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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
三節・津軽、北の大主編
25/186

三話

変な奴だなと、そんな印象を抱いたのは覚えている。

寝ぐせの強い前髪が特徴的な青年を前に、弥代が思い出すのは二か月程前の事だ。

扇堂家の屋敷で治療を受ける春原に付きっきりだった二人の内の一人だったか。

一緒にいたもう片方の方はどこか堅物のような男だったが、どちらかと言えばこの男は軽そうな男だ。

名前も殆ど覚えていない彼はなんといったか。思い出そうにも自己紹介のようなものを受けたかも定かで。

悪気があるわけではないが、訝しかげな目で見てしまうのは許してほしいものだ。

弥代が考えあぐねていると、彼は快闊な笑顔を浮かべて距離を詰めてくる。

『こんちは!』

『おっ、おぅ?ちは?』

屈託のない笑顔を前に、思わずたじろいでしまうのは仕方なかった。

この里で一人長屋暮らしをするようになってから、全く縁のない相手と接する機会は少なくはなかったが、大体が自分の方が名乗り出ることが多く、相手に先に口を開かせるよりも先手に出てしまうのが殆どだった。

どういうわけかこの里に住まう老人らからはあまりいい目で見られていないというのは、一月も経つ頃には薄々勘づいていたが気付かないふりをするのは苦手ではなかった為、そんな事露知らずと粗暴な振る舞いをすることで、そういった目線を向けられることも致し方ないとでも言いたげに繕ってみせた。

名前を思い出せないでいる内にまさか相手から声を掛けられるなんて思ってもみなかったのだ。

ましては、“色”を持たぬ相手に笑顔で、だ。


『弥代さんっすよね!春原さんがそう呼んでるんで知ってます!俺芳賀って言います!よろしくっす!』

髪も目もどこからどうみても黒。この国においては少数の“色持ち”とは異なる存在が自分に対してそんな態度を取ってくることに違和感を感じてしまう。

榊扇の里は、その里を治める扇堂家自体に“色持ち”である者が多いからか、代々里では数少ない希少とされる“色持ち”が迫害を受けることなく、“色”を持たぬ者達と相容れた変わらぬ生活を送ってきた。

“色持ち”に対しての理解があることは頷けよう。

が、彼は確かこの里の産まれではない筈だ。

つい、慣れ親しげなその振る舞いに何か裏があるのではないかと勘繰ってしまうが、差し出された手を無視することは出来なくて。

弥代はその手を握り返した。

握り交わしたその手の分厚いこと。

刀でも振るっているのか、指の付け根部分の皮が硬い気がする。

彼の言う春原という名前から、やはりあの時期彼のいる療養室に出入りしていた青年で間違いはないのだろう。






『実はこの下っすね、鼻筋がちょっと抉れちまってんですよ!こっちに来るまでの道中で怪我しちまいまして。うちにいる伽々里さんに塗り薬塗ってもらってるんすけど中々治んなくて…このままじゃ一生治らないんじゃないかって相良さんに揶揄われてもう酷いんすよ!館林さんは男が上がるとか言ってくるし話が通じたもんじゃないす。本当に館林さんっていつも何を考えてるか分からない、あっいや一番何考えてるのが分からないのは春原さんですかね!相良さんだけ知った顔してるのは腹立ちますけど!』

聞いてもいないのに長々と。

どこぞの自分の身の上話を並べた女とも、子どもの言い訳の様に延々と言葉を並べていた男とも違う、身の回りのただのお喋り好きの男のようだ。

目の前に出された茶を啜りながら、芳賀の話に耳を傾けはするものの右から左へと突き抜けていくだけだ。

悪意はないのだろう。人当りの良さを感じた。

自身の話題に触れたかと思えば、その口から出てくるのは周りの人間の話ばかりで、下手な身の上話や言い訳説明よりも少なからず関心を抱くことは出来るだろうが、やはり“色持ち”である自分に軽々しく接してくる事を少なからず疑い、警戒してしまう。

本心を隠すのが上手いだけじゃないかとまで考えてしまうのはよくない。よくない事だ。

それでも、弥代の中にある“色持ち”とは本来迫害の対象であるという考えが囁く。

これが自分の声掛けにより言葉を交わしたのであれば、何も気にすることはなかったのだ。

あんに彼が敬う春原自身が“色持ち”であるから慣れているとでも言うのか。

ふと、弥代は喋りっぱなしであった彼が静かになった事に気付く。

口元から湯呑を放し、そうして彼の方へ視線を向けると自然とその黒い瞳と目が合った。

『…』

『そんなに、肩張らないでください。』

投げかけられた言葉の優しい事。

弥代は、その言葉に少なからず救われた。











「だからどっかで勘違いしてたんだろうな、俺。」

“色持ち”である自分も、この里でなら暮らせるんじゃないかと、そう思ってしまった。

そもそもが間違いだったんだ。

“色持ち”だけならまだしも、妖怪である自分が、馴染めるわけはないと、分かってしまった。

『この里には多く、争いそのものを好まない私のように人に化けることが出来る妖怪が住んでおりますよ。驚きました。えぇ、驚きましたとも。武蔵国では何も守られなかったというのに、この里では私共さえも水神の加護下に含まれるのですから。』

そんな事を言っていた彼女の言葉を思い出すも、だからなんだと思えてしまう。

結局の所、自分は本来受け入れられる事のない“色持ち”という存在なのだと、自覚してしまった。

先程のあの空間で、特異な“色”同士が混ざる空間に自然立っている、その場に踏み込んでいる自分が違う存在なのだと思い知らされた。

「“色”がそんなに嫌なのですか?」

「一度だって、あって良かったなんて思ったことはないさ。」

そうだ、弥代は一度だってその“色”を良かったと思う事はなかった。






遠くない記憶の話。

そこは少しだけ高い山の上にある集落の外れだった。

街道から大きく外れた小さな集落の外れには、一軒の荒ら屋があり、そこに弥代は名も知らぬ老夫婦と暮らしていた。

壁の隙間は穴だらけで、人が暮らすにはあまりにも粗末なものだったが、それでも最低限の生活を行うことはできた。

雨風凌ぐことが出来れば万々歳だと、飯が少ない事に気を遣わせた老夫婦に気を遣われた事があったが威勢よく返したことがあった。

食べるものに恵まれることはなかったが、仕方のないことだ。

寧ろ身寄りも行く宛もない、何も覚えてない自分をこうして置いていてくれる、それだけで十分に助かってると、弥代は常日頃その感謝を伝えていた。

暫く歩けば集落があるというのに、どういうわけか老夫婦はその中心から離れて外れの荒ら屋で暮らしているの疑問に思わないことはなかったが、それでも弥代は、その生活に満足していた。

老夫婦二人きりでは出来ることにも限度があり、体を動かすことは嫌いでなかった弥代は率先して手を貸していたし、血の繋がりはないだろうが見た感じからして先のあまり長くないだろう二人を看取ることが出来ればと、思えるぐらいには二人の事を好いていた。






「優しい人だったのですね。」

人、とそう口にする彼女を見やる。

嫌に意識してしまう。

そんな気は恐らくないのだろうが、二人の事を話しているからだろう。余計に考えてしまう。

「優しい、人達だったよ。」






穴を塞げばそれでなんとかなるだろうかなんて話していたのは、本格的な冬支度が始まるよりも前の事だった。

自分が一緒に生活を始めるようになって一年も経ちはしていないから勝手が分からなかったがそれでも分からないことはある程度教えてもらえた。

流石に家の穴を塞ぐのに素人では良くないだろうと、集落の誰かの手を借りれないかと提案した弥代に、二人は首を横に振った。

それはきっと老夫婦がこの荒ら屋に固執する理由と何か関係があるのかもしれないと思えたが、深く訊ねることはどうしてもできなかった。

そんな所で結局の所、自分はただ居候をさせてもらっているだけの赤の他人でしかなのだと自覚させられたからだ。

そう易々と触れていい話題ではないのだろう、とそれ以上は何も言わなかった。

その代わりに近くの森林から広い集めた木々を薄く整えて、空いた穴を両側から挟んで誤魔化した。

冬支度が終わるよりも早く、その頃には外はもう雪が降り始めていた。

時間がなくて塞ぎきれていない部分もあったが、暖かくなったら梯子でも作ってもっとしっかりと補強しなくちゃなと弥代が言えば、二人は静かに笑った。






老婆が倒れたのは、雪が積もり始めた頃の事だ。

元々老婆はよく乾いた咳をしていた。

一緒に暮らすようになって一年と経っていないが、それでもそんな中でも何度か倒れてしまうことはあった為、特別慌てるという事はなかった。

ただそれまでと違ったのは、寄り添う老爺が薬を出さなかった事だ。

咳止め薬と言って時折飲まれていたそれすら用意することなく、横たわる老婆の横でその手を握りしめていた。






「婆さんは病気だった。」

もう随分と長い事、肺を患っていたらしく。

流れの医者にも先は長くないと言われたのは、前の冬の終わりだったそうだ。

少ない金でどうにか薬を買う事は出来たが、それも決して多くはなかった。数には限度がある。

本当に先は長くないのだと、老い先を見据えた時老婆が夫である老爺に頼んだのが、この荒れ屋で余生を過ごす事だった。



「それは、何か意味があったのですか?」

「俺には。…俺には到底理解できない事だったさ、でも、でも二人にはきっと意味のあることだったんだ。」

老夫婦には元々子供がいたそうだ。

子どもを授かるのに時間はかかってしまったが、その分とても親孝行もので力自慢の、でも誰かに暴力を振るうことは決してしない、優しい息子がいた。

大きくなった息子が、成人を迎えて間もなく集落に住まう歳の近い女子を嫁に貰った。

集落自体はそこまで人が多いわけではなかったが、嫁に来た女子にはもう家族はおらず、貧しい生活でも四人で身を寄せ合って頑張って暮らしていたと、そう老爺が話してくれた。

弥代はただその話に耳を傾けるだけしか出来なかった。



ある日、息子夫婦の間に子どもが身籠った事を知る。

息子は両親に孫の顔を見せられると、嫁は愛した男との間に生まれる、産声を上げる子を思って涙を流したそうだ。

集落の中でも高齢な老夫婦。誰よりも産婆としての経験があった老婆により無事に取り上げられた赤子は、産まれながらに特異な“色”を宿していた。

弥代が“色持ち”という言葉を知ったのはその時だった。

確かに自分は老夫婦のような白髪交じりの髪や、淀まない黒い瞳とは違う“色”を持ち合わせていたが、それが何の意味があるかも理解していなかった。何故なら弥代は二人にその身を拾われるよりも前の記憶が何一つなかったのだから。

覚えているのは自分の名前と、肌身離さずに抱きかかえていた一振りの刀に、赤い髪結紐、それだけ。

過去を思い出す手がかりになるものは何一つなかった。知る由もなかった。

老爺の口から語られるそれはあまりにも衝撃的な内容で、一度で理解しきることは出来なかったが、弥代は狼狽えながらも静かに話の続きを求めた。






忌み嫌われる“色”を宿したその赤子を、老婆は直ぐに手に掛けようとした。

狭い集落だ。

皆、顔の知った仲だ。

自分たちにも根付いた“色持ち”は良くないという思考に亀裂が入った。

たとえ衰えていようとも赤子の首一つひねることなど造作もない。

迷いなく絞め殺してしまえば良かったのだと、譫言を繰り返していた妻の姿を忘れた日はないという老爺の言葉に、老婆の後悔を知った。

首も座らない赤子を抱え、自らが手に掛けるのではなく息子夫婦に決断を迫った老婆。

しかし息子はそんな老婆の、母親の腕に抱かれた我が子を掬い上げると、出産してから間もない嫁を抱えて家を出て行った。

とても冷える、寒い冬の晩の事であった。



集落の外れには荒れ屋があり、一時はそこで寒さを凌いだのだろう。

雪解けまで直ぐそこだった頃の事。足腰が悪い二人では探すのに手間が掛かってしまう。

事情を話した集落の若い衆に頼み込み、探してもらったその先で見つかったのは、その荒れ屋で身を寄せ合って動かなくなった赤子と、息子夫婦の姿だった。


老爺は止めることができなかった事をとても悔やんでいたが、それ以上に産まれて間もない赤子の息の根を奪おうとした事実は老婆から消えることなく。

それから何年もずっと、心を痛めて生きてきたのだ。


集落自体はその行いを悪とは思わず、赤子諸共火にくべられた。

追い縋りたい気持ちはあった。でも少し、ほんの少しでも手を伸ばす事さえ、その集落のしきたりは許してくれなかった。

古くよりこの島国において根付く、それはごくありふれた常識と言っても過言ではなかったのだ。






「だから婆さんは、最後に爺さんに頼んだんだと。」

『寂しくないように。寒くないように。傍にいてあげたいんだよ。』

いつから話を聞いていたのか。

老婆は咳き込みながらも体を起こし、弥代の質問に答えた。

雪が降っていた。

家の中には薬はない。

集落に行って薬があるわけはない。そもそも二人が持っていた薬だって少ない金を出して流れの医者から買ったものだ。けど、それでも何か、何かあればと望みを捨てられなかった。

何か救う術はあるんじゃないかと、弥代は浅はかな考えだけで家を飛び出した。

「生きてほしかった、もっと、一緒にいたかった、それだけなんだ。」

行く宛てのない自分に優しくしてくれた。

心を病んでしまっていた自分に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。

自分たちだって満足に食べれていないのに、若い子はしっかり食べなくちゃいけないなんて屁理屈を並べて無理やり食べさせられた。

家族というものがどういうものかは分からなかったが、肌寒い晩は身を寄せ合って、温もりを近くに感じて眠りについた。

些細な事だ。本当に些細な、小さな、優しい時間だった。

一年足らずの短い期間。これからもゆっくりと、あまり長くはないだろうがせめてもの限られた時間を一緒に過ごせると、そう信じていた弥代はただ、集落を目指すしかなかった。


「余所者である俺を、“色持ち”をその土地に招き入れた、匿った罰だってよ。気付いてたんだ。知ってたんだ。でも山の空気は乾燥しやすいから、雪の積もる晩以外に火なんて付けたら周りの森にも火が移っちまうからってさ。…なんとも計算高い奴らだったよ、本当に。。」

家の中には、まだ二人がいた筈だ。

道中、雪の中を裸足も同然で走っていた、なにか少しでも老婆を生き永らえさせることはできないかという思いを胸に走っていた弥代を突如、鈍い衝撃が襲ったのだ。

次に目を覚ました時、雪に埋もれた頬は冷たく、しかし異様なまでに額は熱を感じていた。

バチバチと、僅かばかりの時間だが三人で身を寄せ合っていた荒れ屋が燃えていた。

隙間の多かった家はよく空気が通る。薪に火をくべる時に息を吹き込むのと同じように、その勢いは増すばかり。落ち着く様子は見られない。

焚火とは違う。こんなにも多くの木が燃えるというのは夜中であるのを忘れてしまう程に明るく。



意識を取り戻した弥代に向かって、集落の若い衆が丁寧に教えてくれた。その高揚した様子には吐き気を覚えた。

そもそもが老婆が患っていたのは、一昔前にこの島国でも流行していたという病で、一歩間違えれば伝染してしまう恐れがあったのだと。だからこれは仕方がないことなのだと。然るべき対処なのだと。過去に、赤子一人手に掛けることのできなかった罰なのだと。

自身らを正当化するように述べられる言葉に、いくら噛みついた所で意味はなく。

尤もらしい理由を並べる。それが彼らの、この土地で古くから続いてきたしきたりであるなんて関係ない。そんなもので、そんなもので奪われていいいわけがないのだ。たったそれだけの為に、二人が死んでしまう理由になんて、なるわけがないんだ。

弥代は縛り地に伏したまま声を荒らげた。


でもそれは、老婆が産まれたばかりの赤子を殺めようとした事と何ら変わりはないのではないか。

違う、そんなわけはない。老婆は踏みとどまった。でも本当の意味で踏みとどまることは出来なかった。

悲劇と、そう片付ければ簡単な話かもしれない。簡単なわけがない。それで済むわけがない。それがこの土地の教えであると、長く生きてきた二人だからこそ、この島国において長く迫害の対象とされてきた“色持ち”に同じように石を投げてきた二人が、血を分けた子どもの、その先で紡がれた赤子を前に行いを問いただした。息子の嫁を前に決断を持ちかけたのだって、息子夫婦が奪わないでと、そう一言をもらしたのなら集落を出たって一緒に守っていくことだってできると、考えていたかもしれない。

弥代は知らない。

実際の所どうであったかなど、憶測の話でしかない。

そうであればと思っただけの妄想だ。

それを前にした弥代は

「無我夢中に突き飛ばした。抑えつけていた男を跳ねのけて、家に転がり込んださ。けど、爺さんは婆さんを庇うように被さってたんだと思う。どれだけ意識を失ってたんだろうな。なんでもっと周りの事、俺は見てなかったんだろう。二人が集落に俺が行かないようにっていつも止めてくれてた事すら理解してなかったんだ。知ってたら行かなかった。二人の事抱えてでも逃げてた、守りたかった、もっと一緒にいたかったんだけなんだ。」

弥代は、もう長いこと刀を抜いていない。

その雪の降る晩が、最期だ。



一つの集落を壊滅させるほどに迄暴れた後、一人身を抱きしめた。

怒りに身を任せて人の命を奪ったその行いそのものは、老夫婦を手に掛けた彼らと何ら変わりはない。

人の命を奪ってまで生きている価値が自分にあるのか。

弥代は、酷くその行いを悔やんだ。



それが、弥代の一番古い記憶。

それからはずっと一人で、“色持ち”である事から直ぐに因縁を付けられることだって少なくはなかった。

安堵の日々から一番遠い日々を幾年と繰り返していく内に、仕方のないことなのだと考えるようになっていた。

だってそれが、“色”を宿して産まれてしまった自分の定めなのだと。理解して、そして諦めた。

人の命を奪ってまで生きている自分が、後付けが欲しかった。

短絡的な感情に振り回されて、壊してしまったその未来に意味を求めるように。せめて、せめて自分が何者であるかを、弥代は知りたかった。知る必要があったのだ。


ふと立ち寄った宿場町で路地裏に連れ込まれるその“色”を目にして、体が動いたのは殆ど無意識だった。












「勘違いしてたんだ。“色持ち”であっても、変わらずに一緒に過ごせるって。思い違いだ。そもそもが違った。何もかもが違いすぎたんだ。」

恐らくはそれさえも、吐き出したことは一度たりとなかったのだろうと、鶫は身を傾けながら憐れむ。

当人にその自覚もない中、与えられた境遇を前にそれでも挫けることなくどうにか進み続けていたのだろうが、予期していた溝よりも遥かに深いそれを前に漸く歩みを止めてしまったのだろうというのが分かった。

それはどこか、あの部屋で終わりを待ち続け、終いには母様さえも失い緩やかな死を望めなくなった時の自分に似てしまうと、そう思ってしまうのは傲りが過ぎるだろうか。

その溝はきっと一生埋まることはない。

鶫は東の鬼であるその子にかけるべき言葉を、生憎と持ち合わせてはいなかった。











「身も心も疲弊しているのだろう。好きなだけ居座って良い。」

「でもお食事の際は絶対に顔を合わせてください。もし出来れば私は弥代様のお話をお聞きしたいですわ。」

そんな甘い言葉を受けて、弥代は二日、三日と二人が住まうこの寺院で世話になることになった。

元は自分は何なのかを知るために津軽を目指して里を出たというのに、一人になって色んな事を考えすぎて疲れてしまった。

休息が必要だろうという態度には納得した。とはいえ知らぬ土地で、知らぬ空間で過ごすというのもどこか限度がある。

逆にどれぐらい長居をすれば追い出されてしまうのだろうかと興味を抱いてしまうのは、心が僅かばかり休まったとは思えないだろうか。

「思えるわけねぇだろバーカ」

ずっと、自問自答を繰り返している。

考える事で余計に泥濘に足を取られてしまっているのだろうが、考えられずにはいられない。

これまで自分がどのように過ごしていたのかすら、感覚も思い出せやしない。

白髪の少女・鶫を前に吐き出したように勘違いをしていたのだ。

あれだけの“色持ち”と“色”を持たぬ者の間に存在する明確な壁を目の当たりにして、でも“色”があるない関係なく肩を寄せ合って過ごしている里での暮らしを前に。“色持ち”だけならきっと、ほんの少しだけ違和感は残っても交じって過ごせていたかもしれない。

人ならざる、妖の類。

ただ落ち着いて考えてみれば、自らを妖怪の類であると名乗った伽々里を含め、そもそもがあの里自体が神仏・水虎によって守られている。

そういえば、自分は老夫婦の死に際に思い浮かべていた事を思い出す。

妄想の、憶測による自分の中にあった考え。

それはまるで扇堂杷勿が話していた、あの晩の事の顛末と何ら変わりはないのではないかということだ。

そうでもしないと生きていくことすら難しいことだってあると、そう口にしていたのを思い出す。

事実をそのまま受け止めていくことが、出来ないことだってある。

まさか今になってその言葉の意味を理解しかけるとは思ってもみなかった。

都合のいいことだけかいつまんで、そうたって生きれたらそれはきっととても楽だろう。

そう思えばそこまで意識することでもなかったのかもしれない。

早とちり、とまではいかないが深く考えすぎなだけじゃないか。

未だに過去は思い出せていないままだ。

でも、今は、今だけはと居心地のいいものを選んでしまう。今だけだから、と。











飯は食った方が良いと改めて思った。

金がないから食べるのを我慢していた。我慢したってそれで直ぐに倒れることはなかったからそれなら食べなくてもいいじゃないかと過ごしていたが、食事とは大切だと理解した。

参拝に来る人間たちからのお供え物で鶫が用意する食事は質素ながらも素材のうまみというものが存分に感じれた。

里で口にする汁物といえば味噌が用いられることが何より多かった。

一際冷え込んでしまい外に出る事を極力控える里では、冬仕込みで味噌が多く発酵させられていて、大体の家庭にはあって当然だと相良が話していたのを思い出す。どの家庭にあっても普通の味噌すら贅沢で用意することが出来ない討伐屋は余程存続が危ぶまれているのだろうと思えてならなかったのは秘密だ。

四日も経つ頃には、自主的に与えられた部屋から出て鶫の立つ厨房に弥代は足を運ぶようになっていた。

固い乾物を薄く、その細腕で抑えつけ削り器で削ったものでだし汁を取るという見慣れない工程一つ一つをマジマジと観察して過ごす。

食事をすることもそうだが、一人で延々と考えるよりは余計な事を考えずに誰かと話している方が気が楽だと、そう思えるようになったからだ。

思えば双子の姉を名乗る彼女・詩良が押し入ってくるまでの間は一人になるのが嫌で、賑やかな場所を選んで足を運んだりする事が多かった。一人になるのなんて、夜遅く家に帰って寝るときだけだったやもしれない。

鶫の兄である神鳴には自分から声を掛ける勇気は生憎となかった。

堅苦しい、威圧的な態度と物言いは長く彼を構成する要素の内の一つなのだろうが、馴染むのにはまだ当分時間がかかりそうだった。

当分時間がかかりそうなんて、本当にいつまでここに居座る気なのか。

見た目以上に大人びた鶫が母親の様に、大柄な兄を叱りつける場面にだって何度か遭遇した。

ただ身を寄せ合って柔らかい空気を醸し出す二人に、声をかけることだけは一生出来ないだろうと感じた。

また一日、一日と日は流れていく中。

十一月も下旬に差し掛かる手前の頃、それは突如訪れた。


穏やかな日々を、自分と同じような“色”を持ち、人ならざる妖怪という点も似通った、あまり溝の感じないで済む二人との暮らしも良いのではないかと。このままこんな時が続けば良いな、なんて思っていた矢先だった。

「駄目ですよ弥代様。それでは見栄えがよろしくありません。兄様がお口にするものはこの鶫が責任をもって整えますから、どうかそちらは私のお盆に乗せてください。安心してください。これからもビシバシと教え込んで差し上げます。意欲のある人に教えるのってこんなにやりがいを感じるものなのですね。私こんな事初めてで最近は一等充実していますわ。」

「たかが三つ葉。されど三つ葉。これっぽち一個乗せるだけでも奥が深すぎるぜ…。いやっ!?鶫さんが食べなくても自分で食べるって俺!」

「教え子の不始末は師が処理するものと書物に書いてありました。私が食べます。」

「不始末を処理…言い方って大切だなぁ…」

厨房で肩を並べてどうにもつかない会話を並べていた時だ。

外から開くことなんてほとんどない戸口がガラリと空いた。

驚いた。

いや、驚かないわけがないだろう。

この社は基本的に神鳴と鶫の他に、今は自分が居座っているだけで。

参拝者はここまで入り込んでくることは許されない。そもそもそんな存在がいるわけがないのだ。

鶫曰く、この敷地一体は神鳴の結界が張られているようで。土地以外の者が触れようものなら直ぐに察知できるし安全だと言っていた。

そんなこの場所に、外から訪れる者など。

「やっと、見つけた。」

逆光を背に、顔は見づらかったが。その背格好と静かな声には覚えがあった。











「弥代?いないよ?今朝起きたらいなかったの!」

あっけらかんと言ってのける少女に心配という気持ちは欠片もないのか。

一度はその言葉を疑い、身を乗り出して家の中を見渡したが言う通りにもぬけの殻だった。

部屋の中には、一人暮らしを始めるのだと言い出した時に、雪那がお節介で勝手に用意をさせた家財道具が設置した時と何一つ変わらぬまま置かれていた。

少女自体は最近になって一緒に暮らすようになった同居人(長屋の者達からは生き別れの姉らしいと聞かされた。)らしいが、それもまだ一月程の話のようで。薄暗い部屋はどことなく人のいた痕跡というのを感じられなかった。だから何だとおも思いながら氷室は、これらをどのように雪那に説明したものかと頭を悩ました。

これまでとは違い、居場所を与えられた藤原家の青年が自分に変わって雪那の直ぐ近くでその身を護るようになっている今、動きに制限はなく。

事前に確認を取ってから報告をする事は可能だった。

ここ数日は雨が止む事はないままでいる。足元の悪い中自分が動き回るのが得意ではないとそろそろ自覚が芽生えていた彼女は東の離れで待っている筈だ。

何もわかっていないまま、ただ家にはいなかったと伝えて気を動転させてしまうのは目に見えた話。狼狽えてどうしましょうと慌てふためいてしまうだろう。

空は薄暗いが陽が傾くまで時間に余裕はある。

氷室は里の中心部に点在する物見櫓へと足を運んだ。

東西の六ケ所に里境の門が存在している榊扇の里は、門とは別に門まで続く一本道に物見櫓を設置していた。

その一本道を通る物を四六時中昼夜関係なく交代制で監視をしているのだ。

東海道沿いの門はその利用者の数から人数も多く日の内に何度か定刻で確認を行っている。

門を潜り、里の中へと足を踏み入れた者達、その通りを歩んだ者達の人数に不一致が起きていないかをだ。

この里自体いは姿を人間に化けた妖怪が紛れて暮らしている事もあり、現に過去に門を知られず通過して、何事もなかったように通りを往くような不届き者がいたのだ。昔に比べれば幾分か平穏になった。今それが必要かと問われれば大主である扇堂杷勿は首を傾げるだろうが、それでもそれがあるおかげで手掛かりを探せることに繋がりかねないと考えている為、氷室からしてみれば昔馴染みの櫓が今もこの里にあるという事には安心感を覚えた。

が、実態は物見櫓なんて言っても目立った造りをしているわけでもない。

他に比べれば若干大きな建造物があると、それだけの話だ。

扇堂家に携わる者以外にそれが櫓であり、それによって里の出入りをしている者達を遠目ながらも監視しているなんて知るわけがないのだ。

それらを担うのも代々同じ家系が引き継いでいる為、口の堅い彼等から漏れることはない。

戸を潜れば、直ぐ先の階段から丁度見知った仲の強面の老人が下りてくるのが分かった。

剃ったばかりの顎を撫でながら水気の残る顔を布巾で拭う彼は、物見櫓を取り仕切っている現在の責任者だ。

「ご無沙汰しております鶴見様。」

「朝っぱらからどこの坊主が来たかと思えばお前さんかい木偶の坊。随分久しいじゃないか。」

三十年以上前は頻繁に屋敷に出入りしていた鶴見家に、氷室は面識があった。

思い出話に花を咲かせたいわけではない。氷室は単刀直入に用件を伝えた。

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