十二話
これまで通り。そう、これまで通り。
目を逸らしていればそれで良かった。自分に言い聞かせた。
彼女の、茅乃の死を。目の当たりにして、駄目だと、彼は宛を失った。
父を手に掛けてまで、それでも彼女に生きてほしかった。
ただ、それだけだった。
「おいっ、大丈夫か⁉︎こんな所で死ぬわけねぇよな⁉︎起きろ瓢…っ‼︎」
一人で、随分とやかましいものだ。
霞んだ視界の中、光源を探すも見当たりやしない。
光の届かない深い、深い場所で彼の意識は浮上した。
伸ばされた手を思わず掴もうとした、その刹那、意識が遠のいたのをしっかりと覚えている。
失った足場はしっかりとある。起きあがろうとして傾くことはない。
たとえ暗くとも、肩を掴むその温もりは紛れもない。痛むという事はないが上からその手を掴み返した。
「起きて、いる」
絞り出した返答に、どうしてかより一層肩を掴む手が強くなる。引き剥がそうと試みるも、非力な自分の腕力ではそれも難しい。
そして、彼は気付いてしまった。
意味がないのならするだけ無駄と、止めるだけの体力を使う気は失せた。そのまま何も発さずにいると、対面する相手は酷く狼狽えた声を上げる。たとえ表情が窺えずとも揺らぐ、取り乱すさまが声色から察しがついた。
「…無事だ。」
無事なものか。見えない事を都合よく、言葉を濁した。
喧しい声に覆い被さるように、ほんの少し喉を張っただけで、身が痛むのだ。これまで味わった事もないような痛みだ。
起き上がる事は出来ても、立ち上がる事はまだ出来そうにない。悟られぬように、彼はどうにか言葉を繋げようとする。
「なぁ、東の。」
「一つ、身の上話でも聞いてはくれないか。」
暗くて良かった。
お前のその“色”は、とても惹かれる。
『貴方は何も気にしなくていいのよ、瓢。』
産まれた頃から、母の腕の中が俺の居場所だった。
当然のように回される腕の中、何を心配することもなく、ただただ与えられる愛情を受け止めるだけ。
長命で知られる鬼の血を引いていようとも、俺自身の成長は非常に遅かった。
産まれてから四十年以上が経っても、まだ母に甘えるような赤子染みた行動が目立っていたと、瑠璃が話していたよ。
両親は共に、俺にその責務を譲ろうという考えは持ち合わせていなかったらしい。お前は何も知らなくていい、何も気にしなくていいからと、言い聞かされてのうのうと育てられた。決して狭くはない屋敷の中、姿形が違う者も等しく家族として、父から与えられる恩恵の元、いつかこの島国に訪れる終わりの日まで、身を寄せ合い生きていこうと。緩やかな日々を送っていたんだ。
しずり様が床に臥せるようになってから、屋敷の中は活気が失われた。
この北を、津軽の地を長く治められている当主の連雀様はとても静かな人で、決して優しい人ではなかった。古くから隣にいた父もあまり笑う事はない人なのだと話していたから間違いはないでしょう。お二人の息子であられる瓢さんはここ一年程は目を離した隙に屋敷をよく抜け出すようになっていました。
しずり様が倒られて以降、同じように、人間から転じてしまった人たちが存在を保つことすら出来なくなってしまう、そんな事がありました。
百年以上昔、この地の祝福は絶たれ、元より妖であった者以外の限界が訪れたんだと、そう父様が教えてくれました。
「…祝福?」
「“色”に差異はありません。でも、持っている人は持っているんです。そういうものを。」
瑠璃が話す傍ら、弥代は小さな疑問を投げかけた。
彼のその口ぶりからして、“色” を持つ者がその“祝福”という物を受けているのだろうか。
「奇跡のようなものに、そう易々と名前なんて付けられないでしょう?」
それは、産土神の寵愛であると彼は言った。
今は姿無き、その土地そのものに存在するとされた神の“祝福”。“色持ち”と呼ばれる存在はその神の寵愛を授かった存在だと。
「“色持ち”の中には、同じ人間であっても何かしら優れた力を有した人間がいるのでしょう。それが、証です。」
以前雪那と野宿をしている最中にもそんな話を聞かされた覚えが弥代にはあった。初めて吉野の路地裏で会った際、大人を軽々と吹き飛ばすその力はが“色持ち”特有のものなのだと思ったと。同時に春原と衝突した際も、彼の異様な速さにその可能性を疑った事を弥代は思い出した。
(冗談も程々にしてくれよ、本当に。)
要らないと、疎ましく感じていたこの“色”が、今になって寵愛の証であるなどと、誰が信じられようものか。
日が暮れるまでの間体を休めている最中、無言に耐えかねた瑠璃がぽつりぽつりと話す言葉に耳を傾けていた弥代だったが、その意識は自然と二人へと向けられる。
彼らは、この話をどう受け止めるのかと。
黒髪であるが、重たい前髪の奥に暗い青を宿した春原と、それ自体はもう色褪せているものの、緑気を帯びた髪に落ち着いた青い瞳を持つ館林。彼らもまた自分と同じ“色持ち”だ。
“色”を持つだけで、異様と。長い間この島国において迫害の対象とされてきた、虐げられてきた存在が、わけのわからない神から与えられた“祝福”など、と。どのような気持ちで受け止めればいいのかが、弥代には分からなかった。分からなかったから余計に、憤りを感じてしまった。
「色さえ、あればきっと。間違えるわけがなかったんだ。」
そんな話を、彼の言葉を受けて思い出す。
『俺も、羨ましかったよ。』
心底、うんざりする。
「…。」
男の発した言葉に館林は思わず柄へと手を伸ばした。
まさかこのような辺境の地で、知り得る相手と見えるなどと考えてもみなかった。何よりも初対面となる相手が何故そのような事を知っているというのか。警戒を解く事はないまま、男の方を見据えて動かない春原の背へと声を投げかけた。
「坊、どうぞお退がりくだせぇ…、自分が相手を…、」
「…どうしてっ‼︎」
背後にいた青年・瑠璃が大きな声をあげた。
「どうして、なんで…小綱殿、なんで…っ‼︎」
まともな言葉一つ並べる事もできず、しかし瑠璃は立ち上がった。
館林がその進行を止めようとしても、掻い潜るように腕を伸ばす。掛衿を掴まれようとも静止を押し切る。
「呼ばれておりますよ、小綱?」
「取るに足らぬ存在でしょう。時間の無駄です。行きましょう菖蒲。」
淡々と、吐き捨てられる言葉。進み出す足取りは、屋敷の奥へと向けられればどういうわけか、春原は関心が逸れたのか彼等から視線を逸らした。
この地の“祝福”は、ある土地を封じられる事によって絶たれた。産まれつき“祝福”をごく自然と受けることができる妖とは異なり、非力な人間の中でも一部の者達しかその力を獲得することが出来ない事を、よく思っていなかったんだろう。海を超えたその先、異国の民らの侵攻を阻む為、時の権力者によってこの地に集められた妖が多かった。力があるというのは、それだけで畏れられる存在だったんだろうな。
「言わなくとも分かるだろ。彼女が暮らしていた、あの地だ。」
底意地の悪い態度を取ったものだと、彼は今になって少しだけ後悔する。
意図的に相手を煽るような言葉を選ぶ事も、ああまでムキになってぶつかる事もこれまでなかったものだから自分の子どもぽさに呆れて何も言えやしない。
彼女・御法川茅乃が息を引き取ったその時、それまで蓋をされていたものが微かに漏れ出るような感覚を間違いなく彼は感じた。
本来であれば産まれたその時から自分も与えられていた筈のそれは、初めて触れた筈なのにもうずっと知ったようなもので。
ただそれでも、それを思い通りに扱う事も出来ぬまま、彼女の冷たくなっていく亡骸を抱えて、津軽の地を目指した。長い間誰も踏み入ることのなかった地の、染み一つありはしない雪原の中にその体を横たえた。そこにもう自分が知っていた彼女はいないのだと思えても、生前幼い頃彼女が口にしていた言葉を忘れられなかったからだ。
静かに埋めてやって、そしたらどうだろうか。彼は弥代を、その“色”を目にして、それまで押さえ込んでいたものが一気に溢れ出した。
真っ直ぐに“色”があろうと、ない者に対しても接する弥代が。“色”がない事を、境界線を見失って選択を見誤った自分が。あまりにも鮮やかで眩しいその“色”が。色褪せた日々でもうずっと諦め続けていた己が。彼女の、彼女にもっと早く向き合えなかった俺自身が、
「全部、許せなかったんだ…」
整理しろというのが無茶な話だ。
今まで誰にも打ち明けたことのなかった話を、こんな状況になって初めて吐き出して。何も相手の同情を買いたいわけではない。そんなものでは断じてない。吐き出し方をずっと知らなかった。どうすればいいのか分からなかった。望まれなかった自分が、何も知らずに腕の中で守られてきただけの自分が、何が出来ようと。何を期待されようと。答えられるわけがないと、償えるわけがないと、贖えるわけがないと、言い聞かせた。自分に。そう、自身に。
『霜羽、』
震えるその掌で握りしめた短刀が深々と、覆い被さる体躯の自重も相まって突き刺さった。間違ったと、自分が冒した事の重大さを自覚した。
産まれて初めて耳にしたその言葉を、瓢は自分の名だと、ごく自然に、本能的に理解した。
我が子にその責務を背負わせぬようにと望んだ両親の、本来であれば父が授けてくれる筈であった己の名なのだと、自覚させられた。
『お前は、自由だ。』
そして、彼らはその存在を保つ事が出来なくなった。
「父さんが、最期の拠り所だったんだ。」
その地に古くから住み着き、妖をまとめあえげてきた純潔の鬼であった連雀の、その身に有り余った寵愛の恩恵により、長く存在を保つ事が出来ていた者が殆どだった。
それを失った事によって、在り方や記憶、姿形さえも忘れたなれの果てと化した同胞が多く、解き放たれてしまった。
時間が過ぎれば、それらも消えるかと思われたがまるで呪うかのように、呪いそのものが息吹くように意志もなく徘徊を続けた。中には津軽を離れ故郷に、そこに心などとうに無いだろうに、南部への侵攻を始める者らもいた。
「父さんはただ、母さんともっと一緒にいたかった、それだけなんだ。」
後にそれらは元よりこの地と縁があり、連雀亡き後も己を失う事のなかった同胞らによって食い止められ、屋敷の奥深く、地下牢へと閉じ込められた。全てを捉える事は難しく、今も幾らかはこの津軽の地のどこかで徘徊を続けている筈だと、そう彼は離した。
「……。」
「屋敷の者は。皆、小綱が世話をしてくれている。この地は俺が、終わらせなくちゃいけないんだ。」
俺一人で出来る事なんてたかが知れている。
それでも、自分が招いた結果を、その結末をそのままにしてそれでも生きる事は、
「俺たちを導いてくれなかって、何であんな事を言ったんだよ。」
「死ぬかもしれねぇって分かってて一人でここに来たって言うのかよ。」
彼は、何も返せない。
その問いに返す言葉なんてない。出来や、しないのだ。
「弥代の邪魔にならないなら、関わる必要はない。」
静かに、佇まいを正しながら春原はそう口を開いた。自分たちが半日前閉じ込められていた屋敷の地下牢へと繋がる、階段がある方へと歩み出す老ぼれの進行を止める素振りは微塵も感じえない。春原は、彼はあくまでも自分に強く言葉を残した弥代の、邪魔をしてくれるなという言葉に反応しただけに過ぎなかったのだ。二人の歩みが屋敷の奥、津軽の地へと向かわないと分かってしまえば止める必要などどこにもありはしない。
「止めてっ、くださいよ‼︎」
背後で館林が必死に飛び出そうとする瑠璃を抑え込むのさえ、気にも留めない。関心が湧かない。彼の関心はいつだって弥代にしか向く事はないのだから。
「なんで、どうして止めるんですかっ?アンタ達が来なきゃ、来なきゃ…何も、こんな事にならなかった…ならなかったんじゃないのかよ…、なんで、なんで…、なんでだよっ‼︎」
春原には、それが分からない。
その青年が、何故そうまでして強く、泣き叫ぶのか。どうしてそれを館林が止める必要があるのか。あの二人を止めてくれと懇願するその理由が。春原には、分からない。分からない。分からないから、そっと、目を閉じようとその時だった。
「刺激が必要ですよ。」
嗄れた、男の声がよく届いた。
「折れ掛けていた瓢様に、あの鬼の子はいい刺激となった事でしょう。」
「何とも、悦ばしい限りでございます。」
気付いた時、春原は刀を抜いていた。
大きく一歩、踏み出す。
その太刀筋はブレることなく、真っ直ぐに振り下ろされた。初動にて仕留め損なった相手は、しかし寸での所で避けきったのだろう。行き場を失った羽織の切れ端が微かに宙を舞う。微かに積もった雪に埋まった鋒をゆっくりと持ち上げ、さながら血振りをするかのように下方へと払った。
仕留められていたのなら、また直ぐに鞘に納めていただろうが、そうはならなかった。
「…見逃していただけるのでは、なかったのでしょうか?」
『お前に何が分かんだよ⁉︎見たんじゃねぇのか⁉︎なのに…そんな普通の面して、関わってくんじゃねぇよっ‼︎』
掴みかかられ、反射的にその体を押し倒した。どうしてそんな心ない言葉を投げかけられなきゃいけないのか、それが、それが春原には分からず。どうしたらいいのか、ただ初めから何も違えず、言葉にしてくれればそれで良かったのに。どうして、どうして、と空気に呑まれ、それでも傍にいる事を選んだ。泣きじゃくるその体を抱きしめることしか出来ず、遠い昔に自分が彼女にそうしてもらったのと同じように、泣き止むまで背中をさすり続けた。赤い髪結紐がちらつく。彼女は、酷く震えていた。
春原の脳裏に過ったそれは、いつの事だろうか。思い出せなかった。思い出す事は出来なかったが、どういうわけか確信めいたものがあった。彼女を泣かせた。その原因は、間違いなく、眼前の男にあると。
「泣いてくれるな、弥代。」
弥代は、踏み込んだ話は正直好きではない。
自分の事をあまり話すことのない弥代自身が、誰かの身の上話など好き好んで聞くわけがないのだ。それでも聞くということは、しっかりと向き合ってやりたいと、そんな思いが微かでもあるからだ。心を寄せても良いと、歩み寄ってやりたいと、そう思うからだ。
自分が何ものであるか、昔に何をしたか、どうしてか残る罪の意識の、その正体を知りたい。過去に清算を付けて、それで踏み出したいと、そう考えていたのだ。
今、弥代が向き合う彼もきっとそうなのかもしれない。違うかもしれない。言い切ることは出来ない。間違っていたら、失礼にも程がある。
けど、確かなのは。彼も過去の己の行いに、冒した罪に向き合おうというもので。でも、その先は違う。彼はその先を望んでいない。あの地下牢で二人、言葉を交わした時の冷ややかな、諦めに満ちた瞳を思い出す。
差し込む明かりなど、どこにもない。それでも何故だか、今の彼には別の何かが宿っているような、吐き出すことによって少しずつ心の整理をつけられているような、見えずともその声色から僅かばかりのものを必死に汲み取ろうと弥代は試みた。
彼をここで引き止めることができなければ、それはいつかきっと、自分が、自分自身の罪と向き合った時、同じように踏みとどまってしまいそうで。だからこれは、まごう事なく弥代自身が勝手にしたい事で。
言い聞かせる。自分にそう、弥代は言い聞かせた。言葉一つ間違えてはいけないのだろうが、揺らいだ心を掴んで引き戻さなくてはいけない。上部だけで踏み込む事を恐れていた仇だろうか。何も、何も浮かばない。闇の中、見えもしない表情をただ想像して、時間が過ぎていく。過ぎて、そして、ふと、あの言葉を思い出した。
『そんなに、肩張らないでください。』
“色”を持たない、青年の言葉だった。
「肩?別に張ってねぇよ?」
「張ってますよ!もう見るからにって感じっす!普通にお話がしたいんです。だから、無理しないでください。」
雪の晩、老夫婦を炎に焼かれ失った弥代は、以降他人と深く関わる事は避けてきた。自身がこの島国において迫害の対象とされる“色持ち”という事も含め、みながみな、そうではない事を分かってはいたが、どうしても関わる事が出来なかった。本心はどこかで腰を落ち着け、安らぎを求めていた。あのような事がなければ、覚えのない罪の意識を感じる事がなければ、何事もなくどこへでも転がり込んで過ごしていたかった。
吉野にて雪那と会った際、本当にその世間知らずな考えが気に食わなくて、余計な世話を働いた。三ツ江の宿での一件を経て、より一層彼女と関わるようになって、同じ“色持ち”だからこうも気軽に過ごせるのかと、関わった事を後悔するだけは一度もなかった。本心から、誰かと過ごせる時間は良いものだと、そう感じたのだ。
彼女を通じて、里での暮らしが始まり。でもやっぱり、“色”を持たない人間とはうまく折り合いを付けて関われる気がしなくて、上部だけの言葉と態度で誤魔化して、そうして過ごしていた。それでいいと、思っていた。
「変わりませんよ。“色”があるとか、ないとか!だって現に俺は、こうしてここにいます。他に行く宛がないだけでもありますけど、ここが好きなんですよ。“色”があるからダメなんてないんです。だから。肩、そんなに張らないでください弥代さん。」
何も、勘違いなんてない。
あの青年は、芳賀は真っ直ぐにそう弥代に伝えていた。
何故今になってそんな事を思い出すのか、検討もつかなかった。つかなかったのに、思い出したらじんわりと胸の内が暖かくなったのだ。だから弥代は、迷う前に言葉を発した。
「帰ろう、瓢。」
態度を窺う事はなく、ただ一言そう零して弥代は彼の体を無理やり起こした。
立ち上がり、腕を引く。
小さな呻き声が聞こえたが、そんなの気にしない。彼はきっと、梃子でもここからもう動かない気だったかもしれない。そんなのよくよく考えれば分かった事だ。鼻につく血の匂いが先ほどよりも強くなっているのだから。時間が経てば経つ程、きっと取り返しのつかない結果になりかねないと、気付いた。気付ければ迷っている暇などない。たとえ彼が自分と同じ鬼であろうと、彼の話から察するに同じ鬼であった父は、一刺しで亡くなってしまった事があるという事になる。傷の治りが早く、多少頑丈であったとしても。致命傷と呼ばれるような怪我をまだ負った事のない弥代には分からないが、もしかしたらそれで終わってしまう事だってあると考えるのが妥当だろう。
「…置いていけ、置いていってくれ。」
「それでどうすんだよ。始末つけんだろ。それ以前に逝っちまって、誰が終わらせてやんだよそいつらの事。」
「お前には、そんな事まで関係ないだろ…」
「あんだろ。俺に導いてくれとまで頼んだくせして、口挟む義理ぐらいはあったっておかしくねぇだろうよ。」
背丈だけならそこまで差はない。
それでも男女の体格差というものはやはりあるだろう。支えられない程ではない。しっかりと、自分の肩に回した腕を離すことはない。暴れるだけの、抵抗する出来るだけの余力などないのが分かった。
ずるずると引き摺られる彼の下半身だったが、それも徐々に歩みを合わせるように少しだけ動き出す。前へ、前へ。
「東の…、」
「他人行儀だなその呼び方、普通に呼んでくれよ。」
横へと凪いだ刀の鋒は、またも相手を捉える事は出来ない。何も春原が振るう速度が遅いというわけではなく。厄介にも、相手は春原以上に逃げ足が早いだけだった。しかしそれも足場の悪い雪の降り積もる庭では足元を取られてしまう。動きに制限を付けられているという事はないが、鈍るのは相手のみだった。春原のその太刀筋に、迷いはなかった。
振り下ろされるそれは徐々に、徐々に相手の、菖蒲の中心を捉えようとする。
その鋒が向けられることのない小綱は、じっと変わらずそこにただ立っているだけだ。
「動くな。」
「斬られそうになって、動くなというのは無茶がございましょう。」
そして、それは漸く菖蒲を捉えた。
「でもよ、落ちちまったろ。どこから登れば良いんだこれ?」
「…ふざけるな東の。お前まさかここまで引き摺っておいてそれはないだろう?それは…冗談だろう?」
更に言うのなら、弥代に土地勘などというものは一切ない。この地が津軽であるということしか知らない。積もり崩れた足場によってかなり深く落ちたような感覚に襲われはしたが、具体的にどれぐらい落ちたかなんて知る由もないのだ。屋敷を出てから半刻程、年を越す鐘を聞きながら登り続けた。
「見渡す限り雪、雪、雪。月明かりもないんじゃ道なんてわかるわけねぇだろ?おちょくんなよ?」
「誰がおちょくった誰が?大体よくそれで俺の場所が分かったな。迷わなかったのか?」
「んなもん勘頼りに決まってんだろ!」
「……頭が痛くなりそうだ。」
比喩ではない。いくら暗くて何も見えなくとも、布が擦れる音がしっかりと届き、空いた右手で彼が額を抑えてる事が分かった。
「呆れてくれんなよっ⁉︎」
「呆れ返って何も言えないんだ。瑠璃以上に雑だなお前は。」
「いや、つーかよ?お前結構口悪いのな。意外でびっくりしたわ。」
「別に…、そんな?悪く、ないだろう。」
「断言出来るのすげぇな⁉︎」
傷は塞がっていないだろうが、それでも先ほどよりは幾分かマシなのだろう。饒舌に軽く言葉を交わす。
(こんな風に接せるものなのか…)
彼は、その状況を思わず噛み締めた。
(なんて、気が楽なんだ。)
何も気負いしない、軽口が。こんなにも楽しいなんて知らなかった。きっと弥代は初めからそこまでそんなに態度を変えていない。返す言葉一つで、こんなにも持ちようが変わるなんて。知らなかった。知らなかったのだ。
これから、どうすればいいのかという不安が拭えないわけではない。屋敷へ戻って、それできっといるだろう三人にどう説明をすればいいのか分からない。分からない。分からないけど、その時になってから考えることにした。今はただ、こうして他愛もない。知り合って日も浅いというのに無遠慮に掻き乱していく客人に引き摺られるように、南部へと帰れば良い。帰ろうと、言ってくれた。その言葉だけで、十分だった。
道も分からず迷子になっていたのは、きっと自分の方だ。迷わずに見つけてくれてありがとうなんて感謝、口に絶対してやるものか。言わぬ。言ってやらない。もし伝えるのだとすれば、それは全てが終わった後、それからでも十分。十二分に問題はない筈なのだ。
だから、だから…
「お前さては耳がよくないのか?水の流れる音が聞こえないのか。ここまで暗い、落ちた場所だ。水の音が聞こえるとなれば近くに川があると想像が付くだろう?」
「馬鹿にしてるよなそれっ⁉︎俺そういうの分かっちまう質でよぉ!」
「ははっ、まさか。」
「ひーさーごーっ⁉︎」
彼女・茅乃以上にここまで近しいと感じた存在は本当に彼にとって初めてだった。
一方的な歩み寄りだったにもかかわらず、不思議と不快には感じないのだ。本当に、とても、とても不思議な…。
「こんばんは。」
その場において、全く似つかわしくない声が届いた。おかしな事だ。今この場には、自分と弥代の二人しかいない筈だ。他に誰がいるというのか。いもしない相手を探すように。暗がりの中だというのに彼の視線は泳いだ。肩を貸してくれている弥代に気付いた素振りはなく、一息吐いた後、明かりなどない暗がりの中、恐らくは声が聞こえたであろう背後を、肩口より覗くように振り返った。
揺れる艶やかな髪が、暗い事を一瞬忘れさせた。何故光の届かぬこんな深い場所でそうも姿を認識できるものかと、疑問を感じるよりも早く、彼は、霜羽はその名を口にした。
「祈々…様?」
金糸の様な髪に、透き通った翠の瞳を持つ。色濃い肌を惜しげもなく晒した、酷く美しい男が、そこに一人立っていた。




