あの日
*この作品は習作のために書いたものです。深い意味はないので軽い気持ちでお読みください。
一体いつから自転車をこいでいるんだ。
途方もなく長い通勤路をただひたすらに進み続けていた。
平日の朝だけあって周囲には私と同じように出勤する人たちの姿が目にとまるが、誰しも顔がよく見えない。
私も通勤のために自転車をこいでいるはずだが、自信を持って答えることは憚れる。
なにせ近頃は記憶のほとんどが抜け落ちてしまい気づけば自転車をこいでおり、その状態が体感で数年は続いているように思えるが実際の所はそれ以上なのかもしれない。
記憶は突然、自転車を漕ぎ始めたところから始まり、終わりは車線を跨いだ先にいる同じく自転車をこぐ彼女の姿が見えなくなって終わる。
今が夏なのか冬なのかさえ分からないのに、私はその女性が気になっていた。
遠くにいるため顔まではハッキリとは分からないが、彼女は毎日私と同じ様に自転車をこいでおり、私服姿から学生なのだと分かる。
妙にひっかかるというか、気になってしょうが無いというべきか。
とにかく何か運命的なものを彼女から感じ取りつつも、一度も会話を交わしたことはない。
一番の理由はこの道に横断歩道が無い事にあった。
清々しく伸び続ける歩道と車道が交わる事は一度も無い。
変わった道だといえばそうだが、そんな道なんてものは存在するのだろうか。
しかし――何か方法はないかと考えながら足はペダルをこぎつづける。
いっその事、車道へ無理やり出て練り動いて会ってみようかと考えるも無謀すぎる。
一体どうすればいいのか、私は横目で彼女を眺めつつ、やがて彼女が曲がるであろう角が見えた時、次回に活かす事を誓った。
やはり――こいでいた。
考えては消える中で徐々に変わる日常を経験している。
前はいなかった散歩中のおじさんが歩道に現れたり、彼女の方には仲の良い兄弟が手を繋いで走る姿が目撃された。
今までに無かった現象に私はこの体験が終わる前触れなのではないかと直感した。
そして今、私は平日ではなく休日に自転車をこいでいる。
幾年かの中身にはなかった事だが今頃になって可能になった意味を探りたい。
すぐ傍で赤い車が通り過ぎ、彼女が現れた。
同じく自転車を漕いでおり、結局今日も角を曲がって終わるのだろうと半ばあきらめていた。
顔を一度でも拝めればと淡い期待を抱きつつ黙々と道を進む。
角が見えてきた。
ああ、と心の中でため息を吐いた瞬間、横断歩道が道の先に現れた。
終わっていた記憶の続きが存在していることに驚き、淡い期待が希望に満ち溢れたものへと変わる。
彼女は――角を曲がらなかった。
そのまま真っ直ぐと進み、ついに横断歩道を渡って停止する。
まるで私を待っていたかのように顔をこちらへむけ、俯いた状態であった。
私の漕ぐ速度は一気に加速した。
一心不乱に漕ぎ続け、ついに彼女の前でとまった。
「あ、あの!」
あれだけ漕いだのに息切れ一つもせず、私の声は大きく緊張で裏返る事などなかった。
「あなたのことずっとみてて、それで」
私は抱いていた想いをぶつけてみようと次の言葉を頭に描いた所で彼女が顔をあげた。
妻の顔であった。なぜ彼女を妻と認識できたか分からない、ただ妻だと頭の中に文字が浮かび上がった。
驚くよりも呆けてしまい、口も半開きで目も見開いた。
「晴子?晴子なのか?」
妻の名を口にして彼女に確認を取ると、ゆっくりと頷いた。
「お迎えに来ましたよ」
その瞬間、私は晴子に腕を捕まれると自転車から転げ落ちる形で横断歩道に侵入した。
体を庇う暇もなく、かかとまでも踏み入れたところで意識が消えた。
「ああ、父さん」
病院の一室で男性二人が俯き、拳を震わせながら頬から涙がおちる。
その隣には70代の叔父が立ち尽くしており、飼っている小型犬をプリントしたものを着ている。
「なんだって母さんの命日と重なるんだ」
背の高い方の男性がベッドで優しく父の頭を撫でてやる。
父は癌との闘病生活を4年続けていたが、それも今日で終わってしまった。
抗がん剤とリハビリの日々は決して辛くないものではなかっただろう。
しかし、父の最後の表情は口角を緩ませ、目は穏やかなものとなっていた。
お読みいただき、ありがとうございました。