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おわりと、はじまり

「なに、なんなの、今の!?」


 事務所のドアが閉まるなり、桃華ちゃんが声を上げた。


「東條さんの元嫁の、里崎さん。この辺じゃ、有名な弁護士だよ」

「はぁ? うっそ、東條さんの元嫁って……なんでタイチ知ってんのよ。けど、どーしてそのひとが、え、ちょっと、ごめん、意味わかんない」


 桃華ちゃんは辺りをうろうろと行ったり来たりしながら、恵さんが言ったことを繰り返すようにつぶやいている。

 東條さんは立ち尽くしたままで、わたしはしゃがんだ状態から立ち上がれずにいた。

 名前も、なにもかも。

 こんな形で知られてしまうなんて。


「不倫て、なに。ヒナコ、なにがどうなってんの? いい加減、アンタ全部話しなさいよ。裁判するかどうか、それから決めようよ。ヒナコだけが悪いんじゃないんでしょ。でなきゃ、こんなにヒナコが苦しむはずない」

「てか、ヒナちゃんの名前、さぁ」

「タイチは黙ってて!」

「いいから、ふたりとも黙って出て行ってくれないか」


 口調は優しかったけれど。東條さんの言葉に、事務所の中がしんと静まり返る。


「桃華、今日は俺が同伴するわ。行こ」

「ちょっ、やだ、待って。東條さん、ダメだよ、ちゃんとヒナコの話を聞いて。絶対にヒナコだけが悪いわけじゃないはずだから。ヒナコも、東條さんに全部話して、それからどうするか決めるんだよ、絶対に自分だけが悪いとか、考えないで!」


 もがいて掴まれた腕を振り払おうとする桃華ちゃんと、暴れる彼女を強引に引っ張るコンちゃんが、ドアの向こうに消えてしまう。

 目の前の東條さんの足先が、わたしのほうを向いた。


「ヒナコ、ぼくはおなかがすいたよ。なにか、おいしいごはんを作ってくれないかな」


 東條さんは。

 そうしてわたしを責めない。そうすることで、わたしを守っていてくれるのだと思う。

 でもそれが、痛くて、辛い。

 わたしはゆっくりと立ち上がる。


「東條さん……わたし、帰ります」


 そのときが、来たのだと思った。


「明日、実家に帰ります」

「うん。ヒナコがそうしたいなら、そうすればいい」


 前から、そんなふうに言われることは覚悟していた。

 だから、引き止められないことが悲しくはない。


「じゃあ、ごはん、作りますね」

「うん」


 顔を上げて、東條さんを見てしまったら泣いてしまいそうで、わたしは俯いたままキッチンに向かう。背後では、東條さんが椅子に座って軋む音がした。


 今夜はコンちゃんが来るから、前にリクエストをもらっていたとんかつを作ろうと準備していたのだけど。コンちゃんは帰ってしまったし、東條さんが揚げ物をそんなに好きではないことも知っている。それなら、シンプルにポークソテーがいいかな、と。このキッチンで、こんなふうにしあわせなことを考えるのも、もしかしたら今夜が最後かもしれない。そう思うと、鼻の奥がつんと痛くなった。


 料理を作りながら、冷凍庫に隠していた免許証を取り出し、ポケットにしまい、出来上がった料理をいつもと同じようにふたりで食べた。今夜もおいしいと言ってくれた東條さんは、キャベツの千切りもひとかけらも残すことなく完食してくれる。


 食事のあと、東條さんは再び仕事に戻り、わたしは洗濯をして、数少ない荷物をまとめる。それを入れて持っていくための鞄を東條さんから貸してもらい、荷造りを済ませてシャワーを浴びた。

 それから、東條さんが眠るまで、わたしはソファで読みかけの小説を読んでいた。


「それ、持って行っていいよ」


 午前零時をまわる直前、肩を揉み、首を回しながら、東條さんがゆっくりとわたしのそばへやってきた。


「途中、主人公はちょっと辛い目にあっちゃうけど、最後はちゃんとハッピーエンドだから」


 あ、ネタバレしちゃったと言って、わたしの隣に座る。

 そうして暖かな手がわたしの頬に触れ、キスをした。

 唇が離れていくのが、少し怖い。これで終わりなのかと思うと、わたしのほうからねだるようにキスを続けた。けれど、それもやがて離れて、わたしは東條さんを見つめる。


「今夜、一緒に眠っても、いいですか……?」

「うん、いいよ」


 東條さんのベッドで眠るのは、すべての気持ちが決まってからにしようと思っていた。けれど、そんなことは階段から転げ落ちた日に覆されてしまった。それから今夜も。本当にすべての気持ちがクリアーになったとは言えない。でも、今夜じゃなきゃ、ダメだ。


 東條さんがシャワーを浴びるのを、先にベッドに潜り込んで待っていた。なにから話すべきか、どう話すべきか、考えて、頭の中でシュミレーションを繰り返す。取り繕ってもすぐにバレる。そんな必要もないし、全部、素直に話してしまおう。

 そうして、東條さんがすべてを受け入れてくれたなら、あの夜の続きを、しよう。

 シャツとスウェットに着替えた東條さんが部屋に戻ると、わたしを見て微笑んだ。


「ヒナコが全裸だったらどうしようって、ちょっと期待してたんだけど、違ったか」

「そ……そのほうが、よかったですか」

「いや、ある意味嬉しいけどね、それはそれで困ったかな」


 極力部屋の照明を落として、東條さんがベッドに入ってきた。ベッドヘッドにもたれ、わたしにも中から出てそうするように促した。

 東條さんに肩を抱かれると、ボディソープの優しい香りがする。


「もっと早く、ぼくが聞き出してあげればよかったのかもしれないね」


 髪を撫でてくれる東條さんの横顔を、そっと覗く。パーティーの夜の悲しい表情はどこにもなくて、穏やかに瞼を伏せた。

 その瞳がわたしを向くと、わずかに眉根を寄せる。


「でも、ここまできても、ぼくはヒナコの過去を知らなくてもいいとか、そんなことを思ってるんだ。嘘っぽいかな。恵さんが言っていたことが全部本当だとは思えないし……それについてヒナコがぼくに言いたいことがあるなら、話して」

「東條さんは……わたしの過去のことを、知らないほうがいいですか?」


 もしかしたら、知らなくてもいいと言うのは、知りたくないからかもしれない。それなら、わたしが打ち明けなければと思っているのはひとりよがりで、なにも聞かせないほうがいいと思った。


「そういうことじゃ、ないんだ。ぼくは、知りたいよ。ヒナコがどんなことで苦しんでいるのか、話を聞けば、ぼくになにかできることがあるかもしれないから」


 だけど、ヒナコは辛くないの。

 そう聞いて、東條さんは目を細める。

 辛い現実は、すでに目の当たりにした。容赦ない警告も受けた。もう、隠すこともないし、打ち明けて楽になりたい。


「恵さんの言っていたことは……本当です」


 ディマーレで一緒に働いていた岸川さんと、いつしか恋に落ちた。あの火事で家を失ったわたしは彼のマンションにおしかけて同居を始め、クリスマスイブに、彼の家に帰ったところで奥さんと鉢合わせた。なにも知らないわたしは、彼女が妻であることを簡単には認められなかったけれど、彼女に見せられた携帯には、岸川さんから浮気を詫びる言葉と、わたしの荷物がまとめてあるから捨ててくれ、との文面があった。そうしてわたしの荷物は、生ごみを混ぜられて、ゴミ集積所に捨てられていた。


 そんな、あの夜のことを、そのままのことを、東條さんに話した。

 それから、パーティーの夜に起きたことの一部始終も。


「クリスマスイブから三日間、ホテルを予約してくれていたんです。毎日仕事だったのに、たまにはそういうのもいいだろうとかって。でも、あれは奥さんが来るからわたしを追い出すためにしたことで。わたしが風邪を引いて、家に帰るって言ったから……慌てて奥さんにメールしたみたいです。わたしは奥さんがいるなんて知らなかったし……すごく、ショックでした」

「待って、じゃあ、ヒナコは彼が結婚してるって知らなかったってこと?」

「はい……」

「なんだ、じゃあそれをケイゴやレストランのスタッフが証明してくれれば、損害賠償請求なんて意味ないよ。彼が既婚者であったことをヒナコが知らなかったなら、ヒナコも被害者だ。彼がどんなふうにヒナコのことを言っているのかわからないけど……もしかしたら恵さんもそのことを知っていて、こんなやり方でヒナコを追い込もうとしてるのかもしれない」


 露骨に嫌な顔をして、東條さんは息を吐き出した。


「でも、いいんです。訴えられないなら、そのほうがいいです」


 裁判なんかになれば、またいろんなひとに迷惑をかけてしまう。そもそもあの渋谷さんだって、オーナーの高槻さんには頭が上がらないと言っていたし、わたしなんかのためにレストランスタッフとオーナー側を対立させるようなことはしたくない。

 腕が立つと評判の恵さんが、そのことについて手を打ってないとは考えられないし、もうわたし自身、岸川さんや彼の家族とも関わりたくない。きっと忘れたいことも、思い出さなきゃいけなくなる。


「東條さんとは、離れたくないです。ずっとここで一緒にいたい。でも、わたしが実家に戻ることで、なにもかも丸く収まるなら、それで……いいんです」


 東條さんの言うとおり、彼がどんなふうにわたしのことを話しているのか知らない。知りたくもない。きっと知らないほうがいい。そんなひとを愛していたのかと、どれだけ自分が愚かで騙されていたのかと、今より思い知ることになる。


「わたし、彼のことを……本当に、愛してました。いつか結婚して、一緒にお店をやろうって、そんなことまで考えてました。だから、簡単に忘れることができなくて」

「うん」


 東條さんに出会ってからも。ずっと。


「それで、東條さんに初めて会った夜に名前を聞かれて……彼以外に、自分の名前を呼ばれたくなくて……ヒナコって、嘘の名前を……」


 声が、身体が、小刻みに震え始める。そんなわたしの肩を、東條さんは強く抱いた。


「なんでそんなことをしたんだろうって、すごく、後悔してます。東條さんに夏美って呼んでもらえていたら、もっと早く、あのひとのことを忘れられたのかもしれない」

「うん。でも、ヒナコは彼のことを忘れたくはなかったんだよね。憎んでいたけれど、どこかで信じていたかったんだ。いつも誰かのことを考えてるのは、わかっていたよ。それを塗り替えようと、必死になってぼくにしがみついていたことも、わかってた。それから、名前が違うことも……知っていたんだ」

「えっ」


 驚いて東條さんを見つめると、ごめんと苦笑する。


「ここに来た次の日だったか、あまりひどい熱で寝込んでいたからね、病院に連れて行こうか迷ったんだ。それで、申し訳ないけれど、ヒナコの持ち物を見せてもらった。中に保険証を見つけて、名前が違うことがわかって、またぼくは迷ったんだ。桃華ちゃんみたいに源氏名を使っているようには見えなかったし、それなら、このコが違う名前を使ったことには意味があるんじゃないかって。だから、全部見なかったことにした。それに、ぼくにとって、本当の名前も嘘の名前も変わらないんだ。ぼくにとって、ヒナコはヒナコで、それ以外の誰でもない」


 わたしは愕然とした。本当に、東條さんはなにもかも、わかっていたのだ。


「わたし……一体、なにしてたんだろ。あんなに、悩んで……名前の、ことも、自分の気持ちも。でも、東條さんは全部知ってたなんて……バカみたい」

「ごめん。ぼくはね、ヒナコが自分ですべてを解決するのを待ってたんだ。ぼくが強引に出れば、きっとヒナコはされるままに応えただろう。そうすることで彼のことは、もしかしたら忘れられたかもしれない。でも、ぼくのことも好きにはならなかっただろうし、きっとぼくも、こんなにヒナコのことを好きになれなかったかもしれない」

「違うんです、東條さんを責めてるわけじゃなくて……」


 自分が。どうしてもっと早く前に進めなかったのか。

 残酷に傷つけられるまで、どうして唯々気持ちがフェイドアウトしていくのを待つだけなんてことをしていたんだろう。

 こんなふうに心のすべてを打ち明けて、手を伸ばせば、東條さんはすぐに抱きしめてくれたのに。


「泣かないで」


 これまでも何度も涙を拭ってくれた手は、やっぱり暖かい。

 わたしは、この手が大好きだ。


「東條さん」

「うん」

「今夜、あの夜の続きをしてください」


 そう言って、胸に顔を埋めてから、確かめるように東條さんの顔を見上げた。

 何度も毎日キスをしてきた唇が、目の前にある。優しく見つめ続けてくれた瞳は、今も同じようにわたしを見下ろしている。

 包み込んでくれる腕や胸のぬくもりも、なにもかも、忘れたくない。もっともっと、東條さんを知りたい。


「ヒナコ、十月になったら、ぼくのところに戻って来てくれる?」

「戻ってきても、いいんですか……?」


 もちろんだよ、と。東條さんはわたしにキスをした。


「じゃあ、この続きも、そのときにしよう。ヒナコがここに戻って来てくれたら、ぼくはヒナコを好きなようにさせてもらう。いいよね」

「でも……」

「ん、そんなにどうしても今したいって言うなら、ヒナコだけ気持ちよくしてあげることはできるけど」

「そういうことじゃなくてっ」


 くすくすと笑いながら、わたしの耳元をくすぐるように口づける。


「ヒナコ、忘れちゃった? ぼくはどっちかっていうとイジメるほうが好きなんだ。意地悪で、ごめんね」


 それから。ベッドの上でじゃれ合って、どちらかが先に眠るまでいろんな話をした。

 お互いの家族のこと、渋谷さんの意外な一面や、東條さんと桃華ちゃん、コンちゃんとの出会いに、わたしと陽奈子……ナツミがどんな高校時代を過ごしてきたか。初恋はいつだったとか、はじめてキスしたのはいくつのときだったとか、そんな話もした。


 とても一晩じゃ話し足りなくて、でも話しているだけじゃ物足りなくて、何度もキスをした。もっと触れ合いたいのを我慢して、いつの間にかふたりとも眠ってしまったんだと思う。

 クリスマスイブから今日まで、こんなに長く一緒に居たのに、やっとほんの少しだけ、前に進めた気がした。


 目が覚めたとき、珍しくまだ東條さんは眠っていて。もしかしたら、寝たふりをしていたのかもしれないけれど。


 わたしは目を閉じた東條さんにキスをして、そっと事務所をあとにした。




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