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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
三節・津軽、北の大主編
31/186

九話

 焚き付けられた火のなんのこと。

轟々と燃え上がる炎の揺めきを受け、長く灯すことのなかった、灯し方さえ忘れてしまったかのような付け根が擽られる。

首を擡げ続けてきたそこが、赤く染まるのなんて瞬きさえ惜しむ程に刹那の出来事で。

それはきっと、あまりにも簡単なことだったのだ。











「こんにちは、瓢様。」

 その呼び掛けに、瓢は手元の作業を一旦中止してから素早く頭を上げた。

屋敷の門の外には籠が降ろされ、今しがたそこから出てくる声の主は、一昨日満足に言葉を交わす事さえも叶わなかった相手だ。

先日の会合の際わざわざ外に出てくることすら気にかけていたというのに、普段あの地にある屋敷より出てくる事も殆どない彼女・御法川茅乃がこの屋敷に訪れようとは。

平生を装ったつもりだったが、返答の声は若干上擦ってしまう。

口籠る、ということはなく。それでも普段通りの言葉を続けていると。ふと、彼女の足元に寄り添う小さな存在に瓢は気づいた。

「十和、」

 その正体はまだ記憶に新しい。

小綱に用意したおはぎを持って会いに行った際、門前払いを受けるように対峙した少年だ。

寒くないようにと上から羽織っている半纏が大きすぎて、すっぽりと身を包まれているような姿は、口を結んでいる姿も合間ってどことなく愛らしく子どもらしい。 

まるで姉に優しく背中を押される弟のように、茅乃の前に一歩出てきた子どもが、声を張り上げた。

「この間はっ!ごめんなさい!」

たった一言。言うや否や、ほんの僅かな距離だというのに再び茅乃の背中へと隠れてしまうさまに、瓢はどのような言葉を返せばいいのか分からずつまってしまった。そうしていると、そんなこちらの様子に気づいたのだろうか、彼の、弥代の声が届く。

「何してんだー?」



「御噂の方ですね。」

「噂になってんのか俺ら、そりゃそうか。」

 湯気が上がる椀を片手に、匙を咥えたまま近寄ってくる客人に、瓢は少しだけ慌ててしまった。

何も隠していたわけではない。一昨日の席で長く話すことは出来なかったが、屋敷で世話をしているという事は伝えていた。が、直接二人を会わせるつもりはなかったからだ。気が合わないかもしれないなどと、そんな心配ではない。予期せぬ発言や行動を取る彼を見て、彼女が驚いてしまい体に響いてしまう事を懸念していたからだ。

その存在があまりにも強烈すぎて、まだ出会ってから三日と経たないというのが瓢は信じられずにいた。

「そうなんだよ。瓢さんに世話になりっぱなしでさ。今日のこれも、言い出しっぺはまぁあれだけどよ、手貸してもらいながら勝手させてもらってる感じ。」

「あまり活気のない土地故、皆も良い刺激になりましょう。」

そんな瓢の心配など端から無かったかのように、弥代は自然と彼女と言葉を交わしていた。杞憂に過ぎなかった。

 二人が話している間、何度か膝裏に隠れる十和と目があったものの、気の利いた言葉など浮かぶわけもなく、何より子どもを相手にするのはそこまで得意ではない瓢は、その真っ直ぐな眼から逃げるように手元の作業を再開させた。






 暫くして。

簡素な挨拶を終えれば、少なくなった椀にまた注いでもらうのだと言いながらその場を弥代は後にした。

茅乃の後ろに隠れていたままだった十和は、昨日も顔を覗かせていた子等に歳のころも近しいからだろうか。手を引かれ連れていかれる。籠の抱えていた者らも寛ぐように、敷地内で腰を休めている為に、彼女と二人きりになってしまった瓢は、その背中を見つめるながら静かに茅乃に訊ねた。

「…どうして、突然?」

「箱を、返しにきたのです。」

小振りな風呂敷に包まれたそれを受け取る。中から出てきたのは先日おはぎを詰めてるのに使っていたものだ。

わざわざこれを返す為だけに、一度も足を運んだ事のないこの屋敷に、彼女が訪れたというのは、あまりにも弱すぎた。

目が合えばその眼差しの何とも優しいこと。

言わなくていい事を、今までひた隠しに告げられずにいた事を洗いざらい、ゆっくりとでも吐き出してしまいそうな。そんな、そんな、



 視線を、逸らす。

屋敷の庭の中央には、屋根に届くまではいかないが高く燃え上がりる炎が見える。

客人の仕業だ。彼女に弥代が話した通り、言い出しっぺはおそらくは自分なのだろうが、瓢はあまり直接的に関与しておらず、気付いた時には止めろと言う機会を失っていただけで。

昨日、物珍しさに噂を聞きつけ集落の方から三人ほどの見知らぬ子ども等がやってきた。

言葉の通じるわけでもないのにあっという間に雪玉を投げ合ってはしゃぐ様には本当に驚かされたものだ。

賑わう縁側から目にする光景は、きっと母が望んでいたものに近しいのやもしれない。

ぽつりと零れ出た、焚べてみようものかという言葉をまさか汲み取られるなど考えてもなかった。

『そういうの面白そうだな!』

そんな軽口。どうしたら良いかと聞かれたので反射的に大量の薪があればと伝えれば、あっという間に。何をするのかと様子を遠目に見ていたが、目を離したわけではないのに、旅の同行者である二人を荷物持ちと称し、瑠璃を先頭に大量の薪を抱えて騒ぎ立てていた。一度で終わると思っていた薪の移動は、二度三度と回数を重ねればそれだけ量が嵩み、初めに止めなかったことを今になって止めるなんて事は些か憚れた。

半刻と経つ暇もなく、とんとん拍子で事が進んでいった。蔵の裏手に積まれたそれらは、湿気が強く火を起こすのは難しいという瑠璃に、瓢はあまりにも自然に手を貸していた。

外気が触れぬよう、囲炉裏の間に等間隔で、軽く土を払った薪を並べ、暖を焚いた。

自分が手伝った事といえばそれぐらいで。

今朝になって覗いてみた時には既に、そこに薪はなく、早朝だというのにお構いなしに庭で火を焚べる彼等が見えた。

彼等の周りには、薄らと見覚えのある集落の者たちの姿もあり、覗いた戸まで昨日の子等が駆け寄ってきたのだ。

『ひさごさまも、いきましょう!』

産まれた時からずっと知る屋敷が、自分の知らない場所になってしまったような感覚に襲われた。






 周囲をかこむように、火の中心に足を運べば、そこには意外な人物がいた。

屋敷にそれだけの大きな鍋があった事にも驚かされたが、乳母の小綱が鍋の様子を見ていた。

今も朝から変わらず、瑠璃を顎で使いながら火の番をしながら鍋をかき混ぜている。

自分に対して素っ気ない印象しかない、言葉も少ないあの小綱がと思いはしたが、よくよく思い返せば昨日も子等に菓子を分け与えていた。顔を合わせるのを遠慮する自分にかわり、三月に一度、茅乃におはぎを持っていかせてもいた事から、集落の者たちとの面識は自分以上にあるのだろう。

(ずっと、避けていたんだ。)

何も変わらないと諦めていた。

淡々と、気付かないぐらい些細にずっと、変わり続けていたんだ。

久方ぶりに歩く街並みだって、多少の変化はあった。以前暮らしていた人々も息絶えてしまったものや、新しく産まれた命だってそこにあった。見知った顔ばかりじゃない。しばらく見ない間に、見ていなかっただけで気付けぬ事が山程あった。

 こうして、今この場において。

初めてだろうに。わざわざ箱を返しに訪れた彼女を、茅乃を漸く尻目に捉えて、瓢は小さく、ほんの少しだけ、












「まぁ普通に考えて夕飯は残りもんになるよな。」

「煮詰まりすぎといいますか、ずっと混ぜててくれましたけど底の方ぐちゃぐちゃもどろどろじゃないですか?」

「食えなくは、ないと思う。」

「腹に入れば一緒と言いますけども、こいつぁ中々…」

「我儘を仰るのなら、食べなくとも良いのですよ?」

 どれほど話し込んでいただろうか。

十年近い溝を、まさかこんな風に彼女の方から歩み寄ってきて埋めるかのように言葉を交わすことになろうとは、思ってもみなかった。

しかしそれは彼女の方から一方的に寄せられる土壌でしかなく、対岸に立つだけでそれを見下ろす自分には届くことはないのだ。

(話せるわけがない。)

燻り続けている事を吐き出してしまえばきっと楽になれるのだろう。あの時の事を包み隠さず話すことができれば、どれだけ楽なことか。話す、それだけができていれば、こんなにも悔やむことはなかったのだ。

 冬口の日が暮れるのはあっという間だ。

空が赤く色づいたと思った矢先にはもう一気に夜に染まってしまう。ほんの一時の熱を帯びたような空が冷え込む。

年も間もなく跨ぐとなれば、日が暮れるよりも集落の者達の足取りは早く、礼を言いながらもう最後の挨拶を残して帰っていった。

 一気に静けさを取り戻した庭では、小綱を手伝うかのように、弥代たちが忙しなく動き回っていた。夕食はどうするかなんて喚く声が聞こえてくる。各々が調理器具や、余った食材を抱えたりとするさまに、手伝おうかと瓢も名乗り出たのだが、瑠璃にゆっくりしてくださいと言われてしまった。

今も騒がしい彼等から離れるように、草履を脱いだ。

同じように弥代にも、夕飯まで寛いでおけよ、なんて言われてしまえば何も返せないだろう。

相手は客人の筈なのに、我が物顔で中心で笑うものだから。


(…もてなされているような、そんなわけはないか。)

一人、廊下を進む。

相も変わらずこの季節はよく軋む床板の、厚めの足袋を履いていなくては古い箇所で爪先を傷つけてしまいそうな、寂しい限りだ。

十年以上前はまだ父も存命で、父の周囲を取り囲む者等が多く、屋敷の中にいたものだ。


「…」

 静かだ。振り返った所で明かり一つない廊下は素直に冷たい。

帯に差し込んだ煙管にそっと指を這わせ安心をする。

あんな事態を招いておいた立場の自分が、今も忘れられずこうして父の形見を肌身離さず持ち歩いているのは滑稽でしかないだろうが、それでも、手放せないのだから仕方がないだろう。

襖に、手を掛ける。

(楽しかった。)

思考がまとまらない。自分が何をしたいのかも、諦め癖がついてしまった瓢だったが、それだけは心の底から素直に思えた、紛れもない事実だった。






 たった数日の出来事を振り返りながら、思い出し笑いを浮かべてしまう。

自分がこんなにも笑えるなんて、知らなかった。長い間笑う機会もなかった。

過ごし慣れた私室に戻ってきた瓢は、一日中羽織っていた上着を脱いでいると、ふと部屋の隅、壁際に置いてある鏡台に目が止まった。その鏡台は母のもので、あの晩を境に部屋は片されたが、小綱に無理を言って残しておいてもらっていたのだ。

 汚れぬようにと、上から布を掛けていたのだが、僅かに捲れていることに気付く。

棄ててほしくないと頼んだのは自分なのに、それを自分の部屋においていた事すら何となく忘れかけていた瓢は、もう随分と前から捲れていたのかもしれないと思いながら、その布に、手を伸ばした。

しかし手を伸ばした途端、それは摘む間もなくするりと落ちていく。

落ちたその布の向こう側、鏡に反射して何かが見える。自分以外の何かが、迫ってくる。

状況を飲み込めぬまま瓢は、ゆっくりと振り返った。

そして振り返ったその先で、それを目にする。

 そこには、一人の男がいた。










 男が一人、そこに立っていた。

室内だというのに、目深に被った笠が特徴的なその男に、瓢は覚えがあった。

覚えている。覚えている。覚えている。忘れるわけがない。忘れられるわけがない。忘れて、忘れてたまるものか。覚えている、その姿を、瓢は、彼は、  は、忘れることはない。

 その存在を知覚した瞬間、息が詰まった。

息苦しさを覚えるよりも早く、唇を強く噛み締める。血の味なんて中々に味わうこのないだろうものが口内を満たそうとする。振り払う。振り払うようにして体勢を崩し、足元から横転する。漸く呼吸が満足に行えない事に気付いた所でもう遅い。

息が、詰まる。

 意味などないのに。もうそんな事に意味なんてないのに、身を屈める。気を動転したように体勢を崩す。踏み入ることを、これ以上の介入をまるで一切許さないとでも言いたげに、瓢は蹲る。身を屈め、額を床に擦り付けた。

しかし、男はそれを許さない。

瓢が目を逸らす事を許さない。

小さな足音が耳元に届く。

「ご無沙汰しております、霜羽様。」

瓢は、耳を疑った。






 その名を知る者は、この世に自分以外もういないものだと思っていた。

ありえない、ありえない、と。

今しがた聞こえたばかりのその名を確かめるように、浅い呼吸を繰り返しながら瓢は面をあげた。

皺まみれの貌に影が差す、笠を深く被った男が一人、変わらずそこにはいた。

「こさめ…ぼう…」

「えぇ、小雨坊にございます。誠にひさしゅうございましょう、若様。」











 男は、気付けば当然のようにそこにいた。

一番古い記憶の中でも、常に母の隣にいたと瓢は覚えている。

産まれて間もない頃は独占していた腕の中からも見て取れる程に、その男は父以上に母の傍らにいた。

物心がつく頃には、それはどうしてなのかと疑問に思い母に訊ねた。

男は母の育ての親なのだと、自分にとって父親代わりのようなそんな存在なのだと、優しくそう教えてくれた。

名を持たない母と男に血の繋がりはなく、それでも親のように育ててくれた大切な人なのだと、母は語っていた。

 かつて人間の手によって住処を追いやられ、実の親を失った、誰に頼ることもできずにいた幼き頃の自分を拾ってくれた、そんな恩があると。自分がこうして幸せな姿を見せる事が、男にとって孝行になるのだと、母は話していた。

それでも、まだ幼い頃の瓢にはそれがいまいち理解できず、とりあえず男・小雨坊が自分にとっても家族であるのだと、そう割り切ることにした。

ずっと傍らにいると言っても、時には一人縁側に腰を落ち着かせ、空を眺めている事もあった。その視線の先にはいつだって両親がおり。それは子どもながらにもとても寂しいものに映った。だから、

『おやおや、若様。御二人に構っていただかなくてもよろしいのですか?』

『爺が一人で、かわいそうだから。』

まだ短い足を揺らして縁側で肩を並べた一時は、どこまでも静かだった。



 暗転、

『−何故っ⁉︎何故そのような選択をされたのですか瓢様‼︎』

 怒号が、頭上から降り注ぐ。

その声に、瞳を瞑る。

いくら目を逸らしても結果は変わらない。変わるわけがない。思い出しただけで吐き気が込み上げてくる。夢ならばと、考えるだけ全てが無駄だ。どれだけ取り返しのつかない事をしでかしてしまったのかなんて、自分が、自分自身が一番わかっている。分かっている。分かっているからこそ、何ももうできないんだ。

 遠く、響く金切り声に意識を委ねる。

お前のその行いを許さんとばかりに、一際強い、凍えるような風が吹きぬけば、人の気配を感じる。

『−しずりっ‼︎』

男の声に面をあげる。

そこにはいつの間にか姿を見失っていた母の姿があった。

耳に届く残響は、その名残さえもあまりにも鋭い。

今もどこか、自我を保つことのできなくなった彼等が山々を徘徊し続けている。

気まぐれか、はたまた偶然か。

堕ちてしまった母を前に、何が出来ようか。在り方を失ってしまったその存在を前に、無力な自分に何ができようか。

我が子に手を伸ばした男の、その手は空を切る。

真雪の上に軌跡を描いた鮮血があまりにも強く、強く、脳裏に焼きついた。






『我等は、数少ない同胞にございましょう。』『あの子の腹から出てきた貴方様は、私にとっても孫も同然なのでございます。』『どうしてでしょうな、どうしてこのような天罰を、許せませぬ、許してなるものですか』『しずり、しずり…』『あの子が、幸せにならぬというのなら』『連雀殿、何故、何故導いてくださらぬ』『貴方の招いた罪だ』『脱殻ですと?馬鹿を仰いますな。皆、こうして生きております。』『生きて、おりますとも…っ』






「それにしましても、」

 意識が混濁し、意味を持たない発声を繰り返すばかりの瓢とは対照的に、男・小雨坊は酷く冷静に口を開いた。

ただし、蹲り痙攣を起こすさまには目を瞑れなかったのか、唾液に塗れて汚れた顔を拭う。ここ数日の彼の変化を見ていた小雨坊は小さく笑った。

「やはり惹かれ合うものなのでしょうな。貴方様には良き刺激になった事でしょう。他所の者、強いては己に近しい存在と関わり合えるという事は、たとえ互いがその存在を認識せずとも。

大変良きものを見させていただきました。手引きした甲斐がございます。こうも知れず、縁りを深めていただけるのは、都合がよろしい。」

あまりに起伏の薄い言葉が、私室に響き渡る。

「色に馴染みのないこの土地において、あれは酷く心を奪われるものでしょう。今代におかれては、恐らく南の鬼神に匹敵しうる程の色を秘められた御人だ。」

男が、小雨坊が一体何の話をしているのか、瓢にはわからなかった。分からなかった。

分からないまま、静かに、意識を手放した。











「眠くなんじゃねぇのかよ?」

「起きようと思えば起きていられる。」

「あっ、そぉ…」

 三日に一度寝れれば良いなんて言っていたのはどこの誰だったか。


 月も陰る、十二月二十九日の晩の事。

年を越すまでに片を付けれれればなんて悠長に構えていたが、夜空を煌々と照らす月も次第に細まっていく。未だ夜をこうして起きてはいるが、足あとを気にして中々屋敷の外へすらたどり着けていない。

が、今日は違った。

屋敷の庭で行われた炊き出しにそこそこの人数が足を運び、大きいものから小さいものまでまばらな足あとが庭に残っている。

有難い事に雪も今日は降ることはなく、踏み鳴らされた土は時間が経てば古いのか新しいのかなんて気にならない程度だろう。

 これは今夜こそ一気に進めるぞと、揃いの夜着で肩を並べた弥代と春原の姿があった。

後二日で月は一度見えなくなり、新月を迎えてしまう。新月を迎えるということは年を超えてしまうという事で。静かないまこの内に動くことがやはり得策に思えた。

何より今日に至っては、日中屋敷の皆も若干の疲れを見せていた。瓢に至っては部屋に戻ったきり、夕餉の支度ができても顔を覗かせず、心配に思った小綱が部屋を見にいったが、既に寝入った後だったという。

「多少強引に動いても、これはいける…!」

「弥代が楽しそうで何よりだ。」

「楽しかねぇよ⁉︎都合が良いって言ってんだよ俺は!」

 館林は今日も今日とて安眠だ。夜なんてものは本来寝るものなのだから何も間違っちゃいないが、こうも連日夜更かしをしているのは、正直日中に響いた。

が、それも三日も続けば徐々にだが慣れる。

何なら弥代は寝ずともきっと動くことはできるのだ。それは一人津軽を目指そうとしたあの道中に知れている。が、自分は人間であると、まだどこかで踏みとどまっている弥代にとってそれは良くないのだ。

たとえ飲まず食わず寝ずとも過ごせようとも、それは弥代の考える人間からは程遠い。なによりそれは思考を曇らせる。もう二度と、あのように塞ぎ込んでしまうのは、迷子になるのはごめんだ。

 一方、春原は今日も寝ていない。

眠たくなったらいつでも言えと弥代が気遣っても、まだ大丈夫の一点張りだ。

その気遣いはこの夜の行動の途中で寝られて動けなくなったらたまったものじゃないというのは、恐らく彼は理解していないのだろうが。

それでも進む。進むと決めたのだからここで足止めをくらっているわけにはいかないのだ。裸足のまま固まった雪を踏みしめる。

足裏が燃えるように熱いが、お構いなしだ。

まばらな足あとに重なるように不恰好な動きだろうが進んでいく。

屋敷の門は夜は閉じているとのことだったが、何故かこの晩は空いていた。

微かに様子がおかしいと先に気付いてみせたのは意外にも春原だった。

足元に気を取られている弥代の首根っこを掴み自分の方へと引き寄せる。

「誰か、いる。」

 春原のその行動は意外なもので、若干驚きはしたものの、抱えられるように後ろにひかれる。

近くの茂みの影に紛れるように、身を屈める。

視線の先、門の周囲に人影を見る。

じっと、一点を見つめるように目を凝らせばその姿を思い出す。

「…なんで」

秋雨の降り止まない里にて目にした、小雨坊を名乗る妖がそこにはいた。

深く被った笠から僅かに覗く、その顔を見間違えるわけがなく。

しかし弥代が動揺の声をあげたのは、その傍らの存在だっった。

細った月明かりに照らされる。そこには、屋敷の主人である瓢の姿があった。











「遠路遥々、このような辺境の地へと足を運んでいただき誠にありがとうございます、弥代様。」

 頬を伝う感触に、嫌悪感を覚える。

これがおもてなしだというのなら、自分は金輪際二度とそんなものを受けたくないと思えるぐらいには酷い扱いだ。

濡れたことで垂れかかる前髪が鬱陶しいことこの上ない。払おうにも手は後ろで縛られているのか自由はきかず、なんなら肩から胴まで後ろに回された腕ごと椅子に縛り付けられていた。

意識を失ってからどれぐらい経つだろう。

窮屈でしかない体制のまま長く放置されていたのか、身じろぎ一つで疲労がわかった。

最後に目にしたのは眼前に立つこの男と、その傍らに立つ瓢の。

「丁重なもてなし感謝すんぜ。」

「威勢がよろしいのは相変わらずでございますな。結構なことでしょう。」

袂が濡れぬように摘みながら、用を終えた杓を水瓶の中に戻すその男・小雨坊は言葉を続けた。

「して、答えになりそうなものは見つけられましたでしょうか?」

「見つかってたらとっくに帰ってるだろうよ。」

「それは、それは…。」

 くつくつと喉を鳴らす姿には余裕が感じられる。耳障りなそれを聞かぬよう塞ごうにも、そのような自由さえ今の自分にはないことを弥代は理解していた。

状況は芳しくない。

しかし変わらず、普段通りを装う。大変不味い状況だからこそだ。

「…俺と一緒にいた男はどこだ?」

「御自身の身よりもお仲間の身を按じられるとは、なんともお優しいお方だ。」

 周囲を見渡しても狭い、岩肌を切り抜いて作ったような空間には自分と小雨坊しかいないのは分かりきっている。様子を見かねて質問を投げかける。

あの時、確かに背後には春原がいた筈だ。

首根っこを掴まれ後ろに引かれた。一緒に茂みから顔を覗かせていた筈だ。

ずきずきと痛む後頭部の鈍い感覚から、恐らくは背後から誰かに殴られでもしたのだろう。それなら自分の後ろにいた春原も被害を受けているに違いない。この空間にいないということは、こことは別の場所に連れて行かれたと考えるのが妥当だろう。最悪の可能性を考えなければの話だが。

「静かに眠っている。大事はないことだろうさ。」

 金物が擦れるような音が反響する。

小雨坊の丁度背後から聞こえてくる声は、聞き間違えることはない。たった数日だが、何度も言葉を交わした相手、彼のものだ。

若干くぐもったような声はすぐに聞き取りやすくなり、だからこそ弥代は小さく歯を食いしばった。

気取られぬよう、気付かれないよう、静かに、静かに。

そうだろう。違いない。意識を手放す直前目の当たりにしたその光景が夢幻でないのなら、それは何もおかしくない。おかしくなんてない。

そうだ。引っかかっていた。引っ掛かっていた筈だ。津軽へ用があると告げた際のあの強い否定。その見た目からは想像もつかない程落ち着きを払ったその態度が、引っかからないわけが、なかったのだ。

都合よく、捉えていただけで、

「…瓢。」

「驚かないのだな。そうか。俺は、とても驚いたというのに。」

その冷え切った眼差しが彼から向けられるのはこれが初めてだ。

諦めを孕んだような、どこか遠くを見つめていたあの瞳はどこへいってしまったのだろうか。どこへ、どこへいってしまったのか。

笑い慣れていないのだろう彼が不器用そうに笑うそのさまを、弥代は気に入っていた。

素直に、もっと笑わせられないものかと一人話をした。他愛もないことばかりだ。そんなもので喜んでくれるのならいくらでもした。

彼の吊り上がり気味な目尻が、きゅっと下がる。どこか苦しそうに、何かをぐっと堪えるように微笑む。それは、そんなものが見たかったわけじゃない。

この場で現状、自分が何かを彼に伝えられると。弥代は微塵も思っていなかった。


「二人で、話がしたい。」

「どうぞ、ごゆるりと。」

瓢の言葉を受けて、入れ違うようにして小雨坊はその場を離れていく。

その口元は、笑っていた。






「−弥代っ!」

飛び起きた春原を鈍痛が襲った。

強烈な額の衝撃に併せて、後頭部が酷く痛む。痛みに声が漏れることはなかったものの、患部を押さえながら辺りを見回した。

目と鼻の先の男・館林と目が合う。

「お早いお目覚めでございやすね、坊。」

見知らぬ、牢屋のような場所だった。






「菖蒲が、無礼をはたらいた。」

「あいつそんな名前してんのか。小雨坊としか名乗らねぇからそっちだけかと思ったぜ。」

「名は必要だ。お前も、俺も。あるじゃないか。きちんと。」

しっかりと、その声色は諦めを帯びている。今もそうだ。変わらない。変わらないはずなのに、どこか違う。

「危害を加えたいわけではないんだ。俺は、提案をしたいんだ。」

「随分、上からな態度だな。」

言いながら瓢は、弥代の体の自由を奪っていた縄を解く。

手を縛る縄は外されることはなかったが、胴を巻いていた縄が解かれたことで息苦しさは緩和された。

 縛り付けられていた椅子に腰を下ろしたままの弥代を、彼は静かに見下ろす。

「この感情を、どうやってぶちまくかも、俺は知らないんだ。」






 だからあれは、私の罪でもあるのです。

 彼はきっと、ずっとそれに責任を感じているのでしょう。存じております。えぇ、存じておりますとも。ですが、私と彼の間に、私共と彼等の間に何の違いがありましょうか。ありません。そんなもの、あるわけがないのです。目に見えた違いなどどこにもありません。だというのに、壁を感じる。それは酷く、酷く悲しい。私は悲しいのです。彼のその姿を目にする事が。

 いつまでも、いつまでも。彼は、背負い続けるのでしょうね。


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