十話
「そんな所で何してんだよアンタ。」
まるでそこに何があるのかを、全て知っているような迷いのない動き。
彼女が辿りついたのは、普通なら絶対に訪れることのないだろう、屋敷の屋根の上だった。
本堂と呼ばれる建物の壁には、屋根よりも若干高い梯子が立てかけられていた。
冷たい渡り廊下を渡りきって、本堂のその壁に立てかけられた梯子に、彼女は足をかけた。
夜着の間から覗く肌は、月明り以外に光源のない場所ではどうしても血が通っていないように見えてしまって、そんな姿でどこへ行くのかと、弥代はその後に続いた。
しっかりと意志があるのだろう。
一月程しか一緒に過ごしていないが、こんな、夢遊病のような行動は見たことがない。
自分の意思で、彼女はそこにいるのだ。
夜風は強く、何度か足元を掬われそうになるも、彼女は踏みとどまる。
その姿だけ見れば、決して自暴自棄になった人間のようには見えない。
だというのなら、彼女は何故こんな場所にこんな夜中に訪れる必要があったのだろうか。
この屋敷の屋根は高い。
旅籠屋で言うのなら二階建て以上。あまり背の高い建築物を目にしたことはないが、同じように梯子を登ってみて、そう感じた。
山の斜面帯に建てられたこの屋敷自体少々複雑な形をしており、奥まるにつれて屋根も傾いていく。
恐らくは一番高いその場所に辿りつくと、彼女はその場所に腰を下ろす。
足を寛がせるようにして座りこむと、今まで振り向くことのなかった背後を見ればそこには誰もいないと思っていたのか、自分以外の人物がいる光景に驚いたような表情を浮かべた後、小さく微笑んで見せた。
弥代さん、そう呼ばれる。
弥代はしっかりと、彼女・扇堂雪那を見据えて口を開いた。
「何を、ですか?」
「そんな所、あぶねぇだろ。」
雪那は、小首を傾げて辺りを見渡す。
「屋根の上、ですね。」
「なんつー高い場所に一人で来ちまってんだよ。」
「つい、その、…はい。」
一歩、弥代が言いながら踏み込めば、彼女は降ろしたばかりの腰を持ち上げて、同じだけ一歩、後退してみせた。
「何、してんだよ。」
「はい。」
「何で去がるのか、俺は聞いてんだ。」
「はい。」
踏み込んだ一歩を、何を言わずに弥代は戻した。
「何がしてえんだよ、アンタは。」
「弥代さん、もしよければ、私の話を、聞いてはもらえませんでしょうか。」
鬼ノ目 十話
どうして、こんなことをしているんでしょう私。
私もよくわかりません。あぁ、違うんです。
別に死にたいとか、そういうわけではないんです。
いえ、嘘です。私もしかしたらとは思うんです。
もしかしたら死にたいのかなって、昨晩そう思ってしまうことがあったんです。
私、自分がどうしたいのかまだよくわからなくて。
ちょっとだけ、頭を冷やしたくてここに来たんです。
そう、そのつもりだったんです。
でも、もしかしたら、本当はやっぱり死にたいのかもしれません、私。
「死にたい?」
口をついて出た言葉は、まるでただの鸚鵡返しだ。
聞き間違えであれと、問うつもりでいた意志に反して、自然とそう口から漏れ出た。
眼前の彼女は今尚、屋敷の高い屋根の上だ。
自分が踏み込んだ足を戻せば、どこか安心したように、また静かに腰を下ろした。
淡々と、それこそ普段自分と話す時のように、言葉数多く紡ぐその言葉に耳を傾ける。
風というものは、高くなれば高くなるほど、身に受ける強さが増すのだろうか。
先程まで踏みしめていた地面よりも、踏みとどまる足元を前に押し出そうとするように背中を叩きつける。駄目だ。今は踏み出せない。軽率に、前へは進めない。
彼女との距離は縮まることなく、追い風はそれを早くと掻き立てるように、煽るように騒々しくさえ感じた。
寝るときでさえ外すことなく、そのままでいた縛ったままの髪が、まとまりなく視界を邪魔する。
眼前の彼女の髪も、同じように大きく振り乱される。
と、はっきりとそれを弥代は垣間見た。
しっかりと目にするのはこれが初めてだ。
何度か野宿をする傍らでそれが覗くことはあった。全貌を目にするのは、本当にこれが初めてだ。
ただ、その存在を認知していた弥代は驚くことはなく、隠しもせずに、それまで隠していた前髪を耳に掛けながら、こちらを真っすぐに見つめてくる雪那と目が合った。
「気持ち悪く、ありませんか。」
彼女の右手が、その自身の貌に触れる。
雲が晴れる。月明りに照らされる彼女の貌には、見るも絶えないような火傷のような痕が残っていた。
「気持ち、悪いと、私はずっと思っていました。昔、妖怪に襲われまして、その時出来た傷なんです。私が暴れるから。焼かれました。」
彼女は人差し指と中指でそっと、伏せられていた右目蓋を持ち上げてみれると、そこには左とは違い何もなかった。
あの商人が晴天のようだと讃えていた、同じものが存在していなかった。
右目が、なかった。
眼球そのものが、そこには初めからなかったかのように、すっぽりと。
何もなかった。
「私、本当は怖くなんてないんです。」
「本心と自分に言い聞かせて、嘘をついていただけなんです。」
「私、私は…。」
八年程昔の事です。
私がまだ、十二か、十三そこいらの頃。
この屋敷には当時、私と歳の近い幼馴染が二人、暮らしていました。
あの頃の私は、こう見えてとてもおてんばで、二人は男の子でしたが、その子たち以上に走り回って、二人や身の回りの大人達を常に困らせていました。
今思えばとても迷惑な話です。
母の顔は、覚えていません。
私が一歳を迎える前に、昔この里で起きたとされる大火災に巻き込まれ、命を落としてしまったと聞かされています。
父は、今も知りません。
存在そのものを、私は聞かされていませんから。
両親を知らない私でしたが、それ以上に構ってくれる周囲の大人達がいたので、あの頃はそこまで気にしていませんでした。
両親からの愛情を知らない私は、きっと無意識に悪さをはたらく事で叱ってくれる大人達が構ってくれることで、寂しさをごまかしていたのでしょうか。
秋口の事でした。
屋敷に見た事もないような妖怪が、侵入してきたのです。
“色持ち”というのは、何も特別な力を有しているわけではありません。だというのに、昔から妖怪は“色”を宿す同胞や、人間を無意識に食らう習性があると教わったことがありました。
その妖怪は正にそれでした。
私の“色”というものは、大変希少で、髪や瞳が異なる“色”を宿す、弥代さんと同じで“混色”に値します。“混色”は特に、鮮やかで、妖怪をひきつけやすく。
この里は、扇堂家が祀り上げる水虎様の御力によって守護されています。
里には常に結界のようなものが張られ、あの御方の許可なく、妖怪が里に立ち入ることは出来ないとされていました。
でも、それもいつか崩れてしまうもの。
二十年程昔から、徐々に水虎様の御力は弱まっていたのです。
里の周囲に住み着く妖怪達の間では、この里に許可なく立ち入ることはできないと、そう刷り込みがされていたのでしょう。屋敷を襲撃した妖怪というものは、未だ嘗てこの地に住む者が目にした事のないような姿を、していたそうです。一体どこから流れ着いた存在だったのでしょうね…。
「後になって聞かされた話です。
その妖怪を屋敷に手引きしたのは、この屋敷に仕えていた、“色”を持たない、当時の私の世話係でした。」
こちらの気など気にも留めず、語り続ける彼女の表情はどこか柔らかい。
「私が知らない、私のことをよく知る、そんな彼らの手により地に伏された、あの時の感触は、今でも私に残っています。
暴れる私を押さえつけ、抵抗が出来ないようにと、痛みを与えるのにこの顔を焼かれました。痛かった。とても、痛かった。でも、でもそれ以上に、あの長い指先が、押し入ってきたあの指先が、眼球を、裏を、体の奥、他人が決して触れられないような奥深くまで入っていく。あぁ、痛かった、本当に痛かったんです。」
段々とその声が上擦っていく。
貴女は、幸せになりなさいと、そう言われ続けてきました。
扇堂春奈、私の母にあたるその人は、生まれつき目を患っていたらしく、幼い頃から、屋敷から一人で外に出る事も満足にできなかったそうです。
自分一人では、成せることに限界があり、どこに行くにも誰かの手を借りなくてはいかなかったと、誰かが昔話していました。
母は、この扇堂家という家に生まれたにも関わらず、“色”を持たない人間でした。
“色持ち”に遺伝性はないとされています。
しかし家系的に“色持ち”が生まれなくてはいけなかった。
どこにも確証がないというのに、“色”も持たない母は、目が見えないという点でも肩身が狭かったろうに、そのせいで幼い頃から一族の中に立場がなかったのです。
ですが、本家の血筋には母しかおらず、その世代に“色”を宿す子は一人もいませんでした。
扇堂家が祀りあげる貴き存在である水虎様、その力が弱まり出していると先程話しました。それがお母様に責任があるのではないかと、そう耳にしたこともあるのです。
「私を産み間もなく、この里を襲った火事で不運にも命を落とされたお母様。
私は、亡きお母様の分まで押し付けられるかのように、周囲に幸せを望まれ続けました。
でも、それなら、どうして、どうして、誰も助けてくれなかったのでしょう。誰も、誰も私を、私を助けてくれなかった。あの時、あの時、私がどれだけ名前を呼んでも、誰一人、痛かった、怖かった、とてもとてもとても怖かったのに、誰も助けてくれなかったのは、どうして、どうして、どうして、どうして…っ!」
吐き出す言葉に更に飲み込まれていくように、彼女は言葉を紡ぐ度に自分の体を強く抱きしめる。その姿はあまりにも痛々しく。
終いには、同じ言葉を繰り返し泣きじゃくり、嗚咽を漏らすしかない。
弥代はその話に耳を傾けることしか出来ない。
その喚き声はきっと他の誰の耳にも届かないから。
屋根の上で受ける夜風は相も変わらず強く、意識をしっかりと彼女に向けていないと、一句ぐらいなら聞き漏らしてしまいそうだ。あってはならない。自分に向かって語り掛ける彼女の言葉を、今この場で聞き漏らしていいはずがない。
距離は詰められない。彼女はまた遠のいてしまうだろうから。そんな事を考える余裕もなさそうではあるが、彼女が叫び続けている中で近付こうという気は少なくとも起きなかった。
どれぐらい、時間が経っただろうか。
しゃくりをあげていた身体は落ち着いたように思える。
上半身を前に伏せるようにして、泣きじゃくっていた彼女はゆっくりと、その体を持ち上げて、続けた。
「あの頃からです。あの頃から私、言われた言葉が忘れられなくて、そうして気付いてしまいました。私、私は私自身の幸せではなく、あの方達の罪悪感、母にしてきた仕打ちへの罪滅ぼしの為だったんじゃないかって…」
「そんなの、」
それには弥代は思わず口を挟んだ。
少なくともだ。半日ぐらいしかまともに屋敷の中を徘徊していないが、その中で度々彼女の安否を気遣う声を耳にした。
彼女の従者である、芒色の背の高い男だってそうだ。
口数はとても少なかったが、その視線の先には常に彼女がいた。
全員が全員そうじゃないだろうと、そう反論をしようとした言葉は彼女に飲み込まれる。
「いるんですよ!いたんです!いました、えぇいましたとも!一人だっていたから!全員じゃない!でも駄目だったんです!一人でも、一人だけでもそう思ってるんだと、知ったら、私、私は、もう耐えられなかった!だから、だから私はこうまで追い詰められたんです!!こんなにも!苦しめられてきたんです!!」
忘れるわけがない。
妖怪に右眼を奪われた時、彼等が言ったその言葉を。
あの耐え難い苦痛と共に刻みつけられたその記憶に違いはない、ないのだ。
『代用品にもならない分際で。』
『貴女が産まれなければ春奈様は死ななくて済んだかもしれないのに。』
『誰もお前の幸せなんて、本当は心の底から望んじゃいないんだよ。』
『結局貴女は、誰にも愛されていないんですよ。』
身の回りの世話を焼いてくれる人は多くいました。
私に一等幸せを要求してきた人達です。
痛みに喘ぐ私を、まるで慰めるように不釣り合いな優しい手付きでそう奪われた右眼を覗き見ながら、聞こえるような声でしっかりとそう告げてくる彼等の、その言葉はまごうこと無く、
それまで信じていた幸せになりなさいという言葉が、まるで呪いのように、私は感じました。
彼らが告げた言葉は、まるで私に生きる資格はないと告げるように、
私が誰の為にもならない役立たずだから、
私へ向けられた憎しみがありありと込められていた。
上辺で私の幸せを願い、ずっとずっとずっとずっと、
彼らは、母をどういうわけか死なせてしまった要因になっただろう私を、愛してなどいなかったんでしょう。
その姿を目にしたのは、吉野に戻ったあとの朝方だった。
あまりにも綺麗だと感じたあの朝焼けの空気に包まれて、その人はそこに横たわっていた。あんなにも苦し気に、己の罪を告白し、告白して尚も自責の念に囚われていた、そんな人が浮かべる表情にはとても思えなかった。まるで全てから解放されたようなに、安らかな表情を浮かべて、彼はもう一生目を覚まさない。
なんて満たれた顔だろうと、私もそうなれないかと、そう思ってしまったんです。それは、紛れもない事実。
「……羨ましいと、そう、感じました。」
死んで、そうすることでそれまで背負っていたものから解放されるというのなら喜んで死んでやろうと思っていた。
「でもそれだけじゃないんです。」
「わたし、わたしは…」
そう、本当は怖くなんてないの。
「そうやって、見て見ないふりをしてきたんです。
それは、当初は怖かったです。彼等は"色"を持っていませんでしたから。"色"を持たない人が、当時の私には皆私を傷付ける存在に見えていたのでしょう。馬鹿な話です。愛されていないと、それが偽りの愛情だったと知って、余計に怖かった。でも、それも一年も経つ頃には収まっていた。傷だって、当時ほど酷くありません。熱に魘されることも、その熱に浮かされてあの時の事を思い出すようなことも減りました。でも、一年、たった一年です。その一年後には周りの目が、私は、どんな風に彼らに見られるのかを考えると、そちらの方が怖くなってしまったんです。そこに慈しむようなものはなく、まるで腫れ物を扱うように。
雪那様。お可哀想に雪那様。心を病んでしまわれたのかしら、違う勝手にそんなこと言わないで。ずっと引きこもられて泣いてらっしゃないかしら、もう泣いてなんかいません。わたし、私って、そんなに弱い子に見えますか?
私、ちゃんともう怖くないって、そう言っても、誰も信じてくれない。勝手に押し付けないで、私、私、私をそんな目で見ないで…っ!」
「次第に、私は部屋から、出ることすら儘ならなくなりました。
"色"を持たないんじゃない、私を哀れむようなあの目、あの言葉から逃げたんです。そうして…」
そうして八年間、成人を迎えてから五年以上が経つというのに、なんの責任とも向き合わなかった、目を逸らし続けていたのが、正に今の私です。
「わたし、私はこの家の、この里の次期当主の座に付かなくちゃいけない、里の多くの人がそれを望まれている。そうであったから、今までもこれからもそうでなくてはいけないんです。でも、でもどうですか?今尚私はその責務からこうして、死ぬ事で逃れられるのではないかとまで、そう、考えているんのです。私、わたしに、意味はありますか?本当に、私なんかに務まると、お母様の代わりにすらなれもしない私が、生きていていいと、言えますか?ねぇ、弥代さん、貴方は、貴方はどう思いますか…。」
自分でも、もう何が言いたいのかよく分からなくなってきた。
縁談話は白紙に戻され、それでも尚私と一緒になりたいという彼には悪いことをしたと思います。あんな突っぱねてしまうような事、もっと他に言いようはあったでしょうに。
怖くなんかないんです。
色を持たない人達が怖いなんてことはもうずっと怖くないの。
(だって屋敷の外では、普通に接することが出来ていたもの。)
私が、私が一番に、何よりも恐れていることは、きっと…
「私を見捨てないで…」
「私を見て」
「私はお母様の代わりなんかじゃない」
「私に失望しないでッ!!」
死にたいわけじゃない。
死ぬよりも、誰にも見てもらえなくなることが、今まで側にいた人が離れていくのが何よりも怖い。
そう、私はきっと、それが一番怖かったんだ……。
「跡取りとかさ、責任とか、俺は知らないよ。」
彼女から少しだけ視線を逸らす。
右肩にどこか少しだけ暖かい温もりを感じたからだ。
視線を逸らせば、右手の空がどこか白んで見えた。
真冬に比べればそうか、今はもう卯月を迎え、春から先がもう準備をしていてもおかしくない頃なのだ。
白み始めた空は、東の空を少しづつ、少しづつ薄めていく。
「そういう面倒くさいこと俺は嫌いだからさ。」
「願い下げだよそんなこと。出来うるなら関わりたくないとすら思っちまう。」
「やってらんねぇよ、人様の命まで気にかけなくちゃいけないなんてさ。」
それには彼女も気付いたのか、同じように遠く、東の空を見つめている。
「でもさ、けどさ、俺は、俺は少なくともアンタが、雪那さんが、いなくなるのを、望まない。」
「アンタが自分のことどう思ってるか、ずっと聞いてたけど、俺にはイマイチよく分かんなかった。だって、無茶苦茶なんだもん。でも結局アンタがそうやって話してくれなくちゃ俺、そんな無茶苦茶な事だって、ずっと知らないままだったし。」
「周りがアンタの事どう思おうがさ、俺は、アンタの事……、」
『私には、貴方が悪い人になんて見えません。』
何をと、思ったさ。
今でもそれは同じだ。
何の根拠もなく、ただ一度危ない所を助けられただけで、自分に害を齎さないなんてそんな確信が出来るものか。
元々面識があれば話は別だったろうが、そうじゃなかった。
なんの疑いもなく接してくる、心を許したようなその様は、まるで夢に見た彼女のように、
「俺は、アンタが死にたいって思っても、こんな所で死んでほしくない。」
それだけだ。
嘘偽りない。
それだけ。
「なぁ、雪那さん。」
一歩彼が歩み寄る。
「俺、楽しかったよ。」
真っ直ぐに歩み寄る。
「俺は俺がしたいと思ったことをするし、気分屋でわがままなんだ。」
詰まる距離は、明白に。
「俺さ、アンタが見たことないもん目にして、子供みてぇに喜んでるの、表情ころころ変えてさ、馬鹿みてぇな事で一緒に笑うの、たった、たった一月だったけど、嫌いじゃなかった。」
「ねぇ、雪那さん。
無理やりかもしんない。でも、俺は扇堂家とか、この里を背負わなきゃいけないとか、そういうのじゃない。そういうの抜きでさ、アンタとくだんねぇ事で、これからも笑い合いたいなって、そう考えてる。」
「俺でよければ、話ぐれぇなら聞いてやるからさ、だから、な。死にてぇなんて言わないでくれよ。そんな寂しいこと、言わないでくれよ。」
なんて自分勝手なのだろう。
寂しいから死なないでくれ、だなんて。
でも、きっと、いまはそれぐらいがいいのかもしれない。
彼女は、まだ自分が何をしたいかも分からないと、そう以前口にしていた。
死にたいと、そう思っていた事自体はきっと全く嘘ということはないだろうから。
押しつぶされそうな責務と、重圧はきっとこのまま続いたのなら、結果的に彼女が自害を選んでも何らおかしいとは、弥代は思わなかった。きっと、場所や時間など問わず、息を詰めていただろう。
彼女が望んだものは何だろう。
家も里も関係なく、思うがままに生きてみたかった。
誰も自分を知らないような場所で例えその色がどれだけ目立とうとも、自分以外の色持ちたちが色を持たない人の生活に溶け込むように、何もかも白紙に戻して生きてみたかったのだ。
色を持たない彼らを今も恐れていると、そう思われ続けている自分を消し去りたかった。ただ、部屋から出る機会を失い続けてしまった、そんな彼女の、それも一つの願いだった。
なら本当に望んだものは何だろう。そう大層なものじゃない。もっと、もっと身近なもので十分じゃないかと、そう思う。少なくとも、弥代はそう考える。
きっとこんなのは自分に都合のいいようにそう考えているだけで、本当はもっと違うものかもしれないのに、弥代は強く口にする。
「友達に、なれないかな。」
こんな時にいう言葉じゃないだろうに。もっと他に投げかけてやれる言葉があるかもしれないのに、弥代が口にしたのは、そんな言葉だった。
その言葉を受けて、そう雪那が一人驚いたように、左目をこれでもかと見開くのに、しかし直ぐに安堵の表情を浮かべるので、だから、だからきっと、それで良かったのだ。今は、今はきっと、それでいい。
どれだけ言葉を並べても、かつて彼女が死を望まれたとしても、自分の知る彼女にそれらは何も関係はない。
「聞いて、くれるんですか?」
「四六時中なんて勿論無理だぜ。でも気が向いたらいくらでも聞いてやる。思い出してもみろよ、アンタ初めて会った日にはベラベラベラベラも喋り倒してたじゃねぇか、今更だよ。」
「傍に、いてくれますか?」
「いれるときはいてやるよ。俺だって俺のしたいことあるだろうから、やっぱり常になんてのは無理だけどな。」
「私、私を、」
「見捨てないで、くれますか?」
何も解決してはいない。
こんなの延長でしかない。
問題を先延ばしにしているだけで、根本の解決にはなってなどいない。
でもきっといまはそれでいいのだ。
俺も、彼女もいまはきっとそれで。
「友達に、なってくれよ。」
「友達、ですか?」
「そう友達。」
「どうしましょう、私。幼馴染はいたことがありますけど、友達。きっと、初めてです。」
「俺もしたら、いたことねぇかもな友達。」
「大丈夫でしょうか。私、結構泣き虫かもしれません。」
「その内また泣いてるのかって揶揄ってやるよ。」
彼女は今心が弱ってしまっているから、支えになる信頼のおける誰かが必要なのだ。それはそれまで傍にいた誰かじゃダメで、自分ぐらい無作法で気を使うのも馬鹿馬鹿しいような、そんな奴が良いだろう。
でも、俺はやっぱり善意で手を差し伸べたわけじゃないことは、いつか、いつか彼女にも伝えるべきなのだろうかと、そう考える。
『母は目を患っていた』
『色を持たない』
『きっと、一人ではまともに歩くこともままならなかったでしょう。』
(アンタなのかな。)
あれ以降何度か夢を見た。
艶やかな指通りのいい黒髪をした、光を知らない、扇堂の姓を名乗る彼女。
(扇堂、春奈)
それはいつの記憶なのだろう。
雪那は、今年で齢二十一を迎えるという。
彼女が本当に雪那の母にあたる人物だった場合、二十年以上昔の出来事なのだろうか。いつの、出来事なのだろう。
(俺は、何者なんだろう。)
(俺は、どこからやってきたんだろう。)
(俺は、この先、どこへいくんだろう。)