甲
「鬼の、子…?」
覚えが、ないわけがなく。
弥代は、小雨坊と名乗った男の言葉を繰り返す。
「えぇ、半年以上前の事です。ここよりも北にございます山間に住まう妖怪達の間で鬼の子の噂が広まりました。」
半年前と言えば、弥代が雪那と出会った頃だ。
山間という言葉には、あの晩の狼達との対峙を思い出すだろう。
「元は“色持ち”の珍しい狼が人に化けて人間と暮らしていると、些細な話でした。しかしいつからかそこに別の話が紛れ込んだのでございます。」
男は、指を指す。
「古くより人を狂わせてきたとされる禁色の瞳に、多くその名を含む浅葱色の髪をした鬼の子の話、そう、貴女様の事でございます。弥代様。」
声色同様にまるで干からびたような指先が真っすぐに、自分へと向けられる。
「かつてこの里に災禍を招いたとされる鬼の子が、今再びその土地に降り立ったと、同胞らの間では今も広く知れ渡っております。
ですから、そうですね。今この場で私めを斬り伏せた所で噂が途切れることはございません。刀を抜かれるのはあまり得策ではございませぬ。」
その言葉を理解するよりも早く、男は眼前から姿を消し、弥代の前にいた。刀の柄に手をかける指を上から抑え込まれた。
「怒りでしょうか。生憎と私に相手の心を読めるような能力はございませぬ。ですが、読めずとも手に取るように分かりますとも。我らは皆、人と道を違えども妖怪と括られる存在、皆家族のようなものでございます。どこかで繋がっている、古い縁で結ばれた存在です。」
「怒りに身を任せるのはきっと気が楽でしょう。ですが、それでは我を失います。」
「直接危害を加えるつもりなど毛頭ございません。私めはただ、貴女様にお話しがあってこうしてこの地を訪れただけに過ぎません。」
「もう気付いておいででしょうに。これ以上苦しまれる道理がどこにございましょうか。」
「認めてしまえば、楽になります。」
「自分にどうぞ、向き合ってくださいまし。」
危害を加えるつもりはないという言葉の通り、男は一頻り弥代に語り掛けた後その姿を消した。
その姿が雨に紛れるように掻き消えたのを皮切りに、どういうわけかそれまで静かだった、人通りの全くなかった大通りに人の気配を感じる。どこかで遠くあの鈴の音が聞こえるようだ。
話している間もその鈴の音を絶やさぬように鳴らしていたのを思い出し、あの音自体に人除けのような効力でもあったのではないかと考え、考え、考えた所で弥代は体をふらつかせた。
(痛い。)
痛い。痛い。
頭が、痛い。
頭を鈍器で延々と殴られ続けるかのような感覚。
倒れそうになる体を、強く踏みしめた足で踏ん張る。
痛い。
手放してどれぐらい経つか、内側も濡れて使い物にならなくなった傘を尻目に、弥代は、ゆっくりと進みだした。
傘を持たずに帰路を急ぐ者達もいるなか、ゆっくり、ゆっくりと歩む。
『かつてこの里に災禍を招いたとされる鬼の子が、今再びその土地に降り立ったと、』
薄々、気付いていた事だ。
あの時、“色持ち”の狼・絹が教えてくれた三ツ江の話や、扇堂家の屋敷で世話になっていた間も年老いた下女らの向ける視線、里で一人暮らしを始めたばかりの頃、やはり歳を重ねただろう老人らが自分に向けてくる視線に。
全て受け入れられたわけじゃなかった。
自分が何をしたわけでもないのに初めからそこにある自分へ向けられた不信、疑惑の目線。
ただ浴びるだけのそれが耐えられなくてわざと悪い行いを重ねた。理由の後付け。そうすれば少しは向けられるその視線に紐づけることが出来るからと思ったから。
『母は、産まれながらにして目を患っていたそうで。』
『また貴様か!また貴様は私たちから奪おうというのか!?』
『私はお母さまの代わりなんかじゃない』
『でも駄目ね、駄目よ。貴女、貴女がそうやって過ごしているの、やっぱり許せない!』
『こんな私を受け入れてくれるなんて』
『私は、雪那様の代わりにも満たない存在。』
『私、私ね。私の名前は…』
どれだけ、歩いただろうか。
雨は止まない。
勢いは次第に増すばかりで、桶に張った水を頭から被り続けたみたいに、重たくなった服が体にへばりつくるのが気持ち悪い。
そしてまた、体が傾く。
また踏み込み耐えようとしたが、今度はそううまくはいかない。
泥に身が沈むような感覚に、どういうわけか力が入らず起き上がることが出来ない。
ほんの少しだけ、生暖かいそれが頬を伝う。
雨だ。
これは、雨だ。
肌の方が冷え切ってしまって、雨粒の方が温いと、そう感じるようになってしまったのだと、弥代は自分に言い聞かせる。
『雪那様がお怪我をされたのは、元を辿ればその鬼によって母君が亡くなってしまった、自分があの時助けを呼んでいればと、三ツ江様は深く後悔していました。』
『どうしましょう、私。幼馴染はいたことがありますけど、友達。きっと、初めてです。』
『とても、傷ついておいででした。』
頭が、痛い。
それまでと比べ物にならない程の激痛に、泥の中で藻掻く。
藻掻いて、藻掻いて、藻掻いて、藻掻いて、何にもならない。
ぽたりと、耳を伝って今度は何かが落ちてくる。
手を、伸ばす。
触れる。
触れた。
触れた、それは、何だろう。
固い、それの輪郭をなぞる。
もう片方の手を、同じように反対に這わせる。
まるで渦を巻いたようにうねった、固いそれは、角のようで。
「はっ…」
乾いた笑い声が漏れた。
喉の奥がへばりついたように、上手く音はもれなくとも、もしその場に誰かがいたのなら笑い声として聞き取れる程のそれが、漏れ出た。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけるなっ!!」
浅葱色の髪に禁色の瞳に渦を巻いたような一対の角を生やした鬼の子。
「ふざけんなっ!!!!」
そんな者、この世に二人といようものか。
似て非なる者はいよう。
でもそんな特徴を持った者、他にいるわけがない。
「何が友達だ、何が俺が守るだ、何が、何が、何が、何っ!!」
誰もいない。
誰もいないその場所で、弥代は一人吐き捨てる。
「守ってやる?俺のせいで傷ついたあいつを俺が守る?何言ってんだ、そんなの、そんなの何の意味があるっていうんだ?意味、意味なんて、どこにも、何も、何もないじゃないか…」
藻掻いた際に泥の中に出来た小さな水たまりに映るその様はあまりに滑稽で、弥代はまた笑う。
笑う。
笑う。
笑って、笑って、笑って、笑ったその先には、やはり何もない。
いつの間にか先ほど食べたものさえも吐き出してしまった。
胃の中で混ざり合った嘔吐物も泥と一緒になってしまえば区別はつかない。鼻に付く酸っぱい香りだけは消えることはなく。
弥代は、今一度吠えた。
「ふざけるな!!」
体を起こす。
近くにあった木の幹に背中を預ける。
雨に濡れ、泥塗れになった体を見つめる。
よくよく見れば、昨日新しく袖を通したばかりの羽織がもう使い物にはならないだろうぐらいには汚れてしまっている。これもまた、肌寒くなっただろうからと彼女に、雪那が気遣って自分に送ってくれたものだ。それを弥代は、脱ぎ地面に叩きつけた。
叩きつけて直ぐに羽織を掬い上げるように泥の中にまた転がる。
「あ、ぁああ、あっ、うぁあ、ぁあ…」
呻き声を漏らすしかない。
どうしようもない。どうしようもないのだ。
何があったのかなんて、弥代は知らない。
五年以上昔の記憶は自分にないのだから。
だからこそ、だからこそ記憶を、過去に自分が何をしたのかを知りたかった。ただ、知りたかった。自分が何者であるかもわからないまま、死ぬことだけは何よりも怖かった。それだけは、何があっても絶対に嫌だった。
だから、だから弥代は、
「そこに、いるのか。」
返答を求めない真っ直ぐな声が届く。
自分以外誰もいなかった筈のその場所に、誰かがやってきた。
今もまだ降りしきる雨の中、しかしその声と姿には覚えがあった。
「すの、はら?」
「扇堂家から連絡が入った。お前が怪しい奴と対峙していると。言われた場所に行っても姿がなくて、総出でお前を探していた。」
「春原…」
「見つけられてよかった。」
何が、良かったというのだろうか。
何が、良かったのか。
弥代は、茫然とその男・春原を見上げるばかりだ。
それまで溢れて続けていた感情が、全て鳴りを潜めてしまったように、静かに見つめる。
「風邪を引いてしまう。こんなに濡れて、」
差し出された傘を、弥代は払い退ける。
「要らない」
「要らないわけがない。今も雨は降っている。本当に風邪を引いてしまう「要らないっ!」…」
まるで癇癪を起したこどものそれだ。
何も春原は間違った事は言っていないだろう。自分の身を案じて、これ以上体を冷やしてはいけないからと傘を差しだしてきているだけで、悪いことなど何もしていない。
悪いのはどこから見ても自分で、そんな彼の好意さえも突っぱねて、声を荒げる。それまで一瞬でも落ち着いていたのが嘘みたいだ。安定しない情緒が崩れてしまいそうな。
「心配だ?余計なお世話なんだよ!俺が心配って、んな心配されるような間柄でもねぇだろ!!俺が、俺が好きでこうしてるだけだって考えねぇのかよ!放っておけよ!俺に構うなよ!何も知らねぇお前が、踏み込んでくるんじゃねぇ!!」
酷い言葉を投げかけていると自覚はあった。
泥にまみれた顔を拭いながら立ち上がる。
意外と簡単に立ち上がることが出来て、春原から距離を取るように弥代は背を向けた。しかし、数歩も歩めぬままその身体は倒れかける。地にぶつかる直前、腹に回された太い腕が自分を抱き留めていると知る。
「危ないだろう。」
何も言い返せない。
「怪我をする。」
腕から伝う温もりが、冷え切った肌に差す。
「俺は、お前に怪我をしてほしくない。」
ぺたりと、地に腰を下ろされる。
背中に回されたその右手が、赤子をあやすように背を撫でる。
「大丈夫だ、弥代。」
左手は明確に、その存在に触れているだろうに首裏へと伸びる。
「大丈夫だ。」
彼の、肩口にその身を沈める。
「大丈夫だから。」
羽織に額を押し付ける。
「俺は、何があってもお前の傍にいる。」
「傍にいるさ。」
「何が合っても、お前を一人にさせない。」
「俺が、傍にいるから。」
春原はそう言って、弥代を強く抱きしめた。
雨の中傘もささずに冷え切った体には、その温もりはあまりにも大きく。
あれからずっと張り続けていた警戒心が和らぐように、弥代はそっと、眠りについた。




