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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
四節・雷乃発声、散りぬる山茶花
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八話

 手を、取った。

 生憎と指先まで覆うものは好きではない。本来の役割を到底果たせていないだろう手袋だろうが、それでも何か細かいことをするには好都合で。かじかみながらも、自分が巻いていた襟巻きを彼に引っ掛けてやる事は、十二分に熟す事が出来た。

 その先を、同じだけ冷え切った掌にしっかりと握らせて。

『んな顔すんなよ。また、会いに来てやるからよ俺。』

 情を寄せる。

 しかし、それが叶う事はなかった。




 随分と高い天井だ。

 剥き出しの梁が、柱同様にこの店そのものを支えているのだろうか。大工でもない自分が言うのはおかしな話だろうが、立派なものではないかと思うぐらいは許されるだろう。

 反物が押し込まれた棚が並ぶその上には、陽のあかりを取り込む為か、あるいは窮屈さを取り除く為か。天井と鴨居の間に欄間らんまが設けられている。広い正面口からでも十分に差し込むが、陽の下でどのように目に映るかというのを気にしているのだろうか。店の人間でない自分が知るよしもない事だが。

 まばたきを一つ挟み、左手を見遣ればとうにその存在に弥代は気付いていたが、声を掛けなかった為か。指通りの良い、柔らかそうな白髪を緩やかに垂らした彼女がそこにはいた。

「おはよう、弥代。」

 いた、というのは正確には正しくない。

 目を覚まして直ぐ、天井をぐるりと自分が見渡すよりも前から彼女は、詩良はかたわらにいた。俗に言う膝枕か。あまり嗅ぎ慣れない、甘い蜜のような香りをした。

 目が合えば、自然と声を掛けてくる。まるで待っていたかのようではないか。肌触りのいい布地が心地よくて、まだ朧げな意識の中擦り寄るよう身動みじろいだのち、弥代は静かに起き上がった。

「…寝てた。」

「うん、知ってる。見てたから。」

 陽の傾き具合から少なくとも自分が一刻以上は寝入っていた事に気付く。店内には先ほどまでいたであろう客は殆どおらず、人気ひとけも少なくなっていた。店の奥からはカツカツと算盤を弾く音が気前良さげに、広い店内によく響いているではないか。そろそろ店じまいである事が伺えた。

「随分、寝ちまってたんだな俺。」

「昨日あまり寝れてなかったんでしょ?朝から舟漕いでたの分かってたから気にしてないよぉ?」

「それは…、」

 言うて、何もなりはしない。

 何も分かっていない自分が口を開いた所で、何も解決しやしない事を分かって。中途半端に発しかけた言葉を飲み込む。らしくない。

「弥代?」

 そしてそれを見過ごす彼女ではない。

 そっと、畳の上で握りしめていた拳に彼女の細い指先が重ねられる。

「大丈夫?」

 それは、

『東の、』

 何一つ似ていない。共通点などある筈がなのに、一瞬その姿が重なって見えた。

 どこも似ていない。何をとっても似ているわけがないのに。瞬時に込み上げてくるものがある。腹の底から一気に何かが迫り上がってくる。わけも分からず大きく嘔吐えずいてしまう。思い返せば朝起きてからここに来るまで何も口にしていない。昨晩も食欲が湧かずに食べなかったではないか。陽の暮れ具合からして丸一日何も食べていない状態で出てくるものは当然何もない。胃液だけ吐き出して、それが足元に広がった。

 店の中で吐き出してしまった申し訳なさに襲われるも、ただ意外な事に詩良は手を貸してくることはなかった。先ほどは手を重ねてきたというのにおかしな事だ。弥代が吐き終えるのを待ったのち、やっと彼女は言葉を紡いだ。

「服、着替えないとね。」

 言われた通り。足元に広がるそれもそうだが、反射的に口元を抑えた際、袖口に飛び散ってしまったのか。掛かった部分が変色している。これを着たまま帰るというわけにはいかないのは分かるが、そんな直ぐに替えの服があるなんて都合のいい話があるわけがないだろうに。けろっと言ってのけた詩良は腰を持ち上げると、店の奥の方へと消えていった。

 少しして戻ってきた彼女の手元にはやや大きな風呂敷が抱えられていた。

「弥代が寝ている間にね、女将さんがもう仕上げてくれたんだよ。あまりこういう所は来ないだろうし興味ないだろうけど、ここの女将さんねとっても無口で人見知りなんだけど、その分お針子としての腕が凄くてね。半日もあれば薄手の生地なら仕上げ終わっちゃうの。凄いでしょ。口の上手い旦那さんが彼女の代わりに全部話ちゃうものだから、女将さんが喋らなくても何も問題ないんだって。おしどり夫婦ってここいら近所じゃ評判なんだよ。」

 風呂敷の中から姿を現したのは、彼女が先刻店主と広げていた反物から仕立てられたのだろう真新しい服だった。

 腕を引かれる。正面口からじゃ見えない奥まった位置にある大きな姿見の前に立たされ、止める間もなく着ていた服を脱がされる事となった弥代は、代わりに直ぐに真新しいそれに袖を通すこととなった。

 一緒に過ごした時間だけ見ればそこまで長くはないが、何かと肌に触れてこようとする事が多いその手を払ってばかりだったが、どこかこれまでとは違う彼女の雰囲気に流されてしまう。邪な感情は感じられない。優しい、手付きだ。

 着付けられる間、彼女が口を閉ざすことはなかった。どこかゆったりとした口調で、他愛もない世間話を並べる。ただ耳から入ってくる言葉に意識を傾けるだけなのは正直楽だった。無言でいれば何か余計な事を考えてしまいそうで、手付きと相重あいかさなりほんの少しだけ救われる。

「うん、似合ってる。」

 膝よりも高い位置で切り落とされた袴は、これまで自分が纏っていた着物と色がよく似ている。一際ひときわ目を引く橙色の襟は、全く生地が違うものを、既に縫い付けられたかのようだ。地の色とよく馴染んでいる為に見栄えがいい。

 されるがままに着替えさせられたそれはやはりと言うか、風呂敷から姿を見せた時にも思った事だが、自分が着るのは相応しくない、勿体無い出来にしか思えなかった。

「何言ってるのさ。弥代の為に仕立ててもらったものだよ。勿体無いなんて事、あるわけないじゃないか。作ってくれた人にそれは失礼だとボクは思うな。」

「お前でもそういう事、思ったりするのな。」

 自然と、それは口を突いて出た言葉だった。

「ねぇ、弥代…」


 帯の下から伸びた生地を思いっきり持ち上げられる。突然の力技に驚く間もなく弥代に襲いかかってきたのは痛みだった。

「んっぁ⁉︎」

 丈の短い分股下にゆとりのあまりない袴はそのまま持ち上げられた事で、勢いよく股に食い込む。悲鳴にもならない声を漏らしその痛みに悶絶する。思わず立っていられなくなり弥代が屈めば、膝立ちであった彼女が交代をしたように立ち上がり腰に手を当てて一つ吠えてみせた。

「もぅ!駄目だよ弥代!お礼の一つも言わないでそんな悪態吐いちゃいけません!」

「おまっ…、だからってこ、こんな…っ…‼︎」

「弥代が辛気臭い顔ばっかりしてるのがいけないんだからね!後丈はもう少し短い方が可愛いから裾上げしてもらおう!ほら脱いで脱いで‼︎」

「勝手に着せておいてまた身勝手に脱がされるのか俺はっ⁉︎」

 先ほどまでの空気はどこへやら。結んだばかりの帯を解かれ、履きたての袴を盗まれる。だらしなく畳の上に広がった帯の真ん中、剥かれるだけ剥かれた弥代をそのままにして、詩良はそれを握って我が物顔で店の奥へと消えていった。

「自由かよ⁉︎」

「だってボク常連さんだも〜ん!」



 袴の下には元々股引を履いていた事もあってすっぽんぽんになるという事はなかったものの、帯の正しい結び方なんて知り筈がない弥代が何を出来るわけもなく。店の隅っこで胡座を掻くように姿見の前で過ごす事しか出来やしなかった。この股引も冬は冷えるからと雪那が館林に持たせた葛籠の中に入っていたものだ。寒いと感じる感覚さえも麻痺していたのか、古峯の地を訪れるまでの自分はあの薄手に羽織もの一つで過ごしていた。今思えば信じられない事だ。

「お待たせ〜!」

 今度は一人ではなかった。先刻接客をしていた店主と思しき男と、大きめの箱を胸の前に抱えた髪の長い女性を引き連れてのおでましだ。

「女将さんってばボクも驚くぐらいこういうのは拘っちゃう質でね?話した直接目にしたいって!目で訴え掛けられちゃった!」

りつは口をきくのは得意じゃない癖して主張だけは一丁前に融通が効かないところがあるのですよ。すみませんねぇ妹さん。」

「…いや、別に謝られる事じゃねぇし構わねぇけどよ。」

 一切口を開かない代わりに恥ずかしそうに頬を染めては自分が抱える箱を、店主の背中に押し付ける女性が店の女将だろうか。店主の見た目からして随分と歳が離れているように窺えた。

 おしどり夫婦として評判なのだと詩良は言っていた。実際目にしない限り気にしてなかったが、仲睦まじいのはそんなちょっとした様子からも分かった。いつもの事なのか、痛い痛いと口では並べるものの、止めはしない。寧ろいつくしむような目をして彼女を見遣る。お似合いには違いないのだろう。

 姿見を前に再度足を通す。既に普段目にする袴から随分とかけ離れた短さになってしまったものを、少しずつ調整するように意見を述べる詩良と、一言も発しはしないのに身振り手振りで意思疎通を取る女将。何度かそんなやりとりを挟んだ後、目標を決めたのか黙々と針を滑らせる、お針子の女性の姿が其処にはあった。

「裾上げ一つでも女将さんにとってはね、大事なお仕事なんだよ。あんなにも集中してさ、真剣に向き合ってくれるの。ボク、そういう人は好きなんだ。」

「お前の好き嫌いとか、別に聞いてねぇぞ。」

「うん、それもそうだ。」

「……。」

 四半刻も経たぬ内に裾上げは無事終わった。

 渾身の出来だと言いたげに胸を張るも、直ぐに恥ずかしくなったのかそそくさと姿を見せた時同様に、今度は裁縫箱と分かったそれを抱えて奥へと消えていく女将に、弥代は御礼を述べる事が出来なかった。

 それを店主に話せば、気にしないでくださいの一蹴り。好きで仕事として彼女はやっているだけなのだと言われてしまえばそれきり。

 自分の知らぬ間に既に支払いを済ませていたのか、手を取られ店を出る羽目になってしまった弥代は始終振り回されていた。

 付き合う約束を半ば無理やり取り付けられただけだというのに。ただ途中自分が寝てしまっていた点を考えれば、もしかして他にも寄りたい場所でもあったのではないかと考える。顔が見えない。彼女が何を考えているのかが分からない。こんなにも近く、手を引かれているというのに。

 どうしようもない、わけがわからない感情が渦巻いている。どうすればいいのか分からない。何も前になど歩み出せていない。何も成しえてない。分かっていない。分かる筈がないと嘲笑われているような錯覚。木霊する、彼女の声だけしか聞こえないような。そんなわけがないのに、そんなことないのに。分からない。何も、何も分からない、分からない。いつから、いつから自分はこんなになってしまったのか考える。前の自分はもっと、もっと、もっと、もっと、

『東の、』

「弥代、」

 まるで何かが決壊したようだ。息を吸う。深く、深く。吸っては直ぐに吐き出してを繰り返す。踏みとどまった足元が揺らぐ。なんだこれはと、思わずにはいられない。

 先刻と同じように彼女の姿が、彼に重なって見えてしまった。似てない。何度見ても似てやいない。なのに、なのに、なのに…

「泣いちゃうぐらい、悲しい事があったのかな?」

 過ごした時間など、ほんの僅かなものだ。

 たった数日。言葉を交わした時間だけを見れば一日にだってなりはしないだろう。だというのに寄せてしまった、向けてしまった情がこれ程までに深かった事を弥代自身は受け入れなかった。

 だってそれは、受け入れてしまえば

「悲しくなんかない。悲しくなんか…、」

 名も知らぬ老夫婦を思い出す。彼等を雪の晩失ってから、本当であれば誰に寄り添いもせずに過ごすべきだったのだ。激情のままに奪ってしまった命を前にして、彼等の死をなかった事に出来なかった。同時に薄らと根底にあった、芽吹いた罪の意識が。自分が過去に何をしてしまったのか、それを知りたくて。知りたくて?違う、嘘だ。そんな、そんな事。拠り所が欲しかった。自分を許せなかった。誰かの命を奪ってまで。違う。そんなの言い訳だ。言い訳でしかない。本当は、本当は、「俺は…、」


 この榊扇の里はよくない。

 迫害を受け生まれた地を離れることとなった、居場所のない“色持いろもち”でさえ、容易に受け入れてしまう。外でどれだけ罪を犯そうとも、誰も知らぬこの内側では一歩間違えればそれさえも本当に許されてしまいそうになる。自分から言わぬ限り知られる事などないのだから。なってしまうのだ。許されてはいけない。許されていい筈がないのに。己の犯した罪の、その正体さえ思い出せない自分が。

『父に手を掛けたこの俺が、許されていい筈がないんだ。』

 身勝手に自分を重ねた。

 違う点があるとすれば、彼はその罪に正面から向き合い、受け止めそこに在り続ける強い意志を持っていたという事。自分には出来ない事だと思っていたからこそ、少なからず惹かれてしまったのだろうと、今なら思う。そうとしか思えない。

『そうだな。忘れず、手を合わせて来ると良い。』

 無事でいる確証などどこにもなかった。

『家族、だったんですよ…!』

 自分以上に共に過ごしてきたであろう、それこそ家族のような彼が狼狽するのを尻目に、同じように自分が取り乱していいわけがなかった。堪えた。ずっと、ずっと、本当は、

「…俺だって、」

 羨ましい。死を憂いてくれる相手がいる事も、血の繋がりがなくとも家族と呼んでくれる存在がいた事も。“色”を持たず生きてきた事も。帰る場所があった事も。何もかも、何もかも本当は、

「本当は…っ‼︎」

 荒げた声に、周囲を行く群衆の視線が向けられる。次に自分が何を紡ぐかも分からぬまま、振り払った手をただ強く握りしめて、あれからずっと認める事が出来なかった言葉をせめて吐き出そうとした時だった。

「大丈夫。大丈夫だよ。」

「悲しかったね。寂しかったね。辛かったね。きっとありきたりな言葉だ。ありきたりな経験だったろうけど、そんなありきたりな事を、キミはこれまできっと知る事が出来なかったんだ。良いんだよゆっくりで。焦らなくて良いんだ。キミは、ボクらはまだ先が長いんだから。何も、急ぐ必要なんてありはしないんだよ。」

 夕陽に染まれば、自分の“色”など塗り替えられてしまったようだ。頬を撫でる柔らかなその髪質はとても擽ったくてしょうがない。ややキツく抱きしめられてしまえば、離れる事なんて出来やしない。

(初めて、だ。)

 いや、初めてではない。以前にも彼女にはこうして抱きしめられた事があった。その時は頭を抱えられるように。過去にあの女にも同じように抱きしめられた事がある。これが初めてなんて事はないのに。ないのに。

 腕を、回してしまう。

 寄せられたその温もりを手放すのが惜しい。離れないでほしい。どこにもいかないで欲しい。良いのだと許しを与えてくれた存在を失いたくない。

 なんと都合が良いのだろうと自覚しながらも、食い込ませた指を払うには些かもう遅すぎた。

 弱くあっても良いのだと受け入れてくれるその言葉に弥代は、今は、縋る事しか出来なかった。




 どこから迷いこんだのか。野良にしては遠目に見ても随分と毛並みがよろしい。人と接する事があまり得意ではない姪だが、愛猫を手懐けていようとは思ってもなかった。そもそもこうして顔を合わせる機会自体これまでなかった事だ。同じ屋敷の中で暮らそうとも、直接関わることなどありはしない。関わりたいとすら微塵も思わない。底の見えない悪意の塊のような、毒を振り撒く害悪なその存在に。

 光の差し込まない、閉めきった座敷の中央で身を傾けた彼女は静かにこちらを見つめた。

「何を、お考えで。」

 胸の前で指を組む。悍ましい。相手の切り出す言葉をただ待つ。気まぐれ屋のように首を伸ばして、彼女が紡いだ言葉は苦言だった。

「親しき仲にも礼儀はあると思うのです。約束も取り付けずにお越しいただくのは、わたくしとしてはとても、困るのですよ。」

 東の離れから一番遠いその場所に敢えて、本人の意志で建てられた棟は、屋敷の中でも新しい部類に含まれるだろう。夕暮れの一時、僅かに西陽が照らすだけの部屋の奥に、彼女はいた。

 紺色の大振りなはねを広げた、自分と同じ“色”を持たぬ分家の娘・扇堂あざみ。

 歳は確か、本家の彼女よりも一つか二つ、歳若い。

 身の回りの世話をする者は限られ、そもそも世話をする時以外は立ち入りを拒絶されているのだという。

 両親を早くに亡くしているという点は、彼女と似ていた。

 大主が倒れる以前は、あまり公の場に姿を見せる事すらなかったというのに、ここ数ヶ月のあざみの行動は美琴の目にあまる点があまりにも多すぎた。分家の一つとして出席する権利ぐらいはある筈だと大胆不敵に、会合を行うその場に直接入り込んだ上で介入をし、南区画において確認が相次いでいる薬物に関する対処について話す際も、手を伸ばす者に比があると訊ねてもいない異論を唱えて、場の進行を阻害、引っ掻き回した。顔馴染みなのだという知人がいれば参加させろと言ってきたのはそちらなのに会合の席において要らぬ会話を進める事もあった。人嫌いなあざみに外の知人がいるというのがおかしな話だが。

 それらだけなら、目にあまる程度で収める事が出来たが此度は違う。

 行き過ぎたその行為を前にして、釘を刺す必要を美琴は感じたのだ。

「雪那様にあのようにかかわられるのは、どうかお辞めください。」

 数日前に行われた席で彼女が意識を失ったのは当然記憶に新しい。その直前にあざみが雪那に近付き何かを囁いていたのを、美琴に仕える下女が偶々目にしていた。歳が近く、本家と分家の、到底相いれられない関係の二人の間に何か起きるのではないかと危惧していた美琴にとっては嫌な予感が当たってしまった程度の感覚だったが、それで彼女に実害が及んでしまうような事は許せるわけがなかった。

「…何ですか、それ?」

「私達分家は立場を弁えるべきだという話です。」

「私達…?」

 それまで寛いでいた猫が何を察したように、慌てて体を起こすと部屋の主の元から距離を計る。

「変な話。今この屋敷を、この里を思いのままに動かせる立場にいる人が、弁えるべきだなんて。」

「私は、大主の意志の元動いているだけに過ぎません。里の方針に、私の意志が含まれるわけがありません。」

「目覚めない人の意志をどう確認するというのですか美琴様?そんなの言葉、本意でなくても並べようと思えば並べられますよね。薄っぺらくて笑えてしまいますね。」

 それは嘲笑以外のなにものでもないだろう。

 幼い頃からこの娘はそうなのだ。だから、だから拘ろうとしてこなかった。距離を置いてきたというのに。

「見もしないくせして知ったかぶりが得意な美琴様。ねぇ、三月以上も起きない人を悠長に待ってられるような人は、どれだけいるのでしょうね?」




 いやにすっきりとした心持ちで弥代は外に出た。小洒落た着物なんて自分で着付ける事が出来ないから、昨日同様に上から下まで彼女に丁寧に着付けてもらって。帯なんて昨日はなかった筈の飾り紐まで回されて結ばれてしまった。着飾る事自体慣れていないし、落ちてしまっても気付けやしないかもしれないからと余計な装飾品はいらないと言ったのだが、聞き届けられる事は分かりきっていた事だがなかった。

 今日の彼女はどうやら長屋に暮らす物書きの彼に話たい事があるのだという。一昨日預かって渡す事が出来なかった櫛を昨晩渡した事で、その礼を述べに行きたいのだとか。同じ長屋だし付き添うかと訊ねたが、二人きりで話したい事があるのだと断られてしまった。

 その分、これからは一緒に過ごせなかった間に何を見たのか、誰と会ったのか、どんな事があったのか。些細な事でも良いからできるだけ教えてほしいとお願いをされてしまった。一緒にいれなくてもあった事を共有する事は出来ると言われてしまえば、今の弥代はただ肯く事しか出来なかった。

 肌寒いと悪いからと肩に掛けられたのは、見るからな女物の薄手の羽織で。

 縛る髪も普段より少しだけ緩く結ばれてしまえば、とても似合ってると言われた。

(似合ってんのかな、俺。)

 着慣れない装いで見慣れた街並みを進む。巾着には先日鶫から礼として渡された駄賃がそのまま、ちゃりちゃりと金音を立てている。とりあえずすべきは神無月まで世話になっていた飯屋のツケの支払いだろう。

 ツケの取り立てなんてものは通常であれば年の瀬に行われるものだが、年の瀬にいなかった自分には払いようがない。怒られるだろうが仕方のない事だ。

 昨日の不調がまるで嘘のように、足取が軽いのは気のせいだろうか。きっとこれまでの冬服と違って春物が軽いのだ。柄にもなく、適当な知りもしない音を口ずさんでしまう。あぁ本当に、馬鹿馬鹿しい事。



「まっずいですよ不味いですよ⁉︎不味いですってば相良さんっ‼︎」

 両脇にどうしてか鶏を抱えたまま討伐屋の玄関口でそう叫んだのは、最早近所で名も顔も実孫のように親しまれている芳賀よしか黒介(くろすけ)だ。昨晩は久方ぶりに伽々かがりからお預けを喰らわずに済んだおかげで酒にあり付けたのか、得意ではないのに酒を煽るというその行為が好きな相良さがら志朗(しろう)は青褪めた顔で土間できらず汁を口にしていた。春原討伐屋ではわざわざ豆腐売りからおからを貰い受ける事が多いが、その使い道は相良の二日酔いの為だけだ。

 翌日に響くと分かっているからこそ伽々里は彼を止めるのだが、当人はそんなのお構いなしだ。最早杓ではなくそのまま椀で汁を掬っては馬鹿の一つ覚えみたいに喉を鳴らす。

「朝っぱら何を、そんな大きな声で、伽々里に叱りつけられますよ貴方…、」

「叱りつけられるのはアンタの酒癖ですよっ⁈いや、じゃなくて‼︎本当にまずいんですってば‼︎」

「だから、何が…」



「弥代さん…ですね?」

「ですよねっ⁈アレ!弥代さんですよね⁉︎」

「あぁ…え?いえ…はぁ…孫にも衣装という言葉が…」

「そういう事を聞いてんじゃないですよ俺はっ‼︎」

 まだ朝も早いつ。里で暮らし始めて一年が経とうとしている今となっては日課となってしまったご近所周りをしていた芳賀の目に止まったのは、見慣れた青髪の彼女だった。数日前突然討伐屋に乗り込んできて騒がしい晩を過ごし事となったが、賑やかな(争い事でなければ)事が嫌いではない芳賀からすればそれは喜ばしいことで。一方的に尊敬の念を抱いている春原が何よりも嬉しがってくれるのではないかと思った程だ。

 翌朝の朝餉は寝起きだというのが嘘のように騒々しくて、案の定伽々里からのお叱りを受ける形となったが、なんなら今後ともいてくれても構わないのにと思えた程だ。既に十分賑やかな討伐屋だが、弥代を迎える事で春原の口数も増えるなら俺も嬉しい、相良さんも館林さんも伽々里さんも春原さんの成長が感じれて嬉しいに違いないと勝手に考えていた。あの日は弥代の他に弥代の姉を名乗る少女や、春原と館林が留守の間手を貸してくれた和馬に、弥代の恩人だという兄妹も同席していたが、そんなの芳賀は知ったこっちゃいない。

(春原さんがいて喜ぶのは弥代さんだけだ!)

 空気を読む事には長けているというのに、尊敬する人の為となれば周囲がやや見え辛くなってしまう面が芳賀にはあった。

 一昨日から何があったのか知らないが、少しだけ空気が悪くなってしまった討伐屋。これをどうにか出来るのを芳賀は弥代だけだとかわいそうな事に考えていたようだ。

 人の行き来もまだそぞろな朝方。橋のその先に見た青髪に手を振ろうとした、芳賀の目に映ったのは…。

「どう思いますか相良さんっ⁉︎女性が着飾る時は恋!恋なんて言いますけど弥代さんがそんな普通の女性みたいな事、俺は考えられないんですけど⁉︎弥代さんが⁈あの弥代さんがですよ⁉︎」

「貴方…自分が今結構失礼な事口にしてる自覚はおありですか?良かったですね当人を前にしなくて。最悪殴られるだけじゃ済みませんよ。」

「だって春原さんどうするんですか⁉︎春原さんは‼︎」

 芳賀が如何に春原の事を一方的に敬っているかをよく知る相良からすればなんて事はないのだが、その取り乱しようは若干引きたくなる。二日酔いも覚めきっていない中、まさか無理やり腕を引かれ、朝っぱらから外に連れ出されるとは思っていなかった。

 昨晩は何夜か既に同じ屋根の下過ごす事となったかの土地の二人と伽々里を交え今後のあれの対策をと話込んでいたのだが、話が途中綺麗に逸れてしまい、昨年の秋口の雷撃を弾いたのが自分の打った刀であるという話へと飛躍し、ついつい興が乗って酒を口にしてしまったのが間違いだった。

(一杯でこれだと言うのに、私はまた失敗を…)

 それでもまたその内忘れたように酒に手を自分は伸ばしてしまうのだろうと相良は思う。どうしてもあの魅力には抗えないのだ。

 呑んでいる内は気分がいいのだ。呑み進めてしまった手前、口をつければ伽々里ももう何も言いはしない。先に釘を刺されていれば話は別だろうが。

 丁度飯屋に入った弥代が出てきた。腕を組む亭主と小さく頭を下げる女将に手を振って出てきたその姿は、先日までの彼女からは想像もつかないような装いで。なるほどこれは芳賀が慌てふためてしまうのも仕方ないとは考えたが、それまでだ。

「人の装いにケチを吐けてはいけませんよ芳賀さん。心変わりではありませんが、まぁそういう事もありましょうよ。」

「で、でもぉ……、」

「私たちには他にもすべき事があるのですから。」

 それは昨日、屋敷より預かった書簡に記されていた内容だ。

「里の南、五街道の中では人の行き来が激しいとされる東海道。あちらに赴くとなれば、少々の準備では心許ないでしょうね。」

(何よりも、伽々里がどう反応を示す事でしょうか。)

 

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