幸せを、と祈るだけならば
「ねえ先生、ハタチになってまだ好きだったら、告白しに来ていい?」
私は教室から学校の中庭を見下ろした。今年は桜がいつもより早く咲いたから、卒業式の前日にはもうほとんど満開になって、私たち三年は昨日まで大喜びしていた。桜の中で卒業記念写真をみんなと一緒に撮れるなんて、どんなに素敵だろう。期待に胸を膨らませて、けど帰った家で何気なくつけたテレビの天気予報で『明日は季節外れの雪が降るでしょう』、なんてお天気お姉さんが言っているのを聞いて、どうか明日は天気予報が外れますようになんて祈ったりして。
でも天気予報はこんなときに限ってぴたりとあたって、朝から冷え込んでここ数日のうららかな陽射しは嘘のようだった。昼過ぎからは本当に雪がちらつき始めて、卒業式が終わった今、中庭にも雪が積もっていた。桜の花びらがいくらか散って雪を薄く色づけている。昨日はいやだいやだと思っていたけれど、こうして見てみるとなかなかこれも綺麗な景色だ。めずらしくて、むしろいいかもしれない。
私の高校の思い出も、こんなふうに、ちょっとめずらしいふうに、それでも綺麗に終われるだろうか。
冷えた指先をぎゅっと握り込んで、私は視線を教室の中へと移した。机二つ分ぐらい先に、苦笑を湛えた大好きな先生がいる。特別イケメンってわけじゃないけど、雰囲気がとても優しい私の一年のときの担任。体育で怪我をしたときは休み時間に入ると保健室まで飛んできてくれるような先生。お昼休みはお弁当を教室でみんなと一緒に広げてくれて、そのお弁当を満面の笑みで頬張る姿が可愛くてつい眺めてしまう。クラス別対抗合唱コンクールのときは放課後の練習にも現れて、音楽の先生ではないのに歌がめちゃくちゃ上手なことに驚いたこともあった。二年と三年のときは担任ではなくなってしまったけど、三年間ずっと現国担当で、授業で教科書を朗読する声の柔らかさや抑揚をいつまでも味わいたくて、先生の声を思い出しながら家に帰って何度も何度も教科書を読み込んだ。
私は、先生に恋をした。ほかの誰でもなく、ただ、先生一人に。
「……ありがとう」
先生は眉を下げて少し困ったような顔をして、そして立っている場所から微動だにしなかった。私はそれだけで、もう涙が溢れそうだった。私の長いようで短い青春三年間が散っていく心地だった。
言葉を一つ一つ選ぶように、ゆっくりと先生は声を紡いだ。
「君の気持ちを、僕はうけとめるよ」
一言一言の合間に落ちる静寂。一瞬の期待と、先生の表情ですくむ気持ち。
「でも、」
積もった心が冷えていく。指先をもう一度握り込んだ。
「僕は君に同じものを返すことができない」
一息に言い切った先生が、ふ、と息を漏らす。そんな息遣いすらも私は捉えられる。捉えられてしまう。
目を伏せて、ごめんね、と呟かれた。
でも、だって。私は堪え切れなくて、一歩踏み出した。
「今じゃないのに? 二年後でも、だめ? 言いに来るだけでもーー」
ふるふると先生は首を振って、私をじっとまっすぐ見つめた。交わった視線に驚いて、私は片足を出したまま凍った。思いの外、強い視線。知らない目。私、先生とこんなふうにしっかりと視線を交わしたことがあったっけ。なかったかもしれないという事実から目を逸らしたくなる。そんな。こんな、小さなことすらも。
だめ? と問う声が小さくかすれた。
かすれた声を聞いてから、先生は私と目を外さないまま、ゆっくり頷いた。
「僕には婚約者がいて、彼女と今年、結婚する」
私が、大好きな、声で。
ーーああ、そんな気はしていた。
婚約者。
ーー美味しそうな、お弁当。
結婚。
ーーそっか。
「そっか……」
自分の声で泣きそうだった。からっぽな声だった。
なんにもしらない。
わたし、先生のこと、実はぜんぜんしらないなんて、今気づきたくなかった。
お弁当を頬張る姿が可愛いなんて、何言ってるんだろう。
馬鹿みたい。
ばかみたい。
はずかしい。
消えてしまいたい。
でも、
……でも、目の前のこの人を見ると、やっぱり好きだなあって。胸の中が暖かくなって、どきどきして、痛くて。声が、やさしくて。私だけに言葉が向けられていることが嬉しくて。でも、同じだけ、私だけに向けられた言葉が、胸を、締め付ける。
好きだった。なんにも知らないかもしれないけど、それでも。私の気持ちは本物なのだ。
「大丈夫、君はこの先たくさんの人と出会う。その中に、きっと僕より君にふさわしい人がいる」
恥ずかしさにうつむいてしまったから、もう先生がどんな顔をしているのか、わからない。わからないけど、先生の声は、ずっと変わらず、ただ優しい。
雪は止んでいて、桜ももうこれ以上は散っていない。
咲き誇る桜が、うっすらと真っ白な雪を纏っていて。
「君の門出を、心からお祝いしているよ。卒業おめでとう」
積もった心もやがて解けていくだろうか。
思い出を思い出として、心に纏っていけるだろうか。
「ありがとう、ございます」
一滴の雫が、こぼれ落ちた。