十三話
その“色”はあまりにも強い。
一度視界に焼き付こうものなら、二度と忘れる事がない程にどこまでも強烈な。
そうして一瞬にして、彼の中の記憶が呼び起こされた。金糸の髪に翠の瞳をした、男の名は、
「祈々…様?」
その口許が、歪な弧を描いてみせた。
話があると呼び出されたのは、あの晩の直前の事だった。御法川茅乃と関わっていた事を指摘され、頬を叩かれたその日からあまり顔を合わせてこなくなった父に呼ばれ、瓢はどうしたら良いか分からず。それでも腰を据えて、向き合った。この頃の瓢と言えば、幼いままではなく、利発的な彼女の影響を既に受けており、若干大人びた言動を取る機会も増えていたもので、いつまでも父に怯えてなるものかとその背をピンと伸ばし正面から連雀を見据えていた。
『古い、鬼の話だ。』
連雀のその口から吐き出された紫煙が部屋を満たした。ゆらりくらりと漂うばかりの煙の中に薄らと、ありもしない幻影を見たような。それは、不思議な光景だった。
(死期を報せる、古き鬼。)
父がかつて一度きり、自分に聞かせてくれた話を瓢は思い出した。
身の毛がよだつ程の美しい風貌をした、それを目の当たりにする。姿を見た者には、近い内に死が待ち受けると、北の鬼が代々受け継いできたという言い伝えだ。聞かされたその日、父もまたその古き鬼の姿を捉えたのだと話していた。連雀の父にあたる存在もまた、死期の直前、それを見たと話していたそうだ。自分も同じように、目にする事があればそれを伝えようと胸の内に決めていたのだと、そう、語っていた。
あの日既に父は、死を覚悟していたのだろう。これまでどうして突然あの日父が屋敷から姿を消したのかが、瓢には分からなかった。日を跨ぎ、母の駄々を聞いてやり。おぶりながら父を探したその先、御法川家が住まう屋敷の方に火が付いている事に気付いたのだ。母を背負ったまま慌ててその地に踏み入るも、見慣れた彼女の両親が血に染まり、雪の中息絶えていた。
その地に封をする、たとえまた違う一族が代わり住もうとも、その時の血を絶やせばそれで母は、屋敷で動く事も儘ならなくなった家族は、昔のように過ごす事が出来ると。
自分がいなくなった後も暮らしていけるとでも考えていたのだろうか。今となってはもう分からないことだが、その存在を視界に捉えて、そんな過去の事を思い出して、漸く瓢はその可能性に辿りついた。
父を殺めた手で、父の私物に触れた。
その中に見た、力強い筆跡で記された、“霜羽”の字を指でなぞり、ずっと、抱えてきた十年。やっと、知れた気がしたのだ。
「−−いっ、…ごっ‼︎」
そんな、彼の思考を横切るような、声が届く。
「聞いてねぇのか、瓢っ⁉︎」
ハッと、意識がしっかりとその音を受け止める。既に何度も呼ばれていたのだろうか。声色からしてやはり暗く顔色を窺う事は出来ないが、それには十分に焦りが感じられた。
「何か、あんのかよ…。」
見えずとも感じる、その真っ直ぐな眼差しが。
「後ろに、誰かいるのか…?」
的確に、狙いを定めていた。
肩を貸すのに腕を回しているのだ。勘を頼りに自分の所に辿り着いてきたような相手が、異変に気づかないわけがない。肩口から後ろを見たまま、一行に動こうとしない彼に気付き、声をあげたのだろう。当然の事と言えば当然だろう。今この場には、自分と相手の二人だけ。今一度振り向くも、そこにはもう誰もいない。言ってどうにかなるだろうか。ならない。分かっている。分かっているからこそ、だから、彼は何でもないと、気のせいと、そう零した。
(あぁ、そうさ。きっと、気のせいさ…)
これからなんだ。
そう。これから、少しずつ…。
菖蒲は、驚いた。
またも自分を狙ってくるその鋒を避けようと、既に穴だらけになった羽織を身ごと翻し回避しようとしたのだ。しかしそれは妨害を受け固まる。このような状況で誰がそんな事をしようものかと、眼前に迫ってくる鋒の、その奥に焦点を向けるも、先程から変わらずあの忌々しい獣の倅は泣き伏せるばかり。近くでその体を抱き止める男も変わらない。この場において誰が邪魔をしようものかと、焦る。それもほんの僅か。直ぐにもう一人この場に居合わせている存在に気付いた。昔からそうだ。何を考えているか分からない、何を本心から望んでいるのかその腹の中を明かす事のなかった女が一人いた。
それはまるであの時と同じだ。
あの日、目の前で消えていった家族に手を伸ばそうとする私の事を制した、羽交締めにしたあの時となんら変わりない。止めろ止めろ止めろ止めろ何故離さない、何故また私の邪魔をする何故、何故、何故、何故…っ‼︎
「もう、止めにしましょう菖蒲。」
両手に握られた刀が、迷いなく、二つの体を貫いた。
「貴方の我儘に付き合うのは、もうおしまいです。」
その女も、元は人間だった。
周囲の人間よりも成長が遅いわりに、一丁前に弁が立つ。小柄な身は常に父の腕に抱きかかえられ、学のない両親に代わり、大人顔負けに言葉を並べたそうだ。それにより幾分かの財を成す事ができた両親だったが、娘が十つを超えた頃、その才覚を聞きつけて引き取りたいと言ってきた近隣の商家の誘いを断り、家の奥に閉じ込めた。欲に目が眩むなどというのはよくある、ありふれた話で。同じ集落の中でも財力を手にした両親は、それまで細々と身を寄せ合い一日一日を紡いできたのがまるで嘘のように変貌してしまった。
金があれば苦労しなくて済む。金があれば飢える必要もなく。金があれば辛い思いをせずに生きていけると。次第に、おかしくなっていった。
『化かされてるんじゃないのか、あの娘ころに?』
ある日の事。以前は優しかったその二人が、日々荒れていくさまを見ていた近隣の者が、何気なく溢した一言。どうしてか、それは何の信憑性も、何の説得力もなかったのに、聞いていた彼らは、そうだと声を上げた。
都合のいい、人間の解釈によって。知れず、成人を迎える直前、在り方を歪められた。
幾ら待てども、目に見えた変化は訪れることはないまま、食事を日に一度持ってきてくれる両親の顔も見なくなって、一年が経った。
それでも、その女は生きていた。
既に多くの者に、それは人間でないと思われていた、知れず人から転じてしまった憐れな、娘の話だ。
人間でないのなら、己は何者なのか。
女はその集落から逃げ出した。匿ってくれるような身寄りなど、両親の腕の中で育っただけの彼女が知ることはなく。一年近く何も口にしていないというのに、死の恐怖よりも先に、吐き出しきれない悲しみにまるで背を押されるように飛び出した。
何も変わりない。何も違わない。ただ、ただ変わらず生きていたかっただけなのに。外に出る事が出来なくても、二人が、両親がいてくれればそれだけで良かった。本当にそれだけなのに。それだけの事も叶わなかった。
伸び切った髪を振り乱し、あまりの寒さに凍えて死んでしまいそうなのに、死ねない。そんな簡単に死ぬ事が出来ないと、本能的に理解してしまった。反り立った岩場の先端まで足を進めた所で意味などない。意味などないのに。死なずとも、この悲しみを少しでも紛らわす事が出来るならと、それぐらいなら叶えてくれぬものかと、身を投じた。
結果など、言わずとも分かる話。
泣き腫らした顔を隠す必要もありはしない。皮膚の表面に固まった血を河原の水で洗い流し、行く宛もなく女はその川縁の上流を目指し歩み出した。島国の最北には行き場を失った妖が住まう土地があるなどと幼き頃、根も歯もない噂を思い出したからだ。
人間でないのなら…。
自らを、生まれた地に伝わる人ならざる存在“小綱”と、畏れ多くも自分の口から“鬼”の名を語ったその女の心の傷は深く、津軽の地に住まう同胞と一括りにされた存在達に受け入れられても癒える事は長くなかった。
自分によく似た境遇の幼子と出会うまでは。
『昨日も、その前に此処にいたでしょう。何を待っておいでで?』
元が人間という事もあり、女はよく人里に降りてはその土地の者と交流を深めていた。何も人間が嫌いということはなく。自分を人間から遠ざけた故郷の者らを甚く憎む事はあれど、それ以上抱えるだけ無駄な事を彼女は知っていた。
望むなら、人に紛れてその営みの中で朽ちていきたいと思うもそれが叶うことはないまま、時間が流れたある日の事だった。
北の地の祝福が絶たれようとも、やはり同種にその存在を歪められる人間というものは存在するようで。
日に日に痩せ細っていくも、一歩もそこから動こうとしない幼子を、小綱は見つけ静かに声を掛けた。
『お母さんとお父さんはどうしたんだい?』
『ここで待ってって、かえっちゃった。』
『帰り路は?』
『しらない。ここがどこかもしらない。』
『それは困ったわね…』
里の者は誰一人関わろうとしない。見て見ぬ振り。余所者に情を掛けるだけ生活にゆとりがあるわけもない。自分の家族を養うのに精一杯だ。
傍から見て、それはどのように彼らの目に映っただろうか。
津軽の地に住まう、鬼を名乗る人に近しい女が、身寄りのない女子を腕の中に抱え、半纏の中に包めるのは。
子を喰らう鬼のようと呼ぶ者もいれば、子を迎えに来た母親のようとも、いたかもしれない。
『もう、一人じゃないよ。』
祝福はなくとも、小綱が拾い持ち帰った女子はそれはそれは可愛がられたものだ。
屋敷に住まう妖の大半は、住処を追いやられ、帰る場所を失い、はたまた島国の為とその身を粉にしてこの地へ渡ってきた者ばかり。
同じ様に住処を追いやられた、既に人ではない存在を突き放すような事はなかった。
中でも人の子のように名まで与え、可愛がったのは同胞を失った事を一番悔やんでいただろう男だった。見た目にして既に老いを感じさせる風貌をしているというのに、しずりと名付けた子を抱きかかえては情を注いだ。
いつか訪れる終わりのその日まで、そんな光景が続く事を彼女は望んでいた。
(何一つ、叶わなかった。)
自分が望んだものは、一つも叶うことはなかった。
大主であられた連雀が、子息である瓢の手により亡くなったあの晩、祝福が絶たれた以降の者らは姿を失った。
最後の拠り所を失ったその暴走を目の当たりにし、古くから仕える者達の手で懸命に彼らを止めようとしたが、殺める以外に救いはないことを小綱は理解した。それなのに、
『脱殻ですと?馬鹿を仰いますな。皆、こうして生きております。』
それ以上、何を失えるものか。
意思などとうにないだろう、黒い塊に、彼は縋りついた。
同胞を、家族を、愛した者を失う事など。
彼が、菖蒲はもう堪えられるわけがなかったのだ。
「ですから、最後に一つ付き合って差し上げただけです。」
「傷はもう、塞がりましたでしょう?」
掴んだその腕を離すことはないまま、小綱は男の首に手を回し、鋭利なそれを喉元へと突き立てた。
弥代にその身を支えられながら、瓢が屋敷に。南部の地に戻ってきたのは元旦の昼過ぎの事だった。身一つであればここまで遅くなる事もなかったろうが、流石に怪我をして自分の足で歩けない相手に手を貸してはここまで遅くなってしまった。あまりに時間が経ってしまったが、傷口は塞がっていたのだろう。致命傷と呼べる程の怪我ではなかったのかもしれない、自分にも覚えのある怪我の治りの速さで、彼も改めて自分と同じ鬼と呼べる存在なのだなと、弥代は自覚した。
そう、自覚してしまった。
屋敷に戻ってくれば、どういうわけかあの小雨坊を名乗っていた妖の息はなかった。
彼に話を聞きに来た、そもそもの伝手を失ってしまい落胆するも、仏に手を合わせないわけにはいかず、しっかりと手を添えた。
庭のあちらこちらには踏み乱された積雪が見られ、居心地が悪そうに目を逸らす春原の姿があり、何となく察しがついた。とやかく言う気にはなれず、それでも万全とは言えない瓢を瑠璃に引き渡し、その傷の治療が行われた。といっても簡易的なもので。資源が限られたこの地で行える治療などというものは本当に限られていた。
自分だって痛くなかった事はない。結構な高さを落ちて、それでも無事だっただけで。彼があの底で話すその間に、感覚として傷はもう塞がり出していた事が弥代は分かっていた。屋敷に着く頃にはもうそれもすっかりなく、瓢の怪我の治療にあたった瑠璃に後から一方的に暴力を振るったのかと疑われたが、まさか崖から落ちて怪我をしたなんて言えるわけもなく、言ったところで信じてもらえないだろうからと何も言いはしなかった。しなかったのだが。
「…いや、離せよ。」
「…。」
「目合わせる気はねぇのに人の腕掴むなってんだよ!ちった分かれ!」
固まった血を誤魔化すことは出来ぬまま。何も変わらず黙々と屋敷の中で家事を行う小綱によって二日連続で湯を浴びることになった弥代だったが、それをどういうわけか拒むものがいた。言わずもがな、春原だ。
珍しく俯いたままの、全く読めない態度を示すものだから調子が狂わないわけがない。
暖めてもらった湯もこれでは冷めてしまうからと腕を一回り掴む指を、一本一本払い除けようとするのだがこれがなんとも強い。
一応怪我人だぞ!と大声を挙げたくなったが、ぐっと堪え春原の脹ら脛を蹴り付けた。
「いい加減にしろっ‼︎」
「坊…っ⁉︎」
いつから見ていたのだろうか。近くの柱から体格のいい男が慌てて飛び出してくる。
「おい館林さんよぉ…お目付役だろあんた?しっかり躾とけよ。」
「お目付役は何も躾をするものじゃないかと思いやすぜぇ…」
予期せず蹴り付けられ体制を崩し膝を突くも、それでも腕を話す事はないのだからなんともしつこいものだ。
「つーか俺がいない間の事!落ち着いたら何があったか聞くからな⁉︎黙ってようたってそうはいかねぇぞ覚えとけ!」
「弥代さんは横暴という言葉が似合いやすねぇ。」
「聞こえてんぞ館林‼︎」
弥代が館林相手にそんな風に声を荒げていると、春原が小さく口を開いた。
「湯は、傷に沁みる。」
「たった一言にどんだけ時間が掛かってんだおめーはよっ⁉︎」
「っからよ!拭いでもしなきゃ傷が塞がってるのなんか分かんねえだろうにあいつしつこく腕掴んできてよ…見ろこれ!その内すぐ消えるだろうけど痣残ってんぞ?信じられるか?」
「信じられないのはこれでも怪我人相手に、大声で話しかけてくるお前の頭の出来だ。」
彼のその返答に慌てて横に控えていた瑠璃が弥代を押さえつけた。
「落ち着いてください!瓢さんは喜んでるだけでっ!」
「どこが⁉︎この態度のどこが喜んでるってっ⁉︎顔が見える分腹立たしさは十割増しもいい所だぞ‼︎」
「そうか。俺はお前の顔の五月蝿さに驚いている最中だ。」
何はともあれ、無事に年は越せた。無事ではなかった事の方が多いだろうが。
それはごく自然のように。
翌朝 一月二日の明け方、屋敷の門を叩く者が現れた。南部の集落では滅多に見ることのない装いをした奉行人だろうか。
屋敷に戻ってきてからというもの、ずっと横になって過ごしていた瓢が対応を行った。
集落を収めるかの土地の、御法川家の当主の行方が知れないというのだ。病弱な上に、一人で外へ出歩く事のない当主の行方が知れぬと年を跨いで直ぐに報せが入ったのだと言っていた。何も知らないと答えたものの、合わせて屋敷で匿っている余所者にも話を聞かせて欲しいと申し出を受けてしまった。明け方とはいえ、断る理由はなかった。
それでも日が登った頃にまた出直してほしいと瓢が頭を下げれば、一度は彼らも帰っていた。疑いの眼差しは消えない。
たとえ変わらず屋敷にいたと嘘を吐いたところで、あれらが信じようとしない事を瓢は知っていた。十年前、御法川家の当主が亡くなった際も、やはりこの屋敷自体に疑いを掛けられたのだ。何より訪れた奉行人の顔には覚えがあった。十年が経とうともあまり変わらない屋敷の息子の顔を見て、どう思ったことだろう。容易に想像は着いた。だから自然と足は動いた。
「起きろ、東の。」
「んだよ、それ。笑えない冗談だろ。」
「事実だ。急で申し訳ないが、お前たちに罪を被せたいわけじゃないんだ。」
自らが名乗り出ればそれで済む話である事は、彼自身が一番に理解していた。しかしそれを誰も望んでいない事も彼は知ってしまった。変わらず屋敷の世話を引き受ける小綱が何を考えているかは分からなかったが、門で奉行人と言葉を交わす間、背後から静かに見守っていてくれていた事に気付いてしまった。
怪我の手当てを誰よりも懸命に行ってくれた瑠璃に至っては、望むわけがない。瑠璃はいつだって彼の味方でいようとしていた。
屋敷に戻るように託してくれた弥代だってそうだ。彼女の、御法川茅乃の亡骸を津軽の地に埋めてきただけとは言えども、それはきっと十分に集落の者らからしたら罰するに値するだろう。
ならば自分に出来る事は何かと考えた結果が、これだった。
「瑠璃、案内を頼んだ。」
「もし、無理やり捕まりそうになったら、ちゃんと抵抗してください。瓢さんは茅乃様の事を、殺してなんかないんだから。」
「分かっている。そんな事、一番俺が分かっている。」
屋敷の裏手の木戸より手早く出立の準備を終えた三人と、瑠璃を見送るように彼はそこに居合わせていた。
十年前の出来事や、先の秋口の目撃を含め、南部の集落に住まう年長者らはこれまで黙秘を続けていたに違いないのだ。かつての幕府が崩御した事から、統率を失った妖らがそれでも津軽の地を離れられない、帰る場所がない事を黙認していた者が殆どだろう。時が経ち、その事実を知る者は少なくなったろうがなくなった事はない。消え失せるにはもっと長い時間が必要だった。
此度の事を受けて、遂に本腰を入れてくるというのであればどうしてか頷けてしまう。最悪の結末だろう。
そこに。その場に弥代達を、瑠璃を巻き込みたくないと彼は考えたのだ。
本当ならもっとゆっくりと、これからの事を見据えて言葉を交わしたかった。支えとまではいかないが、少しばかし手を貸してほしかった。
甘えだ。そんなの抱けるような間柄ではない。
(それに、もうきっと…)
光が差し込むことのない、あの崖の下で目にしたその存在を忘れられるわけがない。
死期を報せると父が最後に教えてくれた、古き鬼の存在を。
自分はもうそう長くない事を瓢は分かっていた。ただ、どのように終わりを迎えるのかはいくらか検討がついていたが実際その時にならないと分からないもので。仕方のないことだと思えてならなかった。
違う。これは諦めじゃない。もう諦める事は止めたんだ。弥代を始め瑠璃や小綱がそれを望まないとしても、いざという時の覚悟が、今の彼にはあった。目を背けるものかと、もう留まるのは御免だ。
「−−ご、」
「−瓢っ!」
はっと、呼ばれてその青を見る。正しくは浅葱と呼ぶのが相応しいだろうその“色”を見る。
幼い頃。母が読み聞かされた書物の中に記されていたと記憶していたそれが、今になって誤っていた事を瓢は思い出した。
その“色”を自分に教えてくれたのは、母の幸せを一番に望んでいた、男だった。
『貴方様には良き刺激になった事でしょう。』
今になって思い出す必要がどこにあっただろうか。もう息絶えた家族をなぜ今思いだなくてはならないのか。あんな再会を果たしたのだ。彼女の死に肖るかのように自分の背中を押したような男を、そんな風に思い出さなくちゃいけない筈がなかったのに。
「………ぁ、」
何とも情けない表情を曝け出してしまう。振り返れていない事柄があまりにも多すぎた。これで終える覚悟があったなどと、どうして言えようか。未練だらけだ。何もまだ終えられていない。終わっていない。何一つ終えられてなどいないのに。どうして、
「……。」
「…。」
浅葱色の髪が揺れた。
手を、取られる。
先の露出した、冬場では悴んでしまって意味のなさげな手袋に包まれた指先が、少々荒々しく絡められる。
「んな顔すんなよ。また、会いに来てやるからよ俺。」
なんて恩着せがましい物言いだ。
ズカズカと入り込んできて無配慮な無作法でどうしようもない。
「なんなら貸してやっから。返しに来てくれたって良いんだぜ。」
「止めろ。人の首に勝手に巻くな。」
「外すの得意な奴ならいるんだけどな!」
「呼んでもないのに反応してるぞお前の連れっ⁉︎」
余計な言葉を交わすのもきっとこれが最期だろうに。彼は、弥代はそれを何一つ知らないからこそそうまで接してくる。酷く、胸が痛んだ。
瑠璃の案内の元、南部の集落を経由せずに陸奥から羽後へ抜け、来た時とは違う土地を経由し南下する事を瓢は提案した。間違っても南部から近隣へ情報が回っても、彼等が無事に相模国へ戻れるようにする為だ。
自分が招いた事が原因で手を煩われてしまうと言ったが、直ぐに笑い飛ばされてしまった。なるべく海沿いに進むようにと、瓢は瑠璃に強く念を押していた。
帰路に関しては、弥代がどうしても下野国に寄りたいと言っていた為立ち寄る事になるだろうが、せめてそこまで瑠璃には同行を願った。そうすれば、自分に訪れる終わりに心優しい彼を巻き込まずに済むと考えたからだ。
物音を立てぬように、息を潜め木戸から静かに出ていく背を見つめていると、やはりとでもいうか弥代が振り返った。
「霜羽…!またな‼︎」
精一杯絞っただろう声が、それでもしっかりと届いた。
名乗ってからも一度もその名前で呼ばれなかったから覚えていないか、聞こえていなかったと考えていたのに、全く想像もしていなかった呼ばれ方が、どうしてか無性に嬉しくて。でも本当は同じように、彼女に、茅乃に、願うのなら呼んで欲しかったと、瓢は、霜羽は漸く知るのだった。
遠ざかるその背中に、声を掛けようにも大きな声など出せるわけがない。何のために寝ている所を叩き起こしてこんな手間のかかる準備を急いで行ったというんだ。全てを台無しにするつもりかと、自分を律する。
「さよなら、東の。」
自分も彼のように、呼び返してやりたかった。
「小綱、お前も屋敷から離れろ。」
「屋敷から離れ、どこへ行けと申されるのでございますか?」
「好きにすれば良い。」
「左様でございますか。えぇ、承知いたしました。」
足元を光が照らす。空を見上げれば、年中分厚い雲に覆われて中々拝む事が出来ない澄み切った青い空が、僅かに広がっていた。
手を伸ばす。掴めはしないと分かっているのに、その眩しさを直視する事が出来ず逃れるように、手を翳す。
(なんて、綺麗なんだろう。)
これまでの自分といえば、かつての父に囚われたまま模倣を重ねるばかりで、伏せきった瞳でただ屋敷の庭を、あるいは眼下を見下ろすばかりで。長く、こうして空を見上げた事はなかっただろう。だというのに、ここ数日は間近に空のような明るさはあったような気がするのだ。気のせいではない。
(本当に、良い刺激だったさ。)
霜羽がそんな事を考えながら空を見上げていれば、一つ背後から近付く小さな影があった。
霜羽がその存在に気付いたのは、自分以外もう誰もいなくなった筈の敷地内で、積雪を強く踏む音が届いた時で。
何かと、振り向いたその時。
鈍い、衝撃が彼を襲った。
一瞬にして、それは遅いくる。あまりの衝撃に景色が眩む。大きく揺れた視界は、直ぐにその正体を捉えようと、本能的にゆっくりと動き出した。腰が覚えたその元凶に反射的に手を伸ばす。掴んだそれは、幼い少年だった。
「…十和?」
その少年を霜羽は忘れていなかった。
弥代達が南部の地にやってきたその日、彼女におはぎを呑気に渡しに行った自分の邪魔をした、炊き出しの際に彼女に隠れるようにして自分に大きな声で謝ってきた少年・十和に違いはなかった。
「…茅乃さま……して、」
霜羽が問うよりも早く、十和は口を開く。
「かえせよ…茅乃さまを、返してよっ‼︎」
十つに満たないような幼子が、そう叫ぶのだ。何も、返せない。何も、言葉が出ない。出るわけがない。今の霜羽に、彼に、十和に掛ける言葉などあるわけがない。何も、何も、何も、何も、何もないのだ。
抵抗など、する意味がない。
ぐっと、力が込められる。
より深く、十和が握り締めた短刀が、霜羽の体に深々と突き刺さった。
崖から落ちた際に出来た傷もまだ塞がったばかりだというのに、また新しい傷が出来てしまうと、いやに冷静に霜羽は考えてしまった。別に真似をするわけではない。ただ、もし。もし、十和に掛ける言葉があるとするならばと、考えた。考えて、霜羽は場違いだと分かっていながら、その低い頭に手を添えて、
「よく、頑張ったな。」
そんな幼い体で、大切な人を奪った相手を一人で討ちに来たのだ。讃えてやらねばならない。その勇気を、その行動力を、その選択を。
きっとそれらは、幼き頃の自分には足りていなかったものだから。
「頑張ったな、十和。」
「もう、良いんだ。」
「そうだ、お前は何もしていない。」
「ちゃんと、帰るんだぞ。」
「ちゃんと…家に…」
結果として、自分が彼の帰る場所を、家族を奪ったのだ。彼はもしかしたらあの場を見ていたのかもしれない。あの晩、自分が彼女の部屋に踏み入り、息絶えた彼女の亡骸を抱えて津軽の方角へと消えていくのを。
泣きじゃくった幼子が、履いていた草履につっかえながらも閉め忘れた木戸から飛び出していく。
何も悲しくはない。分かっていた。終わりが近いという事は。
視界の端に映る、真雪を染めあげていく自分の体液が、乱雑に巻かれた真っ赤な襟巻きと同化したように見えた。
(これじゃぁ、返せないじゃないか。)
要らないといったのに。押し付けがましく巻かれたまま返す間もなく、彼は屋敷を後にした。
(東の…、)
違う。本当は自分も、同じように、
「…やし、ろ…、」
同じように、その名を口にしたかったのだ。
「ですから、御父君の真似はお止めなさいと、私は何度もお伝えしたのでございますよ。」
ずるり、ずるりと。息絶えた体を引き摺る女の姿がそこにはあった。
「いくら真似をしようとも、所詮子どものままごとのようなものでしょう。意味など、そこにはないのですよ。」
彼女の声に、応える者は誰一人としていない。
「どうして皆、先に逝ってしまうのでしょうね。ねぇ、菖蒲。」
自身の手によって、その喉を裂いた、最愛の古き友を前にして、彼女は何を思うのか。
「私は、ただ。ただ、静かに、家族と。あなた方と共に過ごせれば、それで良かったのでございます。」
女は、その口を閉ざすことはない。
「ただ、ただ…共にあれれば、それで良かったというのに。」
「あぁ、ですがもうそれも終いでございます。」
「これで、離れる事はないのですから。」
暗い、暗い、地の底。
崩れ落ちた瓦礫は、到底人の力だけでは取り除く事は難しい。幾重にも重ねられた牢の奥、それは二度と光の差し込むことのない、誰にも邪魔をされない、閉ざされた空間。
「私の、叶えたかった夢…」
拾い上げた幼子と、愛した男に、血は異なれど情を注いだ孫のような存在。
「ご覧なさいな菖蒲。これこそが、本当の、祝福にございましょう?」
呪われた島国・日本。
その最北端となってしまった、忘れられた、終わりを待ち望む地“津軽”に生きた、
これは、哀しき鬼の物語。
鬼ノ目 三節・津軽、北の大主編
これにて、終話。




