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なつみ と ひなこ

 立ち上がったわたしに、ナツミ……陽奈子がソファ越しに抱きついた。


「まさか、東條さんのカノジョが……ヒナちゃん、だったとはね」


 その名前でわたしを呼ぶことを躊躇うのは当然だった。

 わたしだって陽奈子のことをナツミと呼ぶのは絶対に違和感があって、そんなふうに、すぐ口にはできない。


「知り合いもなにも、わたしたち、高校のときの親友です」


 唖然としている東條さんを振り返って、陽奈子が言った。


「へぇ、なるほどね。そうか、ヒナちゃんが誰かと似てると思ってたのは、ナツミちゃんだったか。あぁ、いやね、性格なんかはたぶん違うんだろうけど、雰囲気っていうか、そういうのがふたりは似ているよ」

「ホントに?」


 わたしの目の前で、きらきらと輝くように無邪気に笑って、陽奈子はわたしに向き直る。


「ヒナちゃん、わたしたち、似てるって。わたしたち、お互いに憧れてたもんね。なんか、嬉しいよね」


 その笑顔が、目を細めて作られているものだとわたしが知ってしまったことを、陽奈子は気づいただろうか。

 わたしは陽奈子に相槌を打つだけで、言葉を返すことができない。

 もともと細かった身体が、もっと痩せてしまった気がする。ふと笑みが消え、瞼を伏せた表情は、不安になるほど艶っぽい。まえから彼女は大人びていたけれど、あのころとは明らかに違う雰囲気に違和感を覚えた。

 たった今、ふたりで笑って抱き合ったのに。

 すでに、このわずかな距離が随分と遠くに感じてしまうは……きっと、会えない時間が長かったから。


「東條さん、友達に見られるのは、さすがに恥ずかしいし、カメラで録るほうでお願いしますね」

「いいじゃない、お互いの裸なんて、きっと修学旅行で見てるんでしょ」

「やだなぁ、もう。わたしたちそんなコドモじゃないんですからっ」

「あのころより大人になった身体を見せ合うとか、どう?」

「あぁ、聞きましたよ、えぇっと、あのアールの子がここでオンナノコ同士の写真撮ったって。東條さんて最近はカラミの写真撮らないって聞いてたから、驚きましたけど」

「そうそう、楽しかったよね、ヒナちゃん」


 名前を呼ばれて、わたしは顔を上げる。


「ほら、桃華ちゃんと写真撮ったでしょ」

「えっ、あ……」


 忘れたいと思っていたあのことを、突然思い起こされて、慌ててわたしは顔の前で手を振った。


「うそ、彼女の相手って……」

「そう、ここにいるナツミちゃんの親友のヒナちゃん。いい写真、たくさんあるんだけどね。誰にも見せちゃいけないって、桃華ちゃんから念を押されているからなぁ。親友があらゆる意味で成長したところを見せてあげたいんだけどねぇ、残念だな」


 楽しそうな東條さんの口ぶりを恨めしく思いながら、わたしはそっと陽奈子の表情を覗きこむ。どんな反応をされるだろうと言い訳を考えていたわたしは、彼女を見て息が詰まりそうになった。

 ほんの一瞬、まるで苦虫をかみつぶしたような顔をして、陽奈子がこっちを睨んでいたから。

 これまで一度も見たことがなかった表情に、わたしは見間違いなのかと思いながら目を逸らす。


「へぇ、そうなんだ」


 拍子抜けするほど興味がなさそうな返事に、安心していいはずなのに。まるで突き放されたみたいで、不安になってしまう。

 陽奈子はすぐに調子を戻して東條さんとおしゃべりを続け、わたしは録画用カメラと照明をセットする。

 何かが違っているけれど、いつもどおりのこと。

 そうじゃない、いつもと同じじゃないはずなのに、オンナノコとの距離感も、わたしが準備することも、わたしの立ち位置も。本当なら、何かが違っているはずなのに、いつもと変わらない。


 ……オンナノコは、陽奈子なのに。


 陽奈子がわたしにとって、ここへ写真を撮りにやってくるほかのオンナノコたちと同じなんて。

 妙な緊張感で指先が震える。突然の再会に驚くばかりで、わたしは肝心なことを忘れそうになっていたけれど。彼女は、ソープ嬢なのだ。

 仕事で、ここに写真を撮りにきている。これからその服を脱いで、ほかのオンナノコたちと同じように、肌を曝した写真を撮る。写真はもちろん誰かが見るためのもので。陽奈子がナツミを売るための宣伝広告であって。そもそも、風俗で働いているのだから、そんなこと本来の仕事よりずっと簡単なのだろうけれど。

 ここにくるまで、風俗にいろんな種類があるなんて、知りもしなかったのに。この数カ月で、嫌でもなんとなく、それぞれがどんなサービスを売りにしているか知ってしまった。だから、陽奈子がどんなことを仕事としているのかも、想像がつく。


 わたしはいつもと同じように、オンナノコと顔を合わせないようにして、一旦キッチンに向かった。入れ替わるように、東條さんとオンナノコは壁の向こうに消え、わたしは自分が飲むための紅茶を入れて、パソコンの前に座る。

 ヘッドフォンをして、適当な音楽ファイルをクリックした。静かで繊細なアコースティックギターの旋律に、柔らかな男性の歌声がふわりと浮かぶ羽のようにのる。ミディアムテンポな曲を緩やかになぞるような、なめらかな声が心地いい。

 わたしはボリュームを上げて、目を閉じた。


 本当は、東條さんの声が聞こえる程度の音量にしかしちゃいけないのに。わたしは初めて、その忠告を守らずに、音楽以外が何も聞こえないように、耳を包み込むヘッドフォンをさらに両手で押さえた。

 椅子の上に膝を立て、そこに顔を埋めれば、目を開けても閉じても世界は真っ暗になる。

 泣いてしまうかもしれないと思った。けれど、感情が涙となって溢れることはなくて、不安と、どこか怒りにも似た自分勝手な気持ちが胸の奥でぐるぐると渦巻いている。

 もしかしたら今のわたしは、苦々しくわたしを睨んだ陽奈子と同じ顔をしているかもしれない。


 陽奈子は、クラスで特別目立つ存在ではなかったけれど、しっかり者の委員長だった。普段は黙っているけれど、ここぞというときには、誰に対してでもきっぱり意見を言ってのけるツワモノ。柔らかで一見か弱そうな雰囲気とはうらはらに、いざとなれば誰もが頼る、陽奈子さま。真面目で、勉強もできて、先生からも可愛がられる、絵にかいたような優等生。

 そんな彼女が、どうしてこんなところにいるの。

 風俗なんて。自分の身体を売るなんてことを、真っ向から嫌いそうな彼女が、どうして。

 一体何があったんだろう。何かがなければ、陽奈子がこんなことをしているはずがない。

 陽奈子がソープ嬢になった理由を考えれば考えるほど、頭の中では悪い想像ばかりが膨らんでいく。


 答えは見つからないまま時間だけが過ぎて、不意にヘッドフォンを外されたわたしは、身体がびくりと跳ね上がった。

 見上げれば、東條さんが終わったよ、と微笑んでいる。


「ナツミちゃんなら、シャワー中」

「……じゃあ、片付けますね」


 いつもと同じように。撮影の後片付けをしようと立ち上がり、わたしはそこへ足を踏み入れる。今日は背景のスクリーンが下ろされていて、シーツは一枚だけ隅にまとめられていた。

 そこにいる陽奈子の姿を、嫌でも想像してしまう。どんな顔で東條さんが構えるカメラを覗いていたんだろう。


「ヒナコ、今日はおしおきだね」

「えっ!?」


 衝立の向こうから、ふと顔を出した東條さんがそんなことを言う。


「ヘッドフォンのボリューム、あれは、約束と違うでしょ」

「それは、その……」


 どう説明していいのかわからないわたしの前までやってくると、東條さんは唇が触れるか触れないかの距離まで顔を近づけて、じっとわたしを睨む。


「仕事はちゃんとするって約束でしょう。今夜はキスもしてあげないし、抱きしめてもあげないから」


 ここはわたしが拗ねて謝るところなのかもしれないけれど。

 なんだか拗ねたふうなのは東條さんで、それがどこかかわいくて、わたしは思わず笑ってしまいそうになるのを堪えていた。

 と、東條さんの手のひらが、わたしの頭を撫でる。


「ソープはね、割り切っちゃえば、短期間でこんなに稼げる仕事は他にないんだよ。まぁ、体力勝負なところもあるし、やることはそういうことだし、相手だっていいひとばかりじゃないから大変だろうけど。それに、ソープで働くコはね、意外と真面目で、電車に乗ってればフツーの地味なOLさんと変わりなくて、事情があったり、お金を稼ぐきちんとした理由があるコも多いんだ。もちろん、そうじゃないコもいるけどね。ナツミちゃんをかばうわけじゃなけれど、彼女はとてもいいコだよ」


 そう微笑んでくれる東條さんは、ヘッドフォンのボリュームの理由を、もうとっくに見抜いていたんだと思う。

 頷くわたしの頭をもう一度撫でてくれるから、この数十分のうちに抱えてしまった悪い想像と不安が、幾分軽くなる。

 シャワーから陽奈子が戻ってくるまでに、わたしは片付けをほとんど終えていた。けれど陽奈子と顔を合わせることができなくて、たいして汚れたふうでもない床を拭くことにした。

 衝立の向こうからは、陽奈子と東條さんのとりとめのない会話と笑い声が聞こえる。

 こんなに明るく、おしゃべりをするような子じゃなかったのに。声は陽奈子だけれど、彼女はここに来るオンナノコたちと何も違わない。

 ただの、オンナノコ。


「ヒナちゃん、片付けはあとでいいから、ほら、こっちでナツミちゃんと話たら?」


 どう返事をしようかと戸惑っているうちに、陽奈子の声がした。


「東條さん、わたし、今日はもう行かなきゃ。また今度ゆっくり遊びに来ます」

「そう。残念だね、せっかくの再会なのに」


 陽奈子が立ちあがり、出て行く音がする。

 わたしは慌てて陽奈子の背中を見送った。

 なにか、声を掛けたかったのに。やっぱり何を言っていいかわからずに、開きかけた唇を閉じる。

 と、ドアを開けながら陽奈子が振り返った。


「ヒナちゃん、秋人あきひとさんに連絡しなきゃダメだよ。すごく、心配してるから」


 少しだけ叱るような口調で、だけど優しく言った陽奈子は、わたしがよく知っている、わたしの好きなあのころの陽奈子だった。

 じゃあ、とドアの向こうに行ってしまう陽奈子にもう会えなくなってしまう気がして、わたしは咄嗟に陽奈子を追いかける。事務所のドアが背後で閉まって、わたしたちが東條さんから見えなくなったところで、わたしはやっと、しっかりと陽奈子を見つめることができた。


「待って、陽奈子」


 けれど、振り返った陽奈子から、笑顔が消えている。

 そうして腕を掴んでいたわたしの手を振り払い、ふっと息を吐き出した。


「わたし、ナツミだよ。陽奈子じゃない。ヒナちゃんは、アナタでしょ」


 冷たく言い捨てて、陽奈子はわたしに背を向けた。




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