十四話
神無月の暮れ。榊扇の里にて対峙した小雨坊のその言葉を受け、男が口にした津軽の地を目指す事となった弥代だったが、その旅というものは何も得ることは出来なかった。
求めていた答えが都合よく手に入ることはなく。ただ季節を、年を跨いだだけとなった。
もしどうしても得られたものがあると、そう言うのであれば。それは本当に小さな、些細なもので。
到底費やした労力に見合わない結果しか得る事はできなかったろうが、意味がなかったと弥代は思わなかったに違いない。少なくとも、自分と同種の“鬼”である青年との邂逅は弥代に影響を与えた事だろう。恐らくそれは、弥代にとってかけがえのない出逢いと呼ぶに相応しかった筈だ。
「これはこれは、鶫様ではございませぬか。本来でございましたら、松の内にこうして年礼に参りたかったのですが、年の暮れに足を痛めてしまい遅くなってしまいました。御慶、申し入れます。」
傍らに控えた青年におぶられ、石段を登ってきた老人は深々と、境内で箒を手にしたその白い少女に頭を下げた。
血の気を感じさせない、古くよりこの島国において神聖な“色”として馴染みの深い純白の少女。彼女は口を開く事はないまま、小さく会釈を返した。そして静かに、石段をまた降りていく彼等の背中を見送った。
(これで、最後ね。)
古峯神社が鎮座する、古峯ヶ原の地に棲まう者の挨拶は先の老人が最後であった。
例年、他者と必要以上に関わるのを避けたがる、言葉たらずな兄に変わり。土地の者らとこうして顔を合わせるのは彼女、鶫の役割だった。
地域を挙げての神事に関しては、渋々兄である神鳴がその重たい腰を持ち上げる事となっているが、表舞台に顔を出した所で、どうしても下々の者に恐れられる存在である事に変わりはなかった。
彼等の信仰があってからこそ成り立つ存在でもあるのだから、もっと友好的に接する事はできないものかと、兄の決して良いとは言えないその態度に、何度鶫はその頭を悩ましたことか。
鶫との生活を護る為に致し方なくしているに過ぎない事を、其れ以上どのように努力すればいいのか解らないと、眉を顰めて言われてしまえばこれにはもうお手上げというものだ。
頭は悩ませど、小言は漏らせど、注意は欠かさずしても、無理強いだけはさせられない。
それは神鳴が誰よりも、自分の事を大切に想ってくれているのかを、鶫は知っていたからだ。
当時の一族をみな手に掛けてまで、自分の存在を守ろうとしてくれた事を、鶫は知っているからだ。
語る必要のない話であるが、何もかもを犠牲にしてでも自分の手を取ってくれた兄という存在を、無碍になど、見捨てることなどできはしないのだ。
少しでもこうして兄の負担を。どのようなかたちであれ、役割を自分が背負う事で減らせているのなら、結果としてそれは良いことなのだと、鶫は自分に言い聞かせる。
その言い聞かせ自体が、自分がこの地で今も息をしている事がそもそも誤りであったとしても。たった一人の兄が。神鳴がそれを望まないのなら、それは良いことなのだ。
境内の掃除を終え、拝殿に入ろうとした時だった。普段は部屋に篭ってばかりの出不精な神鳴が廊下に顔を出していた。
何か何かと思いながら近づいてみれば、当然のようにその腕の中に抱え上げられる。
抱えていた箒はそのまま無造作に立て掛けられたが、小間使いの鴉らが何事もなかったように片していく。
「どうかされました兄様?」
「鶫。そうだ、お前に伝えようとしていた。」
それは、霜月の半ば。この古峯より島国の北端を目指し旅立った彼等の帰参の報せであった。
「そうだよな。もてなしっていうのは、こういうもんを言うんだよな。」
「いやいや弥代さん?こっちを見ながら言うのは違いましょうよ?」
「普段以上に腕に縒りを掛けましたの。おかわりもありますから、どうぞお好きなだけ召し上がってくださいな。あっ、兄様は申し訳ございませんがご自分でついでくださいまし。今日の私は弥代様をもてなすのに手一杯でございます故。」
「鶫…っ⁉︎」
動揺はそのまま直に、渡されたばかりの茶碗を手のひらから落として神鳴は腰を持ち上げた。一杯目はついでもらった米が、大きく崩れることはなく、一緒に畳に広がるもので、これには鶫の冷ややかな視線が神鳴に注がれた。
一気に重たくなる場の空気に弥代は思わず目を背けたくなったが、広いこの座敷でも六人も肩を並べてしまえば窮屈で、逃げ場なんてものはありはしない。
若干二名に関しては、何も疑問を抱くことなく与えられた飯に早速箸をつけている程だ。恐らく現段階で似た立場で居心地の悪さを感じているのは、南部よりこの下野国まで道案内の為に同行してくれた瑠璃だけだろう。
芳賀と比べれば下手くそな笑顔を、口元を引き攣らせながら浮かべている彼に、一応は眼前の兄妹が下野国にて祀られる神であるという事は伝えていたが、こんななら伝えない方が良かったやもしれない。
「まぁ、汁物でも飲んで落ち着こうぜ。」
「目の前がこんな状況で落ち着ける方が神経どうかしてんじゃないですか?」
全くごもっともな感想だ。
傾けた椀に弥代は口を付けながら、兄妹の凍りついたような有様から視線を逸らすと、左手で黙々と食事をする春原と館林を見やった。
二人ともそこまで口数の多くない事を、このこの二月、三月程で改めて理解した弥代は、館林の行動にはある程度納得がいったが、やはりとでも言うか。春原のその行動は釈然としないものが多かった。
改めて振り返れば、初めて小仏の森で出会った際は(過去にあったであろう面識に関しては思い出せないため省くとして。)、まだ口数も多かったろう。扇堂家の屋敷の地下牢に投げ込まれていた時に、二人きりで話したかったと言った際も、状況を知らない自分に対して、教えてくれたのはまぎれもなく彼だ。
里での暮らしの中で、接する機会は多かったがその多くは遇らうばかりで。旅の道中はどうしたって一緒に過ごす時間が多く、見つめ直す機会があった。
(心底何考えてるか相変わらず分からねぇ奴だよ、お前はさ。)
沈澱した具を浮かせようと箸を取ろうとしたら、微かに肘がぶつかった。
「すまない。」
言いながら、直ぐ左隣にいた春原は箸を持つ手を左に切り替えた。
「ちょ…坊、それではこっちにぶつかりやす…。」
「……?」
「春原!瑠璃さんと場所交換しろ‼︎」
「…分かった。」
飯の一つ静かに食う事さえ難しいことはないだろうに。春原が両利きである事は知っているが、自分の肘とぶつかるからという理由で、それに合わせて都合よく持ち替えられるのは、何となく癪だった。それで一々端の方で館林が声を上げるのだから。南部から古峯までの道中の道中、溜まった疲れを漸く癒せると思っていたのに、と。一瞬で苛立ちが爆発した。何も怒りたいわけじゃない。ただ静かに飯を食いたいだけなんだ。なんなら折角鶫さんが作ってくれた飯をゆっくり味わいたいだけなのに。弥代のそんな思いなど露知らず。言われた通りに春原と座る位置を交換した瑠璃が一言零した。
「弥代さんも大概ひどいですよ。」
「それでは、滞りなくこうして降りてこられたわけですね。」
「そうそう。見つかっちまったらどうなるのかと肝を冷やしたもんだけどさ、瑠璃さんは鼻が利くってんでなるべく人里避けて。おかげで野宿続きでさ、これが中々堪えるもんだよやっぱりさ。」
師走の半ばにはもう降り始めた雪が、早々早く溶けることはなく。連日連夜の野宿を強いられたものだ。人の寄り付かない獣道や野山を雪の中移動するのは大変酷ではあったが、あの地域一帯にその目立つ“色持ち”が、などという噂が立ってしまえば、それこそ面倒だ。それだけ自身の“色”が目立つ事を知っている弥代は誰よりも知っていた。
だからこそ、これまでは意図的に面倒ごとを避けてきた筈だったのに。それも雪那との出会いをきっかけに少しずつ崩れてしまった。
(もうちょいで一年経つわけか…)
甲州街道は吉野宿での出会いから、後一月も経たず季節が一巡した事を知る。
老夫婦が亡くなってから一人行く宛もなく彷徨うばかりの五年と比べれば、なんとも色濃い一年だったでないかと思えてしまうのは、変化だろう。悪い気なんてしなかった。
空気に呑まれている部分は少なからずあるだろう。呑めるのであればと薦められた酒を断る理由などない。神事であっても呑む機会は殆どないという供物は贅沢な味だった。
既に配膳は下げられてはいるものの、まだ時期は冬だ。暦の上では春などと誰が信じれようものか。人が多い事もあり熱気の篭った部屋の中では、同じように酒をいただいていた館林が既に隅で寝息を立てている。春原に関しては普段通り。あまり寝ずとも起きていられるのだろうが、その態度はとても静かに、弥代へと視線だけが向けられていた。
酒などというものはどうにも呑んでいるだけで気が緩んでしまう。夕餉の際はまだ気が立っていたが、それも一刻以上時間が経てば落ち着きだしていた。
「いや、本当に色々あったもんだよ。」
全部を話し尽くすにはきっと夜が更けてしまいそうで。その前に溜まった疲労で眠りについてしまうかもしれない。揺らぐ行燈に思わず目を留めていれば微かに弥代の目尻も下り始めた、そんな時だった。
「挨拶は済ませてきたのか?」
長らく口を閉ざしていた土地神が、そう訊ねてきた。
「挨拶…?」
一瞬何のことかと首を傾げた弥代だったが、手元の猪口に微かに残ったそれを飲み干してからどこか上機嫌に声を挙げた。
「おうよ!なんなら、またな!って約束してきたほどだぜ!ただもし次行くってんなら冬はもう勘弁だな。後、やっぱり目立っちまうから何か手を打たねぇといけねぇな。」
これには相性が悪いからと、注がれただけのそれをただ眺めているだけだった瑠璃も肩を揺らして喜びを表した。
「瓢さんってばあんな口きいてましたけど、弥代さんの事きっと気に入ってますよ!素直そうに見えて天邪鬼なところありますからあの人!」
「ほらよ!長年一緒にいた瑠璃さんがこう言うんだぜ?鶫さん程じゃねぇけど次はもっともてなしてほしいもんだぜ!」
「だからこっち見てそういう事は言わないでくださいってさっきも俺言いましたよねっ⁉︎」
道中どれだけ過酷だったかを話すのも良いが、神鳴の話の切り出しをうけて、肝心の人物についてまだ全く話せていなかった事に弥代は気付いた。全部といわずとも彼の事だけでもせめて、せめてこの兄妹に話せないものかと。
意気揚々と話始めようと弥代はしたのだが、それは次に発せられた神鳴の言葉によって、帳消しとなるのだった。
「そうだな。忘れず、手を合わせて来るといい。」
予感が、なかったわけではない。あのような状況で彼が自分たちを南部の地から送り出した事自体、よくよく考えれば気掛かりであった筈なのだ。当然の事だ。彼は最後、何かあれば抵抗をすると口にしてが、それはどういう意味を持つのだろうか。考えないようにしていた。本当は薄々そんな可能性もあるだろうと予感はあった。考える余裕を持たなかっただけで。考えたくなかっただけで。考えたところで意味などないと、そう自分に言い聞かせたかっただけで。
産まれた頃から彼のことをよく知るその友人に問うたところで、きっと大丈夫です、なんて明るい声が帰ってくるだけで。それならと、振り向かない芝居を続けていただけで。
だからこうして、蚊帳の外にいた筈の存在にそのように仄めかされるような事を口にされ、甚く弥代は動揺した。
手元から空になった猪口が落ちて、畳の上を転がるというのに、それに目もくれない。
それまで上機嫌だった様子が一転。半開きになった口元から、渇いた笑いが漏れた。
「神鳴さんよ、突然会話に入ってくると想ったらなんだよそれ。興醒め、しちまうだろ?」
底の方に微かに残っていたのだろう。数滴、ポタリと畳を濡らしたそれを、弥代の前にいた鶫がそっと拭った。
「己は何か、そのような事を申したか?」 「手を合わせて来いなんてよ、餓鬼の喧嘩じゃねぇんだぞ。もう充分殴り合ったさ。」
手を伸ばしても届くことはない距離の先で、神鳴が不思議そうに首を傾げた。そのさまと言えば、やはり兄妹なのだろう。鶫のそれととても似ていた。短い間の付き合いだが、それは決まって困った時に鶫が見せる癖だった。
「…それは、わざとか?」
「おいおい、何がわざとだよ。そっちこそわざとじゃねぇのかよ。鶫さんが俺らに構ってばっかでつまらねぇからって、んな気を引くような事、いきなり口にしなくてもよくないかな?駄目だろそりゃ。駄目だろ、なぁ?」
こういう時の弥代は、多弁だ。
多弁といっても意味もない言葉をただ並べるばかり。相手の言葉を遮るように、相手がそれ以上言葉を紡げないように。学はなくとも、それぐらいはできる。そうやって話を乱す。聞きたくない事があれば尚更に。
多少失礼なことを口にしている自覚はあった。が、認めたくないのだ。神鳴が困りながらも淡々と発するその言葉の真意を。薄々、感じていた筈だ。必ずしも無事である保証などどこにもなかったのだから。結局のところ、自分たちが南部の地を離れる大まかな理由となった、御法川茅乃の死に彼は、瓢は、霜羽は関わっていたのだから。その亡骸を津軽の静かな雪原に埋めてやったのは、まぎれもない彼自身なのだから。
「良くねぇな。そういうの、本当に良くねぇよ。」
だから最後に約束をさせた。半ば無理やりに。直前まで貸してやるつもりなど毛頭なかったというのに。理由が欲しかった。言い訳を作りたかった。また会いに来るから、それを返してほしいと。頭の良い彼の事だ。言わずとも、分かっただろう。大丈夫だと思った。思いたかった。思って、いたかったのだ。
「うん、良くねぇよ。そういう冗談は、いくねぇよ。」
弥代のその顕著な変化に、鶫が気付かないはずがなかった。交互に組まれた指先がその甲に皺を寄せるのが、目に入る。
相手を気遣うというのが得意でない兄の言葉では、延々とこんな事が続いてしまいかねないと、一言。兄を呼んだ。
「そうか。」
呼ばれ、神鳴はその意味を汲んだのだろう。
はっきりと、それを口にした。
(俺は、人間だ。)
今でもそう、弥代は考えている。
自分がそうだと思い続ける限りは、人間であると。だがそれは、“色”という明確な差がなかった事により迷子のようになってしまった津軽の地で衝突した彼、霜羽という存在によって少しだけ、揺らいだ。
彼に名乗られるまで、弥代は彼が“鬼”であるという事を知らなかった。気付けるわけもなかった。
人間であると、そう思っていた。
彼は瓢という名と。もう一つ、霜羽という名を持っていた。どちらもお前なんじゃないのかと、弥代は言った。殴り合いの最中の事で、それらしい返答というものは臨めなかったが、はっきりと、そう叫んだ。
南部の人間と同じ時間をゆっくりと生きてきたであろう瓢と、父から授かったというその名で北の“鬼”としての立ちあがろうとした彼の、どちらも間違いなく、彼だったのだ。
人間であっても、鬼であっても。彼は、彼だった。
長年誰に打ち明ける事もできない罪の意識に捉われ、足元が竦んでいただけで、何も代わりはなかった。
彼の境遇に自分の過去を照らし合わせるのはあまりにもお門違いだろうが、少しだけ、身勝手にも似ていると弥代は感じた。
『どっちか片方じゃない。どっちも、お前なんだ。どっちも、お前に代わりはないんだ…!』
随分と臭いことを言ったものだと、今になって思い返す。耳にしただろう相手がいなくなって、漸く自分が口にした言葉を振り返った。
(人間だ。俺は、人間な筈なんだ。)
何も得られなかった。何もわからなかった。ただ本当に時間だけが過ぎていって。得られるどころか、救えた可能性があったろう言葉を交わした相手を喪って、
「…ふざけんな、」
顔を、覆う。
何が出来ただろうか。
自分に、何が出来ただろうか。
得たはずの微かなその温もりが消えた。
何を拘っていたのだろうか。
彼のその在り方を見て、どちらもお前なんだと口にした自分がいた事を弥代は知る。
腹は満たされている。用意された布団に身を沈めて、溜まりきった疲労を打ち消す為に寝入ろうとしても中々眠りにつけない。
食って、寝て。それでこれまで通り、思考が曇ることはないと本当に考えていたのだろうか。
(そんな、分かりやすくねぇよな。)
はい、そうですかと、知った口を叩くのはとても簡単だ。上部だけ取り繕うこともできるだろう。でも、
(そうじゃねぇことも、あるんだよな。)
分かりきってきた事を、まさかこんな風に自覚することになるとは思ってもみなかった。
感情に、気持ちに白黒きっちりつけられるわけがない。悩んで、悩んで、悩んで、悩んだその先で結果が必ずしも待っているわけがない。
そぐわない結末だって待っている。当然の事なのに。諦めをつけるのは得意だったはずなのに。
(どうしようもねぇんだよ。)
(どうにもしようが、ねぇんだよ。)
何も出来なかったと、悔やむのだ。
彼に何をしてやれただろうかと、思い返すのだ。
その腕を取ることしか出来なかった自分は、彼は救われただろうかと、思いを馳せるのだ。
答えは出ずとも。
そんなもの誰も教えてはくれない。
息がつまりそうな、夜を過ごす。
この一年の間に起きた事を振り返りながら、結局何も変わらなかった結果を噛み締めながら。
そうして、春は訪れる。




