五話
天井から吊るされた笊の上には、壁際に寄せられた戸棚には収めきる事が出来なかった、私では到底知るよしもない植物が乗せられている。すっかり乾涸びてしまったものから、ややまだ水気を残しているものまで、多種に渡った。
これらは全て、部屋の奥まった位置。日当たりの良いそこに二回り程小さな受け皿を並べながら、外を見遣る男の私物だ。勝手に触れようものなら、それこそ悪童のように目つきを鋭くさせ、手の付けようがないこどものように癇癪を起こすものだから、こっそりと気取られぬよう。男の意識がこちらに向く前に早く、変わりに頼まれた桶を置いて帰ろうとしたのだが。運悪く視野を遮る笊を、半ば無意識に手で軽く払ってしまった。
男が、反応を示した。
恐らくは、自分が部屋に踏み入ったその時から気付いてはいたのだろう。気付いた上で、関わらぬように背を向けていたのやもしれない。向けられるその視線が、強く代わりに物語るのだ。
かつての彼の師を彷彿させるかのような。鋭い、獲物を逃さないと言いたげな捕食者の眼を目の当たりにするも、しかし恐怖心というものに縁はなく。抱く必要のないものを、抱けるだけの心のゆとりなどある筈がない。
なにぶん、彼のその自分へと向けられる態度は今に始まった事ではない。もうずっと昔から、長い間向け続けれるその眼差しに、今更何を感じようものか。もし感じるものがあるとするなら、それは懐かしさではないだろうか。
そのような事を言おうものなら、それこそ彼は直ぐに腹を立てる程、私の事を嫌厭するものだからぐっと堪える。
そうなのだ。私と彼は傍から見ても、どうやら相性が良くはないらしく、何かと幼い頃から彼を怒らせる事が多かった。
それは、今も変わりない。
「お加減は、いかがでしょうか。」
せめてもの気持ち。それぐらいの質問ぐらいは許されていいのではないかと余計に口走ってしまう。折角こちらを見てくれたのだ。一声掛けた程度で、不快な部位を撫でられた猫ではあるまいし、怒りを露わにすることはないだろうと考えるが、やはり彼の視線は言葉以上に多くを物語る。
下女に託された空になった桶を、脇の空いている台座に置く間も、向けられる敵意が逸れる事はなかった。
人目が他にあれば、まだ幾分か違った反応が返ってきたことだろうが、そうもいかない。
早くこの場から立ち去れと、言わんばかりに。ここまで邪険にされていて尚、私という人間は彼にまだ構おうという気持ちが薄れないのだから、それを何と呼ぼうものか。この場にいるだけで、きっと彼の癪に触れてしまう事がよく分かった。
原因など、聞かずとも分かる。
これはきっと、他の誰よりも私を許しはしないだろう彼に、罰せられる事を望んでいるだけの私の独りよがりなだけで。彼からしたらやはり迷惑な行為なのだ。向けられる敵意のその正体を誰よりも自覚しているからこそ、それを私は求めているに過ぎない。彼が煙たがるのも当然納得がいく。だというのに。
「何の、用ですか…。」
地下牢での出来事を思い出す。
直接的な影響が出たわけではないが、あの晩をきっかけに徐々に何かが変わりだしたのは間違いない。最も屋敷から離れた位置にある南側では、最近何やらきな臭い噂が立ち込めているそうだが、それは今は関係のない事。
あの晩、地下牢で彼が私以外に向けた事のなかった眼差しを送るのを、私は見ていた。
彼が、あの子どもを今もどのように考えているかなど。長い付き合いであるのだからわからないわけがないが。
しかし、恨む憎むのは違うと断言が出来た。
(貴方が恨むべきは、私だけだ。)
「…戸鞠より、預かったものです。どうぞ、無理はなさらぬよう。」
まだ激しく動く事は出来ない。それでも慕う下女を顎で使う事で、なんとか思うように薬の調合をし未だ意識の戻られない、決して状況が芳しくはない大主の状態を誰よりも気遣っている彼。関与する隙など、与えられぬ。
どう言葉を掛けるのが正しいかなど、四十、五十と歳を重ねた程度では答えなど分かる筈がなく。これが果たして正しいのかさえも分からぬまま、それでもどうにか歩むしかない。
その眼差しが、私に向けられる事を私は誰よりも望んでいるはずなのに、これ以上同じ空気を吸えるとは思えず、逃げるように私は部屋を後にした。逃げていい立場でないことなど私自身が一番分かっているのに。私の罪を、私の罰を、浅ましい感情に駆られた末路を、その結果を。
彼の部屋を後にしたその間際、どこかで私の名を呼ぶ、彼女の声を耳にした、そんな気が、した。
それ一つを、今になって問題だと持ち上げる事はしないものの。少々困ったものだと、細く息を吐き捨てる。
時間が全てを解決してくれるなんて都合のいい事は当然ありはしないが、そうはならないものかとどこかで願ってしまう。先ほどまでの暴れようを見てしまえば。
「お帰りになられましたか?」
「えぇ、それはそれはもう…同じぐらい臍ひん曲げて…」
「厄介極まりないですね。」
すっかり皺が寄った着流しを正しくながら、肩を大きく回す和馬の頭髪には、彼自身は気付いていないのだろう。庭に植えられた桜の木から零れ落ちただろう立派な花弁が混じっていた。元の薄い色と、彼の生成色のような髪ではよく目を凝らさないと見分けが中々付かず。取ってやった方が親切だろうとでも考えたのか、氷室が腕を伸ばせば、まるでその意図を汲み取ったように和馬は頭を差し出すような体勢を取ってみせた。
「…、」
「あれ?ちゃいました?何か頭取ってくれるんやとばかり…、」
「間違ってませんので、そのまま動かないでください。」
柔らかい毛先の間に滑りこんだであろう花弁を数枚、反対の掌に移してみればそれだけで一蕾分はあろうかという量だった。
取り終えたその後、それをどうするか考えてなかった氷室は縁側の縁にそれを寄せてみせた。
「なんか意外です。氷室様、そういうの直ぐ捨てちゃうかと思ってました。」
「和馬さんは、私を何だと思っているのでしょう。折角美しいものを、無理に地に帰す必要などどこにもありませんでしょう。」
そう返す言葉だけでは、どこか幼稚な我儘のようではないか。腰を下ろし、袴の布地の上に今し方摘んだ花弁を広げれば、指先で挟みくるくると弄んでみせる。
「桜、お好きなんですか?」
「私が、ではなく。かつての主人が好いておりました。」
氷室という男は、分からない男だ。
妙なところで話を区切る。話したくない、触れられたくない話題など誰にだって存在して当たり前だというのに、その線引きがどこか曖昧だ。
現に、和馬はこうして対面してみて思う。
(てっきり、話さないと思ってた。)
榊扇の里に、扇堂家の屋敷で暮らすよりも以前から。自身が長年和解することの出来ずにいる藤と扇の血を引く存在である事を和馬は理解していた。神無月の頃はまだ、この身に流れる藤原の血のせいもあり神仏・水虎からの呪いとも呼べる激痛に常に苛まれていたが、それも今はない。
全てを受け入れられているというわけではないが、受け入れられずとも薄々と勘づくものはある。白鴉の件だってそうだった。和馬はどこか、そういった勘が人よりも少しだけ優れていたのだ。
かつての主人。それが示すのは間違いなく彼女の、雪那の母親の存在だ。
雪那が右目を失った八年程前。それ以前から藤原より扇堂家に、そう正に今のそれに近しい状況のように匿われていた頃はその姿を目にする事はなかった。
自分が藤原へと戻った後、この屋敷に現れたという氷室は、雪那の母親・扇堂春奈が亡くなった直後まではこの屋敷で暮らしていたそうなのだ。昔乳母をしていた下女が、そういえばそんな男がいたのだと思い出話をしていてくれた記憶もある。間違いはないだろう。
二十年程前、この里を襲ったとされる火災で亡くなったとされる、扇堂春奈。雪那の実の母親。その人物がどのような人であったかを和馬が知ることは当然ないが、恐らくはその主人に仕えていたであろう彼が、氷室が一番彼女の事を知っているのではないかと、和馬はそう考えていた。
「差し支えなければ、どんな人だったんですか?」
期待なんてしていない。会話の流れで出た自然な問い掛けだったが、彼は困ったように小さく笑ってみせた。
「…えっ、いや意味分からねぇ?」
「ボクもイマイチ意味が分からないよ。どうしてボクと弥代の愛の巣に、知らない女と木偶の坊を迎え入れなくちゃいけないの?」
「知らねぇ男連れこんでたのはどこのどいつだ?」
今の弥代は極めて短気だ。理由など言わずもがなもう分かりきったこと。古峯の二人と和馬とで肩を並べ扇堂家の屋敷へ赴いたというのに、肝心の用件があった相手にあんな子どもじみた、呆れ返るような対応をされたからだ。知らない仲ではないし、一発殴りでもしてやろうかと思えば、本気で殴るわけでもないというのに全力で和馬に羽交い締めにされ邪魔をされるなど。昨日の怒りとは別でもうご立腹という状況だ。
だというのに、これはどういう事か。
朝方、神仏・水虎と話があるのだと屋敷の敷地に踏みいるや否や姿を見なくなった二人が、教えてなどいない筈の弥代の住まう長屋に顔を揃えて訪れたのだ。
討伐屋で別れてから、無理やり約束させた通り部屋を片付けたのだろう詩良が不貞腐れた表情をするも、何もそこまで変わりはない。
「だからアレは、寂しかったから仕方なくだもん!」
「何がもんだ…、引っ掛からねぇぞ俺は。」
狭い長屋の部屋に、四人も寛げるものかと思いはしたものの。案外部屋に招き入れてしまえばそこまで手狭に感じることもなく。思えば右隣の長谷一家は子どもだけで六人はおり大家族だ。それが住めるだけの広さは、少なくともあるのだなと改めて弥代は感じた。
「茶の一杯でも出せりゃ良いんだけどよ。んな洒落たもんうちにはなくて、ごめんな鶫さん。」
「いえいえお構いなく弥代様。あまり長居をするつもりはありませんので。」
どこであろうとその佇まいが変わる事はない。しゃんと伸びた背筋で緩やかに会釈をしてみせる白い少女は、こんな古ぼけた部屋でも相変わらず綺麗だ。
対して横に並ぶ彼女の兄は…、
「その方の意志を、確認しに来ただけだ。」
会釈など縁程遠い。無愛想な萌黄色の双眸が向けられるのは、意外な事にも弥代ではなく、弥代の姉を名乗る彼女・詩良だった。
「意志?何の事かな?」
「弥代様のお姉様などと名乗るのです。偽る必要がどこにありましょうか?」
それは、弥代も想像していた事だ。
「お前ら不勢に口出しされる義理は、ボクないと思うんだよね。」
いつぞやにも感じたであろう、冷ややかな空気が一気に広がる。この場において、まさか自分が話の要点を理解出来ない立場になるなどと、弥代は考えてもいなかった。薄ら腹の探り合いをするかのような二人の、口下手な兄の代わりに口を開く少女と、彼女を見遣る。
「一度は弥代様をこちらで迎え入れた身。一概にもう関係がないとは言えない状況なのでございます。ご理解くださいませ。」
「かしこまった態度がお得意のようで。透けて見えるなその魂胆。白いだけあってバレバレだよ。」
「“色”は、今は関係はないでしょうに。私共兄妹は、貴女様が何の為に弥代様の傍にいようとするのか、それが今後こちらにどのように影響を及ぼすかを懸念しているだけにございます。」
「生まれたてのまだひよっこの分際で、そんな事気にしてどうにかなるのかい?今後なんて先の事。気にする余裕があるなんていい御身分じゃないか。今だけ見てろよ、格下。」
「まぁ…なんと口が悪い…。」
その姿はあまりに、弥代の知る彼女からかけ離れていた。自分に対して媚びたような態度を取り、口喧しく構ってくるばかりの、知った彼女とは異なる。
自分の双子の姉などを名乗るのだから、彼女もまた自分と同じ、今はもう亡き北の彼とも同じように“鬼”であるのだろうと思いはしていたが。五十年も人ならざる存在として、下野国の、古峯の地で神として崇められてきたであろう存在を前に、はっきりと物応じせず述べてみせる、寧ろ牽制をするかのように強く出る姿に、核心を抱いた。
いっそ不遜とまで見て取れるその態度と、吐き捨てられた“格下”という、下に見た言葉。一瞬でも弥代は、彼女に畏れを抱いた。
「つまり、なんだ。西よ。それは我等の地には害を齎さぬと汲んで、間違いはないのか。」
鶫が次の言葉を発するよりも早く、神鳴はやや性急にそう訊ねた。
「鶫はそうは言うが。己はあの地に害が及ばぬのであると、その言葉を聞ければそれで構わない。」
「分かりやすく良いなお前?妹はただ口が達者なだけで周りくどい。話てて疲れるよ。」
そう言って、詩良は立ち上がった。
腰を屈め、手を伸ばす。
その細い指先を、神鳴の口許を覆う布に強引に引っ掛け、そして引いた。
「今日はもうお帰りよ。どうせまたあの常陸の所にでも転がり込むんだろ?時間ならたんまりとあるんだ。忙しない男は嫌われるぞ。」
露わになったその凹凸を、まるで自分のもののように優しく撫でると、彼女は振り向く事なく家を静かに出ていった。
誰が止めることもない。この場において主導権を握っていた彼女が出ていくまで、誰も動く事が許されなかったような重圧。
弥代は思い出す。
去年の秋、通りで彼女と藤原和馬が対面した時のあの空気を。此度はそれに酷く似ていた。
彼女は、“色”を持たずして生まれた。
生まれつき、目を患っていた事もあり。表へ一人で出歩く事はあまりなかったそうだ。
どこに行くにしても、必ず誰かが付いて回る。一人になる事などほとんどなかったはずなのに、とても寂しい女性だった。
『ねぇ、氷室。私ね、今日変わった人に会ったのよ。』
山の斜面帯が切り拓かれ建てられた扇堂家の屋敷は、その敷地は大山の、山の根元より広がる。麓には里が広がっており、里の象徴として少々高く建てられた屋敷は、端の東海道からは流石に見る事は出来ないだろうが、それでも山の色とは異なる事がよく分かる事だろう。
山は何も壁にはなっていない。人が踏みいる事が出来ない程に鬱蒼と生い茂る場所もまだ多く残されており、私は屋敷から離れた山に捨てられた子どもだった。
中途半端に山を登った場所で、親に置いていかれた子どもが、ただ生き延びる為に過ごしていたというだけで。数年もの間そこがどこであるかも知らぬまま彷徨い歩き、そうして見つけたのが、扇堂家の敷地の端に位置する、地下牢だった。
長年もの間人が訪れていない場所である事が分かり、そこを勝手に根城として雨風を凌いでいた私。しかしそんな日々が長く続く事はなく。冬を越して直ぐの頃、階段の上から高い女子の声が地下牢に響き渡った。
それが、扇堂春奈であった。
勝手に屋敷の敷地に踏み入った事や、冬の間はバレぬようにと屋敷の備蓄から食糧を頂戴していた事が発覚し、罰を受けるかと思ったのだが、弁の立つ彼女の気まぐれによって救われた。
背丈が近しい、自分がいくつであるかも分からない。生まれも育ちも何も知らない私に、彼女は手を差し伸べたのだ。
その日は帰りの道中であった。
扇堂家と縁がある、甲斐国の鈴木家の当主であられる泰祥様が遂に婚姻を結ばれたのだという。屋敷にはあまり馬に乗る事が得意な者が居らず、山で育ちある程度動物の扱いに長けていた私に白羽の矢が立ったのだ。祝いの品を詰め込んだ牛車とは別に、先導するように馬に跨った。道中には数日掛かりはしたが、それでも大主のご意向に沿うことは出来た。
行き程荷があるわけもなく、帰りは行きよりも一日だけ早く里へ帰れると思った。少しでも早く寂しがりな彼女に安心させられないものかと考えていれば、道中を何夜も共に過ごした大人連中からは少ない駄賃を渡され。土産の一つでも春奈様に買って帰ってやれなどと言われたりもした。次の休みの日にでも、こっそり里の団子屋で甘味を買ってそれを一緒に食べるのに使おうと、懐に治めた。その帰り道の事であった。
屋敷の東門周辺の別れ道に、その姿を見た。
慌てて私が勢いよく手綱を引けば、驚き馬が嘶くのは当然の事で。それまでの緩やかな旅路の護衛から、一気にその場まで馬を走らせた。僅かな距離であったというのに、ひどくあまりにもひどく長くそれは感じられ。私が走ったわけでもないのに、息を切らせた私はそのまま馬から降りて、彼女に駆け寄った。
伏せられた上瞼。抱く感情をありありと伝えてくる形の綺麗な眉。私の心配を裏腹に、彼女は高揚していた。
『貴方みたいにとても手が冷たかったわ。ぶっきらぼうで、多分優しくないのね。意地らしい人。でもせがんだらここまで連れてきてくれてね。さっきまでここにいたのだけれど…、』
そこには彼女以外いなかった。
外を知らぬ彼女は、非常に好奇心が強く。
本来であれば誰かが必ずその側にいて、彼女の目の代わりになってやらねばならないというのに、本人はまるでお構いなしだ。体だってあまり強くはない。少し体を動かしただけで息を切らすことだってあるというのに、彼女は無邪気で。その姿は正に…
「子は、親に似るものです。」
「…。」
「どんな人だったか、ですか。そうですね。春奈は、少し前の雪那によく似ております。」
「少し、前?」
瞳を伏せ、暫くじっとしていた氷室だったが、簡潔にそう言い残した。結局和馬の知った扇堂春奈という人物は、少し前の雪那によく似ていた、というだけで。
氷室の口にする、少し前の雪那というのがいつ頃の彼女を示すのかも知らない和馬は、分からず仕舞で、でもそれ以上を訊ねる気というのはやはり浮かばなかった。
「訊ねても良いのですよ?」
「えぇ…それは答えてくれるんですか?氷室様、やっぱり難しいなぁ…、」
そろそろ日も傾く。臍を曲げたままの彼女はとうの昔に庭から部屋へと戻り、常であれば湯汲みの準備でもしているだろうかという頃あいだ。
自分たちにも碌に言葉を聞いてくれやしなかった今日だが、もし向こうから声を掛けてくるような事があるのなら今日はまだ少し余裕があるだろう。
彼女の一日の流れを誰よりも理解しているだろう氷室がそう零す。
どうやら少し前の雪那がどのようであったかを教えてくれるみたいだ。
扇堂春奈については、何も教えてくれなかったというのに。成程、氷室の踏み入ってはならない線引きの片鱗を、和馬は少しだけ理解できた気がした。
「雪那が。甲斐国の鈴木家の方から今も求婚を受けているのはご存知でしょう。」
「えぇ、存じてます。距離もあるいうのに毎度毎度馬跨って、よぉ頑張っとりますよね。」
「和馬さんも噂を耳にしたのなら分かるでしょうが、去年の時点で縁談話が上がっていたのですよ。」
休みを挟みながら馬を走らせれば、三日三晩と経たずに行き来が可能な野田尻と榊扇の里は。先代である鈴木泰祥殿と大主である扇堂杷勿の間に面識があった事で度々両家の交流が存在していた。
急ぎの用件であれば、昔のように馬で一人向かわされる事の多かった氷室だが、昨年は違った。その提案の裏、大主が何を考えているのかを読み解く事は結局出来なかったが、氷室は雪那の野田尻までの道中に当然のように同行する事となった。人数は多くない方が良い。牛車一台で事たりる量。調子が良ければ三日もあれば到着出来る筈だった。
相模国と甲斐国の国境に近しいあの山道沿いにて、まさか賊の襲撃を受けるとは思ってもみなかったのだ。
後になって聞いた話、泰祥殿亡き後、跡を継がれた凌一郎殿がしでかしたい失敗により、奉公に来ていた者達を解雇せねばならない状況が暫く続いてしまい、それによって職を失った者達が盗賊行為を行って日々を凌ぐようになったのだという。なんと不運な話か。
堅実に汗水を垂らし精一杯労働に勤しんでいた奉公人達の、堕落し人の命さえ軽く捉える程まで変わり果ててしまったなど、酷い話だ。かつての自分たちのような者を手に掛けて、それで一時の飢えを凌ぐような。決して褒められることのない選択を、彼等が重ねた結果だった。その賊の中には、以前氷室が野田尻を訪れた際に目にした顔ぶれもいくつかあり、どうにもならなかった。
害のなすのであれば、討ち棄てるのみ。
足元に転がる亡骸が徐々に増えていけば、辺りに立ち込める血の匂いに、我先にと獲物を求めて姿を表す捕食者達。
失われた健気な幼子の命。その亡骸だけでも守り抜かねばと思った矢先だった。
「その場に、水虎様が姿を見せたのです。」
「水虎様が、ですか?」
理解が及んでいない表情を浮かべる和馬に、氷室は無理もないと汲む。
今の話では里の外に神仏・水虎が現れたように聞こえるだろうから。だが、間違ってはいない。
「水虎様は、この相模国の地であれば移動は可能です。」
「里…いや屋敷の中だけやと思っとりました。」
「外に出られる事の少ない神仏様ですから。」
本来であれば藤原に戻っている筈の彼にこんな話をしていいものかと思うも、そこまで悩む必要はない。
一年にも満たない時間だが、雪那の側にいようと勤しむ彼の姿を見て、信用が湧かないわけがなかったからだ。藤原和馬が扇堂雪那に対し害を及ぼすなどとは到底、考えられなかった。
その場に姿を見せた神仏・水虎の加護により負っていた深傷も浅いものになり、一命を取り留める事が出来た。しかしその直前に抱いた下女の亡骸を静かに埋めてやりたいという気持ちが薄れる事はなく、神仏に急かされながらも、見晴らしの良いやや拓けた場所に、その生前よりも軽くなった体を横たえ、埋めてやった。
雪那に対し、並々ならぬ執着を覗かせる神仏・水虎だが、彼女との直接の繋がりは今も存在していない。水神の加護を直接その身に受ける氷室を介し、雪那の様子を窺うことが多いのだという神仏は、雪那だけがいなくなった事に気付き屋敷を、里を飛び出て遥々吉野の地まで姿を見せたのだそうだ。
怪我は完治したわけではない。療養をするにはしっかりと休める場所で、精の付くものを口にしなくてはならない。一人馬を借り、浅くなっただけの傷を抱えて、雪那の身の心配をしつつも氷室は一度里へと戻る事となったのだ。
「あの程度。一時凌ぎにしかなりはしません。そういうものです。」
巻き起こった顛末は、氷室が屋敷に戻るなり即刻大主の耳に入った。しかし大主が取り乱す事はなかった。これまで大切にされてきたお孫様の行方が分からなくなってしまったというのに、不敵にほくそ笑んでいた、その真意をやはり理解する者はいなかった事だろう。
それから二十日程、自室で文字通り安静にした氷室は、持ち前の治癒力の高さもあり、以前同様に動けるまで回復してみせた。これで準備を整え、雪那を探しに行けると思ったのだが、休んでいる間にてっきり捜索が行われているのかという期待は外れ、屋敷には何一雪那の所在に関する情報がなかったのだ。
「なかったんですか…?」
「えぇ、全く。これぽっちも、ありませんでした。」
まるっきり宛てにしていたわけではないが、何も情報がない中無闇矢鱈に探すのは困難としか言えない。何を考えているのか分かる筈もない大主を尻目に屋敷を後にし、氷室が最初に訪れたのは雪那の背中を最後に見た、あの山道だった。
そうして、彼に出会ったのだ。
「腹立たしいったらありゃしないじゃないか?」
カラン、カランと底の分厚い下駄を強く踏み鳴らしながら道を行く彼女は、口ぶりはやや怒りを滲ませているというのに、その表情は愉快だ。真新しい玩具でも与えられたように満面の笑みを浮かべる。その口許だけを見ようものなら彼女が怒っているなど、誰も想像がつかないだろう。
「流石鳥だね。囀るのは天下一品。お得意だろうよ、当然ね。」
大通りの水路沿いの細い淵の上を、人目など気にする事なく登り進む。竹を縦に切って作られた淵と、彼女の分厚い下駄がかち合えば、響く音は雅とはかけ離れていたが、どこか気になる。人の、関心を惹きつける音だった。
「ってゆーか、弥代ってばさ。浮気者だなぁ。すーぐ目を離すとそうやってどこかに入り込んで。の割にボクの事叱るばかりで、自分はどうなんだって話だよねぇ?」
橋に差し掛かり、彼女は漸く淵から降り立つ。普通に橋を渡るのかと、遠巻きに彼女の様子を伺っていた後ろの者たちが微かに息を呑んでいると、その答えはやや違った。
「やぁ、お前。久しぶりだな。」
夕暮れ時。水路上には、どこからか舞い降りた花弁が無数に広がっている。やはり赤く染め上げられた暮れ時の、里にて。
彼女は、その男と対峙する。
「相変わらず辛気臭い顔だね。もっと他にないのかいお前は?」
徐々に夜が広がる、東の空を背に彼女に向き合うその男の名は、春原千方と言った。
「………。」
「ははっ、口下手な男は好かれないよ?」
「用は、ない。」
「お前に用がなくても、ボクがこうして声を掛けてる時点でボクはお前に用があるんだよ。逃げるなよ男のくせして。今朝だって顔を合わせた仲だろ?他人行儀は良くないな?仲良くしようよ。ボクもお前も、多分動機は同じだろ?」
一歩、その距離を詰めた所で相手の男が動じる事はない。単純に自分が相手にされていないだけにも捉えられたが、詩良はそんなのお構いなしだ。相手が逃げないようにと退路になる位置に周り、覗き込むように語りかける。先日の一件を、詩良は決して忘れたわけではない。秋雨の止んだあの晩、自分は一度この男のその腕によって絶命させられた。首を折られた感覚まで、今だって忘れはしない。しかしそんな一度の、首を折られた程度では死にきる事は出来なかった。数刻と経たぬ内に息を吹き返してしまった。痛みは、消えない。警戒を怠ることはない。人目がまだある分、いきなり手を出してくるような事は考えにくいが、それでもあまりその間合いには近付かぬように、ギリギリの距離感で話しかける。出方を伺うように。
「…動機?」
「お前もボクも。きっかけはなんであれ、弥代だろ。弥代が大切なんだろ?」
「……大切、」
「今のボクはね、お前以上に腹立たしい存在が出来たからね。まだマシなお前にこうして偶々出会って。ありがたい事にもお前みたいな奴を誘ってやってるんだ。どうだい?嬉しくないかい?」
「…何の話だ?」
伸ばした指先。それが春原の間合いに入る直前、それは突然何かによって弾かれた。
「弥代さんの居られる手前、手を出すのは控えさせていただきましたが。春原さんに直接このように関わられるのは、大変迷惑極まりないですね。」
「こちらにはこちらの教育というものがございます。悪影響を及ぼすだけの方と、春原さんを関わらせるわけにはいかないのですよ。」
辺りは見渡すまでもなく、先ほどまで感じていた人目が感じれなくなっていた。まるで橋の上だけ、空間が異なっているかのような違和感。怒りばかりで冷静に物を視る事の出来なかった自分が悪いと反省をしながら、詩良は眼前に現れた二人の、いや一人と一匹を目にする。
「この里は、随分と“白”に縁でもあるようだね?」
「お帰りを。」「どうぞ、お引き取りくださいませ。」
妖怪討伐を生業とする一門が、まさか蛇神を飼い慣らしていようとは。
「とんだ、笑い草だよ。」




