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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
四節・雷乃発声、散りぬる山茶花
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一話

「見てくれよ鶫さん。庭に、これ。桜だろ?風に乗ってどっかからかやって来たんだろうよ。綺麗なもんだぜ。」

 小さなその桃色の花弁を摘みながら、上機嫌に顔を覗かせた客人に、思わず鶫は手を止めて、明るい表情を浮かべた。

「今年は暖かくなるのも通年より早かったように感じました。立派なものですね。それが咲き誇っていた地はきっととても見頃なのでしょうね。」

「だよな。随分とお綺麗なもんでよ。箒で払うのが勿体なくてよ。つい、持ってきちまったぜ。」

「ふふっ、弥代様にもそういった一面があるという事が知れて私は嬉しいです。」

「そう?まぁ、鶫さんがそう言ってくれるなら持ってきた甲斐があったってもんだよ。」

 見た目の幼い鶫がそんな風に全身で喜びを示せば、容姿と相まって空気は一層和んだ。

 訪れる者の限られた、静かな空気が流れる古峯神社で弥代達が冬を越す間居候をするようになって早いもので一月以上が経とうとしていた頃。以前にも短い期間であるが世話になっていたという事もあってか、誰よりも馴染む時間が短かった弥代の態度は、徐々に軟化しつつあった。

 言葉一つとっても、節々に柔らかさとゆとりが感じられる。肩意地を張ることも、虚勢を張る必要もありはしない。落ち着いた言葉尻を耳にする機会が増えたことに、鶫は気付いていた。

(もうそろそろ、頃合いでしょうか。)

 その細腕で研ぎ汁を傍に控えていた桶に移しかえながら、花弁を指先でくるくると回し上機嫌に鼻唄を洩らす弥代に、大切な話があると、そう伝えた。

「何さ、藪から棒に?」

「はい。お話は夕餉の時にいたしましょう。きっとそちらの方が落ち着いて話は聞けることでしょうし。」

 花弁と交換するように弥代はその桶を抱えた。やや強引に持ち上げるもので、白く濁った研ぎ汁が大きく波紋を立ていたが、裏手の苗木に撒くように託せば、それ以上何も言わずに大人しく厨房を出て行った。

 自分以外誰もいなくなった厨房で、鶫は膝を折る。水場の脇に収めていたぬか床を取り出した。

(きっと暫くの間留守にするのならば、使い切ってしまなくては勿体無いでしょうね。)






「何してんの瑠璃さん?」

「弥代さんじゃないですか?そっちこそそんなもの抱えて何してんですか?」

「質問を質問で返してくれるなよ。見て分かんないかな?立派な鶫さんの手伝いだよ。」

「俺も似たようなものですね!」

「餓鬼どもと戯れることが?」

 子狐と呼ぶには些か大きすぎる、珍しいくろい毛並みをした狐が腹を見せるようにして地べたに転がっていた。何も急いで水をやらなくちゃいけないわけだからと近付いて屈み、何をしているのかと訊ねてみれば、彼曰く、死んだフリをしているらしい。

 これがどういうわけか、わざわざ参道の長い長い階段を登ってまで遊びにくる、近くの集落に住まう子どもたちに一番ウケがいいようなのだ。

 鶫に使いを頼まれ、二人集落の方へ足りない野菜を買いにいった際の事。たまたま親に叱られでもしたのか一人道の真ん中で見事なまでに泣き喚く子どもと出会ってしまった。

 子どもの泣き声なんてものは聞いているだけで頭が痛む。必要以上に関わるのは良くないと、早々にその場を後にしようとした弥代だったが、瑠璃は見過ごすわけにはいかないと構う選択をしてしまったのだ。先ずは泣き止んでもらわないことには何も始まらないと、あの手この手で子どもを笑わせようとした瑠璃だったが、結果は惨敗。時間が経てば経つほど寧ろ泣き喚く勢いが増していくのに、いい加減に付き合いきれないと弥代が今度こそ見切りをつけて置いていこうとした矢先だった。彼が狐の姿になったのは。

「まぁ!こんなんで喜んでもらえるならやり甲斐があるってもんですよ!」

「腹他人に撫でられるのに味占めてるだけだろあんたは。」

 自分だってわざわざ桜の花弁一枚見せるためだけに、元々頼まれていた掃除を中断させて鶫に見せにいったようなものなのだから大概だろうに、自分の事はちゃっかり棚にあげて、どこか呆れたように声を弥代はこぼした。

 あの時、泣き止まない子どもに対して、瑠璃はあろうことか白昼堂々隠す事もなく人の姿から狐の姿に戻り、その子どもの関心を逸らすことに成功したのだ。

 子どもというものはあまりむつかしい事は考えないのだろうか。目の前で起きた光景よりも、今まで見たこともないような珍しい黒い毛並みに覆われた狐(瑠璃)に一気に意識が奪われ、一瞬にして泣き止んだ。

 子どもの親は泣き止むのを待っていたのか。暫くして直ぐ近くの家から姿を見せた。瑠璃が化けるその姿は目にしていなかったのだろうか。はたまた見ていたが気にしていないだけか。反省したかい?と我が子しかその目が向けられることはなかった。

 荷物持ちのために連れてきたような部分が大きかったが、どういうわけか瑠璃はその後古峯神社の敷居を跨ぐまでの間、人間の姿に戻る事はなく、あまり大きすぎなかった事もあり、襟巻きのように弥代の首周りを温めてみせた。まだ雪が多く残る頃で決して悪くはない温もりだったが、その日を境に弥代たちが世話になっている古峯神社には近所の子ども達が多く足を運ぶようになってしまったのだ。

 ともなれば、外見だけならやってくる子どもらとあまり大差のない鶫は、表立って掃除をする頻度が減ってしまった。

 元気に駆け回る子ども達に罪はないのだが、容姿のわりにもう長く生きている、成熟しきったような振る舞いをする彼女にはそれが少々酷だったのだろうか。最近では境内の掃除の大半は弥代が行っていた。そして子ども達があしげく通う要因を作ったといっても過言でない瑠璃は、

「ま、満更でもないですね!」

「自分で言うんだから大したもんだよ本当に。」

 変わらず、子ども達と戯れるばかり。

 弥代にそれまでも、止める資格はないのだから。






 立て掛けていた箒を片手に、小脇にまだ研ぎ汁で満たされたままの桶を抱え直し、弥代はまた進みだした。古峯神社は土地神として今や祀られる神鳴が棲まう地という事もあり、立派な拝殿が建てられている。

 父の代に一族の者とこの地に暮らしていた人間達が協力し、建てられたものだと以前一度だけ鶫が話してくれてたのを思い出しながら、遠くを見つめるように眺めていると、進行方向から一定の感覚で空を切るような音が聞こえてきた。

 弥代からすれば最早見慣れた光景の為、一々口を挟むことでもない。黙って素通りをしようとするも、すかさず、通りかかった瞬間に立ち塞がれてしまう。

「いや、邪魔なんだけど。」

「声の一つ、掛けてほしい。」

「…あのさ、その為だけに前に立つの止めてくんない。」

「……すまない。」

 重たいため息を溢せば、大人しく立ち塞がっていた彼は直ぐに引き、止めていた素振りを再開させた。

「素直かよ、おい。」

「坊は弥代さんに対してはいつだって素直やと思いやすよ。」

 近くの縁側で腰を落ち着かせていた館林がそんな事を呟いてみせた。

 その先の裏手に植えられた苗木に、漸く研ぎ汁を撒けば、当然のように弥代は館林の横に同じように腰を下ろした。

「素直?馬鹿言うなよ館林さん。あれは素直とかそんな可愛いもんじゃねぇだろ。」

「そいつはどうでしょう。自分らは春原さんの事を、まぁ素直で可愛げがあるという風に考えている節がありやすからね。」

「自分らってまさか春原討伐屋面々?初耳だぜそんなの。」

「初めて言いやしたからねぇ。」

「きちぃきちぃ。」

 首にぶら下げた手ぬぐいで汗を拭う男の、その左肩付近に墨が見えたのは久しぶりだ。

 古峯神社で世話になるようになってからは、みながみな鶫が用意してくれた楽な格好をしている事が多く、つい先日厚手の生地から、春先の暖かい気候になってきたから少し風通りのいいものに変わったばかりだ。

 冬の着込んだ時期を共にしていたものだから館林にそんな墨がある事を忘れかけていたものだが、先ほど風に乗ってやってきた花弁や、身に纏う装いに、暖かな気候といい、嫌というほどに季節の移ろいを感じさせられる。

 柄の上に顎を乗せ、思わず目を細めた。視線の先、黙々と模擬刀を振るう男の姿を弥代は捉えた。

「釣り合わなすぎんだろ、あいつには。」

 季節が移ろうとも何一つ変わった様子を見せないその男。どことなく羨ましく感じた。単純に余計な事を考えないようにしているだけなのかもしれないが、変わらず振るまうことが出来る。時間が全てを解決してくれるなんて都合のいい事はありはしない。時間にほんの少し埋もれただけで、掘り返そうと思えばすぐそこにある。心の底から、どうしようもない、踏ん切りのつけようのない話でしかないのだ。

眺めるのはほんの一時に留めた。変わらない彼を見ていると本当に全てを思い出してしまいそうで。下ろしたばかりの腰を持ち上げて、忙しなさげに弥代はその場を後にした。






 睦月の暮れに古峯の地に再び訪れた弥代たちは、それから変わらず古峯神社にて厄介になっていた。

 辿りついたその晩、鶫が腕を奮った料理にもてなされたものの、後の酒の席にて全く予期していなかったわけではない、かの地に一人置いてきた彼の訃報を知ることとなったのだ。

 酔いなどというものは一瞬にして覚めてしまい、何を準備する余裕もあるもなく取り乱しながらも衝動的に、その場を飛び出そうとした南部から下野国までの案内を務めてくれた青年・瑠璃を弥代は強く引き留めた。

『今更戻ってどうにかなんのかよ。酔いが覚めたってんならついでに頭も冷やせよ。』

 瑠璃に投げかけた言葉は、そのまま自分自身にも深く刺さったものだ。自分が発した言葉に、弥代はぐっと堪えることしか出来なかった。

 その場の状況からして、鶫はその事を知らなかったのだろう。口数の少ない兄の、全てを彼女が理解できるわけがないのだ。直接言葉にしない神鳴に痺れを切らした鶫の呼び掛けで、漸くはっきりと言葉にされたのだから。

 表情に出してはいけないと懸命に。しかし自分の声がどれだけ震えていたか気付かないわけがなく。瑠璃を引き留めた後、早々に弥代は用意された部屋に一人篭った。一人になりたかったから。

部屋の前までついてきた鶫は、念を押すように襖越しに静かに言い残していった。。

『まだ雪も多く残っていますでしょう。足元が悪いでしょうから、どうか雪解けのその時までここにいてくださいまし。急がれる必要など、どこにもないのですから。』


 翌朝、弥代は似たような事を瑠璃にそのまま伝えた。一度は胸ぐらを掴まれたものだが、やり返す気など沸くわけがない。どこにもそんな資格はありはしないのだから。

 神鳴曰く、彼が亡くなったとされるのはもう半月以上前の事らしい。人の噂というものは足よりも早く。小間使いの鴉らが耳にした情報なのだと、代わりに訊ねてくれたのだろう鶫が静かに教えてくれた。

 半月前といえば、自分たちが南部のあの屋敷を発ったばかりの頃ではないか。即ち、彼はあの後間もなく亡くなったという可能性が考えられた。

『家族、だったんですよ…!』

 それは、何も理由にならない。

 それだけのために、ここまで自分たちを案内してくれた恩人を、みすみすあの地に返すわけにはいかない。掴まれた胸ぐらはそのままに、そっと瑠璃の肩に弥代は手を置いた。

 何より、だ。瑠璃の同行を提案した彼が、彼自身の瑠璃を巻き込みたくないという考えがあったのではないかと、弥代はそう考えるざるをえなかった。そうとでも考えていないと受け止める事が出来なかったから。

 たった数日の、数えるのが少し面倒な程しか言葉を交わしていないだろう、なんとも形容し難い関係であったとう彼だが、少なくとも。弥代が感じた、瓢は。霜羽という相手はそんな事を当然のように考えそうで。

『戻っちゃ駄目だよ瑠璃さん。あんたは、生きなくちゃ。』

 根っこの甘い奴だった。拘束された自分の縄をわざわざ緩めて目線を合わせて話すような奴だ。見ず知らずの相手を、他意はあったろうがゆとりのある生活を送れるわけでもないのに客人として屋敷に招きいれるような男だ。自分だって疑いがかけられていたはずなのに、自分の身よりも弥代達を逃すように手配したような、大切にしていた彼女の願いだからとその亡骸をわざわざ抱えて、危ないと自分の口で言った津軽の地に踏み入り、雪原の中にその躯を埋めてやるような相手だ。


 まるで足枷をするように、言葉を選んだ。

 彼に向ける言葉は何もそんな事考えていなかったのに。余裕がなかった、考えるだけ無駄だったという理由があったかもしれない。それでも。

『あいつの分も、生きなきゃ駄目だよ。』

 気の利いた言葉を掛けられるわけがない。泣き崩れたその背中を、少しだけ乱暴に叩いてやるぐらいしか、それしか本当に出来なかった。


 五日もすれば、瑠璃自身も自らの意思で少し前のように振る舞うようになった。

 初めの頃はまだ冬真っ只中で、することなど限られてはいたが、瑠璃は弥代同様に鶫の手伝いに名乗り出た。

 屋敷にいた事は、それはそれは小綱に顎で使われる事が多かったものだから、細かい水仕事には慣れているのだと、無理やり笑っていた。下手な愛想笑いは、これまで限られた者としか接することのなかった、狭い世界で生きてきた彼の、瑠璃がきっと初めて人に気をつかった態度のように感じてしまい。ほんの少しだけ弥代の胸は痛んだ。


 しかしそんな彼も、時間が経って楽な過ごし方を見つけたのだろう。

 厨房に空になった桶を戻そうと、来た道を戻っていると丁度子ども達に腹を撫でられ、じたばたと手足を揺すぶっている狐の姿をした彼が目に入った。

「いや、手伝えって話だよ本当にさ。」








「私と兄様もご同行いたします。」

 食事の席で、鶫が突然口を開いた。


「いやいや鶫さんよ。突然どした?どうこうに?何に?」

「嫌ですわ弥代様?雪が解けましたらと以前私仰いましたでしょう?些か遅い気もしますが頃合いかと思いますの。」

「頃合い…、で同行…?」

 充分に冬から春への移ろいを感じたその晩、まさかそんな事を切り出されるとは思っておらず、歯応えのある沢庵を落としてしまう。落ちたものを食べるのは止めなさいというのは確か伽々里のお小言だったか。折角の恵みを無駄にしないでくださいという鶫の教えに沿って、手早く落とした一切れを拾い上げ、口の中に入れながら弥代は首を傾げた。

「同行するってよ、どこまで同行するんだよ。何?水入らずのお出掛けでもするのか?」

「弥代さんってどうしたらそういう考えが浮かぶんですか?無理しかないですよそれ。」

 食事時に限らず、普段より言葉を交わす者は少ない。春原と館林に関しては、会話の間隔が遅れるものだから口を挟むことはなるべく控えるように弥代は伝えていた。鶫の兄である神鳴に至っては、鶫が振らない限りは進んで口を開くことはない。

 転がりこんだばかりの頃は、瑠璃ともあまり口のきかなかった、主に弥代にばかり声を掛けていた鶫だったが。瑠璃が自ら名乗り出て手伝いを行うようになってからというもの、自然と接点が二人には増えていった。

「兄妹水入らずのお出かけ。ふふっ、いつかしてみたいものですね。」

「そうなのか鶫?」

「あっ、いえ。兄様今は大切なお話をしていますので口を挟まないでくださいな。」

 不貞腐れた子どものように音を立てて汁を吸う神なんて、見たくもなかった。

「まぁ、冗談はさておき。同行は言葉の通りです。榊扇の里まで、ご一緒したいのです。」

「え?」

 これには流石の弥代も驚きを隠せなかった。箸を持つ手が止まる。



「里に、なんか用でもあんの?」

 なんとか絞り出した質問に、鶫は柔かに微笑みながら答えた。

「以前お立ち寄りくださった際に、そちらの御二方に伝言をとお願いしたのを覚えていらっしゃいますでしょうか?」

 そんなこともあった。もう三月ばかり前の事。弥代が一人津軽の地を目指している最中、倒れていたところをここ古峯神社に運び込まれ、それから数日後遅れて自分を探しにきた春原と館林は、今いる広間でそんな事を鶫に言われていた覚えがある。

 突然自分らが話に関わると思っていなかたのか、黙々と食事をしていた二人(といっても反応を示したのは館林のみだが。)が顔を持ち上げた。

「一月以上皆様の様子を拝見していて、お二人には少々荷が重いかと感じたのです。」

「いや、それは御尤もだよ。」

「それで、弥代様にお願いをすればいいかとも考えたのですが…」

 行灯に小さな輪郭を照らされた鶫の、その純白に縁取られた無垢な瞳が弥代に真っ直ぐ向けられる。

「あちらの水虎様とは仲がよろしくないらしいので。」

「ちっげーよ⁉︎俺が悪いわけじゃなくてそれは勝手に目の敵にしてくるあの神仏が悪いわけであって…っ‼︎」

 今思えばどうしてか合点がいく。

 初めて相見えたにも関わらず、どこか古い顔馴染みに接するかのような神仏の、自分に向けられた言葉の数々と、憎む相手に向けられるような矛先。神無月の落雷、医者の肩がきを持つ男に突然掴みかかられた事。吉野のお宿で“色持ち”の狼に聞いた二十年ほど前に榊扇の里で起きたとされる大火災の、三ツ江が屋敷で目にしたという渦を巻いたような角を生やした“鬼”。里の年老いた年配の者らから向けられる視線。

 人間であると、言い聞かせてきたというのに。散らばってるそれら全てが、お前は人間ではないと目に見えた答えを突き立ててくる。時間は経てど、やはり足がほんの少しだけ震えた。向き合わなければいけないと思っていたはずなのに、向き合える自信が薄れていた。

「大体同行してよ、どうすんだよここ。誰もいなくなっちまうんじゃねぇのかよ?」

 そんな思いを吐き出す事はない。腹の中に収めて、至極まともな疑問を投げかける。

 元からこの神社には神鳴と鶫の二人しか暮らしていない。今は前に比べれれば子供たちが瑠璃に構う為に足を運んでくる頻度が増えただけで、それ以外では神事以外で滅多な事がない限り、人の訪れる機会が少ない神聖な地だ。

 二人がいなくなってしまえば誰がこの神社の管理をするというのか。

 その問いには、意外な人物が挙手してみせた。

「俺が任されますよ。」

 瑠璃だ。その場においては已然、春原と館林は瑠璃の正体を、人間と妖の混血であるという事は知らない。南部での一件に関しても、どこか浮世離れした事態で、ただ元々妖怪た対峙を武蔵国でも生業としていただけあってそういう事もある程度で納得されてしまった。(正しくは春原は弥代の正体を、生えた角を間違いなく目にしているわけだから知らぬという事はないのだろうが、触れてくることはないため、弥代ももう触れる気はなかった。)

 同様に、兄妹に関してもどのように考えているのか分からない二人だ。余計な事を口走って面倒な方向に転がるよりは、そう提案した鶫の意向に沿うのが正しい。ただ、瑠璃さんかぁ…と不足そうな声を漏らしたところ、鶫がすぐさま口を開いた。

「瑠璃さんはとても素直です。言われた事をちゃんと一度で覚えて次に上手に生かしてくださいますし、物覚えの方も大変よろしいです。兄様も弥代様もぜひ見習ってほしいものです。」

「鶫…?」

「…善処します。」

 何も物覚えが悪いわけではない。

食材の切り方一つ、刻む向きは料理に合わせて一々変える必要があるなんて知らなかっただけで。それが二つ三つで収まることがないなんて思わなくて。切り方の種類を覚えるだけでまだ手一杯なだけなのだと、言おうとして止めた。どうにも落ち着きがない。気が緩めば何を口走ってしまうかわかったものではない。

 知れず、鶫は短いこの間に瑠璃に心を許してたのだろう。じゃなくちゃ留守の間この地を任せるなんて事はできない筈だ。鶫が何も言わないのなら、それはもう神鳴にも通している、了承を得ている話なのだろう。

「やはり直接言葉を交えねばならないと、いらっしゃらない、戻られる迄の間も考えていたのでございます。」

「まぁ、そういう事なら断れるような話じゃねぇな!」

 ただ本当に一つだけ。どのようにすればいいのか弥代には分からない事があった。

『こんにちは、弥代ちゃん。』

 藤色の髪をした彼女に、どんな顔をすればいいのか。その答えは結局出ず終いだ。











 鬼ノ目 四節・雷乃発声、散りぬる山茶花











「ですからね、雪那様。私は貴女様が無理に出てこられる必要はどこにもないと思うのですよ。これまで通り。これまで通りの何がいけないというのですか?

良いではありませんか。貴女様だけでは到底背負う事の出来ない責務。里は、変わりつつあるのですよ。大主が一人、それを全うするような時代はいつか終わりを迎えることでしょう。

でも、貴女様がそれに合わせて無理に変わられる必要はどこにも、どこにもないのですよ。」

 耳を塞ごうとも、隙間からゆっくりと入り込んでくる不快感。向けられるその明確な悪意の込められた言葉から逃れるように、雪那は踵を返した。

 傍から見て、それは周りの者の目にどのように映ったことだろう。

 終えたばかりの会合。集められた里の数少ない有力者達が帰りの支度を始める中、案の定気分が優れなくなり、顔色が悪くなった雪那に寄り添ったのは、雪那と年の近い分家の扇堂あざみだった。

 艶やかな黒髪を、一つ高い位置で括ったその女は誰がどこからどう見ても優しい表情を浮かべ、寄り添って間もなく、雪那にはっきりと語りかけてきた。

 思い返せば、これまで過去に幾度も寄越される手紙にも似たような言葉が並べられていたものだ。手紙に記された文字をそのまま受け取る方が幾分かマシだった。こんな風に直接、言葉にされる方が酷く心を揺さぶられるのだと、雪那は知らなかったから。

 他の誰にも聞こえることはなかったのだろう。まるで突き飛ばすような要領で、彼女をはねのけ、雪那は出てきたばかりの部屋へと戻った。

「何をしているのですか?」

 ぶつかる。自分よりも若干背の低い女にぶつかった。扇堂美琴である。

 向けられた視線には、何も感じない。会合への同席を頼んでおきながら、彼女は何も自分に期待していない事を雪那は知っていた。知っていたからこそ、先に耳したあざみの言葉をすぐさま鮮明に思い出し、息が、詰まった。






「お目覚めですか、雪那。」

 見慣れた天井に安堵する。顔色を窺うように覗き込んでくる従者の氷室に、自身がどうやら倒れたのだという事を雪那は自覚した。

 不甲斐ないものだ。これでは毎度毎度同じこと。この三月程の間に似たように意識を手放してしまう回数が増え、その度にこうして彼に心配を掛けているのは分かっていた。

 それでも限界だった。無理だったんのだ。

「ごめんなさい氷室。私、また…」

「まだ慣れていないだけです。ゆっくりと、慣れていけばいい。」

 無理をしなくて良いとは、彼は言わない。

 次も彼はきっと私の背中をそっと押すのだろうと知り、掛け布団の中で小さく拳を作った。

「落ち着きましたら、どうされますか?もう日暮れになります。」

「結構寝てしまっていたのですね。…そうですね、和馬さんを迎えに行かなくては。」

「ご一緒いたします。」

 言われて縁側の方へと視線を逸らす。

 庭に植えられた桜の木々が、淡い夕陽を受けて、本来の色を忘れてしまったかのように溶け込んで見える。

 あまり遮るものがない、柔らかな橙色に染まった陽射しが部屋に差し込むのは、言葉にするのが無粋な程。

 静かに腰を持ち上げ、外へ出る準備の為に部屋を後にした氷室。取り残された部屋で、布団に横になったまま雪那は零した。

「嫌になるわ。」

 誰にも向けられることのない言葉だった。











「古今東西、美人というものは鼻筋が通っていて、元より馴染みの深い黒髪であることが条件とされてきたそうなのだよ。でもね、君は黒髪でなくとも間違いなく美しいと、僕はそう感じてやまないのだよ。」

 耳に掛けたばかりの短い毛先を、悪戯に垂らす。その無骨な指を叱るような事はせず、女はジッとその血潮のような赤い瞳で男を見つめた。今し方なりを収めたばかりの劣情が首を擡げそうになる。なんと蠱惑的な眼差しだろうと、思わずにはいられないだろう。

 これまで味わったことのない衝動を、まさかこんな幼げな彼女に抱いてしまった事を、男は後悔などしていない。

 触れたその肌のなんと柔らかいこと。拒まれることなどない。自分の行いを全て受け止めてくれるような、肯定的な態度が嫌という男がこの世にいないはずがない。一周回って意地らしささえ感じてしまう。彼女を知ったその日から、日々が狂おしい。

 住まう場所が近しいという事もあり、あの晩腕を摑まされたその日から全てが狂ってしまった。

 近しい志を掲げる者らと夜通し語らうよりも、彼女と過ごす時間を選んでしまった自分がいたのだ。己の気の持ちようの変化に、仲の良かった友は皆心配をしてくれたが、そんなのもお構いなしだった。

 だって傍にいてやらねば、彼女は寂しくなってしまうのだから。

 男は、彼女が自分以外の者と同じように触れ合っている事を知っていた。本来であれば声を荒げてしまいたかったが、最中に至っても寂しいのだと口癖のように吐き零す彼女を見てしまえばい、どういうわけか許そうという気になれた。四六時中一緒にいれるわけのない自分が、彼女に寂しい思いをさせている自分が、それをいけないと言う資格はないように感じれたからだ。

「駄目だよ。もう朝になるから、帰らなくちゃいけないでしょ?」

 睦言を交わす。くすくすと笑う姿はやはり幼い。軽く羽織っただけの浴衣から覗く肌の白さに目が眩む。

「明晩も、お邪魔してもいいかい?」

「良いの?物書きする時間、減っちゃうよ。」

「構わないさ。」

 生憎と、男女の駆け引きなどこれまで経験のない男に上手い言葉は浮かばなかった。これでも親の残した遺産で働かずに、趣味の売れない物書きを続けてきたというのに、本当に伝えたい言葉はそれしか浮かばなかった。遠回しな口説き文句など意味はない。空想と現実は全く別物なのだ。

「昼間にね、精巧な造りをした櫛を見つけたんだよ。君に、よく似合うと思う。近い内に持ってきてもいいだろうか?」

「ボクはそんなもので喜ぶと思ったらお門違いもいいところだよ。」

「違うよ。喜んでほしいから贈るんじゃない。僕が贈りたいから贈るんだよ。」

 こんな日々がいつまでも続くとは思っていない。分かっていながらも、いつかは終わるだろうがそれでも、今だけはそれに縋ってしまう。縋って、男は明日を迎えるしかないのだ。

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