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あなたのかこ、わたしのこと


 四月になっても、日陰からはまだ雪の姿が消えることがない。大通りはすっかり春の装いだけれど、一歩路地に入れば冬の空気が残っている。

 季節が変わっても、わたしとわたしを取り巻く環境は、冬のころと変わらない。あのクリスマスから、わたしの時間は止まったまま、ヒナコの時間が続いている。

 春の日差しもうららかな午後、ゆるくウエーブのかかった長い髪を揺らして、ひとりの女性が事務所に現れた。

 ベージュのトレンチコートに黒のパンツスーツ、使い込まれたブランド物のバッグにハイヒール。あきらかにこれまでこの事務所で出会ってきたオンナノコたちとは違う、昼間の世界で颯爽と生きている雰囲気に、わたしは久しぶりに良い緊張感を持った。

 彼女は何も言わず、ノックもすることなく事務所のドアを開け、真っ直ぐに東條さんの元へと向かう。


「東條くん、例の件、すべて片付いたから。はい、請求書」

「あ、恵さん、ありがとうございました」


 いつものようにパソコンに向かっていた東條さんは、イスから立ち上がって、彼女が差し出している白い封筒を受け取った。


「今後は気を付けてよね。前に言ってた東京に戻るって話、決定したから。向こうに行ったら、そう簡単に相談に乗れなくなるわよ」

「そっか。いつ?」

「本当なら今頃、もう向こうで仕事をしてる予定だったけど、この件が片付くかどうか目途がつかなかったから、九月に延ばしたわ。だから、これ以上余計な面倒起こさないでよね」

「あぁ、新学期だから?」

杏菜あんななら、母と一緒にもう東京に戻ってる。中学受験させたの。言ってなかった?」

「うん。あ、でもいいんだ、それなら、それで」


 そこでふと、彼女がソファに座っているわたしを見つけた。目鼻立ちのはっきりしたキレイなひとだと思う。桃華ちゃんと少し似たような雰囲気だけれど、まったく別の世界の女性だ。夜のオンナノコたちのような化粧を施さなくても、十分に美しいひと。東條さんのことを「東條くん」と呼ぶのだから、きっと四十歳前後なのだろうけど、若く見える。

 そんな彼女のじっとこっちを見つめる目元が、少しずつ険しいものへと変わっていった。

 さっきまでの会話と、彼女の視線と。それがわたしの中でようやく結びついて、思わずわたしは小さな声を漏らしてしまう。


「彼女は、ヒナちゃん。ぼくの大切なひとだよ。十二月からここにいる」


 うろたえることもなく、ごく普通に誰かを紹介するように、東條さんが知り得る私の情報を彼女に伝える。

 おずおずと立ち上がり、わたしは頭を下げた。


「身分証明書、見せて。免許証か保険証、なければ会員証でも、なんでもいいわ。とにかく、あなたの本名がわかるものを見せてくれない?」


 コツコツ、とヒールの音を響かせて、彼女はわたしの前に立ちはだかった。


「恵さん、ヒナちゃんはね、ちょっと理由があって、そんなものは持ってないんだよ」


 東條さんの言葉なんて、まるで聞こえてないみたいに、彼女、恵さんはわたしを見下ろしている。

 捕えるような視線に耐えかねて、わたしは俯いた。


「じゃあ、携帯電話でもいいわ」

「電話は、壊れたんだ。それから、彼女を証明するものは、本当に何もない。でも彼女は、ヒナコは大丈夫だから」

「本当なの?」

「本当だよ」

「東條くんに聞いてるんじゃないの、彼女に聞いてるの」


 頭の中にごちゃごちゃと浮かび上がる記憶を消そうとして目を閉じる。けれど、暗闇の中で出来事のひとつひとつが整理され、むしろ鮮明に蘇って胸の奥を締め付けた。

 小さく息を吐き出して瞼を開けると、わたしはためらいつつ顔を上げる。


「火事で……燃えました」

「ほら、去年の十二月に南区でアパートが全焼したの、恵さん覚えてない? たまたま住人は留守だったり逃げたりで、誰も死ななかったけど、テレビニュースにもなったんだよ」

「ふうん」


 恵さんは信じないと言いたげに、目を細めて首をかしげる。

 しばしわたしの顔をじっと見つめたあと、くるりと踵を返し、東條さんの横に並んだ。


「それで、撮影には彼女が立ち会ってるわけね?」

「あぁ、そう。あとは、映像で残すか、選んでもらってる。事前説明もしてるし、サインも貰ってる。それから、うん、もうひとつ言われたこともしてるし、今後はああいうことはないと思うよ」

「ないと思うよ、じゃあ困るのよ。絶対ないようにして」

「うん、わかった」


 それじゃあと出て行こうとした恵さんは、何か思いついたように立ち止まると、再びわたしの前にやってくる。

 そうして差し出された名刺を、わたしは受け取った。


「何かあれば相談に乗るけど、タダじゃないわよ」


 驚くわたしに微笑んで、恵さんはドアの向こうに消える。


「相変わらずカッコいいな」


 妙に満足げな東條さんの声で、呆然としていたわたしは、もう一度手の中の名刺を見た。

 弁護士、里崎恵さとざき めぐみ。わたしがふたりを見て感じたことが本当なら、それは、けっこうな衝撃で。


「ヒナちゃん、お茶にしようか」

「あ、あぁ、はい」

「この前買った桜紅茶、あれ、入れてくれる?」

「わかりました」


 わたしは名刺をパーカーのポケットにつっこみ、キッチンへ向かった。

 東條さんが取り寄せた桜紅茶は、ほんのり甘い春の香りのするフレーバーティーだ。ケトルに水を入れ火にかけると、東條さんと私のカップを準備して、それぞれにティーパックを入れた。

 お湯が沸くまでの短い間、もう一度ポケットから名刺を取り出し、まじまじと見つめる。


「嫌なこと、思い出させちゃったね」


 東條さんがそばにいると思わなかったわたしは、あからさまな動揺を隠せずに、いいえと名刺を持った手を振った。


「それから今のが、前にも話した、ぼくの元奥さん」


 微笑む東條さんに向かって、わたしはゆっくり頷いた。


「きれいで、弁護士さんだなんて、カッコいい女性ですね」

「うん、そうなんだ。それに、ああ見えて優しいから、離婚してからもいろいろと助けてくれるんだよ」


 そもそも恵さんもそういうひとなのかもしれないけれど、きっと、相手が東條さんだから、そうしてくれる気がする。

 ケトルから白い煙が噴き出し始めて、東條さんの指がスイッチを切った。


「恵さんが東京に行っても、ぼくは頼るところがなかったら、彼女を頼るかもしれない。でも、彼女との関係は、それ以上も、それ以下もない」


 わたしの手から恵さんの名刺を取り、東條さんはそれをわたしのパーカーのポケットにしまう。

 そうして、わたしの両手を握った。


「ぼくがよく面倒を起こすから、彼女は心配してヒナコのことを聞いたんだと思う。ごめんね」


 首を横に振って俯くと、東條さんがわたしの顔を覗き込んできた。


「なにか、他に聞きたいことはない?」


 二十代で結婚して娘さんがひとり。けれど五年前に離婚をしているというのは、前に聞いていた。娘さんは奥さんが引き取り、そして元奥さんとは、今でも連絡を取り合う仲だということも。


「どうして……別れたんですか」


 聞いてはいけないことなのかもしれないと思った。

 でも、今日のふたりを、恵さんを見ていたら、その理由を知りたくなってしまった。

 優しく、今でも東條さんのことを助けてくれるのに、東條さんだって、恵さんのことをきれいでカッコいいと思っているのに。

 わたしが顔を上げると、東條さんはふと笑う。


「それは、ぼくがだらしなかったから。恵さんが望むようなひとにはなれなかったんだよ。なれなかったっていうのは、違うな。ぼくが、望んでなろうとしなかった。どうしても、譲れないことがあったから。ぼくのわがままを恵さんが受け入れてくれる代わりに、ぼくらは離婚することになったんだ」


 瞼を伏せる東條さんの表情が、どこか淋しそうに見えた。


「ごめんなさい。わたしのほうこそ、嫌なことを……」

「いいや。今の説明じゃ、漠然としすぎてわからないよね。でも具体的に言うときりがないし、恵さんの家のこともあるから、詳しくは話せないけれど。そうだな、ぼくはこんなふうに思っているけど、もしかしたら恵さんは違う理由でぼくと離婚しようと思ったのかもしれないな。そう考えると、今でも離婚した明確な理由は、よくわからないね」


 東條さんらしい答えに、思わず笑ってしまう。

 すると、頭をくしゃくしゃと撫でられた。


「でもね、今ぼくの大切なひとは、ヒナコ、ただひとりだから」


 いつか、わたしは東條さんのすべてを、ちゃんと受け入れることができるのだろうか。そうして東條さんも、わたしのことを受け止めてくれるのだろうか。

 わたしを見つめて、安心させるための言葉をくれる東條さんに、胸が痛む。


 東條さんが入れてくれた桜紅茶を二人で飲んで、わたしはいつものように夕食の買い出しに出かけた。

 それにしても、東條さんは弁護士さんのお世話になるような、一体何を抱えていたんだろうと考える。恵さんがわたしが撮影に立ち会っていることを確認していたから、さしずめオンナノコにでも訴えられていたんだろうか。

 だとしたら、わたしはやっぱりろくでもないひとのことを好きになってしまったんだと、誰から見られてるかもしれないのに、つい笑ってしまう。


 近くにあるスーパーを通り過ぎ、コンビニで二十円の小さなチョコレート菓子を二個買った。千円札を出して、おつりはすべて百円玉で貰うことにしている。

それから、コンビニ前の地下鉄駅へ向かう階段を下り、ポケットを探った。中には恵さんの名刺と一緒に鍵がある。目的地が見えてきたころ、その鍵を取り出し、番号を確かめた。


「六百円……」


 鍵穴の横に表示された料金を支払い、わたしはロッカーの鍵を開ける。

 中にあるコンビニ袋に無造作に名刺を入れると、免許証に保険証、会員証と診察券、銀行のカードやお気に入りのお店のスタンプカード、それから、壊れていない携帯電話とそこから外してある電池が入っているのを確認した。

 現金が入れてある封筒から千円札を一枚だけ抜き出すと、扉を閉めて三百円を投入する。そうして、再び鍵をかけた。

 封筒にはあと二千円あったはずだ。もう少ししたら、お金を下ろしに行かなくちゃいけない。でも、銀行にも残金はあまりない。

 使っていなくても携帯の料金は引き落とされているし、保険証だって、きっともう使えなくなっているはずで。

 ロッカーの鍵を引き抜いて、わたしは息を吐き出した。


 ここに、わたしは本当の「わたし」を閉じ込めている。


 思い出したくない記憶と、後ろめたさと、どこにも吐き出せない醜い気持ちと一緒に。

 きっと、こんな嘘をついていることに気付いたとしても、東條さんは笑ってくれると思う。些細なことを、どうして黙っていたのと呆れながらも許してくれるのが目に浮かぶ。

 だけど、わたしはまだ「ヒナコ」でいたい。

 ヒナコのまま、東條さんに甘えていたい。



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