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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
三節・津軽、北の大主編
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八話

 弥代達が南部の地にたどり着いたのは、もう間もなく年を跨ぐ寸前の事だった。

活気が枯渇したような、質素な色褪せた日々を送るその地において、どうしたって目を引いてしまうその色が、噂話として出回るのは早く。

 翌朝瓢が目を覚ますと、無邪気な表情を浮かべた見慣れぬ子等が屋敷の門から顔を覗かせている事に気づいた。

 子等の相手をするのは、随分と腰の曲がってしまった乳母の小綱だ。

顔を洗うのに、桶の水を汲みに行こうとした際で、歩み寄ろうものかと考えはしたが爪先が向くことはなく、彼女が対応をしているのならそれで十分、自分が首を突っ込む必要はどこにもないだろうと。瓢は気付かれる前にその場を後にした。

ほんの、ごく僅か。四半刻も経ちやしない内に戻ろうとしていると、先ほどはそこになかった、その“色”がそこにはあった。

小綱が起こしたのか、あるいは自分から目覚めて騒々しさに気付いて駆け寄ったのか。

遠目にも見ても身振り手振り、薄い夜着の上に半纏を軽く羽織ながら、見ず知らずの幼子達と微笑ましい光景を紡ぐのが、失礼やもしれないがあまりにも見た目相応に見えてしまえて、瓢は小さく吹き出してしまった。

「ん、あぁ!瓢じゃねぇかおはよう!」

 いつの間にか、敬称が抜け落ちていた。





 

 昨日の今日で何がそんなに変わろうものか。まるで古い友人かと疑ってしまいそうな程に自然と、彼は瓢に話しかけた。

何も特別な事はない。普通の呼びかけだ。

ただまさか昨日はあった筈の敬称が綺麗さっぱり消えてしまうのは、今じゃなくとも触れなくてはいけない気がしてならない。

呼ばれて聞こえなかった振りをして立ち去るのはよくないだろうと、今度はしっかりと爪先を向け歩だす。

絞りきったものの、まだ若干水気が残っているように感じる手ぬぐいを腕に掛けながら、呼びかけに応じる。

「おはよう、弥代…さん。朝が早いんだな。」

「居心地は十二分に良かったんだけどよ。やっぱり他所の枕は馴染むのがちいとばかし難しいよな。」

「枕か。それは重要だな。」

 袂から小さな端切れを縫い合わせて作った巾着を取り出し、中から赤い小粒のそれを子等に配っている小綱を尻目に、そんな会話をする。相手が呼び捨てで呼んできたというのに、自分がかわらず敬称を付けるのもどうかと思えたが、それをする度量が瓢にはなかった。

「いやでも本当によ、助かったぜ。小綱さんも普通に喋れっけど、挟まれたらてんてこまいでよ俺…」

先ほどの大きな身振り手振りはそういうことかと、納得する。

昨日、町の方で三人と会った際も、遠目でもよくわかるぐらいに大きく動き回っていた。

あれからまだ丸一日が経っていないというのが不思議な感覚だ。

「餓鬼ども!この兄ちゃんが来てくれたからには俺に敵なしだからな!」

「敵なし……フッ、フフ……」

 どうすればそんな言葉が思い浮かぶというのか。瓢は手ぬぐいで顔を覆い隠して肩を震わせてしまう。いけない。昨日からずっと笑わされている気がする。

「小綱さんよぉ、俺何か変な事言ったかなぁ…」

「さてはて、理解が及びませぬな。」






 生前の父は瓢の顔だちを、幼いものとよく称していたものだが、瓢からしてみれば弥代の顔だちというものはもっと幼いだろう。

子等と一緒になって中庭を駆け回る姿を見れば、歳が少し離れた兄弟のようなものだと言われても納得してしまいそうだ。

 囲炉裏の間で面と向かって言葉を交わした際は、随分としっかりと物を言うのだなと感心させられた。旅に同行している二人の大柄な男らは口下手で会話にならないからと、率先的に弥代が口を開くの必然的に仕方のないことだったかもしれなかろう。が、言葉の節々ややりとりの中に見た目に釣り合わせない聡明さが伺えた。粗暴な態度を見せながらも狭間見える奥の所作が、どことなく昔の父を彷彿させ、こちらもしっかりとせねばと思っていた筈だったのだが、

(どちらも、同じなのだろうか。)

 夕暮れ前、肩を並べ膝を向け合った時から子供らしさを感じ始めた。

 言葉一つ、伝えることも儘ならず踏み出せずにいる自分を嫌というほど思い知らされる。そんな気がしてならない。

 穏やかな光景を前に、どうしてこんな気持ちに駆られるのかが、瓢には分からなかった。

「なぁ瓢!」

 いつの間にか、眼前いっぱいに広がったその“色”に、目を見張る。

「一緒にむこう、行こうぜ。」

 どうしたら、そんな風に笑えるのだろう。

 到底、追いつけないだろうそれに、静かに手を伸ばした。 











「そんで、お前らは何してるわけ?」

「素振り。」

「坊に付き合っといやすねぇ。」

「日頃からそんな事してたの春原討伐屋?」

 春原討伐屋に籍を置いている弥代だが、他の者達のようにそこに住むことはなく、一人雪那が用意してくれた長屋横丁にお世話になていた。不定期だが三日に一度ぐらいの頻度で顔を出しては、ぶらりぶらりと屋敷周辺北区画の巡回を行い、あった事を書面にまとめればいいだけなのだが、字の読み書きがこれっぽっちも出来ない弥代はあったことを述べてはそれを相良が書き記していた。終われば早々に安い駄賃(贅沢をしなければ二日は食い凌げるだけの)を受け取って早々に討伐屋の詰所を後にする事が多かっただろうから、普段巡回やら書きものをしている時以外の彼らの様子なんて知るわけもなかった。

 街中ですれ違うことはあっても、それは別物だ。

言葉の通じぬ子等四人に足元に纏わりつかれながら、人手を求めて呼びにきたというのにまさかこの極寒の地において上半身ほぼ裸の状態で模擬刀でもない刀を振り下ろし汗を掻いているとは、誰が想像できただろうか。

どこにも模擬刀を用意できるだけの余裕はなかったろうが、鞘に収めたままの刀を素振り変わりに使うなど、馬鹿としか言いようがない。

 弥代自身、刀を長く鞘から抜いていないが、抜かぬままでも十分に強力な殴るという用途で使用することが出来るからそう使っているだけだ。殴打の為に利用するのならもっと適した武具があるだろうに、それを弥代がしようとしないのは、過去に老夫婦にその身を拾われた際に抱えていたからというたったそれだけの理由からだ。

 それそのものが何か自分の過去への手がかりになると思っていたのだ。しかしそれも今はどうだろう。あの雪の晩を経て、刀自体を抜かなくなってしまった。本当にそれきり一度たりとも抜いたことはないそれは、きっと鞘のうちで錆びてしまっているのではないだろうか。そう思えてならない。

(鞘のうちね…)

そんな古い言葉があったとかなんとか。

息一つ乱すことなく、抜かぬまま素振りを続けていた春原と目があう。

以前居合さながらの勢いの春原と直接、衝突した事があったものだが、彼はあの時も直ぐに刀を抜くことはなかった。

抜かずとも強者というものはその力量さを場数からして汲み取り、交えることなく争いを収めることもあるだとか。

 挑まずして、折れてしまうのだとしたらそれは初めから無いのと同じなのだろう。

普段言葉の不得手な春原だが、今こうして抜かずとも鍛錬に勤しむその姿は、きっと折れる事はないのだろうなと、不思議に何の根拠もなく思わされてしまった。

「いや違ぇんだよ、人手が欲しいわけだわこっちは!」

「?」






「えぇ⁈薪ですかぁ?」

 寝ぼけ眼を擦りながら襖に凭れかかる男のなんともだらしないこと。

細い目をより一層横に引き伸ばしたような、寝癖の強さなら芳賀といい勝負じゃねぇかと失礼な事を考えながらも弥代は部屋の主である瑠璃に畳み掛ける。

寝起きだとか知ったこっちゃないのだ。 

「おうよ!大量の薪が欲しいんだとよ!瓢がな!」

「瓢さんが…?それはそれは、何か悪いもんでも食べちゃったんですかねぇ?しずり様じゃあるまいし…そんな、」

 ぽりぽりと回りきらない頭を掻きながら小言を零すさまを、昨日同様乳母の小綱が目にしたら怒鳴られるのは弥代でも想像がついた。

遅れて廊下をやってきた着替えを済ませた先の二人との合流をする頃には、のそりと瑠璃が部屋から出てきた所だった。






「薪でしたら蓄えはありますよ。ありますけども冬場の薪なんて乾燥してくれませんから蓄えていたってすぐにそんな火が付きはしないんですよ。知ってるでしょうに瓢さんったら、本当に何をお考えなのやら…」

 蔵の裏手に積み上げられたそれらを複数本まとめて下せば、荷物持ちとして呼んできた二人の腕に無遠慮に瑠璃は乗せていく。

 小さな子ども達には一本もまともに渡そうとしないのは何とも甘やかしい。

厚みがある薪は大人の二人でも五、六本腕の中に囲むのが厳しそうだが、筋力に自信がある館林はそれぞれ両脇で抱えているがまだ余裕がありそうだ。実際に持てる重さと抱えられる大きさというのは違うのだろうなと改めて考えていると、瑠璃から手渡されたそれはたった二、三本ぽっちだった。

「いや、なんなら頭の上に乗せてでも運べる自信あんだけどよ俺。」

「そんな器用な事、落とす未来しか見えやしませんよ。」






 大量の薪が欲しいと言ったのは瓢本人だった。何を思ったのか、身を寄せ合い笑い合う子等を見て、火を焚べようなどと零したのだ。

丁度近くに居合わせた弥代がそれを聞き逃すことはなく、年もそろそろ終わるのだからそういった催しを行っても良いじゃないかなんて、軽く提案をしてしまった。

 榊扇の里での生活がやはり根付いているのだろう。何かと焚き出しであったり、地区毎に酒盛りが行われたり集会が行われているのを尻目に、自分も混ざれないものかと何度も見送ってきた。他所者の自分がそこに踏み入れる気にはどうしても中々なれなかった。

夏口には一晩中南の方には夜遅くなっても明かりが灯っていて、威勢の良い掛け声が暑苦しいぐらいに響いていたものだ。

が、幾ら他所者とはいっても互いに深く知った仲ではない方が好都合な事もある。

町の中心部からこの屋敷に足を運ぶ道中、すれ違う町人等が瓢に対して挨拶を投げかける場面を何度も目にした弥代は、彼の距離を図ったような態度があれども親しみを抱かれているのではないかと、そう感じた。

年を跨ぐ前にそんな集まりがあってもいいじゃないかと知らぬ立場の者が言うにはどうかと思えたが、言葉を汲み取られた事が意外だったのか、表情を綻ばせながら瓢が言ったのだ。






 大量とはどれぐらい必要か。

二、三回に行き来を繰り返し、日陰から日当たりの良い、中庭に面した縁側に並べられた薪。初めはそんなものだと思っていたが、何度も運ぶにあたり、全部が全部ではないが水気を多く含んでずっしりと重みを感じる薪もあり、これは子等には持たせることは出来まいと理解した。手にもって即座に誰に渡そうものかを判断していた瑠璃は、そういった面に関する理解が深いのだろう。

運び終える頃には、開け放った障子の奥、囲炉裏のある間で瓢が火を灯していた。

「乾ききってしまえば火もよく点く筈だ。」

雪の多いこの土地では案外普通の事かもしれない。降り積もった庭に多く、足跡が残されていた。











「まぁ、そんな降られても困りもんだからよ。」

「弥代は、賢いな。」

「だろ春原!こう見えて俺は結構地頭が良い方なんだきっとな!」

 ない胸を張ってみせる弥代に春原は小さく頷いた。

その場に他に誰かがいたのなら、甚だ理解に苦しんだ事だろう。

何の疑問も抱くことなく、大人しく昨晩同様に自分の後ろをついてくる春原に、弥代は徐々にだが慣れ始めていた。

怒鳴りつけたところで仕方がない。

春原千方という男は本当に何を考えているのか分からない、ただ自分の言葉には異を唱えるようなことは殆どしないといっても過言ではないだろう。彼の扱いをある程度心得てしまえば、それは楽になる筈だ。

 これまでは一々癪に触ったり、理解に苦しむ機会が多かったが、ここまで長い間一緒に近くで過ごしていれば、良い加減慣れもする。それを誰にか見られているとなれば状況はまた変わってくるだろうが、二人きりともなれば。

(ほんと、気にしすぎだろ。)

 彼とは、恐らくは過去に面識があることは間違いないだろう。

扇堂家の屋敷にあったあの地下牢で言葉を交わした時から分かっている事だ。

あまり表情に出しにくい男が、見るからに顔を歪める。そうまでして無理に聞きたいわけではないとその時は思いはしたものだが、里で時折顔を合わせる度の距離の詰め方から子どものような奴だと感じるようになった。悪い意味ではない。ただそんな相手に過去の事を改めて問いただした所で、あまり有益な情報は得られないとも思ったのだ。

 古峰で夜に話した事や、道中のあの晩の事を含め、埒が明かないと終わらせた。

(そういや、あの後いつの間に俺寝たんだっけ…)

背中合わせで他愛もないような話をしていた筈なのに、どんな会話をしていただろうか思い出せない。

春原が夜寝付けないという事を知った今、もしかしたら自分が寝てしまった後も何かを彼が話していた可能性も考えられたが、言葉の少ない春原がそんな何か重要な話しをするのは想像がつかない。

(まぁ、今はそんな事どうでも良いんだけどな。)

今宵も屋敷が寝静まっただろう頃、与えられた部屋を窓から出た。

今日一日雪が降ることはなく、何も最初から狙っていたわけではないが中庭の雪は土の混じった足跡が多く、小さいものから大きいものまで疎らに広がっていた。

縁側に面した囲炉裏のある間は、薪を乾燥させる為に必要以上に外気に晒さない為にしっかりと戸が閉められており、外の様子は見えそうにない。

茂みや軒下だけの限られた範囲でしか結局昨夜は動くことが出来ず、どうしたものかと思ったのだが、どうにも運が味方でもしてくれたように都合のいい場が設けられたものだ。






「暗くてよくよく考えたら見えねぇな。」

「そうだな。」

 空を見上げる。旅の商人は月の満ち欠けで日の経過を判断するのだと、そんな事も聞いたのはいつだったか。

遠くの音まで聞こえる冬の夜は、空の深さもまた一段と違ってくる。月が大きければ大きいだけ降り注ぐ明かりも広がり、その光を受けて星々もまた一際と瞬いてくれた事だろうが、満月を過ぎ去った月は細まるばかりだ。

そこまで意識して見た事はこれまでなかったが、月の満ち欠けに合わせて暦を読むらしく、今年の終わりは新月の一つ前の晩らしい。

大安で年を締め括るなんて縁起が良くはありませんかと、昼時に小綱が零していたの思い出す。

尚のこと、早い内に片をつけたいものだと思うが、それには幾らか明かりが必要だ。

弥代は早い段階で今宵の行動に見切りをつけて春原を連れながら部屋へと戻った。











 一つ、匙を落とす。

目安の半分たりとも掬う事ができず、しかし眼下のそれがまるで餌をせがむ雛鳥のように、口と思しき場所を大きく開き、耳障りな金切声を上げるもので、男は静かにそれを傾けた。

鼻を突く異臭にも、慣れたものだ。

裾が汚れぬようにと括ったものの、与えられる事を当たり前と、習慣付けられた脱殻のような彼等が求め手を伸ばすものだから当に石畳に付き、じわりと染みが広がってしまう。

「これこれ、お止しなされ。どうぞ順当に与えてさしあげますとも。」

そう口にすれば、もうどこにも知能などないだろうに理解したかのように耳につく声がなりを潜めた。

暫く、男は同じようにそれらに餌を与える親鳥のように優しく接した。

日に二度、こうして食事を与えなくてはならぬのは手間ではあるが、かつて寝食を共に、この国の為に身を賭して闘った者達が飢えに喘ぎ息絶えていくのだけは許せなかった。

他を全て投げ打ってでも、彼等がまたかつての様な姿を取り戻し、その畏怖すべき権能を振るう光景を男は今一度その目に焼き付けたかった。

姿を保つ事さえ出来なくなった彼等の、しかしそれにはかの土地を今も居座る一族が何よりも邪魔だった。

ただそんな一族も、残された者は後、一人。

 一匙の、微量な毒ではその身を蝕むのも難しいだろうが長年を掛けて、十年にも及ぶ歳月の果てに、その成就を目前としていた。

「おやおや、本日はとても調子がよろしいようにお見受けいたしますよ。どうでしょうか少々散歩でもなされては。」

その空間の一番奥に鎮座する塊を前に、膝を折る。

毎夜毎夜、横たえた寝台から転がり落ちてしまうのだから、幼い頃から彼女をよく知る男はまるで実の娘かのようにそれに接するのだ。

血を分けた子を育てたことはないが、それでも幼子を持ちあげれば同じぐらいの重さをきっと味わうことだろう。裾が汚れる事を気遣って括っていたのが嘘のように、胸の前に担ぎ上げたその背を摩る。夜泣きをする赤子のように、小さな手のようなものでひしっとしがみついてくる塊に、言葉は通じるわけがないと分かっていながら。

「もう直ぐです。今暫しの辛抱を。どうか、どうか。」






 夢を見ている。

 長い、夢。息が詰まりそうな程、息の仕方さえ忘れてしまいそうな程、息をする意味すら分からなくなってしまいそうなどの、長い、長い夢の中にいる。

 求めていた陽だまりに手を伸ばす。

 到底私が手に入れることの出来ないそれに、縋り付くように手を伸ばす。

 伸ばして、伸ばして、伸ばして、伸ばして、ボトリ、と。

 触れた矢先に崩れ落ちてしまった腕を静かに見下ろす。無感動に、見下ろす。身を滅ぼすだろうとどこかで分かっていたのに、どうしても手に入らないと、触れることすら許されないと分かっていたにも関わらず、それでも伸ばしたというのに。

 無感動に、その結末を前にする。

 ほんの少し前まで自分の体の一部だったものが、そこにあるというのは羨ましいとすら感じる。痛む自分の身など気にはならない。

 次第にその姿さえ保つ事ができなくなっていくそれに、そうなっても構わないとでも言うように、突き進む。

 身を焦すような、その熱を、私は


「…さ…」

 ほんの少し、目を離した間に、またそれは寝台より落ちてしまった。

 男はため息一つ吐く事なく、淡々とそれを持ち上げる。

「我儘はもうお止めなさいな。」











「飽きれかえって何も言えやしないわよ本当に。」

 取り繕うつもりなど微塵もないのだろう。

長い髪を揺らしながら横たわる我らが神仏の有様を前に、今更小言が沸くわけもなく扇堂杷勿は茶を啜る。

「それで何、あの子。里を出たの?で、勝手に貴女の用意した彼等、あの血族の末裔が追うようにして出て行ったって。人手不足ですってわざわざ頭を下げに来たんでしょ。笑えない冗談ね。」

用意した菓子はお気に召したのか。せせら笑う彼女の機嫌はそこそこに良いように見てとれた。

あまり必要以上にこちらから声を掛けるのはよろしくない。疑念を抱かれたくない扇堂杷勿は口を閉ざす。

 あの幼子がこの土地から離れてからというもの、神仏の機嫌は頗る良い。自らの意思で離れたのやもしれないと知った時は、これみよがしに手を叩いて喜びを表現していた。

女のその姿を視認する事の出来ない従者らが不思議そうな顔をして、嗜めた杷勿を見ていたのはまだ記憶に新しい。

「どうかしら杷勿?いっその事里そのものに踏み入ることが出来ないようにして「それは雪那が悲しむ事でしょうね。」

 それは自然と口を突いて出た。

それは違うと、子を諭す親のように、はっきりと。口を開く気などなかった。

この神仏をこれ以上刺激する事は止めたかった。そっと静かに。そう遠くない終わりを見据えていたつもりだった。

扇堂杷勿は後悔をしていた。

それはもうずっと、ずっと長い間。

『ねぇ、母さん。それで貴女は償えているつもりなの?』

 激昂を隠すことなく、神仏が奮うその長い爪先が頬を掠めた。

「珍しいじゃないの、貴女がそんな、私に意見をするなんて。」

「果たしてそうでしょうか。」

昔はそれこそ対等に言葉を交わしていた筈だ。いつの頃かなんていうのは分かりきっている。あの日からずっと、もう長く彼女は自分の言葉に耳を傾ける事がなくなってしまった。口を開き疑念を抱かれるのはとそう懸念していたのが漸く意味がなかったのだと、杷勿は気付く。自分もまた、彼女から目を逸らしていただけなのだと自覚する。

「同じですよ、水虎様。」

(貴女様もあたくしも、死ぬその時までずっと、)



『どうしてっ、どうして私じゃ駄目だったの⁈ねぇ教えて、答えてよ…母さんっ‼︎』

 雪が、降り積もる。

 あの晩を赤く彩ってみせた、燃ゆる炎を背に吠える女は、己が誰よりも愛した娘だった。











「それでは、こちらになります。」

 差し出された包の中身を確認することなく、長屋の旦那はそれを懐に仕舞い込んだ。

「毎度すまんねぇ雪那様。雪那様からこううして貰ってるなんて知れちゃぁ奴等にお小言貰うのも仕方がねぇって話でさなぁ。」

「そんなつもりは、「ないって事ぐれぇ存じてますよい。お屋敷の方々に頭下げられちゃいけん、儂等なりの意地ってもんがあるんです。」

 その場に同席している従者と目が合えば旦那は小さく首を回した。

この長屋に雪那が足を運ぶようになって半年は経つだろうか。屋敷で客人として招き入れている友人に住む場所を提供したいそうだと従者の氷室が話を持ってきた時は驚きたまげたものだ。この里で生まれ育った身だが、この歳になってからまさか直接的にこのように扇堂家と関わりを持つとは想像もしていなかった。里に長く住まう者にとって、扇堂家とは言い過ぎだと思われようがお上のような存在なのだ。扇堂家がいるから今の生活が成り立っている所が大きいだろう。

雲の上のような御人らと、こうして言葉を交わすことができることさえ本来は畏れ多い事なのだ。

 しかし今現在、その友人はこの長屋にはいない。一月程前からその姿を見なくなってしまった。どこにいってしまったのやら。数日顔を見ないことを心配に思い部屋を覗きに行けば、確かそれは双子の姉と名乗っていた少女だっただろうか。白髪の頭部を傾けながら、「どこかに行っちゃった。」などと、慌てることなく淡々と教えられた。

その内きっと帰ってくると思うから大丈夫だよ、なんて言われてしまえばそれ以上追求する気もおきず、ただ家賃の支払いはどうしたものかと思っていた所、先月の暮れに雪那が持参して現れたのだ。

「きっと弥代ちゃんは、私がこうして払おうとするのを、良しとしないと思うんです。でも、その内いつかひょっこりと帰ってきてくれる、そうなんじゃないか、と。」

 そんな事を言われしまえば、賛同以外の言葉を掛ける気など沸かず、大将は不揃いな歯を見せて笑うことしか出来なかった。











「いえいえ和馬さん。嘘ですよね和馬さん。貴方本当にあの御家で過ごされていたって嘘ではないんですか?ちょっと芳賀さんっ⁉︎芳賀さん来てください‼︎この人てんで算術が駄目ですよ‼︎信じられますか⁉︎私は信じられません‼︎芳賀さーーーんっ‼︎」

「人には得手不得手があるんですぅっ‼︎」

 地獄のような日々を送っているといっても過言ではない。詰所中に響き渡る大声に芳賀は苛立ちを感じながらも抱えていた大荷物をのそのままに荒々しく足で戸を開け放った。

「聞こえてます!聞こえてますからそう何度も呼ばないでください‼︎俺だって苛々してるんですからねっ⁉︎自分だけおっきな声張り上げて発散するの本当良くないと思いますよっ‼︎」

「それは御自身も含めてでしょうか、芳賀さん?」

 背筋が、凍る。

勢いよく蹴り開けた体勢のまま背後から呼び掛けられた、冷ややかな声色に血の気が一気に失せる。振り向くことすら許されていないような圧迫感を感じながら、震える声で謝罪を述べるも、聞こえませんが?とすぐさま返されてしまえばもうそれ以上何も言えやしないだろう。そっと触れられた左肩を、そのまま右手に流すように動かされれば素直に体を右へと移動させる。

 自分を押しのけるようにして部屋へと足を踏み入れる伽々里のなんとも恐ろしいこと。この声色は普段のものよりも随分と鋭く、大声の主に刺さった。

「まぁ、相良さん。御忙しいという割に随分とお手許は暇そうですわね。」

「春原さんも館林さんもいない中、雪那様の護衛もある立場の和馬様がこうして無償で手を貸してくださってなんとか切り盛りが出来ている現状ですのに。」

「そのような物言いは、あまりにも失礼ではないでしょうか?」

「…」

「相良さん?御返事がありませんよ?」

「…はいっ、」

 地獄だ。本当に地獄のような日々だと、芳賀は感じる。

 年の瀬というのはこうも息苦しいものなのだろうか。さてさて。   

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