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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
三節・津軽、北の大主編
29/186

七話

 その日は、前の晩から雪が降り続けていた。

 雪の勢いは弱まることのないまま一夜が明け、朝方に屋敷を出ていったきり一向に帰ってくることのない父を心配したのは母だった。

 この土地に長く住む者であれば、雪の降り頻る中で中々帰って来ない者の身を按ずるのは別段不思議な事ではなかったが、それが父であれば話は違うだろう。

 決して体が丈夫なわけではない母が、屋敷の者の反対を押し切って探しに行こうとするのを、皆が懸命に止めた。体は弱くとも我の強い母は、しかし皆が部屋を後にすればこそりと瓢の裾を掴み外に連れて行くようにと駄々を捏ねだしたのだ。

 母の駄々は今に始まったことではない。日頃から周りの目を盗んではそれに付き合わされることも少なくはなく。付人の瑠璃を含め、よく後になって乳母の小綱に説教を食らった数も数えきれない程だ。

 皆の前では渋々受け入れたような態度を見せたが、あの場に居合わせた誰もがこうなるだろう事を予期していた事だろう。

 仕方がないな、なんて小言を零しつつ。瓢は母の我儘に付き合う為に肩を貸した。

 母の我儘は本当に小さな事が多かった。

 例えば、夕餉の仕込みをする小綱の、厨房から漂う薫りが堪らないからほんの少しだけおかずを攫ってきてほしいだとか。

 例えば、縁側から覗く庭がもの淋しいから大きな薪を焚べて火を焚き普段と違う光景が見たいだとか。

 例えば、本を読みたいのだけれど一人で読むのはつまらないからと聞き手になってほしいなんて、言いつけられていた手伝いを放棄して傍らで耳を傾けたり。

 どれもこれも小さな、可愛らしい我儘だった。

 外に連れ出してほしいなんて言われたのは、これが最初で最期だった。

 


 流石にこれは説教を受けるだけで済むだろうか?と考え倦ねた瓢だったが、強く、母に押し切られてしまう。

『大丈夫よ瓢、お母さん強いから!いざとなったらお母さんが助けてあげるわ!』

 親というものが子を守るのは当然ではないかと疑問を抱きながらも、瓢は足元のふらつく母を心配し、肩ではなく背を貸し、おぶるようにして屋敷をこっそりと後にした。

『凄いわ瓢!貴方いつの間にこんなに力強くなったのかしら⁉︎お母さん知らなかったわ!』

 当然といえば当然だろう。

 瓢はこれまで母の我儘に付き合わされる機会は数えきれない程あったが、直接このように触れることはあまりにも久しぶりだったのだから。

(冷たい、肌だ。)

 いつぶりに触れただろう母の温もりに、ぐっと奥歯を噛み締める。

 全て、過去の出来事だ。

 過ぎてしまえばそれは全て過去に違いはないだろうが、母の我儘にこうして付き合わされる事も、その肌に布越しであっても触れる事も、数年ぶりとなる。

 数年ぶりにした二人きりの会話で、早々に昔のように駄々を捏ねられるとは思ってもいなかった。

 年々、我の強い母もその体の事もあり、本当に強く屋敷の中で口を開く頻度も少なくなっていた。

 皆の心配を無碍にするなと、そう零していたのは他でもない父だ。

 父にそのように言われてしまえば、母はもう何も言い返す事は出来なかった。長年屋敷を連日不在にすることのなかった父の、その日はあまりにも珍しい日だった。

 理由はどうあれ、こうして母と接することができるのが瓢は酷く嬉しかった。

 最近は南部の地を新たに治めるようになった流れの一族の、見た目が近しい人間の少女と屋敷の外で顔を合わせては言葉を交わす事が多く、そんな事があったという事も母に話す事が出来なかった為、これまでの数年の溝を埋めるように、瓢は普段の自分から想像もつかないぐらいに多弁に、経験した事柄を事細かに母に語った。

 屋敷から南部の集落までは一人であれば足早に、半刻程で着けるのだが、前の晩から降り積もる雪や、背におぶった母を含め、倍以上に時間を有してしまった。

 父はかの一族と話をしてくると言って出ていってしまったから、御法川家が今は住まうお屋敷へと向かえば道中にすれ違えるか、休んでいる所を見つけられるのではないかと、そう根拠もなく提案をしたのは母だった。

 宛てもなく彷徨い続けるよりは目的地のあった方が断然楽だからと、瓢は歩を進め、そうして、語り続けた。それら全ては、少しでも、骨のあたる細い体を気にしない為の自衛であった。

『しっかり掴んでてね、母さん。』

『えぇ、しっかり掴んでおくわよ!』





 

 瓢と、そう名付けたのは母だと聞かされた。

 名は体を表すというのは、父の口癖で。

 崩れ落ちるその体躯を支えきれぬまま、まるで子を外敵から庇おうとする親の如く、覆い被さるかのように倒れ込んできた父の体に、瓢は押し潰された。

 腕を突っぱねることのできるだけの余裕があるわけもなく、着物越しに伝わる、父の心音が徐々に弱くなっていくのをありありと自覚する。

 どうしてこんなことになったのかと、今になって後悔を募らせる事しか出来やしない。

 父の肩口からまみえる、夜空に散りばめられた星々が瞬く。降り積った雪の白さを際立つ。その光景のなんと美しいことか。


『   、』

 ふと、父が何かを口にした。

 今にも潰えてしまいそうな声色の節目に、一つ。

 鼓膜を直接揺らしたそれは、初めて耳にした言葉だったというのに、不思議と瓢には馴染みがあった。それは。それが、父の発したそれを、瓢は何の確証もなく、その送られた言葉が、自分の名であると、本能的に理解できた。


『   』

 父が今一度、その名を口にする。

 瓢はそれに言葉を返すことが出来なかった。

 遠く、どこからか母だったそれの絶叫が響く。

 ああ、どうして、どうしてこんな事になってしまったんだろう。それは。それは今も尚、瓢の中に残り続けている。

 忌々しい、雪の日の記憶。











「そんじゃ、俺はちょっくら歩いてんよ。」

 通された屋敷の一室にて、羽織を脱ぎ軽装になった弥代が自然と腰を持ち上げた。

 つい今しがた春原が手を借り、襟巻きを解いたばかり。なんとも奇妙な触れ合いを目の当たりにし、思わず館林は小さな声を漏らした。

 春原とは、五年程の付き合いになるが、どれだけ思い返そうとも周囲に対して無頓着無反応である事の多い。関心がないのだろう。逆に関心のある事にはどこまでも真っ直ぐに向き合う。日々の行いには決められた行動が多く見られ、それを自分以外の者が阻むのを拒む。春原という男はそういう人間だ。

 だから、彼がこうまでして自分から触れ合いを他人に求めるというのは、彼自身の成長を長く見守ってきた館林からすればどこか涙ぐましささえ覚えてしまうのだ。

 春原が自分の口から彼女・弥代との事を語ることはないものの、その意識は自然と弥代へと向けられている。よくよく見ずとも分かる。それが厚意であるかは判断しづらいものはあるが、接触を試みるその姿勢は、春原のこれまでを知る、自分や相良からするとどこか喜ばしい事なのだと、館林はそれを噛み締めるのだ。

 館林自身は弥代の事をあまり知らない。

 春原討伐屋で顔を合わせ、時々言葉を交わす程度の関係だ。討伐屋に籍を置く芳賀程、特別に仲が良いという事はない。

 “色持ち”という点ではどこか似通ったような境遇で育ってはいるのではないだろうかと思うが、その見た目からは想像もつかない腕力や、粗暴に振る舞いながらも落ち着いて状況を理解しようとする態度が、これまで彼女が誰かに頼ることが出来ないような環境で一人で生きてきたのだろうと、そう思わずにはいられなかった。

 人嫌いというわけではないのだろうが、必要以上に距離を詰められるのは好ましくないのだろう。普段から覇気のない表情の、何を考えているか側に控えていようとも分かりにくいような春原では尚更に。思っている事がよく顔に出るという点では芳賀の方が接しやすいのか。端から見ても弥代の受け答えは正反対に見られた。

 といっても、この下野国の古峰を後にしてからというもの腰を下ろす際には毎度のように経験しているのだからそろそろ慣れてもいいだろうにとも思えてしまう。

 まるでそれ以上を拒むかのように、その場から逃げるようにして言いながら弥代は部屋を出ていってしまう。

 道中は他に行く宛がなかったからまだじっと過ごしていたのだろうか。区切られたこの場では距離を置けるとでも言いたげに通された部屋を後にした。

 出ていってしまった弥代から視線を逸らし、今もまだ自分の雨合羽を脱ぎすらしない春原に、館林はそっと声を掛けた。

「坊、冷えたもんずっと羽織ってるのもよくぁしやせん。お脱ぎになって暖にあたられてくだせぇ。」

 春原は、動かない。

「坊?」

 静かに彼の表情を窺おうと前に身体を差し出せば、春原の頭が僅かに傾いている事に館林は気付いた。

 春原は夜、とても寝付きが悪い。

 相良が目を瞑るだけでも良いから体を横にしていてじっとしていてくださいという、その言葉の通りに過ごしている節があった。

 館林は幼い頃から大人になるまで、祖父母に連れられ野山で一年の大半を過ごす事が多かった為に、この旅の道中でも適応する事が出来たが、春原はそうではなかっただろう。

 身を横たえてゆっくりと目を瞑らずにはまともに休む事も出来ない身に染みついた習慣の、最後に宿屋で体を横たえたのはいつだったか。

 寝付きの悪さも相まり、まともに長く休めていなかったのかもしれない。つい今しがたの彼女との触れ合いも含めて、安心でもしてしまったのか。張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れたかのように、人知れず寝入ってしまったのだ。

 そっと、体に触れる。

 自分にと用意された分厚い座布団をその体の下に敷いて、楽な姿勢が取れるように転がす。

「今はどうぞ、お眠りくだせぇ。」

 この屋敷の世話は、先ほどの囲炉裏の間にて顔を合わせた老婆が担っていると聞いた。

 一人春原をこの部屋に残すのはよくないと思えたが、せめて何か暖かい掛布団代わりになるものを用意してもれないものかと、館林も静かに部屋から出て行った。



 一人になって、館林はふとこれまでの春原の言動を静かに振り返る。

 一月程前、扇堂雪那から直接の依頼を受け、彼女の友人である弥代を探してほしいと言われた際。春原は三日程長い間眠りについていた筈だ。たとえ同じ屋根の下であろうとも、襖を二枚、廊下を挟んだその先の部屋でのやりとりがそこまで聞こえるだろうか。

『弥代を、探しに行く。』

 芳賀に支えられいた春原は、確実にそう口にした。その際にもしっかりと感じた違和感は今も拭えていない。

 その後も弥代の足取りを求めて立ち寄った八王子宿にて、別々に手がかりを探していた館林に向かって、情報を得たという春原が取ったその行動。下野国に入ってからもその足取りが揺らぐことはなく、迷いなく古峰神社が構えられたあの土地へと進んでいった。

 古峰神社で再会を果たした翌朝も、日が昇るよりも早く出立の準備を整え、自然と鳥居の前でその後やって来る弥代を待つ事となった。翌日、そんな約束でもしていたのかと、館林は正体も知らない蛇肉に味噌煮込みを美味い美味いと上機嫌に食していたので、見計らいながら訊ねたが、一切そんな口約束をしたわけではないと、そう言っていた。

『二葉。春原さんの事、頼みましたよ。』

よく知った仲の彼が、里を出る際に自分に掛けた言葉を忘れることはない。

(坊…)

 館林の中には、疑念が残る。

 しかしそれは、彼の、春原千方への、在り方やこれまでの境遇に比べれば仕方のないことだと、それを自分が気にして彼に着いていかなくなる事はお門違いだと、そう考え直して、蓋を閉めた。

 冬の家屋は床板が酷く軋む。そんな事で眠りを妨げるのだけは良くないだろうと、足の平を滑らせた。











 追い出されたという表現は間違ってはいないだろうが、それはどことなく悪い印象を抱いてしまう。

 自分の棲まう屋敷から御法川家までは半刻程も時間を有しはしない。足早でなくても昔から比べて歩幅は広くなったという事もないのだから、言えば気軽に足を運ぼうと思えば運べる位置にある。

 それでも、あの日から十年近くは経つだろうに御法川の屋敷へ一人で出向くことがなかったのは、少なからずの後ろめたさがあったからだ。どうしようもない、償いようのない結果を直視することが怖かったのだ。

 小綱に用意させたおはぎは渡せたものの、昨晩の延長で、どこかで昔話に華を咲かせるかもだなんて、随分と理解しがたい展開を望んでいたのは誰にも言えやしない。浮き足立っていたのが、なくなった懐の温もりを含めて丸わかりだ。ほんの少しだけ、きっかけを得たような気がしたのだ。嘘ではない。

 弥代と名乗っていた、あの鮮やかな色を前に、これまでの色褪せきってしまっていた変わり映えのない日々に、一箇所だけ雲間から光が差し込んだような。

(くだらない、な。)

 今更だと、一人になってから吐き捨ててしまう。そんなわけがない。それは自分が一番よく分かっている筈なのに、何故にこんなにも踏み出せないのだろう。

 今まで全く機会がなかったわけではない。話そうと思えば恐ることなく、向き合えた筈なのだ。十年。凡そ十年の間、抱え込みすぎた今更、どのようにして伝えればいいというのか。見つめた足元の、積雪は思ったよりも深かった。

 

 

 御法川家の屋敷へ足を運ぶ前、言付けに走らせた瑠璃には、二刻程経ってから迎えにくるようにと、屋敷へと戻る際すれ違う時に伝えてしまった。

 十和、と呼ばれていた小童に帰るようにと前に立たれた際に、素直に渡すだけ渡して帰っていれば一人でまた帰路に付く事はなかったろうと、そう考えてしまう。

 何も急ぐ必要はないのだからと、ゆっくりと歩を進める。

 中々に重たい足取りで進むも、本当に少しだけ気持ちが軽いと錯覚してしまうのは、屋敷に帰ればあれをまた目にすることができるからだろうか。その明るさは、根拠もなく強く振る舞っていたかつての母をどことなく思い起こさせる。お世辞にも、母は女性特有の物腰の柔らかさはあまりない人だった。父はどうしてそんな母を嫁に貰ったのか、今となってはその答えを知る人もいないだろう。

 と、瓢は僅かに歩を緩めた。

 屋敷に戻って、そこにはこれまでの変わり映えのなかった光景は今はないのだと。あれがそこにいるという事は、今日知り合ったばかりの旅人が加わり、賑やかしい日々をこれから少しばかりの間送ることになるのではないかと。

『ねぇ瓢、母さんね、皆が楽しそうに、賑やかに過ごしているのを見るのが、とっても好きなのよ!』

 中庭で薪を焚べた際は、屋敷の隅で行く宛を失った彼等も含めて暖を取り合ったものだ。それはきっと、母が望んだ、楽しそうに賑やかに過ごせていた事だろう。

「…焚べて、みようものか。」

 先ずはそれだけの薪を用意しなくてはいけない。






「やや瓢さんじゃねぇか。お早いおかえりだな?瑠璃さんが言うにはまだ掛かると思ってたんだけどよ。さっきよりも不貞腐れたような面してっけどなんだ?惚れてる女にでもあしらわれちまったか?」

 随分な言われように、思いがけず瓢は返事を詰まらせてしまう。

 屋敷の門を潜ると、そこには我が物顔で開け放った縁側に腰を下ろし茶を啜る客人の姿があった。その装いは先ほど顔を合わせた際とは異なり、身軽そうに見えたが決して寒そうな格好には見えなかった。

「小綱さんがさ、雪景色を嗜みながら飲む茶も乙なもんですよって言うもんだからお言葉に甘えさせてもらってるわけよ。」

「そ、そうなのか…?」

 客人の、弥代の口からはなんとも自然とこの屋敷で自分と一緒に生活を送る二人の名が飛び出てきた事も驚きだったが、その口振りからは親しげに既に接していることが窺えた。

「いやぁこんなに悠長に雪見るなんてなかったからさ。南の方も雪は降るけどよ、こんあ見渡す限りいっぱいなんてなかったから。ここでぼーっと過ごしてたら小綱さんが気利かせてくれて、茶なりを恵んでくれたわけよ。で、寛いでたら外から帰ってきた瑠璃さんがこっち気付いて、俺も貰ってきますって奥行って、多分怒鳴られたんだろうな。でっかい声が聞こえてきたよ。」

 胡座を掻きながらまだ中の残っているだろう急須を器用に傾けながら、弥代が気さくそうに話しかけてくる。

 その勢いに気負いしながらも、瓢は肩に微かに積もった雪を払い除けた。玄関口から中に入ろうかと考えていれば、コツコツと縁側を叩く音が聞こえる。

「湯呑み二つ貰ってるからさ、一緒に飲もうぜ?」

 瓢は、その腰を下ろした。






 その明るい態度は勝手に心を開いてきたような、どこか身勝手さを感じてしまうが嫌ではなかった。寧ろ自分はそこまで他者に対して踏み込んで接する事が出来ないから、長い付き合いがある瑠璃のその態度とは全く別物の、あまりにも鮮明なその姿勢に、目を、奪われてしまう。初めはその髪色や目の色にばかり意識が向いていたというのに、言葉を重ねれば、話題を振られれば振られる程、彼の本質ともいえよう部分に向けられる。本当に、嫌ではないのだ。

 だが、こうまで明るく接されてしまうとその裏に何かあるのではないかと、勘繰ってしまうのは良くないだろう。

 相手は旅人で。この屋敷の更に奥地、この島国最北端である津軽に用があって訪れただけなのだ。道中まともに宿も借りられず、野宿を強いられながらも過酷なこの土地に訪れた。無償で居座って構わないとそう提案した屋敷の主人である自分に対して、厚意的に接しるのは、別段何もおかしくない筈だ。どこに疑う余地があるだろうか。

 どちらかといえば、先刻の対話の際に自分が津軽に用があると彼が口走った際に、否定をしてしまった、こちらの気分を害してしまったと気を遣って話しかけてくれているのかもしれない。それもまた、有り得るだろう。

 途端に申し訳ないという感情が湧き上がる。

 が、それのなりの潜め方が瓢には分からなかった。十年越しに未だに話す事を躊躇うような自分にわかるわけがないのだ。

 瓢は、弥代の言葉に耳を傾けることしか出来なかった。






「でよ、ちょっとしてから部屋覗いてみたら二人揃って寝てやんの。いくら寝不足でも日が高い内に寝るの俺は出来そうにねぇからさ。」

「それはそれは。休める時に休んでおいた方が良いだろうな。」

 あまりにも身勝手だろうと、弥代は感じぜずにはいられない。

 先ほど言葉を交わしてからまだそんなに時間は過ぎていないというのに、馴れ馴れしいまでに接する自分に違和感を覚える。

 津軽の地に用があると口にした際の、彼のその態度。それまでの会話はとても順調で、癪に触ることはなかったというのに、その明確な意思を含めた言葉が、深く残った。

 榊扇の里で過ごした半年近くは、とても生温いものだった。刺激を、求めているわけではない。が、ゆっくりと流れる穏やかな日々は、それまで弥代が身を置いていた環境とは全く別物で。里の風潮からしてもそこまで強く物を言う者は殆どいなかった。

 雪那の厚意で扇堂の屋敷で世話になっていた頃は、それは立場としてもあったのだろうが扇堂杷勿であったり、偶々遭遇した神仏・水虎であったりと、刺々しい言葉を投げつけられることも度々。

 ただ、ここまで明確に。

 体裁を保っていたものが、一つ、崩れる様というのは初めて目にした。どちらもこの屋敷の、瓢の内の言葉なのだろうが、それにもっと触れられないものかと、そう思えてしまったのは、ひとえに、

(俺は、人間だ。)

 口に含んだ茶が、それまでよりも苦く感じれた。











 古く江戸の頃、この島国の北端に位置する南部や津軽地方では、寒冷に襲われ飢餓に見舞われる事も多かったそうだ。

 南部の地ではその名残が残っており、保存もきく米や穀物、芋などが主食となる事が多く、あらゆる工夫が重なられてきたそうだ。

 弥代たちは見たもこともない、三角の平ぺったい薄く引き伸ばされたそれが、老婆の手によって煮え立つ鍋の中に放りこまれるのをマジマジと見つめていた。

 いや、興味津々に見つめていたのは弥代だけだろう。夕餉の支度が済んだと言われても、軽く礼を口にするだけで、後ろの二人は淡々と再度案内された囲炉裏のある間に足を踏み入れただけだ。

 寛ぐようにと言われても、腰を中々下ろさずに、立ったまま鍋の中を覗き込んでしまう。

 囲炉裏には長く火が焚べられていたのだろう。部屋は外の雪を忘れてしまいそうな程暖気に満ち溢れている。

 鍋の中には、根菜類が多く乱雑な大きさで浮かんでいる。

 この屋敷がある南部の地は、この地域に限らず鉤爪のように海に面した地域も含まれるらしく、そこではこの一帯よりもより過酷な状態が年中続いている為、採れる食糧も限られてくるのだと、縁側にて瓢が話してくれていた事を弥代は思い出した。

 あまり嗅ぎ慣れない出汁は果たして何か。

 ここ最近は館林が持参していた味噌壺が多かった、覚えのない薫りを前に落ち着きがなくなってしまう。

 あれ以降、弥代は進んで食べる事ができる時は食事をするようになった。それまでも何ら変わりなく食事はしていたのだ。腹が満たされればそれだけで考えに余裕を持てた。満たされなければゆとりを忘れてしまう。出来るだけ、余計な事は考えたくなかった。

 鍋の中で茹で上がったのだろう平っぺらいそれが、再度老婆の手によって掬い上げられる。

 深めの皿に汁と一緒に盛られるそれには、いくら表情に出づらい二人であっても、空腹を白状してしまう。釣られて弥代の腹もなってしまえば、それには我慢していたのだろう瓢が咳払いを交えながら不器用に吹き出している。

「いやいやこいつは仕方がねぇってもんだよ瓢さん。」

「あぁ、すまない。こんな…ふっ、ふふっ、すまない。」

 夕餉の支度が整うまでの間、縁側で交わした時間の影響か。どことなく柔らかくなった態度に嬉しくなってしまうのは当然だろう。

 この地において、“色持ち”という“色”の概念があまりない事を踏まえても、自分に対して“色”があるなし関係なく接してくれる瓢の、向けられる言葉が丸くなるのは、今の弥代にとって喜ばしい事だった。

 鬼であるとか、人間であるとか。

 それ以前に、“色”を全く気にせず接してくれる事が、弥代にとっては気が楽になるのだ。



 やがて老婆に差し出された皿を受け取れば、合わせて平皿に盛られた、味噌のようなものを渡される。

 何かと訊ねれば、茹で上がったそれを付けて食べるのだと教えられる。

 なるほどと、言われた通りに箸でそれを乗せて巻くようにして口に運べば、なんという事だろう。全く予期していなかった刺激が舌を襲った。口元に運ぶ際もその独特な匂いは気になりはしたが、匂いとかそういった次元の話ではない。細い針のようなもので舌を何度も突かれたような、そんな小さな衝撃がやって来る。いただいた飯を吐き出すわけにはいかないとかそんな事を考える余裕などあるわけもなく、弥代は反射的に吐き出してしまった。

「んえっ⁉︎」

 決して不味いという事はない。

 腐りきったものを口にしたわけでもない。ならなんだというのだと、吐き出したそれを凝視していると、背後からも自分と似たような反応を示す者が一人、館林だ。

 春原程ではないが表情が乏しいその男からは想像がつかないような、困惑した顔でどうにか飲み下しはしたのだろうが、噛み切った三辺の切れ端を摘んだまま固まっている。

「いやお前は食えるのかよっ⁉︎」

「?」

 自分や館林の反応が嘘のように、春原は何も気にすることなくそれを食している。

 何だったんだと瓢の方を見やれば、心底申し訳なさそうな表情をした彼と弥代は目があった。



 平皿に盛られたそれは蒜味噌だったようだ。

 蒜がどういうものか知らない弥代に、わざわざ老婆は厨房の方からそれを持ってきてくれた。

 相模国や武蔵国の方ではあまりお目にかかることのない食材は、それはそれは珍しい。

これらは寒い土地でないと育たない食材なのだと、瓢が教えてくれた。

古くは、将軍家への献上品としても知られていたそうだが、都へ足を運ぶ事のなくなったこの頃には、それらが出回る事はなくなったのではないかと言う。

 南部の地を治める一族が棲まうとされるが、何も南部全域の情勢を把握する事はないのだと、当然の話を弥代達は聞かされた。

蒜というのはどうにも香りが強く、白い皮を剥くよりも前から鼻を近寄らせるだけで他の匂いが分からなくなってしまいそうな程で。

蒜味噌を付けずとも、煮立っただし汁を吸った三辺のそれは、それだけでも十分に味わうことが出来た。











(まぁ、それとこれとは話が別もんなわけだよな本当に。)

 夕餉を終え、老婆が敷いた布団で体を休める事となった三人は、久方ぶりに腹も十二分に満たされ、雨風に雪の心配もせず落ち着いて寝入る事が出来ると、静かに眠りにつくだろうと、そう思うのが普通だろう。

 日の高い内に縁側で、夜にならなきゃ眠れないなどとまで弥代は言ったのだ、どう考えても寝ていると思う筈だ。

(二人は良いさ。俺に勝手に付いてきてるだけな所あるし。でも、こっちは良くねぇわけだよ。)

 弥代は目を瞑るだけ瞑って、じっと耳を澄ませていた。それは襖の向こう、廊下を誰かが通っていないであったり、屋敷から聞こえてくる小さな音に意識を傾ける。

 冬というのはどういうわけか遠くの音も聞こうと思えば本当に微かに届くものだ。どういう理屈なのかは知らずとも、一人で過ごす数年の内に、生きる為に学んだ知恵がこうして役立つとは思いもしなかった。耳を澄ませていれば、自然と自身の内からどくん、どくんと心音さえも感じ取れてしまうが、求めているのはそれではないと、長く息を吐き零しながら逸らした。

 体感ではあるがもう一刻半ばかし、物音らしい物音は一つもしていない。この屋敷には主人である瓢の他に、瑠璃という青年と、世話係の小綱の三人が住まうのみだ。

屋敷の隅、別宅のように建てられた場所に、身寄りや行く宛を失った古い奉公人らが勝手に居付いてはいるようだが、滅多に屋敷の敷地に踏み入る事はなく、裏口から用があれば出ていくのだと言う。

 どれも三人から聞き出した話だ。そこに食い違う事はなく、恐らくは間違いないのだろうと弥代は考えた。

 昼間は瓢に面と向かって、津軽へ踏み入るのはこの時期止めてほしいと訴えかけられたが、果たしてそれは本当にこの時期のみで済むだろうか。様子だけを見ればあれは、そもそも踏み入るそれ自体を拒んでいるよう思えた。

(全員寝てる内に動いて、そんで様子見して。行き方が分かってから動けば、バレずに過ごせんだろきっと。)

 音を立たせる事なく、横たえていた体を起こす。用意してもらった夜着一枚で部屋を出るのは寒いだろうが、少しでも余計な音を立ててしまうのも、無駄に時間を有してしまうのも問題だ。息さえも押し殺して、日の明るい内に確認しておいた建て付けのあまり悪くない窓枠に手を掛ける。

屋敷内の廊下の音を気にしていたのは、床板がよく軋むのを既に確認していたからだ。

 自分が部屋をあとにしてから館林が一人老婆を探すのに徘徊しているのを離れた位置から見ていたが、重さも違うだろうが物静かな男が摺足で進んでも若干軋む音がしたのだ。

 あまり開けっ放しでは寒気が部屋に流れ込んでしまう。そすれば寝入っているだろう二人が起きてしまう可能性も考えられる。外は雪が降っていた。軒下は屋根によって積もっている雪の量も少ない。強く降っていてくれでもしたのなら足跡を隠してくれそうだが、今宵はそこまで強くないようだ。

 早々に窓枠を飛び越え、振返り戸を閉じようとしたその時だった。

 振り返ったそこに、あろうことか春原がいた。


「……。」

「…。」

「何してんだテメェ。」

「弥代が、起きたから。」

 思わず、頭を抱える。

呆れ返って漏れ出そうな溜息を全て飲み込むのは、至極喉が苦しい。溜飲を下げる、などという言葉を聞いたことがあるが、恐らくはこれだろう。この感覚だ。これがきっと一番近しい。

 声を張り上げる事が出来るような状況ではない。今ここで大声を出して、それでこんな窓枠越しで頭を抱える自分と、旅の同行者である春原を見られたら、今日一日である程度築いただろう信頼を全てなかったことにする事になる。弥代としては瓢との関係はそのままに、今後も世話になるのならもう少々言葉を交わしたいと、そう思えるぐらいには良い印象をいだいていたのだ。二人きりで言葉を交わした事でどこか確信した。そう、それは間違っても眼前のこの男に対しては抱いたことのない感情で。

「寝たんじゃ、ないのか?」

「昼に寝た。暫く寝れそうにない。」

「…そうか。」

 失念していた。

以前相良が春原は夜は寝付きが悪いのだと言っていた事を今になって思い出す。

 それは確か春原の目元に刻まれた濃ゆい隈を揶揄した時だ。初めて小仏の森で出会った時から、その目元の隈の印象は強く、名前を覚えるまでの間は何となく、隈っころだの、隈野郎だのと呼んでいた事がある程だ。

 春原討伐屋に居座る時間が増え出した頃、春原の世話係を自称している相良に対して揶揄い混じりに訊ねてみたのだ。たった一回ではあるが、聞いた覚えは確実にある。

 夜寝付きが悪く起きていることの多い春原は、三日まともに寝ずとも無気力そうに過ごしている事もあるのだとか。それはもう寝付きが悪いとか以前の問題ではないのではないかと軽い気持ちで訊いただけなのにその身を按じてしまった。

 普段の覇気の無さは、そこに直結しているような気もしたが、それで当人は倒れたことはないというのだから、それなら問題ないかと話を終わらせた筈だ。

(あったな、そんな事。)

今更だろう。てっきり寝入ったと思っていた春原が、こうして起きていたなんて。

「音、立てたら落とすぞ。」

「解った。」

 自分がこれから何をしようとしているかなんて、春原には関係ないのだろう。微塵も興味はない筈だ。この男はなぜか自分、弥代に対して異様なまでにくっついてこようとするだけで。あの晩だってそうだ。

 もう二月は経つだろう、榊扇の里を落雷が襲ったあの時。

『お前が向かうから。』

 危ないと言ったところで、付いてくるなと言っても春原は弥代に付いてきた。

そして扇堂家の屋敷に入った自分を探す為に単身で門番の二人を伸して敷居を跨いだような男だ。

弥代と雪那の仲が良いという事はそんな春原でも流石に理解できたのだろうか。

 ふらふらと正門近くまで一人で来てしまった雪那と顔を合わせ、一緒に行動するようにと申し出たのは春原の方からだったと、弥代は後になって雪那から聞かされていた。

 この状況では弥代が何をしようとしているのかなんて解る筈もないだろうが、だからこそ弥代は一言、音を立てるなと、そう吐き零した。











「そういや、お前どうして俺があそこにいるって分かったんだよ。」

 身を寄せ合った方が暖を取れると言われ、仕方なしに背を向けて布地に包まりながら、ふと、弥代は春原に問いかけた。

昨晩食事時に上機嫌な自分に館林が尋ねてきた内容が気になったからだ。

 冷たい土の上は中々寝付けないから、話している内に疲れて寝れればな、なんて考えた上での質問だった。

気にしないなんて方が難しいだろう。

本当は昨晩の内に問いただしたかったのだが、それまで暫くの間、整った生活を古峰にて送っていた為、久しぶりに体を動かして疲れ切って早々に寝てしまい、聞く事が出来なかったのだ。

 今こうして背中を向け合いながらもすぐ近くにいるのなら、丁度良いじゃないかと。

予期せず声を掛けられた事に、背後で大きな体が揺れたのを感じて少しだけ笑えてしまった。

「…どう、して?」

「館林さんも不思議がってたぜ。俺も気になりはしたからよ。」

 食事の支度や、野宿用の準備は知識もあり慣れている自分がすると、館林が率先的に行なってくれた上に、少し離れた場所で周辺を見張っているからと請負ってくれた。

 春原と二人きりで背を向け合うことのなんとも慣れない事か。

弥代は、あまりにも春原を知らなかった。知らなすぎた。

避けていたわけではないが、妙に馴れ馴れしく距離を詰めて接してくる事がどうしても慣れず、これまではあしらう事が多かった。

 が、この道中。勝手に自分の旅に同行すると言い出してきかない春原と、それに芋づる式で付いてくる館林の。

 どうしたって近しい距離で接しなければならないのなら、早い内にと。弥代も弥代で色々と考慮した上で話を振ったのだ。

 しかし、そんな弥代の気遣いとは裏腹に、春原の回答は理解しがたいものだった。



「弥代が、俺を呼んだんだ。」

     

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