三話
春原討伐屋という名前は、まだ彼が武蔵国、藤原にいた頃に既に耳にすることがあった。
妖怪討伐を生業とした武闘集団として知られ、刀一つ、身一つで人ならざる存在に果敢にも挑むという噂から、どれだけ屈強な男共の集まりなのだろうと一時は考えていたものだ。
そこに属する者には、どうやら代々藤原がその才覚を磨いてきたとされる“気”の扱いを心得た者がいるというのが、血筋の者に囲われ滅多に外の話が入り込んでくることのない屋敷の中において、彼が耳にした理由だったろう。
こそこそと届くその噂話。
かつて一族を除籍になった遣い手が今も生き長らえているのではないかと、真しやかに囃し立てられていた。
彼がそんな噂を聞いたのは、一昨年の暮れぐらいだったろうか。春を迎えて暫くして、ぱたりとその噂はなりを潜めてしまった。面識のそこまでない相手にいきなり、一時耳にしたあの噂はどうなったんですか?なとど尋ねる気など沸くわけもなく。
藤原で育ちながらも。いや育ったからこそ、もしあの噂が本当だったのだとしたら、一族の邪魔になりえる存在であったのなら消されるという可能性もあるのではないかと、気にする事をやめていた。
春、庭に植えられたそこそこに肥った幹のその先。細くなった枝の端を薄く彩る存在を見上げながら、ふと和馬はそんな事を思い出した。
陽が傾き出す頃合いという事もあってか、色の薄い花弁が夕陽を帯びて色が変わって見えるのだが、徐々に暗み出す空のせいで元の色を忘れてしまそうだ。
花見が出来る程の広さもない、一本だけが植えられた庭ではあるが立派に花咲くのだから日頃の手入れが良いのだろうと思う。冬が明け春も半ば、この里で見頃の桜と言えば大山の麓に建てられた扇堂家の屋敷も当然だが、下々の者が安易に踏み入れられる場所では決してなく。どこで誰が言っていただろう、東門へと続く大通りの水路沿いに植えられた道は見応えがあるようだ。
もう長く、日中はここに通い詰めな日々を送る和馬にとって、息抜き程度に足を運ぶのも良いかもしれないが、生憎と。いやそんな言い方は失礼だろう。わざわざ最近は自分を迎えにここまで足を運んでくれる存在がいるのだから、早々に屋敷へと帰るに越したことはない。
あまり体力がない事は自分だって自覚があるだろうに。少し歩いただけで直ぐに肩を上下させるというのに。それでも顔を見たいからという自分の我儘の、意地の為に時間を割いて訪れてくれる存在がいるのだから。息抜きだなんてそんな贅沢、望む方が失礼だ。
手元の整えた紙面に軽く目を通してから、一息。
和馬は部屋の奥で神経質そうに頭を捻り声を漏らす、その男に声を掛けた。
「相良さん、終わりましたよ。」
自分とは変わった形状だが、目元のそれは彼の目が決して良くない事を容易にそうぞうさせた。あるいはその“色”を誤魔化すための飾りか。
「おやおや、随分と数えるのが早くなったじゃないですか和馬さん?助かりますよ。芳賀さんは未だに書くのも数えるのも苦手なものでして。私の負担が減る事はないままです。」
「黒くんはその分他に得意な事があるんですって。ワイじゃ到底出来へん事、いくらでもやてのけますし。」
「愛嬌だけではやり過ごせない事が多いのですよ…」
そう口にする彼・相良志朗はまるで親のようだな口ぶりだ。自分に向けられた言葉ではないからこそ、どうしてか養父の存在を思い出す。あれを口煩いと感じた事はなかったが、向けられる他人の言葉を耳にするのは何故かどことなくこそばゆいものだと知る。傍から見れば、たとえばあまり口をきく事はなかったが五鈴や嗣定も似たような感覚を味わっていたのだろうか。
「いえ、にしても随分と馴染みましたね和馬さん。もし屋敷を追い出されるような事がありましたら、どうですか?春原討伐屋に来られませんか?私は歓迎しますよ。」
「ははっ、ええんですか?そういうのはそれこそ千方君に聞かなくちゃいけ、ないん…じゃ…、」
言うて、和馬は少し言葉を詰まらせた。
つい口が滑ってしまったのだ。なるべく避けてきた話題にまさかこのような形で触れることになろうとは。どうしたものかと焦るのも束の間。相良の後方、裏口から入ってきたであろう青年の明るい声が響き渡った。
「たーだいま戻りましたっ!見てくださいよ相良さん!裏手の島の爺さんが一人じゃこんなぶっといの食べきれないからってんで、これもらったんですよ!大根!立派でしょう!伽々里さんもう帰ってきてますかね!まだ夕餉の仕込み間に合うかな⁉︎」
どたどたと大きな足おとを立てて、部屋に入るなり黒髪の青年は相良の元へと駆け寄った。
仕込みに間に合うかの心配をするのなら早い所台所に足を運べばいいというのに、子どもであっても気を遣われているのだなという事がよく分かる。
年下に気を遣われるというのは妙なものだが、彼・芳賀黒介という青年はそういうところがあった。
先程相良が言っていたように愛嬌があるのも彼の良いところだろうが、それ以上に彼はよく場の空気、流れというのを人以上に読むのだ。気苦労で胃が痛くなる事もあると言っていたが、目に見えるような苦労を見せないというか。それを相手に気取られないようにするのが非常に上手いのだ。
芳賀が相良の相手をする間に、和馬は手早く持参していた風呂敷にその紙面を包んだ。
窓越しに見えていた空は、先ほど目にした時よりもはっきりと暗く傾きだしている。まだ西の方は赤く見えるが、それもそれこそ一瞬だろう。一時目を逸らせばその間にも沈み切ってしまいそうだ。
そういえば今日はまだ彼女が迎えに来ていないが、何も約束をしているわけではない。
屋敷までの道順など変わることはないし、もし向かっている最中だとしてもすれ違いになる事はないだろう。それから…
(あぁ、そうだ…。今日美琴様も話がある言ってたわ…)
春の、なんであったか…。内密な話で外部に洩れることはないが、大主が不在となっている今、扇堂家は分家の扇堂美琴が執り仕切るようになっていた。
本家の人間である大主が倒れられた今、東の離れに住まう何も知らない彼女に任されるような事は何もないのだから。
(そんなん、嫌だろうな…)
想像するだけで気分が悪い。
息が詰まるどころの話ではない。
本来であれば彼女が、扇堂雪那が美琴の代わりに大主の、扇堂杷勿のこれまで担ってきた責務を果たす必要があるのだ。そんな事、彼女自身が一番分かっているだろうに。彼女は何も出来ない。長く離れに引き篭っていた彼女が今更触れていい話などほとんどないのだ。
(仕方のないこと…仕方がないで片せる話じゃないわ…)
なにも美琴は雪那を蔑ろにしてはいない。
直接言葉にすることはなくとも、美琴は雪那を大切に思っているのだから。
美琴にその身を拾われ、扇堂家の屋敷に置かせてもらっている和馬はまだ日が浅いだろうが、雪那に届くことはない彼女なりの優しさを目にしてきたから。
「言えたら、楽なんやろうな…」
芳賀の声は玄関口の右手に位置する、台所に立つ伽々里にもしかと届いたのだろう。
いっそわざとらしい助け舟に当然のように肖るだけ肖って、早々に春原討伐屋を後にしようとした和馬を伽々里の声が呼び止めた。
「もう、お帰りで?」
「はい。ほんまやったら雪那ちゃ…雪那様が迎えに来る筈なんやけど、道間違えな多分すれ違える思うとります。」
「そうですか…。少々残念ですね。折角これから賑やかになるといいますのに。」
ぺこりと、会釈を一つ。
何が賑やかいなるのかという疑問は残ったが、ほくそ笑んだ彼女の関心は直ぐに自分から手元の鍋へと落とされてしまう。屋敷の広い厨房にいる下女達を見て知ったが、鍋を見ている最中の女性に気安く声を掛けてはならない。男には分からないだろうと言われたが、鍋の火加減というものは戦なのだという。
そんな短い会話を挟む間に、木窓から覗く空はすっかり暗くなってしまった。
夏に向けて徐々に日が長くなるが暗くなるのは一瞬だ。
この里の春はまだ夜が寒い。
夜風が強くなる前に、もうこんなに暗くなってしまえば彼女が外を出歩く事もそうそうないだろうが、早く屋敷へ帰ろうと草履につま先を入れた、その時だった。
「いい加減にしてくだせぇ坊っ!!不貞腐れて子どもじゃありませんでしょうっ!!弥代の嬢ちゃんは疲れたから帰るったんです!長屋がありましょうに!」
「一緒にいた。離れる意味が分からない。」
薄い扉を隔てた向こう、外からどこか知った声が聞こえた。
履ききれていない草履に足元を取られながらも、和馬は慌てて引き戸を開けてみせた。
辺りが暗くとも、討伐屋から漏れ出る光でその姿をはっきりと目にする。
長躯の眼帯を付けた男に、無理やり羽交い締めにされるように引き摺られるる暗い髪の青年。そう、討伐屋の主人である春原千方と、彼と共に里を暫く留守にしていた館林二葉の姿がそこにはあった。
「千方君っ!!」
小脇に抱えていた紙面を風呂敷ごと落としてしまうのに、和馬の反応は遅れた。
長いこと。もうかれこれ半年程は姿を見せなかった、もしかしたら知れずどこかで野垂れ死にでもしてしまったのではないかと否定が出来ずにいた二人が何事もなかったかのような、知る姿で帰ってきたのだ。年甲斐という程ではないが感極まってしまう。
しかし直ぐに散らばった紙面を掻き集める。
屈んで二人を見上げるように視線を送るも、やはりというか。館林は気付きはしてくれたものの、春原と目線が噛み合う事はない。どこか遠く。具体的に言うのならそう、意中の相手とでも呼べようか。二人がこの半年、里から姿を消していた理由である探し相手である弥代に向けられているのだろう。春原の見つめる方角に確か弥代の暮らす長屋があったような、なかったようなそんな気がする。
二人の口ぶりからして、探しに行った弥代も無事にこの里に帰ってきたのだろう。誰よりも一番弥代の行方を心配していた彼女を思い浮かべて、良かったと心の中で呟く。
自分が気付いていなかっただけで、この様子だと暫くの間討伐屋の前の通りで館林が喚いていたのか。伽々里はそれを耳にしていたからこれから賑やかになると口にしたのか。事実はどうであれ、噛み締めきれなかった喜びを表情に滲ませながら和馬は立ち上がり、どれ一つ肩でも叩いてやろうかとしたのだが…
「ご無沙汰しております、藤原の御人。鶫はとてもお会いしとうございました。」
まだ微かに残る西陽に縁取られた白い少女によって、それは阻まれた。
「ったくよ、信じられねぇ…。」
「全くだね!ボクだって同情しちゃうよ!」
「だって?……いやまぁ信じられねぇのはお前も同程度だけどな。」
無理やりに腕を絡め取られる。見慣れないその厚みのある下駄のおかげか、中々肩が並ぶこともない、絡めてくる側の方が大きいのだから傍から見れば不恰好な姿に違いはないだろう。止めろと言ったところできかない事を身をもって知っている弥代は最早ため息すら出てきやしない。
突き放す気など毛頭沸かない。
もうほとんど相手に体を預けるような気持ちで過ごしていれば、詩良が何かに気付いたのだろうか。ジッとその視線が弥代の左半身に向けられる。
「弥代、刀どうしちゃったの?」
「あ?」
恐らくは半年前に長屋をでる際に自分が持っていったあの刀の事だろう。言われてそういえばもう長い間触れていなかったと弥代は思い出した。
「色々あってな、鞘無くしちまったんだよ。抜き身のまま持つのは危ねーし、人の目もあんだろ。館林が包んでくれてよ。相良さんが刀なら詳しいからってんで持ってってくれたってわけよ。」
「たてばやし…?さがらさん…?」
馴染みのない名前に小首を傾げる彼女。自分は面識があるものでてっきり彼女も知っているものと思っていたが勘違いだったようだ。彼等と彼女には接点がなかった。
一度だけ一緒にいる時に、どこからともなく現れた春原と対峙したことはあったがそれきりだろうか。
榊扇の里で彼等が、春原討伐屋が看板を掲げるようになって後少しで季節が一巡するといったところ。目につくような活躍があるわけでもなく、日々扇堂家からの依頼として里の巡回を、若い手が足りないという西区画の農村地帯への力仕事に駆り出されるといった程度で、討伐屋という名が浸透していないのが現実。
下野国から津軽への道中、改めて長い時間を旅をする中で過ごすようになり、これまで落ち着いて話すような機会もなかった、他愛もない話を(春原は会話について来れない為、もっぱら話ていたのは弥代と館林だったが)していたものだ。
実際に武蔵国から相模国へ移り住んだものの、以前のような名に恥じない実績を残すような事は無いのだと彼は話していた。里に以前より暮らす者達は春原討伐屋をどのように捉えているのだろうか。想像はつく。
小遣い稼ぎ程度に顔を覗かせる自分だって、これまで彼等の本業である妖怪討伐などという場面に遭遇したことは一度もなかったのだから。
(腕はあるのは知ってるんだけどな。振るう場所があるとないじゃ違ぇだろ。)
その場に居合わせたわけでも、詳細に見聞きしたわけでもないが、南部の屋敷にて、春原の手によって屠られたとされる小雨坊という妖怪の亡骸を弥代は目にしたのは事実だ。
足場を失い落下した崖の下。重症を負った北の彼に肩を貸し、言われるがまま道を進んだ。弥代らが屋敷に戻ってきたのはその日の昼を過ぎたことだったか。
小雨坊の言葉を受けて遥々津軽の地へとやってきた弥代。何の情報も得る事はできなかったが、討伐屋がそれらしい事をした場面を目の当たりにしたのはそれが初めてだろう。
実際にとどめを刺したのは違うのだと、一部始終を見ていた瑠璃が話てくれたが、あまり覚えていない。
相手が妖怪であろうと引けを取らない。よくよく思い返せば以前にもあった。
扇堂家の地下牢より二人一緒に出たあの晩。里が、扇堂家が祀りあげる貴き存在神仏・水虎と対峙した時。
里に討伐屋の看板を掲げるようになった発端ともいえよう。神仏を相手に畏れることなく、無謀にも相手にしようとするその度量が大主に買われたのだ。
自分があの時逃げるように彼に言わなければ、彼はきっとその場に残ったに違いない。
必要最低限の争いさえもなるべく避けてきた、自分とは全く違うのだ。自ら首を突っ込まないようにしてきた。情をかけたところで遅かれ早かれ終わってしまうと。
本来であれば雪那との出会いも暫く世話をして、キリのいいところで終えるつもりだった。深く関わってその先。今も残っている、あの名さえも知ることの出来なかった雪の日の老夫婦を思い出すから。失うのが怖いなら初めから得なければ良いと考えていた。
(あぁ…、違うな。)
雑念を振るう。最近は思考があまりまとまらない。良くない傾向だ。以前のように簡潔に考えれればどれだけいいだろう。
ただ、分かるのは…、
(俺とあいつじゃ、何もかも違うんだろうな…)
逃げてばかりの自分と、逃げる事さえ知らずに立ち向かう彼。向けられるその視線から目を逸らす。そこに何が込められているのかを知るのは、怖いのだ。
「お前そんな面識ねぇもんな。えっとよ、俺がちょいと世話になってるところがあってよ。そこの奴等。」
「弥代がお世話になってるの?それじゃぁボクも挨拶した方がいい?」
「も?……いや、いらねぇと思うぞ。」
もう頬の熱は収まっている。
差し出したわけでもない左頬を叩かれた。ひ弱で筋力のない女相手でも人体の急所でもある顔を叩かれるというのはそこそこに痛いのものなのだ。いくら傷の治りが早いからといって痛覚まで鈍るということはない。
熱を持った箇所を軽く抑えながら呆然としていた弥代は、再び詩良に今と同じように腕を絡められる事で逃れられたと思っていた騒動の渦に巻き込まれたのだった。
痴話喧嘩。いや、痴情の絡れがひと段落ついたのは日がどっぷりと暮れてからだった。
そこそこ広い通りの店先だったというのに、年老いた店主は耳が遠いのか。夕餉の食材を買いに出ていた若女将が帰ってきた事で事態に気づき、力づくで解散させられることとなった。
商いをする家の女房というのは気性が荒いのだろうか。一向に怒りの矛先を収めない相手の女性の胸ぐらを掴み、勝ったばかりであろう大根でその頬を殴ってみせたのだから。
女の恐ろしさとも呼べよう。先ほど自分が経験したものがどれだけ優しいものであったかを思い浮かべて弥代は肩を震わせた。
春先。日が傾き始めれば冷え込むのは当然の事。
肌を掠める夜風が少しだけ大きな声を出した、元より疲れていた体に中々響く。
人のまばらになった大通りを不恰好に肩を並べて進むも、あいも変わらず自分がぶっきらぼうな言葉を返しても彼女は上機嫌だ。
落ち着いたら色々と話したい気持ちはある。
気持ち程度だと言われ別れ際、鶫から渡された銭を使って軽く腹でもみたそうかと考えたが、食欲よりも今は早く横になって寝たかった。
しっかり食べた方がいいと身をもって学んだというのに。一食ぐらいなら食べずとも大丈夫だろうと言い聞かせている。
任せっきりで暫く歩き進めていたが、その足がどこか見慣れた横丁の前で止まる。
長屋の入り口に設けられた戸口は、日が暮れれば早々に 寝入ってしまうことで知られる主人が戸を既に落としていたが、長屋に住まうものならこれの開け方をよく知っている。
秋の終わりから春口と。半季もの間留守にしていたというのに、その前の生活がすっかり身に染み付いた弥代はあっという間に隠された鍵を使って、錠前を外してみせた。
「あっ、そういえばね。なんか物好きな人がいるみたいでね。家賃を変わりに払って?くれたみたいなんだよ。」
「人様の家賃肩代わりするってどんな物好きだよ…何?暇なの?」
「よく分からな〜い。」
半季だ。半季もの間、留守にしていた自分。
戻ってくると言葉にしたが、その時彼女は起きていなかった筈だ。以前と変わらない様子で、再会を果たしたばかりの時は不満を少なからず漏らしていたものだが、今はもうそれもない。本当に少しだけ、変わらないその態度に安心してしまう。
未だに彼女が騙る、双子の姉という、血縁を弥代は信じていないが。それを抜きにして、弥代は彼女を少しだけ良いと感じていた。本当に少しだけ、信じてやれないかと、思っていた。拠り所が、欲しいが為だけに。どこか無意識に。
「信じられねぇ‼︎まじで信じられねぇっ‼︎寄んな!並ぶな‼︎追っかけてくんな‼︎」
「ちょっと待ってよ弥代!違うよ!ねぇ!話を聞いて!ボク何も悪いことしてないもん‼︎どうして逃げるのさ‼︎待って、ちょ、待ってってばぁ‼︎」
夜の榊扇の里にそんな大声が響き渡る。
お天道様の登っている間の賑わいを見せる街並みも、夜になれば鎮まりかえる。おかげで一つ大声が上がればそれを遮るものはなく、嫌というほど響いてしまうのだ。
お構いなしだ。そんなの普段の弥代であれば気にするだろうが今は関係ない。一切合切、今はそれどころではない。
「つーかオメェ!さっきのアレもそういうことだろ⁉︎そういうことだろう‼︎あーーーー納得したっ!合致したわ!自業自得だばーか‼︎」
「どうしてそういう酷い言葉言うのさ‼︎お姉ちゃんにそんな事言っちゃいけません‼︎」
「姉ヅラするんなじゃねぇぞ居候が‼︎押しかけ女房もびっくらの勢いで住み着いた分際のくせしてよ‼︎」
「意味わかんない!それ今になって持ち出すの関係なくない⁉︎弥代だって満更でもなかったくせして‼︎」
「満更でもないとか言うな‼︎」
明日は古峯の二人と約束をしているものだから、要件が終われば鶫から持たされた駄賃で一緒に美味いもんでも食いに誘うかという気持ちでつい先ほどまでいた弥代だったが、それは自分の借りている長屋の戸を開けた瞬間に崩れ去った。
思わず鼻を摘みたくなるような、立ち込める臭気。
条件反射的に匂いの原因を突き止めるように暗い、灯りのない部屋を見渡せばありありとまではいかないが、何かしらが行われたであろう痕跡が見てとれた。
経験がなくともそこそこ生きている弥代でも、それが何を意味するのか分かった。分かって、更に奥に視線を送ればそこには見知らぬ男が半裸になって横になっていた。
『……』
『あっ、そういえば約束してたんだった…、』
『は?』
先の喧嘩が脳裏を過った。原因は女房も子供もいる亭主が彼女・詩良と相引きを行っていたからだ。
立派な貢物まで用意して足を運ぶような仲だと知れれば、深い関係なのではないかと勘繰るもので。そういえば以前彼女と肩を並べて日中過ごしていた時も、彼女目当てに声をかけてくるものは多かった筈だ。
男受けの良さそうな猫撫で声に、その愛らしい風貌に惹かれる異性は少なくないだろう。
口ぶりからして決して仲を持った事を反省したという様子は微塵も感じなかったが、まさか、まさか…
「家に連れ込むとか思わねぇだろ⁉︎」
「じゃぁ何?外でしろとでも言うの?違うでしょ?あーいうのは床でするものなんだよ知らないの弥代?」
「知っとるわっ‼︎ちげーよ!誰もそんな話してねーだろ‼︎やるなって言ってんだよこっちは‼︎やる必要がないっ‼︎」
「一人寂しい夜ってあるじゃないかぁ?ボクは弥代のいない寂しさをただ埋めていただけなんだよ!怒らないで!ほらっ!一緒に帰ろうよっ‼︎」
「寄んな寄んな寄るなー‼︎」
毛嫌いしているわけではない。ただ弥代の中にある考えでは彼女・詩良のその行いが理解できないというだけで。
女性でありながら男さながらの振る舞いを常日頃行う弥代にとっては、抵抗ではないがそういった面に関する若干の拒絶が見られるというだけで。
ただそれは驚きや、先の一件を含めて怒りも湧き。
既に色々な事でてんてこ舞な頭では、もう正常に判断をすることも出来やしない。
出来やしないから…
「鶫さんっ‼︎助けて‼︎」
弥代が勢い任せに飛び込んだのは、春原討伐屋の敷地だった。
「賑やかに…なりましたね。」
「賑やか通り越して近所迷惑ですよこれ…。」
状況を整理しようにも整理がつかない。お手上げといった状態だ。
人数が多くなれば多くなるほど、事態の収集がつかなくなるということは相良のよく知るところだ。特にここ一年近くに至っては。
榊扇の里に移住をしてからというもの、どちらかといえば比較的静かだった討伐屋はある人物の登場によって目まぐるしく変化した。
最も変わったのはやはり討伐屋の主人である春原だろう。
これまでも自主的に動いてみえる機会はありはしたが、やはりそれはどこか受動的で。
自分が不在の際、伽々里と共に小仏近郊へ薬を届けにいった帰り道に、彼女・弥代に出会った事をきっかけに彼は変わり始めた。
その変化を、いい方向へ進んでいると。変化を目の当たりにしたばかりの頃は、徐々にではなく、一気に変わりだした日常は、日が経つにつれて次第に相良の胃を悩ませるようになっていた。
それは何も、勿論春原に限った話ではない。
討伐屋において最年少であった芳賀も、気軽に話しかけられる相手が出来たと、喜んでいたものだ。伽々里だって直接態度に示すことはなく小言を漏らすのは元からだが、弥代が齎す影響を悪いものとは思ってないのを相良は知っている。たった五人の小さな討伐屋は、その一人の存在で気付けば結構振り回されていた。
だが、
「だからっ!俺は帰らねぇぞっ‼︎あんな、あんな部屋っ‼︎」
「人様の家にこんな夜分遅くに迷惑掛けちゃ駄目でしょっ!!わがまま言わないで帰ろうよ弥代!」
「えぇっ!?弥代さんお姉さんいたんですか⁉︎み、水臭いじゃないですかこんなお綺麗なお姉さん、教えてくれたって罰は当たらないでしょうにっ‼︎」
「……弥代が、嫌がっている。」
「坊、嬢ちゃんの裾を掴まねぇでくだせぇ…離、離して…」
「いっそ騒々しいっ!!」
半年足らずの面識であるが、こういった場においては気が合うのか。
膝の上で拳を握り、肩を振るされる藤原和馬に相良は同情の念を送った。
自分以上に気にしいで、周りに振り回されがちな彼も今正に、現状に内心、いや表情に出てしまってはいるが、焦っていることだろう。焦りの要因はただ騒々しい彼らだけではない。
彼の傍らに身を寄せる、あまりにも白い少女と、その奥で鎮座する大柄な男。
「いや…その、えっと…ご、ごめんな。鶫ちゃん?やっけ…いきなり大きな声出して。あっ、でもほんとそんな近寄らんといて…あの、視線が怖いぃ。」
「そんな寂しい事を言わないでくださいな和馬様。兄はどうかお気になさらず。」「鶫⁇」
「……」
目元の眼鏡を正しながら、相良は深いため息を零す。
どうしてこうなったのかと聞かれれば、自分が教えてほしいものだ。
最近は扇堂のお嬢様が和馬を迎えに、従者である彼と共に討伐屋に夕刻顔を覗かせるのだが、今日はどういうわけか一向にやって来ず、他愛もない話を浮かべて過ごしていた。これまでは意識的に避けていたのだろう話に触れてしまった事で、拙い事をしたとでも思ったのだろうか。居心地が悪くなったように、芳賀と入れ違いで部屋を後にした和馬だったが玄関先でどういう巡り合わせか、行方が分からなくなった弥代を探しに半季近く姿を見れないでいた春原と館林が帰ってきたのだ。見知らぬ二人を連れて。
白髪の幼子曰く、自分たちは弥代の知人で。わけあって扇堂家の者と話をする為に、わざわざ下野国から彼等の旅に同行してきたのだという。宿を取りたいが、見知らぬ土地故、少しでも面識のある相手を頼りたい一心だとか。どういうわけか自分や芳賀達と口はきかず、伽々里と和馬にだけそのように言葉を述べる時点で、相良はその存在を微かに理解できた。
夕餉を終えれば、伽々里が使っていない部屋の用意をしてくる為に一度部屋を後にした。一旦は話がついたかのように思えたが、それから間もなくして、外から喧しい声が届く。何かと玄関を開けたところで、それは飛び込んできた。こ半季ぶりにお目に掛かる相手が泣き言を喚きながら討伐屋に飛びこんできたのである。
「姉じゃねぇってんだろっ‼︎姉であってたまるかこんな奴っ⁉︎つーかお前は何なんだっ‼︎離せっ‼︎裾を掴むなっ‼︎」
「お姉ちゃんだもん!どうして信じてくれないのさ!ボクの事あんなに受け入れてくれたくせしてそれはちょっと都合が良すぎるよ!!」
「あんなに、受け入れた…?」
「拾うな黒っ‼︎拾ってくれるな…っ‼︎」
「嬢ちゃんの言葉ならきくんですね…」
「………」
「和馬様も普段は扇堂家のお屋敷に住われていると聞きました。明日もしよろしければご一緒させていただいても?」
「…なんなら今すぐにでも帰りたい…」
「だーーーーっ‼︎うるせぇっ!!!!」
おもむろに弥代が立ち上がった。我慢の限界なのだろうか。それはこちらも同じ事だ。しかし静観するだけの自分が何か言える立場でもない。
夜分も遅いというのにわざわざ貴重な明かりまで煌々と明かりを灯している。客人の二人の為に居間を出ていった伽々里が戻ってくるのはいつになることだろう。彼女の正に鶴の一声にはいつだって縋りたい気持ちでいっぱいの相良が、すっかり冷め切った茶に口をつけていると、視界の端を何かが凄まじい勢いで横切り、それはすぐさま弥代の後頭部に直撃した。
「賑やかしいにも程がありましょう、程が。」
「っだぁ⁉︎」
鈍い音が響く。一瞬で各々が口を閉し静まり返る部屋の中、すぐさま弥代が頭を抱え蹲った。
「真っ昼間か何かと勘違いをされてはおりませんか皆さん?まだ食べていない方早くお食べくださいまし。そして早々に体を流し、どうぞ布団に入ってくださいませんか?何一つ、片付きはしませんので。」
畳の上に転がった湯呑みが一つ。それが自分がいつも出されるものである事にいち早く気づいた芳賀は身を震わせて、伽々里に小言を言われる前に誰よりも一番最初に立ち上がり部屋を後にした。
「館林さん。湯が冷めてしまいます。お早い、うちに。」
「へ、へぇ…、」
続いてただっ広い背中をそのまま情けないまでに落として、館林がおずおずと湯汲みに向かう為廊下へと姿を消す。。
「春原さん、お疲れでしょう。せめて御体だけでも拭って、今日はもう横になってください。明日、ご用意をいたしますから。」
「……」
「お返事を?」
「…分かった。」
渋々。部屋を出ていく際もその視線はチラチラと振り返り弥代に注がれるが、相手にされやしない。
「和馬さん、もう流石にこの時間に屋敷に戻られるのは手間でしょう。先ほど屋敷の門番をされている吉田屋の方に、既に伝言をお願いしていますので、どうぞ今日はあちらの部屋で休まれてください。」
「分かりました…。」
「弥代さん?と弥代さんのお姉様でしょうか?時間をどうか考えていただいた上で、なるべく静かに。お食事はまだでしょうから、後ほど部屋にお運びしますわ。なるべくお静かに。」
(二回言った…。)
「二回言われた…。」
湯呑みの当たった後頭部を抑えながら、伽々里に逆らうような真似はせず、弥代は風変わりな格好をした彼女を連れ、しかし部屋を出る間際、何か言いたげな表情を浮かべながらも出ていく。
「相良さん?」
「は、はい…」
順当にいけば自分が最後になるだろうと思っていた為、何も心の準備をしていなかった相良は慌てて姿勢を正し、湯呑みを置いて彼女に向き直った。やや前のめりになりながらも真っ直ぐ体を向ければ、案の定冷ややかな視線が注がれる。
「年長者である貴方が、ただ静かに傍観を決め込むのは私、よろしくないと思うのですよ。どう、お考えで?」
「ど、どうと…言われましても…」
「止めるべきでは、ありませんでしたか?」
「……仰る通りです。」
身を屈める。先の弥代のように何かされたわけではないが、何もぶつけられたわけでもないのに、こんなにも、こんなにも身が痛い。辛くなってきた。
「お酒は、暫く禁止です。」
「すみません…。」
のらり、くらり、のらり、くらりと。
男のその気怠い腕が暖簾を潜れば、その先には既に身支度を終えた青年がいた。春先とはいえどもまだ十分に寒さが残る朝方に、嫌な顔一つ浮かべもせず、桶いっぱいの水を抱えた彼は忙しなく移動をしていた。
約束をした手前、今日は久方ぶりに丸一日酒を我慢し、酒気が抜けるまでじっくりと部屋で休ませてもらったものだが、まさか一日中横になって過ごしていた自分よりも早く、準備を彼が動き回っていようとは考えてもいなかったもので、どこか素っ頓狂な声を上げてしまう。
「坊主、何や起きとったんなら言えや。手、貸す約束やないか。」
「おはようございます、隅田川さん!いえいえ、もう癖なんですよ早く起きるのは!こればっかりは、体が勝手に起きちゃうもので!」
脇に用意されていた襷を掛けながら、彼に近付く。頭巾を被るのに懐から出されたそれを受け取れば、男は少し困ったような表情を浮かべた。
「髪、長いのアカンな…」
「仕込みをするのには邪魔になっちゃいますけど、でも俺は隅田川さんの髪、結構好きですよ。」
「だぁーほ!男の髪褒めて何になんねん⁉︎褒める女の一人二人作ってから言ったれや!」
「ははっ、いたら苦労しませんね!」
余分な紐はありはしない。しかし伸び切った後ろ髪を頭巾一枚で上手く収めるのには少し梃子摺りそうだ。せめて軽く括れないものかと、一度部屋に戻って何か手頃なものでも探そうかと考えていた所、彼が何を思ったのか干瓢はどうですか?なんて意味の分からない言葉を口にした。
「か、干瓢…?」
「丈夫なもんですよ干瓢!いざという時食べれますし、美味しいです!」
「丈夫に美味しいって…、それで髪結うんは話がちゃうやろ。信じられんわ、干瓢っておま…間違っても他人の前でそんな事言うなや。気、疑われるで。」
「あれ?そうですか…?」
妙に頭が冴えてくる。
思わずつっこみを入れなくてならない、どこか感覚のズレた彼と会話。何とも噛み合わないながらも拗れる事はないのが不思議なものだ。
そんな事を話しながらも、彼は別の桶に浸していた大豆の水を切ってから、少しずつ潰していく。しっかり水を吸った大豆は、元は固かったが、幾分かこれで柔らかくなる。ここでしっかりと潰しておかないと、布で漉した後食感が偏ってしまっう。なるたけ均等に仕上げねばならない。
「あぁ、やっぱりこれは慣れないと上手く出来ませんね。」
「貸してみ、腕に自信ならあるさかい。」
ほとんど見様見真似に、それでも青年よりもよく知った、今はもう見ることの無い背中を思い浮かべながら、男はすり棒で大豆を押し潰していく。
少量ずつ、ゆっくりと、丁寧に。
これがとても体力を使う。腕の力だけでは柔らかくなったといってもまだ僅かに固さが残るのだから。
決して稼ぎに余裕があるわけでもないのに、見ず知らずの自分が腹を空かせているのに、二丁も恵んでみせた亭主の、丹精込めて作られたあの豆腐には程遠いだろう。
中々子宝に恵まれなかったという夫婦の間に子が産まれたのは十五年ほど前の事。そんな噂を耳にして祝言の一つや二つ掛けてやろうかと立ち寄った時には、既に上総国からこの里移り住んでいたようだ。
再会を果たしたのは、年を越したばかりの頃。昔同様に豆腐を担いだ荷台を押していたところをすれ違った。話を聞くところによると、どうやら待ち望んでいた倅が"色"を有していた為に、不自由な地で生きるのではなく、“色”に理解のあるこの地に移住することを選んだそうだ。
移り住んでもう十年以上が経つ。伴侶の妻は先の冬を越す事が出来ず先立ってしまったそうだが、男手一つであっても、まだ若い息子の為に頑張らねばならないのだと、そう意気込んでいた。
気が向いたら店に顔でも見せてくれと言われたが、まさか気が向く前に違う形で再び会いに行く事になろうとは思っていなかった。
まだ成人を迎えて間もない息子一人残して、まるで先に逝った妻を追うかのように、亭主も冬を越すことなく先に逝ってしまった。
店だって残ったままだ。しっかり修行を詰んだわけでもない、右も左もまたまだ分からない息子を本当に残して。もっと早い内に子供を授かっていれば違う未来があったやもしれないのに。祝言どころか、初めて顔を合わせる事となった恩人の倅を、男は見捨てることが出来なかった。。
まだ下の毛も生え揃わないようでは立派に嫁を貰う事ができるのも当分先の事だろうが、せめてその日まではせめて見届けてやりたいものだと思うのだ。自分の子供とは未だ向き合えていないというのに、だ。
直接、言葉を交わすことすら出来なかったあの晩を思い出す。目尻の下がり具合が今も夢に見る愛した彼女によく似ていて、腹から掬い上げたその時は黒かった髪は、まるで別人のように白く染まっていたが、あれはまごう事ない、己の息子であった。
自身の問題を引き伸ばして、他人のじじょうに首を突っ込むのだからなんとも世話ない話だ。
「……」
気取られない悟られないように、ほんの、少しだけ。
男は、上総の主人の倅に、息子の姿を重ねる。何のしがらみもなければ、それでもしかしたら自分も息子と肩を並べて過ごせたのかもしれないと。夢を、見る。それぐらい寛大な仏様は許してくれる筈と。
別に信じてもいない神にそんな馬鹿げた事を願ってしまうのだ。
「何も、変わってないじゃない。」
ぽつりと、女が呟いた。
誰もいない部屋で、壁に手を当てて、静かに呟く。
意地の悪い言葉を掛けた自覚はあるが、あれでは何一つ変わってはいない。長い間顔を見ることはなかったが、ここ一年ほどは何かしら心境の変化があったと耳にしていたからこそ、どこかで期待をしていたのだ。
(裏切られた。)
自分本意な押し付けとわかっていながらも、彼女はそう考えずにはいられない。
(裏切られた、)
吐き出しようのない感情に飲み込まれてしまいそうで。
(また、また…)
『あざみちゃん…?』
差し伸べた手を、彼女が取ってくれる事はなかった。




