ほんとのきもち
フライパンに少量のオリーブオイルとガーリック、それから種を取って輪切りにした鷹の爪を入れて弱火にかける。ふわりと香りが立ってきたころにベーコンを入れ、さっと炒めた。本当は厚めのベーコンかパンチェッタを表面がかりっとするまでじっくり焼きたいところだけれど、スーパーの安いベーコンはペラペラの薄っぺらで、あっという間に火が通ってしまう。
それから先にさっとゆでておいたキャベツをフライパンに入れ、ベーコンと合わせる。スパイスやハーブがブレンドされた塩と岩塩を混ぜたもので味付けをして、ちょうど茹で上がったパスタにからめて出来上がり。
サラダはミニトマトときゅうりにオリーブオイルとバルサミコをかけただけのシンプルなものにした。
「うわー、ヤバい、今日もマジでうまい。ナニ入ってんの、これ」
「見たとおりのキャベツとベーコンだよ」
「それは俺でもわかる。そーじゃなくてさ、なんかシンプルなくせに絶妙なんだよなぁ」
数時間前にオンナノコがお茶を飲んでいた作業台で、今は東條さん、コンちゃん、わたしでパスタを食べている。
コンちゃんはいつもオーバーリアクションでうまいを連呼してくれるし、東條さんはあまり感想を言ってくれないけれど、黙々とおいしそうに食べてくれる。だから、わたしはこの時間がとても好きだ。
「やっぱりヒナちゃん、店出したほうがいいって。俺、毎日通う」
「ぼくも毎日通う」
満足そうなふたりを見ながら、わたしも満たされるしあわせな時間。
あっという間にふたりが食べ終えて、ごちそうさまとフォークを皿に置いたころ、事務所のドアが開く音がした。
「東條さぁん、助けて!」
外の冷たい空気と甘い香りをまとって颯爽と現れた彼女は、わたしの向かい側に座る東條さんのもとへ真っ直ぐに向かうと、その背中から抱きついた。
「桃華ちゃん、どうしたの」
特別驚いた様子もなく、東條さんは穏やかな表情のまま、身体に絡みついている桃華ちゃんの腕をぽんと軽く叩いた。
「また逃げられたとか?」
半分呆れた様子で、東條さんの隣にいたコンちゃんが、東條さんと自分の皿を持って席を立つ。
わたしはフォークに絡めていたパスタを口に運びながら、静かに目の前のふたりの様子をうかがった。
「東條さん、タイチって意地悪だよね。あたし、アイツ嫌い」
「コンちゃんは、口が悪いときがあるけど、決して悪いヤツじゃないよ。だってほら、先月だって今日みたいな桃華ちゃんに付き合ってあげてたでしょう」
「でもイヤ。その先月ね、店に入っても楽しむフリすらしないんだよ。もう代わりに連れてったのバレバレだよ」
「そうだってね、聞いたよ」
明るい茶色のストレートロングがさらりと揺れて、桃華ちゃんは顔を上げた。そうして今にも東條さんの頬に唇が触れそうな距離で、目を細める。
「だから、今夜は、東條さんが桃華と一緒にお店に行って?」
そう甘い声で囁いてから、ピンクのグロスがたっぷり塗られた唇を、東條さんの頬に押し当てた。
ふと呼吸するのを忘れていたわたしは、大きく息を吸って残りのパスタを口に含み、鼻から息を吐き出しながら咀嚼する。さっきまでのしあわせな気分は跡形もなく消え失せて、おいしかったパスタの味もわからない。
目の前のふたりから目を逸らしたわたしの視界には、白い皿の上に輪切りの鷹の爪がぽつんと映っていた。
「残念ながら、今日は仕事が山積みなんだ。ごめんね、桃華ちゃん」
「ウソつき」
「ウソじゃないよ」
「みーんな知ってるんだよ、東條さんが同伴もアフターも遊んでくれなくなっちゃったのは、このオンナのせいだって」
顔を上げると、鷹の爪の辛さなんて比べものにならないほど辛辣な視線がわたしを貫く。
長いまつ毛とアイラインに強調された大きな瞳。通った鼻筋に形のいいぷっくりとした唇。それぞれのパーツが小さな顔の中にお手本のように整って配置されている。初めて桃華ちゃんを見た時から美人だと思っていたけれど、こうしてあからさまにきつく睨まれても、辛辣だと思ったのは一瞬で、次の瞬間にはその美しさに見とれてしまう。
視線を彼女から白い皿に戻せば、真紅の鷹の爪が目に入る。たとえば彼女がこの赤い鷹の爪なら、わたしはその片隅にこびりついている、ガーリックのカスみたいなものだ。
すごすごとこの場から退散しようと、皿とフォークを持って席を立てば、東條さんがふっと笑う。
「そうだね。間違いなくヒナちゃんのせいでもあるね」
わたしはうっかり皿を落としそうになり、それを見ていたコンちゃんが咄嗟にわたしに向かって手を差し出してくれる。
そうしてコンちゃんとふたりで目を合わせ、ふたりで東條さんを振り返った。
「だって、好きな子がいるのに、同伴とかアフターまで誘っちゃうのはどうかと思わない? 桃華ちゃんだって、好きな男が仕事とはいえキャバクラ通いが多くって、その上同伴にアフターまでしてるとわかれば、ムカつくよねぇ?」
桃華ちゃんは、ピンクの唇を突き出して東條さんをじっと見つめている。その目がちらりとわたしを見遣った。
「東條さんは、あのオンナのことが好きなの?」
「うん」
「……付き合ってんの?」
「いや」
「なにそれ、意味わかんない。付き合ってないなら、べつにいいじゃん」
「いや、よくないよ。ぼく的に、ね。ほら、もう八時過ぎたよ、同伴も八時半までだよね。コンちゃん、悪いけど今夜も桃華ちゃんと同伴してあげて。その分、給料上乗せするから」
首に絡まり付いている桃華ちゃんの手を優しく払い除けて、東條さんはゆっくり立ち上がった。
けれど、離れてしまった手を今度は腕に絡めて、桃華ちゃんが東條さんを引き止める。
「ヤダ! 東條さんがいいの。もうこれが最後でいいから、お願い。ね、いいでしょ、ヒナコ」
桃華ちゃんに初めて名前を呼ばれて、わたしはぴんと背筋が伸びた。
「あ、えぇっと……わたしは、いいけど」
本当は、よくなんかない。でも、わたしには東條さんを引き止める権限なんかないから、そう答えるしかなかった。
「ほら、ヒナコ本人だっていいって言ってるし。ねぇ、東條さん行こうよ」
「だからね、たとえヒナちゃんがよくても、ぼく自身がもうそういうことをするのをやめるって決めたんだ。きっかけはヒナちゃんだけど、誰のためでもなく、ぼくのために、同伴はしないよ」
しばしじっと東條さんを見上げていた桃華ちゃんが、絡めていた腕をほどく。
「じゃあ、いい。タイチと行くくらいなら、遅刻でいいや」
「それはダメだ。コンちゃん、意地でも一緒に行って」
「いいってば。アイツと一緒なんて面白くない。ペナルティ分はヌードで稼ぐから、東條さんスケジュールだけメールして」
今度は東條さんが桃華ちゃんを引き止めて、そうしているうちに、コンちゃんがしぶしぶながらもコートを羽織り鞄を持つ。
そうして、至極不機嫌なキャバ嬢の桃華ちゃんと、仕方なしに身代わり同伴を引き受けたコンちゃんは、慌ただしく事務所を出て行った。
二人を見送り、溜息を吐いた東條さんは、おもむろにどこかへ電話を掛け始めるから、わたしは手に持ったままの皿とフォークをキッチンへ下げに行く。
東條さんの電話相手は、たぶん、桃華ちゃんのお店のスタッフだ。どんなことを話しているのかはよく聞こえないけれど、きっと優しい東條さんは、彼女をフォローするようなことを伝えているのだと思う。
わたしはまず自分の使った皿についていた鷹の爪とガーリックを流し、夕食の後片付けをした。それから洗濯機のスイッチを入れ、シャワーを浴びる。バスルームから出るころには洗濯が終わっていて、乾燥機に入れるものは入れて、他のものをハンガーに干す。
そのあとは本棚にたくさんある本の中から、目についた写真集を引っ張り出してなんとなく眺めて過ごした。
これは、コンちゃんがいてもいなくても、ひとりで留守番をしていても同じ。誰かの撮影が入れば多少前後してくるけれど、わたしは東條さんの仕事の邪魔をしないように、わたしに与えられた仕事をこなして黙っている。
コンちゃんが事務所に戻ってきたのは、あれから二時間以上経ってからで、それから東條さんとコンちゃんは何やら打ち合わせをして、それぞれの仕事を再開し始めた。
「ヒナコ」
午前零時を回るころ、東條さんがゆっくりと振り返る。
写真集を眺めるのも飽きたわたしは、こちら側の照明を落として、もうすぐベッドと化すソファで、パソコンに向かうふたりの背中を見ていた。
「今夜は、先に眠って」
そうなると思っていたわたしは、静かに頷く。
仕事が夜通しになったり、東條さんが事務所に帰ってくるのが日付が変わってからになることは珍しくない。
わたしはいつものように、いちにちの終わりの儀式をするために、東條さんの首筋に額をつけた。
「今日も、おりこうにしてたね」
低い声が耳に届く。目を閉じていれば、そのまま眠ってしまいそうに安堵する声も、今夜はわたしの心を落ち着かせない。
少し前に、この場所に桃華ちゃんの顔が埋められていたのだ。そうして顔を上げて目の前にある頬に、彼女はキスをした。
「いや、今日のヒナコは、おりこうじゃなかったな」
東條さんの言葉に、わたしは驚いて顔を上げる。
「ヒナコは、本当にぼくが桃華ちゃんと同伴してもいいって思ったの?」
「それは……」
「それとも、ヒナコはぼくより桃華ちゃんのことが好き?」
わたしは首を横に振る。
「あのときは、そう言ったほうがいいと思ったから」
「そうか。じゃあ、ヒナコは、ホントはどう思ったの?」
本当は。
「……行ってほしく、なかった」
東條さんにしか聞こえない声でそう言って、わたしは桃華ちゃんのぬくもりを払い落とすように、東條さんの首に抱きついた。
「でも、そんなこと言うのは、わがままだから」
それに、桃華ちゃんと東條さんは、わたしにはまだよくわからない仕事上の付き合いもある。だから、いやだとは言えなかった。
何より、東條さんも肯定したとおり、わたしと東條さんは恋人同士なんかじゃないから、強く引き止めることもできない。
「ヒナコ、我慢させちゃったね。ごめん」
わたしはさっきより強く首を横に振る。
東條さんが謝ることじゃない。わたしが、もっと素直になれたら。
「でもね、ヒナコ、ぼくはあのとき、わがままを言ってほしかったよ。ぼくはヒナコにとって、ヒナコだけのものでいたいと思うから。もっと、わがままにぼくのことを欲しがっていいんだよ」
東條さんの指はわたしの頬を撫で、鼻先は髪の毛をかき分けて、見つけ出した耳に唇が触れる。
わがままを言い出したら、きっときりがない。そうしたら、東條さんに嫌われてしまう気がする。嫌われてしまったら、こうして抱きしめてくれなくなったら。
眠る前のご褒美のキスは、いつもより少し長くて、けれどわたしの気持ちを探るように優しかった。
「今夜は、ヒナコが眠るまでここにいるよ」
わたしの不安を見透かしたように、東條さんは微笑んだ。
「おやすみ。また、明日ね」
東條さんはわたしを膝の上に眠らせて、髪を撫でる。
目を閉じると、コンちゃんがマウスをクリックする音が聞こえた。東條さんだって、仕事があるはずなのに。こんなふうにわたしが眠るのを待っていたら、東條さんの睡眠時間が減ってしまう。
そんなことを考えていたら、もっと眠れなくなってしまうから、わたしは身体を縮めて何も考えようにした。わたしを撫でる東條さんの手のぬくもり、コンちゃんのマウスとキーボードの音、そしてわたし自身の規則的な呼吸。
いつしかそれらがわたしを夢の中へといざなうのだと期待して、わたしは目を閉じた。