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つきつけられる

 目が覚めたとき、昨日が現実だったのだと思い知らされて気分が淀むのは、クリスマス以来だった。残酷な朝は音もなく当たり前に訪れて、時計は規則的に時を刻む。


 東條さんは、いつもと変わらないふうを通していた。いつものコーヒーを飲みながら、新聞を読む。おはようとわたしの様子を伺ったあとは、パソコンに向かい仕事を始める。夕方、わたしは食事を作り、眠る前にキスをする。


 ここに来てからの変わらない毎日。あんなことがあって、東條さんは苦しんでいたはずなのに、それでも変わらないことを続けているのは、どこかぎこちなくて違和感があった。

 そうして、まるでなにもなかったように振舞う不自然な時間が、三日過ぎた。


 東條さんと同じ空間を共有するうちに、特別なことがない日々が、しあわせだと感じていた。毎日同じことを繰り返す。そうして日々が過ぎていく。少しずつ、あのときのことが過去になって、前へ進んでいる実感が湧く。ゆるく、ぬるい時間の中で、たゆたうわたしの気持ちを東條さんが汲みあげてくれる。東條さんの周りで自由に泳ぐことを許されていたわたしは、どんな理由で溺れても、手を差し伸べてもらえると安心していた。


 そこから引き上げてくれる東條さんの気持ちを、これまで考えなかったわけじゃない。でも、甘えきっていた。あんなふうに余裕なく不安にさせてしまったことが、胸をきりきりと締め付けている。いつもと変わらないことを続けてくれていることも、辛かった。


「で、おいしいごはんも食べ損ねたわけ?」

「しょうがないよ」

「東條さんに聞いてない。ヒナコに聞いてんの」


 夕食の買い物から帰ってくるなり、出勤前の桃華ちゃんに言い寄られ、ソファに倒された。


「慣れないヒールで転んだって、ホント?」

「……うん」

「慣れないくせに、走ったんだって? なんで走ったりしなきゃなんないわけ? バカじゃないの」

「ごめん……」


 すごい剣幕で怒鳴ったあと、大きく息を吐き出してソファに座った。


「あー、もう、信じらんない。せっかくあんなにカワイクしてあげたのにさぁ。東條さんに会ったときには、もうボロボロだったんでしょ。意味ないじゃん」


 背中をのけぞらせ、悶えるように身体を揺らし、起き上がる。その横で、わたしも身体を起こして桃華ちゃんの様子を伺った。


「いいんだよ。また今度行けばいいんだし。由紀ちゃんには、次はローヒールにしてくれって頼んであるから」

「ヒナコだったら、ローヒールでもコケるんじゃないの」


 東條さんのフォローにも、桃華ちゃんに横目で睨まれて、わたしは視線を逸らした。

 と、ドアが開いてコンちゃんが現れる。そうしてわたしを見るなり、わざとらしく顔をしかめた。


「ヒナちゃん、やっちゃったんだって? 聞いたよ、由紀さんから」

「コケて帰って来たんだって。膝すりむいて血だらけって、有り得ないよね」

「あんなヒール選んでごめんて、由紀さんから伝言」


 そう微笑んで、コンちゃんは東條さんの隣のデスクに座る。

 わたしは頭を抱えてうな垂れたけれど、どこかで少しほっとしていた。

 この三日間、ずっと東條さんとふたりきりで、息が詰まりそうになることがあった。東條さんはあの夜以来、わたしのことを責めないし、謝ることも許されない気がしていた。

 むしろこうして責められて、謝ることができたほうが気分がよかったし、わたしと東條さん以外の誰かがいてくれることで、張り詰めた空気がわずかに緩む。


「桃華ちゃん、ごめんね。せっかくあんなにしてくれたのに」

「ムカつく。言ったけど、あれ、特別だったんだからね」

「うん……ごめん」

「じゃあ、返して」


 せっかく桃華ちゃんから貰ったものだから、捨てることができずに取ってあったけれど。そんなふうに言われるとは思ってなくて、わたしは驚いて落ち込んだ。

 差し出された手に、しまっておいたチップをのせると、桃華ちゃんはそれらをテーブルの上に広げてチェックし始める。


「失くしたり、割れたりしてないよね」

「うん」

「両面テープきれいにはがしたら、また持ってくるから」


 カバンの中から取り出したケースにチップを入れると、今度はわたしの手を取り、爪を見た。


「爪にテープは残ってないよね。じゃあ、これ、爪と手の美しい状態を保つことができる、桃華特製ハンドクリーム」


 チップケースをしまったカバンから小さなチューブを取り出し、わたしに差し出す。


「ヒナコは料理したり水を使うことが多いから、寝る前につけるのがいいと思うよ。香りもいいけど、アタシなりに市販のクリームブレンドしてるから、肌に合わなかったらすぐやめてね」

「ありがとう……」


 受け取ったわたしに、桃華ちゃんはほんの少しだけ笑って見せた。


「東條さん、やっぱりアタシを連れてくべきだったんだよ。アタシは転んだりしないもん」

「けど桃華、テーブルマナーできんのかよ」


 東條さんではなく、振り返ったコンちゃんがそんなことを言うから、桃華ちゃんはチッと舌を鳴らした。


「そんなの、テキトーに東條さんのマネしてれば大丈夫よ」

「こないだのパーティー、かなり格式高くて、由紀さんも緊張したって言ってたよ。そもそも、オマエがいつもの化粧と格好で行くのは場違いだな」

「あー、ウルサイ。アタシだってバカじゃないから、それなりの格好で行くに決まってんじゃん」

「けど、料理はそれほどでもなかったらしーよ。由紀さんはディマーレのほうが好きだってさ」

「ふーん。味はともあれ、雰囲気でしょ。それだけで女は料理がおいしくなるんだから。ディマーレもいいけど、老舗のロイヤルプラザだよ。そこで好きなひとと一緒に食事ができるなんて……憧れだよね」


 ふたりともディマーレで食べたことがあるような口ぶりだった。もしかしたら、厨房の壁を隔てたあのレストランで、わたしたちは同じ時間を過ごしていたのかもしれない。わたしが用意したサラダを、ふたりが食べたのかもしれないと思うと、不思議な気分だった。

 ふたりが話している間も、東條さんが会話に入ってくることはなかった。ただ、ディスプレイに向かって仕事を続けている。

 カバンの中の携帯で時間を確認した桃華ちゃんが立ち上がる前に、わたしは彼女のワンピースの裾を引っ張った。


「なに」

「……話したいことが、あるの」


 わたしは桃華ちゃんに近づいて、声を潜めて言った。

 パーティーの夜の出来事を、聞いてほしかった。東條さんとのこの三日間のことも。話せば、きっと怒られてしまうけれど。それでも、誰かに聞いてほしい。

 桃華ちゃんは小首を傾げ、わたしをじっと見つめてから、小さく頷いた。


「じゃあ、外行こ」


 桃華ちゃんに続いて私も立ち上がる。


「東條さん、今夜はヒナコと同伴してもいい?」

「ん?」


 振り返る東條さんに、桃華ちゃんはわたしと腕を組んでみせた。


「じゃあ、俺らのメシどーすんの」

「たまにはタイチが作ればいーじゃん」


 呆れて困ったような東條さんが、それでも笑いながら頷いてくれて、わたしと桃華ちゃんは事務所を出よう背を向けた。

 と、手を伸ばした先のドアノブが動き、開いた扉の向こうには、恵さんが立っていた。


「あっと、出かけるところだったら、ちょっと待ってくれない?」


 彼女はわたしを指差して、そう言った。


「あれ、恵さん? 久しぶりだね、どうしたの」


 ドアを閉めて中に入ってきた元奥さんである恵さんを、東條さんは立ち上がって迎える。


「仕事、よ」


 さらりと答えて、恵さんはあらためてわたしと向かい合った。

 彼女の仕事は弁護士だ。なにかあったら、と渡された名刺は、なにもないことを祈りながらも捨てられずにとってある。

 その恵さんが、わたしに。

 彼女は周りを見渡してから、わたしを見下ろす。


「ギャラリーが多いけど、仕方ないわね。あなたがやったことだから、わたしを恨まないで」


 なんのことか、わからなかった。

 ただ、嫌な予感に血の気が引いていく。


「ここで東條くんがあなたをなんて呼んでいたか、覚えてないけれど……小田夏美さん、岸川博文きしかわひろふみこと、高槻博文の妻、高槻佳織たかつきかおりさんが、あなたと夫である高槻博文の不倫関係によって精神的損害を受けたとして、あなたに対して損害賠償請求の訴えを起こそうとしています」

「は!?」


 甲高い声を上げたのは、横にいた桃華ちゃんだった。けれど、すぐに場違いだと悟ったのか、口を手で覆った。

 そんな桃華ちゃんを一瞥して、恵さんはわたしに厳しい視線を向ける。


「あくまで起こそうとしているのであって、まだ提訴はしていません。高槻佳織さんは、あなたがこれ以上、夫の高槻博文に近づかないなら、このまま提訴しないそうよ。ただ、この街にいる限り、どこかで会う可能性はある。だから、あなたにはここを出て行ってほしいの」


 恵さんは鞄の中から手帳を取り出し、そこから一枚の切符をわたしに差し出す。

 わたしの実家のある町が行先に記された、片道の特急券だった。

 愕然とそれを見つめるわたしの手を取り、恵さんは切符をわたしに握らせる。


「これは、こちらからのお願いであって、無視したって構わないのよ。法的効力があるわけでもない。もしも、あなたに裁判で争う気があるなら、その準備をしたらいいわ」

「でも、訴訟になったら、恵さんに勝てるわけないじゃないか」

「わかってるなら東條くん、彼女を説得してあげて」


 切符を見つめたまま、力が抜けて、わたしはその場にしゃがみ込む。すぐさま桃華ちゃんがとなりに並んで、大丈夫かと声を掛けてくれた。


「恵さん、どうしてそんな不倫なんて、つまんなくてダサい裁判やろうとしてるの」


 いつも落ち着いているはずの東條さんが、声を荒げていた。

 足音が近づいて、恵さんの前で止まる。


「わたしだって、こんなのやりたくないわよ。わたしの雇い主は高槻秀雄かたつきひでお、高槻佳織の父親で、全国的に飲食店や不動産なんかを多く持ってる有力者なの。彼のおかげもあって、今回わたしは東京の事務所に移ることができたのよ。お世話になってるひとの一人娘の訴えを、無下にするわけにはいかないでしょ」

「恵さんて、そういう仕事の選び方をするひとだったのか。ぼくと一緒にいたときは、そんなんじゃなかった」

「東條くん、あなた、偏りすぎてる。彼女は不倫したの。妻子ある男性と不貞行為をし続けてきたの。それで妻が傷つくのは当然だし、傷つけたのは彼女なの。それくらいはわかるでしょ」

「違うよ。だってヒナコは、こんなに……傷ついてるのに」


 頭上で東條さんの溜息が聞こえると、恵さんはヒールの踵を鳴らした。


「とにかく、彼女に裁判をさせるようなことを焚き付けないでね。高槻家は九月中に夫の博文を含めて全員で東京に引き上げるから。それまでの間、ここから出て行ってって話なの。今回の件で、夫の博文をシェフにしてオープンする予定だったカフェも、レストランも、全部頓挫。そこに座ってる彼の彼女が担当してたレストランの件、東條くんにも話が来てたでしょ。まぁ、あの程度の仕事がダメになったくらいで、あなたたちに損害賠償で訴えられるとは思ってないけど」

「もし訴えたら、その分をまたヒナコに払わせるつもりだろう。その手には乗らないからね」

「あら、そう。つまらないわ。そういうのがわたしの本領だと思ってるのに」


 恵さんの乾いた笑い声が事務所に響いた。間もなく訪れた沈黙に、咳払いしたのも恵さんだった。


「小田夏美さん、一週間以内にこの街から出て行くこと。それが条件よ。一週間後、ここにまだあなたがいたら、即刻提訴します。ほんの四か月、実家で過ごしてくれればいいのよ。そのあと、戻りたいなら戻ってきてかまわない。高槻佳織さんも夫の博文も、十月以降はもう二度とこの街には来ないそうよ」


 じゃあ、と踵を鳴らして恵さんは事務所を出て行った。



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