三話
“それら”が訪れたのはまだ陽も高い頃だった。
里の東門から屋敷までの伝達には早くとも片道に一刻は有する。
五人態勢で組まれた門の警備を任された内の二人が急ぎ屋敷へと向かってから既に半刻は経つだろうか。一時一時が長く、場の空気は重く息苦しい。
下がり藤の紋を刻んだ者は、何があっても里に踏み入らせてはならないと。
それまで静かに、沈黙を保っていた集団から声が聞こえた。
まるで老いた竹のような“色”を持つ痩躯な男が腰を持ち上げた。
一歩。男が門に近寄る。
黒い布で顔は覆われ、相手が何を考えているのか見当もつかない。
門番である彼も思わず、一歩、後退する。
と、その場を一際強い突風が吹き抜けていく。
突然足元が暗くなるのに、門番が空を仰げばそこにはそれまで雲一つなかった澄み切った青空の中で反射する流体を見た。それを認識した時にはもう既にそれは空から消え失せ、同時に激しく地面に打ち付ける、まるでそれは豪雨の様に一瞬で周囲を水浸しにしてみせた。
「そうですか。立入りは、許可いただけませんか。」
踏み出した一歩をそっと戻し、すぐ近くにあった岩場に男が腰を下ろした。
突風が吹き抜ける。
一瞬にして足元には影が差し、何かと見上げればそこには澄み切った晴天に反射する巨大な流体が見えた。
何かと。近衛が理解するよりも早く、それは瞬きをする間もなく見上げた視界から消え失せ、そして激しい音を立てて地面に降り注いだ。
瞬間的な通り雨のように、自分達が立つ場所から先を水浸しにする。
雨降り信仰として知られる名高い霊山の麓に広がるこの里を守護せし存在、かつてはただの妖怪風情であった紛い物の手によるものかと、そう考えていれば、背後から聞きなれた低い声色が鼓膜を揺らす。
「そうですか。立入りは、許可いただけませんか。」
老竹ようなの色褪せたそれを持った男が、そっと踵を返す。
今しがた腰を持ち上げたばかりの岩場にまた腰を下ろせば、一つ息を吐く。
「私は構いません。私はただ待つだけです。えぇ、待ちましょうとも。時間はいくらでもありますからね。」
黒い布地で覆われたその表情は、その男が何を考えているのか全く見当もつかない。
近衛は、ふと、昨晩の内に里に入らせた青年の事を思い出す。
「彼は如何いたしますか?そこまで長く保つとは、私には到底思えません。」
男にそう投げかけると、一呼吸置いた後、男は静かに口を開く。
「構いません。」
「あれは、長くありません。所詮あの子は、使い捨ての駒に過ぎないのですから。」
男は、自身の顎を撫でるように左手を持ち上げた。
顎下まである布のせいで手元は窺えないが、近衛・女は後悔した。
聞かねばよかった、と。
それは、その左腕を伝う、赤い筋が見えたからだ。
男の悪癖だ。
当人は、全く気付いていないのだろう。
痛みに気付くこともなく、その親指に歯を立てる。
無意識に、歯を立てる。
何度も見てきた。
何度も見てきたから、何をしても意味がないことを近衛は理解している。
それはこの場に居合わせた顔ぶれも同じだ。
口から出てくる言葉はきっと、男の本心ではない。
もっと本当は違う事を思っているはずなのだ。
だが、それを男は口に出せない。出せない。出してはいけない。産まれた時からそのように教え込まれてきたからだ。
桑年を迎えた今でも、刻まれたその教えから抜け出せないでいる。
哀れな男だと、近衛は心中で目を伏せる。
男の左の親指は普段は手甲により隠されていることが多いが、時折傷口が開くのだろう。純白の傷を赤黒く染め上げるのが、あまりにも痛々しく。
男は、今も内情を曝け出すことも出来ずに、ぐっと、堪えている。
自分たちを導くべき立場にいるその男が堪えている事を、自分たちも共有するかのように目を逸らす。見て、見ない振りを今日もする。
本当は、あの子を、助けたいくせに。
もしこの世に、貴方のその行為を咎めることが出来る人がいたとするながら、
それは今も昔も、あの人だけだと。
そう、私達は知っている。
「えー!?だって五十両って書いてあんぞ!ざけんなデコ広っ!きっちりかっちり払うもん払え!!」
「請負う側がデカイ口叩くじゃありませんよ!?渡しなさい!無効です!そんな額無効ですからね!!」
「渡してはだめです弥代さん!今までだって承認落ちしたものが多いんです!その分を含めたら五十両はいきます!つまり私たちは五十両を頂戴する権利がある!ある筈なんです!!」
「何を根拠にあれらに五十両の価値があると仰るんですか貴方は!?少しはまともな方かと思ったら貴方もそこそこにとち狂った事を言うんですね!?驚きを隠せませんよ私は!」
「おかげ様で食事も儘ならないんですよこちとら!」
「わぁー、絶対に首突っ込みたくないなぁ。」
春原討伐屋の裏口は、直ぐ裏手の東区画の長屋横丁に面している。
書面作成などを行う部屋にはあまり広くはないが縁側が設置されており、そこから裏口を使って横丁へ足を運ぶことも出来た。
最近頻繁に芳賀は裏口から横丁の年配女性らに声を掛けられる事があった。
それのどれもはちょっとしたおべんとで、余った分で作ったからと握り飯や鍋煮込みを頂戴することが多く、今日も今日とて芳賀以外誰もいないだろう時間帯を見計らって声を掛けてきたご夫人らの手によって、その腹をたらふく膨らませてきた所だ。恐らくは周辺の巡回を行っていた相良が戻ってきている頃合いだろうが、賄賂に用意された茶饅頭でも献上しておけば叱られることはないだろうと、そう思って裏口から入ろうとすると、ドタバタと騒音と喚き声が聞こえてくる。
そこまで音は小さくないので裏口の直ぐ目の前にある部屋からだろう。
恐る恐る戸を開けて中を覗くと、開け放たれた縁側越しに見える室内には、よく見知った三人の顔ぶれがムキになって掴み合い喚き散らしている。
縁側とは反対に敷地を壁沿いに右に回る。正面口から上がろうとすれば、そこには不揃いに散らばった草履が六組程。それだけで大所帯だ。
先程縁側越しに見えた三人以外に他にも誰かいるのかと、それならどうしてあの三人を止めないのかと疑問に思いながら中庭に面した廊下を渡る。
中庭の蔵には外から見覚えのある錠前が掛けられているので、伽々里が不在なのが分かる。いや不在でなければあんなにも騒々しく暴れまわっている人達がただで済むわけがないのだ。廊下越しに部屋の中を覗けば、案の定の三人が胸倉を掴んだり頭を抑えつけあったり、髪の毛を乱れさせたりと荒々しい光景が広がっていた。
付き合いが短いわけではないので知らなかったという事は一切ないのだが、こうしてよく見知った相手が大人げなく取っ組み合いをしているのを目の当たりにすると、出てくるのは空笑いだ。
師として一応仰いでいる筈の相良を含め、尊敬している春原が大切にしている弥代、形式上雇い主にあたる里の大主の元に仕える部下の佐脇の三人の組み合わせは、間違いなく口に出した通り、首を突っ込みたくない、だ。
三人は分かったが、残りの三人はどこだと部屋の中を見渡せば、直ぐ部屋の隅に見覚えのない三人が肩を寄せ合って、暴れる三人に遠い目を見ていた。
「さーて!字の練習でもするかなーっ!」
「氷室、氷室。少々お聞きしたいことが…」
そういえば彼はまだ当時屋敷にいなかったから知るわけが無いと気付いたのは、呼び止めてからだ。
呼び止めた手前、宙を彷徨う宛のない指先もどうしたものか。眉をひそめて必死に考えてみるが、上手い返答が浮かばずに雪那は下手なから笑いを浮かべてみる。浮かべた当人も違和感でしかない。
「どうか、されましたか?」
「あはっ、あっ、いえっ、その?えっと、聞こうと思ったのですが、氷室は知らないかなと思いまして…。」
「そうでしたか。」
以前よりも多く、氷室と他愛もない話をする機会が増えた。
言わずとも弥代の影響がそれは大きいだろう。
今までのように離れでただ日々を口を閉ざして過ごすことはない。
言葉を交わせる事が今の雪那はどこか嬉しかった。
そんな雪那に声を掛けられ、氷室は小首をかしげながら再度口を開いてみせた。
「私が聞いてはならない話ですか。」
「そういうわけではないのですが…」
「では、お聞かせいただけますか。」
日中屋敷の外、里の大通りで出会った幼馴染みと名乗る青年の話をした。
名前には覚えはあるのだが、その見た目があまりにも記憶の中の彼と合致しないこと。しかし彼が話す過去の思い出には複数思い当たる節があったこと。
「彼は、その、当時"色"を持っていなかったと、私はそう記憶していたのですが。彼は、恐らくはその、西と、あまりにも希少とされる"黄"を有していました。」
「"白"に、"黄"ですか。」
老人のように抜け落ちた髪色とは異なる、まだ若々しさすら感じさせるあの髪は、生まれついてのものでないと腑に落ちない。
失礼だとは思ったがまじまじと見つめてしまった生え際には1寸たりとも黒がなく、地毛であることは明白だろう。
"色持ち"の中には、住む場所によっては迫害を恐れ、幼い頃から染料で目立つ隠しようのない髪色を黒く染め上げるものも過去にはいたというが、逆など聞いたことがない。としたならば、やはり彼は誰なのだろうか。
『誰も貴女の幸せなんて望んでいない。』
思い返すのはかつての彼等だ。
『雪那ちゃん、久しぶりやなぁ!』
一方的に自分の事を知られているというのは、怖いと、弥代が昼間に言っていた言葉を思い出した。
『初対面だってのにいきなり名前呼んできてよ。気色悪いな。』
初対面なのだとしたらたしかに気分が悪くなるだろう。
でもあの口ぶりは、相手が自分の事をよく知っていることが分かった。
『髪めっちゃ綺麗やね。伸ばしてるの、よぉ似合っとるよ。』
『風の噂でな、里の外に嫁いだとか聞いて夜も寝れんかったのよ。』
『懐かしいねこうして話すのも。あいつもいたら良かったんやけどねぇ。』
『そういやさっき聞いたんやけど、最近仲良い子がおるんやって?どんな子?』
『饅頭ええなぁ、今度ワイとも一緒に食べに行こう?』
『目ぇ、もう痛おない?』
正直話していて違和感はどこにもなかった。
それこそ自分と過去に面識があるだろう相手と言われても頷けた。
あまりにも当たり前のように会話が進むので、話している最中は何も気にならなかった。だからこそ、会話が途切れたり、こうして時間をおけば置くほど分からなくなるのだ。
誰なのだろうか、と。
雪那がそう考えながら俯いていると、聞こえないぐらいに小さな声で氷室がポツリと零した。
「下がり藤。」
「たでーまぁ」
春原討伐屋の詰所を出て大通りを挟んだ西区画の、長屋が密集する横丁の端の部屋が、四月程前から弥代が暮らす家だ。
屋敷での世話から解放され、一人暮らしを始めると言った当初は、雪那にこれでもかと心配された。長屋に到底入り切らない程の家財道具を確認も取らずに用意しようとしてきたものだから、流石の弥代もそれには雪那の頭を叩けばどこからともなく水をぶっかけられ、叩かれた当人は状況を理解できずに、怪我はないかと囲う従者の腕に守られるのだから、お前はちゃんと周りから愛されてるよ、なんて思えてちょっとだけ、ほんのちょっとだけ羨ましいなんて思ってしまったのは口が裂けても言ってやらない。
そんな雪那の気遣いのおかげで四畳半程しかない長屋の一室には一人暮らしを始めるにはしては十分すぎる家財道具で充実していた。
里の秋や冬はとても冷えるから欠かせないと言って押し付けられた金属製の熱が逃げにくい貴重な金属製の火鉢に、物書きをするわけでもないのに小さなちゃぶ台とはまた別に掘りまで施された文机。
箪笥は一人だというのに四段構えで、淵にはこれまた洒落た金具があしらわせた箪笥に、やはり冬は冷えるからと一組あれば十分な筈の寝具を、たっぷり綿の詰まった掛布団まで寄越されたわけだ。
流しには一通りの調理道具が使うわけもなく並べられているが、弥代はまだ一度も触ったことはない。
自炊といっても雪那と出会う前はそれこそ野山の動物か川辺の魚を取って食べるぐらいで、里の少々品のある食材では思うように作ることも出来ず、食事の大半は外で食べることが多かった。
一人で食べる食事程、寂しいものは無い。
雪那と出会う以前は一人でいることが長らく当然であったが、一緒に過ごすようになってからは誰かと笑いながら食べることが楽しくなってしまった。長屋なんてそれこそ家族で暮らしてる者が多いから、一つ隣でも薄い壁の向こうから聞こえてくる賑やかな会話が聞こえてくると、自分がこの広い人で溢れた里の中でも一人なんだと思えてしまってしようがなかった。
だからこそ春原討伐屋で稼いだ分で飯屋に転がり込んで、賑やかな中で飯にありつき、家に帰れば床につく。そんな、生活を続けていた。続けていたのだが、それは、そんな弥代の静かな日々を壊す存在が、突如として現れた。
「弥代ぉ~、おかえりぃ~!」
間延びした甘ったるい声で自分の帰りを迎えた人物は、部屋の真ん中で鍋敷きの上に置いた銅鍋から匙で碗に茶粥らしきものをよそる可憐な少女だ。
昨日出会ったばかりなど誰も信じないような、前々からそこにずっといたかのような口振りで迎え入れられるもので、弥代はその光景を素直に受けいられなかったが、鼻腔を擽る茶粥の香りに釣られ、素直に草履を脱ぐ。
「ただいま。」
「うん!おかえりなさい!ちゃんと言えて偉いね!」
彼女は詩良という。
詩という字に良と書いてしら、と読むそうだ。
学のない弥代でも流石に自分の名前の字ぐらいはどんなものか説明できる。書けるかは別として。
透き通るような指通りの良さげな若干青みを帯びたような白髪に、燃ゆる火のように鮮やかな赤い瞳をした、"色持ち"の少女だ。
一際目立つその赤い瞳から産まれは南だろうかと、昨日の夕暮れ時、雪那と別れてから暫くしてすれ違い際、そんな事を考えていたのも束の間、あまりにも自然に腕を絡められた。
『会いたかったよ弥代!ボク、キミに会いたくて居てもたってもいられなくて来ちゃった!』
あたかも面識のあるような素振りで、昼間に会った雪那の幼馴染という和馬以上に馴れ馴れしく絡みついてくる名前も知らない存在に、弥代は素っ頓狂な声を上げた。周りの目もあったが、本気で驚いた。驚きすぎて咥えていた草を落としてしまう程に。相手はそんなのまるでそんな事気にする事無く、より一層に体を擦り寄らせ密着したままで弥代の名前を、それそれは愛おしそうに呼んだ。
『誰だよ…アンタ、』
絞り出した声は、当然ながら若干震えていた。
衝撃的な出会いを迎えた直後、彼女は奇妙な服装でその場で回って見せてから弥代の姉であると主張してきた。
「あっ、姉ぇ?!」
「そうだよ!ボク弥代のお姉ちゃんなの!双子のお姉ちゃん!ずっと会いたくて会いたくて探してたんだよ!」
「姉?」
「うん!弥代のお姉ちゃん!!」
「姉…」
「そうそう!」「あっ、え?あね?」「お姉ちゃんだよ?」「あね、あれ?あねってなんだっけ?」「もー!意地悪な事言わないでー!」
なんとも無意味な応答の最中、さりげなく絡められた腕からすり抜ける。会話に適当に相槌を打ちながら徐々に、徐々に弥代は距離を取りだした。
そしてそのまま自分が暮らす長屋の戸を少しだけ開けて、隙間に体を滑り込ませて、つっかい棒を無常にも落とした。
「なんで締めちゃうのー?!」
「うるせぇ!知らねえ奴にいきなり家族名乗り出られてはいそうですか、なんてなるわけねぇだろ!?知らねぇよお前みてぇな奴!!」
「ちょっとちょっと!?さっきまであんなにお話してたじゃないか!なのにそんな事言うのは流石に酷いとボク思うんだけどなぁ!?」
「あんなの話したの内に入るか馬ーー鹿っ!受け流してたんだよ!!面倒くせぇからな!!」
「どうしてそんな酷いこと言うのさ!?!?折角!折角ボク弥代に会いたくて、ずっと、ずーーーっと探してたのにぃ!」
締めた戸口をガタガタ、ガタガタと。つっかい棒で開くことはないが抵抗するように中に無理やり入ろうとするように揺らす存在は恐怖しか弥代に与えない。
押さえつけるようにつっかけに指をかければ、少しは収まる。
戸口越しに相手が声を荒らげてくるので、つい弥代も声を荒らげ返してしまった。
暫くそんなに押し問答をしていると、なんだなんだと外が若干騒がしくなっていく。直ぐ隣に住む子宝に恵まれてた長谷さんに、向かい側に住んでいる物書きの石蕗さんや、長屋に住む顔ぶれの声が聞こえてくるのに、弥代は焦るばかりだ。その内騒ぎを聞きつけた長屋の大将がどうしたどうしたと下駄を鳴らしてやってくる音も聞こえてくる。
「夕暮れに何を騒いでるんだい坊主!」
「坊主じゃねぇってんだろ爺さん!ちげぇんだよ俺じゃなくて喚いてるのは「ボク弥代のお姉ちゃんなんです!」遮るな!!」
声高らかに、戸越にしっかり手を天に向かって伸ばすような影に弥代が不味いと気付いた時には遅かった。
それはそれは見事なものだった。
双子の姉を自称する女は弥代が持ち合わせていない信用という武器をその容姿と胡散臭さしか感じない筈の泣き演技で掴み取り、その場に居合わせた長屋の住人達の同情を勝ち得た。長屋の大将には住まわせてもらっている、間借りさせてもらっている立場なので強く出る事もできず、折れたのは当然弥代だった。
嫌々、つっかえ棒を取り払い中に招き入れる、しかし弥代は距離を保つ事を条件に一晩だけだからな!と彼女の滞在を許可した筈だった。
短時間の間に起きた姉を名乗る彼女の件で、どっと疲れが押し寄せてきたのだ。昼時に雪那に奢ってもらった一口饅頭ぐらいじゃまともな腹の足しにもなりゃしない。そうして弥代は早々に寝、朝方彼女が目を覚まさない家に家を出たのだ。
だというのに。
「美味しい?」
そう訊ねる彼女は夕暮れに家に帰ってきても、当然のようにそこにいた。
普段なら絶対に手をつけないような調理道具。
ぐつぐつと煮え立つ茶粥と、どうやって用意したのか分からない大根の漬物は、歯ごたえもあるし上に振りかけられた万能薬としても知られる胡麻もあって美味しい。でもそのまま美味しいと答えてしまうのは癪で、まぁまぁと、そう、返した。
屋敷で世話になっていた頃は毎食雪那と同じものを食していた。
静かに離れた所でついでに飯を取る氷室もいたが。
飯屋に言っても同じ釜の飯を食うわけもない。
これは昨晩のように騒がれて長屋の住人らに責められたくないからで。
だから、そう。
別に今無理に追い出すことはないんじゃないかと、少しだけ考えてしまう自分がいる事に弥代は目を逸らした。
昼は和馬と名乗る青年の財布で飯をたらふく食べたというのに、空腹に耐えかねているわけでもないのに、本当に少しだけ。
悪くないのかもしれない。
湯浴びに行くにしても、既に横丁の木戸は絞められてしまったようで。
秋口は夏ほど汗をかくこともないのでそこまで気にする事はないだろうと。
ただ顔だけは洗ってから寝たいと横になっていた体を起こすと、直ぐ近くに彼女がいた。
「んだよ。」
「見てるだけー」
声をかけられた事が嬉しいのか、目を細める。
双子の姉だと、彼女はそう言った。
冗談だろうと思わずにはいられない。
だってそうだろう。瞳は確かに近い色をしているが、髪色は若干の青みを帯びているように見えなくはないが白だ。
"色持ち"に遺伝性はないというのは、よく知られた話だ。
親が"色"を持たずとも、産まれた子が予期せぬ"色"を持っていることもある。だからこそ気味悪がられるし、大人になる前に中には不吉の象徴として手に掛けられてしまうこともある。本来"色持ち"なんていうのは迫害の対象なのだから。
と、その"色"を見て思い出すのは、いつだったか雪那が話していたこの国では産まれた地域によって"色"が異なるという事だ。
赤は南、そして白は、
「家族とか、嘘だろ。」
「へ?」
白は西の者に多い。時折更に一部に黄が混ざることがあると話していたが、その大半は白だという。
白と言っても、墨汁にたっぷり水を含ませたような薄墨のような色の者も中に入るらしい。屋敷の下女の中にもやたらと白い一つ結びの女がいた。弥代が屋敷を出る頃ぐらいに雪那の身の回りの世話係として東の離れに何度か姿を見せるようになっていたので覚えている。
たとえ彼女が双子の姉を、自分の家族を名乗ろうとも、遺伝性もなく、白である彼女が青い髪をした、真逆に位置する東の特色を持つ自分と繋がりがあるわけがないのだ。
「家族だよ。」
「家族だもん。」
「弥代とボクは二人ぼっち。」
「ボク、弥代のお姉ちゃん。」
淡々、と。
そう発する。
底冷えするような寒さが、弥代の身を震わせた。
出所も正体も分からない悪寒に動けない。
何か、何か触れてはならない何かに誤って触れてしまったような、そんな、そんな気がしてならなかった。
「…。」
「ね、二度と嘘でもそんなこと言わないで。」
腕が回される。
そっと、頭を覆うように。
温かい。
布越しに伝わる人の温もりだ。
とくん、とくんと、少しだけ早い心音が、弥代の鼓膜を揺らした。
「ボクはね、」
「キミの為に、ここにまで来たんだよ。」
『誰かの為に、その命を晒しなさい。』
『それが、貴方に課せられた定めなのです。』
酷く。
その人は、酷く、静かにそう言った。
季節を跨ぐ都度、忘れさせないように。
何度も。
何度も。
何度も、何度も。
それは何も自分に向けられただけの言葉なのではないのかもしれないと、そう気付いたのは、ずっと欲していたものを手にした、その後だっだ。
それまでは言われた言葉を、ただ理解して。
期待に応えられるようにがむしゃらでに、捨てられてしまう恐怖に抗うように。
その言葉の裏にどんな想いが込められているのかは、目を向けることもなかった。
「貴方は、私を失望させないでくださいね、か。」
言われ慣れた、耳慣れた言葉を夜半、明かりも付けない部屋で反復してみせる。
「もう失望したくないないんかなぁ、」
憶測だ。
根拠はない。
数え切れないぐらいに積み重ねられた言葉の、その裏側が今も分からない。
月明かりの差し込む窓縁を背に、男が静かに前に体を倒す。
ゆっくりと、ゆっくりと。
それはさながら波のように、押し寄せてくる、痛みだ。
痛い、痛い、痛い、痛い。
体の内側から食い破るように、針が体を貫くような、そんな痛みが襲いかかってくる。
(痛い、誰か、誰か…)
伸ばした指先はただ畳に跡を残すばかりで。
誰も助けちゃくれない。
一人も救えやしない自分に、助けてもらう資格などありはしない。
と、一つ甲高い鳴き声が耳に届いた。
痛みで朦朧としだした意識の中、鳴き声のする方に視線を送る。
嗚呼、そうだ一人、いや、一羽いた。
それは白い羽根を持つ、奇怪な烏だ。
対照的に真っ黒な瞳を持つそれが、また一声鳴いてみせると、末端まで白いその小さな嘴で、そっと手の甲を啄いてくる。
羽根を広げることも許されない、羽ばたけない一羽の烏を、そっと両手で掬い上げる。
成鳥にはまだ程遠いその温もりは、人肌よりも暖かく。
もっと小さな雛鳥を昔両手で抱えたことはあったが、こうして大きさも大きくなると伝わる体温も、感じ方も違ってくるのだろうか。
「あったかいなぁ、」
久しく、人の温もりに触れていない気がする。
あの人の寝床に入れてもらえたのはもうずっと昔だ。
あの頃の自分は今よりもまだまだ、幼くて。
そうだ、思い出した。
あの人の当たりが強くなったのは、自分が"色"を得てからだ。
それまでは甚く優しくしてくれた、そんな気がする。
きっと些細な変化だったかもしれない。いや、昔から扱いは酷かったが、垣間見える優しさが感じられなくなったのは、恐らくはあの頃からだ。
生まれながらにして両親を失った自分を、弱い立場の分家の自分を、それはそれは実の子供のように、優しく。
時にそれは母のように優しく、父のように厳しく。
指を咥えることなく、その手をずっと握っていてくれた。
「ごめんな、ごめんなぁ…」
八畳ほどの部屋には、女中が支度をした布団が一組敷かれていたが、そこに辿り着く気力もないまま、体を横に倒す。
「ほんま、ごめんな、雪那ちゃん…」
今でも夢に見る。
あの日の事が、今でも、
『どうして、』
『どうして、たすけてくれなかったの、』
『和馬くん、どうして、』
ああ、やめてくれ、どうか、どうかそんな目で、
僕を見ないで。