暇潰しなアルバム
『うん、暇つぶしに聴いてる♩』
俺は、一応は名が売れているシンガーソングライターである。
だが、俺が選んだ女は、俺の歌を暇つぶしにしてるのだ……
俺は、電話を切るとそのまま外に出ることにした。
契約している音楽出版会社の担当者と、新しいアルバムの打ち合わせがある。
新譜に予定している歌は、既に先方へコピーしたものを送ってあった。
待ち合わせのカフェには、予定時間よりも少し早く到着したのだが、担当者の須賀さんは先に来ていた。
「新しい曲、聴かせていただきました。しっとり聴かせる歌から軽快な歌まで、全体的にまとまっていてとても良い出来だと思います。」
俺は、神妙な面持ちで担当者の須賀さんの話しを聞いていた。
「これなら、このまま上に提出して大丈夫だと思いますけど……」
担当者の須賀さんは、今回の新曲がどうやら気に入ったらしい。
「中でも、4番目の曲は、個人的にとても好きですね。」
瞬間、意識が途切れたように俺が感じたのは仕方ないだろう。
俺は、優衣が言った言葉を思い出していた。
『うん、暇つぶしに聴いてる♩』
担当者の須賀さんと別れて、俺は優衣が言った言葉を作曲した曲みたいに頭の中で聞きながら歩いていた。
『須賀さんは、大丈夫だと言っていたけれど、たぶんうまく行かないのかもしれないな。』
なんだか気が重くて、そのまま自宅に帰ると、ビリーズブートキャンプのビデオを見ながら、運動不足を解消しようと思いついて体を動かし始めた。
このビデオは、優衣が俺の部屋に来るようになってから、持ち込んだものの一つだ。
『運動不足はダメ』
俺は、別のテレビを見ている。
『食べ過ぎはダメ』
俺は、聞いていないと思う。
『今夜は、サラダだけ』
俺は、すかさず付け足してやった。
『それは、無理だと思う。』
1週間が過ぎるころ、午前中に担当者の須賀さんから連絡が入った。
案の定、会社の上の人からの評価がおもわしくないので、修正を含めた見直しが必要かもしれないとのことである。
話しが終わるまでには、俺は気分が十分すぎるほどに重くなっているのがわかった。
作った曲を修正することは、思っているほど簡単な作業ではないのである。
下手をすると、その時間で新しい曲を作れるのだから。
気分転換をしたいと思って、俺は一応は彼女である優衣に電話をかけていた。
「聞いてほしい話もあるから、今夜一緒に食事しようよ。」
待ち合わせの場所に早く到着して、俺は先にビールを飲むことにした。
優衣は、自分の仕事が終わるまでにもう少し時間がある。
俺は、椅子の背にゆったりと体を持たせて、美味しく冷えたビールを飲み始めた。
中ジョッキのビールを飲み終わるのと同じくらいに、優衣がお店に入って来た。
「ビール?いいわね。」
優衣は、テーブルにある飲み干したばかりのビールジョッキを見て言った。
「このお店、サービスでしめに出してくれる料理があって、それも美味しいって評判なのよ。知ってた?」
ビールを注文した後、優衣は話しを始めた。
彼女の同僚が、今度結婚することが決まったらしい。
「彼女には、2人の男性がアプローチしていたみたいなの。」
「へぇー、そうなんだ」
俺は、あいづちをうち促すようにした。
「それで、1人は彼女の理想にとても近い男性で、もう1人は、理想とは言えないけれど、なんとなく気になる?っていうのかな……」
俺は、黙ったまま頷いた。
「彼女のことを知っている人は、私の他にも何人かいたから、みんなでどうなるのかって、時々話してたんだけれど。結局、彼女は理想的ではない人を選んだ。」
「……うん。」
俺は、優衣の話を促した。
その促し方が、なんとなくかしこまっていたように思って、競馬中継テレビで見かける解説者みたいだと思った。
「彼女には、その時にはとても必要だったかもしれないけれど、過ぎれば必要じゃなくなってしまうこともあるのよね。」
「なるほどなー」
すでに、俺は競馬中継テレビの解説者になってしまっていた。
それからしばらくすると、優衣は、すっかり酔っ払ってしまったらしく、話しが噛み合わない。
「あのな、俺の話聞いてほしいんだけど……」
俺は、優衣に相談するために呼んだ、今夜の目的を思い出して言った。
「えっ……?相談って体脂肪の話?」
俺のお腹あたりに視線を落とした優衣は、そう答えてから、化粧室に向かって席を離れた。
『俺が聞いているのは、新しいアルバムのことだ……』
その後は、俺もかなり酔ってしまったのだが、アルコールに強いわけではない優衣を、抱えるように支えながら帰りのタクシーに乗り込んでいた。
翌日になると、俺は自宅に篭り、アルバムの修正にかかり切りになっていった。
しばらくして、担当者の須賀さんから、電話があった。
「瀬長さん、アルバムは、修正しなくてもいいみたいです。」
俺は、一瞬思考が停止した。
「えっ⁉︎ほんとうですか?」
俺が驚いている様子を察して、担当者の須賀さんは、穏やかな口調で説明したのである。
「私が言っていたあの4番目の曲が、その後評判が良くて、会社の上の人達からそのままでアルバムを出していいと言ってきました。」
そのときの俺は、自分の気持ちをどう表現していいのかわからなかった。
少なくとも、2人の人間が言ったことが当たっていたということなのだろうか?
「よかったですね!」
担当者の須賀さんの嬉しそうな声が、受話器から聞こえてきた。
電話の後、俺は、ぼんやりと考えを廻らせていたと思う。
もしかしたら、考えていなかったかもしれない。
そして、なんとなくだけれど、優衣に電話をしたいと思った。