五話
お前の顔はどこかまだあどけなさが残るものだと、よく言われたものだ。
その言葉を、忘れられることが出来なくて。幼い頃から若く見られては示しがつかないと、威厳を保とうと父を真似て、深く刻んでいた眉間の皺は今となっては早々消えることはない。
その顔にそんな皺は不釣り合いだと、よく小突かれていた額も、長くその感覚を思い出すことは出来ないままでいる。
最後に触れられたのはもう何年も前の話だ。
亡き父の形見である煙管もまた、火を灯されることのないまま芯まで冷えきってしまった。
昔ほど生活にゆとりがあるはずもなく、この時期にそのような贅沢をするきになどなれるわけもなく、ただそっと、吸口を口元に寄せる。
生前はよく屋敷の縁側に腰を下ろし、プカプカと掴みどころのない煙を吐き出しては、そうして外の景色を父は眺めていたものだ。一年の大半を、雪によって覆われたこの地を、眺めていたのだろう。
その息の重たさを、その意味を知ることは一度たりともなかったが、もしかしたらこうして模倣することで知ることは出来ないのだろうかと、懲りずに今もこうして繰り返している。
僅かな期待を寄せている自分が未だににいることに驚きはしつつも、結局、煙で肺を満たす充足感すら知らない自分では、何一つ知ることは出来ないままだろう。そう、知ることはなかった。
それでも、まだ諦められないでいる。
踏ん切りをつけることが出来ないまま、今もこうして暇を見つければ、その姿を思い浮かべては、模倣を重ねる。
深く吸い込みすぎれば、その取り込んだ空気のあまりの冷たさに肺が跳ねあがる。
けほ、と反射的に体を揺すってしまう程には体は脆く、どれだけ望んでも父のようにはなれないだろうと、自覚するばかりだ。
身体も、冷えるばかり。
凍えるこの最北の地において、今日も緩やかに終わりを待ち続ける。そんな日々がはたしていつまで続くというのだろう。
長い、長い時間を。
父はきっと、この地を愛し、待っていたのだ。
「だからよ、俺が一体何をしたってんだよ畜生が。」
昨晩から、弥代のぼやきはもっぱらそれに尽きる。
奥州・日光街道は雀宮近郊にて、心身ともに疲弊し意識を失ってしまった弥代だったが、近くに棲まう土地の者らに介抱された後、その存在に気付いたのであろうそこら一体の土地神として崇められる雷の申し子こと鴉天狗の神鳴の手によって古峯神社の拝殿にて匿わられたその日から早いもので十日以上が経過していた。
自身と同じように‘’色”を持ち、人に近いしい姿を持った、人ならざる存在・妖怪と過ごしたほんの短い間の日々。
榊扇の里にて小雨坊を名乗る妖怪と対峙した日からすれば、もう間もなく一月程が経つのではないだろうか。
長いようで短かった期間に、弥代自身色々と思うところがあったのだ。
どうしようもなく、やるせなさを感じた過去を思い出し始めてそれを自分以外の誰かに話したのは、それすらが初めてだった。自分自身が人間であると、そんな思いまで口にして、やや自暴自棄に過ごしていた。今まで向き合う勇気がなくて目を逸らしてきただろうそれを目の当たりにして、自分自身の口から出たそれを前にして、上手く踏み出すことが出来なくなってしまった。居心地の良い場所を選んだって、目を逸らしているだけで息が詰まる事に変わりはなかったのだから。
そんな中、扇堂雪那からの依頼を受け、自分を探しに来たというよく知る二人、春原と館林と顔を合わせ、恐らくは弥代の正体を見たであろう春原の、その、これまでと変わらない態度に、動けずにいた自分がどこか馬鹿らしく感じれてしまったのだ。
思えばそうだ。
死にたいと、あの屋敷の上で口にしていた雪那に、今は友達になってくれなんて言っていた時点で、同じなのだ。今全部に向き合う必要はどこにもないのだ。誰かに急かされているわけなんてどこにもないのだから。
今はそんな余計なことを考えるよりも、優先すべき問題がある。
いや、問題というよりは目的の方が近いだろう。
元々そうだ。里を一人で出たのだって、自分の正体を、自分が過去に何をしたのか手かがりを求めてだった筈だ。人間だと、そう言い切った。言い切ってみせて、それから。
また、考えればいい。
一気に抱えて踏み出せることなんてない。一つ一つ向き合えばそれでいいじゃないかと、そう考えた、そのツケでも回ってきたのだろうか。
そう思えば多少は、気が楽になれるという…、なれるわけがないだろう。
(なれねぇな!なれるわけねぇよな!!)
頭を抱え目の前に広がる光景に、心を殺そうと何度もしたが成功できた試しはない。
始めてのことだから失敗してしまったのだ。何度か繰り返せばきっと成功できるかもしれない。いや出来うることならもう向き合いたくもない。
たとえ心を殺せたとしても、それはあまりにも耐え難い事だった。
もし耐え凌ぐ事が出来るというのならば、それで済むのならば信じてもいない、信仰心の欠片をかき集めでもして神に祈りを捧げようか。
思うかぶ神といえば、榊扇の里を守護するかの水神、神仏・水虎。あるいは先日まで正に世話になっていたであろう下野国の古峯神社に棲まう雷の申し子だろうか。神無月の件に関して余裕があれば話を聴きたいと思っていたのだが、案の定余裕がなく一度も話すことが出来なかった。神として脳裏を過った二人は、少なくとも弥代からすれば曲者だ。もしどうしても下げなければならないというのなら、思い当たるのはやはり神鳴の妹にあたる、あの料理上手な白い少女・鶫だろうか。
見た目よりも随分と落ち着きを払った大人びた彼女は、兄であり土地神として崇められる神鳴に対してよく手を挙げていたのが新鮮だった。力関係は見た目の割に、彼女の方が上だったのだろうか。
拝殿にて世話になっている間、もっと色々と飯について学べる時間があれば、たとえばこんな些細な(今の弥代からすれば些細なものか)事で地獄を、そう地獄を目の当たりにしなくて済んだかもしれない。
本当にどうしてこうなったのだろうか。
後悔は募るばかりだ。
薄っぺらい、後悔の積み重ねだ。
「なんで、…なんでだよ…」
「熱いうちに召し上がってくだせぇ弥代さん。こういうのは、腹に収めちまえばみんな同じでせぇ…」
「なんで…っ!どうして…っ!!」
湯気の立ったお椀を見るのはこれが始めてではない。
古峯神社を後にして三日程。
毎度食事の時に使われる器だ。
そのどれもは、館林が背負う大きな葛籠の中に収められている。
長旅の道中だ。宿に辿り着けず野宿をするなんて珍しいことではないだろうからと、里を出るときは宛の分からない旅路になるだろうと、雪那の用意した資金を元手にあらかたの道具は揃えられたらしく、お椀だけならまだ分かるが、ご丁寧に箸も三人分用意されていた。
榊扇の里といえば、大山から流れ込む冷気が強いことで知られている。
盆地とまでいかないが、大山の麓から海辺まで続く平坦な土地柄を含め、冬の時期は店を構える者が極端に少ないのだと、雪那の従者である氷室に懇切丁寧に教えられた事も思い出す。
ただ本土の江戸から京の都まで足を運ぶのには、里の南側に位置する五街道の一つ、東海道を通過するのに里に出入りする商人が多く、旅の補給をする為の道具屋に、旅籠屋等の看板は冬場であっても掲げられているらしい。
自分が長屋生活で使っていた、雪那が用意したものと同じぐらい頑丈そうな造りをしたそれらは中々の値打ち品ではないだろうか。いや、いくらそんな余計なことを考えても意味がないのはわかっている。分かっているんだ。現実逃避をこれ以上重ねるのはよくない。止めるんだ。
弥代は頭を小さく振るいながら恐る恐る、閉じていた目を開き、それをみつめた。
小さな焚き火を跨いだその先で、館林が無言で差し出してくる椀を受け取るも、これ見よがしにその中身を睨みつける。
そして遂に耐えきれなくなり、堪えていたものが限界となって弥代は叫んだ。
「どうして蛇なんて食わなくちゃいけねぇんだよ!!??」
「冬場ですし、精のつくもん食べなくちゃいけやせんよ。教えるまでは普通に美味い美味いって食ってたじゃないですかい?知ったら食べなくなるなんて、そいつは失礼ってもんですぜ?」
「そうだよ知らなかったら食ってたよ!知らなきゃよかったな!聞いたのは俺だよ!聞かなきゃ知らないまま食ってただろうな畜生!まじで聞かなきゃよかった!いや、本当に!」
一見、その見た目からはそれが蛇肉だなんて誰がみても分からないだろう。
表面の鱗が綺麗に剥がされ処理の行われたそれが生前は蛇だったなんて、誰も気付かないぐらいには普通の肉にしか見えなかった。
そもそも蛇肉なんてこれまで食べた事がなかったから食べられることすら知らなかった。知るわけがない。だから、当然気付けるわけがなかったのだが。
館林の背負うその大きな葛籠には、春原が本来は背負わなければいけない分も含めて収められているのだろう。葛籠の中には野宿で飯の準備をするのに当然、簡易的な調理道具一式も用意されていた。
小さな鍋に河原で掬った水を注いでは、持ち運びやすい大きさの味噌壺から一匙放り入れる。
煮立ち始める味噌の薫りが鼻腔を擽り始めれば、随分と小分けに乾燥させられたそれを落として煮込むのだ。
ボトボトと、鍋に吸い込まれるその乾燥された肉もいい出汁が出ているのだろうか。空腹を刺激する薫りに辺りが包まれる。贅沢とまではいかないが味噌煮込みの完成だ。
まあそのなんとも美味しいこと。
古峯神社を出てから三日。
この時期はそもそもが商売をする商人が少ないものだから、奥州街道を進み宿場町の旅籠屋を利用しようにも、そもそも宿自体が閉まっている事が多く、どうにか泊めさせてくれと頼み込んでも、たかだか一組の為に店を開けられるだけの余裕があるわけがないと門前払いをくらってしまったりが続いていた。
そうなれば必然的にありつける食事は、館林が用意するその味噌煮込みぐらいで。
人間の非情さを目の当たりにして、冷え切った心がそんな温かい飯を前に揺らがないわけがない。
一日目の夕餉はもう当然のようにおかわりをしながら美味い美味いと喜んだ者だが、そう問題は昨日、二日目の事だ。
昨日と同じあの美味い肉が食えるのかと、そわそわしながら。もしこの旅が終わった暁には改めて一人で食べてみたいな、なんて思えるぐらいには魅力的だった。
軽率に、それこそ他愛もない世間話の要領で弥代がそれ何の肉?と館林に訊ねれば、知らない方が良いこともありやすよ、なんてはぐらかされてしまった。
人間どうしてこうも哀れなのか。はぐらかされてしまうと、一層気になってしまう。
気になるというその欲求に抗うことが出来ず、駄々をこねるようにして館林にまた訊ねた。
『本当に、知らないほうが良い事もありやすって…。』
何を思ってそう言ったのだろうか。
でもやっぱり気になってしまう。食い下がれるわけがない。だから三度目の正直。
そうして返ってきた答えに、勿体無いという考えが浮かぶ前に弥代は反射的に戻してしまった。
その肉の正体を知るまでは本当に美味しいと感じていたのに、どうして…。
干物にした際の処理が良かったのだろうか。臭みもそこまで気にならない。
元々淡白なのだろうか、味噌の旨味が染みていてとても、とても美味しかった。
心の底から後悔した。
それ以外にまともに食べれるものがないのだ。
精がつくというのは嘘ではないのだろうが、その正体を知った翌日、三日目の今弥代はそれを食べることが、受け入れることが出来なくなってしまった。
また、どうして、と声が漏れてしまう。
いや何も蛇が嫌いとかそういうわけではないのだ。
(嫌いなわけじゃねぇんだけどよ…)
思わずおもいだしてしまうのは、あの白い体だ。
長屋の自分の部屋で目にした、それまで人間だと思っていた相手の輪郭が揺らぐそのさまが。
(あんなもん見ちまってよ、それで普通に食えるわけねぇじゃん。)
夢の中でとぐろを巻くように訴えかけてきたそれは思い過ごしだったかもしれない。
以前より掴み所のない女だと感じることはあったが、まさか人間ではない、蛇の妖だったなんて誰が想像しただろうか。
彼女と同じ屋根の下でこれまで共同生活を送ってきたであろう春原討伐屋の、たとえば眼前の彼等は彼女の正体を知っているのだろうか。
今も冷めきっていない証に湯気を立てるそれから微かに視線を逸らす。
春原に関しては先日の、角の生えた自分の姿を目にしただろうに重要視していないその様子や態度から、たとえ知っていたとしてもとやかく口にすることはないのだろう。
普段から口数自体少ない男なのだからそもそもが言わなそうではある。
そうなると館林はどうだろうか。
正直、館林という男を弥代はあまり知らない。
女のように振る舞うことのない自分に対して、何かと弥代の嬢ちゃんと呼んでくるのは弥代の知る限りでも彼ぐらいだ。
討伐屋の中では春原の保護者のように手を焼いている相良と較べれば、館林はあまり世話を焼いているといった印象はなく、どちらかといえば春原のその行動を補佐しているような、相良とは違うように見てとれた。
館林本人はその恵まれた体躯で普段は里の中心ではなく、西区画の農村地帯の手伝いに駆り出され事が多いからあまり面識がないというのが正解やもしれないが。
そこまで考えればこの二人は、彼女・伽々里の正体を知っていたとしても、無闇矢鱈に明かすことはしないのだろう。
(いやいやいやいや元は妖怪討伐屋だよな春原討伐屋!?その妖の類が身内ってなんだよ?よく分かんねぇやつらだな本当によぉ…)
そんな事を考えている弥代もまた、春原討伐屋に籍を置く立場であった。
「因みに下処理をしてくださったのは伽々里さんでせぇ…!」
「まじで訳わかんねぇ!!」
渋々。だってこれ以外に他に食べられるものがないのだから(きっと食べずとも過ごすことは弥代は出来るのだろうが、もうあんな想いをするのは嫌だと。)仕方なく、やむをえず箸で摘んで口元に運んでいく。
見た目だって食欲を唆るのに、口内に誘い入れることができないのは、やはり浮かぶあの光景の「食わず嫌いは、よくない。」
「一昨日は普通に食ってたの見ておいて、食わず嫌いとか言えるお前の頭を疑うぞ俺は!!」
春原のまるで理解していないだろう発言に背中を押されるように、弥代は一気にそれを食した。
今日も春原は何も変わらない。
相変わらず人の話に耳を傾けないし、擦りもしない箇所を通過しては口を挟んでくる。
違うと分かっているのならば初めから無理に口を開かなければいいものを。
三人ばかしの少ない旅なのだから、寧ろ喋らない方がどうなのかとそう思えてしまうのは仕方がないが。元々の気質を否定する気にはなれない。
言葉の少ない彼の言動は、まだどうにも付き合いづらいのが正直なところだ。
それと比べれば館林のなんと接しやすいことか。
冬の一人旅などさせられないと、その為に春原に同行する事になったのだと館林が話してくれたのを思い出すたびに頭を抱えずにはいられない。
間違っても春原と二人きりで旅をするなど、
「想像しただけで頭が痛ぇよ…」
「体力のあるうちに寝てしまいやしょうや。」
そうしてまた、日は進む。
弥代が榊扇の里を出てから本当に早いもので一月以上は経過しただろうか。
暦の上では霜月を跨いだばかりであったろうが一気に駆け抜けてしまい、師さえも年の瀬には忙しなく走りまわるとされる、師走に片足を突っ込み始めていた。
古峯神社が建つその地を離れてから十日。
この頃にもなれば一々食事時に抵抗を示すことも、声を荒げることも弥代はなくなっていた。
まだ師走上旬だというのに、北に進めば進むほど雪の積もる箇所が増えていく。
山の天候だけなら秋の頃には、かの富士山は雪化粧が施されたように早く準備をはじめるのだから、何も早すぎるということは無いのだろうが。
この島国においての北が寒いというのは当然の事。
自分たちが歩んできた南に見える山々も、秋の頃に見た紅葉に染まっていたそれらがまるで嘘のように、前方に広がる景色同様に白く、塗り替えられ始めていた。
灰色の分厚い雲が多く見えれば、北に臨む山々の輪郭さえもどこか同化して見えてしまったような錯覚を覚える。
雪那と出会うまでの三、四年の間は一人で宛もなく彷徨う旅をしてきたが、このような光景を前に感嘆を漏らして刺激を受けるのだから、地域には無頓着でいたがそこまで北の地で過ごすことはなかったのだろう。
老夫婦を失ってしばらくの間は、土地さえも知らずに過ごしていたものだから、相模国の地を踏みしめたそれもここら一年以内のことだ。
国を跨いでも、相模国の榊扇の里を収める扇堂家なんてものは知名度も高かったから知っていても何も不思議ではなかった。
これまで本当に一々景色を前にしてこんな事をかんがえられるだけの余裕はなかったのだろう。
恐らくこうして感じられるのも、今の自分には若干の心の余裕があるからで。
一面の銀景色などという言葉にはまだまだ及ばないだろうが、滅多に晴れることのない雲間から差し込む陽の光を受ける雪は、反射するだけでもとても綺麗だった。
余裕があると、そう思い込んでいるのは自分だけなのかもしれない。
たったそれだけに、心まで奪われてしまえば素敵だろうに。
「誰だよ日本橋から津軽までなら二十日と掛からず着けるって吐かした奴!?」
「それは歩き慣れた商人の脚ならという意味やと思いやす。」
「白河も通過した。それなら、あと少しの辛抱じゃないのか?」
「道が平坦じゃねぇんだよ!!」
初めての旅の道中が上手くいくわけがない。
奥州街道は白河を無事に通過したものの、立ち並ぶ山々を越えるのは難しく。道中の宿場町に住まう地元の者に、念のため道を訊ねたが道はあれども近年津軽まで足を運ぶものは少ないのだと話ていた。
江戸幕府健在の頃は、遠い地の大名らを江戸に呼び立てるなどという面倒な制度があったそうで、それに赴くにあたり使われていた事が多いそうだが、幕府無き今、この島国・日本においてわざわざ北の地から南へ降ってくる者は多くはないのだそうだ。
この国には今もそこらかしこに幕府の名残は残っているが、全てが今も機能しているかといえばそんなことはない。
ましてやこの季節。もし行き来しようにも、こんな足元の悪くなる、最悪命を落としかねない自然の猛威が牙を剥く極寒の冬に挑もうなとどいうのは、相当の阿呆のすることだとまで言われれしまった。
ここで元手の資金がもっと残っていたのなら、せめて雪が落ち着く時節までなりを潜め、春先まで待たずとも雪解けの頃に先へと進むという事も可能であったろうが、あったろうがと考えてしまう時点でそれは難しいことだ。そんな悠長な事を、そんな余裕が、あるわけがなかった。
ここから先を進むのが幾ら無謀とはいえ、金もない自分たちを匿ってくれる余程のお人好しが、まるで仏のような存在が現れてくれるわけもなく。里へ一度戻ろうにも距離にして凡そ中間地点は随分と前に通過してしまった。今から戻るなんてできるわけがなかった。
だから、弥代たちは進むしかなかった。
道中少々現実逃避を兼ねて、初めて目にするその景色に、わぁ綺麗だとか言っても、まぁ、仕方のないことなのだ。
「いやにしても寒すぎるわ馬鹿野郎!!」
「冬、ですからねぇ…」
「……」
「おい春原!お前まさか寝てんじゃねぇだろうな!?寝るな!この寒さで寝るのはやべーぞ!ねっ起きろ!?起きろ春原!!春原ーー!!」
何も仕方なくはないだろう。
昨晩は冬の見回りを含めた取り決めが行われた。
例年通りであるならば、わざわざ会合を開くまでもない。そんな必要はどこにもないだろうが、収集が掛けられるということはそれ相応の問題があったからだ。
足元の悪い中、屋敷から足を運んで来た当主は、近年侵攻を落ち着かせている津軽の者達が近々何かをしでかすのではないかと危惧されていた。
数年前に彼等を先導する族長、大主が亡くなっていこうはその動向も落ち着き、心配されることはなかったというのに、当主代行である御法川茅乃は秋口に耳にした彼等の目撃情報を気にされていた。
先の秋口、陸中国にて人ならざる津軽に住まう者たちの姿が確認されたそうだ。
長年津軽の地をから出てくることのなかった、彼等がこの地・南部を越え、その先の土を踏みしめていたのだ。蔦細工で作った籠で生計を立てているこの地の商人は、その姿を目にして血相を変えて帰ってきた。
商人自体かなり歳を重ねていたが、それはまだ幼き日に目にしたという、津軽の地に住まう妖怪と全く同じ姿をしていたという。五十年経とうとその代わり映えしない風貌に言い知れぬ恐怖を覚えたと、我を取り乱していたのは記憶に新しい。
時を同じくして、さらに南に位置するかの雷神が一時期とはいえ、その土地を離れたという噂も耳に入っていた。人の噂などというものは、物よりも辿りつくのが早いのだ。
それを踏まえて、何かが起きるのではないかと危険視してしまうことは何もおかしくはないだろう。
冬の見回りなど、例年であればこの寒さの中の生存確認を兼ねたものだ。
いつ何が起きても対処が出来るように、警戒をする必要は大いにあるだろう。
会合に出席していた年長者らが当主代行の切り出しに賛同の声をあげる中、一人南部と津軽の境界に近い場所に屋敷を構える青年・瓢が口を開いた。
「茅乃様、どうか落ち着いていただきたい。いざという場合には、この瓢。屋敷総出でこの地の為
防波堤となりましょうとも。」
その言葉に、彼女・茅乃は一瞬どこか傷ついたような表情を浮かべたが、すぐに安堵の表情を浮かべた。
彼女が瓢の発したその言葉の真意など知るわけがないだろうに。一瞬だったが正面から捉えてしまったその表情が忘れられない。
会合が幕を下ろす頃には夜も遅く、既に雪の降り積もった道を離れた屋敷まで戻るのは危ないからと、彼女の厚意に甘え、手配してもらった宿で夜を明かすことになった。
とうに寝入っていてもおかしくないぐらいには夜も更けていたというのに、昔馴染みのある亭主は快く部屋を用意してくれた。
(いや、そうでもないな。)
ほんの一瞬。一晩のうちに二度も似たような表情を目にするとは流石の瓢も思っていなかった。瞬きの間に埋もれてしまいそうなほどの刹那を、瓢はしっかりと捉えていた。
昔馴染みがあるといっても、最後に直接顔を合わせたのは十年ほど昔の事だ。
幼い頃より父に幼い顔立ちだと揶揄われることはあれど、十年も経てば幾分か人の顔というものは変わるのだろう。まるで狐に化かされたかのような、そんな気分を味合わせてしまっただろうか。それは、そうだ。先日の商人同様。たかが十年。されど十年。昔と寸分違わぬ姿を見て、驚かないわけがないのだ。
この土地を今現在治めている御法川家自体は、歴史も浅い余所者だ。
元はこの土地の者ではない、流れの一族だ。
現行当主代理を務めている御法川茅乃との面識もそこまで古くはない。宿屋の亭主よりは浅いだろう。
だから、そう。彼女が、御法川茅乃がその違和感に気づくことはない筈なのだ。その、筈なのだ。
(出来うるのなら、そのまま気付かないでいてほしい。)
そう、願ってしまう。
それは欲深いだろうか。願うばかりなら、許してほしいものだ。
日課とでも言えようか。
普段と違う点は、その場所だろう。
縁側から覗く中庭と比べればまだ幾分か活気に満ち溢れた、色褪せたその通りを見下ろして吸口に口元を寄せる。
麻地の似通った着物に身を包む、その姿はまるで皆が大所帯の家族のようにどことなく見える。
いや、家族で間違いはないのだろう。皆生まれた頃から分け隔てなく隣人のように接してくる。余所者であった御法川家が今現在こうしてこの南部に馴染めているのだから違いない。
そんなこの地において馴染めないでいるのは、屋敷で育った自分ぐらいではないだろうか。そう、思えてならない。
別にそれを寂しいと感じることはないが、自分以外の気配が少ない屋敷よりも人の気に満ちたこの街内でのそれは、どうにも、肩身を狭く感じてしまう。
(仕方が無い、事と。今更だろうに。)
いつまでこの茶番を続けるのかと問われれば、その答えもまだ見つからない。分からない。
分からないが、いつしかそれは訪れるだろう。
それが明日か、明後日か。十日後、一月先で季節を跨ぐか、あるいは一年先かもっと遠いのか、知る術があるのなら是非知りたいものだ。
でも、もし叶うのなら
(彼女が、息を引き取るその日までは…)
昨晩握ったその手を思い出す。
血が通っているとは到底思えないほど冷えきったその手の甲。
自発的に熱を発することが彼女の体は得意ではないのだと、改めて理解した。
先は、長くないのだ。
だからこそ、守りたいと思う。
思えてしまうのだから仕方がない。
でも、そうはいかないのがこの現状だ。
最後に一つ、深く息を吸う。
それも含め、もはや日課といえよう。
吸い込みなれた屋敷の空気とは違う、若干埃っぽいその空気を吸い込めば普段以上に体を揺すってしまう。
窓枠に手を付き、体を支える。
終わるのは彼女が先か、自分が先か。
自分自身の事であるというのに、瓢にはそれが分からなかった。
ドタドタと、荒々しく階段を駆け上がってくる足音に襖へと視線を送る。
無遠慮に開け放たれたそこにはよく知る顔があり、なんと返事をしたものか。平常を装うかのように手首を振るった。
「お早いお出迎えじゃないか瑠璃。ただ想像してたよりは幾分か遅かったな。」
「遅くありませんよぉ!起きたら帰ってきてると思った瓢さんがいないんだから、慌てて屋敷中探し回っちまいました!」
部屋を見渡したって特別荷物があるわけがない。
昨晩のうちに屋敷に帰るつもりでいたのだから、荷が無いのは当然だろう。だというのに部屋の四隅に入念に目配りをするさまの慌ただしいこと。
「何も出てこないぞ。」
「何かしらあるかもしれないじゃないですか!?」
あるわけがないというのに。自分の目で確認をしないと気が済まないのは、まあ彼の気質の問題だ。それ以上とやかく言うことはなく、窓枠から離れて部屋を出る支度を始める。
「あっ!?瓢さん!銭が!銭が落ちてましたよ!」
「前の利用客が落として行ったのだろう。拾うなよ。」
「分かりました! 」
階段を下れば、宿屋の夫婦が飯の支度をしていた。
自分以外に昨晩、宿を借りたものはいないのか。
卓上に並べられる食器は一組のみだ。
「どうぞ瓢様。」
差し出された椀を受け取り、瓢は朝餉をいただくことにした。
宿屋の亭主は、昔から客人がいる間は一緒に食事を摂ることはない。
黙々と食していると、物欲しそうな目を向けてくる彼の視線を感じる。
「そんな目をする暇があれば、自分から頭を下げるんだ。 」
駄目だと窘めることはない。不躾に強請るも、嫌な顔一つせず変わらない亭主のその態度にどことなく安心してしまう。てっきり、久方ぶりの顔合わせに、昨晩感じたであろう刹那の違和感について指摘されるのではないかと、身構えていたからだ。その点については付き人の青年・瑠璃の無作法な振る舞いには助けられるものがある。話題を振られる前に逸らしてしまえと、迎えにきた彼を上手く利用して横に座らせる。亭主にもう一人分を用意してもらうように頭を下げた。
時間の流れというのがとても緩やかだ。
分厚い雲に覆われ、差し込む光の細いこと。
朝か昼かなど体の感覚頼りなところが多いそんな中、金を払うと言えば宿屋の亭主はそれを受け取ってはくれなかった。
名目上は宿屋だが、もう長く外から訪れるものが少なく宿として機能していないのだという。顔を合わせること自体が十年ぶりだったこともあり、そんなことになっていようとは知らなかったのだ。
それならば瑠璃が部屋の隅で見つけたあの銭は、もう随分と前に部屋を借りた客の、迎えにくることのない忘れ物なのだろう。なるほど、部屋の埃っぽい空気の正体にも納得がいった。
ただそれはいけないと、瓢は懐から出した財布から銭を握りしめ、亭主に渡した。
「どうか、諦めることのないように。」
それは誰に向けた言葉だったのだろうか。
「良いんですか瓢さん?金だってばらまけば直ぐなくなっちまいますよ?」
軽口を叩いて半歩後ろを付いてくるだけの男に瓢は何と返せば良いのか思いつかなかった。
屋敷に早く帰ったところで、何もすることはない。
したいことなどあるわけがない。
定位置のようになった縁側に腰を下ろして、また父の姿を思い浮かべ模倣するばかり。他に、何をする気も起きない。
色褪せた、色のない味気ない日々を、いつまで過ごせば良いのか、分からない。
ふと、足を止める。
屋敷から外に出る頻度も少なくなった今、単に暇つぶしをするように、気まぐれに足を向ける。後方では迎えに来た瑠璃が早く帰りましょうと告げてくるのに、聞き耳を伏せる。
随分長い間屋敷の外に出ていなかったのではないかと、感じてしまう。
そんな代わり映えすることのない、寧ろ何一つ変わらない街なみに目をくれる。
伏せる。
伏せて、伏せた、その視線の先で瓢は見つけてしまうのだ。
あまりにも鮮やかすぎる一際目立つ、その"色"を。
「おいそこのアンタ!言葉通じっか!?」
ぶっきらぼうで失礼な、初対面の相手に投げかけるとは思えないような声に、瞬きを繰り返してしまった。
その瞬き一つも、そのあまりにも珍しい、きっと金輪際二度と拝めないのでないかと思えてしまうような、そんな“色”を忘れようとしないで済むように。
思わず後ろを振り向けば、後ろに控えていた瑠璃も驚いたような表情で、投げかけてきた声の主を見つめている。
そうだろう。驚いているのは当然自分も、瓢も一緒なのだ。
「おいおいやっぱり通じてねぇんじゃねえのか?訛り?嘘だろ?全く違ぇから何言ってるか俺わかる自信ねぇぞ?」
「相手の目を見れば、心は通じ合うものと芳賀が言っとりやした…」
「いやそれ通じるの多分黒だけだからな!!」
初めて見るその三人組の、装いからして旅人だろうか。
頭一個程大きな二人の男を引き連れた、幼子は身の丈だけなら並べば自分の方が若干大きいぐらいかと考えてる。取り払った笠の下から覗く、網膜に焼きつかんばかりの鮮やかな色は一度捉えたら目を離せない。
この土地で目にする事すら初めてではないかと思えてならないその髪色と、瞳の色は、青と赤だろうか。
その色を上手く表現することが出来ないことを悔やんでしまうぐらいには目が眩んだ。
「なぁやっぱり通じてねぇよ!何も返してこねぇもん!まじで通じてねぇってこれ!」
「おかしいですね?いやもっと、もっと、こう…強く訴えかけるようにですね?」
「…」
「きっ、聞こえている!通じている!」
上擦った、緊張を隠しきれない声が、思いの外大きく、周囲に響く。
まるで初めて与えられた玩具にはしゃぎ喜ぶ幼子のように。発してしまった声に一番驚いたのは瓢自身で。
慌てて口許を抑えると、瓢の大きなその返事にびっくりしたような表情を浮かべる、その鮮やかな"色"。
"赤"と目が合う。
目が、合ってしまった。
「それが、お前の出した答えだってのかよ瓢っ!!」
ー止めろ、そんな事を言うな。
「勝手だって思うか?でもな、俺はお前を見て、似てるなってそう感じちまったんだよ。」
ー信じない、そんなの、俺は信じない…っ!
「どっちか片方じゃない。どっちも、お前なんだ。どっちも、お前に代わりはないんだ…!」
ーそんなことはない、俺は…、俺は………っ!!!!
「今この場で答えを聞こうか、東の鬼よ。」
「均衡を崩しかねない存在は、たとえ同族であろうとも生かすわけにはいかない。」
これは、終わりを待ち望む地で生きた、哀しき鬼の物語。




