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筆録・鬼ノ目  作者: pixivにて~187話まで掲載中
三節・津軽、北の大主編
23/186

一話

「おいおいお前、邪魔をするんじゃないよ。」

女が一人、暗がりから姿を現す。

男は腕の中に抱き留めたその温もりを離すことなく、今しがた自分を呼び止めたであろう声を無視し、歩みを進めた。

「無視するなよ。お前、あの常陸国の家の奴だろう?」

ぴたり、と。一瞬歩みが止まる。

「全員殺したつもりだったのにな。まさか生き残りがいたなんて想像もしてなかったよ。やっぱり直接手を下すべきだったな。いやもうこれはいっそ運命とでも言おうか。またこうしてお前に邪魔をされるなんてね。」

男は、答えない。

答えずして、再び歩みを始めた。

「止まれよ、春原千方。」

男の、春原千方の進行そのものを邪魔するかのように、目の前に瞬時に移動をするのはこの土地ではあまりお目にかかることのない白髪の髪をする女だ。

鮮血を連想させる、真っ赤な瞳が、月明りを受けて不気味な程煌々と煌めく。

つい先ほどまで雨が降り続けていたのを忘れてしまいそうな程、明るい月が雲間から覗く。

「その子を、弥代をどうするつもりだい?その子はボクにとって大切な、大切な存在なんだ。もしその子に危害を加えるって言うなら、ボクはお前を許さないぞ?」

妖しく細められた眼が、春原を。春原の腕の中のそれを捉える。

「邪魔なのは、お前だ。」

どこからともなく、それは振りぬかれた。

男自身が影の中にいたため、その一瞬の動作に女は反応が遅れた。

両腕で抱えていたそれを片方に、左手は刀の柄をしかと握りしめていた。

右から胴を斜めに斬りつけられ、肩口から肌が露出する。

半歩、よろめくも倒れることはなく女は傷口を抑えながら、口元は歪な弧を描く。

「ははっ!ははっ!!やってくれるねぇ春原!!ボクを!このボクを傷付けるだなんて!!たかだが人間の分際で!この!ボクを!!面白いじゃないか!」

夜半であることを忘れてしまいそうな程、高らかな女の笑い声が通りに響き渡る。

夕刻から降り続けた雨に足元も悪く、一時雨が止んだからといって外を出歩く者は一人もいない。奇妙な時間だけが過ぎていく。

春原は一巡してから、腕の中で大層大事に抱えていたその温もりを道の端、民家の外郭に凭れかけるように降ろすと、そのまま女に歩みを進めた。

「煩い。」

無遠慮に、馬乗りになる。

春原と女の体格差はあまりにも明確で、圧し掛かられた女はその大きさに、微かに吊り上げた口元を引き攣らせた。

真っ直ぐ。迷いなく。春原の両手が、女の細首を捉えた。

東の地では見慣れない風変りな装いをした女の首回りは薄い布地に囲われていたが、お構いなしに、ぐっと力が籠められる。

深い皺が寄ったのは、首か、布地か。

「人間風情が!よくもやってくれたものだよ!!」

「煩い。」

「傑作さぁ!これが黙ってられるわけがないだろう?なぁ、春原千方!!答えろよ春原千方!!」

「煩い。」

「気に入ったよお前、おめでとう春原千方…どうか、どうかお前に祝福を…!」

「黙れ。」

次第にか細くなっていく脈動を掌に感じながら、それでも力を緩めることはなく。その感覚を、手ごたえを確認しながら力を込める。

間もなくして、何かが折れるような音が春原の鼓膜に届く。

音を皮切りに、抵抗一つせず、力なく伸びた四肢を、見下ろすその瞳。

見開かれたまま虚空を見つめる赤い瞳は、女の絶命をこれでもかと示す。

しかしたった一度の絶命に意味がない事を春原は知っていた。

馬乗りになっていた体を起こし、何ら変わらぬ顔で大切なそれに歩み寄る。

「弥代、」

可能な限り拭ってやった泥塗れのその頬を撫でる。

「弥代、」

雨で濡れた体を冷やさないようにと抱えていた体を、また抱きしめる。

「弥代、」

春原は、それを抱え、また歩きだした。






鬼ノ目 三節・津軽、北の大主編






雨が降っている。

例年神無月の暮れとなればここまで雨が降り続くことはないというのに、かれこれ三日前から続く雨に、庭先の土は泥のまま、まるで小さな池が出来たようだ。

窓枠に手を掛けて、身を乗り出せば屋根の軒下から先がよく見え、どんよりとした雨雲が空を覆っているのがよく分かる。

「体を冷やされてしまいます。」

後ろから声を掛けてくるのはよく見知った従者だ。

振り向けば冬に愛用していた掛物を持っている。

本来であればこれは下女の仕事であるが、まだ一年と満たない彼女ではそこまで知らないだろうという気配りから彼が運んでくることが多い。

受け取りそっと肩に羽織れば、雪那は彼を見て質問を投げかけた。

「弥代ちゃんは、どうでしたか?」

「気分が優れないと。昨日と同じく、姉を名乗る者に追い返されてしまいました。」

「そうですか。」

あの日、食事処を出て直ぐの事。何やら怪しげな雰囲気を纏った男と対峙していた弥代は、一緒に居合わせていた雪那と和馬をその場から離れさせた。和馬に手を貸される形で屋敷へと舞い戻った雪那は直ぐにその旨を氷室に告げ、彼からの言葉で春原討伐屋が動くことになった。

元々春原討伐屋は妖怪退治を生業としている者達の集まりだった。

これまでの榊扇の里は、神仏・水虎が齎す加護によって常に結界が張られていた。それにより外敵や妖怪らの侵入を拒めていたが、神無月は力の制御が行いにくなる。

それも年々と力が弱まっているように感じられる。いざという時、結界そのものが張れなくなったその日を予期しての設立であったが、彼らに与えられる依頼の大半は里の巡回が主となっていた。

和馬の口振りやその場の空気の異様さからして人間相手でなく、恐らくは妖怪の類だというのに彼らが駆り出されることはなんらおかしな話ではなかったろう。

しかしその場に春原討伐屋の面々が到着する頃、そこには弥代の姿も不審者の影もなかった。近くの店先に状況を訊ねても、この雨の中誰も通りで騒ぎなど起こしていないという。

弥代が連れ攫われでもしたのではないかと思われ捜索が始まるも、見つかったと屋敷に報告が入ったのは日を跨ぎかけるその時だった。

討伐屋の頭である春原千方が見つけたという弥代は、一時は討伐屋で預かられたが朝方になると一人で長屋へと帰ってしまったらしい。

昼頃にそんな話を聞き、雪那に変わり氷室が長屋を訪ねたが、先日一度だけ一緒にいるのを見かけた身内と思しき少女に門前払いをくらってしまった。

それは今日も同じだったらしく。

「本当にどうしてしまったのでしょうか。」

窓の外を見やるも、やはり空はどんよりと重いままだ。











いつ頃から意識を失っていたのだろうか。

最期に覚えているのは、頭がただ痛かったという事だけ。

飯屋を出て間もなく、怪しげな男と対峙し、何かしら言葉を交わした筈だが、その会話の内容はどこか朧気で。

弥代は、どこか自分が住んでいる長屋の天井と似た造りをした、しかし差し込む陽の光が多い事からここが自分の部屋ではないのだという事に気付くも、知った雰囲気に慌てることなく体を起こした。

丁重にもてなされでもする立場ではない筈なのだが、本来食事をするのに使われている部屋の真ん中に布団が敷かれ、その中でどうやら自分は寝ていたようだ。掛布団を捲れば、身に纏っているそれが見覚えのない、着丈の合っていないものである事も気付いた。

そこはこの里で唯一といっても良い、本業は妖怪退治を生業とした看板を掲げる、春原討伐屋の一室だ。

光の正体は開け放たれた襖の先、普段なら自分が真っすぐに駆け抜ける廊下の奥。ぽつりぽつりと秋の雨が小雨ながらも降り続ける外から入り込んでくるものだった。

雨が降っていると、そう認識した途端僅かに肌寒さを感じて、捲った布団を掻き寄せて身を縮こまらせる。

廊下の突き当りの部屋まで行けば誰かしらいるかもしれないと考えるも、寒さと得体の知れない謎の倦怠感から立ち上がる気にはなれず、どうしたものかと考えていると、右手でがらりと玄関の戸が開けられる音が聞こえた。

「不用心です事。さては相良さんですね。大方屋敷から突然呼び出しがあって、春原さんを引っ張って出ていかれたのでしょうが、鍵の閉め忘れを私が許すとお思いなのでしょうかあの人は。」

愚痴を零しながら廊下から姿を見せたのは、この春原討伐屋にて薬師の肩書で薬を調合する事に長けた女・伽々里だった。

「あら、お目覚めでしたか弥代さん。顔色が優れませんね。もしよろしければ気付け薬でも煎じて差し上げましょか?」



開け放たれた土間では割烹を身に付けながら、水場で昼餉の支度をする彼女の姿があった。

「全く。昨晩は大変だったのですよ。春原さんが泥塗れになった貴女を抱えて帰ってきたと思ったら、春原さんたら珍しく倒れてしまいまして。意識を失っても離す手がどういうわけか緩まずに、相良さんと芳賀さんを呼んで手を貸してもらったり、と。おかげさまで眠たくて仕方がないのですよ。」

「ははっ、悪ぃ事しちまったなそりゃぁ。」

ぐつぐつと煮えたぎる鍋から小さな器に粥をよそうその姿はとても手慣れたものだ。

半数以上が男のここで炊事家事を任されている彼女からしたら何ら変わりのない作業なのだろうが、得意でもないのに精一杯用意をしようとする同居人を思い浮かべると感心してしまう。

「泥で酷かったので服は洗っております。昨晩はどうやら吐かれてしまったようですし、半日近く何も口にされていませんでしょうから味の薄いものにしましょう。体が驚いてしまいます。」

「吐いたの俺?」

まるで他人ごとだ。

曖昧な記憶を辿っても、まだはっきりと思い出すことが出来ない。

自分が吐いた記憶などどこにもない。どういった経緯で吐いてしまったのだろうかと首を傾げる。

「何があったか、あまり覚えてないのですね。」

穏やかなものだ。

普段の伽々里といえば、もっと自分に対してどこか当たりが強い。

中々学習をせずに、同じ失敗をするから彼女の堪忍袋が切れてしまっているのだろうが、まさかこうも互いに落ち着いて会話が出来る日が来ようとは想像もしていなかった。

元々そこまで性格の強くない、ただ強かな女なのだと知っていたから納得は簡単に出来た。

思えば、彼女には春原と初めて会ったその日から関わりがあったのだろう。連日川魚しか食べれず、野兎に歓喜した。事前に薬を口にしていたからこそ、あの野兎に逃げられず狩ることが出来たんだ。その回った薬を間接的に口にして、酷い目に合わされた事も含めて。

「苦手なものは特にありませんでしたよね。」

「あーうん、特に好き嫌いとかねぇよ。何でも食べれる。」

「大変よろしいですね。芳賀さんも見習ってほしいものです。あの人ああ見えて好き嫌いが激しくて、直ぐに顔に出しますから。」

「ははっ、黒らしいっちゃらしいわ!」

運ばれた器を受け取りながら匙を咥える。

きっと行儀が悪いだろうが、半分床についた相手に薬師である彼女は強く出ることはやはりないのだろうと確信を得る。

「流し込みやすいように水気が多いですが、捕れたての蕪も用意しております。甘みがあって良いですよ。食べても大丈夫ですがよく噛んでから降してくださいね。」

「うん、いただきます。」



伽々里の言う通り、小鉢に盛られた蕪は何も付けていないだろうに甘みが強く、粥同様に水気が多かった。

噛めば自然と唾液が溢れ、若干いがいがとしていた喉だったが違和感なく飲み下す事が出来た。

「蕪か。初めて多分食ったけど美味いねこれ。味噌あたり付けたらめっちゃ飯進みそう。」

「相良さんと同じ事を言いますね。まぁ、味噌を買えるだけの余裕はないのですが。」

自然と目が合えば、何とも優しい眼差しが向けられる。

「…どうかした?」

「いえ、」

それまでの会話の流れはどこへ行ってしまったのだろうと違和感を覚えずにはいられないような歯切れの悪い彼女の言葉尻に、弥代はまたも訊ねる。

「何か、俺やっちゃった?」

「そんなわけでは…」

何か、自分が彼女の気を煩わせる何かを言ってしまったのかと不安が過る。意識のない自分を一晩介抱してくれた、何かと気遣って声を掛けてくれた、漸く少し彼女の本質に触れられたかもしれないと思った矢先だった。謝ろうと意識が前のめりになるが、心当たりはなく。何と言えば良いのか分からずにいる弥代に、伽々里は小さく微笑んだ。

「気付いて、いらっしゃらないのですね。」



体を起こす。

妙な感覚に襲われて、逸る心音を落ち着かせるように起きて早々に左胸に手を当てる。

だくだくと滲み出る脂汗が気持ち悪い。

当たりを見渡せば、そこには先ほどまで会話をしていた筈の伽々里がいた。

「伽々里、さん?」

「いい加減に気付かれてはいかがでしょうか?」

その声色は冷たい。

まるで夢心地のように温かく接してくれた彼女とは大違いだ。

状況を飲み込めずに息を落ち着かせるばかりで弥代は何も出来ない。

すると、彼女が手を伸ばしてくる。

しかしその手は自分に触れる前に人肌から何やら白い物へと変貌する。

布団から出て後ずさろうとするよりも早く、それが足首に絡みつく。

それはまるで蛇のように。

ぐるぐる、ぐるぐるととぐろを巻くようにして弥代の動きを封じる。

息苦しさを覚える頃、眼前には首から下が本物の蛇のようになった彼女に動きを封じられ、しかしその細い目尻が自分を見据えていた。

「いつまで目を逸らしているのですか?」

「覚えていない芝居など止めなさいな?」

「思い出しなさい、思い出すのです。」

「逃れられませんよその定めから、逃れる事など出来やしませんよ。」

尾が首に巻きつく。

恐怖を自覚するよりも早く、その意識はまた途切れた。



「弥代さん!」

はっきりと、目を開く。

夢であったと理解するや否や声の主である芳賀を見やる。

魘されてでもいたのだろうか、心配そうな表情で覗きこんでくる。

「…黒?」

「良かったぁ、いくら呼んでも目、覚まさないから心配で!今相良さん呼んできますから、伽々里さんちょっと弥代さんの事見ててください!」

「かが、りさん…?」

弥代は、芳賀の肩を押しのけて立ち上がった。

それは寝起きの人間とは思えない勢いで。押しのけられた芳賀はそのまま尻もちをついて驚いた声を上げているが、弥代はそんな事露知らず、部屋を飛び出て廊下を進み、裸足のまま降りて、戸を開け外へと駆け出した。


「はっ、はっ、はっ!」

息は荒く、短い。無我夢中にわき目も降らず通りを走る。

裸足で着丈の合わない装いのまま走る自分はさぞ不思議だろう。すれ違う人がおかしなものを見たような視線を向けてくるが止まらない。振り返る余裕などない。大通りを駆け抜けて自分が暮らしている長屋のある小道へと滑り込む。長屋の奥の部屋。鍵なんて毛頭なく、力任せに開け放ったそこで腰を下ろす。

下ろす。

下ろして漸く、息を整える。

時間にしてどれほどだろうか。

彼等の暮らすあの場所から自分の家へただただ走ったのはこれが初めてだ。もっと近いと思っていたが、その距離はあまりにも離れていた。離れていると感じれた。

「どうして…」

どうして逃げてしまったのだろう。

その答えは分かっている。

恐らくは夢で見た彼女だ。伽々里の存在を、芳賀の背後に見てしまった。

「なんで…」

『いつまで目を逸らしているのですか?』『覚えていない芝居など止めなさいな?』『思い出しなさい、思い出すのです。』『逃れられませんよその定から、逃れる事など出来やしませんよ。』

脳内に木霊するような彼女の声に頭を抱える。

「なにを、なんで、どうして、思い出す、覚えて、一体、俺が、俺が…俺が、何をしたっていうんだよ…」

弱々しくなる。

頭を抱えたまま、戸口に凭れ掛かるようにして、弥代は意識を手放した。

次に弥代が目を覚ましたのは、その日の夕暮れの事だった。

「やっぱりお寝坊さんだねキミは。おはよう弥代?もう、夕方だけどね!」












翌日の事。

昨日は自分が意識を失っている間に、自分を訪ねてきたという氷室を詩良が追い返した。

今日もまた彼は訪れたが、どうにも顔を合わせられる気にはなれずに、詩良に頼みまた追い返してしまった。

日を跨いで、徐々に何があの晩あったのかを思い出しつつあった弥代は、彼の訪問自体が雪那の気遣いである可能性を考えてはいたが、思い出したが故に今は顔を合わせたくないと、そう感じてしまった。

どこにも確証はない。散らばった情報を元に仮定しただけの、あの場で自分が導き出した答えに過ぎない。まさかそんなわけはないだろうと思いたいのに、二十年も昔の事なんて、ましては自分がいつ産まれたのかさえも正直な所覚えてなかった。

鬼とは、噂程度なら長命な生き物だと知っている。

長命というのがどれだけの時間を差すのかは分からないが、それでももし自分が本当に鬼という妖怪で、約二十年前のその晩、雪那の実の母親・扇堂春奈を手に掛けていたら…。そこまで考えて、一度考えるの止す。これを何度も繰り返している。結局他の可能性を考えられるだけの余裕がない。

そんな事をずっと考えていると、雪那の従者とは別の者が家を訪ねてきた。

「こんにちは。弥代さんとお話をさせていただけますでしょうか?」

伽々里だ。

自分の名前を口にして、家を飛び出されたのだ。

気分を害して文句を言いに来たって、弥代のよく知る彼女ならしてもなんらおかしくはない。

気が動転していた。自分も機会があれば一言謝っておきたいと、そう思っていた為都合がよく、弥代は詩良に暫くの間外に出てくれと頼んだ後、彼女を家の中に招き入れた。



「失礼な事しちまった、ごめんな伽々里さん。」

「私は別に気にしていませんよ。ただ、芳賀さんが酷く心配されていました。」

「そっか…黒にも今度謝らねぇとな…。」

単純に夢見の悪さで取り乱してしまっていただけだと、自分に言い聞かせる。すればなんら変わりはなく言葉を交わすことが出来た。子どもじゃあるまいし。あんなに我を失ったように逃げ出してしまうとは、弥代自身も思ってなかったのだ。

目立った怪我は一つもなかった。それでもどれぐらいかの間長時間に渡り外で雨に打たれていたかもしれないのだからと差し出された薬を一方流し込む。こういう対応を目の当たりにすると、やはり彼女は薬師であるのだなと、自分が知らない、知る事のない知識を持っているのだなと知る。

暫くして、弥代は自分から切り出す覚悟を決める。

「あのさ、」



丸一日時間を置いて状況を整理した。

二日前の晩、飯屋を出てから何があったのかを、弥代は思い出した。

知らないフリをすればそのままでもいれたかもしれない。

でも、そんなこと出来なかった。出来ない。

出来るわけがないのだ。

それは自分が求めていた、知りえたかった過去に自分が何をしたのか、自分が何者なのか、どこから来てこれからどこへ行くべきなのかという答えに繋がる手がかりなのだから。

ぽつり、ぽつりと零していく。

あの晩何があったのかを。

こんな事彼女に言ったってきっとどうにもならないだろう。何もならない。でも普段から頻繁に接するわけでもない、どちらかといえば自分の肩を持つ事の殆どない、落ち着いた目線で物を言える彼女が最適なのだ。

同情が欲しいわけじゃない。哀れみが欲しいわけじゃない。

何よりも妖怪対峙を生業とする看板を掲げる討伐屋に籍を置く彼女には、ある程度の知識があるかもしれない。そう思ったからだ。

こんな冷静に語る自分に、ほんの少しだけ弥代は嫌気が差した。

「そうですか、そのような事があったのですね。」

「いきなりごめんな、本当に。でも落ち着く為にも、話したくって。」

「夢の話も含めて、少々気を病まれてしまっているかもしれませんね。もしよろしければ気の病を和らげるものでも改めてお持ちしましょうか?」

「いやぁ、苦い薬はもう勘弁かな…」

動揺一つ見せない彼女の様に安心してしまう。

しかし安堵の息を付くのも束の間、彼女は、でも、と言葉をつづけた。

「潜在的に本質を夢の中で見られるなど、もう気付かれてもなんら不思議ではないでしょうに。」






「潜在的に本質を夢の中で見られるなど、もう気付かれてもなんら不思議ではないでしょうに。」

そう吐き零した彼女の、彼女の輪郭が揺らぐのを見た。

弥代はその光景に目を疑うだろう。

揺らぐ。輪郭が曖昧に揺れる。そこにいる筈のそれを上手く認識できなくなる。その感覚には覚えがあるだろう。触れてしまえば一瞬で違和感を知覚することが出来た、まるであのお宿で対面したかの“色持ち”の狼のように。

「ご自身が人間ではないと、知ったのでしょう?また、薄々気付いていらっしゃった筈です。」

弥代は、やはり目を疑うことしかできない。

ぐにゃりと揺らぐ。輪郭が揺らぐ。合間に揺らぐ。視界が揺らぐ。

「この里には多く、争いそのものを好まない私のように人に化けることが出来る妖怪が住んでおりますよ。驚きました。えぇ、驚きましたとも。武蔵国では何も守られなかったというのに、この里では私共さえも水神の加護下に含まれるのですから。」

そこには。それまで伽々里がいた場所には、大きな、大きな白い蛇がいた。長屋の部屋は狭い為か、夢で見たようにとぐろを巻く。一つ、夢と違う点とすれば、それは自分の体を締め付けないことだろうか。

「どうか、道だけは。道だけは、失いませんように。」



その後、いつの間にかよく知った女の姿に戻った伽々里が静かに家から出て行った。

何をするでもなく、弥代はその光景をただ見ていることしか出来なかった。変わらず、同じ姿勢のまま。彼女が出て行った戸を見つめるだけ。

どれほど経っただろうか。

次にその戸が開くと、そこには暫く前に外に行くようにと言っていた詩良が帰ってきた姿があった。

「詩良、」

弥代は、双子の姉だなんて言葉を今だって信じたわけじゃない。

やはりどこからどう見ても彼女の髪色は西のそれで、東の特色を持つ自分とは全く違う存在だ。根っから信じたくないというわけではない。

ただ、もし。もし、本当に家族なのだとしたら、それはこれからも軽口を叩きながらもなんやかんや言っておかえりなさいとただいまを言い合える、そんな日々が続くかもしれないという事に、その微温湯に浸かるような変わらぬ日常が望めるかもしれないと、そう考えていた。

日は浅くとも、同じ屋根の下、同じ空間で誰かが寝入る、その寝顔にほっとして眠りに付くのは安心できた。

自分に対する彼女の物言いは時々理解に苦しむ事も多いが、それも回数を重ねてしまえば慣れる。今では大抵の事は軽くあしらえるようになった。

「詩良、」

手を伸ばす。

彼女の長い袂を掴めば、引き寄せる。

「詩良…。」

恐らくは、彼女の名前を口にするのはこれが初めてだろう。

まともに呼ぶ事もなかったその名前を、何度も口にする。

「詩良。」

「もぅ、甘えん坊だな弥代は。」

ぽんぽんと、頭を撫でられる。

その温もりの優しい事。

確証は、どこにもないだろう。

でも謎の核心はあった。

双子の姉と名乗る彼女は、出会ったばかりの頃からどこか弥代の昔をよく知ったような含みのある言葉を口にしていた。

「詩良。」

指先に力を籠める。

違う。

そんな日々を望んでいたというのは嘘じゃない。

でもそんな事で手を伸ばしはしない。

逃がさないようにしっかりと、その腕を布越しに掴む。

驚いた素振りはなく、見上げた詩良の顔には笑みが浮かんでいた。

その反応に逆に驚いてしまいそうになるのを我慢して、弥代は問いかけた。

「鬼って、なんだ?」






「聞くって事は、もう分かってるんじゃないのかい?」

けろりと、詩良は答えてみせた。

なんら変わりなく。

一瞬、弥代の息がその答えに詰まる。

予期していたどの答えとも違う、彼女の言葉を前に指先が緩む。

「キミが、どうしても言葉で欲しいっていうなら言ってあげる。でも、きっと。今のキミは、本心から答えが欲しいわけじゃないよね。それならあげない。それならあげられないよ。そんな答え、ボクの知ってるキミは望まないよ?」

それが、答えだ。

そしてそれはきっと、彼女自身も“鬼”であるという示唆しているのかもしれない。



伽々里が言っていた言葉を思い出す。

この里、榊扇の里には人間に化けた、争いそのものを好まない妖怪が多く暮らしているということを。

例えば、ここで答えを知っても何も知らない顔をして、この半年間となんら変わりなく過ごすことも出来るだろう。争いを好まないのなら、きっと互いに過干渉になることはない。

でも、それは正しいだろうか。

それは、向き合えたことになるだろうか。

「駄目だ。」

隣で既に寝入ってしまったその寝顔を見つめながら、弥代は呟く。

「そんなの、駄目だ。」

彼女は、答えない。

自分自身がそんな言葉一つで納得したくないからだ。

しっかりと何なのかを知りたい。

向き合うべきなのだ。いっそそれは呪いのように、重たく圧し掛かる。

誰かに言われたような記憶はないのに、知らなくちゃいけないという考えが頭からこびりついて離れない。



行かねばならない。

そんな考えが浮かんだ時、弥代は既に立ち上がっていた。

思考そのものに違和感を覚える。

しかし今になって触れてこなかった違和感の山々。たった一つ解消しなくたって何も変わりはしない。

箪笥の中から適当に薄手の羽織を出す。

袖を通せば、しっかりと刀を腰紐に括り付ける。

この頃になれば山茶花の花が椿よりも早く花開くのだと雪那が待ち遠しいと語っていたのを思い出す。

この里では山茶花の株自体が流通することはないが、その昔正門から東の離れ迄の道中の中庭には季節の花々が植えられており、いつか友達が出来たら一緒に見たいと思っていたんですなんて、思い出話に花を咲かせていた。

いきなり育つことはなくても、来年の秋口までにはまた見れないか、少々我儘を言ってみようと思いますなんて、楽し気に笑っていた。

「帰ってくるから。」

絶対に、とは言い切れない。

それでも、ちゃんと向き合ったその先で、過去に何があったのかを知ったうえで、弥代はもう一度彼女に、雪那に会いたいと思った。

後ろめたさは、拭いきれないだろう。

それでも。

「きっと、戻ってくるから。」

それは誰に向けた言葉か。

雪那だけじゃない。

多分脳裏を過るのはこの半年間、短い間だが関わってきた人達で。

そういえば飯屋のツケがそのまま支払い終わってなかったとか、明後日ぐらいに家財道具の運び入れを手伝う約束をしていただとか、今度芳賀に連れ添って飯を恵んでもらいに行くつもりだったとか、行こうとした途端に終えていない予定を思い出す。

「帰ってきたら、先ず色々と俺は怒られるんだろうなぁ…」

怒られるだけならきっと幸いだろう。

飯屋に至っては金勘定の話だから、拳骨の一つや二つは覚悟をしておいた方がいい。



雨は、もう止んでいた。

分厚い雲間から差し込む月明りが夜半であることを忘れさせる程眩しい。

いや、あの落雷の晩に比べれば夜である事はよく分かる。言うてそこまで眩しくはないだろう。

雪那と意識を失った所をこの里に運び込まれてから半年以上。

実はあれ以来一度もこの里から出たことがない。

里の東門はかなり距離があるが、東海道側の大通りまで足を運ぶ気にはなれずに東門を目指す。

「あー、北…津軽って言ってたっけ?どこだよ津軽…北?北を目指せばいいのか俺は?」

長い旅になりそうだ。

どうしようもなく、長い旅路だろう。

遥か北の地なんて、どこまで目指せばいいのか。

暫く歩いてから懐の巾着を手に取るが、あまりにも軽く。持っていてもいなくても然程変わらないだろう事に気付く。

「持ち合わせがさ、心持たなったらありゃしねぇぜ…。飯、奢ってもらってて良かったわ。これっぽっちもなかったかもしんねぇからな。」

そうだ。

今の彼女にはこれまでとは違って、彼女の過去を知ったうえで、傍にいる事を、守ることを誓った彼がいる。従者の氷室とまではいかないが、和馬に対しても心は開いている彼女だ。きっと、きっと大丈夫だ。



「そういや、謝ってなかったな。」

覚えている。

あの晩、雨の降り続ける中自分を探して、傘を差しだしてくれた男の事を。

『俺は、何があってもお前の傍にいる。』

『傍にいるさ。』

『何が合っても、お前を一人にはさせない。』

『俺が、傍にいるから。』


「悪ぃ事、しちまったな。」

探してくれてありがとうの言葉一つ言えたら良かったろうに。

男は、春原は大丈夫だろうか。

自分を討伐屋まで運んだ後、夢の中で聞いたように意識を失ってしまったという春原。意識を失ってから現時点できっと二日程は経過しているだろう。

弥代のよく知る春原であれば、あんな事があった後だ。自惚れはないが自分の事を気に掛けて一目散に顔を見せに来そうだが。

「まだ、起きてねぇのかな。」

都合は良いだろう。

もし春原の意識があれば、こうして里を出て遥か北の大地を目指そうとする自分は止められていたかもしれない。

「帰ってきたら、ちゃんと謝るから。」

「だから、」




平和ボケだろうか。肩を並べて門に寄りかかり鼾をかいているいる門番を尻目に、弥代は東門を抜けた。

東海道側の門の方は関所を兼ねている為、出入りには通行証、あるいは大主の許可が必要らしい。門の外側にも内側にも宿屋が多く、事前の許可を取っていなかった者達が宿泊をするのに利用することが多いらしい。

一方東門といえばそこにはあまりにも何もない。

群生した背の高い木々さえも自由に枝を伸ばしている。

もし門番が起きていて、どうしても通してくれないとなった場合は、木を登りでもして気付かぬようにと里の外へ出てやろうと考えていたが杞憂に終わった。

家を出たのもそこまで早くはなかったからだろうか。

朝方の冷え切った空気が身を掠める。

吐き出した息は僅かに白む。

まだ足元は、水気が多く泥濘んでいるが歩くのに支障はないだろう。

どこか遠くで目を覚ましただろう鴉が一羽、二羽と朝を報せる。

鶏よりも早い朝の報せは、これから空が明るくなっていくのを教えてくれる。

「いざ行かん!ってな!」

まだ、踏み出したばかりだ。


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