四話
「やっと、見つけた。」
その声に覚えのないわけがなく。
あの晩以降、耳にすることのなかったその声に、ほとんど反射的に。
弥代は持っていた食器を近くの卓上に乗せると、落ち着いた呼吸とは裏腹に荒々しく歩を進めた。
そして、戸口から姿を見せたその男・春原千方の胸倉に掴みかかり、勢い任せに後方へと押し倒した。
「何しに来やがったっ!」
感情の読めない、その深みのある青が揺らぐことはない。
眉一つ微動だにしない。
ただ真っ直ぐに、自分を見据えるその視線は弥代の焦燥感を煽った。
「どうかお願いします。」
深々と。
目の前で下げられる頭は、早々簡単に下げられていい身分の者ではないことを館林は知っていた。
案の定、前方に座っていた相良はその光景に驚き、伽々里が用意したばかりの湯呑を倒してしまう。
自分の行いが招いてしまった気付いたのか、この場で最も身分が高いだろう彼女・扇堂雪那が倒れた湯呑に手を伸ばそうとするのを、伽々里が静かに制した。
「火傷をされてはたまりませんので、どうかそのままでいてくださいませ雪那様。」
大抵の事では慌てずに対処が出来るのは、伽々里の美点であると、館林は考えている。
台吹きで軽く拭われる畳を尻目に、自分の失態で場の空気を乱してしまった事に謝罪を述べると、相良は口を開いた。
「してお孫様が、私共にどのようなご依頼を?」
畏まった態度など終ぞぼろが出る。元々そんな堅苦しい成りをしていてもその男の本質は気が短いというのに。
失言をせぬものかと気が休まらぬまま、しかし自分よりはまともな対応が出来る相良に任せきりになりながらも、館林はその場を見守っていた。
「弥代ちゃんを、私の友だちを探してほしいのです。」
直接このように顔を合わせることはこれまでなかった館林でも、たとえ彼女自身の振る舞いよりも歳若いような印象を感じようとも、この里において尊ばれる存在であるということは本能的に理解できた。
連日降り続ける雨の中、遣いの者に傘を差されながら春原討伐屋の門が叩かれたのはほんの少し前の事だ。
近くまでは屋敷の籠で来られたのか、扇堂家の屋敷から出られたのだろうその籠に好奇心から付いてきたろう子どもらも家の前の通りには多く見受けられた。そもそもが扇堂家の血筋の者が屋敷から出ることが珍しいのだと、小声で教えてきたのは討伐屋の中でも最年少の芳賀だ。
討伐屋の裏手の婦人らからよく可愛がられる事の多い彼は、渡り暮らし始めた時期は同じだというのにも関わらず、里の者に溶け込むのが誰よりも早かった。次に早かったのはやはり薬師である伽々里であろう。今ではこの一帯で腕のある薬師として、討伐屋にではなく薬を求めて立ち寄る者達が多いように感じる。
そもそも、春原討伐屋へ直接依頼が入り込むことなどない。
春原討伐屋自体は、正確には扇堂家七代目当主・扇堂杷勿その人の所有物といっても過言ではないからだ。
この里において、扇堂杷勿の許可なしに店を、看板を広げる事は許されていない。
外からやってくる商人らですら、一度大主の御意向に伺いを立てる必要がある。
討伐屋自体は大主から直接声を掛けられ、狭い武蔵国の拠点を榊扇の里に移したに過ぎない。
そして与えらる業務内容も屋敷からの依頼として里の巡回や見回りが大半であった。
里自体は常時、扇堂家が使役するとされる神仏・水虎の張り巡らせる結界によりその平和を保たれている。
平和なこの里において、屋敷を経由せず直接依頼を持ってくる者などというのはこれまで一人もいなかった。
そう、これまでは。
「私の自由にできるのには限界がありました。ですが、引き受けてくださるのでしたらこちらを全てお渡しします。」
扇堂雪那の後方にいた白髪の青年が、小さな包みを前に差し出した。
包みの中からは五枚の小判が姿を覗かせる。
「お祖母様には話しました。けれども、自らの意志で里を出ていく者を追う必要などどこにもないと、里を出て行った者に掛ける情は持ち合わせていないと、そう突き返されてしまいました。でも弥代ちゃんは、私にとって大切な、友だちなんです。
お祖母様がそう言われてしまえば屋敷の方は誰も手は貸してくれません。ただ、それでも氷室が、春原さん達なら動いてくれるかもしれないと、そう教えてくれたんです。」
氷室。その人物には恐らく館林は検討がついた。
先日、神無月の頃里全域を襲ったあの天災の数日後に相良を訪ねてやってきた扇堂家の屋敷に仕える男だ。
それ以前から何度か顔を覗かせることはあったが、手を貸してくれない屋敷の中、かの男がそのようにここを案内したとは。
そこでふと、館林は思い出した。
氷室という男の顔には見覚えがあった事を。
そうだ、遠目ながらも自分が付き従っている春原が日々関心を寄せて止まない少女、“弥代”が扇堂雪那と肩を並べている時に後ろに控えていた男がその氷室である事を。
今この場に同席している彼女の付き人が違う男であった為、思い出すのに時間を有してしまったが、納得がいった。
一人館林の中で事の経緯、彼女が春原討伐屋の門を叩いた理由を理解したところで、相良が重たい息を吐き出した。
「叔父上の、知人を無碍に私が出来ますでしょうか…。」
相良の一存で彼女の依頼を引き受けることは許されない上に、春原討伐屋は元々人手が足りていないのだ。
討伐屋の看板にその名が含まれることから、表立って責任者として知られている春原を始め、相良、芳賀、館林の四人と、実際に動くことが出来る人数には限られている。四月ほど前に籍を置くことになった新米は、今まさに探してくれというわれている弥代なのだから手が足りるわけがないのだ。
そこから里の外へ出て行ったという目撃情報のあるだけの弥代を、宛てもなく探すなんて途方もない事。
ここが国の最果てであったのならそれよりも先を探すだけに済んだろうか。いや、大体にしてもこの島国は広い。狭いわけがないのだ。
目ぼしい情報もない中、人手を割いて探す価値は、少なくとも館林にはないと思えてならなかった。
ただ、申すのなら。
「志朗、相手は弥代の嬢ちゃんですぜ。いなくなったとしれやしたら、坊が何をしでかすか…」
「重々承知しておりますよ二葉。ですが、しかし…」
差し出された五両の誘惑もある。が、どうしたって手が足りていない現状を、更に首を絞めてしまうのは、あまりにも
「ちょっ!?春原さん!目覚ましたばっかりなのにそんな一気に動いたら!…駄目ですってば!春原さん!!」
どたどたと、慌ただしい音が襖の向こう側から聞こえてくる。
何事かと、腰を持ち上げた館林が廊下を開けると、そこには芳賀に体を支えられた春原がいた。
「弥代を、探しに行く。」
それは到底数日間意識を失っていた男から出る言葉には思えない。
普段よりも荒々しい、気迫に満ち溢れたその眼差しのなんたるか。
自分よりも上背のない芳賀を軽く窘めると、芳賀に代わり春原の体を館林は支え、そしてそれまでの不安はどこへやら。
「お供いたしやす坊。」
廊下から春原を部屋に移動させ、相良の手も借り状況の整理を始めた。
扇堂雪那から聞き出した話では、昨日の朝方。
日が昇るよりも前に里の一番北東に位置する門より、弥代は一人で出て行ったそうだ。
朝方に起きているのなど豆腐屋ぐらいだ。そんな時間帯の情報など確証はないのではないかと問えば、出所を伝える事は出来ないが間違いはないと、白髪の青年が口を開いた。
口下手というわけではないが、イマイチ上手く説明が出来ない彼女に変わり、彼が口を開けば話は一層展開した。
「昨日の朝方からすれば雨も比較的落ち着いとります。氷室さんが直に馬走られて足跡を確認したそうなんやけど、川を北上する同じ足跡があったって。」
「川?と言いますと、相模川の事でお間違いないですよね?では、大山道にでも移動されたのですか?」
「田村通りやなくて、恐らくは林を抜けて北上をしたのでしょうと、氷室さんは仰っとりました。」
曰く、弥代自身はこの土地にはあまり詳しくはないそうだ。
半ば強制的といっても良いだろう。半年前に意識を失っていた所をこの里に運び込まれて、それ以降外に出ることは一度たりともなかったそうだ。
「今思えば、私の我儘で自由を奪っていたのかもしれません。」
そう彼女が零した所で、それを否定することは誰にも出来ない。
しかし館林の意識はそんな彼女に向くことはないまま、じっと春原を見つめていた。
春原のその、小さな変化に、目を向けていた。
それから二日後、旅支度を整えた館林と春原は荷を抱え、扇堂雪那が用意した依頼金を元手に冬支度を整えた後、榊扇の里を出た。
弥代の捜索には、これからの季節を踏まれて一人での行動は何かあってからでは遅いという判断の元、大人しく待つことは出来ないだろう春原に同行する形で館林が付きそうこととなった。
他意はないが、相良や芳賀では不安要素があったからだ。
二人分の荷を運びつつ、春原の世話をするなどあの二人には到底できないからだ。
どちらかに気を取られてしまうことは間違いないだろう。その為腕力に自身のある館林が同行することとなった。
館林自身は上野国の産まれであり、山地に囲まれた土地で生まれ育った彼にとって不足はなかった。
かつての幕府の名残か、他の土地に比べれば整地のされた都周辺で生まれ育った二人では分が悪いのは間違いない。
その日の夕暮れまでに相模川へと到着することが出来たが、野宿を提案する館林に対し、春原は先を急ぐと聞いて止まなかった。
ただまだ日が暮れるまでに余裕はあった為、陽が沈み切るまではその我儘を聞いてやろうと、手のかかる主人に付き従った。
道中の古民家や、相模川を渡る為の船漕ぎに弥代の特徴的ともいえる青い髪に覚えはないかと尋ねまわり、翌日の昼過ぎには甲州街道まで出る事が出来た。
あれだけ鮮やかな青い髪は、一度見たら早々忘れることはできないだろう。
八王子宿でも聞き込みをしていると、ふと目を放した隙に館林は春原の姿を見失ってしまった。
しかしそう経たない内に彼は自分の元へと戻ってきて、ただ一言、下野国を目指すと、そう告げた。
自分が一緒にいない間に、宿場町にいた者に弥代の事を訊ねた所、下野国への生き方を教えてくれと言われたのだと、そう説明をされた。
自分も一度その話を聞くべきなのではないかと、そう館林は春原に進言したが、それは振り払われた。
「先を、行くぞ。」
自らの意志で、率先的に前へと歩み出すその背中には、どうしたって違和感を拭えることはできなかった。
でも、それでも館林は春原に続いた。春原を、追いかけるしかなかった。
下野国の土地を踏みしめたのは、榊扇の里を出てから十日以上が経ってからだった。
ただ下野国といってもその土地はやはり広い。
またここから行方を捜索するために人に尋ねるのかと思われたが、迷いなく春原は進んだ。
まるでどこに弥代がいるのかが分かっているかのように、その足取りに迷いは見えなかった。
そうして辿り着いたそこは、下野国都賀群の鹿沼藩の地に古くに総祀したとされる古峰神社だった。
その創建は奈良時代とされる古峯神社。
古峯ヶ原街道には巨大な鳥居が姿を見えた。
鳥居は神の通り道として知られている。一つ通り抜けた所でその先にはまた一つ、また一つと鳥居がいくつも聳え立っていた。
そうして見えてくる階段を上った先には、立派な拝殿が広がっていた。
境内は広く、土地自体が高いこともあり薄ら白く霧が立ち込めている。
「弥代」
春原は、歩みを止めない。
そして、
「どうか機嫌を直されてはいかがですか?」
「餓鬼じゃねぇぞ、俺は。」
その人間を前にして弥代が取った行動はあまりにも酷かった。
戸を開けて直ぐ、開口一番に男から発せられた言葉に、男は弥代を知る人物であるということはすぐさま分かった。
どこか涙ぐましい感動的な再会なのかと、ときめいたのも一瞬。
持っていた皿を置くと、胸倉に掴みかかり外へと押し倒してしまったのだ。
悲痛な、叫びだった。
『何しに来やがったっ!』
馬乗りになるように圧し掛かり、その額を擦り合わせて声を荒げるさまは十分に。
(子どもですよ。どこからどう見ても子どもです。)
そっぽを向いて不貞腐れる様子を隠しもしない姿を前に、どれだけ頑張っても出てくるのは呆れた溜息だ。
こんな事をするものが、兄と同等存在以上の、本来ならばこの東の土地を治める神の座に就けうる資格を持つ者など、嘆かわしいにも程がある。その生い立ちやこれまでの経緯には確かに同情の余地はあったろうが、自分を探す為に遥々相模国より下野国へと訪れた知人を蔑ろにするのは目を瞑ることは鶫には出来なかった。
「弥代様、意地を張るのはお止め下さい。兄様でも半刻もあれば機嫌を直されますよ?」
「鶫、そこで己の名を出すのはおかしい。」
「何もおかしくありません!兄様だって下々の方が愚痴を漏らすのに機嫌を損ねるのは常でしょう!」
「当たり前だ。己はこんなにも尽くしている。それを理解されないのは哀しい。だがそれは、他の地の者を前に口にするのは困る。」
「…大変失礼いたしました。」
こほん、と小さく咳ばらいを一つ。
鶫は部屋の隅で背を向けむくれっつらを晒す弥代から視線を逸らし、神鳴の前に正座している二人の人間に向きなおる。
「改めまして。遠路遥々ようこそお越しくださりました。私は鶫、と申します。先日は榊扇の里には私めのせいで多大なる損害を招いてしまい申し訳ございませんでした。出来得るのでしたら、その土地に祀られているという水虎様にお伝えいただけると大変助かります。」
と、いくら鶫が聞こえのいい言葉を並べても眼前の二人は言葉が通じていないのかとしか思えてならない微妙な反応を示す。
「…伝えて、おきましょう?」
「…水虎、様…?」
察するに、この二人は神仏・水虎には面識はないのだろう。
だとしてももっと会話を上手く進める事はできないものかと思えてしまう。
兄・神鳴の言葉を借りるのなら得意不得意がある、仕方のないことなのだろうが。
「そいつら二人に何言ってもまともに理解できるわけねぇよ。頭回らねぇ二人なんだから。」
鶫よりも早く痺れを切らしたのか、背を向けたまま部屋の隅で弥代がそう吐き捨てた。
「どうやってこの場所嗅ぎつけたか知りゃしんねぇけどよ、なんでこんな所まで着ちまうんだよお前らは。」
どこか残念そうに、そう呟く。最期は身近にいたから何とか聞き取れる程の小さな声量で、鶫は何となく気付いてしまった。
「扇堂から預かったものがある。」
鶫の用意した部屋で一晩世話になることになった二人は、神鳴が鎮座する部屋から出ていく際抱えていた葛籠を弥代に中を確認するようにと告げ、その場を後にした。
「東の鬼よ、いつまでそうそうしている。」
「人と違う存在と、人の営みに紛れられぬと、悩んでいたのではないのか?胸を張れ。お前は、独りではないだろう。」
何を、と思えてならない。
知りもしない、言えば赤の他人だ。
知り合って、食事を共にした回数だって少ない。
でも、それでも居心地の良さを感じていたのは確かだ。
自分は、自分は人間ではなかったから。あの暮らしが続くことはないと、そう気付いてしまったから。
それならこうして、同じ妖怪同士肩を寄せ合ったって良いじゃないかと、このままここにいたって良いじゃないかと、そう思えてしまった。
思ってしまったのだ。
そんなこと、意味はないだろう。
ただの逃げだ。
たった数日で、このぬるま湯に浸かったような日々が恋しくなってしまった。
八つ当たりだ。
この生活を壊されてしまうのではないかと、そんな焦燥感から掴みかかった。
自分一人の足だって十日以上かかった旅路を、わざわざ同じように歩んで来てくれた相手に向かって、怒声を叩きつけた。
「何やってんだ、俺…」
膝を抱えたまま横に倒れる。
自己嫌悪、だ。
気持ちが追いつかない。心の整理が上手く出来ない。
今も、今もまだ迷いがある。
何も連れ戻しにきたわけではないだろう二人にあんな態度を取ってしまってた事も、鶫や神鳴が掛けてくる言葉に返事を返さなかった事も。
どうしろというのだと、頭を抱える。
元を辿れば、そうだ。
知らずに死ぬことだけは怖かった。
自分の過去を知りたかった。
自分が犯した罪があるというのなら、それに向き合いたかった。
自分で殺めてしまった命を、理由付けが欲しかったから。
でも、でも
「傍にいてほしかった、」
老夫婦と過ごしていた時もそうだ。
これからもこんな穏やかな、贅沢な思いをしなくたって過ごせるありふれた時間が何よりも愛おしかった。
そんな時間を、求めていたと気付いたのは、この社で世話になるようになってからだろう。
でも、
「利用してるだけだろ、」
知っている。
都合よく、手を差し伸べてくれた二人に甘えているだけだ。
分かっている、分かっている、分かっているんだ。
「違うよ、」
違わない。
「だって、俺は……鬼なんかじゃない。」
何も違わない。
鬼だ。己は、鬼だ。人とは違う。
人と同じ寿命では生きられない。同じ時間は、生きられない。
「俺は、」
自分は、
「俺は…、」
弥代は、
「俺は、人間だ!!」
誰も、答えやしない。
誰も、答えてくれやしない。
当たり前だ。今この場には自分一人しかいないのだから。
何をもって、人間と自分を言うのだろうか。
口にして、その発言に違和感を感じてしまう。
人間なものか。自嘲が織り交ざる。人間なら、飛ばされた瓦礫の中で意識を失う。頑丈だからと出血を止める間もなく戦ったりしない。多少の怪我なら放っておけばすぐに治るなどと、口にしない。人間には、
「角なんて、生えるわけがねぇんだよ。」
覚えている。
あの感触は今でも覚えている。
冷たく芯があった、固い感触。小さな渦を巻いたような角が。
春原討伐屋で目を覚ました時には、それはもうなかった。
まるで頭皮を食い破って生えたかのようなそれは、どこにもなかった。傷口さえも塞がっていたのだ。
「俺は、」
「弥代」
手元に伸びてきた影に目を向ける。
部屋の襖越しに大きな影を、弥代は目にした。
その姿形には覚えがある。
あるだろう。そう易々と忘れることが出来ない男の、春原千方だ。
「どうして」
「中に、入れてはくれないか。」
誰かの答えを、求めていた。
そこにいたのはまごうことなく春原千方だった。
あの晩。あの雨が降りしきる晩、自分を探しに来たその時から一度も顔を見ていなかった。
春原討伐屋で目を覚ましたその時は、夢か現か意識を失ったままだと、そう耳にしたのを思い出す。
自分が知らぬ間に、彼に何かあったのではないかと、そう思ったのだ。
あれだけ酷い言葉を投げかけたというのに、実は身を案じていたなんて、虫が良すぎる。
言った所で信用なんてしてもらえない。いや、自分の言葉なら春原は何も疑うことなく、素直に受け止めるかもしれない。
それでも、口をついて出たのは
「何しに、来たんだ。」
虚勢だ。保つのに必死な、薄っぺらい壁を作る。
「お前に、会いに来たんだ。」
嘘はつかないと、そう言われたのはいつだったか。
「聞いてないのかよ。」
「何をだ」
「見たんじゃねぇのかよ。」
「何のことだ。」
「お前はっ!」
あの晩、あの場へ自分を探しに来たという事は、春原は見た筈なのだ。
弥代の頭部から生えたあの二本の角を。到底人間に生えるわけのない角を、目にした筈なんだ。
「……」
「…何とか言えよ!」
また、手を伸ばしてしまう。
その胸倉を掴んでしまう。
違う。そんな事が言いたいんじゃないんだ。
本当は、本当は…
「それは、重要な事か?」
春原は、不思議そうに首を傾げた。
「重要、だろ…、なかったことになんて、出来るわけないだろ…?」
「重要、なのか。そうか、覚えておこう。」
弥代は、思い出した。
そうだ、春原千方という男にこの手の真剣な話が通じた試しは一度もない。
いつだってそうだ。言葉の裏を読む事がこの男はできない。
真っ直ぐに、どこまでも純粋に、言われた言葉をそのまま受け止めることしか出来ない。
この男は、春原千方はそういう男なのだ。
「お前に、聞いた俺が馬鹿だった。」
手を緩める。
皺の寄った合わせ目に目もくれる事無く、春原は変わらず静かに弥代を見ている。
「葛籠は、開けてくれたか。」
埒が明かない会話を無理やり終わらせるように、弥代は入ってきて間もない春原を、部屋から追い出し、襖を閉め切った。
放っておいてほしい。構わないでほしい。もうこれ以上、
「関わってくんじゃねぇよ…。」
暫くして、縁側の奥へと足音が消えていく。
漸くいなくなったのかと、無駄な時間を過ごしてしまったと腰を下ろす。
そうして目に付いたのは、先刻も中を見るようにと言われた、館林が抱えて持ってきた葛籠があった。
蓋を持ち上げれば、そこには真新しい服が小さく折りたたまれて入れられていた。
広げるまでもなく、上等なのが分かる。手に取ればそれは生地が厚く、そういえば雪那と里の冬はとても冷えるから冬服をこさえようと、ついこの間話していた事を思い出した。
自分はそこまで派手な色を好むことはないから、髪の色合いに合わせた落ち着いた柳色の装いを希望することが多く。そもそも服まで一々用意されるのは嫌だと初めは断ったのだが、いつからか自然と彼女が用意するものに袖を通すようになっていた。
冬服は希望通り、落ち着いた色合いのものが多かったが、そんな中に一際目を引く色が混ざっていた。
赤い、襟巻だ。
弥代は、赤をあまり好まない。
“色持ち”自体を好んでいないのだから、好きなわけがないのだ。
それでも髪結紐だけは、あの紐だけは変わらずずっと身に着けている。
『でも、私は弥代ちゃんに赤は、とても似合うと思います。』
押しつけがましい発言に反論は勿論述べた。
けど、
『これは、私の我儘なんですけど。』
『あの日、私を助けてくれた貴女のその赤い瞳が、とても私の記憶には焼き付いているのです。』
『似合わないなんてことありません。もっと、色んな色に、触れてください。』
わけがわからない。
わけがわからないのに、どうしてか、そんな彼女の言葉を思い出して、弥代はほんの少しだけ、泣いた。
「どこへ、行かれるのですか?」
思い返すと、鶫はよく弥代に声を掛けていた。
口下手な神鳴に変わって、気に掛けてくれたのだろうか。
古峯神社はその土地自体の標高が高い事もあり、朝方には濃霧が立ち込めている。
霧の中に自然と溶け込んでしまいそうな、真っ白な彼女はまるで霧そのものだ。
「とりあえず、当初の目的でも果たせないかなって思ってさ。」
「よく、お似合いですね。」
「ハハッ、こんな目立つ色、俺の趣味じゃねぇんだけどな。」
言われて触れるそれは、昨晩葛籠の中から取り出した真っ赤な襟巻だ。
「当初の、というのは北を目指されるおつもりで?」
「うん、そのつもり。」
上手く笑う事はできないだろう。それでも取り繕うぐらいの笑みは、浮かべられているはずだ。
「終わってから、それからゆっくり考えるよ。何も終わってないのに、知れてないのに考えるのはもう止めだ。」
背後の腰紐に差した刀に触れる。
「大変ですね、色々と思いださなくてはならないというのは。」
「だろうな。だから偶には今回みたいに折れちまう事もあるかもしんねぇ。けど、」
『それなら、止めてしまえ。』
春原を部屋から追い出す直前、彼が言い残した言葉を思い出した。
まるで、そう。
ずっと被り続けていた布を、邪魔なのに取り払う事が出来なかったそれを、剥がされたように。
その一言で。たった一言で、弥代は深く考えるのを止めた。
そうだ。元々深く考えたって仕方がないと、そこまでは考えていたのだ。
ただ、自分がそこで選んだのは目を背けることと同義で、このままここで過ごしたいなんてほんの少し夢を見てしまっただけで。
「うだうだ考えるのは、俺の性に合わねぇんだろうよ!」
あの時だってそうだ。雪那に手を差し伸べたあの時も、今向き合うべき最善を尽くした筈だ。
それは、間違いない。これは、間違いないのだ。
だから
「どうしようもねぇだろ、俺。でも、向き合ってから、それから決めるよ。」
「そんでもし縁があればさ、その時はまたここに戻ってきたりしてもいいかな。」
「是非、兄様とご一緒にお待ちしております。」
階段を、駆け下りる。
ここに運ばれてくる際は意識を失っていた為、どのような造りになっているのか、鳥居の先へ進むのはこれが初めてだった。
またいつか訪れるかもしれない土地を忘れるものかと、記憶に植え付ける。
植え付けて、そうして参道を進む。
一つ二つと、複数の鳥居を潜り抜けたその先に人影を見つけた。
「随分とお早いですね弥代の嬢ちゃん。てっきり来られるのはもっと先かと思ってやした。」
「おい、それって俺が寝坊助ってバカにしてねぇか?つーか届けもん届けたなら帰れよなお前ら。」
「弥代が行くなら、俺は付いていくだけだ。」
「坊もこう言ってやすし、自分もお付き合いいたしやすよ。」
「頭の回らねぇ野郎二人の世話をする俺の身にもなれよ!やってらんねぇぜ畜生が!」
これでも日が昇り切る朝方だというのにいつから起きていたのだろうか。
もしかしたら一睡もしていないのではないかと考えるも、春原の目元の隈は今日も変わらず健全だ。
こんな唐変木のような男を二人気にして、北の地を目指すなんて、考えただけで。
「飽きさせねぇな本当よ。」
「飽きることがあるのか…?」
「飽きる暇も与えてくれねぇって意味だよ。ちったくみ取って欲しいもんだぜ春原よ。」
今はただ、前に進もう。
それがどれだけ、無理やりだとしても。
進まなくちゃ、何も、変わらないのだ。




