二話
それは年の瀬に起きた。
大主・扇堂杷勿のために煎じた薬湯を、彼が日課として持っていたところ。何やら大きな物音を耳にしたのだという。
あまりの大きさに驚き盆の上に零してしまったそうだが、手ごろに拭えるものもなかった為、仕方なしに奥の間に足を踏み入れたそうだ。そうして彼は、その光景を目の当たりにしたのだ。
『杷勿様…っ!』
抱えていた盆を落とそうともお構いなしに駆け寄った。
不恰好な体勢で冷たい床に横たわるその体に触れたそうだ。慌てて体を起こすような事はなく、突然の状況に酷く狼狽えようとも、静かに天井を向かせ、裾を捲りその手首で脈をとった。
還暦を迎え、歳を重ねれば重ねるほど徐々に弱まっていく彼女の脈であったが、それが途絶えているという事はなかった。
そっと胸を撫で下ろしたのも束の間。半刻程席を外していたが、それまで特に様子が変わられた風には見えなかった。一体彼女の身に何があったのかと考えていれば、視界の端にあの存在がチラついたと言う。
「あれ、とは。なんでございましょうか。」
「分かりきった事を訊かないでいただけませぬでしょうか。」
「念の為、ですわ。」
証言に含まれぬ内容は書き記さなくていいと伝えていたが、最早耳にした会話をそのまま書き留めていた書記を一度制した後、扇堂美琴は再度、頭部に包帯を巻いた男・佐脇三一に視線を向けた。
彼の傍らには、本来であれば東の離れに棲まわれる扇堂雪那付きの下女である戸鞠がいた。拾われてから長年、熱心に彼の話に耳を傾けていただけはあり、その手際はよく。屋敷の中でも医術に精通した佐脇の次に、その腕を評価されていた。そっと彼の体を支えるも、佐脇自身からすれば、それは要らぬ世話だったのだろうか。
小さくその手を払い除け一息吐いた後、落ち着いた様子で静かに切り出した。
「見間違えるものですか。見間違えるわけが、どこにありましょう。あれは、そう、水虎様でした。」
稀に扇の血を有する、あるいは“色”を持つものでないとその姿を目にする事が出来ないとされる神仏・水虎。
三十年近くこの屋敷に棲まう佐脇が、その姿を目にした機会はこれまでも多くはないという。何故なら彼は、“色”を持たぬからだ。
二十年程昔であれば、間接的に関わりがあった事からその姿をお目にかかる機会はあったそうだが、もうずっと長い間目にしなかったという。
最期に目にしたのは、先の鈴木家との縁談話の際以来との事。
扇の一端を担う自身だが、佐脇同様に“色”も、“血”さえも流れぬ自身も似たような者であることを扇堂美琴は彼の言葉を受けて思い出した。思い出したところでどうという事はない。
いくら大主が不在とはいえ、やはり自分のような何も持たぬ者が指揮を執るというのはあまりにも烏滸がましいだろうが。
「まだ万全ではないでしょう。御無理をさせてしまい申し訳ございません。」
「無理など…とんでもない。それよりも杷勿様は、杷勿様の容態は?」
額に深く刻まれた傷跡からは、安静にしていないとあれから五日も経過しているというのに今でも血が滲み出てくるのだと、下女から報告を受けていた。十分に無理をさせているのが、その額を見れば分かる。じわりと赤く滲み出した包帯は、また直ぐに交換をする必要があるだろうに、痛まないわけがないというのに彼は自身の身を按ずるなど二の次に、以降顔を見れていない主人の心配をするような言葉を投げかけてきた。
今貴方を支えようとする下女の力や、屋敷の事情に詳しい医師に手を貸してもらっていると、そう伝えればいいだけだろうに。扇堂美琴は言葉を濁した。
どれだけ安心させる言葉を口にしたところで、彼が素直に大人しくするようには思えなかったからだ。
「どうぞ、ゆっくりとおやすみくださいませ。」
裾をそっと払い、乱れてもいない佇まいを整えると、部屋を後にした。
佐脇三一が奥の間にて意識を失った大主、そしてその場に居合わせたという神仏・水虎を目にしたという日の暮れ。
扇堂杷勿をまるで庇うかのように覆い被さり、身体中のいたる箇所に傷を負った姿を発見したのは夕餉の配膳に訪れた下女だった。
持っていた膳を落とし、足元に散らばった米に気付かず転がり、そうして甲高い悲鳴が屋敷に響き渡ったのだ。
男手のあまりいない屋敷内だったが、悲鳴を聞きつけた下女中がすぐさま事態を把握し、近くに居合わせた見張り番らの手を借り、西区画にある療養室へと静かに運び込まれる形となった。
榊扇の里を治める大主である扇堂杷勿が倒れられたと知れては、容易に民の混乱を招いてしまうだろうと検討がついた事だろう。
大主に何かがあった場合、判断を仰ぐの相手を教え込まれていた下女中は迷いなく、その足で扇堂美琴が過ごす部屋へと向かった。
飲み下しやすいようにと温く用意された汁に手をつける暇さえもなく、彼女は大主が運ばれた療養室へと同じように足を運ぶ事となったのである。
(まさか、誰がこの様な事になると想定したでしょう。)
一時。
先の神無月の晩、神仏・水虎への祈りを捧げる最中意識を失った大主に変わり、急を有す事態であった為仕方なくその場の指揮を執りはした時とはわけが違う。既に五日、日が経過しようとしているのに一向に大主は、扇堂杷勿は意識を取り戻さないのだ。
こんな日々が果たしていつまで続くというのだろうか。
息苦しさを思わず抱く。自分に何ができようものかと、何も持たない自分に一体何ができようものかと。思えど、吐き出す事は許されない。
(所詮、私は。雪那様の代わりにも満たない、なりえないのですから…。)
佐脇からの話を私室に戻り整理しながら、胸を抑える。
すれば自然と、下女の巴月が彼女の背を摩った。
「無理なさらないで、美琴様。」
仕方のない事なのだ。これは必要な無理なのだから。
「まぁまぁ、顔色が優れませんわね美琴様。もしよろしければこちらを。就寝前に湯に浮かべてお飲みいただければ、張り詰めた気も多少は和らぐことでしょう。」
「何から何まで手を患わせてしまいすみません伽々里様。早速今宵より、いただいてみますわ。」
下駄を履いたまま縁側に浅く腰を落とした、目尻と口許に紅を差した女がくすりと微笑んだ。元より細い白眼が、女の艶やかな黒髪と揃いの縁取りに埋もれてしまいそうであったが、最期まで閉じきってしまう事はない。薄く開かれた瞼の間でも変わらず、その瞳が自身を捉えている事を美琴は知っていた。
「何から何まで助かっております。佐脇は今は腕の傷もまだ治っておりません。薬一つ、あれでは儘ならないとぼやいておりました。」
「屋敷の医師の方でしたでしょうか?そうですか、それは大変不便でしょうに。」
直接口にすることはないが、美琴は彼女・伽々里の言動に白々しと思えてしまった。当人は無理に嘘を吐く気はないし、下手に隠すような魂胆もないのだろうが、彼の名を聞いてそのような反応を返せるのだから、肝が据わっているどころではないだろう。
触れるつもりはないため、それ以上その名を出すことはしなかったものの、受け渡された硝子瓶を縁側の淵に並べてみせた。
庭を彩る桜の花弁が、僅かに春色を身近なものに感じさせる。
「それと、これは要らぬお節介かもしれませんが。雪那様に、こちらを。同じものになりますが。」
「雪那様に、ですか?」
小包に入れられた、生地越しの感触は先ほど渡された硝子瓶に似ている。
彼女に限って毒を渡してくるような事はないと分かっていても、受け取った中身を軽く開けて、確認を行うがやはり変わりはなかった。
「まさか貴女様の口から雪那様の名前を聞くとは思ってもみませんでしたわ。」
「白々しいのはどちらでしょうね。霜月に寄越すように手引きしたのは美琴様ではございませんか?」
ピクリと、美琴の肩が揺れた。
睨みつけるつもりなど毛頭ないが、やはり侮る事の出来ないその存在に小さく息を飲む。
「他に術がなかった事を、まさかそのように言われてしまうとは心外でございます。」
「私こそ心外ですわ。そんな他人行儀。知った仲でしょうに。」
「伝える相手をお間違いではありませんこと?」
「あれは今も幼いままです。伝えたところで意味などありはしませんわ。」
まるで捨て台詞かのように、彼女は浅い腰を持ち上げた。
丁度廊下の奥から下女が茶を持ってきた姿が見えたが、言葉を交わす相手を、関わる相手を選んでいるかのように。
「言付けなど、必要はありませんわ。」
薬を置いて、彼女は去って行った。
季節は早いもので、冬から春へと入り込んでいた。
古い暦の上であれば夏などあっという間であろうが、年々徐々に季節の訪れが遅くなっているかのように感じた。
まだ真冬の寒さが残る屋敷内では、下女らの多くは半纏を着込み仕事に勤しんでいた。同様に美琴自身も数枚羽織を纏って過ごしていた。
秋の乾いた空気以上に、冬は吸い込む空気一つ身を刺すのでやはりあまり得意ではない。擦り合わせど芯から冷え切ってしまった体はその程度で温まらない。
吐きだす息は微かに、白かった。
大主が倒れられてから早いもので三月。未だ、彼女の目は覚めない。
まるで少し昔に戻ったようだ。
二人、特に言葉を交わすこともなく。一定の距離を保って控える氷室に雪那はそんな事を思う。
先の秋口より、扇堂美琴の根回しのおかげで屋敷に棲まうようになった幼なじみの和馬は、短い間ではあるが美琴からの命を受け、氷室と二人、雪那の身の回りの世話をするようになった。
氷室自身がそこまで若くないのは、その顔に刻まれた皺でよく分ったものだが。改めて他の者からの口添えで変わると始めの頃は違和感があった。昔知った仲という事もあってか、数日とかからずに自然と言葉を交わせるようになっていた。
外へ足を運び、弥代と出会えば随分仲が良いじゃないかと揶揄われた程だ。長い間関わることがなかったのが不思議な程、ありのままで接することができたものだ。
しかしそんな日々も直ぐに途切れてしまった。
秋雨の降る晩を境に弥代の姿を雪那は見なくなってしまった。
二日程は弥代が借りている長屋にいたそうなのだが(雪那に代わり氷室が足を運び確認をしてくれた。)、弥代の姉を名乗る少女にどこかに行っちゃったと、言われた。
榊扇の里で弥代が暮らすようになって半年程が経つだろうか。姉を名乗る少女が本当の家族かも、ただ名乗るだけの少女かも知らないが、まさか同じ屋根の下一緒に暮らしているなんて、雪那は知らなかった。知らされて、いなかった。
屋敷を出て一人で里で暮らしたいと弥代が言った際は、少し強引に我儘を言った。四六時中いるものじゃないと嗜められ折れたのは自分だが、氷室の口からそんな話を聞かされたばかりの雪那といえば、拍子抜けとでも言うか、言葉を失ってしまった。
思い返せば雪那は自分の事ばかり弥代に話し、弥代の話をまともに聞いた覚えがなかったからだ。
お友だちなんて胸を張っておいて、何も。何も自分は弥代の事を知らないのだと、その時雪那は理解した。
弥代自身が自分の話をあまりしたがらないのは薄々勘づいていた事だが、姉を名乗る少女と一緒に暮らし始めたなんて。それぐらい、話てくれたって良かったのではないかと。そう、思ってしまったのだ。
行方の分からなくなってしまった弥代が、途端に心配になった。
誰にも相談が出来ないような悩みでも抱えているんじゃないか。忘れていたわけではないのに、脳裏の端であの牛舎の中、今は亡き三ツ江が口にしていた言葉を思い出したのだ。
『私はその晩、目にしたのです。あの燃え盛る炎の中、渦を巻く角を生やしたあの鬼を。兄の瞳のような青い髪に、炎さえも取り込むような紅い、紅いあの瞳を…あの鬼の姿を…‼︎』
忘れていたわけではない。思い出すきっかけがこれまでなかっただけで。
思えば、弥代はあまり里の年老いた者とあまり言葉を交わしていなかった。
三ツ江の正しい年齢を雪那は知らないが、二十年ほど昔にこの里で起こったとされる大火災の、それを引き起こされたとされる鬼の風貌に似ていると、そう称された弥代が。同じだけ長く生きている老人らにそう疑念を抱かれ、それに居心地の悪さを感じていたとしたら…。
春原討伐屋ぐらいしか都合のいい者らを知らなかった雪那は、間接的ではあるが扇堂美琴からの伝言を預かった和馬に支えられ、そうして弥代の捜索を依頼する形となったのだ。
そして一気に人手が足りなくなってしまった春原討伐屋には、日夜和馬が穴埋めをすることで何とかこれまで通り回るようになり、当然のように雪那の傍にいる時間は減っていった。
何もそれまでの短い間、朝から晩まで傍にいたわけではなかったが。それまでの生活の、起きている時間の大半を春原討伐屋で過ごし、雪那と日に二度は顔を合わせ、そうして最期には美琴の元へと戻り、また扱かれる日々。和馬の負担など、簡単に想像がついた。
年の瀬には突然、表立って里の者には知られていない話だが、大主であり雪那の実の祖母にあたる扇堂杷勿が倒れられ意識を失ってしまった。
この三月の間、分家ではあるが扇堂美琴が代役を務め、以前のようまでとはいかないが体制を整えている扇堂家。重要な席には同席を求められる事もあるが、これまで目を逸らしてきた罰があたったのか、息苦しさや重圧に耐えられず気を失ってしまうこともしばしば。下女の戸鞠は何かと怪我人や、杷勿の介助の為に佐脇の元へと足を運ぶ頻度が増え。もうずっと、氷室と二人こうして東の離れで過ごしているような、そんな気がしていた。
何もこれまでもずっと二人だったわけではない。
乳母の葵が亡くなって、それから…。
「……あれ?」
一つ、つっかかりを覚えた。
「そろそろ、出られますか?」
折り畳まれた羽織を腕に抱え、氷室が歩み寄ってくるのに雪那は静かに視線を持ち上げた。
今、何か違和感を覚えたような気がする。
正体の分からないそれがどうしてか歯痒かったが、氷室のその言葉に視線はそのまま外へと向けられた。
まだそこまで傾ききってはいないだろうと感じていた夕陽が、先よりも少しだけ強く感じる。
日が暮れるにはまだ早いが、屋敷の西区画ではもう間もなく夕餉の支度が始まることだろう。
温かい内に食べるにこしたことはない。
真冬に比べれば比較的陽も伸びたが、食事時は変わらないのだ。
今も汗水垂らして春原討伐屋でこき使われる、和馬を迎えに行ってやらねばならない。
わざわざ顔を見せに訪れる彼の負担を、少しでも減らせるというのはただの口実で。
雪那自身、少しでも気心を許せる相手の顔を見て安心したかったのだ。
屋敷を一歩出れば、その髪と瞳は人目を引く。
東の離れから外へ少しずつ出歩くようになった雪那を、今更わざわざ大声で呼ぶような里の者はいないが、向けられる視線は優しいものだ。長年、どこかで恐れていたようなものとは違った。
何もそれに気付いたのは屋敷に戻ってきてからではない。やはりあまりの特異な“色”に向けられる種類は異なったが、それを特別指差されたりする事も吉野宿ではなかったのだから。
人目を引く事実は間違いないが、だからといって何もない。
古い書物において、“色持ち”というものは古くからこの島国において迫害の対象とされてきたと記されてはいたが、今も変わらずそのままなどという事はないのだ。少なくとも、“色持ち”を多く受け入れるこの榊扇の里では。
「…。」
夕焼けに染まる空が、赤い。
本来の“色”を塗り替えられるような。
晴天の下では目立つ“色”も、この赤く染まった町並みではそこまで目立つこともないような。
そういえばもう時期は過ぎてしまったが、弥代と出会った時も夕暮れだった気がすると、一人雪那は思い出した。
もう長くその顔を見ていない為か、何かにつけてその姿を思い出してしまう。よくないと分かっているのだが。それでもこうした、ふとした瞬間に思い出してしまう。心の内だけなら許してほしいものだ。
(初めて会った時は、逆光でよく見えなかったのよね。それで…助けられて、やっと“色を持っていると分かって…。”)
『何だお姉さんも俺と同じ“色持ち”か?じゃぁ色々とお互いに不便してんだろ。お互い様ってことでさ、それでこの話は終いにしようぜ。』
助けてもらったお礼をしたいと述べたというのに、どういうわけか一方的に話を終わらせようとされた。今にしてみれば初対面の相手にそんな態度を取るなんて、何とも弥代らしいものだと分かる。
(初めから、距離があったんですよね。)
だというのに。
助けてもらった恩はあった。
しかしそれ以上に、自分と同じように髪と瞳で異なる“色”を持つ、特別な存在に勝手に親近感を抱いた。
できることならもっと話したいと。初めて会ったような、そんな気が本当はしなかったのだ。
(でも、そう。そうね…、弥代ちゃんは何やかんや言ってとてもお節介で、面倒見が良くて。私、ずっと頼りっきりで…。)
結局の所、二度に渡り命を助けられたと聞かされたのは三ツ江の亡くなった明け方だった。
あと少し遅ければ野生の狼に襲われていたのだと、お宿にいた女中が教えてくれた。
たった一日しか一緒にいなかった相手の身を心配して、女中と一緒に駆けつけてくれたというのだから、それをお節介といわずなんといおうものか。
行く宛が定まらないのだと言えば、一人じゃ心配だから付き添ってくれると言ってくれた。
野宿なんて初めてで物音がして怖いのだと言えば、どうでもいい世間話で眠りにつくまで喋ってくれた。
折角狩ってきてくれた動物の肉が口に合わないとなったら、そんなに自分は好きでもないはずの川魚を一緒になって食べてくれた。
自分で取ってみたいと言ったら、日が暮れるまで魚の取り方を教えてくれた。
(距離なんて始めだけ。ずっと、そう。ずっと、ずっと…。)
常に弥代は雪那を気にかけてくれていた。
そんな弥代に、雪那は、
(何を、出来たんでしょう…。)
何も出来なかった。何も気付けなかった。気付けなかったから、気付くことが出来なかったから、現に弥代は今この里にいない。
(どこへ行ってしまったんですか弥代ちゃん。)
俯きがちに歩いていると、前方から何やらがやがやと騒々しい声が聞こえてきた。
一旦考えるのをやめ、数歩後ろからついてきていた氷室に声を掛ければ、彼も気付いたようだ。
何か揉め事だろうか。甲高い女性の喚き声に混じってなんとも惨めな男性の泣き声も聞こえてくる。
「勘弁してくれよっ!ありゃ仕方のねぇ事だって何遍も言っただろう?」
「うっさいねぇ!あたしよりもあの女の方が大事なんじゃないのかい!?わざわざこんな簪まで用意して会いに行く程なんだからねぇ!!」
「おばさんよりもボクの方が魅力的だったろうよ。そうキレると皺が増えちゃうよおばさん?」
「まじで止めろ!!なぁ何でお前はそう火に油注ぐような事しか言えねぇわけ⁉︎俺の‼︎挟まれてる俺の立場になれよっ!」
聞こえてくる怒号の中に、どうしてか聞き覚えのある声が混じっているのは気のせいだろうか。
そこまで多くはないが人垣の真ん中で行われているであろう衝突に、まさか…まさかとは思いながらも雪那は歩み寄ろうとする。氷室の制止する声など届くはずもなく。
「奥さんいる男に手出した?お前が悪いんだからな!?いやなんでそんな事してんだよお前はよっ⁉︎」
「それは仕方のないことだよ‼︎留守にするって言ってたよ?でもこんなにもおいてけぼりをくらうなんてボク思ってなかったから不可抗力…そう!これは不可抗力なんだ!やっぱり仕方のないことだね!ボクは寂しかったんだ!だから仕方ない!」
「何も仕方なくねぇよ‼︎いやまじでほんとにっ!!こんな事に巻き込まれに俺は帰ってきたんじゃないからなっ‼︎」
「そんな事言ってぇ!お姉ちゃんに会えて本当は嬉しいんだろ?素直になってごらんよ!」
「心底鬱陶しい‼︎」
「……。」
先ほどまであんなにも思い浮かべていたというのに、一気に冷め切ってしまった。
「氷室、帰りましょうか。」
「ですが雪那、まだ和馬を拾っていません。」
「和馬さんでしたら一人でも帰ってこれますでしょう。門番の方に言付けをお願いしましょう。私どうやら気分が優れませんの。早く部屋に戻りましょう。あっ、そういえば読み途中の書物があったはずです。」
「気分が優れないのでしたら読むのは……そのようなものありましたでしょうか?」
足早に。揉め事にその場にいた者らの意識が大半向く中、気付かれぬように雪那は踵を返す。
まだ肌寒い事もあり厚めの生地の着物では、薄手のものに比べそこまで早く進むことは出来ないが、普段からそんな忙しなく進むことのない雪那だが、なるべく早く。少しでも早くこの場から立ち去りたかった。
(何も、変わっていなかった。)
変わるどころか、以前のまま。
聞こえた会話から察するに、ベタベタとくっついていた変わった風貌の彼女が、弥代の姉を名乗る少女で間違いはないだろう。
(どうして、でしょう。)
腹の奥がざわついているような不快感に襲われる。
こんな、こんな感覚は初めてだ。
初めてだというのに、これ以上見るのは自分にとって良くないと雪那は理解した。
理解したから見なかったフリをして、屋敷に戻ろうとしていた。していたのだが。
やはりこの髪は、この“色”は目を引くのだろう。夕暮れ時であっても、町並みがいくら赤く染まろうとも、馴染みきれない、混ざることの出来ない“色”。
弥代の視界に、たまたま映ったのだろうか。
「雪那じゃねぇか!」
耳を塞ぎたくなる。聞こえなかったことにして、気付かないことにして、この場を立ち去りたくなる。
まともにその顔を、見れる自信が今の雪那にはなかった。そう、なかったのだ。
雪那が夕暮れの中、弥代と初めて出会った吉野での事を思い出すのならば。それは弥代も同じ事。
ほとんど現実逃避のように回された腕を投げ出すように夕陽に染まる、半年ぶりに目にする榊扇の里の町並みを眺めていた。
こちとら休み休みとはいえ長旅を漸く終え、里へと帰ってきたばかりだというのに。どうしてこんなことになったのか…。
「かったる…」
これがぼやかずにいられるものかと、空いた右手で顔を覆う。
端から首を突っ込んでいた当事者でもないのに、痴情の絡れに巻き込まれると誰が想像しただろうか。
いや、同居人であるのならある程度責任は自分にもあるのだろうか。双子の姉を自称する彼女が、何も問題を起こさないようには到底思えなかった。いつかなにかしらやらかすのではないかと、あの一月にも満たない時間を同じ屋根の下で過ごし感じていたのは事実だ。
「ほんと…もう、まじで止めて。俺、疲れてんだわ…」
出来ることなら家に帰って直ぐにでも横になりたかった。
下野国よりここまで十日あまり。
これまで旅などしたことがないという古峯兄妹の可愛い(のは妹の方のみだが。)我儘に振り回されるのは当然弥代だった。後ろから着いてくる春原と館林といえば言葉を交わすこともなくついてきた。
日本橋を経由しての旅は、その周辺だけで三日は時間を潰した程だ。
初めのうちは微笑ましいものだと思っていたのだが、日を積み重ねていく内にその厄介さに弥代は頭を悩ませる始末となっていた。
里の門を潜り、大通りで一旦春原討伐屋の二人とは別れることとなったが、てっきり自分についてくると思っていた古峯兄妹は何を考えたのか今日は討伐屋で世話になりたいと言い出し、一人ポツリと弥代は放置されたのだ。
いつぞやに館林から渡された葛籠の中に詰められていた、冬の装いも随分と慣れたものだが、まだ肌寒さは残りはするものの開放的なこの里では動きやすいものに早く着替えたいものだと。
諸々、挨拶一つせずに長い間留守にしてしまった事を内心謝りながらとりあえず帰路につこうとした時だった。
『冗談じゃないよっ!結局若い女が良いってのかいアンタはっ!?』
弥代が巻き込まれる事となったのは。
(いや、冗談じゃないって。こっちは疲れてるんだから早くどうにでもなってくれよ。頼むからさ…)
最悪、今この場でも寝ていいと言われれば寝てしまえる自信が弥代にはあった。
自身が寝ずとも過ごせことを随分と前に知ったが、それとはまた別だ。
心身共に疲労が溜まっている。
別に思ってもない言葉を口にしたわけじゃないが、それでも下野より榊扇の里までの道中は全て金銭面は古峯兄妹の世話になっていた事もあり、ありもしない気を始終使っていたのだ。
慣れない事を長く続けていた事もあり、もう本当に限界なのだ。
どうにかこうにか、この状況を打開できないものかと。既に疲れ切った頭を必死に捻っていると、どこかで見たことがある“色”が視界に映った。
わらわらと集まる人垣のその奥で、見間違えるわけがないその“色”を見た。
「…つな、」
そう、それはつい先ほどまで夕陽に染まる町並みを見て、まるで初めて出会ったあの日のようじゃないかと思い浮かべていた、たった一人の友人。
「雪那、雪那じゃねぇか!」
若干声が裏返る。
本当はどんな顔をして会えばいいのか、未だに答えを見つけられていなかったというのに。
半ば藁にもすがるような想いで、弥代は彼女の名前を口にした。
「あれ、ちょっと?や、弥代…?」
強引に回されていた腕を払い除け、まだ少ない方な人垣を掻き分けて、その見知った後ろ姿に一歩ずつ近づいていく。
彼女が用意してくれただろう雪靴は、もう結構履き続けていたものだから穴が開いてしまっていたが藁を足せばまた次の冬も履くことは出来るだろう。勢い余るとつんのめるように倒れてしまいそうになりかねないが問題はない。慣れたものだ。
しかし大通りに至ってもある程度整備のされている榊扇の里は、あまりにも平坦なもので逆に難しい。甲州街道の石ころが転がっているような道や、雪と名前がつくだけあり雪路の方が適しているのだろう。
一向に振り向かない彼女に、それでも距離を詰めて。
手を伸ばせば背に触れられるぐらいまで近付いた所でまた彼女の名前を口にした。
この時もう弥代は雪那しか見てなかった。
だから顔色を悪くしてこちらを止めようとする彼女の、付人である氷室の反応に気付いていればそれで、それでもしかしたらどうにかなったのやもしれない。
そう、どうにか。なったのかもしれないのだ。
「……、」
予期せぬ衝撃に、言葉を失う。
何故?と問う前に、涙ぐんだ彼女の顔が視界に映って、余計に言葉が出てきやしない。
じんわりと広がっていく痛みに、手さえも伸ばすことはない。
行き場を失った手はそのまま、宙を彷徨うのだ。
「…して、」
「…雪那?」
「どうしていきなりいなくなったりしたんですかっ⁉︎」
整った顔が台無しになるほど顔を歪めて、そう言い残して彼女は、扇堂雪那は走り去っていった。
途中情けないことに、走り慣れてなんていないものだからしっかり一度転んだ上でまた走り出すのだからなんともそのさまが無様で。
「は?」
弥代は、キレた。




