八話
コポコポと音を立てて湯呑みに注がれていく茶を、ただボーッと見ていることしか出来ない弥代はあまりにも手持ち無沙汰だ。
「こういった道具を、一つ一つ見る、触れてみるとね。とても手間が掛かるものが殆んど、だ。
それだけ……、それだけお茶を一杯いただくだけでも、それがどれ程の息抜きになるのかを、思わず考えてしまう。味を純粋に愉しむのに、余計なモノは要らないだろう。
持ち込むものではないんだよ、そういうモノは。」
柔く話す、声の主に静かに意識を、耳を傾ける。
正座なんてもっての外。
あんなものは立ち上がる時に足が痺れてしまってまともで居られないから弥代は嫌いだ。。
折り曲げた膝をたまらず一揉み。いま痺れているわけでもないのにそんな事をする意味は全くもってないのだが、他にする事もないものだから、ついつい揉み込む。
「ハハっ、せっかちさんだ。」
「こんなん、慣れちゃいねぇんだよ、俺はよ。」
「うん、……知ってる。」
穏やかに紡ぐ、言葉の裏に焦りを覚えた。。
この穏やかな一時は一つ言葉を誤るだけで、きっと終わりを迎えてしまう。其れは弥代の望むところでは決してない。慎重に言葉を選ばねばいけないと考える裏腹に、少しでも自分はこれまで通りに振る舞えているだろうか、彼女と変わらずに接せられているだろうかを心配してしまう。
弥代は、延長を望んんでいる。
全てが終わってしまった、これ以上彼女との続きを望めなくなった、今に、なって。
「…………。」
今になってこんなにも落ち着いて接する事が出来た自分に、当たり前のように憤りを抱きながら、そうして弥代は。
弥代は彼女――詩良を、視た。
「そんなに見つめられると、その内穴でも空いてしまいそうで怖いな?」
「だって、他にする事ないんだもんよ。」
「少しぐらい興味があるフリでも覚えたらどうなんだい? 付き合いの悪いヤツよ、キミは。」
頬が、小さく剝れる。
怒った、という感じは一切しない。此方がつまらなくならないように、自分は対して気になんかしてないけど飽きてしまわぬ様に気を遣った、相手に合わせたような態度に今の弥代には見えた。
それから、どうして自分はそれを本心からであると疑わずにこれまで受け止めてばかりだったのだろう、と。もうずっと彼女は、自分の為にそうやって合わせる、振る舞う事が当たり前であったのじゃないか、と。そんな、そんな事に気付いてしまった。
コロ……コロリ。
言葉にしてみるのなら、そんな軽い音。
手持ち無沙汰さは知らぬ間に解消されていた。気付くと、弥代の手の平には歩兵の駒があったのだ。
ただそれを、手の平の中でただコロコロと転がすだけで自分の手持ち無沙汰は解消されるものだから、それはとても単純で安上がりに感じる。
『弥代さんって前々から思ってましたけど、普段の態度からじゃ想像つかないぐらいこういう時は慎重ですよね? 歩ばっかり動かすといいますか、そりゃ動けますし攻守の出方も多いでしょうけど地味っていうか、なんていうか……。』
記憶に新しいそれは六月の半ば、丁度屋敷の門番を任されている吉田長兵衛が非番であった日の事。たしかあの日は朝から雨が降っていて、討伐屋に雨宿りがてら寄った際、縁側で暇潰しに長兵衛を相手に将棋盤越しに睨めっこをしていた際に、背後にいた芳賀から向けられた言葉だ。
討伐屋に弥代が自分の意思で足を運ぶ、足げく通うようになったきっかけを作ったのも芳賀だが、弥代が長年目を向けないようにしてきた己の本質、本来の気性に気付くきっかけを作ったのも芳賀なのだ。
ただ空気を読んだり、相手に合わせたりが出来るだけでなく、いくら上手く隠していようともその本質にまで目を向ける事が出来てしまう。彼の見る目というものきっと一級品に違いないだろうと、この場に居もしない相手を弥代は褒めたくなった。
そうだ、彼は何も間違ったことは言っていない。弥代は、弥代は自分がそう見えるように振る舞ってきた、つもりだ。根がもうずっと臆病なのだ。虚勢を振るわねば一人で生きていけない。
弥代はいつだって弱い立場にある。
それは、色を持って生まれてしまったから。
それは、身寄りになる家族と呼べる存在を持たないから。
それは、“女”で、あるから。
それらは全て、弥代が色を持ち、家族を持たず、女であるから得てきた生き方だ。
虚勢を張って、弱さを隠す為に今まで頑張ってきた。そして、それが自分なのだと言い聞かせてきた。
あまり知りもしない事を知った口で語ってみせて、場の真ん中に居座って馴染めたつもりになって、男同然に振る舞い続けて。そうして、自分を偽ってきた。
「全くさ、上手くいかねぇ事ばっかりだよ。」
事情を何を知らないが、それらの元凶、発端となった彼女にそれら愚痴を漏らすなど、何と意味がない事だろう。そんな事ぐらい弥代が一番わかっている。
それでも、そうだと分かっていても彼女にそんな事を話すのはただ、
「狡いヤツだねぇ、お前は?」
――否、弥代は薄々気付いていた。自分の目の前にいる彼女が、彼女の姿をした別の存在であるという事に。
直感、だろうか。
生憎と、彼女が自分にそんな丁寧に茶を用意してくれた事なんかはない。あったのは一度、店側が用意した急須から湯呑みにただ茶を注いでくれただけだ。そこに細かやな手順はなかったし、自分は彼女の目の前に居らず、窓枠に軽く凭れ掛かるようにして、遠巻きにその様子を見ていた筈だ。
こんな風に面と向かって、胡座を掻く事が許されて茶を淹れられた事はこれまで一度もなかった。
それに、彼女の髪は肩に付くか付かないかぐらいの、あまり長さのないモノだった。
緩やかな毛束がはらり垂れる様は、弥代の知らぬ存在だ。
何故いまになってはっきりとそう思ったのか。その答えは彼女に今しも向けられた言葉と、あまりに鋭い眼差しにあった。
偶々、薄々気付いていたそれが確信へと変わったというだけの話。一変する態度と、纏う空気を前にして弥代は緩く笑みを浮かべてしまった。
「気色が悪いなぁ、本当にお前ってヤツは?」
「……ごめん。」
「どうせとりあえず謝っておけばそれでいいとか考えてるんだろう? 止めろよ、反吐が出そうだ。」
じゃぁ代わりに何と返せばいいのだろうか?弥代は考えるもその答えは見つからない。見つからない一方で遠慮なく心無い言葉を自分に向けてくる存在にホッとしてしまった。
態度にただ示され無言で居られるよりも、直接言葉を浴びせてくれる方が心はいくらかマシだ。
「いい性格、してるよね?」
「そうかも、な。」
分からない。
でも今この時、自分と接する相手がそういうのならそうなのだろうと思う事に弥代は決めた。だって弥代は、何故彼女の姿をしたその存在が此処にいるのかだって、そもそも此処が何処であるのかさえ分かっちゃいないのだから。深く考えるのを止めるべきであると、次第にそう思いだしていたのだ。
「まぁさ、飲みなよ。折角この僕が淹れてやったんだからさ。」
「あぁ、うん。そんじゃぁ、いただこう、かな。」
差し出された湯呑み自体、表面はあまり熱を持っている感じはなく。しかし口元に近付けてみると立ち上る湯気の量に舌の火傷を恐れる。
怪我の治りやら痛みに慣れているからといって、それが大丈夫なんて事は勿論ない。進んで痛い目に遭うかもしれないとわかっていて進む人がいないのと同じに、縁に口をつける直前までいってから弥代はそれを退けた。
それからチラリ彼女を指の小さな隙間から覗き見る。
「意気地なし。」
「もうちょいしたら飲むってば。」
クスクスと笑う、相手の仕草はあの晩弥代が見たのと同じく、どことなく幼く見えた。
「茶一つで火傷なんかに怯えちゃうの? 似合わないなぁ?」
「お前の方が似合わねぇよ。んな、茶なんか淹れるタマかよ?」
「お前って、呼ばないで。」
「でも俺、お前の名前知らねぇもんよ。」
「それもそうだね?」
正座を崩す。寛ぐような姿勢を見せる相手は随分と自由だ。弥代の言葉に囚われる事はないし、弥代の望む答えや返しを中々くれそうにない。いつだかの自分の事を自分で出来なくなった晩の彼女と、少し似ているかもなんて考えが過ったのは嘘ではないが根拠はどこにもない。ただ、なんとなく、弥代がそう感じたというだけ。
「ッフフ、僕ね。お前のアレは結構好きだよ? なんだっけ、それ以上でもそれ以下でもない、ってヤツ? 言い得て妙だな、って。強ち遠からず間違ってない、といった処かなぁ? そうそ、僕は言ってしまえばあの晩お前が会った僕なんだ。だからそう、僕はお前の事が嫌い。」
「…………。」
突然、なんだか難しい話が始まってしまったような感覚を味わう。未だ何と相手を呼べばいいのかが分からない弥代は、また先ほどまで同様にただ耳と意識を傾ける事しか出来ないでいた。
「そうだそうだ、似合わないっていったらソレもだったね。」
指差される、弥代は手のひらの中に持ったままの駒をついつい見せた。
「すっごく、変。ちぐはぐすぎて見てるとどんどん気持ち悪くなってくる。」
「気持ち、悪い?」
「お前はさ、お前は本当に面倒なヤツだね? それでいいって結局考えてるのがすっごく気持ち悪い。良いわけないじゃないか? どこからくるんだよその自信は?だから僕、僕は嫌い。そのくせ前に居座ってたアイツの影響がこびりついちゃってるもんだから困ったものだねぇ?
どうしたらお前はいい加減そろそろ前に進めたりするのかなぁ?」
「なに……話し、て?」
「僕が彼女にしてやれる、最後のお話。」
コトン、と湯呑みが倒れた。
まだ口を付けてすらいない、熱い茶が中にはあったはずだがと弥代は思わずそちらを見ようとしたが、グイっと強引に顔を掴まれる。そしていつの間にか後ろに傾いていた弥代の体に跨るように、体重を掛けてくる相手と目を合わせる。
「ねぇ、お前は言ったね? 僕をなんて呼べばいいか、名前知らないって。ッフフ、僕なんかを呼べる名前が欲しいなんてお前ぐらいじゃないかなぁ……? 本当に変なヤツだよ、お前は。」
嫌われているとしか思えない口振りが、少しずつ柔いものへと変わっていく。それは少しだけ今はもういない彼女の甘いそれにやっぱり似ているように感じれて。
あぁ、やっぱり一緒なんじゃなのかな?と思う反面、でもそうじゃないんだよな、と弥代は自分に言い聞かせて浮かぶそうになる涙を必死に堪えた。
「彼女はね、お前にとっての“姉”で居る事を願っていたんだよ。」
そう語る、その相手に弥代は、
「ねぇ、弥代。お前を邪魔するモノは、僕が取り除いてあげるよ。」
蒙霧升降、風知草 八話
数日を経て、相良は後悔をした。
一人になって考えたい事があるんだ、と溢していた本人の意思を尊重した結果であったが、それでも顔色や様子だけでも見たいと伝えれば、飯時だけなら、と日に三度その機会を与えられたので相良は安堵していたのだが、これは予想外の事態である、と己の考えの甘さを呪った。
食事時を除けば五日ぶりとなる、直接面と向かってその姿を視界にしっかりと納めて、相良の目は弥代の揺らぎを捉えた。
「何か、心変わりをなさるきっかけがございましたか?」
「……別に、大した事ぁねえよ。」
そんなわけがない。そうでなくてはそれは起こり得ない、相良の目には映るはずがない。
だが当人が直接、大した事はない、と申すのに対しこの時点で深入りをするのは得策ではない。相良はそれ以上の言葉を、追求を控えた。そうですか、と一言。何かあればいつでもお聞きします、を添えて静かに席を立つ。
襖を開けて、廊下に出る。背後の締め忘れがないのを確認して、それから一人口元を覆った。
案の定、悪癖が出ている。
相手があまり相良に対し興味を示す事がなかったものだから、弥代が相良の表情――口元の変化に気付く事はなかったというだけで、この場に他に誰かが居合わせていたのなら追求をされる立場は自分になっていたかもしれない可能性を視野に入れ、そうならなかった結果を前に胸を撫で下ろした。
が自分以外誰もいないのを良いことに、長い廊下で一人相良は考えをまとめる事に今は努める事にした。
其は相良にとって、幼い頃から当たり前に目にし続けてきたモノであり、自分以外の者も同様に視えているのだと、八つになるまではずっと勘違いをしていたモノでもあった。
自分以外に其を知る者、視える者はあまりに少なく。相良は其を自分の中で、【気】という言葉に落とし込む事で割り切る事とした。
それは人に限ったものではなく、生きとし生ける万物に存在する。地を離れ、生を失った植物であろうとも一時、生に触れる瞬間はそれが通う事がある、脈動のようなものだ。
それを視えぬ者、知らぬ者に理解を求める以上に難しいことはないが、これらの扱いに長けた者が多く血筋に現るという、その才覚に目覚めた存在を多く囲う一族に一時身を寄せていた時期があるからこそ相良はそれの理解が人一倍深いものであった。
相良が、弥代のその変化に初めに気付いたのは春先の事だ。
昨年の神奈月の暮れ、突如榊扇の里から姿を消した弥代。今更何度も思い返すことではないかもしれないが、里に戻ってきた弥代は既にその状態となっていた。
人が死ぬ時、その心は生前に親しかった者の心へと受け継がれる事がある、等というのは故人を偲ぶ際に如何にも出てきそうな、残された者が強く生きる為の方便のようなものだ。
しかし何事にも発祥というものはつきものだ。それを裏付けられる程を相良は知らないが、やはり自分の中でそうであると定める為にその考えと紐付けた。
春になって榊扇の里へと帰って来た弥代の纏う【気】には、相良の知る弥代以外の【気】が視てとれたのだ。
生前親しかった者に心を受け継ぐ、正しくそれに近い。
亡くなった者が乗り移ったかのように、憑依したかのように視えることがあるというのも恐らくはこれが近いのではないかというのが相良の考えだ。そして弥代は辿り着いた地で親しい間柄と呼べる存在を得て、その相手を失った。
弥代を追って榊扇の里を出立した春原と館林も同日に帰ってきており、自分が見れていなかった間の春原の様子等を館林の口から聞こうとしたその晩はそれは叶わなかった。
詳細を館林のから気く事が出来たのは、翌日の昼時である。
そして相良の読み通り、弥代はこの島国の最北端の地で出会ったという青年を喪っている事を聞かされた。
自身が直接関わったわけではなかった分、館林の言葉はとても簡素な、思い入れのあまりないものではあったが、しかしその限られた言葉の中にも妙実に、弥代がその青年を気に掛けていたのが分かった。年が明けてから三ヶ月程世話になったという、古峯の地で青年の訃報を知った弥代の取り乱しようは、見てられないものであったそうだ。
それから暫く、自身が直接弥代と関わる事はないものの、春原越しであったり、芳賀と関わるその姿を相良は見て、その変化に気付いた。
弥代の足取りは分かりやすく重たいものになっていた。
それはきっと、弥代が纏って帰ってきた、津軽の青年の気質に影響する。けれどもこれまでも似たような現象に遭う者を見てきた事のある相良だが、弥代ぐらい露骨な変化を目にするのはそれが初めてであった。
当人に直接話そうかを、何度か視野に入れた。
が、結局それを相良はしなかった。
弥代に伝える事なく、その様子を見守った。
変に横槍を入れて調子を崩されても、まだあの頃は面倒であるという思いの方が強かったのだ。
直接、もし自分が直接弥代と関わる機会があるのなら、それで弥代が躓き、それでどうしても前に進めなくなってしまうような、手の施しようがなくなった、そんな時が来ればそれは伝えてもいいだろうと考えていた。
春原討伐屋に、春原や芳賀が受け入れているからという理由で入り浸っているだけの、春原が分かりやすいぐらい関心を示す相手。過去に春原と弥代の間に起きたという一件については、勿論当時あの場に居合わせた相良は存しているし、春原自身が弥代と関係の修復であったりを望んでいる、相良ですら知らないずっと昔の様にまた在りたいと願っているのだって知ってはいるが、それは相良個人が弥代と関わるか?という問題点においては然程関係のない事なのだ。
そもそもあの場で起きた一連の出来事についてだって、補足をするならばあくまでそれらは春原の口から説明があったから知れた、というだけで。春原の説明がなかったらそれに相良は気付く事すら出来なかったような事だ。
駿河での件を踏まえ、相良は弥代と関わりを得た。
その時点で、其に対する説明までする必要はなく弥代は駆け出す事が出来たから触れる事はしなくなっていたし、まるで弥代が纏う、弥代のモノではない【気】の方が次第に馴染んでいる、あるいは消えそうに見えたものだから、そうであるなら、と目を瞑っていた。
しかし、それがここに来て大きく覆ってしまった。
先ほど顔を合わせた弥代の纏う【気】は、相良がこれまで目にした事のない、荒々しさがあった。
言葉に起こすのなら、普段の弥代は穏やかなものだ。が、物音や周囲の相手の行動に誰よりも早く、敏感に反応を示す。弥代のそれが、恐らくは弱く幼い自分を隠す為の虚勢で、誰よりも冷静に場の状況を汲もうとしている、強く見せるにはどう振る舞うべきかを無意識に考えていたのではないかと、相良は最初の頃から見ていた。
相良が多くを教えた芳賀も、弥代を初めて見た時から直ぐに妙に肩に力が入っていて、それがすっかり板についてしまってるから傍から見れば随分と生きづらそうだ、と溢していたのでそうなのだろう。芳賀の目から見てもそうなのだ。だから常に荒々しくある揺らぎを見て相良は、己の考えの甘さを呪ったのだ。
屋敷が当然用意してくれている、御膳が二つ奥の広間へと運ばれてくる、食事に箸をつけている間の弥代はとても落ち着いていた。
日に三回、朝、昼、夕に顔を合わせて異変に気付けないという事はありえない。ではいつであろうか、と考えた時、それこそそれは寝ている時に起きていたのではないか、と考えた。
表面上意識は眠っていても、その奥で意識は果たして本当に途切れているといえるだろうか?なぜ意識がなくてその裏側で夢を見ることが出来るのだろうか?相良は、意識とは眠りにつこうとも決して途切れるものではなく続いているものと考えていた。干渉があったとすれば、それは間違いなく夢の中。眠るという行為以上に、分からない事だらけの事象を少なくとも相良は知らない。
それに相良は、あの駿河での晩、夢を見ている少女のその叫びにさえ呼応した、かの信仰を失い消え掛けていた【神】、あるいは【母】の姿を目にしている。
それが意味するところは、つまり
(直接、相手の方から関わって来たということですか?)
だが、それは何故か?
相良は自身の知る限りを振り返る。
七月二十日の晩、伊勢原大神宮に居合わせた弥代を始めとした面々の前に、古峯の雷神らが師と呼ぶ存在が現れ、その師――旧国に棲まう鬼神の手によってかの西の鬼は滅されたはずだ。
生前親しくした者、もしくは死の間際、直前まで関わりのあった存在に引き摺られる事の多い其が、最早弥代についてきたのを疑う必要はないだろう。
が、弥代が目覚めてた七月二十八日から今日、八月五日までの間はその片鱗を一切見せなかった。
其が死後間も無くその者についていくのかすら、実のところ相良は分かっていない。だから、だから相良からすれば突然弥代がそれを纏うようになっただけに見えて、実際はずっと相良が気付くよりも前から傍にいた可能性だってある。
そして、其は停滞をする。死ぬ間際に色濃く残ったものが何よりも強く残る。
『行きてぇ場所があるんだ。』
弥代が今日になって急にあの様な、あの様な言葉を口にしたのはきっと、死の間際にかの西の鬼が、鬼神に対し何かを抱いたからではないかと、相良はそう自分の中で目星を立てる。けれども、それらは結局は全て相良の憶測に過ぎない。全て相良の想像による、自分が納得出来るだけの説明だ。
自分が【気】と呼ぶ其の実態が何であるかも、何故亡くなった者のそれを時折纏う者が現れてしまうのかその理由も、時間が経つと次第にそれは姿を消していくのかも。全て、全てが妄想の域に過ぎない。自身が直接体験をしたわけでも、そんな目に遭った者に詳しく事情を聞いた事もない。聞けても、生前の故人との関係やらで、だからこの間に相良が思い浮かべた全ては本当に、彼が自分にそうであると強く言い聞かせるためのモノに過ぎ、ず。
だか、ら――
(直接、私は其が何であるかを知れるのではありませんか?)
相良は、これ迄の弥代とのやりとりを考える。
恐らくは、今の調子のままであれば弥代は自分を頼ってくる可能性が大きい。し、大主の意向としても弥代の行動には暫くの間は、大主様の信頼が置ける存在に弥代の様子を監視、見ていてほしいとまで言われている。
であるならばこのまま行けば、現状それらの扱いに誰よりも長けている自分という存在に白羽の矢が立つのは想像に容易く。弥代が、弥代自身の口から発した、行きたい場所というのがどこかまでは聞けてないが、今の彼女が纏う其の正体が元々誰であるのかまで想像がついてしまえば、必然的にそれが旧国であると相良は思えてくるのだ。
自分に都合よく、そう勝手に考えているだけかもしれないが、ここまで来てしまえばもう、そうとしか相良は思えてこない。
……違う、そうではない。
先駆けてそちらの方が出てしまっただけで、真に喜ぶべきはそちらではない。自身がついに、今まで知らなかったそれを知る事が出来るかもしれない、という可能性に対してだ。 だがどちらにしても、どっちであろうとも望んでいた真実と、長年の願いが成就されるかもしれないというのは本当に喜ばしいのだから。
そうだ、そうであると相良は自分に言い聞かせる。
遂に、遂にだ。
遂に私はあの存在と再び相見える事が叶うのだ。
あの日、あの晩の事をやっと鮮明に思い出せた今となっては、その喜びは計り知れない、これまでとは全く比にならない。知ってしまった、知る事が出来る。知識欲を身につけたのもあの存在との再会をこうまで嬉しいと、歓喜に身が震えてしまうのは私が、私がそれだけ心底あの御方を……叔父上の事を愛、し……て。
「――――ァ、」
嘔吐く。
空を仰ぐように大きく逸らした体が、それよりも大きく内側に凹んだ。人気がない事をいいことに、けれでも中途半端に口元の近くにあった手はそのまま、相良自身の口元を強く、強く覆った。
何か、何かが出てきてしまう、そんな気配がする。それは深く、深く自分の奥底から目を逸らす。違う、それは決して出て来てはならぬ感情だ。何があろうとも、何があっても二度と、二度と向き合ってはならぬ、内側の一番深いところに沈めたもの。
それに今になって相良が向き合うという事は、これまでの自身の在り方を根本から否定する事となってしまう。絶対に、覗いてはならぬ真実だ。
「…………。」
その場に膝をついて、自分が落ち着くのをジッと待つ。
鼻で大きく息を吸って、肩を荒々しく上下させる。
嫌になるぐらい体は覚えている、染みついてしまった動きだ。誰も助けてなどくれなかった、助けてくれとどれだけ叫んでも望んだものは何一つ得られなかった。
そうだ、だから自分は大人になる道を選んだ。ただ弱く脆く、道具として扱われるだけの日々から逃げる為に多くを、多くを求めたのだ。
――大丈夫、大丈夫だ。私は、わたしはもうあの頃の私ではない。終わったのだ、もう全部全部何もかも、望んでいた未来を得る事が出来たのだ。だから……だか、ら
「もぅ、大丈夫ですよ、私。」
ズレた目器を直して、相良は立ち上がった。
その表情には、直前までの酷い有り様は微塵も感じられない。
そこにいるのは、いつもの相良志朗という男だ。
二十九歳という若さの割に多くを知り、それを時に人に教える事さえも叶う程の知識量を持ち合わせた、一度話し始めれば相手が止めに入るまでは延々と喋り続ける事のよくあるとても饒舌な。それでいて情に厚いのか、顔が広く誰彼構わずに気さくに接する、老百男女に等しく向き合うような、そんな、そんな男だ。
(そんな筈が、ないでしょうに。)
相良志朗は、平然と嘘を吐く。
それは自分自身の為でしかなく、だから彼は自分を善人などとは何があろうとも呼びはしない。
自己中であり利己的。自分という人間はそんな男だ。
そんなのは誰よりも、何よりも相良が分かっていた。
いやいや、何の偶然か?こんな事がはたして起きるのか?といったところでねぇ、身を持って経験した僕自身でさえ驚きを隠せない、というのかなぁ? ……まぁ、そういった感じという風に軽く捉えてくれればそれで僕は構わないよ。結局ね、さっきも伝えたと思うけどこれはあくまで彼女が、詩良が最後の最後まで望んでいた形に僕は在って居たい、というだけのワガママなんだよ。
……え?彼女が何を望んだかって? お前ぇ、それを僕に言わせるのがどういう事だか分かってんのかよ? 本当に信じられない大バカ野郎で能無しだな? ……お前、だよ。そう、お前。お前が最後のその時まで望んだ関係だよ。皮肉、だよね本当にさ。彼女が叶えられなかったソレを、残された僕が結局叶えてやる為に大嫌いなお前の前にこうやって姿を現さなきゃいけない事になるなんてさぁ。違うだろ?って、言えたらいいんだけどね、もう、居ないからさ。
お前の為になる事を一つだけしてあげる。
そしたらほら、お前はウジウジとするのを止めていい加減前に進めるはずだろう? それでね、まぁ結果的にお前が動いてくれればね、それは僕が最後に望んだ、それも果たされるかもしれないから、でもあったりするわけだよ?
えぇー、僕が何を望んだって? イヤだなぁ、そんなわかりきった事を一々聞いてくるんじゃないよぉ? そういうのを野暮って言うんだよ……って、まぁお前みたいな無神経で頭の足りてないヤツに遠回しに言ったって通じるわけがないわけで……あぁ、だからさっき僕はお前を能無しって言ったんだったね? ごめんごめん、うっかりしていたよ。
そういえばお前、なんか僕の呼び方がどうこうって聞いてたよな? っハハ、教えてやってもいいけど目が覚めたら忘れちゃうものだぞ? それに、多分お前と僕がこうして顔を合わせる事はもう二度とないだろうから教えたってなーんにも意味なんかないとは思うけどねぇ……、
――ねぇ、それでも知りたいなら教えてあげるよ?
あのね、僕の名前は……