うそつき
「……兄の番号、覚えていないので、家にかけても、いいですか」
少し、嘘を吐いた。
ディスプレイの時計は、もうすぐ十一時になろうとしてた。この時間なら、直接電話を掛けても迷惑をかけるだけだ。それに、東條さんの番号が兄に知られてしまうのも嫌だった。
家なら。店、なら。きっと電話に出るのは、母か、愛さんのどちらかだ。
「お兄さん、家にいるの?」
「実家は、お店をやってるんです」
「店?」
「洋食屋っていうか、昔ながらの食堂っていうか……」
「へぇ。そうか、それでヒナコの料理はおいしいんだね」
それについてはどう返事をしていいのかわからなくて、わたしは店の番号に電話を掛けた。
アパートが火事になって。そのあと電話したきりで。いつか連絡をしなきゃいけないとは思っていたけれど。
三回目のコールで、懐かしい声が聞こえた。
『はーい、すずらん亭です』
明るく元気な愛さんだった。義姉になら、いまの状況を上手く話せそうな気がする。
けれど、実際には声を詰まらせてしまった。
『もしもーし?』
「ヒナコ、ちゃんとアキヒトさんと話さなきゃダメだよ、ほかの家族じゃダメだから」
愛さんの声と東條さんの声が、右と左から頭の中に入ってきて、ぐるぐるとまわる。戸惑っているうちに、電話を切られてしまうかもしれない。
わたしは目を閉じ、意を決して口を開いた。
「あ、の……」
『えっ……なっちゃん?』
それまで大きかった声を急に潜めて、愛さんがわたしの名前を呼んだ。
『いま、どこ? ここじゃなんだから、すぐ折り返すね。携帯、電源入れてるの?』
「いえ! それは、無理なんです。とりあえず、お兄ちゃんにわたしが元気にしてるって」
話の途中で、電話の向こうが急に騒がしくなる。
嫌な予感が、した。
『ナツ!? 愛、代われよ! このバカナツ! てめぇ、どこでなにやってんだ!?』
『ちょっ、アキ、やめなさいよっ! せっかくかけてきてくれたんだから、アンタこそバカ!!』
『愛、おまえは黙ってろ。とにかくナツ、すぐ帰って来い! 話はそれからだ。わかったな!?』
『なっちゃん、なっちゃん、まだちゃんと電話繋がってる? 大丈夫?』
『ナツ、聞いてんのか!? 返事しろっ』
ふたりのあまりの騒々しさに電話を遠ざけていたわたしは、兄の呼びかけに電話を耳元に戻した。
「聞いてる。でも……まだ帰れない」
『は!? なんだそれ。どれだけ心配かけてると思ってんだ!?』
「ご、ごめんなさい。でもやっぱりいまはまだ、帰れないよ。まだ、帰らない」
『家が火事になって、おまけに店はクビになりやがって……まったく、一体どこでプラプラしてんのか知らねーけどな、とにかく帰って来い!』
わたしが返事をしないでいると、電話の向こうで溜息が聞こえる。
『親父なら、俺がなんとかする。心配するな』
「………」
『夏美、陽奈子ちゃんに、会ったのか?』
「……うん」
『おまえも陽奈子ちゃんみたいに、家族の誰かが入院でもしなきゃ、帰ってこられないのか? じゃあ、俺が今日から入院する。愛、救急車呼べ! 腹が痛くて死にそうだ!』
『何言ってんの、バカじゃないの!?』
「お兄ちゃん! とにかく、わたしは帰らないから!」
これ以上話を続けても、わたしのことをわかってはもらえないだろうし、いまの状況を詳しく話すわけにもいかない。だからわたしは電話を睨みつけながら通話を切った。
と、そばにいた東條さんがクツクツと笑いだす。
「おかしいですか」
「いや、ごめんごめん。親とケンカして家出した高校生みたいだからさ」
「……ひどい」
わたしは東條さんの手元にあった毛布を強引に奪い取ると、頭からそれを被ってベッドに突っ伏した。
東條さんの言ったことは、あながち間違ってはいない。だからなおさら、笑われたことが恥ずかしかった。
それでも東條さんが声を上げて笑い続けるから、たまらなくなってわたしは毛布から顔を出す。
「そんなに笑わないでくださいっ」
「思ってたより、秋人さんは元気な人だね。たぶん、ヒナコは楽しい家族の中で、愛されて育ったんだな」
くしゃくしゃと頭を撫でられると、同じように頭を撫でてくれた兄の顔が浮かんだ。
愛されてないと思ったこともある。でも、そういう態度もわたしのためを思ってのことなのだと、いまでは理解できる。
わたしが料理の世界に進みたいと言ったことを、父が反対したことも。
こみ上げるものが涙となってこぼれ落ちそうで、わたしは唇を噛んだ。
「本当に、帰らなくていいの?」
いつか、帰るのだと思う。帰らなければいけないと思う。
でも、胸を張って料理人だといえないままでは、とても父に顔を合わせることができない。店を継いだ兄より、その店をひとりで作り上げた父より、絶対においしい料理を作れるようになるまで帰らないと宣言して、家を出たのだから。
わたしは小さく頷いて、また毛布を被る。
「それなら、ずっとここにいればいい」
毛布に包まれたままのわたしを起こし、東條さんはわたしを抱きしめる。
「でも、ぼくがヒナコにこんなことしてるって知ったら、秋人さんは、ぼくを殺しにくるかもしれないね」
東條さんはわたしと一緒に毛布を被って、頬を撫でた。そうして、ゆっくりとキスをする。柔らかく触れて、そっと離れて。髪をすべる指先は、いつもよりずっと優しい。
東條さんの頬はまだ痛むはずなのに、キスは少しずつ深くなる。けれど、一定のところから先を躊躇うように、もっと求めたくなる寸前で唇は離れていく。
「昨日しなかったせいかな」
鼻先にキスをして、東條さんは微笑んだ。
「ずいぶん久しぶりに、ヒナコとキスした気がする」
「わたしも……そう思いました」
いちにちが終わる儀式。
昨日から、いっぺんにいろんなことがありすぎた。どれもこれも、わたしをここから、東條さんとのふたりの世界から、現実へ引き戻すのに十分すぎて。ここで静かに過ごすことすら許されないと、追い打ちをかけられているようで。
唯一、目の前の東條さんだけが、しっかりとわたしを掴んでいてくれる。
わたしさえ手を離さなければ、このひとはずっとそばにいてくれる。
わたしは頬に触れている東條さんの手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「ヒナコ?」
これだけ無条件にわたしを受け入れてくれる東條さんに、わたしはなにも話せていない。
本当の、わたしのことを。
わたしが彷徨っていいなりのまま服を脱いで東條さんの前に立った経緯も、そのあともここにい続けるひそかな打算も。強引な桃華ちゃんとあんな写真を撮ることになった理由も、昨日、わたしがカップを落として割ってしまった動揺も、陽奈子が……ナツミがわたしを突き落した動機も。
わたしの、本当の名前も。
東條さんは、なんとなく気づいていることがあるのだと思う。でもそのすべてはなんとなくで、わたしからはなにも伝えていない。
こんなに、こんなにもわたしのことを抱きしめて受け止めてくれる人に、わたしは嘘を、隠し事をずっとし続けている。
「どうしたの。頭痛い? 気分でも悪くなった?」
「……ごめんなさい」
ひとつの嘘が、わたしを守るための偽りが、こんなに自分の首を絞めることになるんなんて。そのことを悔やんでも、わたしの口は、まだ頑なに本当のことを告げることを拒んでいる。
できるなら、東條さんにわたしの胸に抱えるものすべてを、強引に引き出してほしいくらいだ。でも、そんなこと、させてはいけない。
「どうして、謝るの」
「……わたしが、嘘つきだから」
握った手を強く握り返して、東條さんは眉根を寄せた。
「ということは、やっぱり秋人さんはお兄ちゃんじゃないのか!?」
「いえ! そ、それは本当です! 本当に兄なんですっ! そういうことじゃ、なくて」
「じゃあ、どういうこと?」
首を傾げる東條さんに、わたしは唇を噛んだ。
わたしは、まだ自分の気持ちに自信がない。そんなままですべてを打ち明ければ、間違いなく、東條さんを傷つけてしまう。
ひどいことを、されたはずなのに。
悪いのは、彼女じゃなくて、あのひとなのに。
それなのに、わたしはあのひとより、彼女を恨んでしまう。そうして、あのひとのことを、まだ。
ぎゅっと目を閉じて、あのひとの面影を脳裏から消し去ろうとしても、どんなに東條さんから抱きしめられて、愛していると言われても、その姿をいつの間にか探してしまう。
「わたし……もっと、東條さんのことを好きになりたい」
もっともっと、愛したい。
「その気持ちが本当なら、ヒナコは嘘つきなんかじゃない」
微笑んで、東條さんはわたしを抱き寄せた。
「ぼくのことを好きになるのは、ゆっくりでいい。ゆっくり、じっくり、本当にぼくでいいのか、しっかりと吟味して。ぼくはこんな人間だからね、だから、ぼくのことを好きになるのは、きっと大変なんだ。あぁ、ちょっと違うかな、好きになるのは、もしかしたら簡単なのかもしれないけれど、ぼくを受け入れようとするのは、難しい。そういえば、こんな話、ここに来たばかりのときに一度したことがあったね」
わたしは東條さんの胸に抱かれながら、顔を上げた。
あのときのわたしはまだ、身体を東條さんに奪ってもらえたなら、単純にあのひとと違う男とセックスすれば、なにかが変わるだろうと思って、東條さんに抱きついていた。
あのひとだけのものだったわたし自身を、誰かに塗り替えてほしかった。そこにいたのが、東條さんだった。ただ、それだけのこと。
でも、それを求めたわたしは、東條さんにあっさりと拒まれた。
「あのときのヒナコは、積極的だったな」
「あれは……」
「三日三晩高熱出して寝込んだあとの病み上がりだったから、かな」
単純に冷静さを失っていただけ。でも、そのときは、そうすることでしか忘れられないものを抱えていると思い込んでいた。
「さぁて、そろそろぼくは仕事に戻るよ。ヒナコも着替えて、ソファで横になっていて。それならぼくの目も届くし、安心だ」
抱きしめていた肩をぽんと撫で、頬にキスしてから、東條さんはわたしのそばを離れていく。ドアが閉まる音を聞いてから、わたしは毛布から顔を出して、小さく息を吐いた。




