友達などと呼べる立場なのかと、気に掛けていた。

 一方的に心配をされてばかりで、世話になるばかりだと。自分にできる事など限られているけど、それでも弥代が里に戻ってきた時、これまで通りに過ごせるようにと頭を悩ましていた。

 年が明けた頃、大主である扇堂杷勿が倒れられた事で本家の血筋、次期当主候補である彼女に刺さる重圧の中、心ない言葉を耳に入れながらも、どうにか耐えてきたのだ。精神的に未熟である事を必要以上に擁護するつもりはないが、それでも長年堪え続けてきたであろう彼女を思えば、深く追求はせずとも隣で見守る事はしてきた。それも先日の氷室の話を受けて、見守るだけでは駄目だと思ったのだ。だからその背中を少しでも押せるならと、嘘でも支えようとしたというのに。

「雪那ちゃんは…!」

 どれだけ辛くても、日に一度、会えない日もあったが互いに知った顔であるからこそか。雪那は和馬を前にしては、弥代ちゃんは大丈夫でしょうか?と訊ねてきた。大丈夫なんて、気安く答える事は出来なかったが、だからこそ、だからこそどれだけ雪那が弥代の事を気にかけていたかが分かるからこそ、和馬は

「知らねぇってんだろ。離せよ。」

 傍らに控えていた彼女が少しだけ腰を浮かせている。。

 こちらの出方を窺うような鋭い目線が突き刺さる。

「二度目は駄目だよ。」

「手出すな詩良。」

「口を挟むのぐらいはボクの自由だと思うけど、」

「ややこしくなるから挟むのも止めろ、黙っとけ。」

 弥代の言葉で再び正座をした彼女は、見てみないフリをするように目を閉じて息を漏らした。まるで不貞腐れた子供のようだ。

「いつまで掴んでるんだよ。」

「訂正せぇや。」

「何も間違った事言ってねぇだろ。」

「他人なわけあるかっ!」

「向こうがあんな態度取ってんだ。そう感じるって事だよ!」

「目、合わせて物言えや…っ‼︎」

 揺らぐ。長い前髪が、どこか“色”を誤魔化すために幼い頃から長ったらしかった彼を思わせる。便利な隠れ蓑から引き摺り出すように、和馬は弥代と距離を詰める。

 この数日の間に何があったというのだろう。何かがあった事は間違いない。じゃないとこの友人がこんな態度を示すわけが分からない。先日の事だけが原因とは思えない。思いたく、ない。

「面倒事はごめんだ。」




『友達言うたのはお前やろっ‼︎』

 去り際、捨て台詞のようにそう吐き捨てて、和馬は家から出て行った。

 くしゃくしゃになった合わせ目を直す気にもなれず、弥代は力なく放り出したつま先を見つめる。

(もう、ごめんだ。)

 膝を抱える。臆病になっている。情を寄せたくない。寄せて、守れなくていなくなった時が怖い。自分が守れる確証などどこにもない。怖いのだ、何もかも。

 自分が腑抜けてしまった事など、一番分かっている。

 分かっているのだ。

「大丈夫?」

 腕に掛かった前髪を軽く払われ、眉間を覗かれる。

 寄った皺を解すように撫でられれば、いつぞやみたいに頭ごとその腕に優しく囲われる。

「そればっかりじゃないか。」

「器用じゃないからね。それ以外なんて言葉を掛けてあげたらいいか思いつかないんだよね。」

「俺よりは十分に器用だろうよ。」

 弱くてもいいと言ってくれた言葉が今も残る。今は、必死にそれに縋る。

 いつからだろう、こんなにも弱くなってしまったのは、

『東の、』

(霜羽…)

 冬はまだ、明けていない。





 伽々里の耳にその話が入り込んできたのはその日の暮れの事であった。

 昨晩同様に相良の準備を終え、これから嫌がる彼をまた例の揚げ屋へ送り出そうとした際、丁度階段を下るのに部屋を出たところ鶴見八勝がそこにいた。

 急を有する話があると告げられ再び部屋に戻され、そうして討伐屋の面々はそれを知る事となった。

「黒介が、ですけ?」

「屋敷の遣いの方からお聞きした限りでは、雪那様とその討伐屋の方が一緒に夜半に屋敷を出るのを門番の方が遠目に見たそうなのです。」

「門番はよく夜だってのに芳賀さんだと気づけたのでしょうか。」

「えっと…丁度吉田の長男さんが面識があったみたいで。あの寝癖頭には見覚えがあったと…」

 吉田といえば、あの落雷の晩に春原が夜半屋敷へ押し込む際対峙した門番の名前だ。間もなく還暦を迎えるというのに若い連中が育たないからと長年、屋敷の門番として支えていた旦那に変わり、年末からはそこの長男坊が代わりを務めるようになった。

「春原さんがやってしまった、あの吉田さんの坊ちゃんですか…。」

「あの吉田様のご子息様でしょうね。」

 長男坊が家業を継いだ主な原因が、あの晩の出来事によって春原が相手を骨折させてしまったというのは伏せられた話だ。一瞬嫌な空気が流れた事を機敏に察したのか、何か自分に失言があったかとお門違いにも慌てふためく八勝だったが、それも直ぐに伽々里によって制される。

「お話いただきありがとうございます。して、私たちはどういたしましょうか。屋敷より指示も出ていることでしょう。」

「えっ、あっ…はい。店へは昨晩同様に向かうようにと。それから申し訳ございませんが、それ以外の方は鶴見亭うちから出さないようにと、言われています。捜索は屋敷の者があたる、と。」

「懸命な判断でしょう。」

 屋敷から次期当主候補である、本家の血筋の扇堂雪那の姿が見えなくなった。いくら大主から直接声を掛けられこの里に招かれ、討伐屋の看板を掲げるようになったとはいえ、一年近く経つが何の功績もありはしないのだ。厚意に甘え、巡回という仕事を与えられ、それで飯を食わしてもらっているだけの立場の自分たちに信頼が薄い事など分かりきった事。

 場合によって人手が不足した時の為に、数日近所には討伐屋を留守にしかねないという事は伝えてある為、芳賀が直ぐに討伐屋に戻っていなくても、それを深く周囲の者に詮索される必要はきっとない事だろう。自分たちだけが討伐屋に戻り、状況を確認するのはおかしい。

 屋敷側から捜索に動いてくれるというのならそれを甘んじて受け入れるべきだ。こちらが余計な事をしていい筈がない。

 顔馴染みも少ないこの東海道周辺であれば、自分たちが動いたとしてもそこまで影響は与えないかもしれないが、雇い主である屋敷側が鶴見亭ここから出るなと言うのではあればそれに従うほかない。何よりも、

(下手に動こうものなら疑われかねないでしょうしね。)

 屋敷と長年面識があるのは伽々里に至った話だ。たとえ伽々里が信頼を寄せようとも、扇堂家は彼等を信じているわけではない。そしてその筆頭として挙げられるのは勿論。

「春原さん、聞いていましたよね。暫くの間ここから離れないように」

「伽々里…春原さんがいません…」

「え?」

 おかしな事もあるもので。八勝が部屋に入って来た時には昨日から変わらず、柱の前で刀を抱えたままジッとしていた筈なのに、言われて振り向けばいるはずの春原の姿がそこになかった。

「館林さん?」

「へぇ…坊でしたらさっきそこの窓を開けて…」

「窓?」

「外へ、」

「外へ?」

 頭を抱えたい気持ちにもなるだろう。よりによって一番信用されていないだろう春原自身が屋敷の指示に従わずに勝手に動いてしまったのだから。

「いえ、窓?二階ですが何を考えているんですかあの人は?」

 窓枠に手を掛ける。あまり大きな声は出せないが、窓枠の先に続く屋根の上に立つのっそりとした影を見た。

 日も暮れている。地上から二階は暗くて見辛く、宿屋を決める商人らが行き交うぐらいで上の異変に気付く者が少ないのは幸か不幸か。厄介極まりない事に他ならないが、ここで彼を止めなくてはもっと厄介な事になりかねない。

 春原に対して甘すぎる二人は使いものにならないと、裾を持ち上げて枠を越えようとした伽々里だったが、越えるよりも早く、どういう脚力をしているのか春原は通りの向こう側の屋根へと飛び移ってしまった。

「なっ!」

「坊、そんな芸当いつ覚えたんでしょうね?」

「瓦の弁償っ‼︎」

「……えっと、」

「春原さんっ‼︎」

 とんだ悪童に育ってしまったものだ。




「弥代、」

 春原は一人、屋根伝いに小道に移動すると周囲に誰もいないのを確認してから地面へと静かに降り立った。

 主に下半身に鈍い痛みが走ったが、動く分には問題はないのか。物ともせず、起き上がる。

「おや、行くのかい?」

 それがいつからだったかを、春原は覚えていない。気付いた時にはそれはそこにいた。声だけで姿は見えない、奇妙な存在。

「弥代に、会いに行く。」

「相変わらず御執心のようで安心したよ。ここ数日はあまりにも動かなかったものだから、てっきりまた忘れでもしたのかと気に掛けていたんだけどね。」

 話しかけた覚えなどないのに、どういうわけか話をするようにそれは語り掛けてくる。それが幾ら何を自分に話しかけようとも、周囲の人間には聞こえていない様子から、これは自分にだけしか聞こえていないのだろうという事を春原は薄々気付いていはしたが、煩わしいだけだ。時に訊ねれば答えを教えてくれる事もあるがそれだけだ。それ以外はただただ煩いだけの存在。

「そういえば彼女、彼に殴られたんだよ。でも彼を斬ってはいけないよ。これは助言だ。僕は優しいからね。見誤るなよ春原千方。」

「煩い。」

 首を絞めろと、そう嘯いたのも同じだ。

 あの秋雨の晩対峙した風変わりな鬼に対し、不意を突いて傷を負わせる事が出来たのも声のおかげ。幻聴か、妖の類か。時にそれを利用する事もあったが、四六時中その声に耳を傾けているのは不快でしかない。もし聞こえない時があるのだとしたら、それは

「弥代…」

 彼女の、傍にいれる時だ。






『ねぇ、母さん。』

 花を、愛でるのがとても好きな子でした。

『私は、いつになったら外に出れるのかしら。』

 外への憧れは、人の何倍も強く。外から運ばれてきた花々を掌に乗せては、思い馳せるようにそう囁く子でした。

『私じゃ、どうせ母さんの跡は継げないのでしょう。下女が話していたの。日和、あの子がきっと次だって。』

 目が見えないため、ひどく臆病で。

 耳にした言葉を何でも鵜呑みにしてしまう、言葉に込められた意味を汲み取るのがあまり得意ではない。

 私にとっては、かけがえのない大切な、大切な娘でした。

『何のために私はここにいるのかしらね。分からない。せめて、せめて何か出来たらいいのね。ねぇ、母さん。私、私に何か出来る事があるかしら?』

 だからあれは、やはり私の罪なのでしょう。

『ねぇ、母さん。私、私ね?』

 業火に包まれた屋敷を背に、

『母さんの事、』

 あの子が零した本音を私は、

『大嫌いよ。』

 片時も忘れる事は許されないのです。



 ピクリ、と。

 微かに動いた指先に、佐脇も反応を示した。

 今や片時と離れぬよう、自室から大主の看護の為寝食さえも最低限に、その間を惜しむようにみまもり続けていた。皺まみれの骨ばった指先に手を這わす。今の動きが嘘でなかった事を確かめるように、次の動きを見逃さぬように微かな振動すら確かめんと言わんばかりに。

「杷勿、様…」

 眉間に、皺が寄る。

 乾ききった唇からそれまでとは異なる、薄い吐息以外が漏れ出てくる。

「…は、るな…」

 一人、佐脇はその手を取った。

 そして、

   

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