四話
「長年引き篭っていた分際が、一体何の用だっていうのよ。」
決して眠っていたわけではない。彼女は目を閉じていただけだ。余計なものをその視界に映さぬよう、ただ静かに。
敷居を跨ぐその存在に、彼女は閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げる。開いたところで、視界に広がるのは見慣れた白い布だけだ。
薄灯が微かに差し込む、暗がりの奥。限られた者しか踏みいることの出来ない、長い間自分以外が過ごす事のなかったこの空間に、恐らくは招き入れる事になるであろう事を理解し、自分にしか聞こえない程の舌を打つ。他に誰もいないのだから聞かれる恐れなどありはしないのに。
床に散乱したかのような髪が揺らせば、彼女はゆらりと立ち上がる。
「今更よ。今更、何よ。そうやって踏みこんできて、無作法ったらありゃしないわ。自分の都合のいい時ばかり、そうやって手を伸ばすの。止めてよ。それなら初めから踏みこんでくるんじゃないわよ。どうにもならないじゃない今更。もう、放っておいてよ…っ!」
滲み出る。
じわり、じわりと。身の内から噴き溢れる言葉にまるで飲み込まれてしまいかねない程。自分の言葉であるかさえも怪しい。口を突いて吐き出されるその想いは誰のものか。
自らの爪先がいくら肌に食い込もうとも、構いやしない。
己を、ただ強く、強く抱きしめる。
「…助けてよ、」
「 」
居もしない相手に向けられる言葉ほど、虚しいものはない。
「何をしにわざわざ来られたのですか。」
「訊ねるにしても訊ねる相応の態度ってもんがあると思うんだけどな、俺は。」
「………。」
「…おい、無視してんじゃねぇぞ雪那?」
餓鬼じゃあるまいし、と口に出して言ってやろうかと思ったものを弥代は飲み込んだ。
これ以上相手の知らぬ機嫌を損ねてどうなるものかと考える。相手の顔色を窺うような事はあまり好きではないが、好き嫌いを抜きにしても、これは嫌でも窺わねばならないと理解していたからだ。
(でけぇ子どもじゃねぇかよ、こんなの。)
冬生まれの彼女。記憶が正しければ昨年出会った際に齢二十一になると言っていた。今年で二十二歳になったとして、その歳でこうも拗ねた子どものようにヘソを曲げて口をきこうとしないなんて。流石に呆れ返って何も言う気にはならなかった。
別にそれは今に始まった話ではない。
以前から彼女には歳相応の振る舞いというものが見られない点があったからだ。ただそれらがまだ目を瞑れる程度だったものだから、あまり指摘をする事もなく過ごしてきたが、これは良くない傾向だ。
何も怒りに来たのではない。昨日呼び止めた時に頬を叩いた事を叱りに来たのではない。
流石に叩かれた直後は、疲れていて頭が回らなかった事もありキレはしたが、一晩寝てすっきり休めばそれも解れるというものだ。
寧ろそれらに関しては、自分自身に非がある事を弥代は、今朝和馬の口から話を聞いて理解したのだから。
詩良が話していた長屋の家賃を代わりに払っていてくれた事。元々聞かされていたから知ってはいたが、いきなり里から姿を消した自分の身を按じて、春原討伐屋に捜索するように依頼を掛けてくれた事とその背景。連絡の取りようがないこれまでの期間の間の彼女の様子。雪那がどれだけ自分の事を心配してくれていたかを、彼女を一番気に掛けているといっても過言ではない和馬が話すのだから。そんな話を朝一で聞かされて怒りを蒸し返せる程、弥代の気が短くはなかった。
ゆっくりと腰を据えて、一つ一つ迷惑を掛けた事や気を遣わせた事を話せればと、そう考えていた。考えていたのだが。
「それとこれとは話が違ぇだろうがっ‼︎」
「キレんといて!弥代ちゃんキレんといて‼︎」
「だーほ和馬⁉︎お前がどうせ甘やかしたんだろう‼︎んだあの態度は⁉︎汐らしさの一つや二つ見せろってんだっ‼︎」
「甘やかしとらんよっ⁉︎直ぐ疑うの[[rb:良 > い]]くないでっ‼︎」
だんっ、と弥代が強く卓上に拳を落とせば、湯呑みが一瞬浮く。
すかさず溢さないようにと伸ばされたその腕の主の無言の圧力を受けてぐっと堪える。堪えきれていないから今しがた発散を込めたのだが、それでもどうにか堪える。精一杯、精一杯堪えきって、耐えきって、耐え抜いて、絶える事に失敗した弥代は叫んだ。
「やっぱり納得いかねぇな俺はっ‼︎」
「大きな声は控えてください。雪那に届きます。」
「それもそうだなっ⁉︎」
「だから声大きいてっ‼︎」
弥代と和馬が今いるのは、東の離れでも奥まった場所に位置する氷室の私室だ。
奥の書庫へと繋がる廊下の手前、斜め向いには雪那が普段過ごす広い部屋があるが、流石に襖や廊下、壁を隔てた奥の声はそこまで響く事はないだろう。
陽当たりの[[rb:良 > よ]]い縁側が続く雪那の部屋とは対照的に、あまり陽の差し込む事のない、肌寒さえ感じる部屋だが。それはさておき、やはり限度がある。
「氷室様。やはりお茶は下げた方がよろしいのでは?」
「いえ、このままで結構です。雪那には茶菓子も添えていつも通り出しておいてください。」
「分かりました。」
遠慮なく春先であるのに焚いた火鉢を一人陣取るようにしていれば、そそくさと下女が部屋を出ていく。
一括りにしたその毛先が、まるで色落ちたような。白髪混じりの無愛想な彼女は確か、[[rb:戸鞠 > とまり]]と言ったか。出て行ったのを見計らい弥代はすかさず口を開いた。
「あいつの事甘やかしてるのは、氷室さんも同じだな。」
「甘やかす…?そのような事、身に覚えはありません。」
「ヘソ曲げた餓鬼を、菓子で機嫌取ろうとしてるようにしか見えねぇよ。」
一つ、居心地悪そうに和馬が小さく首を縦に振る。彼自身にその自覚がなくとも、それを間近で見ているであろう和馬がそのような反応を示すのだ。間違いはない。自覚がない行動が一番厄介だ。
自覚といえば、正に彼女。
扇堂雪那自身がヘソを曲げているという自覚があるかどうかもかなり重要になってくる。それが問題だ。どうすれば彼女に口をきいて貰うか。奇妙にも狭い部屋の中、腰を下ろして向い合う、この場に集まった三人の課題になりつつあった。
先ほど少しだが雪那と言葉を[[rb:交 > か]]わした弥代だが、それも一言二言のみ。以降口を閉してしまった。何もそれは相手が弥代に限った事ではなく、どういうわけか昨晩春原討伐屋で厄介にならざるをえなかった和馬も、更には何故か彼女の身の回りの世話をする氷室も、下女の戸鞠も同じだった。
『ごめんな雪那ちゃん…昨日夜顔見せれんで…、』
『雪那…あまりそういった態度はよろしくないと私は思います。』
『雪那様…あの、部屋の掃除をしたいのですが…。』
まるっきり、無視である。
「頬膨れさせてよ…食いもん頬に詰めてる動物か何かかよ?喋れる口がねぇわけじゃないだろ。思い出したらむかついてきた。んだあの女…。」
「やや、雪那は子どもじみた一面があります。」
ややなんて可愛いもので済めば、三人が膝を向けあってどうしたものかと腕を組む事はない。腕を組んでいるのだからそういうことだ。
恐らく今頃、下女が用意した茶と菓子にでも手を付けて、先ほどと変わらず無視を決め込んでいるのだろう。
「まじでふざけんじゃねぇぞ、あいつ…っ‼︎」
前途多難である。
「なんて図々しいしい態度なのかしら。」
「図々しい?…覚えがない。」
人には得手不得手があって当然だが、それは何も物事に限った話ではない。接する相手にだって通ずる。相性の善し悪しと言えば分かりやすいか。一々分かりやすくするまでもなく、目に見えて険悪な空気を前にどうしてため息を我慢する事ができようか。出来る筈がない。常より足らぬ兄が、それ以上要らぬ口を開かぬようにと、間に割り込むように鶫は深々と[[rb:頭 > こうべ]]を差し出した。
「水虎様。兄が御無礼な態度を。誠に申し訳ございません。」
少々大きな手毬程度の幼い[[rb:頭 > つむり]]を見て、果たして彼女は何を思ったのか。小さく鼻を鳴らし、意地を張った子どものようにそっぽを向いてしまった。
神仏・水虎
その起源は東のこの地に非ず。何もまとまった文書があるわけでもないが、その名称の発祥は古く、島国の北であると鶫は知っていた。人間が遺した文献よりも、同等の存在である妖怪に聞けば、多少語る口によって差異はあれど、似たり寄ったりの内容から照らし合わせる事が出来た。
まだこの世に生を受けて、半世紀程の兄や、それに満たない己よりも遥かに長い、百年以上もの間この榊扇の地で神仏として崇め祀られる存在の何とも大きい事。
力の弱い妖さえも、その加護下に収め、半径二里以上にも及ぶ地に、外敵を寄せ付けぬように結界を張るなど、同様に土地神として崇められる兄・神鳴には到底出来ない所業である。
(その点において…のみ、の話ですが。)
敬いの姿勢を崩す事はない。嘘偽りなどない。敬意を払っている。畏怖すべき存在であることに違いはない。違いはないが、しかしそれも限られた話。
敵に回したいわけでも、条約を結びたいだけでもない。ただ一つ、先日の件で詫びを伝えにきたのだ。
「随分じゃない。好き勝手人の里を荒らしておいて、詫びて済むとでも思ってるのかしら?」
「そのような事、思いもしておりません。ですが、此度の件は互いに、藤氏の者によって齎されたもの。兄が及ぼした被害もございましょうが、元を辿ればやはり我々は同「冗談じゃないわよ。」…。」
遮る。不躾は、果たしてどちらか。いくら長く生きていようとも、その程度の器量しか持ち合わせていない相手の言葉を待つというのは、些か癪である。兄に代わり口を開くのは常だが、しかしやはり重く感じることが鶫にもあった。所詮兄の加護下で生かされているだけの自身が、このような態度を取っていいものかと考えさせられるのだ。最近であれば東の鬼・弥代に対する態度もどうかと思えた程だ。が、やはり眼前の水神よりも兄の方が優れているという結論に、鶫は至った。
表情を崩すことなく、漸くその双眸で彼女を見つめる。手負いの獣だ。
剥き出しの敵意を、隠すという理性すらも残してはいない。兄に劣る、存在。
一々態度を改める必要はないが、相手の発言に一瞬にして敬いが薄れた。
余計に時間を掛けて話さない方が、手早く話を終えられればと思い、兄の要らぬ言葉に飛び火せぬように代わりに口を開いたというのに、杞憂であったか。
「何が同族よ。私とあんた達じゃ全く話が違うでしょう。一緒にしないでよ。穢らわしい。」
よくもそのような事を言えたものだと、思い抱くのは自由だ。これ以上自分が口を開く事を、彼女は赦すことはしないだろう。何ももって穢らわしいと、彼女は言うのだろうか。自身の事を顧みて、か。あるいは…。
「[[rb:己 > おれ]]には、お前がそこまで憤る意味が解らぬ。」
「理解してもらう必要なんてこれっぽっちもないわよ。」
所詮、信仰あっての存在。姿なき偶像でないだけマシか。一万にも及ぶ民草の永き願いの果ての姿がこれとは聞いて呆れる。だが、
「水虎様。兄は一つ提案をしに参ったのでございます。」
せめてこれぐらいは、赦してほしいものだ。
「…提案?」
視る事のない相手の出方を値踏みするかのように、水虎は首を傾げた。
昨日の今日。まさか結界を跨いだその翌日に堂々と正面から屋敷に足を運んでこようとは思ってもいなかった。
(まさかあいつが一緒になって戻ってくるなんて…)
これまで過ごした時間に比べればちっぽけな。しかし季節を跨いで感じる事のなかったその存在が帰ってきた。年の瀬に彼女と交わした会話を思い出す。
この期間。雪那がどの様な想いで過ごしていたかを考えれば、弥代が戻ってきた事は良い兆しになるだろうが、水虎自身はそれをよく思う筈がなかった。
幸か不幸か。長い間封じられていた北の恩恵を、再び得る事の出来た水虎にとっては、少しばかり都合が良いだろう。たとえ本来の土地とは異なる地であっても、何かがあればこの生粋の存在を里から、この地から追い出す事が出来ようものだから。
どこか、攻撃的な思考に自身が捕らわれている事にさえ気付かず、水虎は相手の言葉を待った。
「ゆとりを、持つ事は大事だろう。しかし、それも今に限った話ではないか、水神。」
「……どういう意味よ、それ。」
「北が解放された今。本質の異なる、東と北の両方を得て。水虎様が制御しえるのかと、兄は危惧されているのでございます。」
それは、水虎の逆鱗に触れた。
「ふ…ざけんじゃ…ないわよっ‼︎」
その変わり様は、似ても似つかぬというのに、鶫にはどことなく彼を思い起こさせた。
本来の性質と異なる“それ”を受け入れてしまった、何とも悲しい青年だ。どれだけその存在に自身の思考を喰われ掛けた事だろう。侵食する存在に抗うように、己を維持し続ける事は、この五年に及ぶ間苦しかったことだろう。昨日久しぶりに見たその姿。悪化をしているようには見受けなかったが、それもあまり[[rb:保 > も]]つようにはやはり思えなかった。否、今は眼前の存在だ。
まさか神仏として崇められる存在が、自身を呪った挙句、混ざろうとは考えもしないだろう。
(余程、肩入れをしていたか…あるいは…)
神鳴が彼女の異変に気付くことはない。静かに、萌黄の瞳でその姿から目を逸らさない。兄の目には、彼女がどのように写っているのだろうか。自分のどこか湾曲した見方ではない。正面から見据えるその姿が、昔の自分に向けられたものと重なって見えて、鶫はまた一つ頭を下げた。
「本日は、一度これにて失礼いたします。」
この様子では、今日はもう話すことも侭ならない事だろう。無理に話を進めたいわけではない。早いに越した事はないが、まだ次の神無月まで半年近くの猶予はある。彼女が力を制御する事が出来なくなるか、あるいは…。
「それさえも、上回るような事の一つや二つ。起こりえば、事なきでもえるのでしょうか。」
誰の耳にも、届かぬ話だ。
「さて、兄様。どのようにお考えですか?」
一巡。雲も薄い卯月の空を見上げ、神鳴は思案する。
「鶫は、あれが嫌いか。」
「分かりきったご質問を。嫌いです。自分が一番可哀想だと思っている方が、私は[[rb:一等 > いっとう]]嫌いです。」
「そうか…。」
人間の姿に扮して、立ち寄った茶屋の席に腰を落ち着けながらそんな事を話す。
救えるのであれば、救った方がいいのだろうが、相手はそれを良しとしないことだろう。
分かりきっていた事だが、
「近しいと思っていた同胞にそのように拒絶されるのは、傷付くものだな。」
「意外です。兄様はもっと他に鈍感だと思っておりました。」
「…心外だ。」
「やってられっかバーカッ‼︎」
「やから、声大きいてっ⁉︎」
最早羽交締めの勢いだ。
拳を強く握りしめたその姿を見て、止めようとしない奴がいるのならどうか名乗り出てほしい。雪那に今にも降り掛かりそうな暴力を和馬が防がないわけがない。堪忍袋の緒はとうに解き離れでもしたのか。是非とも切れる前に戻ってほしいものだ。身長差もあり持ち上げればその短い足は空を切るのだが、これがまた痛い。離せばその勢いのまま空中を駆けていってしまいそうで余計に怖い。絶対に離すものかと[[rb:力 > りき]]んでみるも、その小さな体のどこにそんな[[rb:力 > ちから]]があるものか。今すぐにでも泣きたい。
「暴力っ!暴力はアカンって‼︎」
「一発叩きでもすりゃ自分がどんだけでけぇ態度してるか分かるだろ⁉︎俺はっ‼︎そう思う‼︎」
「そう自分が思うからって叩くのはアカン!弥代ちゃんみたいな馬鹿力で叩いたら雪那ちゃん大怪我してまうよっ‼︎」
「ここまで言われて意固地になってる奴が悪ぃんだよ!見ろ⁉︎目の前でこんな事言われてんのに[[rb:黙 > だんま]]りキメやがってんぞこいつ‼︎腹が!立つだろうっ‼︎」
「ワイやって立つに決まってるやろ⁉︎」
「…っ⁉︎」
大きくその左目が揺れたのを、和馬は一瞬だが見逃さなかった。
どちらかといえばあまり怒りを露わにする事のない自身だが、今のは何も彼女に向かって発したのではなく、羽交締めにして尚、腕の中でもがき暴れる存在に向かって言ったつもりだった。しかし自分に向けられたとでも思ったのか。拗ねて半分伏せっていた瞼が大きく開いた。
が、その表情はどうしてか傷付いているという風には見えず。和馬は、あれ?と思った。
「……。」
また直ぐそっぽを向いてしまう彼女。腕の中の存在が大人しくなる事はないままだが、もう喚き声は届かない。弥代を抱えたまま和馬はある事に気付く。
(あ…あぁ…あー…、そ、そういうことかぁ…。)
多分これはこの短い期間だが、一緒に過ごす時間がそこそこ多かった、よくよく彼女の事を見ている、気に掛けている自分だから気付くことであって。なら、自分以上にこれまで共に過ごす事の多い氷室が気付いていないわけがなくて。更にもっと言うなら、幼少期の大人を何かと困らせたがる彼女のおふざけを真横で見ていた自分だからよく分かっただけで。それは多分二割にも満たないだろうが、間違いなくそんな考えが彼女にある事は確実で。残りの八割…
「いや、弥代ちゃん。頑張ってな…」
「抱えたまま何わけわかんねぇ事吐かしてんだテメェは⁉︎」
成程。これは前途多難ではなく、厄介なだけだ。
「いやぁ、にしても。春原さんお変わりがないようで安心しました。」
まだ陽は高いのだが、昨晩は湯に浸かる事が出来なかった春原の為に、陽が傾きよりも早く湯が沸かされた。
榊扇の里には、扇堂家が税収の為に設けている大衆浴場がいくつか点在していたが、元より少々大きなこの敷地内には、湯を浸かる事が出来る鉄砲風呂が初めからあった。
血の繋がりはないが男が四人に女が一人と。身を寄せ合い暮らすには充分すぎる広さのこの屋敷は、空き部屋も多い。昨晩は普段はいない者も泊まっていったが、まだ多少部屋に余裕はあった程だ。
あまりにも平和なこの里では、これまで自分たちが人ならざる天敵のような存在に刀を振るっていたのを忘れてしまいそうで。扇堂家から与えられる里の警備や巡回はそのままに、いっその事討伐屋なんて名乗らず、このまま部屋を空けて小さな宿屋なんて拓いてもいいのではないかと、相良は考えてしまうのだ。それはこれまでの春原の在り方を否定してしまいそうで恐ろしい事だが、春原がいない今この時、彼女・伽々里にそう話しかける。
「そうですね。お元気そうで私も安心しましたわ。昨晩は早くお休みになられていましたし、館林さんの話では道中もきちんと休息は取られていたようですので。」
「正直、弥代さんが一緒であっても春原さんのお守りを一人でするのは、厳しかったと思いますよ。見ましたかあの変わりよう?以前よりも二葉、腹から声が出ておりました。」
「相良さんが見ていて、私が見ていないという事があるわけがないでしょうに。」
「はは…それもそうですね。」
トントン、と小刻みに包丁がまな板を叩く音はいっそ心地よい。
一旦の屋敷への書面の提出を終え、一息が吐ける今だからこそ考えてしまう。
「報われて、ほしいだけなんですよ。私は。」
若干くぐもった声が、居間に響く。
台所で夕餉の支度を続ける伽々里だが、彼のその言葉を聞き逃す事はなかった。
「えぇ、それは私も同じです。」
「そしてそれは、貴方自身もなのですよ相良さん。」
昨晩芳賀がいただいてきた大根は、今朝の汁物に費やしてしまったが、まだ少々残っている。冷めきったそれを温め直しながら、小さく刻んだ麩を投じる。
「報われなくていい人など、誰一人いないのですから。」
「約束を…していた筈なんだけどな。」
夜半に目を覚ましても、そこに彼女の姿はなく。日が昇って尚も戻ってくることはなかった。あれから一睡も出来ず、雄鶏が鳴く頃、なくなく部屋を後にした。教わった通りの手順で鍵を閉めようとした所、どうやら一度誰かが戸を開けたのだろう痕跡があり、一度は彼女が帰ってきたのではないかと考えたが、顔を見れていないのだから意味はない。
別にこれまで一度や二度の話ではない。気の移ろいがちな若い生娘ではあるまいし、その程度の事で怒ったりという事はないが、一昨日の晩に話した櫛を用意してきたのだ。きっと喜んでくれるだろうと、独りよがりな想像を浮かべて、渡せる昨晩の逢瀬を楽しみにしていたのだ。
『良いの?物書きする時間、減っちゃうよ。』
物書きは趣味だった。
幼い頃より歳の近い子らが外で泥んこ塗れになって騒ぐ傍ら、外に出はしても、父の仕事道具から勝手に中身を拝借した、墨で満たされた矢立と筆を握って、数枚ぽっちの紙の上に走らせる事が多かった。
母はそんなものでは将来食っていけないと、針仕事をしつつお小言をよく零していたものだ。
一方で父は息子である彼の、[[rb:石蕗 > つわぶき]][[rb:稔 > みのる]]のその趣味を尊重した。物書きをするには字の読み書きは出来て当然だ。言葉も知らねば書けるものも書けやしない。学ぶことを父が反対することはなかった。そこそこに口も達者であったものだから、大人になれば学者にでもなれるんじゃないか?なんて揶揄い混じりに頭を撫でられたものだ。世の中そう上手く事が運びはしないというのは母の口癖で。言葉の通り、それは数年後、石蕗青年に重くのし掛かった。両親が亡くなったのだ。
石蕗青年が父の期待に応えるよりも早く、二人は先立ってしまった。親が子より先に死ぬのなんて当たり前の事。何も珍しい話ではない。周囲と違う点があるとすれば、石蕗青年が産まれるよりも前に起きたとされる、里を襲った大火災により過去に家を失っていたという点か。二十年以上昔にこの里を襲った大火災は噂では屋敷から火の手が上がったとされている。屋敷に近しい北区画には直ぐに火の手が回り、それにより家屋を失った者が多くいたそうだ。彼の両親もそれに含まれ、その後火事によって家々を失った者らには扇堂家より財が与えられたそうだ。
立派な家の一つは建てられそうな程の額だったそうだが、堅実な母の提案によりその財は手が付けられる事は殆どなく、石蕗青年の将来の為に遺された。
既に両親が亡くなった頃には十五を迎えていた彼は、自分の身の周りの世話はすることが出来たものだから、遺されたそれでどうにか独り立ちするまで立派に出来る事だろうと、同じ長屋に暮らす住人らは考えたことだろう。
しかし、彼は周囲の人間が親不孝者と指を指されるような生き方を選んだ。
物書きを、諦めなかったのだ。
両親が折角遺してくれたものを、お前を想って遺してくれたものをなんだと思っているんだと、激しく糾弾された所で、彼は悪びれた様子も見せず、強く、自分の自由だと返した。
生前両親と仲の良かった、向かいの屈強な亭主に一つ二つと頬を殴られた所で、折れる事はない。
父が認めてくれた物を、終わらせたくなかったのだ。
実ることはない才を、長く持て余してきた。
芽吹く事のない、稚拙な物に見向きするものはいない。誰に認められずとも、辞める事は出来なかったのだ。
転機と呼べる程の事ではないが、二年ほど前に歳の同じ自分と同じように働かずに、親の脛を齧る青年と彼は知り合った。名を吉田長兵衛と言った。先先代より扇堂家の屋敷の門番をしている、最早家業と言っても過言ではないだろうに、日がな屋敷の前に立ちっぱなしでいるだけなんて御免だと、成人してから数年、父親と口喧嘩の絶えない日々を送っていたそうだ。彼をきっかけに似たような者達が小さく集まり、書物に埋もれた埃まみれだった彼の家は、日夜彼等の溜まり場と化した。決してそれが良い事ではないと分かっていたが、全く同じでないにしろ似た境遇に行き詰まり、悩みを抱える彼等と過ごす時間は、石蕗青年にとって良い刺激となった。
『世の中そう上手く事が運びはしないんだよ。』
母の言葉を思い出したのは、先の秋の暮れであった。
神無月の落雷の晩、吉田の父が大きな怪我ではないが骨を折ってしまったそうだ。
六十を過ぎて尚、老体に鞭を打ち門番を務めていたが、限界を悟ったのか。長年口論を続けてきた長兵衛もこれには流石に仕方ないと首を縦に振った。
『いい加減向き合わなくちゃいけねぇ。潮時だなこりゃぁ。』
口では継ぎたくない、面倒だと並べていたというのにやけにあっさりと。長兵衛は家督を継いだ。
長兵衛という中心の人間を失った繋がりは、気付けば彼と知り合う前の日々を石蕗青年に再び齎した。
自分一人になった部屋の中、また石蕗青年はただただ筆を取るだけの日々が始まった。人恋しさを、その淋しさを誤魔化すように無我夢中に連ねる。それは年が明けるまで続いた。
そんな彼に再度転機と呼べる出逢いが訪れたのは年明けの事だった。両親が存命の頃は毎年のように年明けに行っていた恵方詣りに足を運んだ帰りだ。僅かに雪が積もったその大通りの中、目を惹くしかない真っ赤な帯を垂らした、彼女と出会ったのは。
雪化粧をその身に直接施したかのような真白の中、強烈なその瞳から“色”が滲み落ちたかのような紅く染まった頬は、振り向き際であっても酷く彼の心を、[[rb:最 > いと]]も容易く奪い去った。
『やぁ、確か向かいに住んでるお兄さんじゃないか。年明けだっていうのに一人かい?淋しいものだね、ボクと同じだ。』
彼女を目にするのはそれが初めてではなかった。
長兵衛が家督を継ぐ原因となったあの晩、同じ長屋に暮らす少年に預けられた事があった。無理やり掴まされた腕の、その細さと肌の柔らかさに驚きまともに言葉をきく事が出来やしなかったが。日が昇る頃には落雷は止み、御礼の一言を述べて彼女は自分の部屋へと戻ってしまった。それからも幾度かその白髪が大通りの方へと進んでいくのを、格子越しに見たことはあったが、関わる事はこれまでなかった。関わる事はないと思っていたからだ。だというのに…。
口にする事のなかったその淋しさを知ったような口ぶりで言い当てる彼女に、強く惹かれた。自分よりも小柄で華奢な、非力な自分の腕であっても力を込めれば折れてしまいそうと感じる、そんな彼女に自然と手が、伸びた。拒絶など端から無いかのような、毒に浸かる日々の始まりだった。
長く続きはしないという事を誰よりも理解しているのは自分だ。今でも時間があれば筆を取る。売れもしない物を、ひたすら書き連ねる。それでも以前に較べれば格段にその時間は減った。まるでそれまで費やしていた熱意をそのままそっくり彼女に注ぐかのように、良くない事と分かっていながらも彼は溺れる。向き合った淋しさを紛らわしてくれる彼女をひた求めて。




