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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
四節・雷乃発声、散りぬる山茶花
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六話

 妖、妖怪、物の怪。

 呼称は人それぞれ。地域によって広く異なるが、そのどれもは人ならざる、到底人間が持ち得ない力を有している場合に用いられる機会が多くあった。

 その存在が如何にして生まれるのか。

 一概にこうと決まりがあるわけではない。ある日突然自然と生まれ落ちた存在もあれば、母親の腹より人の子同然に産声をあげる存在もいた。千差万別。全く同じ存在などというモノは、ありはしない。

 いつ生まれるかも、どこに現れるかも知れぬ存在。しかしその在り方というものはあまりにも人間とは程遠く。人間はその存在を酷く畏れた。

 中には生まれが人間であっても、後にそちらへ転じてしまう事もしばしば。

 そんな曖昧な存在を、一括りに。まとめるこどが出来はしないというのに、それでも人はそれらを遠ざけ続けた。



 伽々里の元にその手紙が届いたのは一ヶ月程前の事であった。

 甲州街道は小仏宿。相模国と武蔵国の国境という事もあり、その地には今も古い関所が残されている。古く江戸の頃、幕府の所有物であった時代とは異なり、歴史の遺物として今もその地に暮らす者達が自主的に管理を行っていた。

 手紙の送り主はその地に住まう、古い顔馴染みの男性からであった。最後に顔を合わせたのははたしていつだったか。

 手紙の内容は、薬を持ってきてほしいというものであった。

 昨今、少し先にある吉野宿近郊にて賊や野生の狼が多く出没するようになり、甲斐国から届く筈の荷が届きづらくなってしまっているそうなのだ。小仏関所付近というよりは、国境の周辺は山道が続いており、雪解けのこの時期には土砂崩れが発生してしまう事も少なくはない。それに巻き込まれた者の治療に薬が足りていないという旨が記載されていた。

 記された薬の中には、直ぐに用意できるものもあった。

事故に巻き込まれ直ぐにでも必要となれば、急ぐ必要があったが、ただその中には伽々里があまり良い印象を抱かない物も含まれており、出向く支度を終えるよりも前に、それに関してはあまり用意する事が出来ない旨を記した返事を送り出したのだった。

 

 春原討伐屋は妖怪討伐を生業としている一門ではあるが、妖怪というものがそう頻繁に湧き出るわけでもない為、直接それらと手を合わせる機会は限られた。

そんな少ない機会のみでしか得られない報酬で、十分な生活が送れるわけもなく。討伐屋に籍を置く者であれば、個々に何かしら別に簡単な仕事を請け負う事も多少なりともあった。

 この時代護身用ぐらいでしか刀を所持する者が少なくなったが、それでも需要がないわけではない。相良であれば刀鍛冶として刃毀れが酷くなった刀の直しを行ったり、小さなものであれば包丁の研ぎ直しなども引き受けたりとした。芳賀なら人当たりの良さから、近所に留まらず何かしらの手伝いを引き受けてきて駄賃代わりに食材を分けてもらったり、館林ならその風貌の強面っぷりからそこに立っているだけで用心棒になるからと、もしくはその腕っぷしの強さを買われて荷運びの手伝いに駆り出されたりとした。

 一方討伐屋において紅一点の伽々里はといえば、本薬学の知識を用いて、薬師として薬を自ら調合し、必要とする者に届けたりとして稼いでいた。

 そんな彼等に対して春原討伐屋を収める春原千方といえば、まぁ出来て精々一つ。妖怪討伐そのものを得意などと豪語することはないが、相良曰く不器用を絵に描いたような男で、身の回りの事すら満足に一人では行えない、他に長けた事など人並み以下、ありはしなかった。

 することがない日は、日がな延々と馬鹿の一つ覚えのように模擬刀の素振りを続けるだけ。それで本当に一日を消費してしまう事もあるのだ。

 討伐屋の男性陣は春原のそんな姿を見て、何とも思いはしないのか。必要最低限の狭い世界で、知った顔の者と言葉を交わすだけの変化のない日々の中でも、彼が辛い思いをせずに過ごせれば良いと考えているようだが、そんなもの伽々里が許すわけがなかった。

 外と触れる事は必要である。今は一緒に過ごせているからいいが、いつ死ぬかも分からない、決して平和が保障されたわけでもないこの世。いや、そんな平和の保障など一生ありはしないだろう。明日か明後日か。十日後、あるいは一月。人間いつ死ぬかなんて分からない。自分たちのような理解者がいなくなって、それで春原が一人で、せめて過ごす事が出来るように教えてやる事をぐらいの事はしてやらねばと、それは彼女なりの優しさだった。

 過去にもそうして育てた者がいた為、何の疑問も抱く事なくそういった考えに彼女は至ったのだ。

 その為、何かと薬を届けに遠出をする際には、外を教える為に彼女は春原を付き添いに選んだ。外は危ないからと、相良が執拗にしがみつき止めようとするもお構いなしに。

『私を説得できるだけの考えを持ち出してから、どうぞ盾突いてください相良さん。』

『埋まらない年月がありましょうっ⁉︎』

 そんなの、伽々里の知った事ではなかった。


 そんなこんなで此度の道中も春原に同行をさせ、日本橋より甲州街道を進み、小仏宿を目指す事となったのだ。

 普段穿いている底のある下駄とは異なり、長距離の移動になる為草履へと履き替えたが、男性の一人旅とは訳が違う。歩幅も体力も異なる。二日三日、休み休みでも辿り着ける距離は伽々里が率いる事で小仏の地に到着するのには五日程、日を有してしまった。

 手紙を送り返してから十日後の事である。

 関所を通過する際、やはりどこか見覚えのある顔がそこにあった。一方的に懐かしんだところで相手が覚えていない事なんてこれまで一度や二度の話ではない。軽い会釈程度であれば不思議がられる事もないだろうと頭を下げれば、驚く事に相手は伽々里の名を口にした。

「長くお見掛けしていませんでした、お元気そうで何よりでございます。」

 なんと返したものかと考えはせど、それ以上話を進める事はしない。入り用でなければ昔噺の一つや二つ。華を咲かせても良かったろうが。小脇に抱えたそれを確かめた後、伽々里はキョロキョロと物珍しそうに周囲を見渡す春原を呼んだ。

「行きますよ、春原さん。」

「…分かった。」

 随分と大きな子どもにでも映ったのだろうか。年老いた隻腕の彼が少し微笑んだように見えた。






「予期せぬ再会というものは、長く生きていればあるものなのです。」

 馬を走らせて半日。

 まだ傷が完全に癒えたわけではない中、長時間馬上で体を揺すぶられるのは決して心地のいいものではなかった。しかし少しでも早く、彼女の、雪那の安否をその目で確かめたかった氷室は、休みも儘ならぬまま。それでも常よりもやや遅いぐらいの速度で榊扇の里から吉野の地を目指した。

 宿場町を抜け山道沿いの道に辿り着けば、あれから一月以上日は経過していようというのに、あの時の痕跡がありありと残っていた。寧ろどこか酷く、全てがそのままというわけではなかったが取り残された惨状が広がっていたのだ。

 そこから彼女が逃げ走ったであろう方角へと、改めて道を辿った。

 道中、恐らくは誰も葬ってやらなかったであろう彼等の亡骸と思しき物が散乱しており、あの少女同様に無いよりはマシな墓を立ててやった。顔を知った相手の最期を見て見ぬ振りなど、氷室には出来るわけがなかった。


 一目その“色”を見れば、直ぐ忘れることなどありはしない。

 雪那を探す際、その髪色はとても強い武器となった。

 紫色の髪をした女性を見なかったかと尋ねる以上に、分かりやすい特徴はなかったからだ。

 案の定それで得た情報を元に、氷室は吉野宿より日本橋方面へと馬を進めた。一月程前、丁度あの頃にそちらへ向かう姿を見たという言葉を信じて。

「随分、ご無理をされたんじゃないんですか?」

「無理もします。あの子の為です。」

「けど…「貴方も、」

 どこか労りの目線を向けてくる彼に、申し訳なささを感じながらも、氷室は和馬の言葉を遮る形で口を開いた。

「貴方でも同じ事をしたと、私は思います。」

 相模国と武蔵国の国境境にあたる小仏宿にて、目撃情報はぱたりと途絶えてしまった。。

 五街道を渡り歩く商人の多くは、宿場町を利用する機会が多いそうだが、街道を離れた周辺にも小さな集落や町というものは点在する。

 聞き得た話によれば、同じぐらいに目立つ“色”をした者と行動を共にしていたようだ。

 運良く優しい人に手を貸してもらえたのだろうかと考えが過ぎったが、だとすればはたしてこの先どこへ向かってしまったというのか。

 相手が商人の類ではない可能性をどこか考えた。

念の為に持たせておいた金の事もある。毎晩のように旅籠を利用したとしても十日ともつ筈がない。有り金だけを騙し取られ、人気のつかない場所で捨てられてしまったのではないかと、そんな最悪な事すら想像した。

 挙げればキリがない憶測を立て、しらみ潰しに周囲に転々と散らばる町を駆けずり回る。町と言っても小さな集落と然程変わりはしない。十分に傷口が悲鳴を立てていたが、そんなもの氷室には関係はなかった。

 そうして六箇所目にして、漸く彼は新たな雪那に関すると思われる情報を得る事ができたのだ。

それは小仏を南下した辺りの川沿いで、最近になって見慣れぬ一際目立つ“色持いろもち”の女性が住み着くようになったという噂話で。

走らせ続けた馬を休ませるのに立ち寄った茶屋で、耳にしたものだった。






 その存在を前にして、平然と振る舞う事がどうにして出来ようか。

 何も事を荒げるつもりは毛頭ない。人避けに焚いた香を軽く広げるように払ってみせれば、目敏く、相手はそれに気付いた素振りを示してみせた。

「なるほど、ボクじゃなくて周囲か。小細工でも、少々機転が利くのかい。嫌いじゃないよ、案外こういうの。」

 宙を漂う煙を尻目に、そんな言葉を溢す。なんとも余裕の伺える態度だ。やはり分は悪い。

 到底対等に渡り合う事など出来る筈がないと、分かりきっていたというものの。呼び止めるよりも早く、橋の上で交わされた光景を前に、駆け出してしまった男に続く形で伽々里もこの場へ躍り出てしまう事となってしまった。

 今も身を低く屈め、刀を抜き斬りかかりそうになる男を制するように。伽々里に出来る事と言えば彼の、相良の半歩前へと踏み出す事ぐらいだ。それさえも中々に度量のいる事だ。

本能が訴えかけてくる。の者に関わってはならない、と。

 この榊扇《里》では力弱き、自身と同様に妖と区分される存在が、里を守護せし水神の加護下の元、人間に紛れて生活を送っている事に当初はひどく驚かされたものだ。

 今は名も信仰も廃れ、それこそ人間と大差なくなってしまった自分もまた、その加護下に含まれる事を、良い隠蓑となると考えていたものだが、元は力を持っていた存在故に、町中でその存在を目にした時は驚きを隠せなかった。一目その姿を見た時から、あれは関わってはいけないとものだと理解してしまったのだ。頃にすればそれは丁度、かの水神の力が不安定になるとされる先の神無月の事。水神がこの地に、この里に張るとされる結界は、外に対して有効なものであるようだ。不安定な時期を見越しての侵入か。あるいは既にその存在を気付いている上で水神が見過ごしているのか。その真意など伽々里の知る由はなく。

 そしてそれが確信となったのは、昨晩の事だ。

この地ではない、他の地を治める土地神の口から聞かされた、あれの正体。

かつての朝廷や幕府とすら関りがあったとされる西の鬼の一族、それらを自らの手で葬ったとされる生き残りである、と。

 秋雨が降り続けたあの日、既に直接言葉を交わした事はあるものの、部屋の主には見えないと分かった上で向けられた表情は、今でも忘れられず時折夢に出る、ただただ悍ましい存在。

「でも残念。興味があるのはお前らじゃないんだよ。ボクが今話したかったのは、そっちの男だよ。」

 長い袂を揺らして、覗く指先が春原を指し示す。

「どうやら弥代にご執心のようだ。なんだい?その血にでも関係があるというのかな?気に、ならないわけがないだろぉ?」

 しかしそれも一瞬の事。

 争う気など伽々里には微塵もなかったというのに、相手の発言を受け、制していた筈の彼は刀を抜き、それに向かって勢い良く振り下ろした。

「お止めなさいっ、志朗っ‼︎」

 鋒は、何も掠める事のないまま。橋の上へと降ろされた。

 何も冷静でいろと言っているのではない。自らの身を危険に晒すような事をするなというだけで。自分から相手と距離を詰めてどうするというのだと、焦り上擦った声が響いた。

 

 くるり、と。宙において回転をした後、それが着地してみせたのは橋の細い手摺の上だった。

 器用にも、まるで猫のようにそんな場所で体勢を立て直す姿を前に、伽々里は再度相良を呼び止めるように声を荒げた。

「力量を見誤らないでください。貴方が勝てる見込みがどこにおありでですか。」

「関係ありません。春原さんに危害を加えかねない。私が刀を振るうのに、それ以上の理由があるはずがありません。」

 折れる事のないその答えを前に、彼を引き戻す術などあるわけがない。が、相良も馬鹿ではない。力量を測り損ねているわけでも、理性を失っているわけでもない。あくまでも牽制。効果が十二分にあるとは思っていないが、せめてもの虚勢。不意打ちのような一撃すら掠りもせずに避けてみせた相手に、それ以上の追撃を行うような愚かな事はしない。後ろ姿だけだが彼が相手を強く睨みつけているであろう事が分かった。

 今の相良は普段以上に過敏だ。

恐らくは館林から此度の津軽での経緯いきさつを聞く中で、春原の血筋に関する話題を向こうが触れてきた事が原因だろう。対峙した相手に仲間と思しき者はおらず、小雨坊と名乗った妖怪のみが知り得ていたと思われるが、同様に知るものがいるとすれば、それは春原に牙を向きかねないと、相良は誰よりも危惧しているのだ。

 時間を空けず、再び耳にする事となったその話題を前に。相良志朗という男が、冷静さを欠いたような行動を取ってしまったのは、どこか仕方のないのかもしれないと、しばらくして伽々里は思い至った。

 が、理解できたと納得は別の話だ。

 震えそうになる体を抑えるのに必死で。本来なら無理やりにでも彼の首根っこを掴み、春原共々この場を早々に立ち去りたい。

 動揺を、必死に隠した気になる。

それさえ、きっと相手には見透かされている事だろうに。

弱き立場に立たされ、こちらから仕掛ける術は何もないと思われた、そんな時だった。立ち込める煙の中、人の寄りつけぬ筈の今この場所に、踏みいる者達が現れたのは。

「酷い話です。こちらが話したいと言ったのに勝手に終わらせて。その上、他所でこんなにも。流石に、身勝手にも程がありましょう。」






『伽々里…様?』

 茶屋の隅の席で食事をする二人組。その片方、女性の後ろ姿に氷室はどこか覚えがあった。

 決して後姿のみで覚えがあると確信をしたわけではない。聞こえてくるその小言とも取れる声が、あまりにも聞き覚えがあったのだ。

 余計な道草を既に道中食わされた後であり、これ以上時間を掛けたくなかったというのに、長時間の馬上での移動を含め、痛みで意識も徐々に朦朧とし始めた頃、夢か現実か。それさえも曖昧になりつつ中で、意図せず。記憶の中の女性の名を口ずさんだ。

 振り返ったその姿は、どうしてかやはり氷室の記憶の中にあった彼女そのもので。二十年程昔に顔を合わせたきり、一度もその姿を見ていないのに何一つ変わらぬその姿に、やはり夢なのではないかと思えた。

『懐かしい顔を、今日は多く目にしますわ。ご無沙汰しております氷室さん。』

 同席している年若い男は、氷室に目などくれず静かに蕎麦を啜る手を止めはしない。が、振り向き返事を返す伽々里には目線を送っていた。


 痛む傷口を服の上から押さえ込めば、一部血が滲むもので、塞ぎかけていた箇所が開いてしまった事が分かった。

声を掛けた相手が本人であった所で、何もそれ以上話をする考えなど当然氷室は持ち合わせておらず。一気に境を失ってしまった。

『お怪我を。あまり勧めはしませんが、丁度薬を持ち合わせております。一度きりとお約束いただけるのでしたら、一服お譲りいたしましょうか?』

 頼まれ持ってきた薬を、予め多めに用意していたのだという伽々里。軽い手当を含め、氷室は彼女の厚意を受け取る事となった。

「伽々里様言うのは、えっと…?討伐屋の?」

「……そうです。たしか今年で五十程、でしたでしょうか。」

「ご、五十っ⁉︎えっ、わ…ご、えっ…⁈」

 口にしてしまった手前、下手に誤魔化すような事は出来ず。つい気を緩みすぎてしまった事を悔やみながらも、これ以上必要以上に詮索をされぬ内にと、氷室は話を進めた。



 痛みをある程度紛らわす事が出来るのだと、煎じられた薬は直ぐに効果が出るような事はなかったが、一刻もする頃には言われた通り、ある程度気にならなくなった。

 全くなくなったわけではない。あくまでも一時的なものだ。少々依存性が高く、継続的な服薬は間違ってもしないようにと念を押された。

 どうしてそのような物を多くこの地に持っていたのかという疑問は、茶屋の奥から出てきた主人の欠けた四肢を見てなんとなく察しがついた。

『なくては生きれなくなってしまう人も、いるのです。歯痒い限りです。』

 暗に、貴方はあのようにはなるなと言われた気がした。

 その後落ち着き、意識がしっかりしだした頃、氷室は一方的にではなく伽々里に対して、この地に自分がやって来た経緯けいいを話した。話したところで手を貸してもらえるなど甘い考えだとは思ったのだが、それは間もなく違う形で叶えられる事となった。

「…どういう意味ですか?」

「そうですね。ここまで話しておいて省くのは少々難しい事です。簡単に申しますと。」

「申しますと…?」

『……春原さん?』

 今も昔も。決して取り乱す事のなかったように思える彼女の震えきった声に、ふと氷室は顔を持ち上げた。

 伽々里と再会してからすっかり時間が経ってしまい、日も少しずつ傾きだしたように思えた頃。流石に日のない内に馬に乗って森の中を進むのは無理があると、少し戻った町に小さな宿があった筈だから、せめて馬だけでもそこに預けて探しに一人で出向こうとでも考えていた時だった。

 彼女の近くに控えていた筈の、年若い男の姿が見えなくなっていたのだ。

「まさか…」

「…まさかもまさかでございます。」

『目を離した隙にいなくなるなんて…子どもじゃありませんし…あり、…ますね。』

 知らぬ表情だった。

 直接関わり合う事はなかったものの、屋敷の中でその姿を目にする機会は幾度もあった。

 扇堂春奈に薬を用意していたのも彼女な為、東の離れへと大きな箱を抱えて訪れる事も多く、部屋の隅でじっとその光景を見たが、一度も目にした事のない彼女がそこにはいた。

 二つ。彼女が大きく手を叩くと。茶屋の外、林道からどこからともなく姿を見せる三人の男たちの姿が。

『…そちらの方々は?』

『放任が出来ない、過保護な悪い大人達です。』

 自分たちの仕事を丸投げして、時間の掛かるここまでの旅路、野宿を繰り返しながら馬鹿馬鹿しい事に着いてきてしまったという男たちは、悪びれた様子なく口を開いた。

『何を仰いますか伽々里⁉︎事実春原さんがいなくなってしまったんです!私たちが着いてきて良かったでしょう!なんたって探す人数は多いにこした事はありません!』

『人さがしに心得が貴方はありませんでしょう?』

『やっぱり伽々里さんは手厳しいなぁ‼︎大丈夫ですよ!春原さん探すのなんて朝飯前です。』

『申し訳ございませんが芳賀さん?朝飯前と言いますが、それでしたらいなくなる前に止められたのでは?』

『坊も一人になりたいお年頃なんでせぇ。』

『そんなお年頃があってたまりますか。』

「討伐屋は…賑やかな人ばっかりですね…。」

「絆があるのでしょう。わざわざ店を留守にして、後ろから着いていく程です。」

 しかしそんな四人の手を借りての捜索は、夜が深くなる前に終わりを迎えた。乗馬の経験があるという相良の手を借りる事で翌日の昼過ぎには、屋敷のある榊扇の里へと辿りつく事が出来たのだ。

「後ろの方は、随分とまぁ、ざっくりしとりましたね。」

「私が直接何かを出来たわけではありませんから。」

「……それで、屋敷に戻ってきて、雪那ちゃん、どうしたんですか?」

「雪那は…、」

 それは今後。今後彼女と接していく上で重要になる事は間違いないが、事細かにここまで話しておきながら、氷室は素直に話す事をどこか躊躇してしまった。

 本当に彼に話していいものかと、考えてしまったのだ。彼は、和馬は信頼における。長い間八年にも及ぶ間、雪那に伝えたかった言葉を抱えてきたのだ。途中、忘れても誰も怒らなかったろうに。許されたろうに。それでも抱え続けた。傍から見て、それは愛と呼んで差し支えはない事だろうと氷室は考えていた。

 中々に繊細な話だ。それこそいつの日か、彼女自身の口から彼が聞かされたとしてもおかしくはない事だろう。だが、それなら尚の事。少しでも彼には、やはり彼女の事を知っておいてほしいと思うのは、はたして自分の我儘だろうか。時間にして一瞬。それでも氷室の中で行われた長い葛藤の答えは、分かりきったものだった。

「雪那は、」

 耳にしなかったわけでは、決してない。

『死にたい、』

 庭に降り、蹲るかのようにそんな言葉を口にした彼女を目の当たりにした、逆上した神仏が雪那の首に手を掛けた光景を、誰よりも氷室は目にしていた。

 直ぐ意識を手放した彼女を抱き留め、何事もなかったかのように、何も聞かなかった、見なかったフリをして横に寝かしつけた。

 くっきりと残った首筋の痣に、触れることなが許されるわけもなく、ただ、見守った。

 傷だらけのその幼い体を抱きしめて、泣きじゃくる背中を軽く摩った。

 夕暮れの中、小さくなる彼らの背中を見つめながら何かに気付いてしまったのだろうその横顔を、遠くからただ見つめた。

 憂い気に、それでも眠りの挨拶を述べてくる彼女に、変わらぬ言葉を返した。

 肌寒い夜風がまだ強く吹き付ける中。高い屋根の上でただ、ただ叫ぶことしか、これまで想いを吐き出す事が出来なかった、ずっと飲みこみ続けてきた彼女の、精一杯の言葉に、必死に耳を傾けた。

 避けてきた。

 これまでずっと、ずっと。

 直接手を差し伸べる事は許されないと思っていた。

 ただ傍らでその成長を見守られればそれだけで良いと考えていた。

 けど、そんなのはただの甘えだった。

 本当はもっと寄り添ってあげるべきであった事を、その瞬間やっと理解した。

 たとえ気付かれ拒絶されるその時が来ようとも、それを含めて許されない覚悟を持って、寄り添わねばならなかったのだと、ようやく気付かされた。

 何度も、何度も、何度も、何度も。

 言葉を飲み込んでは、何か言いたげな目をする。まるで彼女の、春奈と同じその姿を前にして、どうしてそれで良いなどと思えたのか。自分がずっと、春奈に重ねて彼女を見ていただけだった。

 彼女が、雪那が自らの意思で落ちたとして。その身を抱き留める資格が、自分にあるのだろうか。彼女の告白を耳にして、自信を失った。それは本当に彼女にとって救いと呼べるのか、本当に正しいことなのかと、疑問を、抱いてしまったのだ。

『死にたい、』

 神仏がその喉に手を掛けた時、それを止めた事自体が間違いであったかさえを、氷室は考え、ひどく後悔した。

 でも、でも…

「私には、結局何も出来ませんでした。」

「………。」

「私ではない。あの子を、雪那を救ってくれたのは私ではありません。」

「…。」

「私は、何も救えませんでした。」

 差し伸べられた手を、向けられた言葉を、彼女は正面から受け取った。

 何事もなかったように。氷室は何も知らない顔をしてこれまで通り、彼女と弥代の姿を見遣る事しか、出来なかったのだ。






「どうしろ、ってんだよ…」

 一人取り残された家に、弥代のそんなぼやきが響いた。

 何もそんなに広くはない家の中、響くはずもないのにすっかり静まり返ったそこには、そんな声一つどこか響いたように錯覚してしまう。

 先に家を出ていった詩良を追うように、暫くして古峯兄妹もまた外へと出てしまった。

 出ていく際にまた日を改める旨を言い残していた為、今日はもう戻ってくることはないだろう事は分かったが、ただそれだけだ。

他は何一つ、分かりやしない。いや、分からないことだらけだ。

 津軽へ向かう前に交わした言葉から彼女が、詩良も自分と同じように鬼であるという想像はついていた。

 だが、先程行われた双方の会話は、到底弥代の考えていたものからはかけ離れていた。

 事前に朝のうちに、屋敷へ向かう道中に夕暮れ時にでも話に立ち寄ると言われていた為、一々驚くような事はないと思っていたのだが、内容が内容だ。もし分かった事があるとすれば、それは自分がどれだけ事を理解できていないかという点のみだ。

「どんな態度が、普通だったんだろうな…」

 時折、詩良の言動には肝を冷やすことがあったが、今回はそんなものではなかった。

 先の神無月、人が亡くなることはなかったものの、天地を揺るがす程の雷を降り注いでみせた、土地神として崇められる存在を前に。あれ程の態度で言葉を並べるのだから、でまかせなどという事はないだろう。

 鶫が言葉を渋り、神鳴が間に割り込むように口を開いたのだ。まるでそれ以上彼女の機嫌を損ねないようにするかのように。四半刻にも満たらない僅かな時間だというのに、のしかかったその重圧は、耐えられるわけがなかった。

 弥代自身、これ以上は堪えられないと思った頃だった。その話が半ば無理やりに終えられたのは。

 こちらの限界をまるで悟ったとしか思えないような中途半端な終わりは、

「気ぃ、遣われたのかな。」

 だとすれば、余計に次どのような顔をして会えばいいのか分からない。

 分からないことづくめで頭を抱える。

 そんな事したところで、何の解決にも繋がりやしないのは嫌というほどもう分かっているはずなのに。

 トントン、と。

 暫くして、戸を固く叩く音がした。弥代は恐る恐る顔を持ち上げた。

 詩良ではない。

 夕暮れ時、木板で出来た扉越しに影など映るわけがないが、何か固いもので叩いたような音は、彼女のものではない事が分かった。

 こんな時刻に誰が訪ねてくるものかと考えながらも、弥代は迷わず戸を開けた。






「厄介な連中しかこの里にはいないのかい?」

 その登場は、それだけで強い牽制となった。先ほど相良が取った行動を大きく上書きするかのように。所詮、力なき人間の噛みつきは、妖怪には意味など為さないのだ。

 何をする気も失せたかのような、諦めを含んだ声色が響くのに、その場に居合わせた者の誰もが(一部を除き)安堵した事だろう。

 人避けの香にだって限度がある。あまりにも大きく荒立ててしまえば気付かれずに済ませられるわけがない。既に声を何度か荒げただけでも、気付かれてしまうのではないかと伽々里は気にしていたが、これを好機と言わんばかりに再三相良を呼び止めた。そしてやっと彼がその刀を鞘に収めた。

 背を向ける事の無いまま、一歩一歩後退してくる背に向かって普段通りの小言を零す。

「橋の傷は誤魔化せませんよ。どうされるのですか?」

「板一枚の交換でどうにかなりましょう。私で賄います。」

「誰が出すかの話など、誰もしていません。」

 手を伸ばせば裾を引ける距離になる。再び、相良を庇うかのように伽々里は前へと歩み出た。

「何だよ何だよ何だよ?ボクは何かい?おじゃま虫みたいじゃないかい?ボクがいけないの?何もしてないじゃないか。何も誰も彼も、ほんの少しだって傷つけたかい?止めろよ。そんな、そんな悪者みたいに扱ってさぁ…、」

 古峯の下が、どこまでも冷ややかな視線を向ける中、それは口を閉ざさない。まるで聞く耳を端から持ち合わせていないかのように、大袈裟に声を上げる。

 誰も、遮ることを許さないとでも言いたげに。

「弱い奴等は群れることでしかでかい口を叩けやしない。自分たちが強くないと勘違いでもしなきゃ、何も言えやしない。だから見て、ほら?途端にこれだよ。やってられるかい?やってらんないねぇ。なにも悪さしてないのに、こんなに非難の目を向けられなくちゃいけないんだ。悲しくて泣きそうだよ。あー、辛い辛い。」

 述べられる御託は勢いが収まることはない。

「大体ボクは今日はお前ら鴉風情と話す気はないから、あの場から立ち去ったっていうのに。わざわざついてくる必要がどこにあるってんだよ。話す気がないって察しろよ。おつむの方まで鳥なわけ?立派な見た目のわりに残念な出来だねぇ。お前らも本当になんなのかな。ただ話しかけただけで、刀を抜いてくる馬鹿に、力もないくせして前に出てくるのに必死な間抜け。ろくな奴がいないじゃないか。くっだらない、本当にくだらない。そんなに帰ってほしい?お望み通り。気が変わったよ。変わりもするよねこんなの。腹立たしいったらありゃしないよ。」

 そうして徐々に、その足は今しがた自分が来たであろう方角へと向き出す。

「逃げるのですか?」

「逃げる?舐めた事吐かすなよ?ボクは優しいから、お前らを見逃してやるんだよ。寛大なボクの心に感謝しろよ。ボクは考えたんだ。利口になったんだよ。やり口を変えることにしたんだ。まぁ、ちんけなお前らの頭じゃ理解できないだろうけどね。」

「ボクは、弥代のお姉ちゃんだから。」

「弥代が悲しむような事は、しないだけさ。」

 立ち込めた香のけむに巻かれるようにして、消えゆくその姿。

 ただどうしてかその声色は、最後だけとても優しいものであった。



「石蕗の、兄ちゃん。」

「やぁ、弥代君じゃないか…。あぁ、君だったんだね。てっきり、いや、人の気配はあったんだけど彼女かと思って、その、突然ごめんね…、」

 なんとも歯切れの悪い言葉で謝罪を述べたのは、同じ長屋横丁に住まう、物書きの青年だ。

 弥代の事を男と今も勘違いしている一人だが、わざわざその程度の勘違いを正すこともない。女であると思われ接せられる方が得意ではないし、こんな男同然の態度でいるのは女であるより幾分かマシな事が多いからな部分も大きいからだ。今更、取り繕うような事はしない。

「彼女……あー、詩良の事か?そういや、会ったこと、あっ、あんな。あの晩、そういや俺が頼んだんだったわ。」

 雷が激しく落ち続けたあの晩、一人家の中に残しておけず。その手に彼女を掴ませた事を弥代は思い出した。

「で、詩良?あいつがどうしたんだよ?」

「あ、…あぁ、いや、別に急ぎという訳では無いんだ。ないんだけど、もし出来たらその、これを、渡しておいてくれないかな。」

 右手に握りしめられていたであろうそれを前にして、弥代は少し驚いたような反応を示した。

 それは櫛だった。やけに細かい模様が彫られており、縁はパッと見でもムラのない艶やかな漆塗りが施されているもので、そういった装飾品をあまり知らない弥代でも、それがそこそこ値が張るものである事が分かった。

 記憶違いでなければ石蕗青年は既に両親を亡くしていて、少ない貯蓄で趣味の物書きに没頭しながら細々と過ごしていた筈だ。これ程の品が、二束三文で手に入るとは考えづらい。

 問えば、ただ一言。

「彼女に、似合うと思って。」

 疑った。本当に目の前にいる男は、自分の知る石蕗青年であるかを。少なくとも弥代の知る彼は、こんな、こんななにかに溺れきったような憔悴しきった表情はしなかった。といってももう半年近くその顔を見ていなかったのだが。が、憔悴しきって尚、陶酔し続ける様はあまりにも異様だった。

「石ぶ…」

 頭が追いつかないでいる間に、彼は足早に立ち去った。同じ横丁住まいなのだから、何もそんな早足で立ち去る必要などどこにもありはしないはずなのに。

 弥代は、掛ける言葉を見つけられなかった。






 一頻り話し終えた氷室は、途端に居心地が悪そうに身を屈めた。そんな彼を尻目に、和馬の中にあった疑念。いや、正しくは一つの可能性はしっかりと芽吹いてしまった。

 それを言葉にするのは憚られたが、彼のこれまでの話した内容が、その態度が、抱いたとされる思い全てが答えだった。

 この八年もの間、自分の知らぬ彼女の傍らで、彼はどのような気持ちで居続けたのかを考えれば、それは、きっと誰にも、何も言える資格などありはしない。

「…ありがとうございました。話して、くれて。」

 せめてもの感謝。それぐらい述べることは許されてほしいものだと。ただの押しつけになろうとも、和馬は掛けずにはいられなかった。

「そろそろ、雪那も出てくることでしょう。食事の、準備に参りましょう。」

 不器用な、男だと。そう和馬は感じざるをえなかった。

 彼は、雪那はずっと言葉を飲み込み続けていたと言っていた。それはきっと、彼女以上に飲み込み続ける人を見て育ったからだ。無意識だろう。当人さえ気付く事がなければ、それは気付ける筈がない。自覚がないのだから。

 話す間も、何度か言葉を詰まらせていた。その度にどこか遠くを見つめて、開いた口をぐっと強く閉じて、何事もなかったように次の句を紡いでいく。

 彼女を救ってやれたのは自分でないと、彼は口にした。

 はっきりと、そう口にした。

 けれどもと、和馬は思う。

(結果的に。雪那ちゃんを救ったのは弥代ちゃんかもしれない。しれないけど、けど、でも、)

 自分がこの屋敷から、この里に立ち寄ることが出来ないできた八年もの間、その間彼女の心の支えとなったのは間違いなくこの氷室だ。

 雪那の年齢からすれば半分にも満たない時間かもしれないが、心に大きな傷を負った彼女を、必要以上に触れることなくそっと寄り添ってくれる存在が一人でもいたから、今日まで彼女は生きてこれたのだと思う。

 彼女が初めて明確に口にしたという、あの言葉。それさえも。溜め込んでいた思いの一片だとしても、それが今まで出てこなかったのは、

(紛れもない、貴方のおかげだ。)

 面識のあった乳母は、一つ前の夏に先に逝ってしまったと聞かされた。互いに言いたい言葉はあったと思うが、乳母亡き後も、変わらず彼女を支え続けた彼という存在を知ることが出来た。

 雪那の母、春奈の頃から乳母・葵が務めていたとするのなら。唯一、全てを見てきたであろう存在はもういない。だから、その芽吹いた疑念の答えも…。

 実に、悲しいことだ。

 そして、

(うた…)

 話の途中、氷室は念を押すように、和馬にその名を口にしないように告げた。

 乳母・葵の孫にあたる、年端もいかぬ少女だったらしい。

 吉野の山道沿いにて絶命したとされる、顔の知らぬ下女。

『約束をしてください。雪那に、その名前を何があっても聞かない、と。』

 これらは全て、憶測に過ぎぬ話だ。



「姑息な手、随分と使うようになったのぉ兄弟…。」

 すっかり暗くなった、夜の帳。

 明日も朝が早いというのに、夕暮れ時屋台を引く際、こそりと渡された伝言の記された切れ端から、来ざるをえなくなった彼は、ようやく訪れた、自分をここに呼び出したであろう男に向かって声を掛けた。

 暗い夜だというのに、天上にはこれまた随分と立派な月が鎮座している。まるで双方の一年ぶりの再会を祝福するかのような。前に会った時、強く殴られた頬が傷んだような。錯覚を覚える。

「いつ、私と貴方が兄弟になったと?冗談はおよしください。」

「同じ女取り合った仲やないか。それで十分や。」

「…戯言を。」

 最後に彼女を見たのはそれこそ二十年以上前だと言うのに。それでも物腰の柔らかい男のそれは、どことなく彼女を連想させた。彼女の元で長年過ごしてきた彼にとって、彼女の立ち居振る舞いが手本となっていた事を、久方ぶりの再会で知らされることとなったが、懐かしさで胸がいっぱいになる一方で、長年腹の中に留めていたものが今更微かに熱を宿す。どうしようもなかった事など分かりきっているのに、どうしても許せないという思いがあるのだ。

「それで、こんな色男を夜に呼び出してなんや。もてなしてでもくれんのかい?」

「望まれるのでしたら、ご用意いたしましょう。」

 男は、自然な流れで彼を橋の上から対岸へと誘う。

「どうぞ、こちらへ。」

 水路には、夜風に乗って遠く運ばれてきたであろう桜の花弁がぷかぷかと浮いていた。風流とまではいかないが、中々乙なもので。男が訪れるのがもう少し遅ければ、散ってしまったそれをもう少しの間眺めていたいと思ってしまう程には、どこか心を奪われていた。

 


 案内をされたのは夜半であることを忘れそうになるほど、煌びやかな灯りを点した料亭だった。

 周囲にも今も煌々と点る宿屋のようなものが立ち並んでいるが、その中でも一際派手な外観をした店の暖簾を、男は何食わぬ顔で潜った。

 最近は身なりをそこそこ手入れするようになったものだが、これほど敷居の高そうな店を自分のようなものが跨いでもよろしいものかと考えあぐねていると、店脇に控えていた男がわざわざ暖簾を持ち上げ、彼が中に入るように託してみせた。

 初めから断るという選択はなかったようだ。

 土間の先、深々と頭を垂れた老人が、二人を出迎えた。

「お待ちしておりました氷室殿。部屋の準備は出来ております。どうぞ、お上がりくださいませ。」


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