人生を楽しむ
夢を見ていた。青白い光に照らされながら、ベッドの上で横たわっている夢。手術室だろうか、青い服を来た医者のような一人の男が僕の顔を覗きこんでいる。
「麻酔が足りなかったか。」
その言葉を最後に、僕の意識は途切れた。
淡い光を感じて目を覚ます。少しだけ開けておいたカーテンから日光が漏れて、僕の顔を照らしていた。いつもギリギリになってから起きる僕にしては珍しく、スマホのアラームがなる5分前に目を覚ます。ベッドから飛び起きると、洗面所に向かった。
「…?」
鏡を見ると、そこにはなぜかとても楽しそうな自分が映っていた。その顔は明らかに寝起きの顔ではないが、見ている人も楽しくなるような満面の笑みだ。なぜ僕がそんなに楽しく顔を洗っているのかわからないが、ただ今の生活が楽しいことは確実だ。学校で友達と話すのも楽しいし、部活に打ち込むのも楽しい。そんな楽しい1日の始まりに胸を高まらせて、僕はダイニングに向かった。
「あれ、朝食作ってなかったっけ?」
朝は忙しい。だから僕は朝食を前日の夜に作ることにしている。しかし今日は朝食が用意されていない。
「何言ってるチュン、昨日ユーヤは帰ってくるなり寝ちゃったチュン!」
「そうだっけ。なんか部活で疲れてて何も覚えてないや。」
語尾にチュンをつけて喋るスズメのマスコットのような生き物、チュン子。訳あって一人暮らしだった僕の家で世話をしている。
「まあいいや、高校行く途中でパンでも買っていこう。」
チュン子をスクールバッグのポケットに入れて家を出る。わけもなくバス停までの道を小走りで進む。なんて清々しい朝なんだろう。まるで世界が僕のためだけに作り変えられたようだ。
「なんでそんなに急いでるチュン!時間はまだあるチュンよ!」
「なんとなく走りたくなったから!」
バス停の前の長蛇の列に並ぶ。音楽プレーヤーを取り出して、イヤホンから流れるテクノのメロディに心を踊らせる。しばらくして到着した満員のバスの中に割り入ると、僕は僕だけの時間に浸った。
「ユーヤ、今日は一段と機嫌がいいチュンね?」
「別に何があったわけでもないけど、毎日が幸せだなと思ってさ。」
「急にどうしたんだチュン…?」
正直に言うと、僕にも何が楽しいのかよくわからない。ただ、今なら不可能なことはないと思うくらいに気分がいい。
音楽プレーヤーが五曲目を流し終えるころ、僕は大変なことに気づいた。間違えて別の系統のバスに乗ってしまったのだ。
「やばい、今頃気づいても遅刻する!」
「今頃気づいたチュン?」
「気づいてたなら早く言えよ!」
慌てて次のバス停で降り、道の反対側のバス停に走る。朝からいい気分だったけれど、そのせいでバスを間違えてしまうという大失態を犯してしまった。しかし失敗してしまったものは仕方ない、今からできることは急いで高校に行くことだけだ。
「ユーヤ、このバス停は人少ないチュンよ?」
「あまり人の乗り降りがないバス停なんだな。」
「ユーヤ、この駅はバス停の看板が折れてるチュンよ?」
「事故かなんかで折れてから直されてないんだろ、ずいぶん田舎みたいだし。」
「ユーヤ、このバス停は時刻表がすっかすかチュンよ?」
「い、田舎のバス停だからな…」
チュン子の羽が指した時刻表を見ると、3時間に一本しかバスが来ないということが見て取れた。
「仕方ない、走って戻るか。」
「道に迷わなければいいチュンね?」
「そんなのスマホの地図を見れば…あれ、スマホどこやった?」
「家に忘れてるチュン。」
そうだ、今日はスマホのアラームがなる前に起きたからスマホのことをすっかり忘れていた。チュン子はざまあ見ろと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべていた。それにしても僕がチュン子に何かしたことなんてあっただろうか。
「でも、道路沿いに走っていけばなんとか…!」
「そんなこと分からないチュン。」
「なんでそうやって不安を煽るんだよ…!」
「だって、焦ってるユーヤの顔がかわいいチュン!」
チュン子の言葉が突っかかったが、他に手はないから道路沿いに元の道を戻ることにした。僕が焦れば焦るほどチュン子は楽しそうにチュンチュンと鳴く。道をどんなに進んでいっても次のバス停は見える気配すらないし、道を聞けるようなコンビニや交番どころか民家すらない。
「ねえ、ユーヤ?」
「なんだよ、お前もだんだん焦ってきたのか?」
「チュン子は野生でも生活できるから心配いらないチュン。それよりもユーヤが全然焦ってないから、ユーヤが焦りすぎておかしくなったんじゃないかって心配してるチュン。」
最初はチュン子の言っている意味が分からなかった。少ししてから、僕はこの状況を楽しんでいることに気がついた。別に高校に遅刻したからと言って死ぬわけじゃない。どうせ遅刻するならこの状況を楽しまなければ損だ。
「だって、楽しいじゃないか。見知らぬ土地に放り出されて、地図もなしに高校まで戻るんだよ?」
さっきまで悪い笑みだったチュン子の顔が、苦笑いに変わっていた。人生を楽しむということはそんなにおかしなことだろうか。それともチュン子は人間ではないから、弱肉強食の世界しか知らないのだろうか。
「ユーヤがそれでいいならいいチュンけど…あ、あそこ。人が向こうから歩いてくるチュン!」
道の向こう側にジャケットを着た男の人が見える。その顔はどこかで見たことがあるような気がするが、高校に間に合うのならこの際どうでもいい。
「ちょうどよかった。チュン子、あの人に道を聞こう!」
僕は男の人に詰め寄った。そう、駆け寄ったというよりは詰め寄ったに近かったと思う。そして僕は前触れもなくその男の人に拳を振るった。
「あれ、僕、なんで…」
運の悪いことに、いや、運のいいことにだろうか。僕の振るった拳は男の人が手で受け止めていた。
「君、なんで僕を殴ろうとしたのかな?」
男の人が笑顔で言う。僕はぶんぶんと首を横に振る。殴るつもりなんてさらさらなかった。ただ道を聞こうと思っただけなのだ。なのに、いつの間にかぼくの腕が勝手に動いたのだ。
「ははは、僕は悪くないんだ…僕はただ人生を楽しんでただけじゃないか…はははは…!」
なぜこんなにも楽しいのか僕にも分からない。無意識のうちに僕はバッグからチュン子を取り出して、そのくちばしを男の人に振り下ろした。
「だめだ、また失敗か。」
そう言って男の人は僕の一振りを避けると、ジャケットのポケットから怪しげな機械を取り出す。
「もう君は用済みだよ。じゃあ、人生を楽しんでね。」
そう言うと、男の人は機械のスイッチを入れる。その瞬間、僕はわけもなく楽しくなった。意味不明な笑いが込み上げてきて、全身に力が入らずその場に倒れる。僕は笑い続けるだけの人形も同然だった。
「もしもし…ああ、俺だ。やっぱり人間兵器は無理あるって。…え?だってこいつナイフと喋ってたぜ?」
男の人が誰かと電話でこんなことを話していたが、今の僕にはどうでもいい。だって、僕はこんなにも楽しい時間を死ぬまで過ごせることが約束されているのだから。
ネズミの脳に機械を取り付けて電流を流すことで、ネズミを無理矢理楽しくさせることができるそうです。意図する方向にネズミが走ったときに電流を流すことでネズミをラジコンのように操れるんだとか。もし人間も同じように操ることができたら、どこかのタイミングで人殺しに使う人も出てくるでしょうね。