十話
『お待ちください連雀っ!話を、話はまだ終わっておりませぬぞ…っ‼︎』
振り向かれど、その眼差しが己を捉えることはなく。冷ややかな、温もりを感じさせないその眼差しの先には、私ではない、主人の邪魔を企てようとした無礼者を押さえ込まんとする獣に向けられていた。
四本の縦長の爪が、背に食い込めばあまりの痛みに視界が揺れた。
そこに温情などありはしない。
果たしてそれが上に立つ者の行いであると、到底思えるわけもなく。認められぬ、認めるわけにはいかぬと腕を伸ばす。
歩みを止め、静観する男のその羽織に必死に縋った。
『諄いと言っておろうぞ菖蒲!これ以上話すのは無駄というのが分からぬか⁉︎』
『分かってたまるものか…!あの地より帰ってこぬ彼等を見捨てろと、同胞を易々見殺しにしろと、どうしてそのような事を受け入れられようものか…‼︎そのような、そんな、そんな事を…黙って、黙っていられるわけがなかろう‼︎』
食い下がる。
この手を離すという事は、それは彼等を、家族を見捨てることと同義だ。
ならない、それだけはならない。
淘汰され居場所を失いながらも、身を寄せ合って生きてきたのだ。たとえそこに血の繋がりはなくとも大切な、大切な家族に違いないのだ。出来ない、見捨てることなどできるわけがない、そのようなこと、そんな、そんな事が…
『今一度、考えなおしてはくれませぬか、連雀殿っ!…連雀殿…っ‼︎』
その場において、彼が口を開くことは終ぞなかった。
「…飲まぬのですか?」
物思いに耽りながら、差し出された湯呑みを見下ろす。眼前の顔馴染みにそう促され、漸く手を付けようと伸ばしてみれば、ふと、そこに立つ茶柱に男は気付いた。これはなんとも、縁起が良い。湯呑みを直接傾けてみせるような事はしないものの、仄めかすようにそう伝えれば女は訝しげな表情を浮かべた。
「ご覧あれ、小綱。」
「祝福は、我等にありましょうぞ。」
「先ず、何から話したらいいものか。」
意外な事に、悠長な言葉を溢しながら、彼はそれまでの様子とは打って変わり、部屋の中を一巡してみせた。
この状況から脱却できそうなものは無い、と早々に見切りをつけていた弥代だったが、こちらの様子を窺うかのような視線に連れられた。壁側にもう一脚。自分が座らされているものと同じ、脚の長い椅子に目を付ければ、彼はそれに手を掛けた。
若干古びたそれは、ただ腰を下ろすだけなら問題はないのだろう。
目線が合うように背中を丸めながら、彼は腰を落ち着かせた。
未だ弥代は、後ろ手を背もたれの背後で複雑に縛られたままだ。胴周りの拘束を解かれある程度の息苦しさからある解放されたが、そんなもの些細な事だ。何も、変わらない。
(何考えてやがんだ、瓢…。)
その姿は、酷く怠慢だ。
普段よりも低く、下から睨みあげるような相手と自然と目を合わせようとしたらそうにでもなってしまうのだろうか。
座面に合わせて大きく開かれた膝の間で、その無骨そうな指が組む様をじっと見つめる。目は、合わせられそうになかった。
彼の中で何か心変わりするようなことでもあったのだろうか。まるで別人のようなその不可思議な態度に、弥代は何も言えない。
冷静でない今の自分が何を言っても意味がないと分かっているからだ。
「……改めて、互いに名乗る所から初めてもいいだろうか。」
「…名乗るって何をだ「東の鬼よ。」
沈黙を挟んだわりに、その切り出しは落ち着いていた。提案があると先程言われた時には強く警戒をしたものだが、一瞬でも気が緩む。が、彼の視線は変わらず冷たいままだった。弥代の問い掛けが終わるよりも早く、被さるように投げ掛けられたその言葉は、それはもう答えだ。
「こうして名乗るのは初めてだ。勿体ぶるわけではないがどこか、緊張してしまう。」
指の腹を擦り合わせながら、彼は一つ、咳を落とす。
呼吸を整えた後、ゆっくりと伏せがちだった双眸が向けられる。
暗い、昏い“色”が、そこには広がっていた。
「改めて、初めまして東の鬼よ。」
「俺は、霜羽。」
「北の、鬼だ。」
それはそれは、驚かされたものだ。
普段取り乱すことのない父が、酷く狼狽えた姿をみせたのだから。
彼にとって父という存在は、とても厳格な者で。
周囲の者らにも厳しかったが、それ以上に自分にもとても厳しい人だった。
島国の最北端、北の地を治めようとする長に相応しいと、誰もが口を揃えて讃える程の人格者であった。
狭い屋敷には長く、帰る場所を、居場所を失ったもの達が多く。父は等しく、彼等に手を差し伸べた。
上に立つ者として恥なき父が、頭を垂れることなどそれまでなかった父が、酷く狼狽え、膝を、落とした。
『−−−しずりっ‼︎』
『ねぇ、瓢。父さんを恨まないであげてね。』
幼い頃から何事にも彼が首を突っ込むことはなかった。屋敷の事は知れず彼等が勝手に全て手を加えていただからだ。ただただ、母の腕の中に小さく収まり、過ぎゆく日々を見守っていた。
自分にできることなど何もないと、彼は未熟ながらも、本能的に理解していたのだ。
母が不在の際は細目の幼馴染と一緒に、屋敷の庭を駆けずり回るばかりで。
母が床に臥せってからというもの屋敷の中は驚く程静まり返ってしまった。皆が口を閉し、活気を失った。
母という存在がどれだけこの屋敷において大切な存在であったかを、彼はその時初めて知った。
物静かだが等しく皆に接する父と、朗らかに皆に笑顔を与えてくれる母が、どれだけ皆の支えになっていたかを知った。
『ねぇ、瓢。母さんを、許さないでね。』
『今更何を仰るのですか連雀殿…、今になって、そのような…血迷われたか…っ⁉︎』
空気が、淀む。
重たく伸し掛かる重圧から逃げるように、彼は自らの意志で屋敷を飛び出した。
外の世界に行く宛などない。
産まれてからずっと屋敷の中で過ごしてきた彼にとって、外の世界というものは、思ったよりも期待していたものより存外つまらないものであった。だがそれでも屋敷に戻る気はどうしても起きず、日に日に重たくなっていく空気に耐え切れるわけがなく、雪の降り積もった畦道を進んだ。
慣れない下り坂の雪道に、当然のように足がとられれば、履いていた草履の鼻緒が切れてしまう。これでは裸足で歩く羽目になってしまう困ったものだと思った頃には、止んでいた雪がまた降り始め、雨を凌ぐのとはわけが違ったが、身を少しでも休められればという思いから近くに見えた大きな木下に体を寄せた。
太い木の根元、腰を落ち着かせようと思えば、そこには予期せず誰かがいた。
『奇遇ですわね。こんな雪の日に、お外に誰かいるなんて。』
『よろしければお隣にどうぞ?』
真っ黒な髪に、同じように黒い瞳の。
どこか利発的な少女との出会いだった。
「少し、触れただろうと思うが。この土地では“色”の概念というものがとても希薄なんだ。」
“色持ち”というものは、その産まれた土地によって宿す“色”が異なるものと、弥代は雪那から聞かされた事がある。
“混色”と呼ばれる存在に関してもその時に触れていた。
曰く、東の生まれは青、もしくは緑。南は赤、西は白と。“色持ち”という存在そのものが珍しい存在ではあるが、榊扇の里においてはその特異な“色”のせいで迫害を受け、居場所を失った者達が多く暮らしており、道を行けば一人や二人目にすることはあったものだ。
稀に東の生まれでない“色”も目にする機会があったものだが、彼の言葉を受けて気付くのは、北に関する“色”の存在を一度も聞いた事がなかったという事だ。
「他の土地と異なり、北には“色”による差がないんだ。皆、生まれながらにして同じ“色”を持っている。そこに違いなんて存在していないんだ。」
相反する、その土地とは全く異なる“色”が産まれることも今となってはないと、彼は口にする。その口ぶりは当然、かつてはあったという事も示していた。
まるで緊張を解すように、自身の前髪を一摘み指先で弄ぶ彼は、耐えず饒舌に話を進める。
視線は忙しない。四方を疎らにいったりきたりと揺らぐ。
話す事がまとまっていないのは見ていて分かった。思うがままに浮かぶ言葉をただ並べるばかりで、まるで中身が見えてこないのだ。
しかし、弥代がそれに口を挟むことはない。
“色”を持たずして産まれるなど、なんとも羨ましい話ではないかと、場違いだろうがそう考えてしまうのはどうにも止められない。
「俺も同じだよ。」
「…は、」
まるで心の内でも読んだかのような、節目を的確に狙ってきたかのような彼の言葉に、弥代は僅かに目を見開く。
「自分がどんな顔をしているかなんて分からないだろうが、顔に出ているぞ。そんな、物欲しげな顔をするな。」
「俺も、羨ましかったよ。」
『まぁ茅乃様⁉︎またこんな雪の中お外に行かれていたのですか⁉︎誰か、誰か拭くものを!湯汲みの準備をしてくださいな!』
握り締められた手のひらのなんと温い事。
ここまで自分と近しい存在を、同じ背丈の者を初めて目にした彼はとてもじゃないが緊張してしまい声を出すことも出来なかった。
言われるがまま、されるがまま。
木の下で膝を抱え肩を寄せ合った。
それはもう長く味わっていなかった、まるで母の腕の中で感じたあの温もりに近かった。
どれ程時間が経っただろうか。
雪が静まった頃、名前も知らぬ彼女に手を引かれた。見知らぬ人里を抜け、集落の隅に佇む大きな屋敷へと招き入れられた。
世話係らしき女が驚いたような声をあげれば、揃って布に包まれた。
大きな腕にその身を持ち上げられ連れていかれた湯船には熱い熱い湯が張られていた。
抵抗する間もなく剥かれ、桶に汲まれた熱湯を上から浴びさせられた。
とんとん拍子に事は進み、気づいた頃には夕餉を済ませ、もう遅い中返すのは忍びないから泊まっていきなさいなんて優しい言葉に包まれ、同じ布団で彼女と身を寄せあう次第だった。
(何も違わない。)
先に眠りについた彼女の顔に触れた。
目が二つ。鼻もあって、口もある。
指は足も合わせれば二十本きちんと。自分とよく似た“色”を持つ彼女を、彼は見分けることが出来なかった。
とても似通った姿をするその存在に安堵し、母が読み聞かせてくれた本の内容を思い出しながら静かに眠りについた。
稚拙な、話。
『最近の瓢さまは!なんか頭がいいですよね!』
あと変な匂いがします!なんて言われればそれ以上口を開かせないために、飛びついて長い口先を絞りたての手ぬぐいで覆った。
『声が大きいぞ瑠璃!母さんたちに聞かれたらどうする⁉︎』
『痛い痛い‼︎痛いですよっ!静かにしますから離してくださいよ!鼻先は敏感なんですからっ!』
雪の日の出逢い以降、俺は屋敷を勝手に抜け出すようになった。
あの日のように彼女の屋敷に泊まるような事はしなかったが、畦道の途中、大きな木の下で待ち合わせをしては言葉を交わした。
幼馴染でもある、まだ未熟ながらにも付き人しての役目を与えられた瑠璃は最近になって漸く俺に近しい手指を獲られたようでとても喜んでいた。
今まで身近にいた存在の誰よりも、近しい姿をした彼女は、幼いながらにしてもとても賢く。生まれつき体は弱いそうだが、非常に明るく。大人の目を盗んでは雪の降り積もる外に飛び出していたそうだ。
『今まではこんなに雪が多い所にいなかったから。とても、とても素敵で…!』
暖かいと感じていた温もりは、握れば握る程その低さに目が引かれた。
初めて手を握られたあの時は、自分の体も酷く冷え切っていたから、僅かな温もりでも暖かいと感じたのだろうが、実のところ彼女の、茅乃の体温はとても低いものだった。
自発的に熱を生み出す事が得意ではないと聞かされたのは、疑問を投げかけた時だった。
『雪に埋もれるのが好きなんです。みんな掌に乗せたらお熱で融けてしまうというんです。でも、私のお熱ならあまり融けないから。雪が、好きなんです。』
まだ幼いというのに、彼女は十にも満たない内から、死ぬなら雪に埋もれたいと零していたものだ。
申し訳ない事に、当時の俺はまだそれがどういう意味なのか分からなかったんだ。
「…話が、逸れたな。」
どれだけそうして彼の言葉に耳を傾けていただろうか。漸く心根を決めたように、彼が背を伸ばす。一度天井を見上げてから静かに、口を開く。
「本題に移ろう。」
「弥代…いや、東の鬼よ。」
「俺たちを、導いてはくれないか?」
「導くって、なんだよそれ…?」
久方ぶりに口を開く。
ずっと閉じていたつもりだったが、半開きのままだったのだろうか。口内の乾燥がわかった。分かりはしてもどうしようもない。この、現状ではどうしようもないのだ。
「十年ほど前に、父を、俺たちは先導者を失っている。俺たちには、父に変わる存在が必要なんだ。」
彼は、淡々と零す。
自分たちには導いてくれる存在がいなくてはならないと。何を、と弥代は思う。それは当然だ。
「お前がすべき事なんじゃねぇのかよ、それは。」
全うな、返しだろう。
今は亡き父親がその座にいたのなら、それを彼が継いでもなんらおかしくはないだろうに。
弥代がそう問い掛けると、彼はさも当然のように首を傾げ不思議そうな声をあげた。
「俺が…?まさか、そんな事…そんな大層な役目を、果たせるわけがないだろう。」
指が、強く食い込む。
「十年、もうずっと、追いかけている。それでも出来ない、果たせないから、こうなんだ。出来ていたらこうはならない。出来なかった、役不足だから為し得ない、仕方の無い事なんだ。」
声が震えている。
弥代は、それ以上何も言えなかった。
きっぱりと、弥代は彼の提案を断った。
彼は、少し残念そうに笑うと、静かに腰を持ち上げ、部屋を後にした。
一人取り残された弥代は、深く項垂れた。
「どうしろってんだよ…畜生が…」
どうすることも出来ない。知っている。こんな状況で何が出来ようか。一番そんなこと弥代自身が理解している。
そうして瞼を落とした。
「気は、済まれましたか?」
通路の脇から姿を見せた、その老いた男に彼は小さく頷く。
とてもじゃないが言葉を発する気にはなれない。
「御身体を冷やされぬよう、どうぞ。」
広げられた羽織に、袖を通す。
これまでもずっと身近にいた存在だというのに、十年近くその片鱗を見せなかった彼女に対し、どことなく尊敬を覚えてしまう。
今まで掛けられてきた言葉のどれもが、意味のないものに感じられてしまったのだ。虚しい。こんなにも胸が苦しい。
霜羽は、進み出した。
その島は突如として、目の前から姿を消した。比喩などでは決してない。
それまで目の前にあった筈の存在が、忽然と姿を消したのだ。
今しがた船を出し、境界を越え、この島国を守る為に異国の民達の進行を食い止めようと旅立った彼等は一体何処へ、何処へ行ってしまったのだろうか。
『 !』
長い裾を持ち上げる間もなく、男は身を沈める。背後で自身を止めようと叫ぶ者の声が聞こえようと、波を払うように、前へ、前へと進もうとする。
『お止めなさい菖蒲っ!様子がおかしい‼︎一度屋敷へ帰るんだ…っ‼︎』
羽交い締めにされて尚、なお手を伸ばす。
掴めない、何も、何も掴めやしない。
恐ろしい、酷く、失ってしまうのが恐ろしい。やっと手にした温もりを、あの幸せを、手放すのが恐ろしいのだ。
『呪い、だ。』
その地を治める男が、静かにそう吐き零した。菖蒲はそれがどういうことを意味するのか理解できずに、同じように繰り返すことしか出来なかった。
ふらつく彼の体を支える彼女は、思い詰めたような表情を浮かべていた。
『恐らくは、 、彼女の仕業だろう。あれはあまりに無垢すぎた。何も知らぬあれは利用されたのだろう。許せぬ事だ。』
膝の上で強く握り締められた拳が大きく映る。
『しかし起きてしまった事はどうにもならぬ。今更、変えようがない話だ。』
言葉を疑う。
視界が揺らぐ。
『この島国は、呪われたのだ。』
それは、それが意味するのは何だと、菖蒲は後先を考えずに吠えた。
淡々と述べた、主君に噛み付く。
なぜそうまでして冷静に述べられるのか。
所詮自分たちとは違う存在と、そうとでも言いたいのかと、思ってもいない言葉を並べた。傍らにいた彼女を突き飛ばし、ふらつきながらも自らの足で立つ。しかし主君は気にも留めずその場を後にしようとする。
『お待ちください、連雀様っ!お待ち…待って、待ってください…‼︎』
何も掴めない。掴めるわけがない。彼の、菖蒲の腕は、もうないのだから。
「痛まれますか?」
昔から変わらず、女は菖蒲の傍らにいる。
百年以上昔は、それはそれは美しかったものだ。今もその面影が失せることはないが、人間よりも生きる時間が、過ぎ去る時間が長い為に、改めて目の当たりにして漸くと老いを感じる。
「さてはて、どうでしょうな。」
袂の内に潜めた腕は、形ばかりのものだ。
あの晩、最愛の娘によって飛ばされたものを、無理やり繋ぎ止めたもの。支え程度にはなれど思い通りに動かすことは出来はしない。
「疼く程度、でしょうか。」
「違います。」
細まったその眼差しの奥の火は、今もまだ灯ったままだ。
彼女が発した否定の意味を彼が、菖蒲が知るのは今ではない。今はまだ、その時ではなかった。
どれほど、時間が過ぎただろうか。
水滴の落ちてくる音は、五十を超えた辺りで数えるのを止めた。こうまで静かで、暗い場所で長く過ごしていると気が狂ってしまいそうだ。深く、瞼を閉じたまま、弥代は小さく呼吸をする。
結局の所、何も分かっていない。
分からずじまいだ。
何の為にわざわざこんな場所に来たというのか。知るためだ。知りたかった。少しでも、自分の事を、自分が失った、持ち合わせなかった過去の記憶に繋がる手がかりが欲しかった。向き合いたかった。かつて自分が何をしてしまったのか。それが罪だというなら素直に受け止めるつもりでいた。そうだ。じゃないと前に進めない。自暴自棄になって殺めてしまった彼等に申し訳が立たない。背負わなくてはならない。向き合わなくてはならない。生きねばならない。知らなくてはならない。
このままでいて、いいわけがないのだ。
弥代は知る。
こんな時になって知ることとなる。自分の中にある、消化しきれない責任を。何も、何も片などついていないのだから。
(どうして、あの人はあんな事をしたのだろう。)
床に臥せながら、茅乃は思い出す。
数日前、長くこの屋敷に足を運ぶ事を拒んでいただろう、距離を置いていた筈の彼が、自らの足で訪れたのだ。
普段はあの屋敷に住み込みで働いてるという小綱が三月に一度、あの箱を持って訪れていたというのに。分からない。茅乃にはその真意が分からなかった。
昨日はそれが気掛かりで、偶々あの屋敷で炊き出しのような事を行うというので箱を返すのを口実に、ついでに幼子である十和を連れて足を運んだ。
どれだけこちらが声を掛けようとも深く、踏み入ることは許されないのか。自然とはぐらかされ続けてしまった。仕様のない事と、どこかでこうなると分かりきっていた筈なのに、目の当たりにして少しだけ、胸が痛んだ。
日に日に、脈は弱くなる。
手首に指を這わせれば、皮膚越しだとしてもあまりにも辿々しい。今すぐにでも途切れてしまいそうな、悲しい程に静かな身の内に耳を寄せる。もうもたないと諦めてしまう。
これを彼が望んだ結果なら、それは贖罪にきっとなりえるだろう。今もあの出来事に縛られるづけているだろう彼が、それで解放されるのならそれ以上に喜ばしいことはない。喜んで身を差し出そう、そう思うもどこかで本当にそれでいいのかと疑問を抱く。抱いてしまう。
(話せればよかっただけなのに。)
あの頃のように、肩を寄せ合って過ごしたかった。恋慕ときっと別物。そんなもので計れるものでは決してない。その感情に名をつけられない。未だ正体を知らぬそれはきっと花開く事はないのだろう。分かっている。分かっているから、こうも胸が苦しい。今にも本当に止まってしまいそうな。
「茅乃さま?」
瞼を持ち上げる、それだけでも酷く億劫で、幼子の輪郭を捉える。
「おくすり、飲めますか?」
「……十和、」
力の入りきらない指先で、裾を摘む。
微かに引けば、幼子は彼女の意志を汲んだのだろうか、抱えていた容器を傍に置くと、体を寄せた。
(温かい、)
その温度が、あまりにも悲しかった。
どれほど時間が経つだろうか。
自らの意思で意識を失ったわけではなかったが、結果的に睡眠を挟んだ事で春原はもう暫く寝ずとも過ごせる事が分かれば、直後館林は緊張の糸が切れたかのようにまた意識を手放してしまった。
地下牢と考えるのが妥当だろう。
剥き出しの岩肌は季節も相まって非常に冷たい。寝ている所を運び込まれたのだろう。用意された薄い夜着一枚では体が冷え切ってしまう。牢の隅には見てくれの酷い茣蓙が一枚転がっていた為、春原にはせめてそこの上で過ごすように伝えた館林は静かにここからの脱出方法を考えていた。
岩場の牢屋だが、出入り口の部分に嵌められている扉は木枠で出来ている。指を這わせれば木自体は存外脆く感じれた。強く押せば外れてしまいそうな。柵の隙間から辺りを見渡せば、似たような作りの空間が広がっているが、今いる窪みと違い他は鉄製の柵が多い。何故よりによってこんな無理をすれば簡単に脱獄できるだろう場所に放り込んだのかと疑念を抱かずにはいられない。これを罠と捉える事も出来ると、館林が暫く考えあぐねていると大人しくしているように伝えていた春原が突然隅で立ち上がり、勢いよく柵を足で蹴りつけた。
「坊…、突然何を…⁉︎」
「以前、弥代が柵を蹴っていたのを思い出した。」
剥き出しの足裏に微かに赤い線が走る。止めようにも勢いは収まることのないまま。二度三度と、春原の足を受けて柵は破壊された。
館林は思わず息を飲む。
それは良い変化なのだろうか。これまでの春原からは想像もつかないような荒々しい行動に目を見張る。
「弥代を、探す。」
「なりません、先ずは傷口の手当てを…」
借物だが他に使えるものはない。自分が着ていた夜着の裾を力任せに引きちぎり、先を行こうとする春原を無理やりに押さえ込み足裏の傷口を圧迫するように巻きつける。
足裏の傷など、放っておけば固まるよりも出血が続いてしまい最悪命を落としかねない事を館林は知っていた。
幼少期より祖父母に連れられ野山で自生を行なっていた彼だからよく知る事だった。そこを怪我して長く見つからず亡くなったであろう死体を見たことは多くはなくともあったのだから。
既に布地に血が滲もうともお構いなしにきつく、きつく縛る。
そんなことをしていると、どこからか軽い足音が聞こえてきた。
「弥代、起きているか?」
瞼を閉じていてもはっきりと、その眩しさを感じる。瞼越しに感じる明るさにゆっくりと目をこじ開ける。
覗き込むように膝をつく男がどこか懐かしく感じてしまうのは何故だろう。これまでどれだけの間暗闇で過ごしていたかは分からないが、酷く長く感じたのだろう。
瞳はまだ明るさになれないだろうが、それでもいつまでもここにいるわけにはいかない。
縛られたままだった縄が解かれれば、長時間固定されたままだった腕は疲れ切ったようにだらりと力なく揺れたが、そんなの構っていられなかった。伸ばされた手を、しっかりと掴む。
普段なら並べば届くことのない肩だが、屈んだ状態の彼の肩は立ち上がる際には何とも丁度良い高さに来るじゃないかと、どこかお門違いな事を考えながらも弥代は立ち上がる。
自重ではなく座らされていたため足にも力が入りづらかったが、支えに寄りかかるようにして立ち上がる。
見据えたその視線はどこまでも真っ直ぐに、扉の脇で申し訳なさそうに佇む青年へと向けられていた。
「よぉ、瑠璃さん。」
「話を聞かせてもらおうじゃねぇかよ。」
『そうか、駄目か。それは、とても残念だ。』
「終わらせた気になってんじゃねぇぞ、瓢。何も、まだ話終えてすらいねぇぞ…!」
日が、暮れる。
年が終わるまで、もう一刻とありはしない。
新しい門出にはもってこいと上機嫌に言ったのは誰だったか。菖蒲以外居はしない。
随分と長く、行なっていなかった気がする、父の模倣をしようとして、それがこれからの自分に、果たして意味はあるのかと彼は、霜羽は唱えた。
長かったろう。人間と変わらぬ時間を過ごした十年という歳月は長かった。漸くと、十年前の出来事を清算しようとしている。あの時はたすことの出来なかった責任に向き合おうとしている。生まれ育ったこの地を離れ、今もあの地で徘徊を続ける彼等に、彼の言葉を借りるのならばかつての同胞らに向き合おうとしている。その中にはきっと、母もいるのだろう。誤った選択をしたばかりに引き起こしてしまった事態の尻拭いをしようというのだ。
きっと無事ではいられないだろう。生きて帰ってこれるとは思っていない。所詮自分には生まれた時から何も与えられてはいない。父や、かの東の鬼のように、鬼としての祝福を、恩恵を受け継いではいない。父程長命でも、頑丈な体も持ち合わせていないのだ。
(それでも、向き合えと言うのなら、)
本当は、見届けたかった。
雪に埋もれながら静かに眠りたいと言っていた彼女の、その最期を看取ってやりたかった。あの時の、自分の行いを正当化したかったわけではない。でも、そこに意味があると、あの行いは間違ってなかったと思いたかった。
見届けることができれば、それがきっと叶うと考えていたのだ。
(馬鹿馬鹿しい、だろうか。)
子ども理屈でももっとしっかりしているだろう。所詮未熟。何も出来はしない。見た目よりも利発的だった彼女の物真似をしていたのだ。何も知らなくていいと甘やかされ育った自分を知られたくなくて、取り繕っていたのだ。真似でしかないそれに、意味なんてあるわけが、ないのだ。
「夜分遅くにすまない。」
一人、霜羽は降り立った。
何もいらない。手土産などあるだけ無粋だ。
先日も訪れたばかりの、懐かしい屋敷に足を踏み入れる。彼女が床に付く、部屋の前でその足を止める。
「茅乃様、いや、茅乃。」
年を越すのだ。まだ寝付くには幾分か早いだろう。少しだけ、声を張る。起きていない可能性だって考えられた。もし寝ていたとしてもそれでも良かった。でも、そこにはしっかりと彼女がいた。
「お前に、話たいことがあるんだ。」
暖簾越しに写る、その人影を間違えるわけはない。安堵し、返答を待つことなく声を掛けてしまう。
「ずっと、ずっと、話たい事があったんだ。」
ゆったりとした、耳心地の良い返答望む。
「………茅乃?」
しかし、いくら待てど、待てども、返事はない。
「茅乃、」
草履を脱ぐ間もなく、縁側へと登る。
「茅乃…」
腕を、伸ばす。
「…茅乃」
暖簾を、払う。
「…かや、の?」
覗き込んだ彼女の、白い事。
日に浴びない肌は、ぞっとするぐらいに透けて見える。部屋を灯す行燈が揺らめけば、容易くその輪郭も揺らぐのだ。
「茅乃?」
触れる。指先が彼女の熱を失いつつあろう頬を滑る。
「………茅乃?」
何度。何度、その名を口にしただろうか。
これまで、十年に及ぶ間呼ぶことさえなかった、口にしたかったその名前を、飽きるほど溢す。唇を震わせながら、ずっと、ずっと、ずっと。ずっと、呼びたかった名を口にする。
遅かったと、そう思った、その時だった。
微かに、彼女の睫毛が震えた。
ぴくりと、瞼が、動く。
「…茅乃!」
開かれたその瞳の、なんと美しいことか。
黒目の大きな瞳に、行燈の灯りが反射して、自分がどれだけ酷い顔をしているのかを、霜羽は彼女の瞳を通して知った。
「瓢様…夢でしょうか?そう、きっと、夢ですね。また、あの頃のように、呼んで、くださるだなんて…素敵な、夢…」
傾くその体を、そっと支える。
支えて、そうして。
「茅乃。」
そうして、彼は、瓢は、霜羽は彼女の終わりを知るのだ。




