二話
「おはようございます。」
「うん。あーおはよう、えっと…せっ、せつ…お姉さん。」
「雪那、扇堂雪那です。おはようございます弥代さん。」
「あー、そうそ、うん。おはよう雪那さん。」
眠りは浅いと言っていた割に覚醒が遅いのか、後頭部を掻きながら階段を降りてくる弥代に気付き、雪那は声を掛けた。
朝方の音はきっと頭でもぶつけたのだろうか。
遠慮なく丸太をそのまま切ったような断面の椅子に腰を下ろした。
味が薄い。水気の多いお世辞にも美味しいとは言えない簡素な雑炊を一口、二口と口に運ぶ。昨日までの朝食が少しだけ恋しく思えてしまう。そんな贅沢、きっと今後は言えなくなってしまかもしれないのに。
早々に何食わぬ顔で雑炊を啜る弥代と目が合う。
「何、舌にあわねぇ?」
「とんでもないです‼」
「あっそ、ならいいけど。」
小皿に盛られた不揃いな草臥れた漬物はいつのものだろうか。塩気を求めて一欠片恐る恐る摘まむ。舌の上で転がせば、初めは雑炊の薄さに物足りなさを感じていた味覚が限界まで刺激されたような衝撃が走る。
食べれたものではないと思わず口を押えてしまう。
「おばちゃんお替り貰えねーかな?えっ、金取んの?嘘だろこちとら二部屋分払ってやった客だぜちょっとぐらいオマケしてくれたって良いじゃねぇかよ。」
自分より後に席についたのが嘘のような速度で空になった茶碗を掲げ、ここからは見えもしない土間でせっせと動き回るだろう宿屋の夫人に弥代は声を投げた。
賑やかだ
こんなに賑やかな食卓はいつぶりだろう。
ここ数日屋敷を出てからの従者らと過ごした牛車での旅では、日によっては宿をみつけられず狭い屋形で下女と夜を明かすこともあった。朝は下女が用意した朝食を一緒に食したが、お互いに口を開くことはない静かな食事だった。
従者の氷室は元が寡黙な男であった為長年の付き合いはあったが、必要以上の会話をしたことが全くと言って程記憶にはない。
夢でも見た。そんな静かな日々を。
思い返すことを苦とは思わないが、今はこれ以上を考えるのは止めようと、まだ味の十分する漬物をそのまま一緒に飲み込んだ。
ここは十席程の小さな茶屋だ。奥は暖簾もあってよく見えないがこの店の夫婦の居住空間と台所になっているのだろうか。
二階には個室が六部屋程設けられている。湯汲をする場所もない簡素な宿だ。個室には内側から小さな栓錠があるだけの、そんな宿だった。
こうして朝食をいただいているのは自分と彼の二人だけ。昨晩は他に宿泊客がいなかったのではないかと雪那は考えた。もう一部屋借りたいと言った際に直ぐに隣の部屋を使ってくれと返事をしてくれたのは、やはり他に宿泊客がいなかったからだろうか。
暖簾を潜って姿を現したのはふくよかな体系のご夫人だ。階段上から声を掛けたり、茶屋に入った際に少し顔を合わせた程度だが、すっぴんなのか昨日とは別人のように見える。
夫人は彼がなんの遠慮もなく掲げる茶碗を無言で取り上げると、踵を返してしまう。
今回だけだからねといって再び奥に行ってしまうのだから、雪那は合点がいったと言わんばかりの顔で弥代に尋ねた。
「仲がよろしいのですね。」
「は?何の話?」
「弥代さんはここのご夫婦と面識があるのでは?」
「なんだそれ、昨日が初対面だけど?」
「そうなのですか?」
てっきり夫婦と面識があるのかと思った。先のやり取りを見て自信がわいたので聞いてみたが予想は外れてしまう。
また一口雑炊を含む。漬物を食べた後の口内には塩気がまだ残っていたので、雑炊の薄さも少しは紛れた。
(青髪に、赤目?昨晩は夕日や行灯の明かりであまり〝色〟を見ることができなかったけどと、どこの生まれなのかしら。)
食べ合わせで食べれなくはないと漬物をそのまま口に運びながら、奥から戻ってきた夫人に雑炊が注がれた茶碗を受け取る弥代を見つめる。
この島国には、古くから黒髪黒目ではない、あまりにも異質な〝色〟を宿した子供が産まれることがあった。
古い書物にそれらの記述は殆ど残されていないが、二百年前の書物にはそれらが多く記されている。雪那の家にはそういった過去の書物が多く収められていた為、屋敷の奥で一人日の当たらない生活を送っていたここ数年の間は、それらに目を通して時間を潰していた。
自分も〝色〟を宿す〝色持ち〟であるという理由もあり、雪那は意識的に〝色持ち〟というものがどういったものなのか、それに関する情報を調べていたのもある。
何故〝色持ち〟が産まれてしまうのか。
そこに血縁や遺伝というのは関わってくるのか。
二百年程前といえば海の向こうの西洋文化がこの島国に少しずつ浸透し始めた頃だ。が、それは忽然と途絶えてしまう。中途半端な歴史的書物を読み漁っても明確なそれらしき答えは見つからなかったが、それとは別の事が分かった。
〝色持ち〟は、産まれたその土地によって〝色〟が異なるという事だ。
(青は東、赤は南。私のように東の生まれでありながら東と南の混色で産まれる人も本当にごく稀にいるらしいですけど、全く違う瞳と髪をした彼はどこの産まれかしら。そんなに歳は重ねていない、見るからに子供ですし。そもそもどうしてこんな子供が一人で知らない土地にいるの?ここは初めてと先ほど言っていましたし。分からない。分からないことばかり…。)
「熱い視線すぎんだろ。」
呆れたような声が雪那の思考を遮る。
「やっぱり良いとこ育ちの雪那さんのお口にゃ合わなかったか?」
「そっ、そんな事ありませんっ!」
数口しか口を付けていない雑炊はまだしっかりと量が残っている。
下品と分かっていたが先の弥代を真似るように、雪那は一気にそれを掻きこんだ。
「で、これからどうすんだアンタ?」
夕時と打って変わった宿場町の景色を前に雪那は首を傾げる。
「これから、ですか?」
「しっかりしてくれよ。昨日言ったじゃん俺。」
『アンタ、すぐにまた変なの絡まれそうだな。もし嫌じゃなかったら暫く一緒にいてやろうか?』
そんな彼の言葉を思い出す。
「そうですね。どうしましょう。従者らは、きっと難しいでしょうし。」
「その、なんつったけ?ひむろさんがどんだけ強いのか知んないけど、崖から落ちて深手負ってたんだろ。それで何人も相手取ったって。俺ならしっぽ巻いて逃げるわ。そんな所でくたばりたくねぇよ。」
夜中に雨でも降ったのか。宿場町の至るところに小さな水溜まりが出来ている。昨日はなかったものだ。
弥代はそれを軽く飛んで避けながら宛てもなく先を進む。後ろをついていくだけの雪那を、口振りからして気分が沈んでいないかと気になって振り返るとそうでもない。寧ろそんなに規模はない吉野をあちこち見渡して口元を緩ませている。
「現金な奴って、言われたことねぇか?」
「え?」
宿屋とは一風変わった構えの建物が立ち並ぶ区域に差し掛かったころ、脇の店から恰幅の良い男が戸を姿を現した。
弥代には見覚えがあった。昨晩世話になった両替商だ。
そういえばこれぐらいの場所でつかまえたっけな、と思い出しながらも声はかけずにいた。酒を飲んでいたように記憶していた為、相手も自分の事など覚えてない、目を覚ましたら何故か相場よりも安く小判が手元にあったよく覚えてないが儲かったと、何かあってもそれぐらいだろうという考えから、素通りしようとした、その時だった。
「雪那様ではございませんか⁈」
数歩後ろを歩いていた連れの名前を男が口にし、同時に小さな悲鳴が聞こえた。素通りする気でいた弥代は慌てて振り返ると、自分よりも背の高い女に至近距離でくっつく両替商がいた。
帯に乗った贅の象徴かのような腹が、上等な着物越しにも揺蕩うのが見てとれる。
肉付きの良い指が彼女の手首を掴むのを見て、弥代は少し声を荒げた。
「何してんだアンタ!」
そんなに距離は離れていなかった為大きく踏み込めば直ぐに両替商と彼女の間に無理やり割り込む形で詰めることができたものの、相手は昨晩無理を言って世話になった相手である為強くは出れない。
腰に吊るした刀には一切手を伸ばさずに、掴む手だけ払うようにすると、驚いた両替商と目が合う。
「なんだこの子供はっ!」
「いきなり連れの女に突っかかる相手の方がなんだってんだよ!」
見たところ得物は一切持っていなそうだ。
宿場町とはいってもそこに住まう人も少なからずいる。
なんだなんだと離れた位置からこちらの様子を窺ってくる輩がちらほらと目に入る。
ここは路地裏ではない、人通りのそこそこある通りだ。
下手に動きまわるのは決して賢くない。
「雪那さん、走れるか?」
少なくとも相手は両替商を生業にしている男だ。何もしていなくても金が転がり込んでくるような仕事をしているのだから金にだって困ってなさそうなのはその風貌からして明白だ。手練れの連れが数人いてもおかしくはないかもしれない。
何より〝色持ち〟である自分たちがこうして目立つのはあまりにも肩身が狭い。〝色持ち〟とは、元来この島国では迫害の対象とされてきたのだから。
「雪那、さん?」
後ろにいるはずの彼女の返事がない。
振り返るとそこには掴まれた手首を抑えながらも、自分ではなく両替商を驚いたように見つめる雪那がいた。
「三ツ江…様?」
「はい、三ツ江でございます。」
「驚きましたよ。まさかこのような土地で雪那様にお会いすることとになろうとは、この三ツ江想像もしておりませんでした。
その藤の花よりも深みのある御髪に、我々を常に見下ろすような晴天の如き澄んだ瞳。私のよく知る貴女様に間違いはございません。いやはやしかし暫く見られない間に大変お美しくなられたご様子。
三ツ江は自分のことのように喜ばしく思います。本日は息災でございます。
もしお時間よろしければこちらでお話でも如何でしょうか?」
三ツ江、と名乗った両替商は少々興奮気味に早口で捲し立てると、つい先ほど弥代により払われた手首を抑えたまま今しがた自分が出てきたばかりの店に雪那を招き入れた。
一度は断りを入れた雪那だったが、よくよく考えれば一緒にいてくれるといった弥代がいても自分が見ず知らずの土地にいるという事実は変わらないのだから、偶々出会えた知人に頼れるのなら頼ったほうがいいのではないかと思い、お言葉に甘えることにした。
三ツ江に案内されて店の敷居を跨ぐ雪那の後に続こうとした弥代は、敷居を跨ぐその際に肉付きのいいその手により制されてしまう。
「何だよ。」
「坊ちゃまは、どのようなご関係で?」
「連れだよ。さっき言ったろ。何か文句でもあんのかよ?」
人当りのよさそうな笑みから一変、そんな顔も出来るのかという形相と向き合っていると、いつまでも中に入ってこない弥代に気付き雪那が助け舟を出す。
「三ツ江様、弥代さんは私の恩人なのです。どうか同席をお許しいただけないでしょうか
?」
その一言ですっと消え失せる鬼のような形相。くるりと振り向く頃には先ほどまでの表情を浮かべる。その器用さに不快感を抱きながらも店の敷居を跨ぐ。
いざ敷居を跨ぐと、今朝まで自分たちが世話になっていた茶屋が霞むような、天と地の差と言わざるをえないような、そもそも比較をすることが馬鹿々々しいぐらいの煌びやかな装飾が施された空間が広がっている。
昨晩の件もあり飲み屋なのかと思ったが、少々派手な造りの外観からは想像もつかない一階は先の宿屋同様に茶屋になっている。といってもまさか敷居を跨いだその先に上がり框があるなんて誰が想像できるだろうか。
不快感とは別のものが込み上がってくる。弥代には分かっている。それが自分の場違いさだと。
三ツ江に託されるまま静かに草履を脱ぐ雪那は然程この店の内装に驚く様子はない。寧ろ今朝までの茶屋の方が興味津々に辺りを見渡していたぐらいだ。目に映るもの全てが珍しいと言わんばかりに、キョロキョロと自覚があるのかないのか見ないをするのも難しかったからよく覚えている。
「あら三ツ江様、散歩に行かれるのではなかったのですか?」
脱いだばかりの所々に隙間が目立ってきた草履を、適当に目についた下駄箱に投げ入れた辺りで、奥の部屋から黒髪の給仕らしき女が姿を現した。
つい先ほど店を出たばかりの客人がすぐ戻ってきたのだから、店側からすればどうしたのか気に掛けるのは何もおかしいことではない。
「いやね店の前でこちらの、昔懐かしい方にお逢いしたものでしてね。立ち話もなんですんのでゆっくり腰を据えてと思ったのですよ。まだ昼前ですから、奥の座敷が空いていますでしょう?部屋とお茶の用意をお願いしますよ絹。」
「かしこまりました。直ぐにご用意いたしますので暫しお待ちくださいませ。」
絹、と呼ばれた女は小さくお辞儀をするとそそくさと廊下の奥へと消えてしまう。
去り際、弥代と雪那を一瞥しながら。
「こちらのお店は、よく利用されているのですか?」
今朝の失敗を忘れたか。
軽率に三ツ江と絹のやり取りを見て雪那がそう零す。
思わず小さく肘で小突くも、なぜ小突くのかと驚いた表情をするので弥代はどっと疲れを感じてしまう。
しかし、三ツ江の答えはどちらでもなかった。
「いいえ。この店は三ツ江が経営をしております、店の一つなのですよ。」
ほんの一時、上がり框に腰を下ろして雑談をしていると先の女が準備が整ったの顔を見せる。
小さく会釈をしてそのまま頭を下げたままそこに立ち尽くすと、三ツ江自身がこちらです、と案内する。
襖が閉め切られた部屋をいくつか通り過ぎる、突き当りの座敷だけ襖が開けられていた。
「さぁ、どうぞそちらの座布団をお使いください。」
「お茶をお注ぎします。前を失礼いたします。」
長机を挟んで腰を下ろした三ツ江と対面する形で腰を下ろす。
手早く前に差し出される茶は色もよく香りも立つ。今後二度とお目に掛かれないのではないかと思う程に。
右隣でありがとうございますと女に礼を述べる雪那とはまた違った、慣れない丁寧な扱いに鳥肌が立つ。
適当に縫い合わせただけの穴あきの左肩を少しだけ擦る。
「寒かったでしょうか?何か羽織るものをご用意いたしましょうか?」
「要らねぇ要らねぇよ。そういう気遣い俺にしなくていいから。」
何を考えているのか分からないような表情でじっと距離をつめて問う女に弥代は少しだけ大きい声を出す。
後ずさりたくとも少しずれれば雪那にぶつかると思い踏みとどまるように顔を反らすと、向かいの三ツ江と目が合う。
「絹や止めておやり。まだお若い坊ちゃんです。女性に慣れていないのでしょうよ。」
「これはこれは。大変失礼いたしました。
絹は廊下におりますので何かございましたらお声掛けくださいませ。」
女性に慣れていないという発言や、先から自分を坊ちゃんという三ツ江、それに対して口を開かない雪那。
訂正をしたほうが良いのではないかと思ったが、そんな自分の話をするために通されたわけでもない場所で触れなくてもいいだろうと、弥代は口を閉ざした。
(坊ちゃんねぇ…。)
「そうでしたか、そうでしたか。道中を賊に…。大変お辛い目に合われたのですね。この周辺は里からも離れております。誰が土地を治めるわけでもない無法の地。
国境でもあり、周囲を山々や自然に囲まれております。また甲州道という事もあり商人らが多く行き来をします。山道では賊の目撃情報が多いのです。里から出ることも少ない杷勿様もきっと知らなかったのでございましょう。心中お察しいたします。」
「そんな、私は何も…、」
「大切な従者を亡くされてしまったのです。無理をなさらないでください。」
机越しに伸ばされた手が、湯呑を包む雪那の手にそっと触れる。
「この三ツ江、雪那様のお力になれませぬでしょうか。些細なことでも構いませぬ、何なりと仰ってくださいませ。」
異様な光景だと違和感を感じる。
初めは他愛もない世間話をしていた二人。話はいつからかどうしてこのような土地に従者も連れずにいたのかという、三ツ江からの疑問に焦点が合わさる。
昨日自分が聞かされたのと同じように長々と下手な雪那の話に相槌を打つ三ツ江。しかし話が少しでも逸れそうものならすぐさまに合いの手を挟む。
さながら誘導をするかのような話の運びは、会話に参加せずに静かに耳を傾けていた弥代だから気付けたやもしれない。
話をしている当の本人は一切気付かず、託されるままに喋っていた。
そんな会話の中でも一つだけ。
雪那が一切触れなかった話題があった。縁談話だ。
元々祖母に言われて縁談相手の元に向かう事になったというのでこの地を訪れたと言っていたのに、彼女は言った。
見たこともないものを見て見たいと思ったのです、と。
相手が顔馴染みということは恐らく雪那自身の家、彼女が貴族であることは彼‐三ツ江‐も知っている筈だ。
行く宛てがない、これからどうすればいいのか分からないと昨晩は言っていたが、思い返せば彼女は一度たりとも家に帰りたいとは言わなかった。
有り金だってたかが知れてる。たとえ自分が手を貸してやるとは言ったとしても、貴族の娘だというのなら家に帰りたがるのが普通なのではないかと、疑念が産まれた。
一刻程は経つだろうか。
この部屋は好きに使って構わない。今日まだ泊まる宿がないのなら泊まられても良い。心の整理が付くまでお好きにお使いください、と話を終えそう言い残して三ツ江は静かに部屋を出て行った。
初対面が良くなかったが、決して雪那に対する態度は悪くない。知りもしない相手の腹の中など早々探れるものではない。
先の会話の中での雪那の発言や、それに対して追及をしない三ツ江と、彼自身に対する違和感が拭いきれないが。
不揃いなボロボロの包帯が巻かれた両の手を弄りながら、何をするでもなく寛ぎ目を閉じている雪那に視線をやる。
悪意があるようには思えない。
どう思い返しても、いや一日足らず傍にいただけでは三ツ江と同じで断言はできないが、少なくとも扇堂雪那というこの女はただのお人よしのようにしか思えないのだ。
そう、この女扇堂雪那は……。
「せんどう、…扇堂?」
心の整理が付くまでいていいというお言葉に甘えて本日はお世話になることになったが、雪那の中で当に整理はついていた。
薄情な人間と思われても構わない。三ツ江は亡くされたのだからと口にしていたが、亡くなったというその証拠はどこにもない。
いやあの子。あの下女は難しいだろう。体力もそんなになかった。だとしても従者、彼はまだ生きているかもしれない。それもまた証拠はないのだけれども。
でも何故だろうか、あの従者が死んだとは雪那は到底思えないのだ。だからこそ、明日にはここを発たなくてはと心に決めた。その時だった。
「せんどう、…扇堂?」
今まで一言も口を開かずに、手首あたりに巻かれた黄ばんだ包帯を手悪戯していた彼が、自分の家名を反復するのだ。
その声に閉じていた左目を開く。
少しだけ青ざめた表情でこちらを凝視する彼と目が合った。
「どうか、されましたか?」
「雪那さん、アンタその、えっと、どこの産まれ?」
「産まれですか?相模国は大山の麓に位置します、榊扇の里になります。」
答えれば勢いよく立ち上がりそのまま後ずさる。
雪那が驚くのは当然の事だった。
「弥代さんっ!本当にどうかされましたか⁉」
手を付いて自分も腰を持ち上げようとすればすかさず眼前に手を突き出される。
強張ったような少しだけ震える手をせめて取ってはいけないかと思わずにはいられなかった。
榊扇の里。
それは相模国は許より霊山や、雨乞い信仰の土地として広く知られる有名な大山の麓に広がる、半径二里程の小さな里だ。
三都(江戸、京、大坂)には及ばずとも活気賑わう里として近隣の国に住む者なら誰もが知っている。
その里は代々ある一族が治めているとされている。
名を、扇堂と言う。
「アンタなんでだよ!落ちこぼれの没落寸前貴族か何かかかと思えばあの里主の跡取り娘⁉なんでそんなのが二十一にもなって未婚でこんな所ほっつき歩いてんだよ‼はーーくっそ!面倒事に首突っ込んじまったのかよ俺はっ‼」
眼前の十つあまりの鋭い眼光が私を射抜く。
日は当に暮れた。先ほどまで私と刀を交えていた彼らはいつの間にか姿を見えなくなり、その代わりと言いたげに狼の群れがそこにはいた。
何という事だ。牛車に下半身を押しつぶされ逃げることも許されずそのまま事切れてしまった、あの年端もいかない下女と、当の昔に絶命した牡牛は狼らにとっては格好の餌だったのだろう。
垂れ流しにされた血の匂いにつられ、夜行性ということもあり活発な狼は一匹、二匹と徐々に集まり出して群れとなってしまったのだ。
気付けば姿を見なくなった彼らも食い殺されてしまったのか、辺りには覚えのない亡骸と血溜まりが出来ている。
この場で生き延びている人間は、最早私だけとなってしまったのだ。
逃げればよかった。我が身可愛さにこの場を可能な限り足掻くように逃げればよかったのだ。
しかし私にはそれが出来なかった。
横転した牛車に駆け寄る。死骸を貪っていた狼が気付き距離を一瞬取る。その隙を見逃さず、横たわるその体を抱き上げた。
過去に何度か高さが足りないというので持ち上げてあげたことのある体は、目も当てられないほど軽くなってしまっていた。
無残に食い荒らされた下女を、私はそのままにしておけなかった。死して尚その体を貪られるなど、こんな年端もいかない少女が辿っていい筈がないのだ。
せめて、せめてゆっくりと土に還してやれないものか。
背後から狼の群れが襲い掛かってくる。
今抱き上げたばかりの彼女の体を囮にこの場に捨て置けば私は奇跡的に助かるかもしれない。ふと、そんな考えが脳裏を過る。それを振り払うように私は猶更彼女の体を強く抱きしめた。
「何をしているの。」
聞きなれた声だ。
ここ数日聞かなかったその声が澄み切ったこの夜に静かに響き渡るのと同時にそれまで目前に迫り私を射抜いていた群れの眼光が一瞬で消え失せた。
まるでその場で何かが爆ぜたような痕跡と、強烈な血の匂いが私を襲う。
使い物にならない刀を地に突き立てる。空っぽの体の奥から言い知れぬものがせり上がってくる。
彼女の体をそれでも離さず、反射的に酸の混じったそれを吐き出した。
暫くして視界の端に小さな裸足が入り込む。
「氷室、貴方は、ここで何をしているの。」
「水虎、様…。」
夜の帳に溶け込むような長い長い髪を靡かせるその主は、人ならざる尖った耳と鋭い牙を持つ。
腰を屈めると、私の頬に長い爪を這わせて問うた。
「雪那は、どこにいるの?」
それは、それは、まるで昨晩の事のように、覚えております。
燃え盛るは、私の大切な大切な娘ら棲まうあの御屋敷。
赤子の世話を頼まれ、ほんの一時。
私が席を外した間に、それは起こってしまったのです。
火に怯え泣き出す赤子を抱えたまま、私は火中に飛び込みました。
悍ましい。なんとも悍ましい。
あの蒼が、あの娘を私から奪い去ったのです。
片時も忘れはしません。忘れてなるのものですか。
何年、何十年先も私はあの蒼を許しはしないのです。
嗚呼、だとしても私は護れるでしょうか。
あの娘が残した、あの大切な大切な幼子を。
私はもう、失いたくはないのです。