一話
『待てや』
男が一人、地べたに伏せた体を持ち上げる。
その息は短く、断続的に紡がれる様から、呼吸一つすらも負担になろうというのに。それでも男は意識を途切れさせることはなく、立ち上がる。
まるで使い捨てられた麻布のような。継接ぎまみれの薄汚れた装いも相まる。
その姿は到底、自分が慕っていた頃の彼から想像も出来ず、失念。
『ややこや、まだ、産まれて間もないややこを、母親から引き剥がすなんて、そんなの、そんなのっ!許されへんっ!許さんぞっ!!』
声を荒げれば、男の傷口からは勢いよく血が噴き出る。
もう立つことすら儘ならないだけの傷を負わせたというのに。
男の僅か後方。茂みから覗く力なく投げ出された女物の着物と弱々しい足にを一瞥すれば、男が死した女に対して未だにそこまで強く想いを募らせるの事が私には理解できなかった。
男の諦めの悪さは、私の知る限りでは根強く。
嗚呼、だからこそなのだろう。
そこだけは、今も昔もこの男は変わらないのだ。
『どうかご自愛ください兄上。当家にはもう、貴方様の居場所はございません。貴方は晴れて自由の身となったのです。』
男は、分家の嫡子だった。
自分より十つ程歳が離れた、本家にも劣らぬ実力を幼少期から発揮し、稀代の天才児として一族の中でもその名は上げられた。
男が十つになって取得したというものを、私が自分のものにしたのは成人の儀の直前であった。本家の血筋のを受け継ぐものとしてこれでは駄目だと、しかし身近に術の事で相談を出来る相手はおらず、私が頼ったのは十つ程離れたその男だった。
その実力を見込まれ、本家の養子として迎え入れられたのは僅か数年前の事だ。その功績を更に刻む中でかの土地を手中に収めようと、しかしそれ自体が間違いだったのだ。兄上、貴方は落ちぶれてしまった。私は、それを許すことができない。
腕の中に抱えた赤子は、忌々しいあの女の腹から出たばかりなのか、まだその目蓋すら持ち上げることが出来ず、母音すら発することも儘ならならず、泣き喚くばかりだ。
その口をこの場で一思いに塞いでしまえのなら、きっとこの腹の奥で燻り続ける感情は消えるのだろうか。そんな考えが脳裏を過る。
過るだけに留まった。
赤子のあまりにも小さな掌が、そっと私の指を包んだからだ。
嗚呼、そうですか。
『感謝なさいまだ名すらもない貴方。貴方は分家の血筋でありながら、この私が育ててさしあげましょう。どうか、どうかあの男と同じ道を辿らぬように。この私が、導いてさしあげます。』
どうか貴方は、私を失望させないでくださいね。
鬼ノ目・二節 鴻雁来、秋旻の契り編
「いやよ、別にお前さんの事が嫌いで意地悪を言ってるわけじゃねえんだよ。」
「そうなのよごめんなさいね弥代さん。うち飯屋だから、お金ない人にただで飯をやるのはちょっとね…」
「あっ、いや、うん、大丈夫。そりゃそうだよな。うん、金ねー奴に飯出すわけねぇもんな!だって俺もう結構ツケてもらっちまってるしなぁ!!」
率直に言って金がない。
何も働いていないわけではない。こう見えて一昨日も里の巡回を行ったばかりだ。弥代は行きつけの飯屋を出るや否や腰ひもに吊るしている着物とお揃いの柳色をした巾着袋を摘まんだ。
チャリンと、物音一つしやしない。
これでも先月まではそこそこ重みもあったのだ。
秋は収穫の時期で実りも豊かになるもので、ほんの少し。ほんの少しだけ豪勢な物に手を伸ばしてしまった。良いじゃないか別に。たまに贅沢なもんを口にしたってバチは当たらないだろう。結果がこれだ。
かれこれここ二日間、まともに口にしたのは長屋横丁の奥、井戸端会議の真っ只中の井戸から掬った水ぐらいだ。この里は水が豊かで、どこに行くにも水路が張り巡らされており、そこは苦労をしない。
しかし水はただでも腹は一時空腹感を誤魔化す程度に膨らませるだけで何のたしにもなりゃしない。
昨晩からいくらか顔なじみの飯屋を回って、あわよくば恵んでもらえないものかと挑んでいるが六戦六敗。負け続きで、米粒一粒にだってありつけやしない。いいじゃないか握り飯の一つや二つ賄いで裏で食べてるんだろうから別けてくれたって良いじゃないか。ぶつくさと足元にあった少しだけ大きな小石を蹴り上げる。ぼーっとしながら自分が蹴り上げた石を見上げていると、少しだけ強い風が吹いて、思ったよりも軽かった石は流れに乗って弥代の頭頂部に落ちてきた。
「ったぁーーー‼」
見上げた青空はどこまでも果てしなく澄んでいる。
向かいの長屋で暮らししがない物書きの言葉を思い出す。
秋空というのはどこか遠いものだと。
秋分の末候から寒露の初候に変わる頃合い。
暦の上では長月から神無月へ跨いだばかりだ。
そう、弥代と雪那が吉野で出会ってから早いもので、半年の月日が経とうとしていた。
「ちわーっ、誰かいねーの?」
「これはこれは弥代さんじゃないですか。まぁ冬も近いというのに相も変わらずそんな寒そうな装いで。何ですか?若さ自慢ですか?」
「よりによって伽々里さんかよ。お邪魔しまーす。」
空になった巾着袋を振り回しながら、我が物顔で堂々と草履を脱いで敷居を跨ぐ。
玄関口の直ぐ右手には小さな庭が広がっており、その庭に佇む蔵の中から黒髪の女性が顔を出した。
目尻と口元に控えめながらも色濃い紅を差したその女は、無作法に敷地に足を踏み入れる弥代に気付くけば、一呼吸も置かずに言葉を投げかけてくる。
これはいつもの事なので今更弥代が気にすることはなく、適当に挨拶をして廊下を進み、突き当りの部屋の襖に手をかける。
「春原いるー?」
「弥代さんこんにちは!春原さんですか?春原さんでしたらさっき相良さんと一緒にお屋敷の方に今月分の請求書提出に出て行っちゃって……、暫く帰ってこないと思いますよ?」
「屋敷?たっく、間の悪ぃこと悪ぃこと…。」
八畳程の部屋には脚の長い机が四つ程存在している。
部屋に入って直ぐ右手の席に着く青年は弥代の顔を見ると白い歯を見せて話しかけてくる。
どうやら一人この部屋で字の練習をしていたようだ。
寝ぐせの派手な黒髪は変わらず、顔面には雀斑がちりばめられている綺麗な顔立ちではないが、裏手で洗濯に腰を折るご婦人方からはそこそこに人気がある。
「なぁ黒、なんかさ茶菓子的なもんないかな?俺ここ二日何も食えてなくてさ。」
「そいつは大変だ!倒れちまいますよ弥代さん!!」
「いやだから何か食い物恵んでくんね?」
「春原さんがいたらすぐにでも一緒にご飯行けるのに残念でしたねぇ…。」
「なぁお前人の話聞いてる?」
青年・芳賀黒介はへらへらと笑うばかりだ。
普段からそんななのでもう気にしてるだけ時間の無駄だ。
話しながら部屋の奥、窓辺にある茶箪笥のを開けて中をごそごそと漁る。
「弥代さんにお給金渡す事が出来たらきっと茶菓子もいっぱいあるんですよ。お茶いっぱいすら最近は贅沢だって思うようになってきました。」
「貧乏がすぎるな春原討伐屋!?本当に里に必要だったのかお前らは!?」
茶筒に茶葉の残りカスもないのを見て流石に弥代は声を張り上げた。
春原討伐屋とは、それこそ半年前この榊扇の里、扇堂家のお屋敷に近いこの東区域に建てられた、文字通り討伐を専門とした仕事なわけだが、その仕事内容は主に里の巡回が多く、半径二里程にも及ぶこの里では巡回をしているだけで一日掛かってしまうことも少なくはない。
毎日誰かしらが里の巡回をし、週に一回屋敷に直接受け取りに行く里中から集められた相談の中から討伐屋任せのものはここに届くといった流れだ。
里に春原討伐屋の看板を構えてから半年、討伐屋らしいような仕事は今の所一件も舞い込む様子はない。
元は武蔵国で短期間で雇われる事で生計を立てていたそうだが、この里では直接ここに依頼を持ってくるような者はいない。
みんな里の大主であられる扇堂杷勿の耳に入ってから回ってくるのだ。
もし、直接舞い込むようなことがあれば、それは余程の事なのだろう。
一度だけ、なんで春原の名前が入っているのか聞いてみたことがある。
その場に居合わせた春原の仲間(春原自身は仲間とは認識していないようだが)達は、春原さんだからと答えになってない答えを返されたことがある。
今更気にするのも馬鹿々々しい質問だが、一応これでも弥代も春原討伐屋に籍を置いている一員なのだ。
里の巡回や見回りなどの依頼を受けるのは本当にまちまちだが。
「いや俺と同じだけ懐寂しいだろうに何ケロッとしてんだよお前は!?」
「いやぁ、裏手のおばちゃんたちが野沢菜とおむすびをちょいと…へへっ」
「お前は恵んでもらえて俺がもらえない道理はー!?」
「日頃の行いじゃありませんか?ほら、お行儀の悪い事、悪い事。」
半ば芳賀の胸倉に掴みかかると閉めた筈の襖が静かに開く。
そこには、思わず弥代と芳賀を凍りづかせる程の冷淡な表情を浮かべた伽々里が立っていた。その白く細い腕に鞣してもないだろう麻縄を巻きつけて、そこに立っていた。
「芳賀さん?貴方も何を手を止めているんですか?同罪ですよ?」
「何度言っても物覚えの悪い子には、少し灸を据えてあげませんとね。」
「私の可愛いお庭を横切るには泥を捌けなさいな。」
「だからさー!んなに泥ついてねぇじゃん!んなの一々気にしてるの伽々里さんぐらいだろ!?」
「形だけでも反省しときましょうよ弥代さん。俺もいることですし。」
「黒ー!お前だけが俺の味方だぁ!」
掌返しも良いところだ。さっきまで人の胸倉を掴んでいた相手に味方なんて泣きつけるのだから弥代は現金である。
裏門の日陰になった寒い土に正座をさせられた二人の膝の上には漬物石が乗せられている。昔は罪人も膝の上に石を乗せたというのだから、洒落にならない。自分とは違い荒縄で縛られることはなかったものの、一刻はそのまま反省しなさいと言われてしまって大人しく石の重さと、秋の肌寒さに耐える芳賀はしかし笑顔だ。笑顔を絶やさない。いつもニコニコとしている。弥代からすればへらへらしているだけにしか見えないが。
と背後、表門の方から戸口を開く音が聞こえてくる。
誰かが帰ってきたみたいだ。
「土間に小さい草履がありやしたが、弥代の嬢ちゃんがお越しで?こらぁ参った。何か手土産の一つでも買ってくるもんでしたぁ…」
どんどんと大きくなってくる声量に、声の主が中庭前の廊下を真っすぐ進んでくるのが分かる。
「館林ーー!!!泥!!泥は撥ねたか!?」
「館林さーーーん!戻ってーーっ!!」
「んぁ?」
「くっそ!!あの糸目女!ぜってぇいつか吠え面かかしてやっかんな!!」
「無理っすよ弥代さんっ!俺らじゃ伽々里さんに頭上がりませんよ!」
「弥代の嬢ちゃん、諦め時ってのは肝心ですぜぇ。」
「はらたつーー!!」
そんな声聞こえないわけがないのに、それでも弥代は吠える。
吠え面をかかせる前に自分の方が吠え疲れてしまいそうだ。
春原討伐屋は、榊扇の里の屋敷に続く大通りに近い、東区画に存在していた古い小さなお屋敷を改築されてものだ。
長屋のご隠居が長年住まわれていたそうだが、前の冬を越せずこの世を去ってしまった。妻を早くに亡くされ、再び妻を娶ることなく独身でいたそうで親族はおらず。誰も棲まないのにあるだけではもったいないだろうと、春原達が里を訪れる前は取り壊しの話があったそうだが、その屋敷をもらい受けたのだ。
屋敷内にて、無謀にも里を守護する水虎様に挑んだ人間としてその功績を讃えられた春原は、懐くその肝っ玉を大主である扇堂杷勿に買われた。
もし良ければ里に看板を構えないかという提案に、春原ではなく同席していた相良が一言返事で受けたからだ。
その場で春原が渋らなかったといえば嘘になるが、春原がご執心の弥代が、しばらくこの里で暮らすのだと、そう大主に聞かされた後の春原の返事は相良も驚く早さだったと芳賀は思い出す。
因みに今弥代の懐が寒いのも、春原討伐屋自体がひもじいのも全てはその話を振ってきた大主様のせいだ。
小綺麗に改築された屋敷に暫くの間は甘えていたものの、先月になって里の大工屋名義で扇堂家から請求書が届いたのだ。
『まさかタダで綺麗にしてもらえたなんて、考えてないだろうね。』
考えていた。
こちら側はあくまでも話に乗った、持ちかけられた側なので無償で与えられたものだと、相良も芳賀も館林も、あの春原でさえそう思っていたのだ。(そんな甘い話あるわけないでしょうと、一人冷静に口を開いていたあの伽々里さんは流石だ。)
まぁ何はともあれ、
「あー足の感覚がなくなってきたぁ…」
「黒ー!気を保てぇ!!」
「耐えやしょう…今は耐えるしかありやせん…!」
「うっせーな黙れよ館林!!」
「何をしているんですか貴方達は。」
「弥代来ていたのか。」
「泥を捌けなさい。怒られますよ。」
裏口から戻ってきた相良は春原と二人、門を開けた先で膝の上に漬物石を積まれ正座をする、綺麗に横並びになった三人を見て頬を引き攣らせる。
その内の二人にいたっては腕を胴に麻縄で巻き付けられていて、痛々しさに目を瞑りたくなる。
しかし危うい。弥代というご執心の存在にすかさず敷居を跨ごうとする春原に相良は待ったをかけた。
渋々袴を数回はたけば、相良の顔色を確認してから迷いなく跨ぐ。が、何の為にはたいたのか。直ぐ様弥代の右隣に同じように地べたに正座をするもので意味がない。
「来るなら来ると言ってくれ。待っていたかった。一昨日も来たばかりじゃないか。珍しいな。」
「帰ってきて早々にくっついてくんなお前はっ!擽ってぇんだよ!距離感を図れ!!」
「坊が楽しそうで、こっちも嬉しくなりやすね…」
「春原さん今日一喜んでますね!」
「収拾がつかない!!」
全くだ。
翌日の事。
大通りに面した水路の傍らに腰をかけていた弥代を、よく聞きなれた声が呼ぶ。
「弥代ちゃん!」
振り向けばそこには鮮やかな藤色の髪をした女が一人。弥代の友人にあたる雪那だ。
歩幅にして弥代の短めな足でも二十歩もいかないような距離を、どういうわけかとてとてとまぬけな音が聞こえてきそうな足取りで、無様に体を振り乱して駆け寄ってくる。辿り着く頃にはその華奢な肩さえも上下させているのものだから、もう軽く目を疑う。
「驚きを隠せねぇったらありゃしんねぇ。」
「え?何の事ですか?」
どんな人生を送ったらたった二十歩の距離で息を切らすことが出来るのだろうか、想像もできない。
出会った当初は、甲州街道沿いの山道から一人命からがら吉野宿まで逃げてきたと話していたが、今の様子からは全く想像がつかない。
「いや何でもねぇよ。三日ぶりだな。」
「はい!三日ぶりですね!今日はどうされたんですか?朝早くからこんな所で。」
「早いつってもお天道さんはもうそれなりに高いところにいるぜ。」
空を指させば素直にその指先を彼女の視線が追う。
澄み切った秋空は彼女の左目ととても似た色をしていて、まるで空が空そのものを映しているようだ。反射する色に思わず目を細める。
綺麗なもんだ。
雪那は、この榊扇の里を統治する貴族扇堂家の娘だ。
ずっと昔に貴族制度など廃止となっているだろうに、今もこの国の至る所にはまだまだ存在するものだ。
彼女の祖母、扇堂杷勿は現行七代目当主を務めており、彼女はその孫娘にあたる次期当主にあたる。
半年ほど前、里の外で知り合った弥代と雪那だが、里に連れてこられた数日後、ある晩を境にして二人は友人となったのだ。
暫くの間は雪那の意向により扇堂家の屋敷で厄介になっていた弥代だったが、いつまでも目の敵にしてくるだろう相手の領分で世話になるのはごめんだと、せめて屋敷は出て里のどこかで一人で暮らしをすることにした。
勿論当初雪那は反対した。厄介なんてそんなことはないから、傍にいてくれと。しかし友人になるにあたり四六時中なんてのは無理だって言っただろうと告げれば口をつむいでしまった。
が、この榊扇の里というものは本当に広く。大山の斜面帯に建てられたお屋敷から端はかの五街道の一つ東海道を超えて海沿いまで至ってしまうのだ。
これには流石の弥代も頭を悩ませた。漠然と屋敷を出て一人暮らしをしようと思うといったが、いざどこに住むかを考えるとどこが良いのか全く分からない。それを察したのだろうか、翌日には雪那から相談を受けただろう氷室の手により、屋敷の近く、大通りの裏手に広がる長屋横丁で空き部屋の候補がいくつか挙げられた。結局甘える形となってしまったがその候補の内の一つでかれこれ四月程は生活をしているのでそれはそれでよかったのではないかと弥代は考えている。
「いや、ちょっと言いすぎだろ。」
「何が言いすぎなんですか?」
大通り沿いに面した茶屋の表の席に肩を並べる。
茶請けに出された自分の一口饅頭を頬張りながら、弥代がそんな事を振り返っていると、雪那が声を掛けてきた。
三日ぶりに口にする食べ物はたとえそれが菓子であってもありがたい。身に沁みる甘さに胸がいっぱいになる。
「食わねぇならお前の分も食っていい?」
「お腹が空いてたんですか?三日前も手持ちがと言ってましたね。屋敷に食べにきませんか?」
「良いよ行くのは止めとく。俺、水虎さんに嫌われてるみたいだからさ。」
そう。自分を目の敵にする存在というのはこの里を守護するかの水虎様だ。どういうわけかあの地下牢を出た際に襲われてから一度だけ陽の明るい内にたまたま屋敷内でその姿を目にしたことがあるが、子供のように舌を突き出して直ぐにその姿を消してしまった。(背中を向けた直後に後頭部目掛けて弱いものの水をぶっかけられたものだからとっ捕まえてあの長い耳を引っ張ってやろうかとも考えたものだが。)
それだけで目の敵にされていると思い込むのもどうかとは思うが、執拗なまで自分を狙って攻撃をしかけてくるあの晩のかの神仏は恐らく…。
弥代は、ふと雪那を見やる。
彼女は。
彼女はあれ以降その片鱗を見せない。
あの晩、あろうことか彼女が目指したのは屋敷の屋根の上だった。
あれは彼女自身の問題だ。深く首を突っ込んでしまって自分の考えを押し付けることもできなくはない。きっとそっちの方が手っ取り早いさ。でもそれでは表面上でしか解決しないだろう。それでは彼女自身がその乗り越えたということにはならない。
彼女は死にたいと口にしていた。きっとそれは嘘じゃない。
どれもあの場で彼女が口にした言葉は、これまで吐き出すことが出来なかった彼女の本心に違いはないのだ。
彼女自身が死にたいとそう思わなくなった時、これから生きていく中でそれは重要になる。
友達、友人になったとはいえ、いつまでもずっと傍にいられるわけがないのだ。いつかは離別の時が訪れるだろう。
だからこそ、自分がどうこう出来る問題ではないと、弥代は気付いていた。
(きっと、はるなの事だってあるだろうし…)
何かしらの関わりがないわけがない。
きっとそれは今ではないだけ。
けど、絶対に。
それは自分も向き合う必要が出てくる問題だと、分かっていた。
分かっていたんだ。
「それでですね聞いてください弥代ちゃん!私ったらてっきり生きた魚をそのまま焼いているのかと思って氷室に聞いてみたんですけど、どうやら屋敷の食事に並ぶ魚は一度海でしめて?から運ばれるみたいで全然活きが良くないんですね…」
「うーん、姦しさが増したなぁ…。」
「かし?」
「いや、知らないなら良いよ。」
『力を望む、その理由を教えてはくれないか?』
それはきっと人間が易々と踏み込んではいけない、関わってはいけない存在だった。
一緒にこの場に足を運んだ筈の仲間は誰もいない。
あまりの存在感に足が竦んでしまう。
怖い、怖い、怖い、怖くないわけがない、こんなものをたった一人でどう相手をしろというんだ、無茶だったんだこんな、こんな所に、なんで…っ!
自分をこの場所に送りこんだ育ての親に対する怒りが湧いて、直ぐに静まる。
違うんだ今必要なのはそんなことじゃない。今、今考えなくちゃいけないのは…、
『護れなかったから。』
『手を、伸ばせなかったから。』
『呼んでたのに、何度も、呼んでくれたのに。』
『何もできなかった、そんな、そんな自分はもう嫌なんだ。』
『俺は、俺は、もう二度と。』
『あの子を泣かせたくないっ!!』
視界にちらつく黒髪が鬱陶しい。
こんな髪のせいで、俺は、あの子を護れなかった。
違うそんなのただの言い訳だ。
たとえ“色”を持たなくたって助けることは出来た筈なんだ。
分かってる。全部わかってる。でも、でも、
ほんの少しだけ勇気があれば、結末は違ったかもしれないんだ。
『俺に、どうか、どうか力をください…どうか…!』
人任せだ。
他力本願。
弱虫で泣き虫な俺にはお似合いじゃないか。
あぁ、どうして、あの時、あの手を取る事が出来なかったんだろう。
後悔ばかりが、今も、俺を押しつぶしている。
「だからね、ボクは色々とこれでも考えてみたんだ。」
少女が一人、岩場に腰を下ろす。
「今まではずっと、ボクが追っかけるばっかりだったから、偶に趣向を凝らして、キミが来てくれるのを待ってみようかなって。」
透けるように白い、細い髪の毛を指先にくるくると絡める。
その視線はただ一点。目の前に聳え立つ木製の門に向けられている。
「でもボクがどこにいるかも興味のないキミにボクを探してもらうのは、きっとボクも退屈になって寂しいから。」
「だから、だからね。」
門の前には門の警備にあたる軽装の男が二人、形ばかりの矛を掲げて立っている。
「これだけ近くにいたら、探す手間が省けてきっと直ぐに会えるよね!」
門前の男らには少女の姿が見えていないのだろう。
大きく腕を広げて、声高らかに笑う彼女はまるで無垢な少女そのものだ。
「嗚呼、久しぶりにキミに会えるよ。ねぇ弥代!キミはボクに会えない間に何をしてきたんだい?何を見てきたんだい?何を感じてきたのかな?誰と出会ったのかな?ねぇ教えてよ、ボクに、ボクに全部教えて。ねぇ弥代。ボク、ボクはね、」
「片時のお前の事を忘れたことはないんだよ。」
「弥代」
「弥代」
「弥代」
「弥代」
「 」
一人の少女が、そこにいた。