九話
南蛮貿易というものがあった。
今や外界と隔絶されてしまった鎖国の日本であるが、江戸後期まではそれでも外とのつながりというものは存在していたのだ。
それも今は遠い昔のこと。
「ど豪いいじゃないですけぇ…」
「ど豪いなんてもんじゃないですよ…、えっ敷居高っ…!」
まるで夜逃げでもするのかと訊かれても、その通りですなんて冗談で答えてしまいそうな程には大きな荷を台車に乗せた二人がおのぼりさん同然の声を上げるもので、伽々里は額を抑えながら知らぬ場所で此度も迷子になりかねない(以前迷子になった事例がある)、春原の裾を掴んでいた。
討伐屋において最年少である芳賀は今回はお留守番だ。他に気掛かりな事があるとかで最近は朝餉を終えた後早々に討伐屋を後にして、帰ってくるのは夕刻と大変遅く目を瞑るのも大変である。大方何をしているかは相良の発言から予測が出来ているが、彼だってもう成人を迎えている立派な大人なのだと思えば余計な口出しは要らないだろう。
ここは榊扇の里の南区画。商売人が西へ東へと犇めき歩く、五街道の中でもその知名度は高い東海道を挟む。里の中でも交易がどこよりも盛んな地である。そのためそれだけ人の行き来が非常に多い。屋敷のある大山の麓より広がる里の中でも、迫害を逃れこの地を訪れた“色持ち”を目にする事がこれまで多かったものだが、その頻度も異様に多い。
右を向いても左を振り向いても、視界のどこかしらに“色”を持つ者が目についた。“色持ち”自体生まれ事が希少とはいうが、こうも人が多い中で多くそういった“色”を目にすると物珍しさは少々下がってしまう。
という話は置いておいて、伽々里はため息混じりに未だこれから自分たちが世話になる宿屋兼料亭に興奮を隠せないでいる図体のいい男二人を見遣った。
「お辞めなさいな。何も初めて目にする子供ではないでしょう。」
掴む左手の彼の体が小さく揺れた。日も登らぬ夜明け前という事もあるのだろうが、くしゅんと、くしゃみを一つ。普段通りの装いで来たが、東海道を挟んだその先には海がある。潮風は中々読むものが難しい。海沿いの生活になれているわけではない彼が予期せず体を揺すってしまうのも仕方のない事だろう。
小脇に抱えていた自分の肩掛けを、あまり足しにはならないだろうが上背のある春原に掛けてやれば、今も興奮冷めきらずといった様子の二人の名前を呼んだ。
「相良さん、館林さん。いいかげんに中へ?お店の方がお困りですよ。」
目を合わせる。立派な黒紋付を羽織った人柄の良さそうな男が、眠そうな顔一つせず小さく会釈をした後迎入れてくれた。荷はその後中へと丁寧に運び入れられる事となった。
鶴見屋といえば榊扇の各門周辺に複数存在する料亭だ。東海道沿いでは料亭の他に宿を貸している名の知れた看板である。何より里を治める扇堂家が贔屓にしているそうだ。
商談に里に訪れた外の者の多くは、扇堂家の息が掛かったこの鶴見屋を利用する事が多く。各門周辺に限らず宿屋としてのみであれば屋敷に近い位置にも店を構えているそれはそれは立派な店だ。
宿場町の旅籠屋なんて当然目じゃない。較べる事すら馬鹿馬鹿しい、そんな場所だ。
「へぇ、大主様よりお話は伺っております。私共でお役に立てる事がございましたら何でも申しつけてください。申し遅れました私こちらの店を任されています鶴見繁邦と申します。春原様御一行のお世話には別の……、」
中へと案内される。わざわざ三部屋要望通りに用意をされたが、壁ではなく障子で仕切られているのか今は明け開き、ざっと見ても二十畳程はある広間だ。
夜中の入りだったというのに関わらず部屋には既に布団が敷かれ、春の夜半はとても冷えるからと火鉢まで炊かれた状態だった。至れり尽くせり。鐘が鳴る朝まで一刻にも満たないが仮眠を挟んだ後、朝餉を用意されると、店に迎え入れてくれた店主の名乗る男が頃を見計らって挨拶に部屋に訪れた。
厄介ごとに他ならない。妖怪討伐屋である事を最早忘れられ、萬屋か便利屋の類として捉えられているのかと思わずにはいられないだろう。宿自体部屋事にかなり距離が設けられており、他所の客が聞き耳を立てる恐れはないと説明を受けるが、糸目の彼の額に次第に薄ら血管が浮き出す。目につく程ではないが徐々にその膝頭に乗せた指が微かに戦慄くのに気付いたのは春原を除いた三人だ。どうしたものかと店の主人の変容を指摘する事はなくとも見守っていると、暫くして遂に堪忍袋の緒が切れたかのように勢いよく立ち上がり、廊下に顔を出すと大声を張り上げた。
「八勝っ‼︎八勝坊はまだ来んのかいっ⁉︎お客人待たせるだぁほは何処居はるっ⁈はよ来いやっ‼︎」
唖然とせざるをえない。
それまで温厚そうに店の説明をしていた相手と同一人物には到底思えないその変貌っぷりに言葉を失う。失ったところでどうにもなりはしないのだが。
「あ、はい…えっと、はい。鶴見八勝です。そのっ、遅れ、遅くなってしまいすみません。えっと………はい。ごめんなさい。」
ミシミシと骨が軋む音が聞こえそうな程頭を店主・繁邦に掴まれた八勝と名乗る青年が頭を深く差し出して謝罪を述べるが、誰も彼もこの場に居合わせている一人たりとも青年の肩を持とうという気はない。
関心がそこまでない相手に必要以上に拘ろうとしない伽々里に、春原関連でない限り口を挟もうとしない相良・館林。そしてそもそもにあまり口を開く事のない春原という面子なのだから仕方ない。
この場にたとえば芳賀でもいればかわいそうですなんて止めに入ったのだろうが、居もしない彼を思い浮かべた所で意味などない。
普段あまり目にしない大きめの急須は客人用か。高さのあるそれを順に、空っぽのままの湯呑みに伽々里が注いでいくと丁度最期、相良の分に小さな茶柱が立った。幸先がいいなんて思われる方が多いだろうが伽々里は違う。角が立たぬようにと、願うばかりだ。
「そんじゃツケも払った事だし、そろそろお暇すんわ俺。」
ここ連日の弥代といえば、半年以上払えずにいた飯屋のツケ払いにあちこちの店に顔を出してを繰り返していた。
店ごとに額もちまちまだが、多かれ少なかれ長い間払えていなかったのはどんな理由があれ事実で。長い間顔を見せた食堂には足腰がもう弱いのに隠居せずに働く夫婦が今日も忙しなく働いていた。これまで忘れていたわけではないが古峯の地で鶫に対し話してからというもの、何かと頻繁に脳裏はあの老夫婦が過るようになってしまった弥代。
贅沢な生活を送るわけではない。もう店を畳んでしまってもいいのだが贔屓にしてくれる若い連中が元気な内は閉めたくはないのだと眉間に皺を寄せぶっきらぼうに言ったのは強面の旦那だ。夫が厨房に立つ姿が昔から好きなのだという奥さんは腰を曲げながらも今日も今日とて器いっぱいに盛り付けられた食事を席に運ぶ。
この里で年配の者らが自分の事をあまり良いように見ていないと思っていたのだが全員が全員そうでない事を今になって弥代は理解した。少し考えれば当然分かりきった事であるはずなのに、これまでの弥代にはそう考える余裕すらなかったのだ。
久しぶりに見た顔に安心したからとわけもわからない理由で茶を出され、ゆっくりしていくようにと言われてしまえば断る理由もなかった。
そしてそんな事をされて何の礼もせずに立ち去れる程、そこまで弥代は白状ではない。見様見真似。距離のある席へは奥さんの代わりに盆を運び配膳や台拭きを率先して手伝ったりと手を貸した。
当人は茶代と、長い間払えずにいた迷惑料のつもりだったというのに、その後は賄いを出してもらった。出された直後は本末転倒じゃないかと反発したが、結局与えられた厚意を無碍にできず頂戴する形となった。厨房を囲うような形をした脚の長い椅子が並ぶ客席の隅っこでいただく賄い飯はそこそこに量があり、そういえばここの店は何かとおまけと称して盛り付けが多い事で知られていた事を思い出した。昼時を終え、夕暮れの仕込みに一度店を閉めるのに、それでも店内にはまだ食べ終えていない客が複数人。元は一人であの長屋の部屋で食事をするのが嫌で外に出て、賑わいの中で一人を紛らわすよう過ごしてきたのだ。そう考えればこうして飯をいただけるのは寧ろ都合がいいのかもしれない。何も違わない。違わないはずだ。
「違いますよ弥代さんっ‼︎」
「声がデケェよ黒。真横で喚くな。」
これが喚かずにいられますか!と玉のなくなった串を強く握りしめて彼は吠えてみせた。
「何が違うってんだよ。」
「うってつけの場所があるじゃないですか⁉︎討伐屋に来ればいいんですよ!そんなわざわざ知らない人ばっかりの飯屋に行かなくても済みますよ!」
「始終知った面拝んで飯食うのって面倒…、あっでも家族だと始終どころか年がら年中か。分かり辛ぇなおい。」
「どこに分かり辛い要素があるっていうんですか⁉︎家族同然ですよそりゃあ!もう!」
どういうわけか。ここ数日、ツケの清算を始めたその日から弥代は道端で芳賀とよく出くわしていた。本人が弥代に話たい事があって探しているというのだから偶然ではないのそうなのだろうが。どちらかといえば最早付き纏われるような勢いだ。今日は朝一で顔を覗かせた飯屋でそのまま手伝いをし、賄いをいただいた上にまさかの少ない駄賃を握らされ店を後にする事となったが、店を出た矢先やはりそこに芳賀はいた。店の脇、軒下で袴が汚れるのも気にせず膝を抱えて。(伽々里にバレようものなら叱られる事は間違いない事だろう。)
「よくないですか討伐屋?この前泊まって分かったと思いますけど部屋結構余ってますし広いんですよ?長屋生活は肩身が狭いって聞きますし、どうですかいっその事住んでみちゃったりとか?多分皆さん歓迎してくれますよ?」
「歓迎?馬鹿言え。伽々里さんに毎日ドヤされて、相良さんのデケェ声に口数の少ねぇ不器用な男二人。どんな歓迎を受けるってんだよ。…お前は普通にしてくれそうだけどな。」
「ですよね‼︎」
「いやそこで笑顔になるのはおかしいだろ。なんで笑えるんだよ怖いわお前。」
挨拶も疎かに、芳賀は弥代の半歩後ろをウロウロと付き纏った。以前にも津軽を目指す道中春原と館林に付き纏われるような目にあったが、あの二人よりは断然に芳賀の方がマシだった。何故なら芳賀はあの二人よりも口煩いからだ。思った事は口にするし、何より素直だ。話していて、相手をしていてそこまで苦ではないからというのも大きいが、無言で付き纏われるよりは幾分かマシだ。
芳賀が師として一応は敬う相良も何かと騒がしい。そこで弟子は師によく似るものだという言葉があったなと考えるが、そこどまり。
(館林さんに春原よりはマシだな。それだけは間違いねぇ。)
立ち寄った茶屋の路面の席でそんな会話を繰り広げる。
一回きりならまだしも、二日三日と立て続けに同様の話題を前向きに話してくる相手に気付くなという方が無理な話で。勧誘という言葉が弥代の頭に容易に浮かぶ。
確かに自分は討伐屋に以前から何度も顔を出していた。春原の事を雇い主として見ていたし、報酬に見合った(見あっていない事の方が多かったが)賃金を貰い受けと、生活を送っていた。貯蓄に回す事はなく、日銭を稼ぐ程度。仕事の内容も平和なこの里では本当に必要であるかを疑いたくなるような巡回がほとんどで、楽なものだった。
討伐屋の敷地が広く、部屋数にも余裕がある事は知っているし、なんなら去年大工が仕事に入った事で補強もしっかり行われた頑丈に仕上がっている事も分かっている。
自分の暮らす長屋横丁は家賃が安いのは当然で、それに見合った広さというか狭いの一言に尽きる。暮らせなくはない過ごせなくはないが窮屈さは正直未だ慣れていない。更には最近になってそんな狭い家に二人暮らしときた。二人暮らしが本格的に始まってしまえば寝返りを打てばすぐ目の前に相手の顔があるなんていうのは日常茶飯事で。
広く快適な部屋で過ごせるという利点がある討伐屋はとても魅力的ではあるが、もしそこで暮らすようになれば四六時中今もまだ何を考えているのかも分からない春原と向き合う機会が増え、伽々里から受ける小言がなくならない日はきっと訪れない事だろう。問題があるとすればその二点。快適さを優先してその勧誘行為にころっと転がってしまうのはあまり良いとは言えない。
(それに…、)
芳賀の口振りからして誘われているのは自分だけだ。多少無理をいえば彼女も一緒というのも出来るかもしれないが難しいだろう事を弥代は察している。古峯の二人が彼女と会話をした後、他に場所がないからと前の晩同様に討伐屋に世話になったのを、芳賀自身が言っていた。芳賀の様子からして彼は話を聞かされていないのだろうが、本来妖怪討伐を生業としている討伐屋。大人の立場にある相良や人ではない伽々里辺りは経緯を鶫から聞かされているかもしれないと考えられた。
人の生活に害を成さないのであれば退ける必要がないとかなんとか。意気揚々と相良が以前酒を片手に口走っていた。古峯の兄に至っては既に一度この里に害を齎しているが、あれは妹を探す為の手段に過ぎず。温厚で自分らを祀る土地の者を守ろうとする姿勢を見せる兄妹が警戒をする相手ともなれば、それは討伐屋が退けるに値する相手になってしまうかもしれない。受け入れられることは、難しい事だろう。
『一緒にいれなかった分、これからは色々な事を話そう。ボクはそんな簡単にキミの事を独りにさせないから。大丈夫。ね、キミは何を見てきたのかな?どんな事がこれまであったのかな?些細な事で良いんだよ。ボクの知らない間にキミにあった事を、ボクが知りたいんだ。だから、お願い。』
数日前に交わされた約束を思い出す。まだ信じなくていいと言われた。時間をかけてくれてかまわないと言ってくれた。今すぐじゃなくても良いのだと教えてくれた。
けど、彼女がそんな言葉を並べても既に、既に弥代の心は傾きかけていた。無理に強くあろうとしなくていいというその言葉にどれだけ救われたことか。だって弱い事は事実なのだから。これから。そう、これからでいいと少しだけ前を向ける。
付き合いだけで言えば討伐屋の方が長いが、もし彼女の肩を自分が持つと、彼女と一緒に過ごそうという気持ちがしっかりと芽生えてしまえばそれは彼等とのこれからの付き合い方も見つめ直さねばならないやもしれない。
だって、それが示す事。つまりは、
(甘いのとか、好きかな…?)
今も何かと喚く芳賀の声なんて今の弥代にはもう届きやしない。その意識は何も刺さっていない串に向けられる。くるくると、意味もなく回す。手伝いの駄賃でもらった銭でいくら買えるものか。買って帰った後、彼女ははたして喜んでくれるだろうか。あの狭い家で、今日は何を話そうものか。
もぞもぞもぞもぞと、布団の中から這い出た当人は既に陽が高くなっている事実を噛み締めて悔やんだ。見慣れた、過ごし慣れた私室だ。一年を通して陽の高さも伸びる柱の影の位置からも今がこの季節のどれぐらいであるか分かるというのは自然と彼女自身・雪那に身についた癖になるだろうか。だからこそ余計に嫌な気持ちになる。結局それは長年の間引き篭っていた末に身についたものだ。
先日までは、きっちり朝起きる事が出来ていたというのにどうしたものかと考えるも直ぐに答え、いや原因は分かっていた。分かりきっているのだ。
「弥代ちゃん……」
再会頭、あろうことか雪那は弥代の頬を叩いてしまった。あまり深い意味はないというのは嘘で、あるにはあるのだがきっと他人に言えば些細な事で、なんなら弥代自身に直接話してみたとすれば馬鹿馬鹿しいと一蹴りされてしまう事だろう予測が立つ。初めからあんなことがしたかったわけじゃないのだ。
心配をしていた。この半年近く気がきでいれなかったのは事実だ。結局自分には何も無いのだと無力さを痛感させられた。里を治める立場にある一族の、その次期当主としていくら持ち上げられようとも、これまで首を突っ込むことのなかった自分には誰か一人を動かせる、祖母のような力を持ち合わせていない。祖母が倒れられてから幾度か行われた会合はここ数日と開かれないのはせめてもの救いか。
頬を叩いてしまった翌日、弥代はわざわざ屋敷に赴いてくれた。案内ついでだと素直でないちょっとした悪態を聞くのも久々で。顔を見せてくれた弥代に対して中々素直になれず結局怒鳴り散らかして帰ってしまったその日から雪那は憂鬱な日々を送っていた。自業自得なのは重々承知している。
食事もあまり喉を通らない。
早いものでもう一年近く、漸く慣れてきらであろう下女が気を利かせて粥を用意してくれたりしたが、それすらも今の雪那は口にしたいと思えない程だった。
(気不味いというのは、こういう事を言うのかしら。)
八年近く全くと言っていいほど離れに篭り続けてきた雪那にとって、弥代と出会うまでの間言葉を交わす相手など限られたもので。乳母の葵に従者の氷室と実に狭いものであった。大人である二人は、時に雪那が無理難題なお願いをしたとしても嫌な顔一つせず応えてくれた。つまりはそこそこに甘やかされてきたのだ。
外は、色を持たぬ者は怖いという延長戦。
雪那にとって弥代という存在は、これまで甘やかされて何も知らずに育った自分を大きく変えてくれた相手だ。
自分がいくら常識はずれな事を口にしようとも、遠慮なく面と向かってそれを否定、訂正を挟んできた。与えられるもの予め用意されたものしか口にしてこなかった自分に、物の価値や購入の術に商人とのやりとりに使えるという話術まで。これはああした方がいい、あれはこっちの方がいい、それならそっちはやめた方がいい、と。面倒くさがりで我儘、気が短いと自負しながらも、どんな小さな事でもそうして根気強く分かるまで、すぐに投げ出す事もなく正面から向き合ってくれた。
そんなつもりがなかったのは本当だ。それでも頬を叩いてしまったのは事実で。感情の整理もできないまま、向き合う事が怖くなって雪那は逃げ出した。
そして翌日。雪那はてっきり初めから叱られるものだと身構えていたというのに、あろうことか顔を合わせた弥代は悪びれた顔を引っ提げて、自分に非があったと認めるように頭を下ろしてきたのだ。
雪那はそこまで器用な人間ではない。そんな弥代を前にして、そんな弥代の言葉だけを聞きたくなくて、弥代だけを無視するなんて芸当出来るわけもなく。これまで黙りなんて決め込んだ事がなかったものだから、実はほんのちょっと面白かったなんて、絶対に言葉にしない。
本当はすぐに止めるつもりだった。
非は自分にあるので、それに対して怒られたかっただけなのである。なのに、弥代はそれには怒らず、耳を傾けようとしない無視をした方の雪那にキレた。でも弥代は察しが良いからきっと次の日には気付いて漸く怒ってくれて、それでこちらも謝って仲直り的な事が出来て、これまでの半年の間にあった、積もりに積もった話でも出来ないだろうかと暢気に考えていたのだが。
(どうして…?)
ぐすっと、鼻を啜る。
本当にどうして?、だ。いや分かっている。そもそも自分が弥代の頬を叩かなければこうはならなかったのだ。分かっている。分かりきったこと。分かっている。分かっているが、分かっているのだが。
(どうして?)
分かっていても分かりたくないのが人間というもので。そうも簡単にいかないものなのだ。ボーッと考える事を放棄して布団から顔を出すも、まだ直ぐに潜ってしまう。意味のない事を何度か繰り返して、最終的には体を横たえる。
そういえば昨日は結局寝巻きのままずっと過ごしていた気がする。
流石に一日中着ていたものを翌晩もというのは良くないと言ったのは下女の戸鞠で。半ば無理やり背中を押され、軽く湯汲みだけ済まして着替えさせられてと眠りについたのだ。
それが昨晩の事かも一昨日の晩の事であるかも最早分からなくなってしまった雪那。今日も当然布団から出る気力はなかったのだが。
「いつまで不貞腐れとるん?」
光が、差す。
被っていた掛け布団の端が持ち上げられ、声の主の胸から下だけが雪那の視界に入りこんできた。
「…不貞腐れているんですか、私?」
「他に上手く合う言葉知らんからなぁ。堪忍なぁ。」
最近やっと耳に馴染んできた彼の言葉は柔らかい。言葉もそうだが、声色が決して固くないのだ。
男女という大きな壁があっても関係ない。かつての幼馴染は、今は自分の付き人としてここにいる。氷室という男は初めて会ったその時から歳も大きく離れていた為に近付き氷室自身を知るまでにずっと長い時間がかかってしまったが、彼・藤原和馬は違う。
もう、昔からよく知っている相手だ。
例えばここに下女がいたとしたら、女性の入っている布団を捲るだなんて、と軽蔑の色を浮かばせていたかもしれない。要するに彼がしている行動というものはいい歳をした男性が女性にしていい手ではないのだが、雪那と和馬の間にそんなのは問題になるはずがなかった。
「とりあえず出てきぃひん?軽いものでも食べて、難しい事はそれから考えよか。一緒にの。」
「……はい、」
首元を詰めた服というものは、あまり東では浸透されていない。本土より船で海原を跨いだ先、旧国でもある地域を中心に馴染みのある装いだ。本土の生まれである筈の相良がどうして首元の詰まった服を纏うのかというのは、彼の祖父がその旧国の生まれであるからだ。身に染み付いた文化ごと五十年ほど前に本土へと渡り、祖父が着ていたのを見て育ったが故に、やや値は張るが自ら呉服屋へ赴き、一から仕立ててもらっていた。
相良の祖父への敬愛は、祖父の顔見知りという理由だけで扇堂家に仕える氷室の為に刀を打つという面からも充分に伺えていたし、五年以上共に過ごす中で度々思い出したように亡き祖父の思い出話に華を咲かせる事から承知していたが、まさかこれほどまでだったとは、ここで初めて目にする彼の醜態とも呼べよう有様を前に伽々里は腹の中で深くため息を溢した。
「相良さん………いえ、志朗。多少の我慢はなさいな。貴方今年で幾つですか?」
「数えで二十九になります!しかし私、相良志朗!これだけは!これだけは譲れませぬ‼︎これを譲った事は二十九年ございませんっ‼︎」
「館林さん。」
「…へぇ、」
「あっ⁉︎ちょっ‼︎二葉貴方⁈ひ、卑怯ですよっ‼︎嫌です!これ、これだけは‼︎あっ!やめ、止めてくださいっ‼︎」
流石は館林二葉とでもいうか。上背もあり腕力にも自信がありながら手先の器用さも持ち合わせた彼の手にかかれば、片腕で相良を押さえつけつつもう反対で着物の中に着込んだ詰襟の肌着を脱がすなんて朝飯前なのだろう。更に優しい事に、脱がしたそれを押さえつけたまま片手で畳んでみせる。頼んだ手前賞賛を送らねばならないと軽く拍手をした後、伽々里は左手に控えていた風呂敷を広げ、折り畳まれていた真新しい張りのある着物を広げてみせた。
「それでは、着付けのお時間です。」
東海道というものは人の行き来が多い。これだけで行こうものなら江戸は日本橋から西の まで。そして人の集まるところには同じだけ様々なものが集まる。当たり前の事だ。たとえばそれはこの地方では珍しい品々であったり、たとえばそれはあまり出回ることのない貴重な食材であったり、たとえばそれは蒐集家が喉から手が出る程欲しがる古い時代の骨董品であったり、たとえばそれは大枚を一夜で叩く事になる女であったり。
相良志朗という男は酒には弱いがそこそこに口が達者だ。あまり学のない芳賀に物を教える事が出来る程度には便も立つ。男は口でなく腕っぷしがあってこそだ、なんて。今も昔も代わりはないが、腕っぷしもありつつ博識な面もある、生真面目でどことなく神経質そうな見た目は、見ようによってはどこにでもいそうな商人を、装う事が出来そうな見た目をしている。ありきたりな服装に身を包んで刀を取り上げてしまえば、一体誰が彼が刀を振るうような人間に思えるだろうか。ただそれをするには彼のあの詰襟は少々邪魔だ。
上げた前髪もやや崩し、横へと流す。風呂敷に包まれていた着物は真新しいように見えたが、そこまで新しくはなかった。腕を通してみればわかる事。見立てが良いのだ。町人が着るものと較べれば差は歴然。袴の裾部分にはご丁寧に泥滲みのようなものが見られ、なるほど実際に街道を行き来する商人であるとそれを纏って言えば疑われる事はないだろうと思えた。思えたが、
「叔父上の形見‼︎」
「実物でないものを形見と呼ぶと?おかしな冗談ですわね。」
「形のない形見だってあるんですうっ‼︎」
特徴は一つとなるべく少ない方がいい。距離があり広い為、いくら扇堂家から里の巡回をと依頼を受けようとも、一日で戻ってくる事が出来ないこの周辺まで足を運ぶような事はなかったが、それはあくまで自分達の話だ。
里内で商売をしに四方八方回る者はいる。現に伽々里が薬を保管するのに選んでいる器は東海道のその先、海辺に工房を構える硝子職人が作り上げた純度の高いものだ。二月に一度は台車一面に敷き詰めた瓶を南から里の北まで運んでもらっている。移動だけでも半日は有す。そこに品もあるとなればそこそこの重労働だ。それでも稼ぎになるからそれをする者がいるわけで。崩れた前髪に、常に身につけているといっていい詰襟を外した、仕立てのいい着物に袖を通してしまえば、どこにでもいそうな商人の姿をした相良志朗の完成だ。それなら眼鏡こそ外した方がいいのではというが、若干の赤みを帯びた彼の瞳から南の生まれを予想されても、彼自身は南の訛りも知識もそこまでないものだから誤魔化すのにはあった方がいい。
春原討伐屋の中では、彼以外に適任の者はいないだろう。
ついでに背後には上背があり、刺青を入れた肌を晒した美丈夫な男なんて連れ歩けば用心棒のようではないかと、自分だけがこんな目に合うことに反論を述べた相良だったが、髪と瞳両方に“色”を持つ、刺青を入れた大漢と隠しようの特徴だらけの彼では此度の潜入には向かないと伽々里に一蹴されてしまった。
「後はそうですね。館林さんは二枚目ですので。貴方と違って。」
「伽々里っ⁉︎かっ、伽々里‼︎聞き捨てなりませんよなんですって⁈今なんと仰いましたか貴女っ‼︎」
里の中でも名の知れる鶴見亭。人が見当たらない夜明けの入りは、少々大きな声をあげてしまう二人がいたものの、誰かに見られていたという事はないだろう。
何日かそこに出入りしていればそこそこに財があると他人の目には映る事だろう。既に根回しはいくつかされ、数日以内にこちらに品が届き、扇堂家の息が掛かった信頼のある店がそれらを商人を偽る相良から買い取るという手筈が整っていた。
ここまで下準備が出来ているのなら自分達で動けばいいだろうと伽々里は思いはするのだが、この里が出来た当初から扇堂家は直接の介入を避けてきた。自分達の息が掛かった駒を、たとえば元からこの地に棲まう者の信頼を得て、そうして問題を解決してきた。穏便に事を終わらせるなど聞こえは良いだろうが、実際のところはいざという時の責任逃れが大きいのではないかというのは大きな独り言だ。
伽々里の手によって身なりを整えられた相良がそろそろ頃合いだと件の店へ足を運ぼうとしたその時、やはり気になっていたのだろう一番奥の部屋で静かに過ごしている主人の名を口にした。
「伽々里は、またどうして春原さんを同行させることにしたのですか?」
階段を一段降りたばかりの彼の問いかけは、自然と彼女を見上げる形となった。
廊下に灯る灯りでその表情には陰が落ちたように、よく伺えない。
「あれが次、いつ、どのようにして春原さんに関わってくるか分かりませんでしょう。目の着く場所に置いておくのが得策かと私は考えましたの。」
「…それは、」
まだ五日と経たない。
橋の上での対立以降、西の鬼が討伐屋の面々の前に姿を現すことはなかったものの、何を仕掛けてくるかわかったものではない。
先日声を掛けられたのは春原だ。何があったのかを知らないのか、いまだにあれと同じ屋根の下暮らす弥代の事も気掛かりではあるが、討伐屋にとっての最優先は春原千方の他にいない。
討伐屋は今朝から芳賀に留守を預ける形となっているが、彼はまだまだ未熟者で、一人春原を託す事は出来そうにない。人に何かと好かれやすい彼のその気質を悪いとは言わないが、直ぐに周りを囲まれてしまう、老若男女に好かれる芳賀。話している内に一緒にいた筈の春原の姿が見えなくなってしまうなんて事は、この一年の間に少なくとも数えられるだけ既に起きたことだ。
里に帰ってきてから他に伝がないからと部屋を貸していた古峯の土地神に頼るという術もあったろうが、昨晩の内に今日からの事を伝えた所、主人が留守にする家に勝手に居座るのは良くないからと、夜半であるというのに早々に身支度を終え姿を消してしまった。恐らくは帰ったのだろうが、始めからいなかったかのように姿が見えなくなった時は、やはり人ではないのだな、と思い知らされた。
「まぁ、留守と言ってもあの子、今は別に忙しいらしいですから。」
「黒介は坊の事となるとムキになるのは、良くはありゃしやせんけどね。」
「若者の憧れなんてそんなものですよ。いつまでもあのような調子ではたまったものじゃありませんが、今はまだ私達がいることですし、大目に見てやりましょう。」
それ以上奥へ、誰も通さないという意思を示すかのように壁に寄りかかり腕を組む館林が口を挟む。今やこの鶴見亭の上の部屋は討伐屋による貸切も同然だ。
この鶴見亭には他にも二階へと繋がる階段があるそうだが、棟自体が分けられており、客同士が廊下ですれ違う事のないように仕切られているそうだ。つまりは二十畳程のこの階には他に客が誰もいないこととなる。
階段下にはわざわざ扉が設けられ、宿の者が必ず前に立ちと厳重な、鶴見亭という宿はそういった場所なのだ。
先日伽々里に対し、討伐屋なんて辞めて宿屋なんてどうかと話したのを思い出しながら階段を下る。流石にここまで立派でなくても良いが、宿を一つ回すのもきっと骨が折れる事だろうと自然と笑いが込み上げてくる。
さてまずは、
「伽々里のご機嫌取りでも頑張りましょうかね。」
「だからさ、すげぇ腹立ったんだ俺。なんつーか…だっていきなり出会い頭に水ぶっかけてくんだぜ?わけ分かんないだろ。あいつって、根っからそういう奴なんだろうなって、どっかもう諦めてるっていうか。」
「ふふ、余程嫌な思いをさせられたんだね。でも分かるなぁ。ボクもあの男あんまり得意じゃないもん。」
頬杖をつく。体を半分横たえた状態でここ連日同じように言葉を交わす。これまででは珍しく、話すのは専ら弥代だ。自分の事などこれまでなるべく誰にも話さないようにしてきたというのに、鶫と話したあれがきっかけになったかのように、今は妙につらつらと言葉を並べられる。焦って、相手の発言を遮りたくて多弁になるのとはわけが違う。
今は少しでもいいから彼女が求めた、自分がこれまで何をしてきたのか、何を見てきたのかを聞かせてやりたい気持ちに駆られるのだ。話したところでと思っていたのに、求められて話して良いのだと考えを改めてしまった。
灯りなどもうずっと前に消したというのに。木戸の微かな隙間から入り込んでくる細い細い月明かりしか光源はないというのに、こうして言葉を交わしているだけで相手がどんな表情を浮かべて話しているのかが分かる。安心感。春の夜はまだまだ冷えこんでならない。
小さな身じろぎ一つで偶々触れてしまった爪先に、熱が離れるのが恋しくて擦り寄ってしまうのを寒さのせいにする。
「甘えん坊さんだね。」
「眠い、だけだ。」
自分を許し受け入れてくれる温もりを、こんなにも焦がれてしまう。何ともずるい夜だ。
「無理に引き剥がそうというわけではない。東の。あれがいる事で西が何も為ぬと云うのなら、それに越した事はないだろう。」
「でもそれできっと、弥代様は後になって酷く傷付かれる事になりますわ。」
星を覆うかのように羽ばたく、その腕の中に抱かれながら溢す少女の眼差しは、既に遠く離れたかの地に置いてきた鬼の子に対する情が浮かべられている。
西が脅威にならぬと判断をしたのだろう。目の前に掲げられた都合のいい展開に、別れの言葉一つ伝える間もなく里を発ってしまった事も気掛かりだが、何よりも彼女の今後の行く末を考えると鶫は心が痛むのだ。
自分はてっきり兄にしか関心がないと思っていたが、そうではなかったようだ。いや、最終的に兄に関与する可能性がまだあるからこうして意識がまだ向いているだけかもしれない。今はまだ、でもいずれは…。




